正岡子規、新聞『日本』に入社する(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑥)
スペシャルドラマ「坂の上の雲」第6回では、正岡子規が東京帝国大学を退学し陸羯南(くが かつなん)の新聞『日本』に入社する話、秋山好古が結婚する話、そして、いよいよ日清戦争が始まる話などが描かれていました。
今回は、正岡子規と陸羯南(くが かつなん)との関係について書いてみます。
スペシャルドラマ「坂の上の雲」では、子規が陸羯南に帝大を中退し新聞「日本」に入社したいと相談すると、陸羯南がそれを承諾するとともに母と妹を呼び寄せ一緒に住む家の紹介までする話が描かれていました。
現在、JR鶯谷駅北口から徒歩5分~6分の場所に子規庵があります。(下写真は子規庵の入り口です)

子規庵は正岡子規が明治27年から亡くなる明治35年まで住み、子規の死後も子規の母や妹が住んでいた正岡子規ゆかりの建物ですが、陸羯南が紹介したものです。
陸羯南は、弘前藩士族中田氏に生れました。本名は中田実ですが、親戚の陸家再興の名目で陸(くが)姓を名のったと言います。羯南は号です。
明治7年宮城師範学校に入りますが中退し、上京して司法省法学校に入ります。同期生には、原敬、福本日南らがいます。しかし、寮の食事への不満が原因で起きた騒動に関連して、原敬らとともに退学となります。その後、故郷に戻り青森新聞などに勤めた後上京し、官職を得て、内閣官報局編輯課長となります。しかし、明治21年年政府の条約改正と欧化政策に反対して辞職し、谷干城らの援助を受けて4月より《東京電報》を発刊します。この新聞は明治22年に『日本』となり、陸羯南は33 歳で社長兼主筆となりました。
正岡子規を陸羯南に紹介したのは、子規の叔父加藤恒忠でした。加藤恒忠は、安政6年、松山藩の儒者大原観山の三男として生まれました。秋山好古も安政6年生れですので好古と同い年ということになり、好古とは深い付き合いがあったようです。
加藤恒忠は明治8年16歳で上京して司法省法学校に学びます。ここで陸羯南と出会います。しかし、司法省法学校を退学となり、中江兆民のフランス語熟で学びます、明治16年、加藤恒忠は旧松山藩主久松定謨(さだこと)に随行してフランスへ留学することになりました。加藤恒忠は子規が幼い頃から面倒をみていましたが、自分が渡仏して子規の面倒を見られなくなることから、明治16 年子規を陸羯南に引き合わせました。
こうした経緯を経て親友の加藤恒忠からの依頼された陸羯南は、誠実に子規を援助していました。そのため、明治25年に子規からのお願いを聞いた陸羯南は新聞『日本』への入社を認めただけでなく、明治27年には『小日本』という新聞を新たに発刊し、それを子規に任せています。
また、子規は明治25年2月に陸羯南の自宅の西隣に引っ越しました。これも陸羯南の配慮です。さらに子規の病気を心配した陸羯南は、子規の母と妹律を東京に呼びよせるようにして、子規は明治25年11月に母と律を神戸まで迎えに行っています。そして、3人が東京に着いた翌日には陸羯南から香の物・砂糖・醤油などが届いたと子規は故郷の伯父に手紙で報告しています。陸羯南の心配りのほどがよくわかるエピソードだと思います。
そして、明治27年2月には、陸羯南の隣地である上根岸町82番地の家に引越しています。それが現在の子規庵のある場所です。
こうした陸羯南の心配りに対して、子規も非常に感謝していたようです。子規は生前、河東碧梧桐の兄河東可全に自分の墓碑銘を書き送っています。その墓碑銘は次の通りです。
正岡常規又ノ名ハ処之助又ノ名は升
又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺齋書屋主人
又ノ名ハ竹の里人伊予松山ニ生レ東
京根岸ニ住ス父隼太松山藩御
馬廻り加番タリ卒ス母大原氏ニ養
ハル日本新聞社員タリ明治三十□年
□月□日没ス享年三十□月給四十円
子規が生前書き残した墓碑銘は、現在、北区田端の大龍寺にある子規の墓の隣に建てられています。脇の説明板によると平成19年に建て替えられてもののようです。

この墓碑銘について、復本一郎氏は『正岡子規伝』p82で次のように書いています。
「注目すべきは『日本新聞社員タリ』の部分である。日本新聞社の社員であった。との意味であろうが、この言葉には、子規自らの誇りと、陸羯南への感謝の思いの二つながらが籠められているとみるべきであろう。」
ちなみに子規の墓(下写真)は「子規居士之墓」と刻まれていますが、『正岡子規伝』p733によるとこの字は陸羯南が書いたものだそうです。

最後に、加藤恒忠の話題に戻りますが、加藤恒忠は、外交官として活躍し、後には松山市長も勤めています。
子規が亡くなった後、正岡家は妹律が継ぎました。律は二度結婚しましたが子供には恵まれませんでした。そこで養子をもらいました。その養子は加藤恒忠の三男の忠三郎でした。そして、その御子孫は御存命のようです。
*大龍寺の正岡子規のお墓と墓碑銘の写真は数年前に撮ったものです。現状と異なるかもしれないことをお断りしておきます。
下記地図の中央が子規庵です。
下記地図の中央が大龍寺です。

