正岡子規、「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」の句を詠む(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑩)
スペシャルドラマ「坂の上の雲」第9回の冒頭部分で正岡子規が喀血後、松山で療養したことが描かれていました。
正岡子規は、明治28年5月に日本に帰国しました。そして、23日に神戸に上陸しましたが、結核が悪化して、上陸すると同時に神戸病院に入院し、一時は命も危ぶまれました。
京都から急遽やってきた高浜虚子、東京からやってきた母八重と河東碧梧桐の看病があって、7月には病状が良くなったので、7月23日に神戸病院を退院し須磨保養院に移り、そこで療養を続けました。
その結果、だいぶ病状もよくなったので、8月下旬に故郷松山に帰りました。この里帰りが、スペシャルドラマ「坂の上の雲」の中で妹律のセリフにあったように子規にとって最後の松山となりました。
子規は、既に明治25年に母と妹を東京に呼び寄せていたため、松山には自宅は残っていませんでした。そこで、明治28年4月に松山中学に英語の教師として赴任していた大学時代の友人夏目漱石の下宿にころがりこみました。
夏目漱石は、自分の下宿を「愚陀仏庵」と名づけていました。ドラマの中で、秋山真之が子規の住いを訪ねた最初の場面に、「愚陀仏庵」と書いた札が映されていました。こうしたところもNHKの芸の細かさが表れていると思いました。 ちなみに「愚陀仏」とは夏目漱石が自分につけた俳号です。漱石の俳句に「愚陀仏は主人の名あり冬籠(ふゆごもり)」という一句があります。
漱石は、もともと「愚陀仏庵」の1階に住んでいたようですが、子規が来ると自分は2階に1階をあけて子規が住めるようにしたそうです。ここで子規は起居しましたが、そのころ、松山では俳句の気運が盛り上がり、俳句好きな人々が、「愚陀仏庵」に集まり、大変にぎやかだったようです。漱石も、その仲間の中に加わって俳句を詠んでいました。
なお、「愚陀仏庵」は、松山に復元されていましたが、2010年7月12日の豪雨による大規模な土砂崩れにより全壊してしまいました。その後、復元の話もあるようですが、未だ復元されていないようです。
子規は、松山で2ヶ月余り過ごした後、東京に帰ることとなり、10月19日に松山を発ちました。そして、須磨まで来たところ、腰が痛みだし、ついに大阪でしばらく滞在することにしました。子規は、当初は、あまり重大視しせず、リウマチ程度と考えていたようです。しかし、これが晩年の子規を苦しめた脊椎カリエスの発症でした。子規を苦しめたカリエスは、結核菌が脊椎(背骨)に運ばれて発症する病気です。この間の事情を河東碧梧桐への手紙で次のように書いています。
「小生も大分よろしくなり候故、あづまの秋もこひしく、須磨迄出稼(でかけ)候処、リウマチにや、左の腰骨いたんで歩行困難に相成候。当地にては全く動けぬ程なりしを、服薬の効によりて今日は大分よく相成候。明日は少しはあるき得(え)べきかと楽(たのし)み居(をり)候。今度は是非奈良見物と心掛候故、あるけねば汽車にて外形だけでも見るつもり。故に明日、明後日の中(うち)には奈良へ行き、それより帰京可致(いたすべく)候。」
そして、数日、留まっていると、腰の痛みも和らいだため、奈良に向かいました。
そして、この旅行の中であの有名な「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」を詠んだと言われています。
みんなが知っている有名な俳句を挙げろと言われたら、多くの人がこの俳句を挙げるでしょう。そして、多くの人は、子規は、この俳句を法隆寺で詠んだと思っていると思います。しかし、「この句は法隆寺で詠んだ句ではない」という説がかなり有力なようです。
子規は、10月26日(松井利彦著『正岡子規』桜楓社刊による)から3日間ほど奈良の対山楼(角定)という老舗の旅館に泊まりました。
そこで、柿を見つけて下女に柿を所望しました。その時の様子を子規は『くだもの』という作品の中に詳細に書いています。(詳細は後記参照)
下女は早速大量の柿を持ってきて皮をむいてくれました。その柿を食べていると鐘が一つ鳴りました。そこで、子規がどこの鐘かと尋ねると東大寺の大釣鐘の初夜(午後8時頃)の鐘とのことでした。
子規自身が、このように書いていることもあって、子規が聞いたのは法隆寺の鐘ではなく東大寺の鐘であるという説が、次のように多くの書物に書かれています。
「子規はそこ(奈良の宿屋対山楼)で名物の御所柿を食べながら東大寺の鐘をきいた。柿と鐘の組合せはその時子規の心を支配し、翌日、人力車で法隆寺に赴き、東大寺よりも法隆寺の方がふさわしいと感じてこの句を成した。」松井利彦著「正岡子規」p135
「この句は東大寺でもよかったが、あえて当時は東大寺よりはるかに無名であった、法隆寺とされたのである。」井上泰至著ミネルヴァ日本評伝選『正岡子規』p102
こうした説を受けたのだと思いますが、末延芳晴氏は『正岡子規、従軍す』p11~12で「(この句は)法隆寺を訪れたさいに読んだとされている。しかし、事実は、どうもちがうようで、法隆寺というより東大寺で鐘の音を聞いたというのが正しいらしい。(中略)それ(東大寺の鐘が聞こえてきたこと)を『鐘が鳴るなり法隆寺』としたのは、その時聞いた鐘の音と、そのあと法隆寺を訪れたときの印象(もしかしたら鐘の音も聞いたかもしれない)が、子規の頭の中でうまく交響しあったので、この句が詠まれたということらしい。」と書いています。
なお、坪内稔典氏は「正岡子規 言葉と生きる」p122に「『柿くえば』は『法隆寺の茶店に憩びて』と前書きをつけて松山の新聞『海南新聞』(明治28年11月8日)に載せたが、話題になることはほとんどなかった。ちなみに、この新聞の9月6日号には漱石の句、『鐘つけば銀杏ちるなり建長寺』が載っている。私見では、嗽石のこの句が子規の頭のどこかにあり、この句が媒介になって『柿くえば』が出来たと思われる。」と書いています。
ところで、子規は柿が大変好きだったようです。
夏目漱石は『三四郎』の中で、三四郎が上京する汽車に乗り合わせた人物に「子規は果物が大変好きだった。且いくらでも食える男だった。ある時大きな樽柿を十六食った事がある。それで何ともなかった。自分などは到底子規の真似(まね)はできない。」と語らせています。
子規自身、明治30年に「我死にし後は」と前書きをつけて、「柿食ヒの 俳句好みしと 伝ふべし」という俳句を作っています。(坪内稔典著『正岡子規 言葉と生きる』より)
また、子規が亡くなる前年には、「柿くふも 今年ばかりと 思ひけり」という俳句を作っています。子規が亡くなったのは、柿の出回る時季より早い9月19日でしたので、本当に最後の柿となりました。(藤田真一編『正岡子規と近代俳句』より)
そのため、有名な「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」のほかにも多くの柿の俳句を作っているようです。その中からいくつか紹介します。
〈藤田真一編『正岡子規と近代俳句』より〉
三千の 俳句を閲(かみ)し 柿二つ
樽柿を 握るところを 写生かな
〈松井利彦著「正岡子規」より〉
つりかねという柿をもらひて
つり鐘の 蔕(へた)のところが 渋かりき
愚案より柿をおくられて
御仏に 供へあまりの 柿十五
三千の 俳句を閲(かみ)し 柿二つ
風呂敷を ほどけば柿の ころげけり
*参考*
『くだもの』(「国立国会図書館デジタルコレクション『正岡子規全集 第2巻』改造社刊p129」より転載。)
○御所柿を食いし事 明治28年神戸の病院を出て須磨や故郷とぶらついた末に、東京へ帰ろうとして大坂まで来たのは十月の末であったと思う。その時は腰の病のおこり始めた時で少し歩くのに困難を感じたが、奈良へ遊ぼうと思うて、病をおして出掛けて行た。3日ほど奈良に滞留の間は幸に病気も強くならんので余は面白く見る事が出来た。この時は柿が盛(さかん)になっておる時で、奈良にも奈良近辺の村にも柿の林が見えて何ともいえない趣であった。柿などというものは従来詩人にも歌よみにも見放されておるもので、殊に奈良に柿を配合するというような事は思いもよらなかった事である。余はこの新たらしい配合を見つけ出して非常に嬉しかった。或夜夕飯も過ぎて後、宿屋の下女にまだ御所柿は食えまいかというと、もうありますという。余は国を出てから十年ほどの間御所柿を食った事がないので非常に恋しかったから、早速沢山持て来いと命じた。やがて下女は直径一尺五寸もありそうな錦手の大丼鉢(どんぶりばち)に山の如く柿を盛て来た。さすが柿好きの余も驚いた。それから下女は余のために庖丁を取て柿をむいでくれる様子である。余は柿も食いたいのであるがしかし暫しの間は柿をむいでいる女のややうつむいている顔にほれぼれと見とれていた。この女は年は16.7位で、色は雪の如く白くて、目鼻立まで申分のないように出来ておる。生れは何処かと聞くと、月か瀬の者だというので余は梅の精霊でもあるまいかと思うた。やがて柿はむけた。余はそれを食うていると彼は更に他の柿をむいでいる。柿も旨い、場所もいい。余はうっとりとしているとボーンという釣鐘の音が一つ聞こえた。彼女は、オヤ初夜が鳴るというて尚柿をむきつづけている。余にはこの初夜というのが非常に珍らしく面白かったのである。あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるという。東大寺がこの頭の上にあるかと尋ねると、すぐそこですという。余が不思議そうにしていたので、女は室の外の板間に出て、そこの中障子を明けて見せた。なるほど東大寺は自分の頭の上に当ってある位である。何日の月であったかそこらの荒れたる木立の上を淋さびしそうに照してある。下女は更に向うを指して、大仏のお堂の後ろのあそこの処へ来て夜は鹿が鳴きますからよく聞こえます、という事であった。(明治34年3月)

