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小石川後楽園①(新江戸百景めぐり57-1)

小石川後楽園①(新江戸百景めぐり57-1

 昨年の秋に、神田上水のなごりの地を探して小石川後楽園に行き、神田上水の跡をこのブログでも紹介しました。

 小石川後楽園は、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)でも84ページの第36景で出紹介されていますので、新江戸百景めぐりの一つとしてご案内します。

 

小石川後楽園の概要

小石川後楽園は、水戸藩徳川家の初代藩主の徳川頼房が、寛永6年(1629)に作り、2代藩主の徳川光圀が完成させた江戸期の代表的な大名庭園です。

 関東では、後楽園とは、この小石川後楽園を指しますが、岡山にも後楽園があることから、正しくは小石川後楽園と呼びます。

 もともと後楽園といっていたのは、ここの後楽園で、岡山の後楽園は、明治4年までは「御後園」と呼ばれていて、後楽園と呼ばれていなかったそうです。しかし、岡山の後楽園が、大正11年に、国の名勝に指定された時に「後楽園」とされました。小石川後楽園が名勝に指定されたのは大正12年でしたので、後楽園という名称を使えなかったため「小石川後楽園」と称したという経緯があります。

 後楽園という名前ですが、四文字熟語に「先憂後楽」という言葉ありますが、この「先憂後楽」から採られた名前です。

 「先憂後楽」というのは《范仲淹「岳陽楼記」の「天下の憂えに先んじて憂え、天下の楽しみに後(おく)れて楽しむ」に由来する言葉で、政治を行う者は、常に民衆に先立って国のことを心配し、民衆が楽しんだ後に自分が楽しむという国家に対する心がけを述べた言葉です。

 小石川後楽園は、池泉回遊式庭園で広さが約2万1千坪(70,847.17平方メートル)ですが、いくつかの特徴がありますが、「名所写し」と「中国趣味」も特徴の一つです。

名所写しというのは、日本各地の名所を取り入れていることです。

小石川後楽園には、滋賀の琵琶湖、京都の大堰川、渡月橋、清水寺、音羽の滝、木曾の寝覚めの床などが取りいれられています。

と中国様式の取り入れが行われていることです。

 また、2代光圀は朱舜水の意見を聞いて、中国の要素を取り入れられています。西湖(せいこ)の堤や円月橋がそれです。

 小石川後楽園は、見所がたくさんありますが、今日は、この名所写しの景色をご案内します。次回、『中国趣味』の景色をご案内します。


小廬山 
 庭園の入口の左手に「小廬山」があります。 

京都の清水寺一帯は、中国の名勝地「廬山」にちなみ小廬山と言われています。
 園内にある大堰川上流の景色が、京都の清水寺に似ていることから、寛永17年に林羅山が「小廬山」と名づけました。現在は、オカメザサに覆われている丘が小廬山と呼ばれています。

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渡月橋 
 渡月橋は園内の川の景の入口にあたる部分にあります。
 京都と同じように大堰川にかかっています。
 この写真の右手が大堰川で、左手前方には西湖があります。

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大堰川 
 大堰川の川幅はかなりあり、川の景の中心を占めています。
 京都の嵐山を模したものです。
 大堰川は、3代将軍家光の好みでつくられたとされています。家光自身が指揮をとったとも言われています。
 大堰川の上流は通天橋につながり、下流には渡月橋がかかっています。
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屏風岩 
 屏風のようにまっすぐ屹立していることから屏風岩と呼ばれている岩で、大堰川の川原に作られています。

この石組は、三尊石組といわれる工法で組まれたものです。

三尊石組とは、阿弥陀三尊や釈迦三尊を石組で表したもので、中央の大きな石が阿弥陀様やお釈迦様を表し、両脇の石が脇侍を表しています。

3代将軍家光は頼房とは年齢も近いこともあり、後楽園作庭中から何度も水戸家を訪ねて、徳大寺左兵衛に指示もしていたそうです。その際に、腰を掛けたといわれる御腰掛石も残されています。

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清水観音堂跡 
 京都の清水寺を模して造ったもので、崖下から柱を組み上げせり出していてすばらしい見晴らしだったと言われています。
 堂内には、室町時代の作と言われる如意輪観音が安置されていましたが、関東大震災により観音堂が焼失する直前に持ち出されて、現在東京都が管理しています。

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通天橋 
 清水観音堂跡を過ぎた場所で大堰川の上流部に架けられた橋が通天橋です。

京都の東福寺の「通天橋」は、紅葉の名所として有名ですが、この通天橋は、その京都の東福寺の「通天橋」にならって、大堰川に朱塗りの橋をかけたものです。
 紅葉の時は大変見事です。

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音羽の滝 
 通天橋のすぐ下にある石組みが音羽の滝です。

これも清水寺の音羽の滝を模したものです。

写真右手に「音羽の滝」の説明板です。

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愛宕山 
 小石川後楽園には愛宕山の写しもあります。山といっても石段です。 
 その石段は、京都の愛宕山の坂を模してつくられた石段ですので愛宕山と名づけられています。石段は47段もの石段となっていて、あまりにも勾配が急で昇り降りが危険ですので、通行できないようになっています。
 石段の上に八卦堂跡があります。

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一つ松 
 後楽園の中央に広がった大きな泉水は琵琶湖に見立てられています。

一つ松も近江の唐崎の一つ松を模したものと言われています。光圀はこの松を非常に大切にしたそうですが、この松はその時代のものではなく、何度か植え替えられた後の松です。

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蓬莱島 
 琵琶湖に見立てられた大泉水の中央にある島は蓬莱島と呼ばれています。
 蓬莱島は中国に古くからあった神仙思想に基づく島で、大名庭園には必ずといっていいほど出てきます。
 蓬莱島は亀の形をしているといわれていて、後楽園の蓬莱島も亀の形をしています。
 徳大寺石は、亀の頭の位置に据えられています。

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徳大寺石 
 蓬莱島の正面にある大きな石が、徳大寺石と呼ばれる有名な石です。
 水面上の高さが約3.5mあるそうです。
 頼房が満足する石組みにならなかったので、京都から徳大寺左兵衛を呼んで組ませたので、徳大寺石という名がついたと言われます。

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竹生島 
 大泉水は、琵琶湖を模したと言われていますので、大泉水の奥には竹生島の名所写しがあります。写真に写っている岩の数個の塊が竹生島と呼ばれています。
 小さな岩が大泉水の中に置かれていますので、注意していないと、気がつかずに見落とされてしまうかもしれません。

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寝覚の滝
 大泉水の南側奥の樹林の中に瀧があります。それが寝覚の滝です。

 木曾に目覚の床という名勝地がありますが、それを写した風景です。

 寝覚の滝を流れ落ちる水は内庭の泉水の水が流れでたものです。

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木曾山

寝覚めの滝を流れ落ちた川は木曽川とされています。

そして、木曽川に見立てられて川の周辺の林が木曽山です。

当初は棕櫚の木が多かったので棕櫚の林と呼ばれていたようです。

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竜田川

大泉水の南側に、細流が流れています。これが竜田川です。

大和の竜田川を写したものです。竜田川は紅葉の名所として有名です。そこで竜田川の脇には、楓の木が植えられています。下写真の右手が竜田川、左手が楓の林です。

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# by wheatbaku | 2020-01-16 15:19 | 新江戸百景めぐり
護国寺② 護国寺に眠る有名人(新江戸百景めぐり56-2)

護国寺② 護国寺に眠る有名人(新江戸百景めぐり56-2

 今日は、新江戸百景めぐりの護国寺の2回目で、護国寺に眠る有名人をご案内します。護国寺には、大勢の有名人が眠っていますが、江戸時代の有名人はほとんど眠っていなくて、明治以降の有名人が眠っています。今日は、そうした有名人の中で特に有名な人のお墓をご案内します。


 護国寺でのお墓参りは、護国寺の本堂(観音堂)の中にある寺務所にお願いするとお墓の地図を無料で配布してくれますので、それを見ながらお参りするといいと思います。

 お墓は、本堂の東側と北側そして北西側に大きく広がっています。今日は南東側から北西側に順にご案内します。

安田善次郎

 安田善次郎は、安田財閥の創設者です。安田財閥は、現在は多くの企業が合併して名称が変わっていますが、昔の富士銀行、安田生命、安田火災などが主要企業です。

 安田善次郎の墓所は、本堂の南東側にあります。前回ご案内した鐘楼の東側にあります。

 周囲は塀で囲まれています。正面は下写真のように立派な門があります。 

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 周辺が塀で囲まれているため、中には入れません。
 下写真は、前面の扉の隙間から写したものです。
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 安田善次郎は富山県富山市の出身ですが、江戸に出て両替商で奉公しました。

 このころに、後で紹介する大倉財閥の創設者大倉喜八郎と知り合っています。

その後、独立し安田商店(のちの安田銀行)を開業し、金融業を中心に、業務を拡大し、安田財閥を育てあげました。

 ところで、安田善次郎がどのようになくなったか、ご存知ですか。

 実は、大磯の別荘で、右翼の人物に刺殺されているのです。安田善次郎は、世間的な寄付を好まなかったので誤解され殺されたといわれています。

しかし、実は多くの寄付を行う意向がありました。安田善次郎は、暗殺される前、東大の安田講堂の寄付を約束していました。また、日比谷公会堂も、安田善次郎が寄付すると生前約束していたものです。

この二つとも安田善次郎の死後に完成しました。

大隈重信

 大隈重信のお墓は本堂の北東に広い墓域を占めています。 

 墓所の前に鳥居があるので、よく目立ちます。 

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大隈重信は、早稲田大学の創設者として、あるいは総理大臣経験者として有名です。

 大隈重信は、肥前国の出身者です。肥前藩は、明治維新後は薩長土肥として有力な藩閥を形成しましたが、幕末の倒幕運動にはあまり大きな力を発揮しなかったようです。

 大隈重信も、倒幕運動の中では目立った実績はありませんが、明治新政府になってから頭角を発揮し、参議や大蔵卿を兼任し活躍しました。
 大久保利通が暗殺された後は、明治政府の中心人物となりました。しかし、明治14年、即時議会開設を主張したこともあって、薩長藩閥勢力に排斥され、10月参議を辞任しました。これはが「明治十四年の政変」と呼ばれる事件です。

政変後、政党結成を実行に移し、立憲改進党を結成してその総理となり、また東京専門学校(1902年早稲田大学と改称)を創立しました。

その後、第一次伊藤博文内閣で外務大臣に復帰し、条約改正に努力しましたが、そのさなか、爆弾を投げつけられました。幸い命は取りとめましたが右足を切断する重傷を負いました。

その後、2回、総理大臣を経験しています。

大隈重信は、早稲田大学を創立したように教育にも熱心で、同志社大学や日本女子大学の設立も支援をしています。

大正11110日胆石症で死去し、日比谷公園で国民葬が行われました。

 この時、早稲田の私邸から日比谷公園に向かう行列には早稲田大学関係者2万人が参加したといわれています。また、国民葬には10万人が参列し、行列は神田橋まで続いたそうです。そして、葬儀の後、葬列は護国寺に向かい、埋葬されました。

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松平治郷(はるさと) 

 大隈重信の墓所の北側に、出雲国松江藩主松平家の墓所があります。松江藩の幕末の石高は18万6千石ですが、18万石の墓所としてはあまり広くはありません。その松平家の墓所の入り口にの第7代藩主松平治郷の墓があります。

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 松平治郷は不昧(ふまい)と号したので、松平不昧のほうが有名かもしれません。松平治郷は、17歳で松江藩藩主となりました。それは、家老朝日丹波を中心とした御立派(おたては)の改革の中で擁立されました。改革は勧農抑商を基調として藩財政の立て直しをすすめ成功しましたが、朝日丹波が隠居した後に財政状況はふたたび悪化し、寛政8年(1796)からは治郷自身が親政した後、56歳で隠退しました。その後は、江戸品川の別邸大崎園に数々の茶室を営み風流三昧の生活を送りました。

 松平治郷は、お茶を将軍御数寄屋頭の伊佐幸琢(こうたく)にまなび、石州流不昧派を起こしました。藩財政の好転に伴い道具収集に乗り出し、江戸後期最大の収集者となり、収集した名物道具を分類整理して『古今名物類聚(ここんめいぶつるいじゅう)18巻を著しています。

三条実美

 三条実美の墓所は、本堂の北側にあります。三条実美のお墓の前にも鳥居があります。

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三条実美は、幕末には、攘夷派の若手公卿として活躍しましたが、8月18日の政変で京都を追われて長州に下ったのち、長州征伐で大宰府に移りました。
 王政復古により京都に戻ることが許され、明治新政府では、太政大臣となり明治政府の最高官となりました。
 その後、明治18年内閣制度が発足した際に内大臣となりました。

最初の総理大臣は伊藤博文ですが、この際、三条実美も有力候補者でした。

しかし、総理大臣を選ぶ会議で、英語がわかる人物ということから、伊藤博文が総理大臣ときまった逸話があるそうです。

明治24年(1891年)に55歳でなくなり、護国寺に埋葬されました。

三条実美の墓所の入り口には大きな神道碑があります。この神道碑は国家に功績のあった人物を顕彰するために建てられた碑で、その人物の墓所参道に建てられました。

三条実美のほかに、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、島津久光、大原重徳などの神道碑が明治天皇の命令により建てられました。

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山県有朋

 本堂の北側には多くの人が眠っています。その中に山県有朋の墓所もあります。

 山県有朋の墓所も塀で囲まれていて、入口は鍵がかかっているため中に入ることができません。また、お墓が入口の正面にないため、お墓を正面から撮ることはできません。下写真は墓所の脇から撮影したものです。奥が山県有朋のお墓です。

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山県有朋は、長州出身の政治家・軍人です。松下村塾(しょうかそんじゅく)に学ぶ。長州藩倒幕派に加わり、高杉晋作がつくった奇兵隊軍監として活躍しました。

 明治新政府では、徴兵制を実現し参謀本部を設置し初代参謀本部長になるなど近代軍制の基礎を築きました。

 政治家として、2回総理大臣を務め、伊藤博文が暗殺された後は、政界・軍部・官界に絶大な影響力を発揮しました。

 しかし、最晩年は宮中某重大事件を引き起こし、大正1121日失意のうちに没し、国葬が行われました。

 この直前に行われた大隈重信の葬儀には多くの国民が参列しましたが、山県有朋の国葬には、軍人中心に1000人程度が参列するという状況だったそうです。

築庭・造園に趣味をもち、目白の椿山荘は、山県有朋の別荘でした。東京の椿山荘、京都の無鄰菴、小田原の古稀庵庭園も山県有朋に関係する庭園です。


大倉喜八郎

大倉喜八郎は大倉財閥の創設者です。大倉喜八郎の墓所は、山県有朋の墓所に行く手前にあります。下写真の東側が大倉喜八郎のお墓です。右は夫人のお墓です。

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大倉喜八郎は、新潟県新発田の名主の家に生まれ、江戸に出て、かつお節店の店員となった後、独立し銃砲店を開業し、幕末、維新の動乱に乗じて販売を拡大しました。

戊辰戦争を目前に控えた時期で、洋式兵器の注文は新政府軍、幕府軍の双方から注文がありました。新政府軍が上野の山に立てこもった彰義隊を攻撃する前夜に大倉喜八郎は突然、官軍に鉄砲を売っていたことで、彰義隊に連行されましたが、「官軍は現金払いなので売った」と説明し解放されたというエピソードがあります。

明治維新後は欧米視察のうえ、明治6年、大倉組商会を設立して貿易および用達事業に乗り出し、台湾出兵、西南戦争、日清戦争、日露戦争の軍需物資調達で巨利を得ました。

この間、大倉組商会は合名会社大倉組に改組され、大正期には大倉商事、大倉鉱業、大倉土木の3社を事業の中核とする大倉財閥となりました。

とくに中国大陸への事業進出に積極的で、中国軍閥との関係も深かいものがありました。
 ホテルオークラは、大倉喜八郎の自宅後に建てられたものです。

ホテルオークラに隣接する大倉集古館も大倉喜八郎が設立したものです。また、東京経済大学は大倉喜八郎が作った大倉高等商業学校が発展したものです。

 昭和3年に大腸がんのため永眠しました。享年92歳でした。

山田顕義
 本堂の西北に大きな墓所があります。山田顕義の墓所です。
 きれいに整備されている明るい墓所です。

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 山田顕義は、長州藩士の長男として生まれ、吉田松陰)の松下村塾に学び、尊王攘夷運動に参加し、、蛤御門の戦いや四国連合艦隊との戦いに参加しています。戊辰戦争の箱館五稜郭の戦いでは、海軍参謀として榎本武揚軍と戦いました。
 明治維新後、陸軍少将となり、岩倉具視の遣欧使節に随行しフランスはじめ各国の兵制を調査し、帰国して東京鎮台司令長官となりました。佐賀の乱征圧のため九州に出征し、西南戦争には別働第二旅団長として出征し、戦後、陸軍中将に昇進しました。
 第一次伊藤博文内閣に司法大臣として入閣し、以後第一次松方正義内閣まで4内閣に司法大臣として留任、条約改正の前提として法典編纂にあたりました。
 山田顕義は、日本大学の創設者でもあります。日本大学は、山田顕義が司法大臣の時に開設した日本法律学校を起源とした大学です。
 神道の擁護にも熱心で、有栖川宮幟仁(たかひと)親王を初代総裁とする皇典講究所の初代所長に就任し、国学院(國學院大学の前身)を創設しました。
 なお、1891年に起きた大津事件では、担当大臣として大逆罪を適用するよう大審院の裁判に圧力をかけたことでも有名です。
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 護国寺には、このほか、島津家、南部家、ジョサイア・コンドル、益田鈍翁、団琢磨などのお墓があり、それぞれお参りしましたが、長くなるので、このあたりで一区切りさせてもらいます。




# by wheatbaku | 2020-01-13 14:50 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
護国寺①(新江戸百景めぐり56-1)
護国寺①(新江戸百景めぐり56-1)

 2020年のお正月も松飾りもとれてビジネスマンも仕事を本格的に始める時期です。

 このブログでも、昨年からシリーズで書いている「新江戸百景めぐり」を順に書いていきたいと思います。

 今日は、護国寺について書いていきます。護国寺は昨秋に訪ねていますが、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では95ページの第47景で紹介されています。

 下写真は、正面からみた観音堂(本堂)です。

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護国寺の歴史

護国寺は、奈良の長谷寺を総本山とする真言宗豊山派の大本山で、正式には神齢山悉地院護国寺(しんれいざんしっちいんごこくじ)といいます。

天和元年(1681)、5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の発願により創建されました。

 桂昌院は、上野国碓氷八幡宮の別当大聖護国寺の亮賢に深く帰依しました。

亮賢は、大和国長谷寺で修業した僧で、当時、霊験ある祈祷僧として有名でした。

そこで、桂昌院が懐妊したとき、亮賢に占ってもらうと「この子は将来、天下を治める器である」とのことでした。喜んだ桂昌院は亮賢に安産祈祷を命じます。こうして無事に生まれた子が、のちの綱吉です。

この後、亮賢は護持僧として桂昌院に仕えるようになりました。

 綱吉が将軍になった翌年の天和元年(1681)に、桂昌院の願いにより、亮賢を開山に招いて将軍家が所有していた高田薬園の地に創建されたのが護国寺です。

護国寺は、桂昌院の信仰する念持仏「天然琥珀如意輪観世音菩薩」をご本尊として、当初は将軍家の私的な祈願寺として建立されました。創建当初の寺領は300石でした。

 天和3年2月、桂昌院は初めて護国寺に参詣し、元禄3年(1690)11月には将軍綱吉が訪れます。その後、元禄7年には綱吉・桂昌院が一緒に護国寺に参詣し、寺領は加増されて600石になりました。

 桂昌院の護国寺への参詣は年2回が定例になり、生涯で15回参詣していて、そのうちの4回は、将軍綱吉も桂昌院と一緒に参詣しています。

 護国寺には、江戸時代の建築物が数多く残されていますので、それらを中心に重要な建物を順にご紹介します。

仁王門

 仁王門は、不忍通りに面して建っています。切妻造り、丹塗りの八脚門で、桁行は11.5m、梁間6m、軒高5m、棟高5mあります。建立は、元禄10年に造営された観音堂(現本堂)よりやや時代を下ると考えられているようです。

正面両脇間には金剛力士像(向かって右に阿形、左に吽形)が、門の裏側両脇には仏法を守る仏像である二天像(増長天、広目天)が安置されています。

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惣門

 仁王門は地下鉄の出口のそばにあるため、護国寺の門というと仁王門のほうが目立ってしまいますが、仁王門の東側に立派な門があります。これが惣門です。

 惣門は、将軍綱吉あるいは桂昌院の御成のために造られた御成門です。5万石以上の大名の格式で造られたものです。大名屋敷の門で現存しているものは、大部分が江戸時代後期のものなので、元禄年間のものは非常に貴重なものとして文京区の有形文化財に指定されています。

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不老門 

 不老門は、仁王門をくぐってまっすぐ本堂(観音堂)へとつづく石段の中腹にあ り、中門の役割を果たしています。昭和13年4月に三尾邦三氏の寄進により建立されたもので、護国寺境内では比較的新しい建物です。

鶴は千年、亀は万年といわれように、この門をくぐれば病気にならず、長寿の願いが叶うといわれる門で、形式は天狗や牛若丸で有名な鞍馬山の山門を模しものだそうです。正面に高く掲げられている「不老」の二字は徳川家達公のご執筆です。

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石段の下の左右には水舎があり、ここには桂昌院により寄進された手水水盤が置かれています。この手水水盤は、元禄10年(1678)に製作されたと考えられています。

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元禄年間奉納の銅灯籠

 不老門をくぐり、本堂に向かう石段を登ると両側に銅灯籠があります。

 下写真は右側の銅灯籠です。

 よくみると谷村藩主秋元喬朝が元禄10年に寄進したと刻まれています。

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大師堂

 本堂手前東側の一段低くなった場所に大師堂があります。大師堂は、元禄14年(1701)に再建された旧薬師堂を、大正15年(1926)以降に修理して、現在地に移築して大師堂としたものです。擬宝珠(ぎぼし)には宝永2(1705)、正面前方の石灯籠には寛政2年(1790)の銘があります。

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鐘楼

 本堂の右手手前には鐘楼があります。鐘楼形式のなかでも格式の高い袴腰付重層 入母屋造りという形式で造られていて、江戸時代中期の建立とのことです。

袴腰は石積みを擬した人造石洗出仕上げでできています。天保7年(1836)刊行の『江戸名所図会』に描かれていて、焼失した記録がないことから、現在の鐘楼は天保期から存在していたことになります。

 鐘楼の梵鐘は、天和2年(1682)に寄進されたもので、現在は本堂内部の南西隅に吊るされています。銘文には、徳川綱吉の生母桂昌院による観音堂建立の事情が述べられているそうです。本堂隅にありますので、見落とさないように気をつけ

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てください。

月光殿        

 月光殿は、もと大津三井寺の塔頭日光院の客殿を移築したもので、国指定重要文化財です。

桃山時代の建立で、織田信長の時代に大修理を行なっています。

桃山期の書院風建築の代表的なもので、床の間の壁画は狩野永徳の筆と伝えられ、水墨で蘭亭曲水の図が描かれています。ほかの襖絵は狩野派の絵師による花鳥図が描かれていたそうですが、現在は原美術館が所蔵しています。

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観音堂(本堂)

 現在の観音堂は、元禄10年(1697)に、半年余りの工期をかけて完成しまし た。

当初の観音堂は、天和2年(1682)に建てられたもので、36坪という小規模な建物でした。

元禄10年に建て替えられた観音堂は、元禄時代の建築工芸の粋を結集した単層・入母屋造りの屋根をもつ大建造物で、十四間十一間半(広さ161坪)の規模を誇ります。ちなみに、この観音堂の材木は紀伊国屋文左衛門が調達したものだそうです。

 観音堂は幸いにも関東大震災や戦災を免れて、元禄時代の姿を今に留めており、昭和25年に国の重要文化財に指定されました。元禄時代の大建築物が東京に残っていることに驚かされるとともに、都内とは思えないような光景に心を打たれます。

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☆如意輪観世音菩薩像

護国寺のご本尊様は、桂昌院の念持仏だった天然琥珀製の六寸五分の如意輪観世音菩薩像です。この琥珀製の観音像は、元禄13年(1700)に秘仏本尊として奥ノ院に移されました。

そして、新たに平安時代の恵信僧都作と伝えられる木製の如意輪観世音菩薩像が祀られました。

木製の新しい観音像は、大老堀田正俊の母堀田栄隆尼により寄進された五尺六寸の六臂の観音様で、毎月18日の御縁日だけに開帳されます。

今回、観音像の写真撮影を護国寺様にお願いしましたところ、護国寺様が撮影された写真の転載をお許しいただけました。右の写真は護国寺様のHPから転載させていただいたものです。

☆『悉地院 (しっちいん)』の篇額

本堂内陣の上に、徳川綱吉直筆の『悉地院(しっちいん)』の篇額が掲げられています。これは、観音堂造営の記念として奉納された横3尺5寸、縦7尺の檜の板に刻まれたものです。綱吉直筆の額が残されていることに驚きました。

なお、本堂内は撮影禁止ですが、以前に護国寺様の特別のご配慮によりご許可いただいた上で写真撮影させていただいた時の写真を掲載させていただきました。

護国寺①(新江戸百景めぐり56-1)_c0187004_18514018.jpg
赤印が護国寺の仁王門です。
青印が護国寺の惣門です。仁王門の東側にあります。
緑印が本堂(観音堂)です。









# by wheatbaku | 2020-01-09 18:40 | 新江戸百景めぐり
日本橋七福神めぐり(~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩 神田駅編)

日本橋七福神めぐり(~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩 神田駅編)

昨日は、毎日文化センターの~「山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩」で、神田駅からスタートして、日本橋七福神めぐりをしてきました。

 昨日は晴天に恵まれましたが、風が強くて、寒さが厳しかったので、七福神めぐりの後のお酒が一段とおいしかったです。

ご参加いただいた皆様、寒い中おつきあいいただきありがとうございました。

 昨日のコースは次の通りです。

神田駅 ⇒ 今川橋 ⇒ 時の鐘跡 ⇒ 長崎屋跡 於竹大日如来井戸跡 ⇒ 宝田恵比寿神社 ⇒ 椙森神社 ⇒  元吉原跡 ⇒ 富沢稲荷神社 ⇒ 笠間稲荷神社 ⇒ 末廣神社 ⇒ 〈甘酒横丁〉 ⇒ 松島神社 ⇒ 水天宮 ⇒ 茶の木神社 ⇒ 牡蠣殻銀座跡 ⇒  西郷隆盛邸跡 ⇒ 小網神社 ⇒人形町駅

 昨日の散歩は、元吉原がどの辺りにあったのかも詳しく説明しましたが、日本橋七福神めぐりがメインでしたので、その写真を中心にご案内します。

 

〈椙森神社〉

 椙森神社は、平将門が朝廷に反乱を起こした天慶の乱の時に藤原秀郷が戦勝を祈願した所とも言われます。また太田道灌が雨乞い祈願のため、伏見稲荷神社の神様を勧請して信仰したとも伝えられています。

 江戸時代には、神田にある柳森神社、新橋にある鳥森神社とともに江戸城下の三森の一つに数えられ、椙森稲荷として庶民の信仰を集めました。 

 椙森神社にお祀りされている七福神は恵比寿様です。

 七福神巡りの札所の多くでは、お正月の7日までは、七福神を開帳しているのですが、椙森神社では、恵比寿様は、10月19日20日の恵比寿祭りの時にだけ開帳されるそうで、お正月も開帳しないそうです。 

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〈笠間稲荷神社〉

江戸時代、人形町に笠間藩牧野家(藩祖は牧野成貞)の下屋敷がありました。

そして幕末の安政6年(1859)に、笠間藩8代藩主牧野貞直が常陸の笠間稲荷神社より分霊を受けて建てられたのがこの笠間稲荷神社です。

笠間稲荷神社は別名紋三郎稲荷と言われます。

それを題材にした落語に「紋三郎稲荷」というお話があります。この落語の冒頭に、ここの笠間稲荷神社が紹介されています。 

 笠間稲荷神社には、七福神のうちの寿老人が祀られています。

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〈末廣神社〉

 江戸幕府が開かれる直前の慶長元年(1596)に既にお稲荷様が鎮座していたそうです。

末廣の名は、延宝3年(1675)に 社殿を修復した際、本殿から末廣の扇が出たことに因むそうです。

この末廣神社は、ここに吉原があるころは、その氏神様として、大変信仰されました。吉原が移転した後は、幕府に仕える役人が多く住むようになり、その武家から篤く信仰されたといいます。

末廣神社にお祀りされている七福神は毘沙門天です。 

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〈松島神社〉

 松島神社の由緒は、鎌倉時代末期の元亨年間以前の創建と伝えられているそうです。

 当時、この辺りは入り江の小島であり、下総からここに移住してきた柴田家が自分のお屋敷の中に祀ったとされています。島内に松が生い茂っていたことから松島稲荷大明神と呼ばれたといいます。

松島神社でお祀りされている七福神は、大国様です。

大黒様は、一般的には大黒と書くことが多いのですが、松島神社では、大国と書いています。それは、出雲の神様の大国主神(おおくにぬしのかみ)をお祀りしているからです。

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〈水天宮〉

水天宮は、安産の神様としても有名な神社ですので、参拝客が大勢いました。

水天宮の総本宮は九州の久留米にあります。

 江戸の水天宮は、久留米藩第9代藩主有馬頼徳(ありまよりのり)が、久留米から分霊を勧請して、文政元年(1818)、現在の港区にあった久留米藩の上屋 

その後、明治維新を迎えて、水天宮は明治4年に青山の中屋敷に移り、さらに翌年、日本橋蛎殻町の下屋敷すなわち現在の場所に移転しました。

水天宮にお祀りされている七福神は宝生弁財天です。 久留米藩9代藩主有馬頼徳(よりのり)が加賀藩11代藩主前田成広(なりなが)と宝生流能楽を競われた際に、弁才天に願掛けして、勝利をおさめたことから宝生弁才天と呼ばれています。 弁財天は、琵琶を抱く色白の美女の姿で表されることが一般的になりました。

 下写真の正面が水天宮で左の御社が宝生弁財天の社殿です。

 最近改築したので、両方の社殿とも非常にきれいです。

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〈茶ノ木神社〉

茶ノ木神社は地元ではお茶ノ木様と呼ばれて親しまれています。

 お祀りしてあるのはお稲荷様です。

 江戸時代、この土地は、約3000坪もある下総佐倉藩堀田家の中屋敷でした。茶ノ木神社は、その守護神として祀られたものです。

 神社のまわりに丸く刈り込まれた茶の木が植えられていて、それが大変素晴らしかったので茶ノ木神社と呼ばれようになったそうです。

 数年前までは、茶ノ木神社は町家の中の目立たない神社でしたが、再開発ビルのリガーレ日本橋人形町が建設されるに伴って平成19年に建て替えられ、様変わりしました。

 茶ノ木神社にお祀りされている七福神は布袋様です。

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〈小網神社〉

 日本橋七福神の中で、参拝客が多かったのが水天宮と小網神社でした。

 参拝する人の列が長く続いていました。

 小網神社は、室町時代中期京都で応仁の乱がおころうとしている頃の文正元年(1466)に創建された神社です。創建以来550年がたつ神社です。

もともとは、稲荷神社が起源で、「小網稲荷神社」といっていたそうです。

明治の初めに現在の「小網神社」と名前をかえました。

 小網神社では、七福神は、福禄寿と弁財天が祀られています。

 弁財天は、この境内にあった万福寿寺というお寺に安置されていたものだそうです。

明治2年に、そのお寺が廃止されたため、小網神社にお祀りされるようになったものです。それにちなんで、万福舟乗弁財天といいます。別名東京銭洗い弁天と呼ばれています。

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七福神めぐりでは、次のような地図を配布してくれました。


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# by wheatbaku | 2020-01-06 18:29 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
日枝神社(新江戸百景めぐり55)

日枝神社(新江戸百景めぐり55)

今日は、日枝神社に初詣に行ってきました。 

 日枝神社には、赤坂側と永田町側からお参りできますが、今日は永田町側の山王男坂から向かいました。

日枝神社にお参りする際に気がつくのが鳥居です。 

日枝神社の鳥居はよく見かける鳥居と違った特徴のある鳥居です。この鳥居は「山王鳥居」と呼ばれています。(下写真)

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鳥居の形は、大きく分けて「神明鳥居」と「明神鳥居」があります。神明鳥居」というのは伊勢神宮の形式で東京では「靖国神社」の鳥居が有名です。「明神鳥居」というのは「神田明神」の鳥居です。

この山王鳥居は、明神鳥居の一種で、明神鳥居の上部に三角形の破風(屋根)が乗った形をしています。

山王鳥居の上の三角形の上の2辺を開くと山という字になり、その2辺を上にあげると王という字になります。あわせて山王となります。山王鳥居にはこんな意味があるようです。

山王男坂は、非常に急な階段で、石段の標柱には五十三段の石段があると書いてあります。

今日は、その石段の途中からもう初詣客が並んでいるのでびっくりしました。(下写真)

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 男坂を登ると目の前にあるのが神門です。この神門は、「随身門」です。

 神道において、祭神を守る者として安置される像のことを「随身」といい、随神とも書かれます。また、門守神(かどもりのかみ)とも言う。

神社の門のうち、門の左右に随身像を安置した門は「随身門」と呼ばれます。

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神門を潜ると正面に本殿が見えてきます。

正面にある本殿は昭和33年造営されたものです。

戦前までは、万治2年御造営の社殿があり、国宝に指定されていましたが、昭和205月、空襲により、末社山王稲荷神社を残し全て焼失してしまいました。

現在の本殿は鉄筋コンクリート製です。
 今日は、神門から本殿までの間に参拝客が一杯でした。

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日枝神社は、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)132ページの第71景でも紹介されているので、ここで日枝神社の歴史をお話しておきます。

日枝神社は江戸時代には山王権現といわれていました。

江戸を開いた江戸氏は、江戸の守護神として山王宮を祀ったと社伝では書いてあります。
 そして、太田道灌が江戸城を築城するにあたり、鎮護の神として川越山王社を江戸城内の梅林坂に勧請したされています。

今日は、日枝神社の中に神酒所が設けられていて、お神酒がふるまわれていました。

その銘柄が太田酒造の「道灌」でした。こんな所にも太田道灌との縁が感じられます。
 ところで太田酒造の「道灌」はどこの酒か調べてみました。すると滋賀県草津市の酒造メーカーで、製造元の太田家は太田道灌を先祖にもっているそうです。

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徳川家康が江戸に入府し江戸城を居城とするに至って、江戸城内に山王権現が鎮座していることから「将軍家の産土神」とされました。

2代将軍秀忠の時の江戸城大改造の際、城内紅葉山より新たに社地を半蔵門外に定め、社殿を新築して遷祀されました。

 この地は元山王と称されていて、現在の半蔵門近くの国立劇場附近です。

 しかし、この社殿は、明暦3年(1657)の大火で炎上してしまいました。

その時の4代将軍家綱は直ちに赤坂の溜池を望む福知山藩松平忠房の屋敷地を収容して社地に充て、社殿を造営して遷座しました。これが現在の日枝神社です。
 この地は、江戸城の南西の方角つまり裏鬼門にあたり、裏鬼門を守護していました。
 江戸時代には、山王権現、山王社とも呼ばれ、江戸っ子からは山王様と親しまれていました。

明治元年には神仏分離令が発令され、社名も山王権現から日枝神社に変更し現在に至っています。

日枝神社の日枝は、京都にある比叡山の比叡を同じ意味です。
 比叡山は、昔は「日枝山」と書いた書物もあるそうです。

 日枝神社は、将軍家の産土神でした。そのため、その名の通り、将軍の初宮詣が山王権現で行われました。

 初めて初宮詣でした将軍は、3代将軍家光です。その後、4代将軍家綱、5代将軍綱吉が初宮詣でが行われました。その後は、将軍の実子が江戸城内で生まれていないため、しばらくの間、間があいて、10代将軍家治、11代将軍家斉の初宮詣でがされ、13代将軍家定の初宮詣でがされています。12代将軍家慶は江戸城内で生まれているのですが、なぜが日枝神社の社史には初宮詣でをしたとはのっていません。

 初宮詣をしているくらいですので、将軍の社参もしばしばされています。

 記録としては、5代将軍綱吉の社参が初めてのようです。

 綱吉が12回、6代家宣が2回、8代吉宗が2回、9代家重、10代家治、12代家慶が1回社参しています。

 さらに、毎年、年初めには、将軍家の初詣として 老中などによる代参が行われました。

 将軍家の産土神であった赤坂日枝神社ですが、今日は、お正月らしく、巫女による神楽舞も行なわれていました。(下写真)

 破魔矢の短冊に願意と名前を書いて巫女に渡すと巫女が神楽舞で諸願成就をお祈りした後、破魔矢を戻してくれていました。

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赤印が日枝神社です。












# by wheatbaku | 2020-01-03 18:36 | 新江戸百景めぐり
謹賀新年

謹賀新年


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 新年明けましておめでとうございます。 

 このブログも書き始めてから本年で12年目に入りました。
 我ながらよく続いているなぁと感心しておりますが、こんなに長く続いている源は、なんといっても多くの読者の皆様が熱心にお読みいただいていることです。

 おかげさまで、累計の訪問者数は既に125万人を超えていて、日々の訪問者数も上位にランクされております。

 日々の皆様のご愛顧に本当に感謝しております。

 こうした読者の皆様のご期待に沿えるよう引き続き頑張ります。本年の最初の記事は3日以降に書こうと思っておりますので、本年もどうぞよろしくお願いいたします。




# by wheatbaku | 2020-01-01 07:00
蓬莱園跡-平戸藩上屋敷跡(秋葉原散歩④)

蓬莱園跡-平戸藩上屋敷跡(秋葉原散歩④)

 本日は、大晦日です。

 今年1年間、このブログをお読みいただきありがとうございました。

 いつも熱心にお読みいただきありがとうございます。おかげさまでよい年を迎えられそうです。読者の皆様もよい年をお迎えください。

 今日は、蓬莱園跡-平戸藩上屋敷跡をご案内して、今年の書き納めとさせていただきます。

 現在、都立忍岡高等学校・柳北公園・柳北スポーツプラザのある一帯に、江戸時代、肥前国平戸藩主松浦(まつら)家の上屋敷があり、そこには蓬莱園という名園がありました。
 柳北公園の北西側の忍岡高等学校との境にある石碑「蓬莱園跡」と台東区教育委員会の説明板がそれを示しています。(下写真)

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平戸藩主松浦(まつら)家は、平安時代の武将渡辺綱までさかのぶる、大変古い出自を誇る家柄です。

初代藩主は松浦鎮信で、3代藩主松浦隆信の代の寛永9(1632)、松浦氏は、幕府からこの地を与えられ、小堀遠州が庭園を築造しました。

寛永18 年(1641)、もともと上屋敷だった元誓願寺前屋敷が焼失したことから、その翌年(1642)、鳥越の地を上屋敷としたと書いてあるものもあります。

上屋敷の面積は約15千坪ありました。上屋敷内の庭園は約2500 坪でその大部分が池泉だったそうです。この庭園が、江戸時代後期に蓬莱園となづけられました。

松浦家の歴代藩主の中で、とりわけ有名な殿様が9代目藩主の松浦静山です。

松浦静山は、随筆集「甲子夜話」を書いたことで大変有名です。

松浦静山は、安永4年(1775)に藩主となりました。そして、文化3年に起きた江戸の三大大火の一つといわれる文化3 年(1806 3 月におきた大火(俗に丙寅の火事・車町火事・牛町火事といわれる)で、松浦家の上屋敷が焼け、庭園も壊滅的な被害を受けたと推測されています。

当時藩主であった松浦静山は本所屋敷に退避し、その年11月にそのまま隠居したため、鳥越屋敷は新藩主松浦熈が居住する屋敷となりました。そして、10代藩主松浦熈の時代に、庭園は「蓬莱園」と命名されました。

明治初期の参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図」の地図によると平戸藩上屋敷は「松浦邸」とされていることから、明治以降は、松浦家の邸宅となっていたと思われます。

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柳北公園の北西の歩道脇の台東区教育委員会の説明板(上写真)によると、蓬莱園は明治40年刊行の『東京案内』には「文化文政の頃の築造に係り、東京名園中現存するものの一也」と記されているそうです。

また『浅草区誌』によると、大池を中心に、岡を築き、樹木を植え、東屋を建て、13基余の燈籠を配し、園内各所に雅趣ある名称を付した。面積は約2600坪に及び、池水は鳥越川から取り入れていたそうです。

しかし、蓬莱園は、関東大震災のために荒廃し、昭和12 年、東京都立忍岡高等学校建造のため、敷地は埋め立てられ、ついに消滅してしまいました。

現在は忍岡高等学校グラウンド東北隅に、「望潮の入江」といわれた池の一部と、都天然記念物指定の大イチョウを残すだけとなっています。(下写真)

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私が訪ねた時には黄葉がかろうじて残っていました。

 大イチョウは忍岡高校内あるため、近くで見るには、忍岡高校の許可が必要になります。上写真は、忍岡高校に許可を得て校内から撮影したものです。2回目にお邪魔した時には断られましたから、必ずしも常に許可されるわけではなさそうですので、ご注意ください。

 それでは改めて、皆様、よいお年をお迎えください。


赤印が「蓬莱園跡」の石碑と台東区教育員会の説明版設置場所です。
青印が忍岡高校内にある大イチョウです。





# by wheatbaku | 2019-12-31 09:16 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
金綱稲荷神社(秋葉原散歩③)

金綱稲荷神社(秋葉原散歩③)

 藤堂家上屋敷の東西は、AKKAP本社から和泉小学校辺りまでありました。

 現在は、その東側に、和泉公園があります。

 その和泉公園の東側に金網(きんつな)稲荷神社がありますが、この金綱稲荷神社に気付く人は少ないのではないでしょうか。

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しかし、金綱稲荷神社はかなり歴史のある神社です。

現在の運輸業界の大手である日本通運㈱の元となったのは、江戸の定飛脚問屋でした。

日本通運は明治4年(1871)に、4つの飛脚問屋が結成した陸運元会社からスタートしています。

その有力飛脚問屋の一つに京屋弥兵衛がありました。金綱稲荷神社は、この京屋弥兵衛が最初にお祀りしたものです。

金綱稲荷神社には、日本通運金綱稲荷神社奉賛会が寄進したご由緒を書いた石碑があります。

江戸の有力飛脚の一軒に当る飛脚問屋京屋弥兵衛が、徳川幕府から免許をうけて、大坂・京都・江戸間の運送事業を開始することになった際、お客様から頼まれた大切な手紙や金銭・貨物などを、安全正確に送り届けられことを願いました。その時、京屋弥兵衛は、京都の出身であり、伏見稲荷が、中世の頃盛んであった熊野参詣の道中を守護した道中安全の神様であること思い出して、伏見稲荷をお店に勧請しました。

 そして、ある夜、夢枕に王冠白衣のご神霊が立って「汝に黄金の綱を授ける」との詫宣がありました。そこで、早速自分の店で奉祀している神様に「金網(きんつな)」の名前をつけ、前にも増して篤く信仰しました。

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 それ以来、京屋の飛脚は、道中における災いが皆無となり、商売繁盛となりました。

これにより、京屋は、明治4年(1871)に陸運元会社になるまでの長い間、江戸時代を通じて商売を継続できました。

前述したように京屋は、ほかの飛脚問屋とともに明治5年に陸運元会社となりました。これ日本通運の源となるわけですが、陸運元会社は、さらに内国通運、国際通運となり、そして、日本通運となりました。

京屋弥兵衛が商売をしていたのは、日本橋の室町2丁目でしたので、金綱稲荷神社も元は、京屋の屋敷内にあったものと思います。それが、和泉町に移った時期や理由ははっきりしていないようですが、隣地に日本通運神田支店があったことと関係がありそうです。

金綱稲荷神社の隣には、現在日通本社ビルが建築中で、2021年には竣工するそうです。

 奉賛会の石碑(下写真)によると、日本通運では新造船に「金網丸」と命名し、航海の安全を祈ったところ、この金網丸に限り就航以来一度の海難事故はなく、奇跡といわれたこともあるそうです。

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また、大正1291日の関東大震災のとき、猛火が殆んど神田一面をなめつくし、今にも和泉町に延焼しようとしたその刹那、霊狐が、突然神田川沿いの屋上に現れ、炎上する火炎に立向い、それを追払う所作をしたといい、その神々しい姿が目に焼き付いているという話が地元に残っているそうです。



# by wheatbaku | 2019-12-28 18:28 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
藤堂家上屋敷跡と伊藤伊兵衛(秋葉原散歩②)

藤堂家上屋敷跡と伊藤伊兵衛(秋葉原散歩②)

前回藤堂家上屋敷跡の話を書きましたが、現在は藤堂家上屋敷跡を感じさせるものはほとんどありません。

そうした中で、藤堂家上屋敷跡の一部に建っているYKKAPの本社ビルの一画に「藤堂和泉守上屋敷を彩った樹々」と書かれた説明板があります。下写真の手前が説明板です。

藤堂家上屋敷跡と伊藤伊兵衛(秋葉原散歩②)_c0187004_14255420.jpg

説明板には、藤堂家の植木職を代々勤めた伊藤伊兵衛に縁のある樹木を植えたと書かれています。

その説明の通り、本社ビルの歩道脇には、上写真の通りいろいろな品種の樹々が全長約60メートルのコーナーに植えられています。

普通の生活では見かけることのないムラサキシキブなどが植えられていて、さながら小規模な植物見本園のような状態です。(下写真はムラサキシキブの実です。)

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また、「クロモジ」「シロモジ」といった植物もあります。「クロモジ」は楊枝として利用される木であることを知っていましたが、その仲間の「シロモジ」という木もあることは、初めて知りました。(下写真)

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これらすべてが、伊藤伊兵衛に縁のある植物であるかどうか確認できませんでしたが、大変興味深い植物が多く植えられています。植物が好きな人には興味深いコーナーだと思います。

そして、伊藤伊兵衛に関係する植木ももちろん植えられています。

伊藤伊兵衛は、豊島郡染井村の植木職でした。伊藤伊兵衛は代々襲名された名前であり、その三代目が伊藤伊兵衛三之丞、四代目が伊藤伊兵衛政武と考えられています。

藤堂家が染井に下屋敷を与えられたのは明暦4 年 (1658) のことです。明暦の大火後の大名屋敷の移動によるものと考えられています。

藤堂家の下屋敷が染井にあったことから、伊藤伊兵衛が藤堂家に出入りするようになり、三代目の伊藤伊兵衛三之丞は、藤堂家下屋敷の庭掃除などをする「露除(つゆよけ)」、つまり下男のような存在でした。そして、下屋敷で不要になった霧島つつじなど、多くの花木を自らの庭に移植し、多くの花や樹木を栽培し、特に霧島つづじが得意で、三之丞は、自らを「きり嶋屋伊兵衛」と称しました。YKKAPの本社ビルにも霧島つつじが植えられていました。(下写真)

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三代目三之丞は、わが国で最初の総合的な園芸書「花壇地錦抄( かだんじきんしょう)」を出版したことでも有名です。

 また伊藤伊兵衛正武も、父の『花壇地錦抄』をより完成したものにするため、『増補地錦抄』『広益地錦抄』『地錦抄附録』を刊行しました。 下写真は、豊島区郷土資料館に展示されている「地錦抄シリーズつまり上記3種類の地錦抄の続編」です。

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 正武の代には、伊藤伊兵衛の庭には、8代将軍吉宗や将軍世嗣(のちの9代将軍)の徳川家重が御成りになったことや、江戸城にも出入りしたことが記録に残っています。

 伊藤伊兵衛正武が、力を入れたのが、楓です。自ら晩年に「楓葉軒(ふうようけん)」と名乗りました。

正武は、『歌僊楓集』『新歌僊楓集』『追加楓集』を著し、100種類の楓を選び出し品種名をつけました。

 さらに、「三夕楓(さんせきかえで)之図」という楓の図譜も著しています。

 三夕楓というのは、新古今和歌集に載っている三夕(さんせき)の和歌にちなんで名づけられた三種類の楓の品種を言います。

三夕の和歌というのは、新古今和歌集の中の結びの句が「秋の夕暮」となっている優れた三首の和歌をいいます。

それは次の三首です。
 西行法師の
 「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮」
 藤原定家の
 「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」
 寂蓮法師の
「さびしさはその色としもなかりけり槙立つ山の秋の夕暮」

 伊藤伊兵衛正武は、この三夕の和歌にちなんで「鴫立沢(しぎたつさわ)」「浦苫屋(うらのとまや)」「槙立山(まきたつやま)」と名付けました。

 これらの三夕の楓のうち、「鴫立沢」だけが現存しています。その貴重な「鴫立沢」の楓が、AKKAP本社脇に植えられていました。(下写真)

 もう紅葉も過ぎて、落ち葉に近い風情ですが、来年は、新緑の頃、紅葉の頃に訪ねてみたいと思いました。

藤堂家上屋敷跡と伊藤伊兵衛(秋葉原散歩②)_c0187004_14255271.jpg

1226日追記】

 新編武蔵風土記稿巻之18の豊島郡上駒込村の中で「芸家伊兵衛」として、伊藤伊兵衛について詳しく書かれています。

 まず、享保123218代将軍吉宗が御成りになり、その際に霧島つつじなどが御用として買い上げられています。そして、425日に、江戸城内の台所口に呼び出され、小納戸役の松下専助から舶来の樹を見せられ、伊兵衛が見たことがないが「深山楓」に似ていると答えたところ、それを持ってくるように命じられました。 後日、植木盆に植えた深山楓を献上すると、その年の秋に、深山楓に接ぎ木した舶来の楓を下賜され、珍しい樹だから繁殖して広めるように命じられたと書かれています。 

 これが、現在「唐楓(トウカエデ)」と呼ばれている楓で、命名したのも伊藤伊兵衛正武だそうです。

 浜離宮恩賜公園には、大きな唐楓(トウカエデ)があります。下写真は以前撮影したものです。

藤堂家上屋敷跡と伊藤伊兵衛(秋葉原散歩②)_c0187004_12114243.jpg

浜離宮恩賜公園の説明では、この唐楓(トウカエデ)は、吉宗に清国の船が6株を献上し、1株は小石川御薬園(現・小石川植物園)に、5株は浜離宮に植えられたと伝えられているそうです。近くで葉の形をみると、まさにカエデです。(下写真)

藤堂家上屋敷跡と伊藤伊兵衛(秋葉原散歩②)_c0187004_12164563.jpg


赤印がAKKAP本社脇にある説明板の設置場所です。












# by wheatbaku | 2019-12-25 14:15 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
合格祝賀会で江戸検1級合格をお祝い!
合格祝賀会で江戸検1級合格をお祝い!

昨日は、今年の江戸検1級に合格した人たちの祝賀会がありました。

今年の8月に開講した「合格虎の巻講座」を受講してくれた35人の中から7人の合格者がでました。

 江戸検1級の合格者は、全体で20名ですので、合格者の三分の一が受講者の中から出たことになりました。
 その合格者の努力を慰労し合格を祝う会が、御茶ノ水で開かれ、皆さんをお祝いしてきました。

 祝賀会の開始が5時からでしたので、その前に神田明神にお参りしました。

 神田明神には、毎年、江戸検受検者の奮闘祈願をしています。今年も、1級合格者が大勢でるようにお願いをしていましたので、その御礼参りに行きました。

 日暮れ時にお参りしたのですが、大勢の参拝者がいました。拝礼するまで少し時間がかかりましたが、しっかりと御礼参りをしてきました。

 日暮れ時でしたので、大黒様もライトアップされていて、いつもとは違う表情の写真が撮れました。

合格祝賀会で江戸検1級合格をお祝い!_c0187004_14340386.jpg

 

今年合格した人の中には複数回合格となる人もいましたが、初めて受検して一発合格した人、昨年70点前半の人あるいは60点台の人も合格していて、すばらしい結果でした。

合格祝賀会では、全員でお互いの合格を祝してまず乾杯です。(下写真)

合格祝賀会で江戸検1級合格をお祝い!_c0187004_14375426.jpg

 乾杯後には、皆さんから自己紹介をかねてこの間の奮闘ぶりが話されました。記述式問題を意識したノートを作って勉強した人、前年60点だけども今回は絶対受けってやるという思いで取り組んだ人、今年が最後だと思って背水の陣を敷いて臨んだという人、などなど、それぞれ苦労話を交えて喜びの声を聞くことができました。
 いずれも、「1級に絶対受けるぞ」という強い決意で臨んでいたことがわかるお話でした。

 喜びの声の発表のあとは歓談に入りましたが、江戸城天守閣再建の話や博物館めぐりの話など江戸に関する話がつきませんでした。2時間の予定でしたが、実際に終了したのは3時間たった後でした。
 最後に合格者一同で記念撮影をして散会しました。

 合格された皆さんおめでとうございます。そして、皆さんの笑顔から来年に向けてのパワーをもらいました。ありがとうございました。

合格祝賀会で江戸検1級合格をお祝い!_c0187004_14273292.jpg

 合格祝賀会で皆さんが異口同音に言っていたのが、「合格虎の巻講座」で聞いた話が非常に参考になったということです。 

 江戸検は来年が最後で1回のチャンスしかありません。

 昨日の合格者の人たちも、来年受検する人たちへの応援は惜しまないといってくれています。
 また、以前に合格している人たちにも、来年受検する人が一人でも多く合格できるように合格のノウハウを提供するよう呼び掛けています。

 江戸楽アカデミーで来年開講するこれで合格!『江戸検1級合格虎の巻』講座」では、これまで合格した人たちの英知を結集して講義します。それにより、一人でも多くの人に合格して欲しいと思っています。

 土曜日コースは既に満員ですが、日曜日コースはまだ空きがあるようです。

 来年こそは合格したいと思っている方、ぜひお申込みください。
 講座内容やお申し込み方法は下記ホームページをからお願いします。 『江戸楽アカデミー









# by wheatbaku | 2019-12-22 13:25 | 江戸検定
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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