水野忠邦が浜松藩に転封できたのは井上正甫のお陰?(新宿御苑⓷)
前回、浜松藩主井上正甫(まさとも)が、高遠藩内藤家下屋敷(現在の新宿御苑)で不祥事を起こし、棚倉藩に懲罰的に転封されたことを書きました。そして、この時の転封は、浜松藩⇒棚倉藩⇒唐津藩⇒浜松藩の三方領知替であったことも書きました。
この時の三方領知替の当事者の一人に天保の改革を行ったことで有名な水野忠邦がいました。この水野忠邦が唐津藩から浜松藩に転封となったことについて、水野忠邦は、幕閣になりたいと願ったが、唐津藩は長崎警護の役目を負っていて、幕閣に昇進するのは不可能であったため、唐津藩から江戸近くに転封を希望したとされています。このことは定説とされています。
この転封を説明する際に、浜松藩主井上正甫が起こした不祥事に触れることなく、水野忠邦は、早い段階から浜松藩に的を絞った転封を画策していたかのような論調があります。
例えば、『教科書にでてくる人物124人』(あすなろ書房刊)の「水野忠邦」の項では「唐津藩は、幕府から長崎の警備という役目をおおせつかっていたために、藩主は老中になれないというきまりがつくられていました。(中略)そこで、忠邦は、江戸に近い浜松藩に国がえを願いでたのです。浜松藩は、徳川幕府を開いた家康ゆかりの地でもありますので、一生けんめい働きかけました。1817(文化14)年、24歳の時に浜松藩への国がえが認められ、同じ6万石の藩主になることに成功しました。」と書いてあります。
また、ウィキペディア(Wikipedia)では「文化14年(1817年)9月、実封25万3,000石の唐津から実封15万3,000石の浜松藩への転封を自ら願い出て実現させた。」とだけ書いてあります。
しかし、浜松藩主井上正甫が起こした不祥事で三方領知替が行われたことを考えると、水野忠邦が浜松藩へ転封てきたのは偶然の結果であり、事件の起きる前から浜松藩への転封を願っていたという論調には疑問が生じます。そこで、水野忠邦が、早い時期から浜松藩への転封を願って幕閣に運動していたのかどうか調べてみました。
水野忠邦は、『国史大辞典』によると、「寛政6年(1794)6月23日江戸に生まれる。肥前国唐津藩主水野忠光の次男。母は側室中川氏、名は恂(中川氏から大住氏の養女となる)。兄芳丸の死去により世子となる。文化4年(1807)元服し、従五位下式部少輔に叙任せられた。9年8月、父忠光隠居のあとをうけて19歳で唐津6万石を襲封し、和泉守となる。すぐに藩政改革の断行を宣言し、祖父忠鼎以来の改革を強力に推進しようとした。同時に幕府の要職に就くことを狙い、12年11月に幕閣への登竜門とされた奏者番となったが、唐津藩主は長崎警固役を課されていて、幕閣の一員となることができないので、転封して昇進するため盛んに運動を行なった。14年9月念願の寺社奉行加役となり、左近将監に転じ、その翌日に浜松に所替となった。」と書かれていて、転封の運動をおこなったものの浜松藩に的を絞った転封の運動とは書いていませんでした。(赤字部分参照)
また、水野忠邦に関する最も詳しい研究書は人物叢書『水野忠邦』(北島正元著)ですが、この中では概ね次のように書かれています。
水野忠邦は、昇進と転封を同時に成功させるために、はげしい運動を開始したが、時の筆頭老中は「寛政の遺老」と呼ばれた松平信明であり、忠邦は食い込むことができなかった。しかし、文化14年(1817)8月3日に同族の水野忠友が側用人を兼帯のまま老中格となり、さらに、松平信明が、文化14年(1817)8月16日に亡くなり、忠邦にとって形勢が好転した。そして、水野忠朝の斡旋のおかげで文化14年9月10日、水野忠邦は寺社奉行の発令を受けるとともに、その翌日に唐津から浜松への国替えを命ぜられた。
さらに、北島正元氏は、この転封には、浜松藩主井上正甫の不祥事が介在したことを詳しく説明しています。水野忠邦の浜松への転封に関係して浜松藩主井上正甫の不祥事に触れたものは、私が見た限りでは人物叢書『水野忠邦』だけでした。
そのうえで、「井上正甫を棚倉藩に左遷したのは忠成が忠邦を浜松へ移すために、松平信明が穏便にすませようとした事件を、政道を正すと称して摘発して、正甫を辺地へ追いやったものとみられぬこともない。」(人物叢書『水野忠邦』p107,108より)と書いています。
水野忠邦は、井上正甫の不祥事が起きる前から、江戸近くの地への転封を画策していましたが、文化13年秋に浜松藩主の井上正甫が不祥事を起こしたので、これを好機として浜松藩に的を絞った転封を働きかけ、翌年の8月に老中格となった水野忠成によって、それが実現したということだろうと思います。
つまり、水野忠邦は、井上正甫の不祥事が起きる前には、浜松藩への転封でなく江戸近くの藩であればどこでも良くて浜松藩に限定していたわけではなかったものの、新宿御苑での不祥事が起きた後には、浜松藩への転封を願い出たということではないかと思います。
こうしたことから、井上正甫が新宿御苑で起こした不祥事は、江戸近くへの転封を願っていた水野忠邦にとって、「渡りに船」の好機だったのではないかと思います。
北島正元氏は、水野忠邦の転封には、同族の水野忠成(ただあきら)の力が大きかったと書いており、忠邦が転封できたキーパーソンは水野忠成だったようです。『参謀の器量学』(奈良本辰也編著)でも、次のように書いてあります。「忠邦は、昇進だけでなく移封をも目標として、激しい運動をはじめた。頼みこむ相手は、11代将軍家斉の寵臣だった水野忠成(ただあきら)だった。『水の出て もとの田沼となりにけり』とうたわれた人物で、賄賂を取るのは上手なことに定評があった。これに取りいるのが、栄達へのもっとも近い道である。それに忠邦にしてみれば、家が違うが同じ水野一族だというよしみがあった。」
水野忠成(ただあきら)は、もともと旗本岡野知暁の次男として生まれ、旗本水野家の養子となりましたが、沼津藩主水野出羽守忠友が養子であった田沼意次の四男田沼忠徳を離縁したのちに、水野忠友の養子となりました。水野忠友が亡くなった後、家督を継ぎ出羽守と改称し、奏者番、寺社奉行 (兼務)、若年寄、側用人と出世し、11代将軍徳川家斉の信任をえて、文化 14 年8月老中格となり、文政元年 年(1818)には老中となり、徳川家斉の治政を支えました。
この水野忠成が老中格となる前年に新宿御苑での井上正甫の不祥事があり、さらに、水野忠成が老中格となるという幸運が重なって水野忠邦の浜松転封が実現したようです。
ところで、この転封について、唐津藩の藩主であった水野忠邦は喜んだものの、財政難に苦しむ唐津藩の大半の藩士にとっては迷惑なことだったようです。そのため、転封の話が唐津藩に伝わると、家老二本松大炊義廉が、藩士の総意をもって転封を辞退するよう進言しましたが、水野忠邦はその進言を受け入れることはなかったため、二本松大炊義廉は文化14年10月自宅で切腹して果てています。