東郷平八郎、英国籍船「高陞号」を撃沈する(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑦)
スペシャルドラマ「坂の上の雲」第6回では、日清戦争開戦前の政府内部における開戦の可否について、時の総理大臣伊藤博文、外相陸奥宗光、参謀次長川上操六、そして山県有朋とのやりとりが丁寧に描かれていました。原作『坂の上の雲』でも日清戦争とはどういうものか司馬遼太郎が詳しく書いていますので、ご興味を持たれた方は、原作『坂の上の雲』をお読みいただくとよろしいと思います。
そして、ドラマ第6回は、東郷平八郎がイギリス船籍の船に対して砲撃を命じたところで終わりました。
これは撃沈した船が「高陞(こうしょう)号」と呼ばれていたため、「高陞号事件」と呼ばれています。今日は、次回のネタバレになってしまうかもしれませんが、その「高陞号事件」について書いてみます。
日清両国は開戦必至の情勢ながらまだ宣戦布告されていない明治27年7月25日に朝鮮半島中部西側の豊島沖(ほうとうおき)で、日本海軍連合艦隊の軍艦「吉野」「秋津洲(あきつしま)」「浪速」3隻は清国海軍北洋艦隊の軍艦2隻「済遠(さいえん)」「広乙(こうおつ)」と遭遇し海戦となりました。「済遠」は逃げ去り、「広乙」は座礁しました。この海戦は日本側の圧勝となりました。これが「豊島沖(ほうとうおき)海戦」と呼ばれる海戦です。
この海戦の最中、たまたま清国軍艦「操江(そうこう)」と英国商船旗を掲げた輸送船がやってきました。この輸送船が「高陞号」でした。
以下、田中宏巳氏が『東郷平八郎』のなかで”最も信頼に足る”伝記であると書いている『東郷元帥詳伝』(小笠原長生編)に沿って「高陞号事件」の経緯を書いてみます。
高陞号は、東郷平八郎が艦長であった浪速の右舷を通過しようとしました。その時、東郷平八郎が艦橋から注視すると清国兵が満載されていました。そこで、直ちに停船させ人見大尉に臨検させました。臨検した人見大尉は「イギリスのインドシナ汽船会社代理店所有の『高陞号』であること、清国兵1100人と大砲14門を朝鮮・牙山港へ輸送途中であること、イギリス人船長は日本側の指示に従う意向を示している」と復命しました。
そこで、東郷平八郎は「錨をあげよ」と抜錨を信号で指示しました。しばらくして、高陞号の船長から「重要なことがあるので面談したい」との信号が挙がりかつ「ボートを送って欲しい」と言ってきました。東郷平八郎が再び人見大尉を送って調べさせると、「清国兵は船長を脅迫しており、船長はこちらの命令に従うことができず、船内はすこぶる不穏な様子である。」と報告してきました。この報告を聞いた東郷平八郎は船長と船員に向けて「直ちに船を見捨てよ」と命じました。 これに対して船長は再びボートを送るよう要望してきました。これに対して繰り返し送れないと返信しました。
東郷平八郎は慎重を期して、もう一度、「船を去れ」と信号を挙げました。そのうえで、危険を知らせる赤旗をかかげ、清国兵に反省を期待しましたが、彼らは闘争意志を明確にして、船長も脅迫して、日本側の命令に応じる様子を見せませんでした。ここまで2時間半の時間が経過していました。ついに東郷平八郎が声を発しました。「撃沈します」と(*スペシャルドラマ「坂の上の雲」第6回の最後の場面がこれです)
以上が『東郷元帥詳伝』に書かれている概要です。
7月25日午後1時46分、浪速の砲撃を受けた高陞号は沈没しました。この時船長らイギリス人船員は救助されましたが、清国兵の多くは水死しました。
高陞号を撃沈したとの情報が国内に伝わるとイギリスとの関係が悪化することを懸念して、政府要人たちは東郷平八郎を非難しました。
また、イギリスのキンバレー外相も駐英青木公使に対して「日本海軍の将校によるイギリス国民の生命財産を損害は日本政府の責任である」と抗議するほどイギリス世論も沸騰しました。しかし、こうしたイギリス世論の高まりの中で、イギリスの国際法学者トーマス・アースキン・ホランドが「タイムス」に寄稿して国際法上問題ないと論じ、さらに、とジョン・ウェストレーキ博士も「タイムス」に寄稿し、浪速の東郷艦長の処置は正当で何ら問題はないと発表しました。 こうしたことによってイギリス世論は沈静化しました。
東郷平八郎は国際法に則って高陞号を撃沈していました。 東郷平八郎が国際法に熟知していたのは、若い頃7年間イギリスに留学し、そこで国際法を学んでいたからです。スペシャルドラマ「坂の上の雲」第5回で東郷平八郎が清国の丁汝昌に国際法の書物を贈る場面がありましたが、あの場面は、東郷が国際法を熟知していることを示すためのものだったと思います。
東郷平八郎は弘化4年(1848)、現在の鹿児島市に生れ、戊辰戦争当時は薩摩藩の軍艦「春日」に乗り込んでいました。明治4年イギリスに留学しますが、その事情は、田中宏巳著『東郷平八郎』よると、鉄道技師になるため留学したいと思った東郷平八郎が西郷隆盛に相談したところ、西郷隆盛は海軍軍人をめざすという条件で留学を許したそうです。
明治4年(1871)、東郷平八郎は横浜港を出発し、イギリスに向かいました。
最初の2年間はカレッジで、英語を始め数学、理科などの基礎知識を学び、2年後、「ウースター」という練習船に乗り込み、2年間学びました。卒業後、帆船「ハンプシャー」に乗り込んで世界一周の遠洋航海に出発し、7ヶ月に及ぶ航海で、実地研修を経て留学を終了し、明治11年帰国しました。
留学中、基礎知識や操船技術の習得は当然ですが、東郷平八郎が力を入れて学んだのが国際法でした。
東郷平八郎が国際法を一生懸命勉強したことは、『日本の海軍誕生篇』(池田清著)p125に「留学中、操艦の実務とは別に、彼が最も関心を持ち、研究を重ねたのは国際法と海商法であった。東郷が在英中書きつづったこれらのノート類はネルソンの遺髪とならんで、終戦時まで江田島の海軍兵学校の教育参考館に陳列されていたが、大型の大学ノートに、細かい、しかもていねいな英文でギッシリと書き込まれたもので、彼の几帳面な性格の一端をうかがわせるに十分であった。」と書かれていることからもわかります。
明治44年、東郷平八郎がイギリス国王ジョージ五世の戴冠式のため東伏見宮依仁親王に随行して訪英した際、東郷平八郎は「ウースター」号を訪ね、大歓迎を受けました。その際に、高陞号の船長と再会しています。船長は「ウースター」号の卒業生で、東郷平八郎の2年後輩だったからです。これには、東郷平八郎も驚いたと語っています。(『東郷元帥詳伝』より)
*『東郷元帥詳伝』と『日本の海軍誕生篇』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。

