秋山好古、旅順攻撃で勇戦する(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑧)
スペシャルドラマ「坂の上の雲」第7回は、日清戦争開戦前の正岡子規の様子、「高陞号事件」、そして、遼東半島に上陸した秋山好古の戦いの様子が主に描かれていました。
正岡子規は、次回の予告を見ると日清戦争に従軍するようになりそうですので、次回の放映をみてからコメントします。また、高陞号事件については前回コメントしてあります。そこで、今日は秋山好古について書こうと思います。
スペシャルドラマ「坂の上の雲」第7回で描かれていた秋山好古の戦いは、「土城子(どじょうし)の戦い」と呼ばれている戦いです。そこで、今日は、主に「土城子(どじょうし)の戦い」での好古の戦いぶりを説明します。
その前に、スペシャルドラマ「坂の上の雲」第6回で秋山好古の結婚のことが描かれていましたが、それについてはまだコメントしていませんので、まず秋山好古の結婚について書こうと思います。
秋山好古は、明治26年に結婚しました。相手は、好古が陸軍大学校在学中に下宿していた旧旗本佐久間家の長女であった多美です。スペシャルドラマ「坂の上の雲」第6回では、児玉源太郎がきっかけをつくったように描かれていましたが、原作『坂の上の雲』では、「渡米」の章のなかで、好古が独身主義者であり、同僚や後輩に主張し、弟の真之にもそれを強制したと説明した後、簡単に「日清戦争の前年、好古のほうが結婚した。齢35である。その前年に松山に残っていた母お貞に家をひきはらわせ、東京へよんだ。はじめて一家をかまえた。家は四谷の信濃町十番地にもったが、しかしこのため一家の宰領者が必要になった。好古は結婚することになった。新婦は、好古が少尉のころに下宿していた旧旗本の佐久間長女多美であり、齢24歳であった。」とだけ書かれています。
『秋山好古』(秋山好古大将記念刊行会刊)によれば、好古が雇い入れた若い女中が、母貞の財布からお金を盗んだことがあり、そのことを同期生の塚本芳郎に打ち明けました。すると、塚本芳郎は好古を責め、「こんな事が起こるというのも家庭を取り締まる主婦がいないからだ。こんなことでいつまでも母親に心配させるのは親不孝じゃぁないか。早く嫁を貰え」と逆に説教をされて、好古も意外と素直に結婚を決意します。好古は「母が気に入りさえすりゃ、それでいい」といいました。結婚すると決めたとたん、塚本芳郎は、好古が下宿していたことのある旧旗本佐久間家の長女多美を紹介しました。母お貞も多美を気に入り、話は順調に進み、明治26年4月に結婚しました。
以上からみると、児玉源太郎が仲介の労をとったというのはスペシャルドラマ「坂の上の雲」の創作ということになります。しかし、松たか子が演じた多美とのシーンは創作とはいえ、「(茶碗が)もう一つあってもええかもしれません」というプロポーズのセリフなどは素晴らしいシーンだったと思います。
そして、好古は、結婚の1年後に日清戦争が始まり、出征することになりました。
日清戦争では、山県有朋を司令官とする第1軍が最初に朝鮮に上陸し明治27年10月には鴨緑江まで北上していきました。さらに、第2軍が編成され、第2軍は遼東半島へ上陸します。第2軍は、第1師団、第2師団、混成第12旅団で編制され、司令官には大山巌陸軍大将が任命されました。
第1師団は山地元治中将が師団長で、第1旅団、第2旅団から編成されていました。山地元治中将は、片目を失っていたため「独眼竜」のあだ名を持っていました。第1旅団長は乃木希典少将、第2旅団長は西寛二郎少将でした。秋山好古は、第1師団隷下の騎兵第1大隊長として、明治27年10月5日広島港を出港しました。
10月25日に上陸を終えた第1師団は西方に進み、11月6日に金州への攻撃を開始しまもなく金州を攻略しました。その後第1師団はさらに西に向かい、11月7日には大連湾の複数の砲台を占領した後に、旅順攻撃の準備にかかりました。
11月13日、騎兵第1大隊と騎兵第6大隊の一部を合した「秋山支隊」は第2軍の直属となり、好古は旅順の敵情の捜索を命じられました。
捜索にあたった好古は、11月17日旅順の北東約30キロの営城子から大山巌第2軍司令官あてに上申書を送りました。この上申書は的確な情勢判断だと高く評価されたようで、大山巌司令官は秋山好古の上申書をもとに、旅順攻撃計画を立てました。
秋山好古の上申書を大山巌が高く評価していたことは、スペシャルドラマ「坂の上の雲」でも描かれていました。
引続き捜索を命じられた秋山好古の捜索騎兵隊は、11月18日の朝、宿営地の営城子を出発し 午前10時ごろ、突然、砲十門を持つ約一旅団の大部隊が水師営方面から前進してくるのに出会いました。ここでの戦いが「土城子(どじょうし)の戦い」です。
スペシャルドラマ「坂の上の雲」で描かれていた好古の戦いがこの戦いです。そこで、「土城子の戦い」を『秋山好古』(秋山好古大将記念刊行会刊)に基づいて書いていきます。
敵の大軍に対して味方は三中隊に満たない小勢なため、到底敵対するのは難しい状況でした。しかし、今度の戦いは騎兵隊にとって初陣で、 将来の士気に大いに影響するので退却できないと考えた好古は、 戦闘開始を決心しました。
好古は、 中隊長河野政次郎大尉の第一中隊を本道の東側に、中隊長山本粂太郎大尉の第二中隊を本道の西側に配置し、中隊長浅川敏靖大尉の第六中隊を乗馬予備隊として手許において、 戦闘を始めました。しかし、兵力の差がちがいすぎ、味方は苦戦に陥り、さらに士気の揺らぎも見え始めました。
敵弾が炸裂し、砂煙りがうず巻くなかで、好古は水筒につめた酒を飲んで戦況を眺めていました、すると、好古は副官が止めるのも聞かず兵たちが伏せている前方へ馬を進め平然として督戦しました。。
その姿は悠然また泰然たる姿は胸中何等の恐怖も焦燥も困惑もなく、「あたかも桜花爛漫のなかで、酒客が盃を傾けているような風情だった」と河野中隊長が語っています。
好古の豪胆な姿をみた味方は忽ち戦闘意欲を回復し防戦に勤めました。しかし、大隊長の身辺を心配した副官の稲垣三郎中尉は、堪りかねて好古の馬の轡(くつわ)を取り、後方へ引き戻しました。この時のこと、乱軍の中で、好古の部下たちが周囲の敵にあたっていたため、好古の周囲にいるのは通訳の熊谷直亮(なおすけ)だけになった際、熊谷に「おれは旅順にゆけと命令されている。 退却しろとは命令されていない。去る者は去れ。しかし、 通訳は要るから、 君はついてこい」と言って、敵の中に突入しようとしました。副官稲垣が来てこれを止めましたが、それでも、好古は、陣頭にたち続けと言います。
騎兵大隊の危機を知った中隊長中萬徳二中尉が率いる歩兵第三連隊第三中隊が、応援に駆けつけてきました。しかし衆寡敵せず、中萬中尉は頭に敵弾が命中して戦死し、中隊も大損害を被りました。
今や総退却せざるをえない戦況となった中、好古は、河野第一中隊長に決死の襲撃を命令しました。河野大尉は「これは万死に一生も期せない。秋山さんは酔っぱらってしまったのではないか」と思ったものの、命令は絶対なので、好古のもとにかけつけ、剣の礼をして、「これでお別れいたします」といい、決死の乗馬襲撃に出発すべく、ふたたび隊に駆けもどった。
敵は左右一里にわたって展開し潮のように押し寄せ、四、五百メートル近くまで迫ってきた。剛毅な好古も手の打ちょうがなく、意を決して、河野中隊に襲撃中止を命じ、総退却するよう命令しました。
しかし、歩兵を伴っていたため退却が大変でした。騎兵部隊の苦戦を知り応援にきた歩兵部隊の退却を騎兵部隊がそれを掩護するということになってしまいました。
この時、好古は自ら殿(しんがり)を勤め、壊滅しそうな部隊を掩護し集結させて退却戦と戦っているうちに、急を聞いた歩兵第三連隊が駆けつけ、ようやく敵の追撃を阻止することができました。
以上『秋山好古』(秋山好古大将記念刊行会刊)に基づいて戦いの様子を書きました。なお、『秋山好古』(秋山好古大将記念刊行会刊)は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。
この戦いは「土城子(どじょうし)の戦い」と呼ばれています。土城子の戦いは、好古および日本騎兵にとって初陣でしたが、好古の初陣は歴戦の中で最も苦しい戦闘の一つとなりました。しかし好古にとっては貴重な実戦経験となりました。また、好古の戦場における勇敢な戦いと的確な決断および指揮に対する部下たちの信頼が高くなりました。
11月21日未明には日本軍が旅順に対して総攻撃を開始します。そして、陥落させるのに半年かかると言われていた旅順はわずか一日で陥落しました。
司馬遼太郎は、原作『坂の上の雲』の中で、「(日清戦争における日本軍の)勝利の最大の因は、日本軍のほうにない。このころの中国人が、その国家のために死ぬという概念を、ほとんどもっていなかったためである。」と書いています。

