「鶏頭の十四五本もありぬべし」(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑬)
正岡子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」の句は私にとっては耳慣れた句です。確か高校の教科書または大学受験参考書で覚えたと記憶しています。
スペシャルドラマ「坂の上の雲」第9回や第11回でも鶏頭が大きく描写されていて私にとっては大変印象的でした。
下写真は、第9回で秋山真之がアメリカに留学するため子規庵を訪ねた際の場面です。右側に鶏頭が描かれていました。

下の写真は、第11回の場面ですが、秋山真之が英国から帰国して子規庵を訪ねた際、子規が包帯を取り換える間、それを真之が庭で待っている場面です。

こうしたことから「鶏頭の十四五本もありぬべし」の句は、子規の代表的な名句として評価が定まっているものと思っていました。
しかし、『正岡子規』(松井利彦著)の鑑賞編を読むと次のように書いてありました。
「『鶏頭の十四五本もありねべし』の句は最初、長塚節によって名句として取りあげられ、次いで斎藤茂吉によって賞賛された。これに反し、虚子はこの句を句会席上でも、子規句集を編むに際しても入選させることなく、佳句としての扱いを見せていない。」
確かに高浜虚子が編纂した岩波文庫『子規句集』(昭和16年刊)には、この句は載っていません。
この句は、明治33年9月9日に開かれた句会の第2回運座「鶏頭」の題で次の句を子規が詠んでいます。なお、運座とは、句会で、多数の人が集まり一定の題によって句を作り、互選する会のことをいいます。なお、この句会の全体の句は「国立国会図書館デジタルコレクション『子規全集』(講談社刊)第十五巻「俳句会稿」で読むことができます。
塀低き田舎の家や葉鶏頭
葉鶏頭の錦を照す夕日哉
誰が植ゑしともなき路次の鶏頭や
萩刈て鶏頭の庭となりにけり
鶏頭の十四五本もありぬべし
鶏頭の花にとまりしばつたかな
朝皃の枯れし垣根や葉鶏頭
鶏頭に車引入るゝごみや哉
鶏頭や二度の野分に恙なし
これらの句の中で最も評価がたかったのは「鶏頭や二度の野分に恙なし」が四票で、 「鶏頭の十四五本もありぬべし」は2票だけでした。
その後、高浜虚子・河東碧梧桐が編集した「子規句集」にも採用されませんでした。
この句を評価したのは、子規の愛弟子である長塚節(たかし)、そしてアララギ派歌人の斎藤茂吉だったようです。長塚節が評価したということは斎藤茂吉が書いた「長塚節氏を憶ふ」の中で次のように書かれています。「(前略)予等が歌の批評などの場合に 『尊い』などと云ふと、長塚さんは非常に不平であった。正岡先生の晩年の句の『鶏頭の十四五本もありぬべし』が分かる俳人は今は居まいなどと云った。それから芭蕉の『行く春を近江の人と惜しみけり』や曾良の『夜もすがら秋風きくや裏の山』などの感想は幾度となく聴いた。(後略)」(国立国会図書館デジタルコレクション『斎藤茂吉全集第7巻(第1)」より)
こうした長塚節の評価を踏まえて、斎藤茂吉も、「童馬漫語」の中で次のように書いています。
「『五月雨や上野の山も見飽きたり子規』これは子規の晩年の句だ、そして子規自身でも棄て去るべき句ではないと思っていただろう。
門間春雄君所藏の五月雨十句の軸の書きぶりを見ると、それがようく分かる。僕の獨斷言によると此は佳句であって棄つべきものではない。
そして、『雞頭の十四五本もありぬべし』などと同じく、これから子規の進むべき純熟の句がはじまったのである。もう寸毫も芭蕉でも蕪村でもないのである。そして、『夕顏の棚つくらむと思へども秋まちがてぬわが命かも』などの晩年の和歌に比すべく、かうなれば俳句も和歌も一如だと僕は思ふ。然るに此句は碧梧桐虛子選の子規句集に收錄されてないばかりでなく、俳壇にゐるほかの人も眞に此句を論じたことはない。子規を祖述すると云つても何を祖述するのか。僕にはどうも變に思はれる。また『子規なんかもう古いよ」などといつて妙な風な日本語でないやうな日本語を竝べて納まつてゐるのは僕にはどうも變に思はれる。(大正五年十一月廿九日夜。石楠のために) 』(国立国会図書館デジタルコレクション『童馬漫語新版 (アララギ叢書 ; 第7篇)』より)
このように斎藤茂吉が大正5年には、この句を高く評価しているのにもかかわらず、前述したように高浜虚子は昭和16年発行の岩波文庫『子規句集』に「鶏頭の十四五本もありぬべし」を採用しませんでした。
これについて、山本健吉は『現代俳句上』(角川書店刊)の中で「頑迷な拒否である」と書いています。

この中では、この俳句についての評価の経緯も書いてあります。そこで、少し長くなりますが、その部分も含めて紹介します。
「 鶏頭の十四五本もありぬべし
およそ子規の俳句でこの句ぐらい論議の対象となった作品はほかにないのである。これは明治三十三年、子規庵における病床の句であって、当時の俳人たちには簡単に見過ごされていたのであった。虚子・碧梧桐など弟子たちによって編へん纂さんされた当時の子規句集にも、この句は除外されていた。
おそらく作者の子規にすらこの句が秀句であるという意識はなかったので、勢い彼の病床を訪れる俳句仲間の間で話題にのぼることもなかった句なのであろう。
この句の真価の最初の発見者は、子規門の中でも繊細の精神の所有者である歌人長塚節である。『この句がわかる俳人は今はいまい』などと茂吉に言ったという。そしてこの句の真価を世人に認識せしめたのは茂吉の『童馬漫語』であった。一方、虚子が新たに編纂した岩波文庫版『子規句集』(昭和十六年刊)には、ニ千三百六句も選んだ中に、相変わらずこの句がはいっていない。驚くべき頑迷(がんめい)な拒否である。」
山本健吉の『現代俳句』を読むと「今日にいたるまで、この句ほど評価の一定しない句も珍しい。」そうで、この句は、子規の代表句だとばかり思っていたので意外な感じがしました。
さらに、この句の評価をめぐる「鶏頭論争」と呼ばれる論争もあるそうです。ご興味のある方はお調べください。
なお、鶏頭がどうして子規庵に植えられたかについて子規自身は「松蘿玉液」の中の「朝顔(明治29年9月21日)」の中で次のように語っています。
「某の女の童のたはむれに鶏頭植えてんとて夏の頃苗を持ち来りてかたばかりに土かぶせたるが、今は痩せながら高くのびて小枝多く出たるもものうしや。」(国立国会図書館デジタルコレクション「正岡子規全集第1巻」より)
これによれば、女の子が鶏頭の苗を持ってきて遊び半分で植えたのが始りだったようです。鶏頭は一年草ですが、種子がこぼれて、翌年また鶏頭が生えてきたのかもしれません。それを繰り返して子規庵の鶏頭も増えていたのかもしれません。

