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2019年 10月 05日 ( 1 )
寛永寺(新江戸百景めぐり㊴)

寛永寺(新江戸百景めぐり㊴)

 今日の新江戸百景めぐりは、寛永寺をご案内します。

寛永寺は浅草寺とともに 私が案内する場所として最も回数の多い場所です。
現在の上野公園は、江戸時代は寛永寺の境内の一部でした。
そのため、寛永寺を案内するということは、上野公園およびその周辺を案内することになり、半日では上野寛永寺すべてを案内できず、常に一部分に留まっています。

 それだけの案内場所のある寛永寺を、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、第44景として92~93ページのたった2ページで紹介しています。

そこで、このブログでも、極力分量を少なくするため、主要部分だけの案内に留めておきます。それでも長文になってしまいました。ご容赦ください。

寛永寺本堂

現在の寛永寺の本堂(根本中堂)は、上野駅公園口から歩いて15分ほどかかる上野公園の北西部にあります。

寛永寺の旧本堂(根本中堂)は現在の東京国立博物館前の噴水のところにありましたが、慶応4年(1868)彰義隊の兵火で焼失しました。

そのため明治12年に、寛永寺の子院であった大慈院に、埼玉県川越市の喜多院の本地堂を移築し、寛永寺の本堂としたものです。

この建物は寛永15(1638)の建造と言われています。喜多院でも、薬師様がお祀りされていたそうです。開口・奥行ともに17.4メートルあります。内陣の厨子内には秘仏の本尊薬師三尊像が安置されています。御本尊は、伝教大師最澄上人が自ら刻んだとされていて、国の重要文化財に指定されています。下写真が本堂です。

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 本堂正面に掲げられている額は、東山天皇が自ら書いた「瑠璃殿(るりでん)」の勅額です。

 上野寛永寺は、慶応4年5月15日におきた上野戦争の戦場となり、主要な建物はすべて焼失してしまい、根本中堂も焼失してしまいました。

幸い伝教大師作の本尊薬師如来や東山天皇御宸筆「瑠璃殿(るりでん)」の勅額は、戦争の中運び出され現在の根本中堂に安置されています。

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寛永寺の歴史

寛永寺は、寛永2年(1625)天海大僧正によって創建されました。

天海は、江戸に天台宗の拠点となる大寺院を造営したいと考えていました。

そのことを知った秀忠は、元和8年(1622)、現在の上野公園の地を天海に与えました。

当時この地には伊勢津藩主・藤堂高虎、弘前藩主・津軽信牧、越後村上藩主・堀直寄の3大名の下屋敷があったが、それらを収公してお寺の敷地としました。

秀忠が隠居した後、寛永2年(1625)、3代将軍徳川家光の時に今の東京国立博物館の敷地に本坊(住職の住む坊)が建立されました。

寛永寺の建立時期については諸説があるそうですが、この本坊ができた年が寛永寺の創立年とされることが多く、寛永寺の執事長の浦井正明師もこの説を述べています。下写真は現在の寛永寺根本中堂近景です。

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天海大僧正は、比叡山延暦寺を手本に寛永寺を建立しました。

寛永寺は江戸城の鬼門(東北)にあたる上野に建立されましたが、これは比叡山延暦寺が、京都御所の鬼門に位置し、鬼門守護の役割を果たしていたことにならったものです。
 また、山号は東の比叡山という意味で東叡山とされました。

そして、寺号も延暦寺が建立当時の年号を使用して命名されたとの同じように、創建時の年号を使用することを勅許され、寛永寺と命名されました。年号が、お寺の名前に使用されているのは、非常に稀な例です。

また、院号として円頓院という院号が使われていますが、これも「円頓止観」という言葉があり、延暦寺が止観院と称していたことによるものだそうです。

さらに、天海大僧正は、延暦寺境内に建立した建物も、前回書いた不忍池や不忍池の弁天堂、清水観音堂など比叡山とその近くの京都・近江の建物・風景を模したものとしました。

現在、合格大仏を言われている大仏様は、元々は京都の方広寺の大仏を模したもので、大仏殿もありましたが、その後、地震や火災などにより被害をうけ、現在は頭部だけが残されています。(下写真)

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天海大僧正が存命中には、寺の中心となる根本中堂はありませんでした。

根本中堂が落慶したのは開創から70年以上経った元禄11年(1698)、5代将軍綱吉の時代です。

根本中堂は、現在の上野公園の噴水池の場所にあり、回廊を巡らせた間口45m、 奥行42m、高さ32mという荘厳の建物だったようです。下写真は、歌川広重が書いた根本中堂です。国立国会図書館HPより転載させていただきました。

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寛永寺本坊表門

寛永寺の境内地は、最盛期には現在の上野公園を中心に約三十万五千坪に及び、さらにその他に大名並みの約1万2千石の寺領を有しました。

この寛永寺の住職は輪王寺宮法親王でした。その住職の住まいを本坊といい、現在、東京国立博物館がある場所は、江戸時代、本坊があり、輪王寺宮法親王が居住していました。

ところが幕末の戊辰戦争では、境内地に彰義隊がたてこもって戦場と化し、官軍の放った火によって、全山の伽藍の大部分が灰燼に帰してしまいました。本坊も焼失してしまいました。そうした中で本坊の表門は奇跡的に焼失を免れました。(下写真)

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明治11年、帝国博物館(現、東京国立博物館)が開館すると、正門として使われ、関東大震災後、現在の本館を改築するのにともなって現在地に移築されました。

門扉には、上野戦争時の弾痕が残されていて、当時の戦闘の激しさを物語っています。下写真の黒い扉の一部に丸い白くなっている部分が砲弾が通過した痕です。

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両大師(りょうだいし)
 開山堂は、東叡山寛永寺の開山である慈眼大師(じげんだいし)天海大僧正と、天海大僧正が尊崇していた慈恵大師(じえだいし)良源大僧正をお祀りするお堂で、現在のお堂は平成5年に再建されたものです。下写真が本堂です。

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もともとの創建は正保元年(1644)で、前年に亡くなられた天海大僧正を祀る「開山堂」でしたが、後に寛永寺本坊内にあった慈恵堂(じえどう)から慈恵大師(じえだいし)像を移し、慈恵・慈眼のお二人のお大師をお祀りしたことから一般に「両大師(りょうだいし)」と呼ばれ、庶民に信仰されています。 下写真は山門ですが、左手の板面に両大師と書かれています。

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慈眼大師天海大僧正(15361643)は、東叡山寛永寺を開山された天台宗の僧侶で、生前の数々の功績が讃えられ、朝廷より「慈眼大師」の大師号が下賜されました。

慈恵大師良源大僧正(912985)は、天海大僧正が尊崇した僧侶です。良源大僧正は正月3日に亡くなられたことから「元三(がんざん)大師」とも呼ばれています。さらに良源大僧正は「おみくじ」の創始者としても知られています。良源大僧正の幅広い活躍に対し、朝廷より「慈恵大師」の大師号が下賜されました。

上野東照宮(重要文化財)

上野東照宮は、藤堂高虎が創建したものです。

寛永寺ができる前には、藤堂高虎等の下屋敷がありました。そうしたこともあって、藤堂高虎が寛永4年(1627)その屋敷跡に、徳川家康を祭神とする上野東照社を創建しました。 

 一説では、家康がなくなる時に、藤堂高虎と天海僧正が、危篤の家康の病床に招かれ、三人一つ所に末永く魂鎮まるところを作ってほしいという遺言されたので、藤堂高虎の屋敷があった場所に創建されたとされています。

 また、江戸市民が東照宮に参拝しやすくするために上野に創建されたとも言われています。

 東照宮は、創建当時は東照社と呼ばれていましたが、正保3年(1646)、朝廷は家康に「東照宮」の宮号を贈りましたので、それ以後、東照宮と呼ぶようになりました。

 現在の社殿は、慶安4年(1651)、3代将軍家光が阿部重次に造営奉行を命じ規模に造り替えたものです。現在、社殿(下写真)はじめ唐門・透塀などが国の重要文化財に指定されています。

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東照宮五重塔(重要文化財)

東照宮五重塔は、上野動物園東園の園内にあるため、東照宮からは近寄ることはできませんが、参道わきから身近に五重塔が見えます。この五重塔は「旧寛永寺五重塔」として国の重要文化財に指定されています。下写真は東照宮の参道から撮ったものです。 

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寛永8年(1631)に、江戸幕府の老中で、後に大老となる土井大炊頭利勝(どいとしかつ)の寄進により、上野東照宮の塔として建てられました。

 しかし竣工の8年後の寛永16年(1639)の春に花見客の過失によって焼失してしまい、現在見ることのできる五重塔は、その年のうちに再建されました。

高さが約32メートルあり、江戸時代には、増上寺、浅草寺、谷中天王寺の五重塔とともに「江戸四塔」の一つと言われました。

明治になる、「神仏分離令」により、東照宮から寛永寺の管理下に移されました。

「塔」というのはそもそも仏舎利(釈迦の遺骨)を収めるためのものですので、神社である東照宮においておくわけにはいかず、寛永寺に移されたのでした。

その五重塔が昭和33年になると今度は寛永寺から東京都へ寄付されます。これが今日、上野動物園内で見られる現在の五重塔の姿となります。そのため、名称が「旧寛永寺五重塔」とされています。

現在、江戸時代から残された五重塔は、寛永寺の五重塔と池上本門寺の五重塔の二つだけとなってしました。

徳川家綱霊廟勅額門(重要文化財) 

寛永寺は、当初は、徳川将軍家の祈願寺でしたが、3代将軍家光が埋葬されてからは徳川将軍家の菩提寺となり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠っています。

上野寛永寺には、4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家済、13代家定の6人の将軍が眠っています。

そのうち、4代将軍家綱と5代将軍綱吉の霊廟の勅額門を見ることができます。

 4代将軍家綱の霊廟の勅額門は、国立博物館の真北にあります。最寄駅はJR鶯谷駅で南口から徒歩5分です。

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4代将軍徳川家綱は延宝8年(168058日に死去し、法号を厳有院といったので、正しくは厳有院霊廟勅額門と呼ばれます。

霊廟の一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失してしまいました。勅額門、これらの災害を免れた貴重な遺構で重要文化財に登録されています。

徳川綱吉霊廟勅額門(重要文化財) 

5代将軍綱吉霊廟の勅額門は、寛永寺の北東にあります。

綱吉は宝永6年(1709110日に死去し、法号は常憲院とされたため、正しくは常憲院霊廟勅額門と呼ばれます。

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綱吉の霊廟は、歴代将軍の仲でもっとも整ったものの一つであったと言われていますが、綱吉の霊廟も、維新後に一部が解体されたり、第二次世界大戦で焼失したりしていて、勅額門は、これらの災害を免れた貴重な遺構で重要文化財に登録されています。

3代将軍家光の霊廟

 寛永寺に眠る将軍は6人ですが、この6人の霊廟のほか、江戸時代の一時期、3代将軍家光の霊廟がありました。

家光は慶安4年4月20日になくなり、その遺骸は寛永寺に移され、初七日にあたる26日に寛永寺を発し日光に移され、日光の地蔵山に埋葬されました。日光の大猷院は、家光が眠る霊廟ですが、死去1年後の慶安5年に寛永寺にも家光の霊廟が建立されました。

 この霊廟は享保5年に焼失してしまいました。厳有院殿霊廟の勅額門の台東区教育委員会の説明板に「この勅額門は昭和32年(1957)の改修時に発見された墨書銘によって、もと家光の上野霊廟の勅額門であったものを転用したものと考えられる。」と書いてありますので、焼失後は再建されなかったものと思います。

 現在、江戸時代に寛永寺の塔頭であった林光院が、上野国立博物館の東側にありますが、その山門前に、「東叡山大猷院殿尊前」と刻まれた燈籠が2基設置されています。この石燈籠が家光の霊廟があったことのわずかな名残りです。

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赤印が寛永寺根本中堂です。青印が東照宮です。
オレンジ印が両大師です。緑印が家綱霊廟勅額門です。
ピンク印が綱吉霊廟勅額門です。紫印が林光院です









by wheatbaku | 2019-10-05 13:30 | 新江戸百景めぐり
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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