気ままに江戸♪ 散歩・味・読書の記録
2024-03-17T15:42:12+09:00
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江戸や江戸検定について気ままに綴るブログ (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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天海が住職と勤めた喜多院の歴史および慈恵堂《喜多院⑴》(徳川家康ゆかりの地64)
http://wheatbaku.exblog.jp/33283846/
2024-03-15T22:45:00+09:00
2024-03-16T17:37:27+09:00
2024-03-15T21:53:27+09:00
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徳川家康ゆかりの地
先日、川越の喜多院に行ってきました。川越の喜多院は、平安時代に創建されたとされていますが、関ケ原の戦いの前年慶長4年(1599)に天海が住職となり、その天海が徳川家康に深く信頼されたことにより、家康も何回も川越を訪れています。また、家康が亡くなった翌年、久能山から日光に改葬される際には、喜多院に3日間家康の霊柩が安置され供養されました。その縁から、三大東照宮の一つに数えられる仙波東照宮も創建されています。このように、家康と深い関係のある喜多院をこれから数回にわたりご案内します。初回は、まず、喜多院の歴史について書いていきます。下写真は喜多院の本堂(慈恵堂または潮音殿とも呼ばれる)です。喜多院は、平安時代初期、淳和(じゅんな)天皇の勅願により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願所で、無量寿寺と名づけられました。その後、鎌倉時代の元久2年(1205)に兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興させたとき、慈恵大師(元三大師)をお祀りして関東天台の中心となりました。尊海僧正は、講義所として仏地院、修法の場として仏蔵院を建立し、さらに地蔵院を建立したとされています。仏地院、仏蔵院、地蔵院は、のちに、それぞれ、南院、北院、中院と呼ばれるようになります。鎌倉時代後期の正安3年(1301)後伏見天皇(または後二条天皇とも)が東国580ヶ寺の本山たる勅書を下され、天台宗の関東総本山とされました。戦国時代には、後奈良天皇から「星野山」という山号の勅額を下されています。しかし、天文6年(1537)には、小田原北条氏2代の北条氏綱が川越城を攻めた際に焼失し、その後、半世紀余りの間荒廃しました。喜多院の発展に大きな貢献をした天海僧正が慶長4年(1599)に第27世住職となります。慶長16年(1611)11月家康が川越を訪れたとき親しく接見しています。そして慶長17年、仏蔵院北院を喜多院と改めました。(※この、歴史からわかるように、現在、私たちが呼んでいる「喜多院」は、元々は「北院」と呼ばれていたようです。)寛永15年(1638)1月の川越大火で山門(寛永9年建立)を除き建物がすべて焼失しました。そこで3代将軍徳川家光は川越藩主堀田正盛に命じてすぐに復興にかかり、7月に着工しました。まず最初に、東照宮が12月に再建され、江戸城紅葉山の建物が移築され、喜多院の客殿、書院等に当てられました。そして、慈恵堂が翌16年には完成しました。そして、寛永17年には、境内の諸堂もが再建されました。現在、喜多院にある建物の多くがこの時に再建されたものです。 喜多院の本堂は、慈恵堂(じえどう)または潮音殿(ちょうおんでん)とも呼ばれます。(下写真) 慈恵堂(じえどう)とは、比叡山延暦寺第18代座主の慈恵大師良源(元三大師)を祀っている建物であるため、そう呼ばれています。桁行9間(約16.4メートル)、梁間6間(約11メートル)で、建物の中には、中央に慈恵大師、左右に不動明王をお祀りされています。川越大火の翌年寛永16年(1639)10月に建立されたもので、埼玉県の登録文化財となっています。 なお、「潮音殿(ちょうおんでん)」とも呼ばれるのは、喜多院のホームページによれば、「それは昔、広くて静かなお堂の中に入り正座し、耳を澄ませていると、なんと不思議なことにザザザー、ザザザーと、まるで潮の満ち引きのような音が聞こえてきたのだといいます。これには人々も驚き、まるで潮の音のようだというようになり、潮音殿といつしか呼ぶようになったということです。」と書かれています。喜多院の本堂入口の賽銭箱の上を見あげると、そこに「潮音殿」の額がかかっています。(下写真)
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文京学院大学で江戸の貨幣制度についてお話しました。
http://wheatbaku.exblog.jp/33279874/
2024-03-10T17:26:00+09:00
2024-03-11T08:59:25+09:00
2024-03-10T17:26:11+09:00
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未分類
昨日、文京学院大学生涯学習センターで江戸講座が開講されました。今回は、「よくわかる江戸のお金のはなし」と題して江戸の貨幣制度について話してきました。(下写真は文京学院大学の校門の写真です。) 江戸時代の貨幣制度は複雑だとよく言われます。それは、現代の貨幣制度と比較して、①金貨、銀貨、銭貨(せんか)の三種類の貨幣が公認されていたこと。②東日本では金貨が主に使用され、西日本では銀貨が主に使用されていたこと。③それぞれの貨幣の単位が異なっているうえに、金貨は十進法でなく四進法で数えられたことなどによります。 そこで、主に江戸時代の三貨制度を中心に説明しました。三貨制度を創ったのは徳川家康です。徳川家康は、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに勝利し、天下の実権をほぼその手中に収めましたが、征夷大将軍に任じられるより前の慶長6年(1601)5月、慶長小判、慶長一分金、慶長丁銀、慶長豆板銀を鋳造し、全国流通を目的とした統一貨幣として発行しました。 家康は、室町時代まで全国的に流通していた銭貨をべースにして、その頃、産出が増加していた金銀を組み入れて、全国一律に適用される貨幣制度を創り上げました。このことから、徳川家康が初めて貨幣を統一したと評価されています。こうした説明を入り口として三貨制度について詳しく説明しました。 今回のテーマは経済関係のテーマであるため、興味を持たれる方が少ないのではないかと危惧していましたが、いざ蓋をあけてみると30人弱の方が受講してくださり、大変うれしく思いました。しかも、講義の際には、真剣に聞いてくださり、最後の質問コーナーでも多くの人に質問していただき、熱心に受講していただいたことがよくわかりました。(下写真は講義の様子です) 受講いただいた皆様ありがとうございました。 また、アンケートでも、皆さんから継続して江戸のお金の話を聞きたいという感想をいただきました。こうしたアンケート結果に感謝しつつ、江戸の貨幣制度は奥が深いので、さらに深い話ができる機会を設定したいと思いながら帰途につきました。
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竹千代が武運長久を祈願した小梳(おぐし)神社(徳川家康ゆかりの地63)
http://wheatbaku.exblog.jp/33265738/
2024-02-21T22:00:00+09:00
2024-03-17T15:42:12+09:00
2024-02-21T17:40:13+09:00
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徳川家康ゆかりの地
徳川家康は竹千代と呼ばれていた幼い時、今川家の人質として駿府に送られました。小梳神社は、そこ際に今川義元に対面する前にこの神社に立ち寄り、武運長久を祈願したとされている神社です。下写真が社殿です。
JR静岡駅前のビル群の間にあり目印は静岡パルコです。駅からは徒歩5分でお参りできます。下写真は呉服町通りに面した鳥居です。鳥居の向かい側にパルコがあります。
小梳神社についての説明をいろいろ調べてみましたが、神社の境内に掲示されている由緒がもっとも詳しいと思います。(下写真)。それによると、神社の「創建年代はハッキリしませんが、もともとは、現在の静岡県庁の東南の地辺り、すなわち静岡市歴史博物館がある辺りに鎮座していたようです。その地が小梳(おぐし)と言う地名で、小梳(おぐし)という神社名は、この地名に由来するもので、慶長14年(1609)駿府城を拡張した際に城内となり、徳川忠長が寛永8年(1631)に仮宮を造って奉遷し、延宝3年(1675)に現在の地に社殿を造営して遷宮したようです。その由緒(下写真)を転記しておきましたので、詳しくは下記をご覧下さい。
小梳神社 祭神 建速須佐之男命(たけやはすさのおのみこと) 奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)相殿祭神 大己貴命(おおなむちのみこと) 天照皇大神 金山彦命(かなやまひこのみこと) 猿田彦命(さるたひこのみこと)由緒 当神社創建の年代は詳かでないが、静岡市では最も古い神社の一つである。元の鎮座地は、現在の県庁の東南側の所であった。その周辺一帯の地名を古くは小梳(おぐし)と云い、後に東川辺と改められた。惣国風土記に「小梳神社所祭素盞嗚尊・奇稲田姫也。小梳後号東川辺、延喜式安倍郡小梳神社とあるは此社なり」と記載されている。大宝令の定めにより横田駅が設けられて以来は、その守護神として信仰され、貞観の頃より祇園信仰が全国に拡まるにつれて、当神社は少将井神社とも云われ、江戸時代には一般町民からは専ら「少将の宮」と称せられたようである。 この東川辺の地に駿府城が築かれて以来は、府城の守護神としての崇敬が加わり、特に徳川家康が幼時今川家の人質として、当神社の宮前町に居住し撫育につとめた祖母華陽院と共に、日夜武運長久を祈願し、後年家康が大阪夏の陣に勝利し天下を平定して、この駿府城に隠居するにあたり、代々徳川家の守り神と伝わる大己貴命・天照大神二神を、小梳神社に合祀し、少将井五所大神宮と称し、元和元年九月三日に林道春(羅山)に命じて、この由を社講に識さしめ奉献したものが現存している。これよりさき、慶長十四年駿府城の城域拡張により、当神社はその城域内に入った。駿河大納言忠長は、不敬を冒すを畏れ、又庶民参拝の便をはかって、寛永八年に仮宮を造って奉遷し、延宝三年に現在の地に社殿を造営して遷宮した。この造営の事にあたったのは城代松平右近を始めとして町奉行大久保甚兵衛外城番、番頭、加番、目付等である。翌延宝四年から隔年に神幸祭が行われた。この神幸祭はぎおん祭といわれ町奉行、与力、同心が警護にあたり加番集より出し馬があり、駿府の町々は一番より四番まで組合を定め各町より屋台、台の物など踟物を出し駿府全域の町々を巡行した。当時のもようを駿国雅誌には「供奉の行列装束を粧い引連なる踟物の結構は都山王の祭礼に彷彿たり」と記されている。明治八年二月郷社に列し、明治四十年七月県社に昇格した。昭和十五年一月静岡市大火により社殿工作物を悉く失い、同年建築した仮社殿も昭和二十年六月の戦災により再び炎上したが昭和二十五年以来本殿・社務所・手水舎其他現在の建物を順次復興建築した。昭和三十七年三月七日、北白川神宮祭主様が伊勢神宮の坊城大宮司、神社本庁佐々木統理を伴って正式参拝された。例祭日 七月二十七日新庄道雄の石文 駿河国三大地誌の一と高く評価されている評価されている「駿河国新風土記」の著者新庄道雄の碑が、当神社境内にある。平田篤胤の撰文で静岡市文化財に指定されている。 上記由緒の最後に記載されている「駿河国新風土記」の著者新庄道雄の碑は、境内の池の畔に設置されています。(下写真) 下地図の中央が小梳神社です。
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華陽院に眠る駿府の人質時代の竹千代(家康)を養育した源応尼は謎多き人物(徳川家康ゆかりの地62)
http://wheatbaku.exblog.jp/33261812/
2024-02-16T22:45:00+09:00
2024-02-17T22:15:51+09:00
2024-02-16T21:06:30+09:00
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徳川家康ゆかりの地
今日は静岡市内の徳川家康ゆかりの寺社の一つである華陽院(けよういん)を紹介します。華陽院には駿府で人質時代を過ごした徳川家康を養育した家康の祖母源応尼のお墓があります。 華陽院は、JR静岡駅北口から徒歩10分の距離にあります。下写真がお寺入口ですが、正面が本堂です。入口右手は境内に併設されている幼稚園です。 華陽院は、元々、真言宗のお寺で知源院と称しましたが、永禄3年(1560)源応尼が亡くなると当寺に埋葬され、源応尼50回忌の慶長14年(1609)、源応尼の法名をとって華陽院と改め、浄土宗に改宗しました。下写真が華陽院の本堂です。 本堂手前に華陽院について静岡市の説明板があります。それには次のように書かれていました。「華陽院は、徳川家康の祖母・源応尼の菩提寺で、はじめ知源院と呼ばれていた。源応尼は、天文20年(1551年)8月、当時今川家の人質となっていた竹千代(後の家康)の養育者として岡崎から招かれ、知源院の近くに寓居を構えた。源応尼の親身の愛情は、肉親と遠く離れて淋しく暮らしていた幼い竹千代の心を大いに和ませた。竹千代は、源応尼の寓居と田んぼをはさんで隣りあったこの寺へよく遊びに来たが、竹千代を慈愛の心を持って迎え、時には文筆の師となって訓育したのが、住職知短であった。 源応尼は、永禄3年(1560年)5月6日、成人した徳川家康が、今川義元上洛の先陣として浜松にあるとき、駿府で逝去した。後年、大御所として駿府に隠退した家康は、祖母のために盛大な法要を営んだ。「華陽院」の名は、その法名から改められたものである。 境内には、源応尼の墓と並んで、7歳で死んだ家康の五女市姫の墓が、近くには側室お久のかたの墓もある。主な寺宝 団扇(家康が使ったもの) ひなた屏風(市姫が使ったもの) 静岡市 」 源応尼のお墓は、本堂西側の墓所の中にあります。(下写真) 源応尼については、静岡市の説明板の通り、幼い頃の徳川家康の養育にあたったとされています。しかし、源応尼の素性についてははっきりしておらず謎が多いようです。『新編岡崎市史2(中世)』(国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます)の中に「家康誕生」という項目の中で源応尼(於富)に関して触れられていますので紹介します。『新編岡崎市史』では、「家康の父は広忠(16歳)、母は水野忠政の女(むすめ)於大(15歳)。二人の婚姻は、天文10年のことであったが、この婚姻は政略的なものであるとともに祖父清康の影をひいたものであった。」と書かれたあと、「清康の影とは、(中略)、広忠は清康と青木貞景の女との間の子、於大は忠政と大河内元網養女於富(宮前七女、一説に尾張の青木式宗女)との間の子で、於富は忠政の死後は清康の妾となったから、広忠と於大は父母は異なるものの兄妹という関係によるというものである。」と、まず松平広忠と於大は父母は違うものの兄と妹という関係になると書いてあります。 その後で、家康の祖母源応尼(実名は於富)について『新編岡崎市史』では、次のように説明しています。「広忠と於大は兄妹となるが、問題になるのは清康の三人目の妻という於富である。『松平記』は於富は水野忠政没後清康の室となったというが、忠政は清康に遅れること7年の天文12月7月12日に51歳で没しているから、これは正しくないことになる。また忠政と於富の間の子とされている5人のうち生年の知られる四人の生まれは、忠守が大永5(1525)年、於大が享禄元(1528)年、忠分が天文6(1537)、忠重が天文10(1541)年となっており、於大と忠分の間に近信がいることを考えると、於富は清康の妻となった可能性は皆無といってよかろう。それにもかかわらず、『松平記』のみならず近世の幕府編纂の諸書までが、於富は清康の死後は星野秋国、菅沼興望、川口盛祐とさらに三度嫁したというのは、一体何によった話であろうか。さらに竹千代(家康)の駿府在住時代に、源応尼と称して16歳まで養育し、70余歳で永禄3(1560)年に没したというにいたってはどう解釈してよいのか判断に苦しむ。守山崩れで清康が25歳で死んだ折、於富は40歳をこえていた計算になるからである。」 赤字部分に書いてある通り、源応尼(於富)は、静岡市の説明とは異なり、非常に謎の多い人物だという説もあるようです。 そのうえで、『新編岡崎市史』では最後に「於富をめぐる謎も時代のしからしめるところであったといえそうである。」と書いています。戦国時代は謎のことが多く、源応尼の謎もその一つということのようです。 華陽院の源応尼のお墓の手前には、3歳で亡くなった家康の五女市姫のお墓があります。(下写真)下地図中央が華陽院です。
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徳川家康の継室旭姫のお墓がある瑞龍寺(徳川家康ゆかりの地61)
http://wheatbaku.exblog.jp/33258271/
2024-02-12T22:45:00+09:00
2024-02-13T10:28:26+09:00
2024-02-12T20:53:22+09:00
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徳川家康ゆかりの地
これまで久能山東照宮を紹介してきましたが、久能山東照宮をお参りした際に、静岡市内の徳川家康ゆかりの寺社である瑞龍寺、華陽院、小梳(おぐし)神社をお参りしてきました。これらの寺社についても、まだごブログで紹介してありませんので、これから数回にわたりご紹介します。 瑞龍寺は家康の継室旭姫のお墓があり、華陽院は家康の祖母華陽院のお墓があります。小梳(おぐし)神社は家康が人質として駿府に入った際に最初にお参りした神社と言われています。これらの中から今日は、旭姫のお墓がある瑞龍寺を紹介します。 瑞龍寺は JR静岡駅前から、路線バスの「しずてつジャストライン安倍線または美和大谷線」で「材木町バス停」下車して徒歩2分です。 瑞龍寺は、永禄3年(1560)、曹洞宗長源院(静岡市葵区沓谷)の5世大和尚でもあった能屋梵藝(のうおくぼんげい)大和尚が開山した曹洞宗のお寺だそうです。下写真が寺院入口から撮った瑞龍寺全景です。 家康の継室旭姫は、滞在先の京都で死去し東福寺南明院に埋葬されましたが、瑞龍寺にも分骨されたといいいます。旭姫のお墓は本堂の裏側の山腹に西を向いて建てられています。(下写真)旭姫は天文12年(1543)、尾張国(愛知県)中村で生まれました。父竹阿弥は母なかの再婚相手です。豊臣秀吉は、なかの前夫木下弥右衛門となかとの間に生れており、旭姫は秀吉の異父妹になります。一方、豊臣秀長とは父を同じくする兄妹です。天正12年(1584)、家康は小牧・長久手の戦いの後、二男秀康を人質として秀吉のもとに送ったものの家康自身は上洛しませんでした。そこで、秀吉は家康の上洛を促すため、築山殿が亡くなった後正室のいなかった家康に対して、旭姫を正室として輿入れさせました。旭姫はこの時、秀吉の家臣佐治日向守(また副田吉成との説もある)の妻であり、家康に嫁がせるため離別させたと伝えられています。 旭姫は天正14年(1586)5月、京都を発って浜松城にいる家康に嫁ぎました。この時、旭姫は44歳、家康45歳でした。その後、天正14年10月に家康は上洛し、秀吉に臣従しました。そして、家康は旭姫とともに同年12月、浜松城から駿府城に居城を移しました。駿河御前と呼ばれた旭姫は、天正16年(1588)に生母大政所の病気を見舞うため上洛し、その後、いったん駿府に戻りました。その後、再び上洛しましたが、この時、病気となり二度と駿府に戻ることはなく、天正18年(1590)1月14日に亡くなり、京都・東山にある東福寺南明院に葬られました。48歳でした。法名は「南明院殿光室総旭大禅定尼」と言います。家康は天正18年南明院から分骨して瑞龍寺に旭姫の墓を建てました。旭姫が駿府に住んでいた間、しばしば瑞龍寺に参詣した縁があったためだと瑞龍寺には伝わっているようです。瑞龍寺での法名は「瑞龍寺殿光室総旭大禅定尼」でした。なお、秀吉が小田原攻めで駿府に立ち寄った際、旭姫を供養するため墓を建てたとの説もあるようです。お墓の前には旭姫について解説した説明板も建てられています。(下写真)豊臣秀吉は、旭姫が他界した年に、小田原の北条攻めを行い、関東に向かいました。7月には、北条氏政・氏直親子が降伏し、北条氏は滅亡しました。小田原攻めを完了し畿内に帰る途中、秀吉は天正18年8月22日、駿府に立ち寄った際に瑞龍寺に参詣、旭姫を供養したといいます。秀吉はその際、瑞龍寺に8貫文の寺領を寄進した領地安堵の朱印状を発給しています。下写真が瑞龍寺の本堂です。なお、北条氏が滅亡した後、秀吉は、家康を関東に移封し、東海道筋には、秀吉子飼いの武将たちを配置し、駿河には中村一氏を配置しましたので、秀吉が瑞龍寺を訪ねた時の駿府城主は中村一氏でした。この時、秀吉が与えた朱印状が現存しており、瑞龍寺の寺宝の一つとなっていて、2023年4月に静岡市の文化財に指定されています。この朱印状と同時に①秀吉はが小田原征伐からの帰途に立ち寄って際に与えた「桐紋蒔絵膳」、②旭姫所用したと伝わる「桐沢瀉紋立湧模様打敷(小袖)」⓷「瑞龍寺由緒書」に家康より旭姫のために奉納されたとの記載がある「釈迦三尊・十六羅漢絵像(三幅一対)」④「覚(瑞龍寺由緒書)」も静岡市の文化財に指定されています。上記文化財は2023年11月18日(土)・19日(日)には特別公開されたようです。境内には、、芭蕉の句碑・時雨塚やキリシタン灯篭などがあります。下写真が芭蕉の句碑・時雨塚です。下写真がキリシタン灯籠です。 下地図の中央が瑞龍寺です。 静岡浅間神社の近くです。浅間神社の赤鳥居からは徒歩約7分の距離です。
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文京学院大学の江戸講座「よくわかる江戸のお金のはなし」のご案内
http://wheatbaku.exblog.jp/33254273/
2024-02-08T22:46:00+09:00
2024-02-09T14:32:45+09:00
2024-02-08T20:47:59+09:00
wheatbaku
未分類
今日は、文京学院大学の江戸講座のご案内をさせていただきます。 文京学院大学生涯学習センターで来る3月9日に「よくわかる 江戸のお金のはなし」というタイトルで講義をさせていただきます。 江戸時代の貨幣制度はよく複雑だといわれます。例えば、金貨、銀貨、銭貨の三種類の貨幣が通用した三貨制度であることも現代からみると複雑です。さらに東日本で主として通用していたのが金貨であるのに対して西日本では銀貨が主として流通していました。同じ国の中で主に通用する貨幣が異なっているということになりますので複雑と言えば複雑です。こうしたことから現代と比べると大変複雑だと感じることもあると思います。 しかし、江戸時代の貨幣制度の基礎知識があれば、それほど難しくはありません。そこで、今回の講座では、江戸時代の貨幣制度の基礎的な知識を簡明に解説します。 江戸時代の貨幣制度の基礎知識があれば、時代小説や時代劇でお金の話がでてきても戸惑うことはありません。 この機会にぜひ江戸時代のお金の知識を学んでみてはいかがでしょうか?【講座の開講日時等】 日程 3月9日曜日・時間 土曜日 10:00~12:00受講料 3,200円 詳しい講義内容および受講申し込みは下記ホームページをご覧ください。 文京学院大学の江戸講座 「よくわかる 江戸のお金のはなし」 なお、江戸時代の貨幣制度の確立には徳川家康が大きく関わっています。関ヶ原の戦いに勝利して、天下の実権をほぼその手中に収めた徳川家康は、政治機構の整備にさきだって、全国流通を目的とした慶長金銀を制定しました。これが統一貨幣として流通するようになりました。そのため、徳川家康は天下統一のみならず貨幣も統一したと評価されています。
こうしたことも講座の中では説明したいと思っています。
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久能山東照宮の表参道から眺める駿河湾は絶景《久能山東照宮⑸》(徳川家康ゆかりの地60)
http://wheatbaku.exblog.jp/33249007/
2024-02-04T22:27:00+09:00
2024-02-04T22:27:16+09:00
2024-02-04T18:28:18+09:00
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徳川家康ゆかりの地
前回まで、久能山東照宮の社務所から上にある御社殿や廟所等をご案内しました。ここを参拝した後、私は表参道を下りましたので、今日は表参道をご案内します。表参道は山麓の「山下石鳥居」から本殿前までの石段が1159段あります。昔の人は「いちいちごくろうさん」と洒落を言いながら登ったそうです。日本平ロープウェイが開通するまでは、表参道が唯一の参拝路でした。現在でも東照宮の神職さんたちは毎日歩いて登るそうです。私は1159段の石段を登る自信がなかったので参拝した後に石段を下りましたが、表参道から見る駿河湾は絶景でした。体力に自信のある方は、ぜひ表参道にチャレンジしてみると良いと思います。下写真は一ノ門から見た駿河湾です。さて、それでは、社務所近くにある久能山東照宮博物館から山下の石鳥居までご案内します。《久能山東照宮博物館》 社務所の近くに久能山東照宮博物館があります。(下写真)久能山東照宮博物館は、久能山東照宮に付属する博物館です。館内は撮影禁止でしたので、写真は撮れませんでしたが、館内には徳川家康が関ケ原の戦いの際に着用していた「歯朶具足(しだぐそく)」や「どうする家康」で話題になった「金陀美具足(きんだみぐそく)」が展示されていました。また、有名なスペイン国王フェリペ3世が家康に贈った洋時計も展示されていました。私が特に注目したのは徳川家康の身の回りの品々で当時のメガネである「目器」(重要文化財)、薬好き家康が使用したという薬調合用の「青磁鉢」と「乳棒」、さらにガラス製の「びいどろ薬壷」(いずれも重要文化財)などが展示されています。それぞれが一見の価値のあるものばかりでした。《勘介井戸》 博物館を見てから下に下ってくると左手に「勘助井戸」があります。(下写真)勘助井戸は、戦国時代に武田信玄の軍師山本勘介が掘ったと伝えられているそうです。久能山東照宮の前にあった久能城は山本勘助が築城にかかわったという言い伝えがありますので、そうしたことを踏まえたものだと思われます。勘助井戸のある場所は見晴台ともなっています。下写真は見晴台から眼下に見える石垣イチゴの温室群です。《一ノ門》 勘助井戸がある見晴台からすこし下ると一ノ門が見えてきます。(下写真)久能城があった頃はここに大手門があったそうです。一ノ門は元は櫓門でしたが、明治17年9月15日の暴風雨風によって倒壊したため、平屋に改築されたものです。現在の一ノ門は、城門風となっていて屋根は左右切妻造りの銅板葺きです。ここからは駿河湾、伊豆半島はもちろん望むことができますし、御前崎までも見ることができるようです。下写真は一ノ門前から東方向を見た写真ですが、正面に見える山景は伊豆半島です。下写真は一ノ門前から見た表参道の石段です。表参道がどのような様子なのかわかると思います。《門衛所(もんえいしょ)》 久能山東照宮の一ノ門を警護および東照宮そのものの警備を江戸時代に担当したのが「総門番」という役職でした。この役職は榊原照久を初代とする榊原氏が世襲していました。一の門内の正面に建っている建物が門衛所(下写真)で、ここで、総門番榊原氏配下の与力が人ずつ昼夜交代で勤務していました。ここは、上番所と呼ばれ、与力が詰めていたようです。ここの西側には同心8人ずつが与力同様、昼夜交代勤務していた下番所が置かれていましたが、下番所があった建物は残っていません。門衛所は明治24年4月に改築されたものです。昨日は、節分でしたが、久能山東照宮では、節分には「古儀節分祭」が執り行われるようです。久能山東照宮の古儀節分祭は、徳川家康が駿府城にいる頃、城の門ごとに鬼撃木(おにうちぎ)を飾ったことに由来しているそうです。当日は、宮司の祝詞奏上ののち、神前にお供えした豆をおさげして、石の間にて「豆打ちの儀」を行い、神職2名が楼門、一ノ門にてそれぞれ豆打ちの儀を行い、除災招福を祈願するそうです。一ノ門には、「鬼撃木」が打ち付けられていました。鬼撃木は長さが55㎝ほどです(下写真)。久能山東照宮では鬼撃木の御札も販売しているそうです。《表参道の途中》 下写真は、表参道の中で長坂と呼ばれている付近の石段を下から撮ったものです。見事な石段です。下る時はまったく苦になりませんでしたが、登るのは大変なんでしょうね。《駿河稲荷神社》駿河稲荷神社は山下の石鳥居より少し参道を登った左側にある久能梅林入口に鎮座しています。下る際には、この稲荷神社が見えてくるとまもなく表参道も終わりとなります。(下写真) 駿河稲荷神社は元久能山目代(代官)であった杉江家が伏見稲荷大社から勧請してお祀りしていましたが、昭和57年に現在の地に遷されたものです。《徳音院》 急な石段を下りきって、山麓の鳥居が見えてくると鳥居に向かって参道の左手(東側)に徳音院というお寺があります。(下写真)徳音院は、久能山東照宮が神仏習合として祀られていた江戸時代には、久能山東照宮の別当・学頭を勤めていました。久能山東照宮が神仏習合であった時代の名残りを残す寺院です。お堂に掲示されていた「久能山徳音院縁起」に次のように書かれていました。「徳音院は徳川家康をはじめ三代将軍に仕えた南光坊天海(慈眼大師)により開かれたお寺です。御本尊は家康ゆかりの薬師如来で、そのほか不動明王、財福聖天、厄除開運の両大師をおまつりする駿河の霊場です。徳川家康は元和2年4月17日に亡くなり遺命により久能山へ納められました。家康を神様としてお祀りするにあたり、将軍秀忠は天海の主唱する山王一実神道で東照大権現の神号をいただき、元和3年4月には天海大僧正により日光山に改葬されました。家光の代には久能山にも社殿及び寺院ができ、徳音院はその学頭として江戸時代は栄えておりました。ところが明治になって山上の寺院は取り壊されて、麗の徳音院だけが元三、慈眼両大師堂として残されました。」《石鳥居》 山下の石鳥居は、高さ6.5メートルあります。大正4年4月17日、東照宮三百年祭を記念して奉納されました。(下写真)下写真が石鳥居の前から見上げた久能山東照宮です。急な断崖であることがよくわかると思います。
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久能山東照宮の御社殿は国宝、その他の建造物は重要文化財《久能山東照宮⑷》(徳川家康ゆかりの地59)
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2024-01-31T22:00:00+09:00
2024-02-01T14:30:03+09:00
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徳川家康ゆかりの地
久能山東照宮は、御社殿(本殿・拝殿・石の間)が国宝に指定されているほか、13棟の建造物が重要文化財に指定されているという文化財の宝庫です。国宝の御社殿(本殿・拝殿・石の間)のほか、重要文化財に指定されている13の建造物はつぎのとおりです。⑴楼門、⑵神厩(しんきゅう)、⑶鼓楼(ころう)、⑷神饌所(しんせんじょ)、⑸神楽殿(かぐらでん)、⑹神庫(しんこ)、⑺日枝神社本殿、⑻東門、⑼唐門、⑽玉垣(たまがき)、⑾渡廊(わたりろう)、⑿廟門(びょうもん)、⒀神廟(しんびょう) 前回は⑴楼門から⑺日枝神社本殿までご案内しましたので、今日は、⑻東門以降の重要文化財を紹介します。⑻東門 御社殿(本殿、拝殿、石の間)にお参りするルートは日枝神社をお参りした後お参りするルートでした。このルートで日枝神社から東照宮の拝殿にお参りする際に門があります。これが東門です(下写真)。久能山東照宮のホームページには、この東門が重要文化財の一つとして紹介されていませんが、文化庁の文化財データで確認すると東門が重要文化財に登録されています。 ⑼唐門(重要文化財)拝殿正面にある門で、屋根は銅瓦本葺黒漆塗の四方唐破風造の門です。下写真は、正面からみた唐門です。
⑽玉垣(重要文化財)玉垣は御社殿の周囲にめぐらされた垣です。玉垣の腰に透彫の彫刻があります。下写真の奥は拝殿前から見た唐門でその手前に写っているのが玉垣です。
【御社殿《国宝》】御社殿は、本殿、拝殿、そして本殿と拝殿をつなぐ石の間からなっています。この本殿、拝殿、石の間からなる様式は「権現造」と呼ばれています。数多くの東照宮がこの様式で建てられています。元和3年(1617)に江戸幕府大工棟梁中井大和守正清により建立されました。平成22年に国宝に指定されました。下写真は東門から撮った拝殿です。※拝殿の蟇股には甕割(かめわり)の彫刻があります。これは中国の故事で、政治家芝温公が子供の頃、一緒に遊んでいた友達が水甕(みずがめ)に落ちてしまし、それを救うために高価な甕を割ったというお話です。「命の大切さ」を表していると言われています。※逆さ葵 社殿の軒先をみると葵の御紋が逆さになっている部分があります。これは建物が未完成であることを表していて、さらなる発展への願いが込められているそうです。下写真の2段目の左から5番目の葵が逆さになっています。
下写真は、左手からから写した拝殿です。 上写真を撮ったあとふとふりかえると「山下より1159段、家康公御廟所まで40段」と書かれた説明板がありました。久能山の山麓から徳川家康のお墓までは約1200段の石段を登るんですね。すごい石段の数です。⑾廟門(重要文化財)廟門は、本殿の後方西側にある廟所に通ずる門です。以前は御宝塔御門と呼んでいたそうです。⑿渡廊(わたりろう:重要文化財) 渡廊は、重要文化財に登録されていますが、久能山東照宮ホームページの境内図および境内案内にも載っていませんでしたので、久能山東照宮博物館に問い合わせて尋ねました。すると渡廊は、神饌所(しんせんじょ)から御社殿に通じる廊下だそうです。東照宮に勤めている人たちだけが利用できる部分で一般に公開していないので、境内図や境内案内には載せていないとのことでした。一般公開していないため写真も撮れませんでした。⒀神廟(しんびょう)(重要文化財) 神廟は御社殿からは40段の石段を登ります。文化庁では廟所宝塔と呼んでいるようです。ここは徳川家康の遺骸を埋葬した所です。以前は御宝塔と称していたそうです。 元和2年(1616)の創建当初は木造桧皮葺の造りでしたが、寛永17年(1640)に3代将軍徳川家光により現在の石造宝塔に造替されました。宝塔の高さは、5.5メートル、外廻り約8メートル、前面に唐戸があります。軒の四隅に唐銅の風鐸が掛かっています。神廟は徳川家康の遺命により西を向いています。※金のなる木 宝塔の右脇に「金のなる木」と呼ばれている楠があります。 その根元の説明板には次のように書かれています。「ご祭神徳川家康公の多くの遺話の中に「金の成る木」があります。これには前面右の楠の大樹がふさわしいと思われます。徳川家康公が家臣に『金の成る木』について問われたところ誰も知らず、家康公は自ら筆をとられて幹三本を描き、『よろず程のよ木(万ほどの良き)』『志ひふかき(慈悲深き)』『志やうぢ木(正直)』と懸かれ、「これを常々信用すれば必ず富貴が得られよう」と言われたそうです。その後、細川忠興公がこれに左右の枝を描き『あさお木(朝起き)』『いさぎよ木(※潔き)』『志んぼうつよ木(※辛抱強き)』『ゆだんな木(※油断なき)』『ようじょうよ木(養生よき)』『かないむつまし木(※家内睦まじき)』と書き加えられ、(※家康は)「左右の枝が繁昌するならば一段と富貴が得られるであろう。皆々この『金の成る木』を写し取って家内のものに教えるように」と命ぜられたといいます。」※家康公愛馬之霊所 宝塔の裏側の右手奥に『家康公愛馬之霊所』という木札が建てられています。久能山東照宮ホームページの神厩(しんきゅう)の説明に「家康公の愛馬は神廟裏手石垣の南隅に埋葬されたとされています」と書かれていますが、ここが徳川家康の愛馬が埋葬された場所のようです。
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久能山東照宮は重要文化財の宝庫《久能山東照宮⑶》(徳川家康ゆかりの地58)
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2024-01-27T22:00:00+09:00
2024-01-27T22:51:07+09:00
2024-01-27T20:34:29+09:00
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徳川家康ゆかりの地
そこで拝観料を支払って北方向に向かって登り坂となっていますので、そこをからも約100段の石段を登っていくと御社殿に到着します。さらにその上に家康が埋葬された神廟があります。下写真がロープウェイの久能山駅に掲示されていた東照宮の境内図です。久能山東照宮は御社殿(本殿・拝殿・石の間)が国宝に指定されているほか、13棟の建造物が重要文化財に指定されているという文化財の宝庫です。国宝の御社殿(本殿・拝殿・石の間)のほか、重要文化財に指定されている13の建造物はつぎのとおりです。国宝の御社殿は元和3年(1617)建立され、13の重要文化財のうち唐門は元和3年建立ですが、残りはすべて元和4年に建立されています。⑴楼門(ろうもん)、⑵神厩(しんきゅう)、⑶鼓楼(ころう)、⑷神饌所(しんせんじょ)、⑸神楽殿(かぐらでん)、⑹神庫(しんこ)、⑺日枝神社本殿、⑻東門、⑼唐門、⑽玉垣(たまがき)、⑾渡廊(わたりろう)、⑿廟門(びょうもん)、⒀神廟(しんびょう) 東照宮の楼門の先にある建物はほとんどが国宝か重要文化財ということなります。そのため、国宝・重要文化財すべてを書くと長くなるので、今回は⑴楼門から⑺日枝神社本殿までご案内します。⑴楼門(ろうもん:重要文化財)社務所受付を通ると左手に見える朱塗りの大きな門が楼門です。 2階建ての門で、軒下中央に第108代後水尾天皇の宸筆「東照大権現」の扁額が掲げてあります。その為、「勅額御門」とも言われています。 楼門中央の蟇股(かえるまた)に獏(ばく)の彫刻が彫られています。獏は鉄や銅を食料とすることから平和の象徴とされるそうです。 表側左右の格子戸内に随身(ずいしん)、裏側左右の金剛柵内に狛犬が据えられていますが、写真を撮り忘れました。楼門の裏側の左手には家康の手形がありました。この手形を写した色紙【1500円】を販売していました。(下写真)※家康梅 楼門をくぐった右手には家康がお手植えをしたといわれている「家康梅」が植えられています。(下写真) 説明板には次のように書かれていました。「家康梅 奉納者丸子梅園 徳川家康公は生前“梅”をこよなく愛され、中でもこの『家康梅』は水戸の初代藩主頼房公(家康公十一男)の出産を祝い、無事成長を祈り家康公自らお手植えされたと伝わる。当初は浜松城内で栽培されていたが、後に水戸に移され、その後静岡の丸子梅園にて接ぎ木して育成したものを由緒深き久能山東照宮に植樹されたものである。」なお、徳川頼房は、慶長8年(1603)に伏見城で生れています。⑵神厩(しんきゅう:重要文化財) 楼門をくぐった左手に神厩があります。神厩とは馬小屋のことです。 創建当時は徳川家康の愛馬を飼育していたそうですが、現在は、木像の神馬が納められています。この木像の神馬は名工左甚五郎作と伝えられているそうです。なお、家康の愛馬は神廟裏手石垣の南隅に埋葬されたとされています。⑶鼓楼(ころう:重要文化財)楼門一帯から石段を上がると右手には鼓楼があります。鼓楼は、創建当時は、鐘が吊るされていたため鐘楼と呼ばれていましたが、明治初年の神仏分離の際に鐘を太鼓に替えたことにより鼓楼(ころう)と改められたそうです。※五重塔跡 鼓楼の向かい側に江戸時代には3代将軍家光により建立された高さ約30メートルの五重塔がありました。しかし、明治時代の神仏分離の際に取り払われて、礎石だけが残されています。五重塔の跡には蘇鉄が植えられていますが、これは駿府城内にあった蘇鉄が移植されたものです。⑷神饌所(しんせんじょ:重要文化財)、⑸神楽殿(重要文化財) 鼓楼のある場所から一段高くなった場所(唐門の下)の左手(西側)に神饌所、右手(東側)には神楽殿があります。下写真の中央が唐門、左手が神饌所、右手が神楽殿です。神饌(しんせん)とは神様へのお供え物のことで、神饌所はそれを準備する所です。神楽殿の西側に位置し渡廊によって社殿と連結しています。毎朝、神職が奉仕する日供祭を始め、すべて神様にお供えする神饌は、ここで調理されているようです。※実割梅(みわりうめ)神饌所の前で唐門下にあたる場所に「実割梅」と呼ばれる梅があります。 実割梅は徳川家康が駿府城で自ら育てていたものだそうです。江戸時代、駿府城ではこの実割梅から梅干を漬け、東照宮に納める仕来りだったそうです。明治9年2月25日に駿府城から東照宮へ移植されました。⑹神庫(しんこ:重要文化財)神楽殿の北東に奈良の正倉院と同じ校倉造りの建物がありますが、これが神庫です。東照宮博物館ができるまでは神社の宝物類が納められていたそうです。写真はちょっとぼけてしまっていますがご容赦ください。⑺日枝神社(重要文化財) 御社殿の東側に日枝神社があります。御祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)です。創建当時は本地堂(ほんじどう)として薬師如来像が安置されていました。東照大権現の本地仏(ほんじぶつ)は薬師如来だとされていますので、薬師如来を祀ってあることから本地堂と呼ばれました。明治時代の神仏分離により、薬師如来像を移し、楼門内東側に鎮座していた山王社の御神体を納めて日枝神社と改めたとのことです。
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久能山東照宮は、久能城の城跡に造営された!《久能山東照宮⑵》(徳川家康ゆかりの地57)
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2024-01-23T22:45:00+09:00
2024-01-24T09:22:01+09:00
2024-01-23T20:39:22+09:00
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徳川家康ゆかりの地
日本平ロープウェイの久能山駅に到着すると久能城の二の丸の石垣と言われている石垣があります(下写真)。見るからに城の石垣です。 ロープウェイの駅を降りると社務所前に久能山の歴史を書いた説明板が設置されています(下写真)。
その説明板には次のように久能山の歴史が簡潔に書かれています。『史跡久能山』指定年月日 昭和34年6月17日一、指定理由 久能山はおよそ7世紀の頃に開かれ久能忠仁の建立した久能寺、武田信玄の築城した久能山城、徳川2代将軍秀忠公の創建した東照宮とその時代時代の歴史の変遷の跡を見ることが出来る。一、久能寺 久能山縁起によれば7世紀の頃に秦氏の久能忠仁が一寺を建て、補陀洛山久能寺と称したと伝えられる。その後、平安時代から鎌倉時代にかけて隆昌を極めたが、山麓の失火により山内のほとんどの坊等が焼失した。今川時代には相当復興した。一、久能山城 永禄11年(1568)12月武田信玄は、当山が要害の地である事を知って、寺院を清水来た矢部に移し、城砦を築いて久能山城と称した。天正10年(1582)武田氏が滅亡したことで徳川氏の所有となった。山上の勘助井戸、愛宕の曲輪等は当時を物語るものである。一、東照宮 徳川家康公は、生前久能山城を駿府要害の地なりとして重要視し、かつ風光を愛せられた。元和2年(1616)4月17日家康公が、駿府(静岡)に没する時の遺言により、この地に埋葬され、2代将軍秀忠公は、壮麗な権現造りの社殿を造営した。これが現在の東照宮で、14棟が国宝・重要文化財に指定されている。 この説明板に久能城と久能山東照宮の位置関係が示されています。これを見ると東照宮が久能城(説明板では久能寺山城となっている)の跡に造営されたことがよくわかりますので、拡大しておきます。 久能山には、久能忠仁が創建した久能寺という寺院が戦国時代までありました。それを移設して久能城を築城したのは武田信玄でした。武田信玄は、永禄11年(1568)に今川家との同盟を破棄して駿河国に攻め込みました。その際に要害の地である久能山に城を築きました。それが久能城です。 久能城築城の経緯が『甲陽軍鑑』に書かれていると『駿河国新風土記』に書いてあります。『駿河国新風土記』は新庄道雄(1776~1835)が文化13(1816)年から天保5(1834)年にかけて記した全25巻の風土記で、江戸時代を代表する地誌の一つです。昭和8年に『修訂駿河国新風土記』として出版され国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。『駿河国新風土記』に紹介されている『甲陽軍鑑』の久能城築城の部分を現代語訳すると次のようになります。「庵原(いはら)弥兵衛という侍は小身ではあるけれども武道の覚えがあって今川家において人が認めた者であったが、昔、山本勘助に物を習ったと聞いて、ただちに召し抱えて、この辺りに少人数が立て籠って、大勢で攻められても陥落しない堅固な地はないかと尋ねると、『久能という山は、弓鉄砲を持って千人いれば、日本中の軍勢が攻め寄せても(攻略することが)成功しないと、勘助が当地で浪人している時にたびたび語っていました』と申し上げた。そこで、この場所に(城を)築いて、弓鉄砲弾丸兵糧三年分を蓄えて、今福浄閑とその息子丹波に40騎の軍勢を与えて籠らせた。」 これを読むと、久能山に城を築くと良いと考えたのは伝説的軍師の山本勘助だったようです。現在も久能山東照宮に久能城の名残りとされている勘助井戸と名づけられた井戸が残されています(下写真)。「勘助井戸」という名称は、久能城築城について最初に発案したのが山本勘助だったという伝承が影響していると思われます。『徳川家康と武田氏』(本多隆成著)p59には「(前略)信玄はついに駿府から撤退することを決断した。4月19日付けで『左衛門太夫』宛と『久能在城衆・番手衆』宛の信玄定書(さだめがき)が出されている。前者は横山城(静岡市清水区) の穴山信君(のぶただ)宛のもので全15カ条、後者は久能城(静岡市駿河区) の板垣信安ら在城衆・番手衆宛で全10カ条となっている それぞれ詳細な規定を行っており、信玄が再度駿河に侵攻するまで、両城を堅守するよう命じた」 と書いてあり、一次史料が残されているようです。その史料によれば、武田信玄の第一次駿府侵攻が成功しなかったため、信玄自身は甲斐に撤退するものの久能城には板垣信安が城将として留まったようです。 その後、武田家が滅亡し、天正11年(1583)に駿河が徳川家康の領国となった際に久能城は家康の異父弟松平勝俊が城主となりました。松平勝俊は天正14年に亡くなり、その跡を水野忠分の五男の勝政が継いでいて、『寛政重修諸家譜』では、勝政が久能山城主となったとは書いてありませんが『駿河国新風土記』が引用している『改撰諸家系譜』の松平勝政の項には「天正12年に父(勝俊)の家督を継ぎ駿州久能城五千石を拝領する」と書いてありますので、勝政も久能城主となったと思われます。『駿河国新風土記』によると、その後、天正18年に徳川家康が関東に転封となると駿河国は中村一氏が領するようになりましたが、誰が城主となったかは不明のようです。そして、慶長6年(1601)以来大久保忠政が城主となり、慶長11年(1606)3月榊原清政を館林から呼び寄せ3千石を与えて、久能城を守らせました。そして、慶長12年に榊原清久が亡くなると、その子照久に久能城を預けたと書いてあります。 そして、元和2年(1616)、徳川家康が亡くなるに際して、榊原照久に対して、亡くなった後も家康を守るように遺言しました。このことは既に下記ブログで書きましたので、詳しくは下記ブログをお読みください。
この徳川家康の遺言に従って、榊原照久は久能山東照社の祭主として家康をお祀りし、その子孫も「久能惣門番」として東照宮を守りました。久能惣門番は久能山東照宮の一の門(下写真)の警護はじめ久能山東照宮の警護にあたる役職です。『駿河国新風土記』には次のように書かれています。「榊原氏居館は久能山城坂下道の西にあり、久能惣御門番とて与力八騎同心三拾人にて日夜交代して一の御門の御番をつとむ。(中略)当主榊原越中守照郷、高千八百石、御役淵二百人扶持、交代御寄合衆というものにて此所を在所とす、毎年十二月恩暇を賜りて百日の間久能の居館にあり、榊原氏祖従二位照久卿、東照宮の祭主に補任せられて居し所は今の御山上なる御台所下の平に居る、その子従五位下照清、正保年間神主の職を辞して本国伊賀国に退去す。慶安四年7月与力同心を預け賜りて今の役となる。その後より今の館にうつる。この郡もと浄念寺といいし寺ありし所なり、その寺は今の照久寺なり。」 久能総門番の榊原家の屋敷は、久能山東照宮の表参道の西側にあったようです。私は、現在は西台院別院となっている元の照久寺の近隣にあったのではないかと私は推測しています。 久能山の歴史が書いてある説明板が設置されている場所から見た駿河湾の景色が次の写真です。 そして、山麓から見た久能山が下写真です。これらを見ると久能山が要害の地であることがよくわかります。久能城という城が築かれたのも当然と感じました。
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日本平からの富士山は絶景《久能山東照宮⑴》(徳川家康ゆかりの地56)
http://wheatbaku.exblog.jp/33224672/
2024-01-19T22:45:00+09:00
2024-01-24T09:12:46+09:00
2024-01-19T20:18:06+09:00
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徳川家康ゆかりの地
昨年は、大河ドラマ「どうする家康」に関連して多くの「徳川家康ゆかりの地」を訪問しましたが、これまでは「どうする家康」の展開にあわせてコメントしていたため、「徳川家康ゆかりの地」で訪問していたもののまだ投稿できていないものが数多くあります。その一つが久能山東照宮です。久能山東照宮には1年前の2023年1月31日にお参りしましたが、まだ投稿していませんので、これから数回に分けてご紹介します。久能山東照宮へは、乗用車またはバスで直接お参りすることができません。日本平から日本平ロープウェイを利用してお参りするルートか久能山の南側の海沿いの山麓から1159段の石段を登ってお参りするルートしかありません。 私は、1159段の石段を登る自信がなかったので、行きはJR静岡駅から「しずてつジャストライン日本平線」を利用して日本平まで行き、ロープウェイを利用して久能山東照宮をお参りした後、1159段の石段を下って、「しずてつジャストライン」の「久能局前」バス停からバスを利用してJR静岡駅に戻ってきました。 これから、このルートに従って数回に分けて久能山東照宮のお参りについて書いていきます。先ほど、JR静岡駅から「しずてつジャストライン」を利用して日本平まで行ったと書きましたが、今日は、富士山の絶景を見ることができた日本平についてご案内します。下写真は日本平ホテルからみた富士山です。 「しずてつジャストライン日本平線」の終点は「日本平」ですが、私は「日本平ホテル」で富士山の絶景を見たいため、「日本平ホテル」で途中下車しました。下写真が「日本平ホテル」の正面全景ですが、バスは「日本平ホテル」の正面玄関に停車しました。 玄関を入るとロビーから富士山が正面に見えます。(下写真) 「日本平ホテル」は昭和39年に「日本平観光ホテル」として開業し、その後、昭和54年に「日本平ホテル」へと社名を変更し現在に至っていますが、ホテル正面に富士山が見え、眼下には駿河湾が広がっていています。絶好のロケーションにあります。 最上段写真は、「日本平ホテル」のテラスラウンジから写したものですが、上写真を写したテラスラウンジは次のような雰囲気です。 テラスラウンジでは、紅茶・コーヒーとケーキで、優雅なテータイムを過ごすことができます。私は「モンブラン」とコーヒーでティータイムしました。 日本平ホテルで富士山の絶景を堪能してから日本平ロープウェイに向かいました。「日本平ホテル」から日本平ロープウェイまでは歩いて行きました。途中に展望施設の「日本平夢テラス」もありました。下写真は「日本平夢テラス」から撮った富士山です。日本平は標高308mで久能山は標高165mですので、日本平から久能山へは下ることになります。ロープウェイの山頂側の駅「日本平駅」は標高269メートル、久能山駅145メートルで120メートル程下ります。下写真は、「日本平駅」の写真です。久能山が下に見えています。 下写真は出発直後に進行方向の後ろ側(日本平駅方向)を写したものですが、出発した「日本平駅」が遥か高いところにあります。 日本平ロープウェイは全長約1000メートルあります。途中にある鉄塔はほぼ中間点にあります。この鉄塔から久能山(写真手前側)に寄ったところがもっと谷が深く90メートルあるそうです。ロープウェイは日本平と久能山を5分で結んでいます。 私が乗ったロープウェイのゴンドラは、葵の御紋をあしらった赤色のものでした(下写真)、これはお姫様の籠をイメージしたものだそうです。ちなみに、もう一つのゴンドラはお殿様の籠をイメージしたもので青色だそうです。
下地図中央が日本平ロープウェイの日本平駅です。
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新年あけましておめでとうございます
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2024-01-01T00:15:00+09:00
2024-01-05T17:58:06+09:00
2023-12-31T21:17:11+09:00
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新年あけましておめでとうございます
本年もどうぞよろしくお願い致します
上の写真は2023年1月に久能山東照宮をお参りした際に日本平から撮った富士山です久能山東照宮については改めてご案内します
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東照大権現という神号は、朝廷から示された四つの案のなかから秀忠が選んだもの(「どうする家康」222)
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2023-12-30T22:45:00+09:00
2023-12-31T08:16:50+09:00
2023-12-30T20:18:27+09:00
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大河ドラマ「どうする家康」
徳川家康は、東照宮に神として祀られています。「どうする家康」でナレーションで寺島しのぶさんが家康のことを「神の君」と呼んでいたのはそのためだということは多くの方がご存知だと思います。家康を神として呼ぶ場合の称号が東照大権現です。今日は家康が東照大権現として祀られるようになった過程を書いてみます。 家康は、元和2年4月17日に亡くなり、その日に久能山に移され、神として祀られました。この儀式を執り仕切ったのが、神龍院梵舜(しんりゅういんぼんしゅん)でした。神龍院梵舜は以前書いたように吉田兼右(かねみぎ)の子で、神龍院の住職でした。吉田家は吉田神社の神官をつとめ、吉田神道とよばれる神道の一派を形成していました。梵舜は兄吉田兼見とともに、豊臣秀吉が亡くなった後、豊臣秀吉を豊国大明神として祀ることや豊国神社の創建に尽力していました。『日光東照宮の成立』(山澤学著)p29に、「梵舜は、吉田神道をつかさどる神祇管領長上(じんぎかんれいちょうじょう)吉田(ト部)兼右の男子であり、豊臣秀吉を豊国大明神という神とし、豊国社の創設にあたった神道家であった。当時、不遇の死を遂げた後に跳梁する怨霊とは異なり、通常の死を迎えた人間を直ちに神霊として復活させ、神に祀る法儀を有していた神道は吉田神道のみであった。吉田家では永正8年(1511)2月19日に没した兼倶以降、代々の当主を遷宮の儀式に擬して葬送し、その遣骸を葬った墓所の上に霊社を設け、神に祀る法儀を執行した。梵舜は、現実にその法儀を用いて天下人豊臣秀吉を神に昇華した。梵舜の執行する法儀によって徳川家康が神格化されたのである。」と書いてあります。 こうして、梵舜は明神形式で家康を神として祀りました。そして、家康の神号も「明神」とする考えでした。しかし、これに異を唱えたのが天海大僧正でした。天海大僧正は天台宗が唱える山王一実神道に基づいて「権現」という神号にすべきという考えでした。 こうして、「明神」を主張する神龍院梵舜と「権現」を主張する天海大僧正との間で論争が起こります。『台徳院殿御実紀』巻四十二にも論争について次のように記録されています。「元和2年5月3日 本多上野介正純、土井大炊頭利勝、安藤対馬守重信、金地院崇伝を神龍院梵舜の旅宿に遣わされて、御神号のことを評議し、権現と大明神の神位について甲乙優劣を尋ねさせた。梵舜がその話を聞いて、『権現と大明神の尊号には優劣はないけれども権現は陰陽両尊の神号で、大相国(家康)の尊号はもっとも大明神の尊号がふさわしい、(中略)』と答えた。」と記されています。 その後の論争がどのようになったか『台徳院殿御実紀』には書かれていませんが、最終的には、天海が主張する「権現」が採用されました。 それについて決め手となったのが明神と言う神号は不吉だという天海の主張だったとよく言われています。『神君家康の誕生』(曽根原理著)にも「最後は天海が『子孫が滅亡した豊国大明神の例を見よ』と言い放ち山王一実神道で祭ることに決定した」と書いてあります。 一方、『台徳院殿御実紀』巻四十二には、前述の記述の後に注記があり、「今案ずるに、梵舜が伝えることは、吉田卜部の神道で、既に豊国も大明神と号しているのは梵舜等の考えである。しかし、かねて、烈祖(家康)は天海大僧正を信任していて、天台宗山王神道に帰依していたので、亡くなる前に既に天海と決めていて、『私(家康)が亡くなった後は必ず大権現と称して永く国家を鎮護しよう』と仰せおいたことなので、天海は大権現という考えをひたすら主張して、梵舜の考えはついに採用されなかったのであろう。」と書いてあり、家康と天海が生前に大権現とすることと決めていたとしています。 また、『南光坊天海の研究』(宇高良哲著)p37には「死後の祀りの場として、明確に日光を指定していたことは、祭祀を天海に委ねることであり、それは山王一実神道で祀られることを意味している。したがって神号も権現号が前提となる。第一、秀吉の豊国大明神を凌駕した神格を求める者にとって、明神号は最初からあり得ない選択肢であった。このことは、将軍や崇伝にとっては既に了解事項であったと考えられる。」と書かれています。 2代将軍秀忠も天海の主張を支持して、天海に京都に上洛して、朝廷と交渉するよう命じ、天海は6月に上洛しました。そして、朝廷に働きかけた結果、7月13日に権現とするよう勅諚が出され、勅許されました。 その後、神号案の検討が行われ、朝廷から四つの案が提示されました。それは①日本大権現、②東光大権現、➂東照大権現、④霊威大権現の四案でした。『徳川家康の神格化』(野村玄著)によれば、①日本大権現、②東光大権現の2案は二条昭実の案であり、➂東照大権現、④霊威大権現は今出川晴季から出された案だったようです。そして、その四案から一つを将軍秀忠に選んでもらうこととなりました。 そうした朝廷側の結論は、天海大僧正から書状で江戸に通知された後、天海大僧正自らが江戸に戻り秀忠に報告しています。『台徳院殿御実紀』巻四十二には「9月3日、天海大僧正が京から帰り、江戸城に参上し(秀忠に)拝謁した。9月7日、天海大僧正が京から御神号の議を承って来て奏上しました。二条関白昭実公、菊亭右大臣晴季公から出された東照大権現、日本大権現、威霊大権現、東光大権現のうちから、御所(秀忠)の思し召しのままに定めてよろしいとの叡慮(天皇のお考え)とのことである。近日に(武家)伝奏のお二人が下向するとのことであるので、お二人と協議して決めるとの仰せが出された。」と書かれています。 そして、秀忠が決めたのは「東照大権現」という神号でした。 その秀忠の決定を受けて、「東照大権現」の神号が朝廷から与えられました。『台徳院殿御実紀』には「元和3年3月9日 京より東照大権現に正一位の御追贈宣下ありしかば、御所ことさら御感悦大方ならず。」と書いてあります。 こうして、家康は東照大権現という神様となり、東照大権現を祀る神社は東照社とよばれました。そして、家康が亡くなって29年後の正保2年(1645)11月3日に、東照社が東照宮に改められました。 この記事を本年の最後の記事とさせていただきます。今年もご愛読いただきありがとうございました。皆様、良い年をお迎えください。
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久能山から日光に改葬されて出来上がった豪華絢爛な日光東照宮、しかし、家康は豪華にするなと遺命していた(「どうする家康」221)
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2023-12-29T22:45:00+09:00
2023-12-29T22:45:15+09:00
2023-12-29T21:32:42+09:00
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大河ドラマ「どうする家康」
『台徳院殿御実紀』巻四十五には、霊柩が日光に向かって進む様子が記録されていますので、それから、改葬行列の行程を書いてみます。元和3年(1617)3月15日 久能山出発し善徳寺(静岡県富士市)で1泊3月16日 善徳寺を出発し吉原より浮島が原(静岡県富士市)をへて三島で2泊3月18日 三島を出発し箱根山を越えて小田原に2泊3月20日 小田原を出発し小余綾(こゆるぎ)の磯(神奈川県大磯付近一帯の海岸)を過ぎて中原御殿に1泊3月21日 武州府中の府中御殿に2泊。3月23日 府中を出発し川越喜多院の大堂で4泊3月27日 川越喜多院出発し忍(埼玉県行田市)で1泊3月28日 忍を出て、館林で休憩し佐野の惣宗寺で1泊。(※家康の遺骸が泊まった惣宗寺は、現在、「佐野厄除け大師」として有名なお寺です。)3月29日 佐野を出て、鹿沼の薬王寺を御旅所として、ここに4月3日まで滞在4月4日 未刻(午後2時頃)に日光山の座禅院に入る。4月8日 日光山奥の院の岩窟内に安置する。4月17日 遷座祭が行われる。 こうして、日光に家康をご祭神とする東照宮が鎮座することになります。現在の日光東照宮は豪華絢爛な建物で知られていますが、現在の主な社殿は、3代将軍家光によって、寛永13年(1636)に増改築されたものです。 しかし、家康自身は、自分が死んだ後、自分の廟所が豪華になることを懸念して、そうしないよう遺命しています。『東照宮御実紀』附録巻十六に次のように書かれています。「(家康は)病気療養中に仕えた者の中でも、特に秋元但馬守泰朝、板倉内膳正重昌、松平右衛門大夫正綱、榊原内記清久は安心して召しつかった。ある日、(板倉)内膳正重昌を呼んで、亡くなった後の事を数々いい置いたが、そのなかに、『私がなくなった後には、将軍家(秀忠)はきっと私の廟所を荘厳に建造するだろう。それは無用な事である。子孫末代まで初代(家康)の廟を越えることのないようにさせるために、私の廟は簡素に造営せよ。』と言っていたことがあった。」 このように家康は、後々のことを考えて、簡素な廟所を造らせようと側近の板倉重昌に命じていました。 しかし、家康が亡くなった後に板倉重昌からそのことを聞いても、秀忠としては、簡素なものにするわけにはいかなかったようです。次のように書いてあります。「(家康)が亡くなられた後に、(板倉)重昌がこの事を申し上げると将軍家(秀忠)はこれを聞いて『先代にとっては非常に謙譲な美徳だと申し上げるが、私達が孝養を尽くす思いから言えば、あまりにもつつましやか過ぎる。凡そ荘厳だと言われる程度に造ろう』と言って、最初の廟所はできたものである。」 秀忠は豪華絢爛すぎるものではなくて、そこそこ荘厳なものを建造させたようです。しかし、秀忠の子供たちは、より先代を荘厳に祀ろうという気持ちが強かったようです。『台徳院殿御実紀』に次のように書かれています。「その後、崇源院殿(お江)の霊牌所(位牌堂)の造営の際に、駿河亜相(徳川忠長)が思う存分に祀って厳(おごそ)かにできたので、台徳院殿(秀忠)が亡くなった時には、また、霊廟を(お江の)霊牌所より良いものに造営せよと命令があり、段々と荘厳になった。この二か所に比べると日光山の御廟はいかにも簡素すぎるということで、大猷院殿(家光)の時代に新しく建てるのではなく、改修の形式をとって若干の費用を使って、後の宮が出来たという。こうして、廟が厳然として、天下に比類ないほどになったのである。」 家康は、家光によって東照宮が絢爛豪華なものに建造された際に、東照宮の中でどのような感想をもったのでしょうか?「家光お前、やりすぎだ」と怒ったのでしょうか?「やっぱり、そう造ったか。仕方がないなぁ」とあきれながらも喜んだのでしょうか?
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家康大往生、久能山に移された霊柩に供奉したのはわずか11人であった。(「どうする家康」)
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2023-12-28T22:45:00+09:00
2023-12-28T22:45:15+09:00
2023-12-28T21:23:54+09:00
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大河ドラマ「どうする家康」
家康は、元和2年(1616)4月17日に75歳でなくなりますが、亡くなる少し前の4月2日に金地院崇伝、天海大僧正、本多正純を枕元に呼んで遺言を伝えました。その遺言について『台徳院殿御実紀』には次のように書かれています。「2日金地院崇伝、南光坊天海大僧正ならびに本多上野介正純を大御所(家康)の病床に呼んで、『亡くなった後は、久能山に埋葬し、葬儀は江戸増上寺で行い、位牌は三河国大樹寺に置き、一周忌を経て下野の日光山に小さなお堂を建立し祀れ。京都には南禅寺の中の金地院に小さなお堂を建てて、所司代はじめ武家衆に参拝させよ』と命じました。」 家康の遺言は、⑴久能山に埋葬すること、⑵葬儀は増上寺で行うこと、⑶位牌を岡崎の大樹寺に安置すること、⑷一年後に日光に小さなお堂を建てて祀ることなどでした。
そして、家康は、4月17日午前10時ごろに亡くなります。そして、その日の夜間に小雨が降る中、遺言に従って霊柩が久能山に移されました。しかし、その霊柩に従ったのはごくわずかな人々たちだけでした。『台徳院殿御実紀』に次のように書かれています。「17日の巳の刻(午前10時頃)、大御所(家康)は駿府城の寝所で亡くなられた。享年75歳。御遺命によって、夜中、遺骸を久能山に移した。本多上野介正純、松平右衛門大夫正綱、板倉内膳正重昌、秋元但馬守泰朝の四人が霊柩に供奉して、御所(秀忠)名代として土井大炊頭利勝、宰相義直卿(徳川義直)の名代成瀬隼人正正成、宰相頼宜卿(徳川頼宜)の名代安藤帯刀直次、少将頼房朝臣(徳川頼房)の名代中山備前守信吉だけが霊柩の後から供奉した。その他の人は久能山に登ることが禁止された。金地院崇伝、大僧正天海、神龍院梵舜(しんりゅういんぼんしゅん)は特別に供奉した。町奉行彦坂九兵衛光正、黒柳(畔柳)寿学、大工中井大和守正次は、前もって久能山に登って霊廟の仮御殿を建てた。この夜、小雨が降っていた。」 家康の霊柩に供奉した人々は全てで11人で、それ以外の人が久能山に登るのは禁止されたようです。供奉した11人は次の3つのグループに分けられます。⑴家康の側近たち、①本多正純、②松平正綱、➂板倉重昌、④秋元泰朝⑵秀忠を始めとする子供たちの名代 ⑤土井利勝(将軍秀忠の名代)、⑥成瀬正成(尾張藩主徳川義直の名代)、⑦安藤直次(紀伊藩主徳川頼宜の名代)、⑧中山信吉(水戸藩主徳川頼房の名代)、このうち成瀬正成、安藤直次、中山信吉は、もともと家康の側近ですが、幼い当主の補佐のため徳川御三家に派遣された付家老です。⑶側近の僧たち、⑨金地院崇伝、⑩天海大僧正、⑪神龍院梵舜、この3人は家康の知恵袋です。このうち神龍院梵舜は。吉田神道(しんとう)家の吉田兼右(かねみぎ)の子で、初め神道を学び、のち出家し、京都吉田山下の神龍院の住職でした。以上の11名だけが供奉しました。 また、家康は、亡くなると駿府で葬儀等が行われなくて、その日のうちに久能山に遺骸が移されています。あまりこうしたことは行われないと思います。こうした特別扱いがされたことについて、曽根原理氏は『神君家康の誕生』の中で、「浦井正明氏は、諸大名の香典を受けなかったことも紹介した上で、急遽遺骸を移した理由について、『家康を神に昇化するためには、ます生身の家康の遺骸をできるだけ早急に人の目から隔離することが望ましいと判断したのではないだろうか』と推測している。首是されるべき見解であろう。」と書いています。
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