於大の方のお墓(江戸のヒロインの墓⑤)

於大の方のお墓(江戸のヒロインの墓⑤)

伝通院には、江戸検お題テキスト「江戸のヒロインたち」には載っていないけれども、江戸時代の有名な女性たちも眠っています。

 そこで、伝通院に眠るヒロインのお墓をご案内します。

 まずは、伝通院の寺号の名前のもととなった於大の方(法名伝通院)のお墓をご案内します。

 

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伝通院は、元々は、南北朝時代の、応永22年(1415)、浄土宗第七祖了誉が開山した無量山寿経寺という名のお寺ですが、それから200年後の慶長7年(1602)8月、徳川家康の生母於大(おだい)の方が75才で伏見城でなくなった際に、この寿経寺を菩提寺とすることになり、於大の方の法名を「伝通院殿蓉誉光岳智光大禅定尼」から「伝通院」と呼ばれるようになりました。

於大の方のお墓は、本堂西側にあり、東向きに立った五輪の大きなお墓で、お墓には、於大の方の法名がきざまれています。(下写真)

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 伝通院の名前の由来になっている於大の方は享禄元年(1528)、三河刈谷城主水野忠政の娘として生まれました。

 そして、天文10年(1541)、岡崎城主松平広忠と結婚しました。於大の方は14歳、広忠は16歳でした。結婚の翌年、於大の方は竹千代(後の徳川家康)を出産しまた。

 しかし、於大の方の父水野忠政が病死した後、刈谷城を継いだ兄信元は織田方に属しました。

 そのため、今川氏の保護を受けていた広忠は、天文13年(1545)、於大を離縁して刈谷に帰すこととなり、於大の方は3歳になった竹千代を岡崎に残して、刈谷に帰されました。

 その後、阿久比城主久松俊勝に再嫁しましたが、於大の方は、家康が織田方の人質となってからも常に衣服や菓子を贈って見舞い、音信を絶やすことがなかったと伝えられています。

 また、家康が今川義元の人質となって駿府にいた際にも、於大の方も使いを送ってひそかに日用品を届けたと言われています。

 於大の方は、久松俊勝との間に子供を3人もうけました。

 家康は、天下統一の後には、久松家を親戚として尊重しました。これが、久松松平家です。

 久松松平家は伊予松山藩や幕末の桑名藩の藩主です。寛政の改革で有名な松平定信は、田安家から久松松平家に養子となりました。

 於大の方は、夫の久松俊勝が、天正10年(1582)になくなると、天正16年(1588)に髪をおろし「伝通院」と号しました。

 本堂西側にある観音堂の中にある休憩所に於大の方の銅像がおいてあります。

 この像は、天正16年、蒲郡安楽寺で剃髪し伝通院の号を授かった当時の於大の方の姿との説明がありました。於大の方は、2年間、安楽寺に住み俊勝の菩提を弔ったそうです。

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 於大の方は、家康の天下統一を見た後、慶長7年(1602)2月、家康の招きで上京して、伏見城に入り、内大臣家康の母としての待遇を受けましたが、8月、伏見城にてなくなりました。 家康は於大の方の死を悼み、京都の智恩院で葬儀をおこない、江戸に遺骸を送り、伝通院に納骨しました。




 


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# by wheatbaku | 2018-08-13 22:18 | 江戸のヒロイン
お蓮のお墓(江戸のヒロインの墓④)

お蓮のお墓(江戸のヒロインの墓④)

伝通院に眠る「江戸のヒロインたち」の3人目は、清河八郎の妻お蓮です。

 伝通院の本堂西側にある観音堂の前に、有名人のお墓を示す案内板がありますので、それをみてお参りするとよいと思います。また、清河八郎のお墓の前には、表示板も設置されています。(下写真)

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 清河八郎の妻お蓮は、天天保11年(1839年)、山形県東田川郡熊出村の医師・菅原正庵の四女として生まれ、名前は、高代と言いました。

 家が貧しく、10歳のときに養女に出されましたが、17歳の時に養家から遊郭に売られました。

清河八郎は、同門の後輩でもあり同志でもある安積五郎を連れ、故郷の清川に帰郷していました。そして、安積五郎とともに鶴岡の湯田川温泉に遊びに行きました。その時、清河八郎とお蓮が出会いました。

 清河八郎と安積五郎二人が遊びにいった時、安積五郎が酔った勢いで「節分の豆まきだ!」といい、宴席でお金をばらまきました。すると、酌をしていた女たちが一斉にお金に飛びつき、奪い合いを始めました。しかし、1人だけ悲しげな眼をして見つめていたのがお蓮でした。

こうしたお蓮に清河八郎は惹かれました。

お蓮の本名は高代ですが、「蓮の花は泥水に染まらずに香り高く咲いて清らかだ」ということからお蓮と清河八郎が命名しました。

清河八郎がお蓮を妻にするといったため、斎藤家では大騒ぎとなり、両親の正式な許可を得ることなく、清河八郎はお蓮と結婚しました。

 安政3年(1856)、修行中の弟・熊三郎と一緒に仙台で新婚生活を送り、翌年に江戸に移り住み、清河八郎は、清河塾を淡路坂、その後、お玉ヶ池に開塾しました。

 この頃になると清河八郎は「虎尾の会」結成し、国事に奔走するようになります。
 こうした清河八郎は幕府に目をつけられ、幕府は捕縛する機会を狙っていました。

幕府の捕吏は、手先の者に無礼を働かせ、その町人を清河八郎が負傷させたら捕縛しようという計画をたてていたそうです。文久元年(1861520日、その計画が実行され、清河八郎はその手先を斬り殺してしまいました。

これにより清河八郎は幕府から追われる身となったため、すぐに潜伏しました。
 一方、お蓮は、清河八郎の知人水野行蔵宅に匿われていましたが、捕吏に捕縛され小伝馬町牢屋敷に投獄されました。

そこでは、厳しい尋問が行われましたが、お蓮は最後まで清河八郎を信じ、耐え抜きました。

しかし、金を持たずして牢にいれられたお蓮への牢内役人たちのいじめもすごいため、お蓮は、清河八郎の知人に金の工面を頼み、その手紙が現在も残ったいるそうです。

こうした金の手配により待遇は多少改善されたものの、牢内の衛生状況は非常に悪く、お蓮は病気にかかってしまいました。さらに悪いことに、文久2年(1862)、麻疹が蔓延し、お蓮も麻疹にかかってしまい、庄内藩邸に身柄が移されました。

閏8月6日、庄内藩に預られたお蓮は、翌朝、藩邸内の牢で亡くなっていました。24歳でした。これは庄内藩が毒殺したものといわれています。

罪を負っていた清河八郎は、幕府に対する赦免運動を行い、浪士組の結成の幕府への上書が受け入れられ、自らも赦免され、浪士組が結成され、京都に向かいました。

しかし、清河八郎の本音は尊王攘夷にあったため、驚いた幕府により、浪士組は江戸に帰され、危険分子とみなされた清河八郎も、麻布一の橋で佐々木只三郎たちにより暗殺されました。

暗殺された清河八郎の頭部の部分は、同志の機転により、山岡鉄舟の元に届き、山岡鉄舟が自宅に埋葬していましたが、慶応3年に伝通院に改葬しました。

その際に、お蓮の墓も同時建立されました。そのお墓が現在も残されています。下写真の右側が清河八郎、左がお蓮のお墓です。

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清河八郎のお墓には「清河八郎正明墓」と刻まれ、お蓮の墓には、「貞女阿蓮墓」と刻まれています。(下写真がお蓮の墓です)

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「江戸のヒロインたち」のお蓮の説明では、獄中で麻疹にかかり24歳で世を去ったと書かれていて、小伝馬町牢屋敷でなくなったように読めますが、私が調べた限りでは、小伝馬町牢屋敷ではなく庄内藩の獄中でなくなったとされています。
 また、清河八郎の本名は、斎藤正明で、出羽国清川村の名門
齊藤家の出身です。









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# by wheatbaku | 2018-08-12 23:38 | 江戸のヒロイン
鷹司孝子のお墓(江戸のヒロインの墓③)

鷹司孝子のお墓(江戸のヒロインの墓③)

伝通院には、「江戸のヒロインたち」に取り上げられているヒロインのお墓が千姫のほかに鷹司孝子と清河八郎の妻お蓮のお墓があります。(下写真は伝通院の本堂です。)

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 今日は、鷹司孝子のお墓を紹介します。
 鷹司孝子は、3代将軍家光の正室です。

 鷹司孝子のお墓は、千姫のお墓のすぐ北側にあります。

 孝子の墓と書かれた表示板がありますので、すぐにわかると思います。(下写真)

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 鷹司孝子は、関白鷹司信房の娘として生まれました。

 鷹司家は、五摂家の一つで、徳川将軍家としては、初の五摂家からの輿入れです。

 言うまでもありませんが、徳川家康の正室は、今川義元の姪に当たるといわれる築山殿、継室は豊臣秀吉の妹の朝日姫、そして、2代将軍秀忠の正室は浅井長政の三女お江です。

 いずれも徳川家と関係の深い大名クラスの家からでした。

 3代将軍家光は、生まれながらの将軍でした。そこで、他の大名との家格を隔てるために摂家という家格の高い家柄から正室を迎えようとしたと言われています。 

 鷹司孝子は、慶長75月に生まれました。父鷹司信房は、慶長11年から13年まで関白を勤めました。
 元和9年(1623)に将軍となった家光の正室は決まったいなかったのですが、家光の妹で後水尾天皇の女御であった東福門院和子などの計らいにより孝子との婚約が成立し、同年に江戸に下り、江戸城西ノ丸に入りました。寛永元年1210日、本丸に移動し家光と祝言をあげ、翌年、正式に婚礼しました。
 この時、家光は22歳、孝子は2歳年上の24歳でした。

 

 将軍家光との仲は最初からよくなかったようです。そのため、本丸で家光と一緒に住むことはなく、吹上に「中の丸」と呼ばれた別の御殿を建てて、そこに住むことになりました。
 そのため鷹司孝子は「中の丸殿」と呼ばれ、御台所と呼ばれることはありませんでした。
 「以貴小伝」という本によれば「記録にも御台所としるせし事見えず中の丸殿とのみあり」と書いてあります。

 

 「中の丸」の呼称はどういう由来だろうと以前から不思議に思っていましたが、文春新書「徳川将軍家の結婚」(山本博文著)に、家光の弟忠長の居所であった北の丸と本丸の中間に建てられたと書いてあることから、本丸と北の丸の間にある御殿であることから「中の丸」と呼ばれたものと思われます。

 

 慶安4年(1651)家光が亡くなり、孝子は落飾し本理院となのりました。

 本理院は、家光死後も、長生きし、延宝2年(1674)に71歳でなくなり、伝通院に葬られました。

法名は本理院殿照誉円光徹心大禅定尼で、その法名がお墓に刻まれています。

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 山本博文先生によれば、本来、将軍の正室は、跡継ぎの者の「嫡母」と位置付けられるべきなのだが、家光はそれをしなかったので、本理院が没した時、4代将軍家綱は喪に服さなかったそうです。(「徳川州郡家の結婚」より)

 5代将軍綱吉の正室鷹司信子は、鷹司孝子の父鷹司信房の曾孫です。つまり鷹司孝子は、鷹司信子からみて、お祖父さんの妹つまり大叔母となります。





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# by wheatbaku | 2018-08-10 20:55 | 江戸のヒロイン
千姫のお墓(江戸のヒロインの墓②)

千姫のお墓(江戸のヒロインの墓②)

 ヒロインたちのお墓の2回目は、千姫のお墓をご案内します。

 千姫のお墓は、小石川伝通院にあります。伝通院は、「でんつういん」ではなく「でんづういん」と濁ります。

 下写真は、伝通院の山門です。

 

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 伝通院は、東京メトロ茗荷谷駅から徒歩で約15分、また、茗荷谷駅前のバス亭から伝通院前のバス停まで都バスを利用する方法もあります。

 

 伝通院は、元々は、徳川家康の母於大の方の菩提寺ですので、於大の方のお墓もありますが、於大の方は、江戸検お題テキスト「江戸のヒロインたち」には記載されていないので、まず千姫のお墓をご紹介します。

 千姫のお墓は、伝通院の本堂の西側に広がっている墓域の北側にあります。於大の方のお墓は本堂西側にありますが、それより一段低くなった場所の一画に千姫のお墓があります。

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 石の囲いの中にある千姫のお墓は、五輪塔の巨大なお墓で、表面には天樹院栄誉源法松山大禅尼と刻まれています。(下写真)

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 千姫は、2代将軍秀忠の長女です。

 母親は、お江(崇源院)です。

 千姫は慶長2年(1597)に、伏見で生まれました。この頃は、豊臣秀吉が生きており、江も江戸でなく伏見にいたのでした。

 慶長8年(1603)7歳の千姫は11歳の秀頼と結婚しました。

 二人は、母親が姉妹でしたので、従兄妹同志でした。

 

 家康が豊臣氏を攻めた大坂冬・夏の陣に千姫は大坂城にこもっていましたが、元和元年(1615)5月、落城の前夜脱出し、家康の陣営に戻り、二条城に戻り、伏見に入り、7月晦日に伏見をたち江戸に移りました。阿茶局をはじめ侍女数百人が付き添い、安藤対馬守重信が護衛していました。

 大坂城脱出の際、家康が「千姫を救い出したものに千姫を与える」と言ったのを聞いた坂崎出羽守直盛が城内に入り救出してきましたが、千姫は本多忠刻に嫁いだので、騒動を起こし、殺害されたとされています。しかし、これには異説もあるようです。

 千姫は、元和2年、伊勢桑名城主本多忠政の長子忠刻(ただとき)に再嫁しました。千姫20歳、忠刻21歳でした。

 本多忠刻は、徳川四天王の一人本多忠勝の孫になります。また、忠刻の母は徳川家康の長子松平信康の次女国姫でした。つまり、家康の曾孫でもあります。千姫と本多忠刻とが結婚したのは、こうした縁もあったと思われます。忠刻との再婚に当たって、千姫には化粧料10万石が与えられました。

 元和3年に本多忠政が姫路へ転封となったので忠刻とともに姫路城に住むこととなりました。姫路城西の丸に現在も残る化粧櫓は、千姫の化粧料で建てられたためについた名前とされています。

 千姫と忠刻との間には勝姫と幸千代が産まれましたが、長男幸千代が3歳で病気で亡くなり、さらに忠刻も病に倒れ、寛永3年(1626)、31歳という若さで亡くなりました。

 その時30歳の千姫は剃髪して天樹院と称し、勝姫とふたたび江戸城に戻り、勝姫と二人で江戸城内の竹橋御殿に住みました。

寛永5年(1628)に勝姫は池田光政の元へ嫁ぎ、千姫(天樹院)は一人暮らしとなりました。

 ところで、忠刻がなくなった後、江戸に戻った千姫は乱行をほしいままにし、多くの美男を誘い込んで、遊蕩三昧の一生を送ったという話もあります。

 「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振り袖で」という俗謡は、千姫の乱行をうたったものと言われています。

 しかし、これはまったく根拠のない話であると言われています。

 

 正保元年(1644)には、3代将軍家光の側室のお夏の方が三男綱重を懐妊しました。

 この時、家光は40歳の厄年でした。当時は厄年に生まれた子供は親に災禍をもたらすと信じられていたため、生まれる前から姉千姫(天樹院)の養子とされ、お夏も懐妊中から竹橋門内の天樹院の屋敷に移され、長松もそこで生まれました。そのため、その後は、お夏の方と綱重と暮らすようになります。

後に、千姫は、竹橋御殿から飯田町御殿に移りましたが、この飯田町御殿は、明暦3年(1657)の明暦の大火で類焼しています。

 明暦の大火の9年後の寛文6年(1666)2月6日に、千姫は、飯田町御殿で70歳でなくなりました。

 葬儀は、千姫(天樹院)が養母となっていた徳川綱重が執り行ったそうです。

 

 ところで、「江戸のヒロインたち」に、縁切寺として有名な満徳寺と東慶寺は、千姫により縁切寺となったと書いてあります。

 東慶寺は、秀頼の娘千代姫(天秀尼)の助命を願い、東慶寺へ入れて庇護したことによるとされています。

 一方、満徳寺は、千姫自身が入寺し、豊臣家との縁を切り、再婚したことから縁切寺となったと書いてあります。

これについて、本当に千姫が入寺したのか疑問に思いましたので、調べました。

国史大辞典の「満徳寺」と「縁切寺満徳寺」のホームページによれば、千姫本人は入寺せず、身代わりとして俊澄上人(しゅんちょうしょうにん)が入寺し満徳寺中興開山と称されたとされています。

やはり、千姫自身は、満徳寺には入寺していませんでした。

赤印が伝通院です。







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# by wheatbaku | 2018-08-09 22:00 | 江戸のヒロイン
春日稲荷神社(ヒロインゆかりの寺社①)

春日稲荷神社(ヒロインゆかりの寺社①)

 

 昨日は、春日局のお墓をご案内しましたが、今日は、春日局ゆかりの神社をご案内します。 

 その神社は、春日町交差点近くにある春日稲荷神社です。 

 

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 春日稲荷神社は、文京区教育委員会の説明板によれば、この辺りは、寛永7年(1630)春日局が幕府に願い幕府から拝領し、春日局のお付きの御下男30人の住まいとした屋敷でした。

春日稲荷神社は、その鎮守として勧請したと古文書にあると書いてあります。

 また、春日局が、大いに出世したことから、出世稲荷神社とも呼ばれるようになったそうです。

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 文京区に以前あった春日町という名前は、春日局とのゆかりからつけられた名前です。(下写真が文京区設置の旧町名案内です)
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 春日稲荷神社は春日町の地名由来のもととなった神社ですが、現在の住所は文京区春日ではなく、本郷1丁目です。ただし、以前は春日町二丁目だったようです。

 また、春日町交差点を東西に横切っている春日通りという道路名も春日局に由来するものです。

 

 春日局の生まれについて書いておきます。

 春日局の父は、斎藤利三(としみつ)です。斎藤利三は、明智光秀の重臣で、本能寺の変、その後の山崎の戦いでも、中核として戦いました。

 明智光秀は、山崎の戦いで敗れ敗走中、土民により殺害されますが、斎藤利三は、近江まで逃げ延びました。しかし、まもなく捕縛され、斬首されたあと、磔にまでされています。

 お福は、公卿の三条西家の庇護を受けたり、さらに四国の長宗我部氏を頼るなど、裏切り者の子供として苦労をして育ち、17歳の時、稲葉正成の後妻となります。
 お福は、稲葉正成との婚礼の前後に稲葉重通の養女となったと考えられています。

 稲葉正成は、林政秀の息子として生まれましたが、西美濃三人衆の一人に数えられた稲葉一鉄の子供重通の長女の婿となり、稲葉姓を名乗りました。しかし、重通の長女が亡くなったため、その後妻となったのがお福です。

稲葉正成は、当初は稲葉一鉄の旗本でしたが、武功を挙げたことから豊臣秀吉直属の武将となり、さらに小早川秀秋の家老となっていました。この小早川秀秋の家老時代の稲葉正成にお福は嫁いでいきました。

関ヶ原の戦いでの勝敗を決したのは小早川秀秋の寝返りだと言われていますが、稲葉正成が、大きな役割を果たしていましたが、その話は、別の機会にお話しします。




赤印が春日稲荷神社です。





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# by wheatbaku | 2018-08-08 21:52 | 江戸のヒロイン
春日局の墓(ヒロインたちのお墓①)

春日局の墓(ヒロインたちのお墓①)

江戸検の今年のお題の「江戸のヒロインたち」にちなんで、ヒロインたちのお墓をご案内していきます。

今日は、春日局のお墓をご案内します。

春日局のお墓は、湯島の「麟祥院」にあります。
 麟祥院は、春日局が開いたお寺であり、春日局自身が眠っています。
 東京メトロ「湯島」駅3番出口から 徒歩6分、又、東京メトロ丸の内線「本郷三丁目」駅2番出口から徒歩7分の場所にあります。
 下写真は、山門です。

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麟祥院は臨済宗妙心寺派のお寺で、寛永元年(1624)春日局の願により、亡き父母の菩提を弔うため、現在地に創建されました。

当初は、報恩山天澤寺と名づけられ、境内地は1万坪あり、寺領は3百石を拝領していました


 最初は春日局の甥にあたる神龍和尚が住職となりましたが、病気のため退院し、寛永7年(1630)渭川という高僧を新しく住職として迎え、改めて春日局自身の菩提寺としました。
 寛永11年(1634)、天澤寺の渭川和尚から、春日局に「麟祥院殿仁淵了義尼大姉」という法号が贈られました。
 これを喜んだ家光は、春日局の法号をもって寺号とするように命じたため、春日局が死んだ後。「天澤山麟祥院」と号するようになったと言われています。下写真は麟祥院の本堂です。

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 春日局は名を福といいました。
 春日局という名前は、寛永6年(1629年)に大御所秀忠の内意を受け上洛した際に、御所に参内して天盃を賜り春日局の号を許されたものです。下写真が春日局の墓所です。

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 春日局の父は明智光秀の家老であった斎藤利三(としみつ)です。
 明智光秀が本能寺の変を起こしたため、父は斬首され、お福も苦労します。
 成人して、母方の一族稲葉重通(しげみち)の養女として、小早川秀秋の家老であった稲葉正成の後妻となります。稲葉正成の先妻は、稲葉重通の娘でしたが、先妻がなくなったため、お福が後妻となりました。
 慶長9年(1604)家光が生まれ、乳母を捜していたことから、京都所司代板倉勝重の推挙により乳母となります。
 家光は病弱であったり内向的であったため、弟忠長が将軍の後継者になりそう情勢になったりする中、必死になって家光を守ります。
 忠長との後継者争いの際には、伊勢参りのふりをして、駿府に行き、大御所家康に直訴しました。
 これより家光は後継者になりました。

また家光が疱瘡にかかった際には、薬断ちの誓いをして回復を願いました。
 寛永6年、朝廷との間で起きた紫衣事件の解決のため、春日局は伊勢参りの後、上洛し、御水尾天皇に拝謁し、春日の局号と天盃を賜まわりました。
 春日局は、将軍家光に対して強い影響力をもち、お江がなくなった後、大奥を統率し、絶大な権勢を振いました。

 こうした春日局も、寛永20年(1643914日になくなりました。65歳でした。
 亡くなった後、自らが創建した麟祥院に葬られました。

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春日局の墓石は、四方から穴が貫通している大変めずらしい形をしています。
 これは局が「黄泉(よみ)からも天下のご政道(せいどう)を見守れる墓」を作ってほしいという遺言によってこのような形に建立されたものだそうです。


赤印が麟祥院です。





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# by wheatbaku | 2018-08-07 22:49 | 江戸のヒロイン
江戸検1級合格対策講座、開講しました。

江戸検1級合格対策講座、開講しました。

昨日は江戸楽アカデミーで 
 これを聞けば合格に必ず近づく! 
 『江戸検1級合格虎の巻』

というタイトルで、江戸検1級に合格する方策をお話しさせていただきました。

昨日も、猛暑でしたかが、大勢の人が、予定通り受講していただき、熱心に聞いていただきました。受講された皆様、ありがとうございました。

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 私は、平成26年から平成29年までの4年間に、1級合格のお手伝いをしてきて、延べ40人の1級合格者が出すことができました。

 この活動のなかで、多くの成功体験と不成功体験を見てきて、1級に合格するにはどうしたらよいかという心構えや勉強方法などを得ることができました。

 そうした経験やノウハウを集大成し「江戸検1級合格虎の巻」にまとめました。(下写真)

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 昨日の江戸楽アカデミーでは、「江戸検1級合格虎の巻」の内容を2時間かけて詳しく説明しました。

 この中で、1級に合格するための努力をすること、その努力のレベルは出題者が要求している努力レベルであること。その努力を継続すれば必ず合格できるということを強調させていただきました。

 

 講座の後の懇親会では、受講された皆さんから、「大変参考になった。」「是で大幅な数点の伸びが期待できる。」等の好意的・前向きな感想を多くいただきました。

 特にうれしかったのは、「1級合格は難しいものの、努力をすれば、合格できることがわかったので、これから頑張る」という決意が多く寄せられたことです。心新たに挑戦しようとされている皆様、是非頑張ってください。そして、栄冠を勝ち取ってください。

 昨日開講した
  これを聞けば合格に必ず近づく! 
   『
江戸検1級合格虎の巻』

は、昨日の講座が、早い段階で満員になったため、追加講座を8月19日に開講することにしました。

 こちらの講座は、まだ空席があるそうです。

 昨日の受講者の皆様からは、有益だという評価いただきました。

 お時間のある方は、ぜひお申込みください。

 下記の江戸楽アカデミーのホームページに追加講座の内容および申込方法がが書かれていますのでご覧ください。
  江戸楽アカデミー講座ご案内

 どうぞよろしくお願いします。












 


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# by wheatbaku | 2018-08-06 12:23
高島秋帆を預かった岡部藩(高島秋帆④)

 高島秋帆を預かった岡部藩(高島秋帆④)

 今日は、高島秋帆を預かった岡部藩について書いてみます。

岡部藩は、慶安2年(1649)の立藩から明治の廃藩まで、代々の藩主は安部氏でした。

安部氏は、駿河国安部郡を支配していて、今川家に仕えていましたが、安部元真の時に、駿河を支配した徳川家康に仕えました。安部元真の子供安部信勝は、徳川家康に仕え、甲州討入りや小牧長久手の戦いで戦功を挙げました。

天正18年(1590)の徳川家康関東入国の際に安部信勝は武蔵国榛沢郡と下野国内に合わせて5250石余を与えられ、岡部に陣屋を設けました。

その子信盛は関ヶ原の戦いや大坂の陣で軍功をあげ、書院番頭や大番頭を歴任した後、慶安2年に大坂定番に出世し、摂津4郡内に1万石加増され1万9250石の所領となり大名に列ししました。

岡部藩の所領は、武蔵国、三河国、摂津国に分散していたため、武蔵国岡部、三河国半原、摂津国豊島郡に陣屋を置いて支配していました。

立藩当初は、摂津を拠点とし、元禄年間に三河にそれを移した後、宝永2年(1705)に岡部に居所を移し、以後、慶応4年まで、岡部を本拠としました。
 岡部藩の陣屋跡をしめす説明板等は設置されていませんでした。高島秋帆幽囚の地の碑(下写真)がある場所あたりですが陣屋跡とのことです。

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岡部藩の領地は、最大2万2250石にまでなりましたが、4代藩主信峯の時、弟への2千石分知があり、表高2万250石となり、以後明治まで変化ありませんでした。この4代藩主信峯の時に、陣屋を岡部に移しています。

なお、信峯は、松之廊下の刃傷事件を起した浅野内匠頭長矩の従兄であったことから、家督相続が遅れました。

安部氏の菩提寺は、広尾の祥雲寺です。

現在も、安倍氏のお墓が残っていますが、下写真は信峯の嫡男として生まれ5代藩主となった安部信賢のお墓(左側)です。芳徳院摂州太守春嶺宗融大居士と刻まれています。

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高島秋帆が預けられた時の藩主安部虎之助は、12代藩主信宝(のぶたか)のことです。

信宝は、父である11代藩主信古(のぶひさ)が28歳でなくなったため、3歳で家督を相続したばかりの時に、高島秋帆を預かることになりました。

高島秋帆を預かったことにより、岡部藩は、小藩ながら大砲と洋式銃を持ち、集団調練も行っていました。

最後の14代藩主安部 信発(のぶおき)は、新政府に帰順し、本拠を三河国半原に移すことを嘆願して許され半原藩となり、岡部藩は廃止となりました。



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# by wheatbaku | 2018-08-03 21:00
高島秋帆の赦免(高島秋帆③)

高島秋帆の赦免(高島秋帆③)

 長いこと岡部藩に幽閉されていた高島秋帆もようやく解放される時が来ました。嘉永6年8月のことです。

 高島秋帆が解放されることになることに大きな影響を与えたのが嘉永5年6月3日のペリー来航です。

 ぺリ―来航を受けて、韮山の代官江川太郎左衛門英龍から、嘉永6年8月に、幕府に次のような嘆願書が出されました。

高島四郎太夫義二付御内含申上候書付

 先年安部虎之助へ御預け相成りおり候高島四郎太夫義は私砲術師匠にて熟練の者にも御座候間、見越の義を以て申し上げ候は恐れ入り奉り候えども、向後御預替え又は此度重き御法会も御座候折から、万一御赦免に相成り候義に御座候はば、私へ御引渡し下され候よう願い奉り候。御内含迄中上置候。以上

     

 つまり、高島秋帆は、江川太郎左衛門英龍の砲術の師匠で熟練者であるので、預替えあるいはご赦免になるような際には、江川太郎左衛門に引き渡していただきたいとしています。

 この嘆願を受けて、老中阿部正弘から8月6日付で、江川太郎左衛門英龍には次のように高島秋帆の赦免と高島秋帆を引き取るようにとの通知が届きます。

高島四郎太夫、出格の訳を以て中追放赦免、安部虎之助へ引渡し取駕籠めおき候儀も差し免じ候間その方へ引取候よう取り計らわるべく候

こうして高島秋帆は、長崎で逮捕されて以来、10年10ヶ月ぶりで赦免されることになりました。

高島秋帆はひとまず本所南割下水の江川太郎左衛門英龍の屋敷に落着くことになります。このときから高島秋帆は、赦免を喜んで、名前を喜平と改めたといわれています。

 赦免後間もない8月15日、高島秋帆は、海防掛御用取扱として代官江川太郎左衛門手付に召抱えるという辞令をもらいます。

そして、8月28日には、大砲鋳造方御用掛に任命されます。

赦免されるだけでなく、本来の得意分野で幕臣として活躍できるようになったのです。

 高島秋帆が赦免された際に心温まるエピソードが残されているようです。

高島秋帆赦免の通知が届く2日前、江川太郎左衛門の手代雨宮新平が下谷の練塀町にあった蘭方医の大槻俊斎を訪ね、2.3日うちに主人の江川太郎左衛門から依頼があるはずので御在宅願いたいとの旨を伝えました

そして当日、雨宮が大槻俊斎を訪ねると大槻俊斎は留守でした。

急用で朝から家を出たということで、困った雨宮は。やむなく大槻俊斎の弟子とともに、高島秋帆の身柄が引き渡されることとなっている大目付堀伊豆守の役所へ急ぎました。

 堀伊豆守の役宅でしばらく二人は待っていると、そこへ旱駕気が着き、大槻俊斎が駕寵を下りてきました。

そして大槻俊斎が言うには、「先日の話で、多分、高島秋帆が赦免されるので、そのことだろうと推測していたので、今朝は早くから岡部藩安部虎之助の屋敷まで出掛けていって、高島秋帆がの容態を見てきたましたが、心配ありません。。ご安心下さい」とことでした。

 江川太郎左衛門英龍が高島秋帆を心配していた気持ち、それを感じ取った大槻俊斎のすばやい行動、2人の高島秋帆を思う温かい心がわかるエピソードだと思います。 


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# by wheatbaku | 2018-08-01 18:13
『江戸検1級合格虎の巻』講座の追加開講のご案内

『江戸検1級合格虎の巻』講座の追加開講のご案内


8月5日の『江戸検1級合格虎の巻』講座が近づいたきたため、最後の準備に追われている日々です。

 8月5日の講座が早期に満員になったため、8月19日に追加して開講する ことにしました。
 しかし、こちらの8月19日の講座は、まだ、空席があるとのことです。
 今回の講座は、今まで数年にわたって開講していた私の江戸検1級合格のための対策講座の集大成となる講座です。
 こうした江戸検対策講座は、今年限りで終わりにする予定です。
 今年、1級合格をめざす方、ぜひともお申込みください。


   これを聞けば合格に必ず近づく! 

    『江戸検1級合格虎の巻』 

c0187004_20074189.jpg

 

 下記の江戸楽アカデミーのホームページに追加講座の内容および申込方法がが書かれていますのでご覧ください。
  江戸楽アカデミー講座ご案内

 

【追加講座内容】

1、開催日時 8月19日(日)13:3015:30

2、講座名  

 これを聞けば合格に必ず近づく! 

 『江戸検1級合格虎の巻』

3、講座説明 

 江戸検勉強グループ「獏塾」を主宰し40人の江戸検1級合格者を輩出した講師が、そのノウハウをすべて公開。過去の経験・実績を集大成した「江戸検1級合格虎の巻」をもとに「こうすれば合格できる」という勉強方法や心構えなど合格のためのポイントを伝授します。合格を目指すなら是非聴いておきたい講座です。










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# by wheatbaku | 2018-07-30 15:10 | 江戸講座
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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