秋山真之は海軍兵学校に入学し、好古は渡仏する(スペシャルドラマ「坂の上の雲」④)
スペシャルドラマ「坂の上の雲」第4回では、秋山真之が海軍兵学校に入学し、兄の好古が渡仏する話が描かれていました。
秋山真之は、明治19年(1886)10月、海軍兵学校に入学しました。真之は、大学予備門は快適だと感じていました。しかし、吉古が学費のねん出に苦心しているのを感じており、大学へ行くのはやめて、学費無用の学校に行こうと考えて、海軍兵学校に行くことにしました。そして、吉古に相談しますが、この相談の場面は、ほぼ原作通りです。
真之が入学した海軍兵学校は、海軍の士官養成機関で、明治2年(1869)海軍操練所として東京築地に創設されました。翌3年、海軍兵学寮に改称し、明治9年、海軍兵学校に改称しました。このように真之が海軍兵学校に入学した頃は築地にありましたが、明治21年学校は広島県江田島に移転しました。これ以降、江田島は兵学校の代名詞となりました。
海軍兵学校は、明治6年にはイギリスの海軍少佐ダグラス以下34名の教官団による教育が始まり、イギリス式の海軍教育が行われました。これは、スペシャルドラマ「坂の上の雲」で描かれていた通りです。
ちなみ、海軍兵学校の生徒の採用年齢は16歳以上19歳以下、学術試験および身体検査により選抜され、教育は将来兵科将校として勤務に必要な学術の修習、徳性の涵養、体力の練成に重点が置かれ、修業年限は3~4年で、卒業と同時に海軍少尉候補生に任命され、練習艦隊における実習、遠洋航海を経て海軍少尉に任官しました。
秋山真之も、明治23年、首席で海軍兵学校を卒業して海軍少尉候補生として実地練習として比叡に乗艦しています。
原作『坂の上の雲』では築地時代に築地から飛鳥山までの駆け足競技で知り合ったこととなっていますが、スペシャルドラマ「坂の上の雲」で海軍兵学校のカッター競技で競い合う中で広瀬武夫と知り合う場面がありました。
広瀬武夫は、後に日露戦争で旅順港を海上封鎖した旅順港閉塞作戦で戦死し軍神と崇められ、文部省唱歌の「広瀬中佐」にも歌われました。『秋山真之』(秋山真之会編)によれば真之と広瀬武夫とは、お互いを尊敬しあっていて、四谷で一緒に暮らしていたこともあったとのことです。ただ、二人が知り合ったきっかけは海軍兵学校の教官であった八代六郎(後の海軍大将)の紹介によると『秋山真之』(秋山真之会編)には書いてあります。
また、スペシャルドラマ「坂の上の雲」で、海軍兵学校が江田島に移転した後に松山に里帰りする場面がありました。その際、街中で父の久敬(当時は八十九と号していた)を見かけながら、挨拶もせずにすれ違いながら場面がありました。実際、こうしたことがあったのかどうかわかりませんが、原作『坂の上の雲』には、このことが書かれています。ただ、この帰省の際に、正岡子規の妹律との話がスペシャルドラマ「坂の上の雲」で描かれ通りであるか(もしくは描かれていないか)はネタバレになってしまいますので、ここでは控えておきます。気になる方は、原作の「海軍兵学校」の章をお読みください。
秋山好古は、明治20年(1887)にフランスに渡りました。
好古は、明治16年に陸軍大学校(1期)に入校し、明治18年に陸軍大学校卒業し、参謀本部勤務した後、東京鎮台の参謀となっていました。
フランスに渡ったのは、スペシャルドラマ「坂の上の雲」で描かれていた通り、旧松山藩の当主久松定謨が、フランスのサン・シール陸軍士官学校に留学したため、その補導役としてフランスへ渡ったのでした。
ペシャルドラマ「坂の上の雲」第3回では、秋山好古が入った陸軍大学校の場面がかなりありました。この中に登場した陸軍大学校長の児玉源太郎は、は日露戦争を語る上で欠かせませんし、高橋英樹が演じていることからもわかると思いますが、ドラマの展開のうえで非常に重要な役を果たしますので、いつか、改めて詳しく書こうと思います。
陸軍大学校の学生はドラマでは大勢いるように描かれていましたが、実際は第1期生は10名でした。第3回では井口省吾(堤大二郎)、藤井茂太(宮内敦士)、長岡外史(的場浩司)が姓名入りで描かれていましたし、彼らは第4回でも登場していました。日露戦争では、長岡外史は参謀本部参謀次長、井口省吾は満州軍総司令部の参謀、藤井茂太は第三軍の参謀長として、それぞれ日露戦争勝利のため活躍します。日露戦争の場面で、再び登場することとなると思います。なお、ドラマには登場しませんが、陸軍大学校第1期生には太平洋戦争時代に首相をつとめた東条英機の父東条英教(ひでのり)もいました。
秋山好古が、明治20年に久松定謨(さだこと)の補導役としてフランスに渡るにあたっては、好古の松山時代の親友加藤恒忠(正岡子規の叔父)の推薦があったようです。
しかし、スペシャルドラマ「坂の上の雲」で描かれていたように、当時の陸軍はドイツ式に切り替える方針でしたので、フランスに渡る意味がありませんでした。そのため、好古は大いに悩んだようですが、最終的には、フランス行きを決断します。結果的には、後の日本での騎兵の育成にフランスで学んだことが非常に役立ったようです。