7代藩主徳川宗春のお墓〈名古屋千種区平和公園〉(尾張徳川家③)
先月、名古屋に行った際に、尾張徳川家の菩提寺建中寺を訪ねたことは、以前、ブログに書きました。(下記ブログご参照)
その時、名古屋市東区にある平和公園内に尾張藩7代藩主の徳川宗春のお墓がありますので、お参りしてきました。そこで、今日は、尾張藩7代藩主徳川宗春について書いてみます。
下写真が宗春の墓碑です。墓碑には贈亞相二品章善院殿厚譽孚式源逞大居士尊儀と刻まれています。
まず、徳川宗春のお墓が建中寺でなく平和公園にある事情は次のような事情があります。
徳川宗春は、亡くなった後、菩提寺の建中寺に埋葬されましたが、昭和20年に名古屋市が大空襲を受けた際、建中寺も、大きな被害を受け、歴代の霊廟の多くが焼失しました。宗春の墓石も焼夷弾の直撃を受けて墓石の一部が損傷しました。戦後、名古屋市の復興都市計画に伴い、市内の墓が千種区の平和公園に移転することになりました。一方、建中寺の歴代藩主のお墓も改葬されることとなり、遺骸が火葬され、愛知県瀬戸市にある定光寺脇の徳川家納骨堂に納められました。この時に歴代藩主の墓碑も処分されましたが、宗春の墓碑は、例外的に平和公園内の建中寺墓地に移されることになりました。その結果、歴代藩主の墓碑のうち、宗春の墓碑だけが平和公園にあります。
徳川宗春の墓碑の隣の説明板には次のような説明が書かれていました。
「尾張藩七代藩主 徳川宗春公 元禄九年~明和元年(1696~1764)
八代将軍徳川吉宗公と同じ時代を行きた人物です。当時の徳川幕府が掲げた『質素倹約』という政策は必要としながらも、規制緩和により縮小されていた祭りを復興させ、芸能を大いに許すなど人々の生活に努め、農民の収入を増やすなどして現在の名古屋の発展の礎を築きました。
『温知政要』(おんちせいよう)という書物に基本政策理念二十一箇条を著し、どの時代でも立派に通用する政策を唱えて実行した、先見の明のある殿様です。
その宗春公のお墓が第二次世界大戦のおり、名古屋大空襲で焼夷弾の直撃を受け一部が損壊してしまいましたが、2010年7月8日、多くの市民のご協力により墓碑修復が完了しました。当時から月日を重ねた現代に至るまで、市民から大変愛される殿様だったことがうかがわれます。
文:南山大学教授 安田文吉」
墓碑脇の説明板ではコンパクトに徳川宗春について解説してありますが、もう少し詳しく書いてみます。
徳川宗春は、元禄9年(1696)、尾張藩第3代藩主徳川綱誠(つななり)の二十男として名古屋で生まれ、幼名万五郎と呼ばれました。
父綱誠(つななり)は、尾張藩初代藩主徳川義直の嫡男光友と3代将軍徳川家光の長女千代姫の間に生れ、実際は次男でしたが、母が正室であり将軍の娘でしたので、綱誠(つななり)が尾張徳川家を継ぎました。
なお、綱誠(つななり)は子だくさんで「名古屋市史 人物編」では二十二男、十八女の子供がいたとされています。宗春は、二十男ですので、晩年の子供ということになります。
宝永5年(1708)、兄で4代藩主の吉通から偏諱を受け、通春となのりました。吉道は、綱誠(つななり)の十男(九男とも)として元禄2年(1689)に生まれましたので、7歳年上ということになります。
正徳3年(1713)7月には兄吉通が亡くなります。さらに同じ年の10月には、吉通の跡を継ぎ5代藩主となった吉通の長男五郎太がわずか3歳でなくなっため、通春の兄通顕が継友と改名して6代藩主となりました。
享保14年(1729)5月に、尾張藩御連枝で梁川藩3代藩主の松平義真が亡くなり、梁川藩が無嗣断絶となりました。なお御連枝とは尾張藩宗家が断絶した時のために尾張藩2代藩主光友が分家独立させたもので、梁川藩松平家、高須藩松平家、川田窪松平家の三家がありました。
梁川藩松平家が無嗣断絶となったため、享保14年8月に、通春が徳川吉宗から改めて梁川藩3万石を与えられました。柳川藩松平家が再興されたことになります。なお、梁川藩主は江戸定府とされていましたので、通春は梁川に入ったことはなかったと思われます。
享保15年(1730)11月に兄継友が亡くなりました。39歳でしたが子供がいませんでした。そこで、梁川藩主松平通春が尾張藩を相続し7代当主徳川通春となりました。継友が亡くった際には、通春には兄二人(通温と義孝)がいましたが、2人とも健康でなかったため通春が7代藩主となったといいます。享保16年(1731)正月、家督御礼を言上した際に将軍吉宗より偏諱を授かり、徳川宗春と名乗るようになりました。
同じ年の3月、『温知政要』を著しました。『温知政要』は、藩主として初めて名古屋に入るにあたってまとめた政治理念などを全21ヵ条にまとめたもので、宗春の考えが具体的に語られています。『温知政要』の巻頭と巻末には、宗春の治政の根本を表す「慈」と「忍」の文字が大きく書かれています。
そして、4月、藩主として初めて名古屋に入りました。名古屋入府の際の宗春は、『ゆめのあと』によれば、浅黄の頭巾をかぶり、唐人笠風の鼈甲の丸笠で、黒い衣服と黒い足袋という奇抜な服装をして、馬に乗って入国したといいます。
名古屋東照宮の例祭は、継友の時代は規制された簡素なものでしたが、宗春が入国した年に開催された例祭は規制を緩和され元の華やかなものとなりました。さらに、芝居小屋が許可され、藩士の芝居見物も許可され、遊郭も許可されました。
当時、将軍吉宗は享保の改革を推進し質素倹約・規制強化が徹底されており、祭りや芝居などは縮小・廃止されていましたが、宗春は、それと全く逆を行く規制緩和政策を推進し、芝居小屋や遊郭等を許可するなどしたため、名古屋の町は大いに賑わいました。
しかし、宗春の規制緩和政策は、幕府の方針に真っ向から反対する政策であったため、幕府から厳しい目を向けられるようにようになり、ついに元文4年(1739年)正月12日に吉宗からの隠居謹慎を申し渡され、宗春は江戸の中屋敷麹町邸に謹慎することになりました。そして、7ヶ月間中屋敷で謹慎した後、9月22日7に江戸を発ち、10月3日に名古屋に入り、三の丸の屋敷に幽閉されました。
その後、宝暦4年(1754)に名古屋城下の下屋敷に移されましたが、宝暦11年に尾張徳川家の菩提寺建中寺の父母の霊廟への参拝が許可されるまで外出は許されませんでした。そして、謹慎して25年後の明和元年(1764)10月8日、69歳で亡くなり、建中寺に埋葬されました。