尾張藩中興の祖9代藩主徳川宗睦の墓(尾張徳川家④)
名古屋の建中寺が尾張徳川家の菩提寺であることは再三このブログに書きました。その建中寺には、現在は、2代藩主徳川光友の墓碑だけが残されていること、そして、8代藩主徳川宗春の墓碑が名古屋市内の平和公園にあることを、これまで紹介してきました。
実は、尾張藩藩主の墓碑がもう一つ現存しています。それが今日紹介する9代藩主徳川宗睦(むねちか)の墓碑です。宗睦の墓碑が残されているのは愛知県小牧市の小牧山です。
小牧山は、織田信長が築いた小牧山城があり、小牧長久手の戦いの際には徳川家康が本陣をおいた場所です。昨年、小牧長久手の古戦場を訪ねた際に、徳川宗睦のお墓をお参りしてきてありますので、今回、紹介します。下写真は小牧山山頂の小牧山歴史館です。
徳川宗睦のお墓は小牧山歴史館に向かう大手道の途上にありました。下写真が公園内にあった地図ですが、その中心に徳川源明公墓碑と書いてあるのが、徳川宗睦のお墓です。
下写真が徳川宗睦の墓碑ですが、墓碑には「亞相二品天祥院殿鋻譽峻徳源明公尊儀」と刻まれています。(下写真)
小牧市教育委員会が設置した説明板には、菩提寺である建中寺にあったが昭和28年に行われた区画整理のため、移転を余儀なくされ、小牧山に移設されたと書いてあるだけで、徳川宗睦の墓碑が小牧山にある経緯については詳しく書かれていませんでした。
そこで、いろいろ調べたところ、インターネットで見ることのできる「『象山文庫』(小牧市立図書館所蔵)の伝写資料について」(著者山田久)の中に、愛知県小牧市の郷土史家津田応助が、名古屋市内の墓地を平和公園へ移転する際に、小牧山に徳川家の墓碑を保存したいと願い出たことにより、徳川宗睦の墓碑が小牧山にあるという故水谷盛光氏の話が紹介されています。
次に9代宗睦について紹介しますが、宗睦は、8代宗勝の次男として生まれ、宝暦11年(1761)に家督を相続しましたので、まず父の8代宗勝について説明します。
宗勝は、尾張徳川家のご連枝(分家)である川田久保家松平友著(ともあき) の長男として名古屋に生まれました。松平友著(ともあき)は尾張徳川家2代藩主光友の十一男として生まれ、川田久保家を起こしました。川田久保家は、牛込村川田久保(現在の新宿区河田町)に屋敷があったため、そう呼ばれました。
宗勝は、享保17年(1732)、一族の美濃国高須藩主松平義孝(よしたか)の養嗣子となり家督を相続し、義淳(よしあつ)となのりました。しかし、元文4年(1739)1月、宗家の尾張藩の7代藩主である従兄宗春が隠居謹慎を命ぜられたため宗家を相続し、8代藩主となりました。
襲封すると、宗春の寵臣星野織部たちを処罰し隠居減禄等とし、また、宗春が廃止した死刑を復活させる等幕府から処罰された「宗春色」を消すための施策を実施し、さらに、襲封後間もなくの元文4年3月に七カ年間の倹約令を発し、財政再建に注力し、治政後半には財政に余裕がでるまでになりました。そして、宝暦11年(1761)6月22日、57歳で亡くなりました。
9代宗睦(むねちか)は享保18年(1733)9月20日、宗勝の次男として江戸四谷藩邸に生まれました。寛保2年(1742)に元服し、8代将軍吉宗から一字を賜り宗睦と名乗り、 宝暦11 年(1761)に父宗勝が亡くなったため家督を相続しました。襲封後、先代を引き継いで藩政改革を行ない、農政改革、殖産興業を推進し、財政の窮乏回復のため藩札である米切手を発し、世禄制を復活させたりしました。さらに、儒学者細井平洲を起用し、天明3年(1783)、藩校明倫堂を創設し、細井平洲を初代総裁としました。こうした善政を敷いたことから、宗睦は「尾張藩中興の祖」といわれました。その治政は38年間という長いものでしたが、 寛政11年 (1799)12月20日、67歳で亡くなりました。しかし、既に世子治休が21歳で亡くなっており、その他の跡継候補も早世したため、11代将軍徳川家斉の弟一橋治国(一橋家)の長男斉朝を10代藩主として迎えました。
ところで、建中寺にあった藩主等の墓碑は全く残されていないものと思っていましたが、御住職のお話では、建中寺には藩主等の墓碑のうち3つの墓碑が残されているとのことでした。
それは、建中寺惣門脇の寺号標、三門脇の寺号標、本堂西側の「南無阿弥陀仏」標の三つです。
建中寺惣門脇の寺号標は惣門の左手に設置されています。「徳興山建中寺」と刻まれています。(下写真)
三門脇の寺号標は「尾州家菩提所 徳興山崇仁院建中寺 尾州家二十代徳川義知書之」と刻まれています。(下写真)
設置場所は三門の右手です。下写真の右手の大きな石碑が寺号標です。
本堂西側の元墓碑には「南無阿弥陀佛」と刻まれています。