秋山真之、上京する(スペシャルドラマ「坂の上の雲」②)
スペシャルドラマ「坂の上の雲」について、今回は、9月15日放映の第2回についてコメントします。9月15日分はまだNHK+で見ることができますので見逃した人はそちらでご覧ください。
第2回では、真之の上京からが描かれています。明治16年(1883)に真之は東京へ向かいます。ドラマでは、一人で上京していますが、実際には、年長の従兄に連れられて上京したようです。
その頃、兄の好古は番町の佐久間という旧旗本の屋敷の離れに住んでいましたので、真之は、そこを訪ねます。その際、ドラマで描かれていた佐久間家の老女とのやりとりや兄好古とのやりとりはほぼ原作どおりです。
当時の好古の生活状況は、『秋山真之』(秋山真之会編)によると、離れの部屋は三部屋ほどありましたが、好古が持っていた家財道具は炊事道具のほかは、実際に酒徳利と茶碗が一つだけだったそうです。履物も足駄一足で間に合わせていたようです。
また、ドラマでは、大殿が老女に近寄るなと命じていたと描かれていましたが、『秋山真之』(秋山真之会編)によると、佐久間家には男子がいなかったので、養子になって欲しいと願っていて、もしそれがだめだったら家は次女に家を継がせて長女を貰ってくれればよいと考えていたと書いてありますので、嫌うということはなく、逆に好古の将来に期待していたと思われます。
好古は、上京してきた真之を非常に厳しく指導したようです。
東京は寒いだろうと思って母が綿の入った足袋を送ってきたが、好古は「贅沢だ」といって脱がせたり、ある時、真之が新聞を読んでいると「頭がかたまらないうちに新聞など読んではいかん」としかりつけたと言います。また、ある雪の日、真之が玄関で切れた下駄の鼻緒を直すためぐずぐずしていると好古は「裸足で行け」と怒鳴られたこともあったそうです。これらの事はドラマ「坂の上の雲」でも描かれていましたね。
ドラマ「坂の上の雲」で正岡子規が東大予備門に入学するために共立学校に通い、上京した秋山真之も一緒に共立学校で学ぶ場面がありました。英語の先生は高橋是清でした。
ここに登場する共立学校は、現在、東大入学者数ナンバーワンを誇る開成学園(開成中学校・高等学校)です。開成学園の発祥の地は、神田淡路町でした。千代田区立淡路公園に「開成学園発祥の地」の石碑が建っています。(下写真)
その裏面には、略年譜として「明治4年 佐野鼎共立学校を創立、明治11年 高橋是清初代校長に就任、(以下略)」と書かれています。また、開成学園ホームページには、「開成学園は、明治 4年(1871)、幕末の進歩的な知識人であった佐野鼎先生によって創立されました。先生は、欧米の教育事情を視察した折に、わが国にも欧米なみの学校が必要であると強く感じられ、帰国後、創立を決意されました。校名は『共立学校』と名づけられました。佐野先生が若くして亡くなられたあと、初代校長として高橋是清先生が就任され、今日の学園の基礎を築かれました。」と書かれています。
子規と真之は、そこに通っていたのでした。
『坂の上の雲』で、子規や真之を指導していた高橋是清は、後に日銀総裁、大蔵大臣、総理大臣となる人物ですが、当時は共立学校の校長でした。アメリカで誤って奴隷として売られたという話も有名な話です。高橋是清は、共立学校の校長を務めた後、農商務省の官吏となって特許局長にまで昇進しましたが、その後、職を辞して南米に渡り、ペルーで銀山開発に取り組んだものの失敗し無一文で帰国しました。その後、日本銀行に入り、日露戦争当時には、副総裁として日露戦争の戦費調達のための外債募集を成功させました。この外債募集の話もいずれ、「坂の上の雲」で描かれるものと思います。
なお、真之と子規が高橋是清とともに横浜に行き、そこで、古物商に難癖つけた悪徳外国人を真之がやるこめる場面がありましたが、私が読んだかぎりでは、原作では描かれていませんので、創作されたものだと思います。(間違っていたらごめんなさい)
下地図中央が淡路公園です。