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2019年 09月 15日 ( 1 )
吉良邸跡(新江戸百景めぐり㉝)
吉良邸跡(新江戸百景めぐり㉝)

今日の新江戸百景めぐりは、有名な吉良邸跡をご案内します。

 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では152ページの第87景で紹介されています。

 吉良邸は、裏門側の南北長さが34間4尺8寸(63.3メートル)、東西の長さが73間7尺3寸(約134.9メートル)、面積2550坪ありましたが、現在はほとんど民家となっています。その中で、吉良邸の面影を感じさせるのが本所松坂町公園です。(下写真)

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 吉良家が改易された後、屋敷の跡は町屋になったため、吉良家の名残を残すものはありませんでした。そこで、昭和9年に地元の自治会の有志がお金を出し合い、土地を購入し、東京都に寄付しました。それが吉良松阪町公園です。現在は墨田区に移管され墨田区立公園となっています。本所松坂町公園は約30坪しかなく、元のお屋敷の1.1%ほどの広さです。本所松坂町公園は、JR両国駅東口から徒歩5分です。下写真は東南方向から見た本所松坂町公園です。

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吉良上野介の屋敷は、松の廊下で浅野内匠頭に斬りつけられた当時は現在の東京駅あたりにあった呉服橋門内の以前紹介した北町奉行所と同じ場所にお屋敷がありました。

 そして、刃傷事件の起きた年の元禄14年(1701)9月3日に、吉良上野介は、本所にあった松平登之介(近藤登之介はまちがい)の屋敷跡に移転しました。

 義士の討入りがあってお屋敷を没収されたのが元禄16年(1703)2月4日ですから、吉良家の御屋敷であったのは1年半に満たない短かい期間でした。吉良邸は、赤穂浪士の討ち入り後、吉良家が改易となり、その跡に入る旗本はなかなかいませんでした。そこで、吉良邸跡は、町人が住む町屋になりました。

 江戸時代は、町名は、原則町人が住む町にだけつけられていました。そのため、吉良邸があった頃は本所松坂町という町名はありませんでした。討ち入りの2年後、町人町となった町につけられた町名が松坂町でした。

松坂という名は、謡曲の中からめでたいものが選ばれたようです。
 

吉良上野介像 

公園内には吉良上野介の像が鎮座しています。(下写真)
 これは、愛知県吉良町(現在は西尾市吉良町)にある吉良家の菩提寺の華蔵寺にある木像をモデルに造られています。
 その上野介の木像は元禄3年(1690)、50歳の時に自らが監督し彩色を施したと伝えられています。

以前、華蔵寺を訪ねた際に、吉良上野介の木像は、通常は、御影堂の中にあり、公開されていないのですが、特別に鍵をあけて拝観させていただいたことがありました。

 本所松坂町公園の吉良上野介の像は。華蔵寺の像をモデルに横浜在住の米山隆氏が制作したもので、平成22年に墨田区に寄贈されたものです。

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「吉良家家臣二十士」の供養碑

 公園内に「吉良家家臣二十士」と刻まれた碑があります。

これは、赤穂浪士が討ち入りした際に、なくなった家臣の名前を刻んで慰霊したものです。赤穂浪士が討ち入った際、赤穂浪士側は、完全武装であったため、軽傷者2名で死者はゼロでした。一方、衝撃された吉良方は、20人の死者が出ました。その20人の名前を書いて供養したものです。

 死者で有名な人を挙げると、吉良家の家老の小林平八郎八郎、そして、忠臣蔵によくでてくる清水一学の名前も刻まれています。清水一学は、吉良上野介の小姓でした。その他18名の人の名前が刻まれていました。

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霊験あらたか松坂稲荷大明神 

 公園内には神社もあります。松坂稲荷大明神です。
 これは、江戸時代、この辺りに鎮座していた「兼春(かねはる)稲荷」と「上野(こうづけ)稲荷」を合わせてお祀りしたものです。

 公園開園当時からここに鎮座しています。それ以前に、二つのお稲荷さんがどこに鎮座しているのか調べましたが、それは分かりませんでした。

 「兼春稲荷」をどう読むかについても、「兼春(けんしゅん)稲荷」とフリガナをふった本もありました。しかし、公園近くの和菓子屋さん「大川屋」のおかみさんに以前尋ねたところ「かねはる」と呼ぶと教えていただきました。地元では霊験あらたかなお稲荷さんとして深く信仰されているそうです。

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吉良邸表門

吉良邸は、東側に表門があり、西側に裏門がある細長いお屋敷でした。
 本所松坂町公園の東側近くに、吉良邸表門の説明板が設置されています。(下写真)

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赤穂浪士の討ち入りは元禄15年12月14日に行われたと言われます。

 討ち入りした時刻は午前4時ころですので、今の時間の数え方でいえば正しくは15日に討ち入ったことになります。江戸時代は、夜明けから翌日の夜明けまでを一日と数えました。そこで、討入りした時刻は夜明け前ですので、12月14日ということになります。
 下写真は説明板の遠景写真、歩道もない道路のわきに設置されています。

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 表門隊23人と裏門隊24人に別れ、討ち入りしました。表門は大石内蔵助、裏門は大石主税が大将で、吉田忠左衛門が補佐しました。

 大石内蔵助に指揮された表門隊23人は、表門の屋根に梯子をかけて、屋根を乗り越えて屋敷に討入りました。

屋敷の道路に面した三方向には長屋が設置されていました。

 長屋には、吉良家の家臣が住んでいました。当然、上杉家から派遣された武士も、そこに滞在していました。

 この長屋は二階建てだったと考えられています。

 屋根までの高さは6.6メートルあったとNHKによる推測がされています。

 それだけの高さですから簡単に乗り越えられませんので、赤穂浪士が討ち入る際には、梯子を準備する必要がありました。

 赤穂浪士が準備した道具の中に梯子2丁と長縄がついた鉤(フック)16丁が含まれているのは、こうした事情があったためです。

 表門からの一番乗りは、大高源五と間十次郎でした。

吉良邸裏門

 吉良邸裏門があったのは本所松坂町公園の西側にありましたが、裏門があった辺りにも説明板が設置されています。(下写真)

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裏門隊は大石主税が大将となり、吉田忠左衛門が補佐しました。総勢24人でした。

裏門隊は、表門と違い、門を乗り越えることはせず、かけや(大型の木槌)で三村次郎左衛門と杉野十平次が裏門を打ち破り討入りました。
 下写真は説明板の設置地点を撮った遠景写真、マンションの脇に設置されています。

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討入りの際に、大石内蔵助が山鹿流の陣太鼓を打つのが、テレビ、映画、歌舞伎、講談の定番ですが、これが後世の創作であるのということは、現在では多くの人が知っているところです。

 それは、赤穂浪士が準備した道具の中に陣太鼓がなかったり、事前に定めた「人々心覚」の中にも「太鼓」という言葉でてこないことから、陣太鼓そのものがなかったためと説明されています。

 しかし、討入り当時から、「山鹿流陣太鼓」はともかく大石内蔵助が太鼓を打ち鳴らして討ち入ったという話は、早くから流れていたようで、多くの史料に「討入りの合図に太鼓を使った」と記録されています。

 これは、裏門から赤穂浪士が突入する際に、かけや(大槌)で裏門を打ち破り押し入りましたが、吉良邸の周囲の人が、その扉を打ち破る音を太鼓の音と思ったのだろうと宮澤先生は考えます。

 それが、さらに発展し赤穂浪士が山鹿素行の兵法の影響を受けているという風聞のひろまりにつれて、いつの間にか山鹿流陣太鼓といわれるようになっていたのではないかと

考えている先生もいます。

前原伊助宅跡

 赤穂浪士が討ち入る際に、吉良家の動向を探ることは、非常に重要なことです。

 そのため、赤穂浪士のうちの前原伊助と神崎与五郎は名前を姿を変えて、吉良邸周辺に潜んでいました。

 前原伊助は、吉良邸の裏門近くで米屋五兵衛と名を変えて商売をしていました。その前原伊助宅跡の説明板が、裏門跡の説明板のすぐ近くに設置されています。(下写真)

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前原伊助は、赤穂浪士四十七士の一人で、刃傷事件の時には金奉行として勤仕していたため、商才に長けていました。

 刃傷事件後は日本橋に住んで古着屋を営んでいたといいますが、やがて吉良邸裏門近くの本所相生町二丁目に移り住み、「米屋五兵衛」と称して店を開業し、吉良家の動向を探りました。討ち入りの際には、裏門隊に属していました。

また、前原伊助は、亡君の刃傷事件から討ち入りまでの経過を漢文体で克明に書き綴った「赤城盟伝」を残しています。これは、赤穂浪士自身が書いた討ち入りまでの記録で、赤穂事件の貴重な史料となっています。


赤印が本所松坂町公園です。

青印が吉良邸表門の説明板の設置場所です。

緑印が吉良邸裏門の説明板の設置場所です。

ピンク印が前原伊助宅跡の説明板の設置場所です。






by wheatbaku | 2019-09-15 18:21 | 新江戸百景めぐり
  

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