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2019年 08月 02日 ( 1 )
日本橋(新江戸百景めぐり⑲)
日本橋(新江戸百景めぐり⑲)

 前回は、越後屋を中心に日本橋通りをご案内しましたが、今日は、日本橋について紹介します。

『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では60ページの第16景に紹介されています。

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日本橋は、家康が、征夷大将軍となった慶長8年(1603)に建てられたと言われています。

なぜ、日本橋と呼ばれるようになったかはっきりはしません。

日本国中から人があつまって架けた橋だから日本橋という説もあります。

日本橋がかけられる前に、2本の木を渡しただけの橋があったからだという説もあります。

 

架橋後15年後の元和4年(1618)に長さ37間4尺5寸(約67.4m)、幅4間2尺5寸(約7.7m)の大橋に架け替えられました。

その後も日本橋は度々架け替えられ、「道路史余話」によると少なくとも19回架け替えられ、その平均架橋寿命は約16年とされています。

江戸時代後期の日本橋が、江戸東京博物館に復元されています。

江戸東京博物館の日本橋は、文化3年(1806)と文政2年に架けられた日本橋を基にした日本橋の北半分が復元されています。これによると、文化・文政当時の日本橋は、長さ約51メートル、幅約8メートルありました。(下写真)

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現在の橋は、明治44年に架けられたもので、重要文化財に指定されています。

「日本橋」の橋名は最後の将軍徳川慶喜の筆によるものです。

長さ49.1メートル、幅は27.3メートルあります。車道10間で2間半の歩道が両側にあり合計15間となっています。江戸時代のものと比較して、長さはほぼ同じで、幅は約3倍となっています。

獅子像と麒麟像

現在の日本橋の意匠設計は、妻木頼黄(よりなか)が担当し、欄干の麒麟像と獅子像は彫刻家渡辺長男(おさお)が製作しました。

渡辺長男は、朝倉文夫の実のお兄さんです。苗字がちがうのは、朝倉文夫が養子にいっているからです。

獅子が抱いているのは、東京都のマークです。運慶の狛犬を参考にしたと言われています。(下写真)

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下写真が麒麟像です。頭は龍、胴が鹿、羽があります。

麒麟麦酒のラベルにある麒麟というより、西洋のドラゴンという雰囲気ですね。小さい台座にバランスよく載せるのに苦労したそうです。上には、松並木の松と一里塚の榎も彫られています。

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江戸時代は、擬宝珠がある橋は、格の高い橋でした。江戸城の橋は別として、一般の橋では、この日本橋、京橋、新橋の三つの橋しかありませんでした。

橋の南側にある江戸時代から続く漆器店黒江屋の2階のウィンドウに江戸時代初期の万治元年(1658)と刻まれた擬宝珠が陳列されています。(下写真)

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日本国道路元標

日本橋は、架橋の翌年には、五街道が定められ、日本橋が五街道の起点となりました。そうしたことから、現在も「日本国道路元標」として各道路の起点になっています

日本橋の北詰の西側に日本国道路元標の複製が展示されています。道路元標の字は佐藤栄作元首相の字です。(下写真)

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日本国道路元標の前には、東京市道路元標が、道路の真ん中にありました。その東京市道路元標が日本国道路元標の後ろに立っています。下写真の右奥が東京市道路元標、手前左が日本国道路元標です。

なお、歩道からははっきり見えませんが、日本国道路元標の本物が日本橋の道路の中央にあります。

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魚河岸

 日本橋の北詰の東側には魚河岸がありました。

 それを記念して魚河岸の記念碑が建てられています。

正十八年(1590年)、徳川家康が江戸入りした時に、家康に従って摂津国西成郡佃村(現在の大阪市淀川区佃町)の名主森孫右衛門が、佃及び隣村大和田村の漁師34名と共に江戸に出てきて、佃島を拝領するとともに、江戸近辺の海川の漁業権を与えられ、そのかわりに徳川家の御膳魚を納める役を仰せつかりました。そして、その後、納魚の余りを日本橋小田原河岸で販売したといいます。これが魚河岸のはじまりであり、森孫右衛門ら一族がその始祖といわれています。

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昭和29年に建てられた日本橋魚河岸記念碑が乙姫像(上写真中央)なのは、川柳で「日本橋 龍宮城の 港なり」と詠まれたことに因みます。なお、上写真の左手には日本橋魚市場岸発祥の地と刻まれた石碑も建てられています。

この魚河岸は、大正12年(1923)の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。

近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛び交い、一日に千両の取引があるともいわれ、「朝千両(魚河岸)、昼千両(歌舞伎)、夜千両(吉原)」と、その繁栄を詠われました。

高札場

五街道の起点でもあり、人が多く集まる日本橋は、幕府にとって政策のPR場所でもありました。それらが、ともに日本橋の南詰めにありました。

ひとつは高札場であり、ひとつは晒し場でした。

南詰西側には、高札場(こうさつば)がありました。

高札場とは、幕府が決めた法令を木の板に書き、人目をひくように高く掲げておく場所のことです。

高札場の跡には、高札の形を模した日本橋の由来を書いた「日本橋由来記」が組み込まれた石碑が建てられています。(下写真)

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 高札場には、重要な高札場つまり大高札場とふつうの高札場との二種類ありました。江戸には、大高札場は日本橋をふくめ六カ所、普通の高札場は35カ所ありました。6ヶ所の大高札場は次の通りです。

日本橋、常盤橋門外、筋違橋門外、浅草橋門外、半蔵門外、札の辻、

中でも重要なのが日本橋の高札場でした。日本橋の高札場は、有名な歌川広重の東海道53次の日本橋の中にも描かれています。下写真の左手に高札場が描かれています。

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大高札場には、キリシタン禁制、運賃を制定した高札など共通の定高札といわれる7枚の高札がありましたが、

日本橋には、ここだけにしか設置されない高札が掲げられていました。それは、幕府が政策としてもっとも重視したものであった。
 たとえば、五代将軍綱吉の「生類憐れみ令」の高札、享保年間に立てられた「目安箱の設置に関する高札」「諸国新田取り立ての高札」などがありました。新田取立の高札が、なぜ日本橋に立てられたのか不思議に思われるかもしれませんが、当時、新田開発の大事業は、江戸その他の大都市の富豪が金子元にならなければ実行できないことを反映しています。
 

晒し場

日本橋南詰の東側は、江戸時代は晒し場です。

心中未遂の男女、女犯僧は、見せしめのため、日本橋で晒されました。

また、主人殺しの犯人は、首だけ出して土に埋め、3日間見せ物として晒されました。その際、罪人の首の左右にタケの鋸と鉄の鋸を立てかけておいたが実際に鋸で首を挽くことはなく、晒した後は市中引き回しをしたうえで磔としました。

このように見せしめのための晒刑が実行されたのは、大勢の庶民に、「悪事を働くとその結果はこのようになりますよ」と実際に認識させるためでした。

そのため、江戸で最も多くの人が集まる日本橋が晒し場に選ばれました。

赤印が日本国道路元標(複製)がある場所です。
青印が日本橋魚河岸記念碑です。
緑印が日本橋由来記です。
ピンク印が黒江屋です。(お店はビルの2階にあります)







by wheatbaku | 2019-08-02 21:41 | 新江戸百景めぐり
  

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