正岡子規は喀血し、秋山真之は海軍兵学校を卒業する(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑤)
スペシャルドラマ「坂の上の雲」第5回では、正岡子規が結核になり伊予松山に帰京する一方、秋山真之が海軍兵学校を卒業し少尉候補として軍艦に乗り組む姿が描かれていました。そして、最後に東郷平八郎と出会うことが描かれていました。
正岡子規が、喀血したのは、明治22年5月のことです。この時に、スペシャルドラマ「坂の上の雲」で描かれていたように初めて俳号の「子規」を使用しました。「子規」とは野鳥のホトトギスのことで「子規」のほか「不如帰」、「時鳥」などとも表記します。ホトトギスは、鳴いて血を吐く鳥と言われています。咳をして血を吐いた自分をホトトギスに見立てて、俳号として「子規」と名づけたといわれています。
子規は、治療のため、松山に帰郷します。その時のことがスペシャルドラマ「坂の上の雲」でも描かれていました。帰郷の時の様子や真之が訪ねてきてくれた時の様子などは原作『坂の上の雲』とほぼ同じです。ただ、原作『坂の上の雲』では、正岡子規が松山で野球に取り組んだことが詳しく描かれています。
子規が松山で療養している際に、真之は松山に帰省します。その際には当然子規の住いを訪ねています。今回のスペシャルドラマ「坂の上の雲」で秋山真之が海軍兵学校時代に松山に帰省している時、お囲い池(プール)で鎮台兵と喧嘩したエピソードが描かれていました。この話は、原作『坂の上の雲』にも書かれています。そして、『秋山真之』(秋山真之会編)にも書かれていますので、実際にあったエピソードだと思います。
『秋山真之』(秋山真之会編)には次のように書かれています。旧字は現代語に修正して引用させていただきます。
「将軍(秋山真之のこと)は学校が休暇になると、よく江田島から一衣帯水の松山に帰省していた。松山には旧藩時代から御伴流という水泳術があって夏にはお囲い池という所がその練習場所となり、みんな真っ黒になって泳いでいたものである。その水泳場で将軍が兵隊を殴って問題を惹き起こした。
将軍が兵学校から夏休みで松山に帰っていた時だった。『ここでは褌(ふんどし)をせぬと泳がれぬ』ということになっていたのだが、それを知ってか知らずか、褌をしていない兵士が2人来て泳いだ。将軍は『不都合な奴だ』といって後から泳いで行き、その兵士が筏に上るのを待っていた。兵隊さんはそんなことは知らないから筏へ上った所を、将軍は鉢巻をしていた手拭で、兵士をバンバン、引っぱたき水中に突き飛ばした。兵士はようやく岸に泳ぎ着くと逃げてしまった。
翌日、56人づれで兵隊たちが復響にやって来た。将軍はその時筏の上で昼寝をしていた。兵士逹はぢっと将軍を見ていたが、中の一人が『こいつぢやこいつぢや」と言った。見ていたお囲いの連中はどうなることかと非常に心配していた。一人の兵士は続いて『昨日叩いたのはこいつぢや』と言った。その時将軍はやっと眼をさました。そして『何か用か』と尋ねた。兵士達はその落らつきはらった態度に先づ威圧されてしまった。将軍は『俺に中歩行町(なかおかちまち)の秋山ぢゃが何か用か』と却って逆襲を試みた。
兵士逹は警察へ告訴するといって騒ぎ立てた。将軍は『無褌で泳ぐのは此のお池では規則違反だ。お囲い池の神聖を汚すものだから罸したのだ。併し喧嘩なら此慮で起った事だから此處で始末をつけてやらう』と成喝し、一歩も譲らなかった。正岡師範(*正岡子規とは特別の関係はない)らは、警察汰沙になっては困るから、出来れば調停しようと試みたが、将軍も譲らず兵士達も譲らなかった。正岡師範は脱衣所前の荒莚の上に、いつもキチンと扇を持って座り込んでいるような古武士的な人であったが、兵士達が何うしても承知しないので『このお囲い池で規則違反をやった者は、お囲い池の水を飮ませるといふ事になっている。それほどあなた逹が御不滿なら、秋山のいうように水の中で勝負をさっしゃい』と言い放った。兵士達はそれで最早とりつく島がなくなった。水の中の喧嘩ではお囲い池の連中には叶わないことは判り切っているので 結局警察へ訴えた。秋山将軍は警察から呼出しが来ても頑として出て行かなかった。そして結局この間題は五十銭の罰金という事で解決した。身体は小さい方だったが剛毅で肝っ玉はその時から太かった。
郷里松山ではこんなことも起こしていた秋山真之ですが、海軍兵学校での成績は抜群で、明治23年7月に海軍兵学校を首席で卒業し、海軍少尉候補生として比叡に乗艦しました。そして、その年の12月に父久敬が亡くなっています。
ドラマの最後では、真之が東郷平八郎とめぐり逢うエピソードが描かれていました。東郷平八郎は連合艦隊司令長官として日本海海戦での指揮を執り、秋山真之は参謀としてT字戦法を編み出し、そして日本海海戦で実施しました。両雄の巡り会いが早くも描かれたわけです。
明治24年7月、当時世界最強とうたわれた定遠・鎮遠を含む清国の北洋艦隊を率いて水師提督丁汝昌が日本にやってきました。これは清国のデモンストレーションでした。丁汝昌率いる北洋艦隊は、安芸の宮島にも停泊しました。それを見学した東郷平八郎と秋山真之が会うという設定でした。スペシャルドラマ「坂の上の雲」では、秋山真之の質問に答える形で東郷平八郎が感想を述べる場面が描かれていました。この中で東郷平八郎が語った「清国艦隊はなまくら刀」という感想は史実のようです。
『元帥東郷平八郎』(野村直邦編)の中で次のように書かれています。
「安芸の宮島に碇泊し、呉鎮守府司令長官中牟田中将、東郷参謀長等が招かれ、他の諸港同様盛大な宴が設けられたが、東郷参謀長は、熱心に兵器その他を観察し、讃否に関しては一言も発しなかった。数日後、清国艦隊の一艦、絛理のため呉軍港内に入港すると、ひそかに同艦の周囲を視、やがて、周囲の人に一言『清国艦隊は焼身(なまくら)の名刀の如きのみ』と評した。後日、当日の感想を語った中に次のようなことばがある。『たしか平遠であったかとおもうが、修理のため入港したので、見物に行ったところ、一砲門より、洗濯物がぶらさがり、かつ不潔不整頓を極めていた。神聖なるべき砲門にこのような不作法を、しかも外国であえてするを憚(はば)からずとすれば、彼等の覚悟の程も推量され、いかに堅艦巨砲を有しているといっても、どうしてその威力を充分に発揮できよう。たとえ、上に立つ名将が何名いたとしても、このような兵員を使うにおいては、勝利を得ることは難しかろうと考えた。』」
このように東郷平八郎が「清国艦隊はなまくらの刀」と語ったのは史実のようです。しかし、原作『坂の上の雲』にも、ドラマのようなエピソードは書かれていません。従って、スペシャルドラマ「坂の上の雲」のように、安芸の宮島で秋山真之と東郷平八郎との邂逅があったかどうか定かではありません。