小栗忠政の墓〔大宮普門院①〕《小栗上野介ゆかりの地1》
2027年のNHK大河ドラマは小栗上野介忠順(ただまさ)を主人公とした『逆賊の幕臣』です。そこで、少しずつですが、小栗上野介忠順に関する事柄について書いてみます。
最初は、小栗上野介忠順のゆかりの地の一つである大宮の普門院について書いてみます。
普門院は、さいたま市大宮区大成(おおなり)町にある曹洞宗のお寺です。JR大宮駅西口から徒歩で20分の距離にあります。下写真は寺院入口の写真です。

普門院は、室町幕府三代将軍足利義満の時代の応永33年(1426)に創立された古いお寺です。
ここには、小栗上野介忠順の先祖にあたる小栗忠政のお墓があります。
普門院の入口には「大宮市特定文化財 大成領主 小栗忠政一族の墓」と書かれた標柱が建てられています。下写真の左端の白っぽい標柱です。

普門院について、『大宮市史』には次のように書かれています。「寺伝によれば、普門院の開基の金子駿河守家光は、大成(おおなり)および植田谷領佐知川村(現西区佐知川)をながく領知した武士である。家光は金子十郎家忠の後裔で五代の末孫と伝えられ、大成に居館を構えていたという。
たまたま応永三十三年(1426*室町幕府三代将軍足利義満の時代)、曹洞宗の巨匠月江正文禅師が東国巡錫(じゅんしゅく)のおり、大宮氷川神社の社頭に仮泊したが、その夜霊夢に感応し、このことを知った神主の案内で、金子駿河守の大成館を訪れた。駿河守は禅師の高徳に帰依し、剃髪し幻公庵主と称し、その居館を寺として山号を大成山、寺号を普門院と称したと伝えられている。」
普門院は、金子駿河守が構えた大成館(おおなりやかた)に創建された寺院であるため、上写真の石製の標柱には、「大宮市指定史跡 大成館跡」と書いてあります。
下写真が普門院の本堂です。

本堂の裏側に、小栗忠政一族のお墓があります。小栗忠政のほか、大成領を受け継いだ忠政の次男小栗信由(のぶよし)をはじめ信由家の歴代当主の墓、さらに忠政の三男信友の墓もあり、すべてで30基の墓があります。
下写真は小栗忠政一族の墓全体写真です。

墓の入口脇に下記の内容の説明を刻んだ石製の説明板(写真は下記)が普門院によって設置されています。
大成領主小栗忠政一族の墓 さいたま市指定文化財(史跡)
小栗忠政は十三歳で徳川家康の小姓となった。近江姉川の戦いで、敵が家康近くに攻めてきたのを見て、傍らにあった家康所有の信国の槍を取って渡り合った。人々馳せよってその敵を討ち取った。家康は、忠政がまだ十六歳という若年なのに心利いた働きをした、一番槍にも等しいとその槍を忠政に与えた。その後も数々の戦で随一の働きをしたので又一(また一番)と称するように言われた。その功により、武州足立郡大成村五五〇石を含む二五五〇石の采地を与えられた。元和二年(一六一六)に亡くなると普門院に葬られた。
忠政の采地のうち二〇〇〇石を長男政信が継いだ。代々又ーと称し葬地は牛込保善寺である。大成村五五〇石は二男信由に与えられた。信由は上総長柄郡の内(現茂原市)に二〇〇石を加贈され、都合七五〇石を知行した。寛文元年(一六六一)に亡くなり普門院に葬られた。代々仁右衛門と称し、小姓組番、書院番を勤め、普門院を葬地とした。普門院には小栗忠政夫妻と忠政二男信由一族、そして忠政三男信友夫妻が葬られている。
[以下、小栗上野介忠順について書かれているがここでは省略する]
下写真が石製の説明板です。

小栗忠政の墓は小栗一族の墓所の最奥部にあります。
小栗家は、徳川家康の先祖である松平家から別れた一族との伝承があり、小栗忠政は、その四代目とされています。小栗忠政とその二男信由、三男信友について、大宮市史第五巻民俗文化財編(昭和44年9月20日発行)には次のように書かれています。
「小栗一族は松平氏の後裔で、徳川将軍家とは関係深い由緒ある家柄である。同家四代忠政は姉川の戦いに功あって家康から「又々一番の功名」とのことから又一の名と、信国の名槍をもらい、その後の歴戦に活躍、二千五百五十石を与えられた高名の旗本である。信由は忠政の二男で、大坂夏の陣に功あって別に一家をおこし、父の采地大成村五百五十石を分知され、さらに寛永2年(1625)上総国で二百石を加増され、七百五十石の旗本となっている。
采地大成村は信由の息子二代信政、三代信行と襲封、途中信行の代、すなわち延宝元年(1673)に天領となり、明和五年(1768)五代信霽の時、再び小栗家の采地に復し、以後六代信崇、七代信厚、八代信任、九代信将とこれを襲封、明治元年武蔵知事管轄となっている。
信友は忠政の三男で別に一家をおこし、下総国で五百三十石を知行した旗本である。(後略)」
小栗忠政の墓は下写真です。墓には、右側に「元和二年丙辰 施主」中央に「為 源室宗本大禅定門」左側に「九月十八日 敬白」と、法名や命日が刻まれていたようですが、法名等の多くは崩れていて読み取ることが困難ですが、かろうじて「為 源室○○〇〇定門」「元和」「九月十八」等が読めます。

「寛政重修諸家譜」では小栗忠政についてかなり詳しく書かれています。次はその一部です。原文を私なりに現代語訳して記します。
「永禄10年東照宮につかえて、御小姓をつとめた。時に13歳であった。元年姉川の戦いの際、忠政は16歳であった。敵兵が家康のすわっている床几のすぐそばまで攻めてくるのをみて、家康のそばにあった信国の槍をとってわたりあううちに、ありあう人々が集まってきて、その邸を討ち取った。家康は忠政が若年でありながら心きいた働きに感心して、一番槍に等しい働きであるとして先ほどの槍を賜った。この後もまた随一の働きをしたので、感心のあまり、これからは、又一と改めるようにと言われた。(後略)」(※『東照宮御実紀付録巻二』にも、このことが書かれている。)
小栗忠政は、小栗家を中興し、上野国邑楽(おうら)郡(現在の群馬県館林市周辺)、多胡(たこ)郡(現在の群馬県高崎市周辺)、武蔵国足立郡(現在のさいたま市周辺)および下総国矢作領(現在の千葉県香取市周辺)に2550石の領地を拝領していました。小栗忠政が死んだあとは、2000石を長男政信が襲封し、大成村は次男信由が襲封しました。そのため、普門院には、大成を襲封した信由系の歴代当主の墓はありますが、小栗家宗家である長男小栗政信は江戸の保善寺に埋葬され、以降政信系の歴代当主は保善寺に埋葬されることとなりました。なお、保善寺は、江戸時代には、牛込にありましたが、現在は、中野区上高田に移転しています。
小栗忠政の二男信由と三男信友の墓については次回書きます。
下記地図の赤印が普門院です。右下がJR大宮駅です。

