秋山真之、正岡子規を見舞う(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑪)
スペシャルドラマ「坂の上の雲」第9回で、秋山真之が正岡子規を見舞う場面が2回描かれていました。最初は、松山に帰って愚陀仏庵で療養している子規を訪ねていました。2回目は、真之が米国に留学することになりしばしの別れになるため、根岸の子規庵を訪ねていました。
秋山真之、正岡子規のそれぞれの評伝類で調べましたが、評伝類には2度にわたるお見舞いについて書いてあるものはありませんでした。
しかし、明治38年7月1日発行の『ホトトギス 臨時増刊(第8巻第10号)』に、高浜虚子が書いた「正岡子規と秋山参謀」という一文があり、それに次のように書かれていました。(*ただし、文中の①②③は、原文にはありません。(**『ホトトギス 臨時増刊(第8巻第10号)』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。)
「①日清戦争のすんだ時分、子規君の話に、秋山がこないだ来たが、威海衛攻撃の時幾人かの決死隊を組織して防材を乗りこえてどうとかする事になって居ったが、或事情の為め決行が出来なかった。残念をした、と〔真之が〕話して居った、と〔子規が〕いわれた。(中略) その後、②アメリカに留学せられた事、あちらから毛の這入った軽い絹布団を子規君に送られた事、(この布団は子規君の臨終迄着用せられたもの)大分ハイカラにうつって居る写真を送って来られた事、留学中大尉から少佐になられた事などを飛び飛びに記憶して居る。③も一つその留学前に、ある席上で正岡はどうして居るぞな、と聞かれ、この頃は俳句を専門にやって居るのよと、というと、そうかな、はじめはたしか小説家になるようにいうととったが、そんなに俳句の方でえらくなっとるのかな、兎に角えらいわい、といわれた事を記憶して居る。」
この中で、①に書かれている威海衛の戦いでの決死隊の話は、松山の愚陀仏庵へ見舞いに行った時の話と思われます。原作「坂の上の雲」でも、決死隊=白襷隊の話が触れられています。
②の真之が米国から毛布を送ったことは、次回予告編の場面に出ていましたので次回に描かれることと思います。
そして➂の部分は、真之が渡米する際に開催された県人会の送別会でのできごとだと思います。ドラマでは、真之が子規に別れを言う場面で「県人会での送別会」の話が出てきていました。
さて、松山で療養中の子規を真之が見舞いに行ったことは、評伝類では確認とれませんでしたが、インタネットで検索してみると、「松山市公式観光WEBサイト」の中の「きどや旅館跡」の紹介の中で、真之が子規を見舞いに行った際に泊まった「きどや」という旅館が紹介してあります。この「きどや」は夏目漱石も松山着任の際に宿泊した旅館とのことです。下記リンクを参照してください。
真之がアメリカに留学する前、いつ子規を見舞ったかについて評伝類には書かれていませんでした。しかし、子規は、「送秋山真之米国行(あきやまさねゆきの米国行くを送る)」という前書をつけて次の句を詠んでいますので、真之が子規を訪ねたのは事実だと思います。
君を送りて 思ふことあり 蚊帳に泣く
この句について、原作『坂の上の雲』では、「真之はしばらくこの句があたまのすみにこびりついて離れなかった。思ふことありとはなんだろう。(自分の身にちがいない)とおもった。(中略)あの自負心のつよい男「は、真之のはなやかさをおもうにつけ、おそらくあの日、真之が去ったあと、おそらく『蚊帳に泣』いたのかもしれない。真之は、そうおもった。」と書かれています。
また、ホトトギス 昭和19年12月号で高浜虚子は次のように解釈しています。
「その人(秋山真之のこと)はだんだん出世して海軍士官として米国へ行くことになり、子規は望を抱きながら、病の為に動くことも出来ない體(からだ)である。思えば感慨無量である。何気なく談笑して別れたのであるが、後ち一人蚊帳の中にあって泣くという句である。(後略)」
司馬遼太郎も高浜虚子も同じように感じたようです。