夏目漱石と樋口一葉は、義理の姉弟になっていたかもしれない!
この間、夏目漱石は幼少期を内藤新宿で過ごしたことがあったことを調べてきましたが、その過程で、夏目漱石は樋口一葉と義理の姉弟になったかもしれなかったということを知りました。樋口一葉は、2024年までは五千円札の表面も飾っていたので、皆さんはよくご存じだと思います。夏目漱石も千円札の肖像でした。そのことを考えるとますます不思議な縁ですね。そこで、本日は、その事について書きます。
夏目漱石の父直克には五男三女の子供がいました。先妻との間に二女、後妻である千枝との間に五男一女がいました。夏目漱石こと夏目金之助は五男の末っ子でした。
直克と先妻との間に生まれた二人の姉は、長女佐和(さわ)、次女房(ふさ)と言いました。前回、里子に出された漱石がかわいそうだと思って姉が生家に連れ帰った話を書きましたが、この姉が次女の房だとされています。なお、房は、従兄である筑土の名主高田家の長男庄吉と結婚しました。『道草』に庄三の姉夫婦として比田とその妻お夏が登場しますが、そのモデルが高田庄吉と房だとされています。
そして、後妻千枝との間には五男一女が生まれました。長男大一(大助)、次男栄之助(直則)、三男和三郎(直矩)、四男久吉、三女ちか、そして、末っ子の五男金之助です。( )内は元服後の名前
長男大一は元服して大助と名乗ります。開成学校(現在の東京大学)在学中に中退し、警視庁の翻訳係をしていましたが、明治20年3月21日に、肺結核でこの世を去りました。31歳の若さでした。
この長男大助と樋口一葉との間で、縁談話があったと『漱石とその時代』(江藤淳著)に書いてあります。

「彼(大助のこと)とのちに一葉女史として知られた樋口夏子とのあいだには縁談が持ちあがったことがある。夏子の父樋口則義は警視庁で夏目小兵衛の下僚であり、父親の引きで翻訳係に採用されて一時山下町の官舎に住んでいた大助とも面識があった。則義もまた同じ官舎に住んでいたから、娘を行く行くは大助の嫁にという話がはじまりかけたのである。このとき夏子はまだ十四、五歳の少女であった。しかしこの縁談は、樋口家に財産がないことを知った小兵衛直克の反対でつぶれた。」
樋口一葉 明治5年(1872)年3月25日生まれですので、14.5歳の時の話とすれば、明治19年(1886).20年(1887)の頃の話だと思われます。
夏目大助は、安政3年(1856)2月18日生まれですので、大助は30歳もしくは31歳で、漱石は19歳.20歳の頃の話だったと思われます。
この部分を読んだ際に、あまりにも予想外のエピソードなので驚きました。しかし、その典拠は特に書いてありませんでしたので、この話の出所がどこなのか調べたました。すると、この話は、江藤淳氏独自の見解ではなく、もともとは漱石の妻鏡子が述べた『漱石の思い出』に書かれているものでした。『漱石の思い出』の「五 父の死」の中で鏡子は次のように語っています。
「一番上の大一さんという兄さんは、大学にもはいり、学問もあり、また男前も立派な方だったそうですが、惜しいことに肺が悪くて病身だったので、大学も途中でやめたような按排(あんばい)です。そのころ父は府庁から警視庁に回ってそこで勤めていたのだそうですが、その下役に樋口一葉女史のお父さんが勤めておられまして、父は歳も歳でしたし、それに名主のいい顔で腕利きだといっても学問はなし、小うるさく働くのも億劫(おっくう)だったのでしょうが、樋口さんのほうは学問もあり、それに誠にこまめに立働くので、父はたいそう調法がって使っておりまして、時々は金を貸してやったものだと申します。一葉女史の貧乏は有名な話ですが、お父さんが生きていられる時から楽ではなかったらしいのです。しかし何しろよく働いてくれるし、いわば大事な片腕といったぐあいで、いいなりに金を用立てていたものの、なかなか返してくれるということがありません。
樋口さんはその頃山下町の官舎におられ、大一兄さんもやはり父の引きで、そこの翻訳をやる役についていて、同じ山下町の官舎に住んでいました、父だけは牛込から通っていたものと見えます。大一兄さんも勤めているくらいだからまだ丈夫でしたでしょうし、年頃ではあり、男前はよし、それに名主の長男ではありあり、まずまず申し分のないところから、樋口の娘に(*「は」の間違いかも)字も立派だし歌もつくるし、第一大層な才援がある、あれをもらっちゃどうかという話が持ち上がりました。ところが考えたのはお父さん、ただの下役でさえこれくらい金を借りられるのに、娘を貰ったりなどしたら、それこそどうなることかとこう算盤(そろばん)を弾(はじ)いたものと見えまして、この話はそれなりきりで、あたら一葉女史を夏目の家に貰いそこねたという話がございます。」
漱石の妻鏡子が語っていることですので、嘘はないと思います。
樋口一葉は、明治5年に山下町(現在の千代田区内幸町)に生れました。当時は、江戸時代の大和郡山藩柳沢家の上屋敷を利用していた東京府庁構内の武家長屋に生れました。その地は、現在は「内幸町ホール」となっていますが、その前に「樋口一葉生誕地」の説明板が設置されています。(下記写真)

そこには次のように書かれています。
「樋口一葉、名は奈津、なつ、夏子とも自署した。明治5年3月25日、内幸町にて、東京府庁に勤める樋口則義と母たきの次女に生まれる。14歳で中島歌子の歌塾萩の舎に学ぶ。本が好きで親孝行だった。身長五尺足らず、髪はうすく、美人ではないが目に輝きがあった。
士族の誇りを胸に、つつましく見えてときに大胆。心根はやさしくときに辛辣。女であることを嘆きつつ、ときに国を憂えた。
文学を志し、明治27年より「大つごもり」「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」「われから」と次々に発表、奇跡の14か月と評される。
明治29年11月23日、本郷丸山福山町四番地で死去。享年満24歳。(森まゆみ「一葉の四季」より)」

