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江戸検・記述対策シートの正誤表

江戸検・記述対策シートの正誤表

江戸検まで2週間を切りました。江戸検を受検される方は一生懸命頑張っていられることと思います。

努力は必ず報われますので最後まで頑張ってください。

記述問題を苦手とする人に対する記述問題対策シートを作成し販売しておりますが、その記述問題対策シートに誤りがありましたので、本日は、正誤表にて訂正させていただきます。

正誤表〕 赤字が誤りの部分、ピンクが正しい文字です。

〈人名〉

「江戸博覧強記」173ページ

 たばたやろうざえもん 田端屋郎左衛門

正  たばたやろうざえもん 田端屋郎左衛門

「江戸博覧強記」263ページ

誤  平沢常

  平沢常

「江戸博覧強記」279ページ

 朝寝むらく

 朝寝むらく

〈書名・絵画名・芝居名編〉

「江戸博覧強記」275ページ

誤 こくせんやっせん 爺合戦

正 こくせんやっせん 爺合戦

「江戸博覧強記」304ページ

誤 和蘭

正 和蘭

「江戸博覧強記」306ページ

誤 大略天学名目

正 大略天学名目

「江戸博覧強記」313ページ

誤 そらいせんせいもんどうしゅう 徂徠先生問答

正 そらいせんせいもんどうしょ   徂徠先生問答

「江戸博覧強記」331ページ

誤 懲記後正

正 懲記後正

「江戸博覧強記」377ページ

誤 英米対話捷

正 英米対話捷

〈難書漢字編〉

「江戸博覧強記」205ページ

さいにち 賽日

改訂版で削除されているので削除します。

「江戸博覧強記」350ページ

燻乾

燻乾  (おくりがなのしを削除)

〔補足説明〕

上記の正誤表に関連していくつか補足説明をします。

1、田端屋次郎左衛門

 田端屋次郎左衛門は、伊勢出身の豪商で、大伝馬町に店をもつ木綿問屋です。田端屋は、歌川広重の名所江戸百景の「大てんま町木綿店」に描かれています。下写真の浮世絵の最も右が田端屋です。暖簾に「たばたや」と書かれています。

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2、国爺と国爺(こくせんや)

 「国性爺合戦」は、近松門左衛門の名作であり、初演時に17ヶ月連続で上演された大ヒット作です。しかし、Wordで「こくせんや」と入力すると、「国姓爺」しか出てこず、「国性爺」は出てきません。そのため、国姓爺と書きやすい言葉ですので、江戸検の記述問題では注意が必要です。

「国姓爺」とは、中国の武将鄭成功の別名です。近松門左衛門は、この鄭成功をモデルとした和藤内を主人公とした物語を書きました。それが「国性爺合戦」です。史実とは異なるため、国姓爺の一文字を替えて「国性爺合戦」としたと言われています。

3、英米対話捷径(えいべいたいわしょうけい)

「英米対話捷径」 は、ジョン万次郎が書いた英会話書です。

「捷径(しょうけい)」という語句は、「早道、または、近道」という意味です。
 簡単にいえば「はやわかり英会話」といった意味でしょうか。

4、賽日(さいにち)
 賽日は、『江戸博覧強記』初版では、「縁日(賽日ともいう)とも呼ばれる」と書いてあります。しかし、『江戸博覧強記』改訂版では、「縁日」とだけ書かれていて、賽日が削除されています。

賽日を調べると「藪入りに閻魔(えんま)にお参りする日」という意味ですので、縁日とは少し意味が違っているため、改訂版で削除されたものと思われます。

5、有院と有院(4代将軍徳川家綱の院号)

 「江戸博覧強記」76ページの「歴代将軍の墓所」という表の中で、4代将軍徳川家綱の院号が「有院」となっています。
 私の作成した記述問題対策シートでは「有院」としていたことから、「厳有院」は間違いではないかとお問い合わせをいただきました。

 「巌」は、音読み「ガン」で、旧字は「巖」です。「厳」は音読み「ゲン・ゴン」で旧字は「嚴」です。
 こうしたことから、「巌」と「厳」は、新字と旧字という関係ではなく、まったく別の漢字です。

 家綱の院号を「巌有院」と書いたものもあるとのことですが、「国史大辞典(吉川弘文館)」「徳川幕府事典(東京堂出版刊)」「徳川諸家系譜(続群書類従完成会刊)」「徳川実紀(国史大系)」の全てで「厳有院」と書いてあります。

 従って、「江戸博覧強記」記載の「巌有院」が間違いだとはいいませんが、「厳有院」のほうが適切だと思います。






# by wheatbaku | 2019-10-15 21:20
東 禅 寺(新江戸百景めぐり㊸)

東 禅 寺(新江戸百景めぐり㊸)

 台風19号は日本列島各地に多くの被害をもたらしました。
 私も近くの大河川が氾濫する怖れがあるということで大変心配しました。そうしたことから被害を受けた人々のことが他人事とは思えません。被災者の皆様に心よりお見舞い申し上げます。


さて、新江戸百景めぐり、今日は、東禅寺のご案内をします。『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では158ページの第93景で紹介されています。

 東禅寺は、品川駅から、第一京浜を田町方向に歩いて、丘陵側に少し入った場所にあります。徒歩で約10分かかります。 下写真は本堂と庫裏の全景です。

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 東禅寺は臨済宗妙心寺派の別格本山で、妙心寺派の江戸四箇寺の1つでした。妙心寺派江戸四箇寺とは、東禅寺の他、湯島の麟祥院、浅草の海禅寺、牛込の松源寺を言いました。

東禅寺は、慶長15年(1610)嶺南和尚が日向国飫肥藩2代藩主伊東祐慶(すけのり)の帰依を受け、溜池に開きました。
 当初は嶺南庵と呼ばれていました。アメリカ大使館とホテルオークラの間にある霊南坂の名称は、嶺南庵に由来します。
 開基の伊東祐慶の法名が東禅寺殿前匠征泰雲玄興大居士ですので、東禅寺という寺号は伊藤祐慶の法名からとられたものと思われます。

 寛永13年(1636)、現在地に移転しました。眼前に江戸湾が広がることから海上禅林とも呼ばれ、その額も本堂に掲げられています。(下写真)本堂と庫裏は昭和6年に建てられたものです。 以前のものが震災や火災にあったためでなく、古くなったため建て替えられたとのことでした。

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 江戸時代の境内は、多くの塔頭が建ち並んでいたそうですが、現在は、緑の多い静かな雰囲気の境内となっています。下写真は山門から見た参道ですが、参道自体はあまり広いわけではないのですが、参道両脇に樹木が植えられていて、緑の参道となっています。

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 その境内に大きくそびえる三重塔が建っています。
 この塔は、建築後25年とのことですので、昭和の終わりに建てられたようです。
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 江戸時代には東禅寺は、開基の飫肥藩伊東家をはじめ、陸奥仙台藩伊達家、伊予宇和島藩伊達家 備前岡山藩池田家、信濃高島藩諏訪家、豊後佐伯藩毛利家など多くの大名家の菩提寺でした。 そのため、少し離れた墓地には、今も諸大名の見事な墓群がありますが、一般の人には公開されていません。その中で、墓所の外から見えるお墓もかあります。下写真は、仙台藩伊達家の合祀墓です。また、有名な蘭学者大槻玄沢のお墓が港区の史跡となっているのですがこれもみることができません。

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 東禅寺は、安政6年(1859)には日本初のイギリス公使館が置かれ、初代公使オールコックが駐在しました。

山門の前には、「最初のイギリス公使宿館跡」の石碑が建てられています。(下写真)

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東禅寺事件

この東禅寺では有名な「東禅寺事件」という外国人に対する襲撃事件が起きています。

「東禅寺事件」というのは第一次東禅寺事件と第二次東禅寺事件と2回起きています。

第一次東禅寺事件は、文久元年(1861)5月28日、水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名がイギリス公使オールコックらを襲撃した事件です

文久元年5月、イギリス公使オールコックは長崎から江戸へ向かう際、幕府が警備上の問題から海路での移動を勧めたのに対し、条約で定める国内旅行権を強硬に主張して陸路で江戸へ旅し、5月27日にはイギリス公使館が置かれていた江戸高輪東禅寺に入りました。

この行動に対し、尊攘派の志士らは「神州日本が穢された」と憤激しました。

オールコックが東禅寺についた翌日の5月28日午後10時頃、水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名は東禅寺のイギリス公使館内に侵入し、オールコック公使らを襲撃しました。

オールコックは危うく難を逃れたが、乗馬用のムチで立ち向かった書記官オリファントとピストルで応戦した長崎領事モリソンの2人が負傷しました。

一方、攘夷派浪士は公使らの殺害に失敗し、警備側に3名が討取られたり、一旦は逃走したものの逃げ切れず切腹した者もおり、その後逮捕された者もいますが、逃亡した後、坂下門外の変に参加した者もいます。

第二次東禅寺事件は、「第一次東禅寺事件」のちょうど1年後の文久2年(1862)5月29日、東禅寺警備の松本藩士伊藤軍兵衛がイギリス人2人を斬殺した事件です。

第一次東禅寺事件の後、オールコックは幕府による警護が期待できないとして、公使館を横浜に移しました。しかし、オールコックが帰国中に代理公使となったジョン・ニールは、再び東禅寺に公使館を戻しました。

その頃、東禅寺の警備を命じられていたのが松本藩でした。警備を任せられていた松本藩士伊藤軍兵衛は、公使を殺害しようとして夜中にニールの寝室に入ろうとしましたが、警備にあたっていてイギリス兵2人に発見され戦闘になり、イギリス兵が殺害されました。襲った伊藤軍兵衛も負傷し自刃しました。

これにより松本藩は警備の任を解かれ、藩主戸田光則は差控(謹慎)処分を受けることになりました。

 また、この事件により、イギリスは、公使館を襲撃されやすい寺院に置くのではなく、独立した公使館を建設するよう幕府に要求しました。この要求に応えて幕府が建設することにしたのが品川御殿山の公使館です。

赤印が東禅寺です。
青印が泉岳寺です。






# by wheatbaku | 2019-10-14 19:43 | 新江戸百景めぐり
泉 岳 寺(新江戸百景めぐり㊷)

泉 岳 寺(新江戸百景めぐり㊷)

今日から高輪周辺の新江戸百景めぐりをしたいと思います。高輪といえば泉岳寺をまず思い浮かぶ人が多いと思いますので、最初に泉岳寺をご案内します。
 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では153ページの
第88景で紹介されています。

泉岳寺は、都営地下鉄泉岳寺駅A2出口から徒歩2分で山門に到着します。JR田町駅からですと徒歩20分かかります。

泉岳寺は、赤穂浪士のお墓があるお寺としてあまりにも有名ですが、泉岳寺と言うのはどういうお寺かというのはほとんど説明がされません。

そこで、最初に泉岳寺の説明をしたいと思います。

泉岳寺は慶長17年(1612)に徳川家康が今川義元の孫といわれる門庵宗関(もんなんそうかん)和尚を招いて今川義元の菩提を弔うため、外桜田(現在の警視庁の近く)に創立した曹洞宗の寺院です。

しかし、寛永18年(1641)の寛永の大火によって焼失してしまい、現在の高輪の地に移転してきました。

しかし、高輪泉岳寺の復興がままならないので、3代将軍家光が、毛利家、浅野家、朽木家、丹羽家、水谷(みずのや)家の五大名に手伝いを命じ、高輪の泉岳寺は完成しました。

浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のものです。

橋場(台東区)の総泉寺、愛宕(港区)の青松(せいしょう)寺とともに曹洞宗江戸三ヶ寺の一つとして触頭(ふれがしら)となりました。

 泉岳寺は、徳川将軍家と縁の深いお寺です。そもそも、泉岳寺の創建は徳川家康の命令によるものです。開山は、徳川家康が幼い頃に人質として保護されていて駿河の家康の三男ともいわれる門庵宗関(もんなんそうかん)和尚です。

 そして、泉岳寺という寺号は、徳川家に因み、「源の泉、海岳に溢るる」の意からつけられたと云いますし、山号は「萬松山」といいますが、これは松平の松を取り、「松が萬代に栄ゆる」という意味を持っています。

それでは、境内を順にご案内します。

中 門

泉岳寺の最初に目に入るのが中門です。この門は総欅造りで天保7年(1836)、35世大龐梅庭(だいほうばいてい)和尚の時代に再建されたものです。

また昭和7年に大修理が施されています。「萬松山」の額は中国清代の禅僧・為霖道霈(いりんどうはい)による書だそうです。

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山 門

山門は天保3年(1832年)に再建されたものです。

二階部分には十六羅漢が安置され、一階部分の天井には「江戸三龍」のひとつ、銅彫大蟠龍がはめ込まれています。

「泉岳寺」の額は、晋唐の墨蹟研究者であった大野約庵という人による書です。

大野約庵は伊予の人で、名は猷、字は美徽、号を約庵と称し、松山藩の藩士で漢学と書を頼春水・頼山陽父子に学んだ書家で、佐藤一斎の推挙に高輪泉岳寺楼門の篇額「泉岳寺」を揮毫しました。


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大石内蔵助銅像

中門の脇には、大石内蔵助の銅像があります。この銅像は、浪曲家の桃中軒雲右衛門の発願により鋳造され泉岳寺に寄進され、大正10年12月14日に除幕したものです。

内蔵助が当時の風俗である元禄羽織を身につけ、連判状を手にして東の空(江戸方向)をじっとにらんでいる姿を表したものです。

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本 堂

旧本堂は第二次世界大戦で空襲にあい焼失しました。

現本堂は昭和281214日に落成した鎌倉様式の建築です。

ご本尊は釈迦如来がお祀りされていますが、その他、大石内蔵助の守り本尊である摩利支天(秘仏)などが納められています。

正面に掲げられている「獅子吼」の額は「ししく」と読み、お釈迦様の説法のことを指しています。

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赤穂浪士墓地入口

 本堂の左手に赤穂浪士の墓地があります。

 墓地の入り口の石段の上に門があります。

この門は浅野家の鉄砲洲上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築されたものです。(下写真)

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赤穂浪士の墓地への参道の脇には、「血染めの梅、血染めの石」や「首洗いの井戸」があります。
 「血染めの梅、血染めの石」は、浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられている梅と石です。 下写真の左手の白い説明板が「血染めの梅、血染めの石」の説明板です。

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 「首洗いの井戸」は、赤穂浪士が吉良上野介の首級を浅野内匠頭の墓前に供える前に、吉良上野介の首を洗ったといわれている井戸です。

(下写真)

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浅野内匠頭長矩のお墓

 墓地の入り口の門を通って、まっすぐ進み、赤穂浪士の墓地の手前を右手に入ると浅野内匠頭長矩のお墓があります。

 戒名は「冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士」と言います。

 少府とは内匠寮のことを言い、生前は内匠頭であったことを指します。朝散大夫というのは、官位を指す言葉で五位にある人を言います。

戒名に院殿と大居士が付けられていますが、院殿と大居士があることから罪人としてでなく普通の大名として亡くなった扱いとなっています。

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瑤泉院のお墓

 こちらが浅野内匠頭長矩の正室瑤泉院のお墓です。

瑤泉院は、俗名阿久里といい、延宝2年(1674)、広島藩浅野家の支藩三次藩浅野家の初代藩主浅野長治の二女として生まれました。長矩の父浅野長直の妹が生んだ娘が阿久利ですので、二人は従兄妹同志ということになります。翌延宝6年、5歳の阿久利は赤穂藩浅野家の屋敷へ移りました。

二人が正式の結婚したのは天和3年で、浅野長矩17歳、阿久利10歳でした。

 浅野内匠頭長矩が切腹した時、瑤泉院は取り乱す様子はなかったといいます。

 浅野内匠頭長矩の切腹により、赤穂藩浅野家上屋敷から赤坂にある三次藩浅野家の下屋敷に移り、落飾し寿昌院と称しました。後に、この法名が5代将軍綱吉の母桂昌院と一字同じとなることから、瑤泉院に変えています。

 それ以降は、浅野内匠頭長矩の菩提を弔いながら余生を過ごし、正徳4年(1714)6月3日なくなりました。41歳でした。

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赤穂浪士のお墓

 赤穂浪士のお墓は、浅野内匠頭や瑤泉院のお墓がある場所より一段と高いところにあります。

赤穂浪士は、それぞれ、宗派も違い菩提寺も違っていましたが、泉岳寺に一緒に埋葬されているのは、赤穂浪士が一緒に埋葬されるのを願ったからです。

細川家の堀内伝右衛門が書いた記録によると、富森助右衛門が、一緒に埋葬して欲しと希望したと書かれています。下写真が墓地の全体説明図の写真です。

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赤穂浪士は、御預けになった大名家ごとに埋葬されています。

赤穂浪士の墓所の最奥部には、大石内蔵助のお墓があります。その左手と手前には、大石内蔵助と同じ細川家に御預けになった人たちのお墓が並んでします。(下写真)

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 実は赤穂浪士の葬儀は、御預け先ごとに行われたそうです。

 最初、細川家の葬儀が行われ、赤穂浪士の遺骸が細川家を出発したのは午後6時30分ごろ、水野家が午後8時、松平家が午後10時、毛利家が午前0時と2時間ずつ違っていたそうです。

 これは、泉岳寺から近い順に葬儀を行ったようです。

そして、泉岳寺での葬儀は午後9時から細川家の葬儀が始まり、毛利家が終わったのは午前3時ごろだったそうです。

 このように、葬儀が御預けになった大名家ごとに行われたこともあって、お墓も大名家別になっているのではないかと思います。下写真が墓地全体の写真です。

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浅野内匠頭長矩のお墓より高い所に赤穂浪士のお墓があります。

普通であれば、上位の人のお墓が奥もしくは上の方にありますが、赤穂浪士の場合にはそうなっていません。

これには理由があります。赤穂浪士が一緒に埋葬して欲しいと希望したため、泉岳寺では、墓地の用地がなかったため、急いで藪を開いて墓所をつくりました。そのため、浅野内匠頭長矩公の墓は下の方となりました。

 赤穂浪士の戒名には、「刃」と「剣」がついているのが特徴です。例えば大石内蔵助は「忠誠院刃空浄剣居士」、堀部安兵衛は「刃雲輝剣信士」のように、「刃」と「剣」を織り込んまれています。下写真は大石内蔵助のお墓です。

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 この戒名は、当時の泉岳寺住職の酬山和尚がつけたものです。これは、赤穂浪士が勇ましいから「刃」と「剣」を適当につけたかというとそうではありません。

 碧巌録という本に「碧巌録(へきがんろく)」という文章があります。これから採ったものです。

 詳しくは過去に書いた下記記事をお読みください。

「フレーフレー受験者の皆様!(江戸検お題「本当の忠臣蔵」108)」

赤印が泉岳寺です。





# by wheatbaku | 2019-10-11 23:01 | 新江戸百景めぐり
浅草御蔵(新江戸百景めぐり㊶)

浅草御蔵(新江戸百景めぐり㊶)

今日の新江戸百景めぐりは、浅草御蔵をご案内します。『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では69ページ第22景で紹介されています。

浅草御蔵は、幕府が建設した米蔵です。

浅草御蔵は、南は現在の浅草柳橋2丁目より、北は浅草蔵前3丁目にかけてありました。

 現在、その名残りを示すものは、「浅草御蔵跡」と刻まれた石碑だけです。

 その石碑は、蔵前橋の西のたもとにあります。(下写真)なお、現在の蔵前橋通りは、浅草御蔵のほぼ中央を横切る形で通っています。

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浅草御蔵は、元和6年(1620)に造られたといわれています。

 江戸時代の初めは、ここのほかに各所に米蔵がありましたが、段々集約されて、ここ浅草の御蔵と本所の竹蔵に集約されました。

 この浅草御蔵は広大な敷地に建てられていました。敷地は、もっとも広かった弘化年間(1844~48)には、およそ3万6000坪ありました。

 南北が580メートル、東西が広いところで830メートル、狭いところで230メートルあり、「東京ドーム」2つ分の広さがありました。

 御蔵内には、天領から船で送られた米を荷揚げするため、8本の舟入堀がありました。下写真は隅田川河畔の護岸壁に設置されていた浅草御蔵の絵図です。

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その堀の両側に米蔵が設置されていて、御蔵全体では、67棟の蔵が建っていました。

浅草御蔵にどのくらいの米が貯蔵されたかについては諸説ありますが、「蔵前の町名由来板」には37500トン=20万8千石 と書かれていますが、別の本には40万石の米が貯蔵されていたとも書いてあります。

 下写真の左端の護岸壁に絵図が設置されています。遠方の橋は厩橋です。

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首尾の松

浅草御蔵の4番蔵と5番蔵の間に、「首尾の松」と呼ばれる大変有名な松がありました。

現在は、7代目と言われる首尾の松が、「浅草御蔵跡」の石碑の蔵前橋通りを挟んだ向かい側にあります。(下写真)

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江戸時代は大変有名な松でした。もちらん、この松は江戸時代から生えているものではなく7代目の松です。 

その由来については次のような諸説があるようです。

1、寛永年間(1624~43)に隅田川が氾濫したとき、三代将軍家光の面前で謹慎中の阿倍豊後守忠秋が、列中に伍している中から進み出て、人馬もろとも勇躍して川中に飛び入り見事対岸に渡りつき、家光がこれを賞して勘気を解いたので、かたわらにあった松を「首尾の松」と称したという。

2、吉原に遊びに行く通人たちは、隅田川をさかのぼり山谷堀から入り込んだものだが、上がり下りの舟が、途中この松の陰によって「首尾」を求め語ったところからの説。

3、首尾は「ひび」の訛りから転じたとする説。江戸時代、このあたりで海苔をとるために「ひび」を水中に立てたが訛って首尾となり、近くにあった松を「首尾の松」と称したという。

 これらの説は首尾の松の脇に設置されている石碑(下写真)に書いてありました。

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 この三つの説の中で、最も人気があるものは、2番目の吉原での首尾を語るという説だと思います。

 首尾の松の推移についても石碑に次のように説明されています。

「初代「首尾の松」は安永年間(1772~80)風災に倒れ、更に植継いだ松の安政年間(1854~59)に枯れ、三度植え継いだ松も明治の末頃枯れてしまい、その後「河畔の蒼松」に改名したが、これも関東大震災、第二次世界大戦の戦災で全焼してしまった。現在の松は七代目といわれている。」


名所江戸百景「浅草川首尾の松御厩河岸」
 「首尾の松」を、歌川広重は、名所江戸百景の「浅草川首尾の松御厩河岸」で描いています。
 下の広重の絵で左上から枝を張り出しているのが「首尾の松」です。なお、下の画像は、国立国会図書館ウェブサイトから転載させていただきました。

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 上記の説明板の説明によれば、広重が描いた首尾の松も、初代のものではありませんでした。
 松の下には男女の忍び合いの屋根舟が係留されています。
 その舟の奥の川船は、御蔵の北にあった御厩河岸と向かいの本所石原町を結ぶ渡し船です。


浅草天文台

 浅草御蔵の前は、江戸時代後期には、天文台が置かれ、浅草天文台と呼ばれました。蔵前一丁目交差点の南西角に説明板が設置されています。(下写真)

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 正確な暦を造るためには、太陽や月の運行を観測する施設が必要なため、天文台が設置されました。

 天文台は、本所二つ目、駿河台、神田佐久間町、牛込藁店などと転々と動きましたが、浅草天文台は天明2年(1782)、牛込藁店(現在の新宿区袋町)から移転しました。

 正式の名を「頒暦所御用屋敷」と言いました。

浅草の天文台は、天文方高橋至時らが寛政の改暦に際して、観測した場所であり、高橋至時の弟子の伊能忠敬は、深川の自宅からこの浅草天文台までの方位と距離を測り、緯度一分の長さを求めようとしました。

富嶽百景「浅草鳥越の図」

浅草天文台を描いた有名な浮世絵が、葛飾北斎の富嶽百景(富嶽三十六景ではない)のうちの「浅草鳥越の図」です。(下写真)

天文台は高さ約9メートルの築山の上に築かれていたそうです。

その天文台を近景として、遠景に富士が描かれています。

手前の球体の形をした器具は、天体の位置を測定するための「渾天儀(こんてんぎ)」という器具です。

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# by wheatbaku | 2019-10-09 22:55 | 新江戸百景めぐり
小野照崎神社(新江戸百景めぐり㊵)追記[眞源寺]

小野照崎神社(新江戸百景めぐり㊵)追記[眞源寺]

 昨日、小野照崎神社をご案内しました。

 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、眞源寺(入谷鬼子母神)も紹介されていますので、小野照崎神社の追記として、 眞源寺(入谷鬼子母神)をご案内します。

眞源寺

眞源寺は、お寺の正式な名前をいうより「入谷の鬼子母神」と呼んだほうがわかりやすいかもしれません。「恐れ入谷の鬼子母神」という呼び方も有名です。

眞源寺は、万治2年(1659)日融上人により創建された日蓮宗のお寺です。下写真が本堂です。

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鬼子母神は、インド仏教上の女神のひとりです。性質凶暴で、500人(一説には千人または1万人)の子の母でありながら、子どもを奪い取っては食ってしまう悪い神様でした。そこで、釈迦は鬼子母神の末子を隠し、子を失う悲しみを実感させ、改心させたといいます。以後、子供を守る安産・子育の神として信仰されるようになりました。

 入谷鬼子母神では、子育の善神になったという由来からツノのない鬼の字を使っています。下写真は眞源寺の入口の写真ですが、ツノがない鬼の字で鬼子母神と書かれています。

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 鬼子母神がお祀りしたあるお寺は日蓮宗のお寺が多いようです。それは、鬼子母神が法華経というお経の中にでているからだと言います。

鬼子母神といえば、入谷の鬼子母神の他に雑司ケ谷の鬼子母神が有名ですが、さらに千葉中山の鬼子母神が江戸三大鬼子母神と言われています。

 ちなみに、入谷は眞源寺、雑司が谷は法明寺、中山は法華経寺にお祀りされていますが、これらの三つのお寺はいずれも日蓮宗のお寺です。下写真は雑司ケ谷鬼子母神(法明寺)の鬼子母神堂です。

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ところで、有名な「恐れ入谷の鬼子母神」という言葉ですが、これは、江戸時代の言葉遊びで「地口」と呼ばれています。「恐れ入谷の鬼子母神」のほかに、「びっくり下谷の広徳寺」「嘘を築地の御門跡」「情け有馬の水天宮」といったものがあります。

《あさがお》

 境内に正岡子規の句碑があります。句碑には「(漱石来る) 蕣(あさがお)や 君いかめしき文学士」と「入谷から 出る朝顔の 車かな」の句が刻まれています。(下写真)

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 この句にうたわれているように、入谷といえば朝顔が有名です。

 入谷が朝顔で有名となったのは明治以降のことです。7月7日の七夕の前後3日間、名物の朝顔まつりが開かれ、鬼子母神の境内も朝顔で一杯になります。下写真は昔朝顔まつりに行った時の本堂前の写真です。

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 朝顔市が七夕の時期に行われるのは、「朝顔の種のことを牽牛子(けんごし)と言い、朝顔の花は牽牛子(けんごし)の花と言う事で別名を牽牛花(けんぎゅうか)とも言われています。牽牛花は、七夕の牽牛・織女と言われている牽牛の花と書くので、朝顔市は七夕の前後の3日間、開催されるようになった。」そうです。

 入谷の朝顔市は 大正初期、市街化により途絶えましたが、昭和23年に朝顔まつりとして復活し、7月7日の七夕の前後の3日間は大勢に人出でにぎわいます。下写真は棚一杯に置かれた朝顔です。

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赤印が小野照崎神社です。

青印が台東区立忍岡中学校です。

緑印が眞源寺(入谷鬼子母神)です。






# by wheatbaku | 2019-10-08 19:55 | 新江戸百景めぐり
小野照崎神社(新江戸百景めぐり㊵)

小野照崎神社(新江戸百景めぐり㊵)

 新江戸百景めぐり、今日は小野照崎神社をご案内します。
 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、107ページの
第54景で紹介されています
 小野照崎神社の小野は御祭神の小野篁(たかむら)の「小野」を表し、「照崎」は、神社が創建された「照崎(現在の上野公園付近)」を表します。

小野照崎神社の御祭神小野篁(たかむら)は、平安初期の漢学者・歌人として有名な人物です。小野篁は初の遣隋使小野妹子の子孫で、美人で有名な小野小町のお祖父さんという説もあります。遣唐副使となったものの大使と争い乗船しなかったため隠岐に流されたこともあります。その後、許されて参議となっています。

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小野照崎神社の創建の年代は不明ですが、次のような伝承があります。

小野篁は上野国司の任期を終え、帰洛の途についた際、上野照崎(忍岡、現在の上野公園付近)の景色が良いと讃えました。そこで、仁寿2年(852)小野篁が亡くなったとき、その景色を楽しんだ上野照崎に小野篁の霊をお祀りしました。
 上野照崎という地名は現代の私たちにはあまり馴染のない地名ですが、現在のJR鶯谷駅南口にある台東区立忍岡中学校周辺が、昔、照崎と呼ばれていたようです。
 下写真は、鶯谷駅南口の駅前ロータリーから撮った忍岡中学校です。

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その後、江戸時代をむかえ、寛永2年(1625)忍岡に東叡山寛永寺を創建するにあたって、小野照崎神社を移転することとなり、坂本村の長左衛門稲荷社が鎮座していた現在地に遷座したとされています。

一説には、忍岡から孔子聖廟が昌平橋に移った元禄4年(1691)頃に遷座したのではないかとも言われています。

 現在の社殿は慶応2年(1866)に建てられたものですが、関東大震災や東京大空襲などを免れた貴重な建物です。

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下谷坂本の富士塚

 小野照崎神社境内には富士塚があり、下谷坂本の富士塚と呼ばれています。

富士塚は模造の富士山で、坂本の富士塚は、文政11年(1828)に地元の富士講である東講により築造されたと考えられています。
 坂本というのは地名で、小野照崎神社がある場所が江戸時代は坂本村と呼ばれたことによるものです。

富士山信仰は室町時代末期頃に起こり、江戸時代中期には非常に盛んになり、江戸をはじめとして富士講があちこちで結成され、富士塚も多数築かれました。その数は、江戸とその近郊で、50余りあったといいます。しかし、現在まで残っている富士塚は多くありません。

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ここの富士塚は高さ約5m、直径約16mです。
 富士塚は富士の溶岩でおおわれ、東北側の一部が欠損していますが、原形がよく保存されていて、国の重要有形民俗文化財に指定されています。

赤印が小野照崎神社です。
青印が台東区立忍岡中学校です。





# by wheatbaku | 2019-10-07 20:38 | 新江戸百景めぐり
寛永寺(新江戸百景めぐり㊴)

寛永寺(新江戸百景めぐり㊴)

 今日の新江戸百景めぐりは、寛永寺をご案内します。

寛永寺は浅草寺とともに 私が案内する場所として最も回数の多い場所です。
現在の上野公園は、江戸時代は寛永寺の境内の一部でした。
そのため、寛永寺を案内するということは、上野公園およびその周辺を案内することになり、半日では上野寛永寺すべてを案内できず、常に一部分に留まっています。

 それだけの案内場所のある寛永寺を、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、第44景として92~93ページのたった2ページで紹介しています。

そこで、このブログでも、極力分量を少なくするため、主要部分だけの案内に留めておきます。それでも長文になってしまいました。ご容赦ください。

寛永寺本堂

現在の寛永寺の本堂(根本中堂)は、上野駅公園口から歩いて15分ほどかかる上野公園の北西部にあります。

寛永寺の旧本堂(根本中堂)は現在の東京国立博物館前の噴水のところにありましたが、慶応4年(1868)彰義隊の兵火で焼失しました。

そのため明治12年に、寛永寺の子院であった大慈院に、埼玉県川越市の喜多院の本地堂を移築し、寛永寺の本堂としたものです。

この建物は寛永15(1638)の建造と言われています。喜多院でも、薬師様がお祀りされていたそうです。開口・奥行ともに17.4メートルあります。内陣の厨子内には秘仏の本尊薬師三尊像が安置されています。御本尊は、伝教大師最澄上人が自ら刻んだとされていて、国の重要文化財に指定されています。下写真が本堂です。

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 本堂正面に掲げられている額は、東山天皇が自ら書いた「瑠璃殿(るりでん)」の勅額です。

 上野寛永寺は、慶応4年5月15日におきた上野戦争の戦場となり、主要な建物はすべて焼失してしまい、根本中堂も焼失してしまいました。

幸い伝教大師作の本尊薬師如来や東山天皇御宸筆「瑠璃殿(るりでん)」の勅額は、戦争の中運び出され現在の根本中堂に安置されています。

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寛永寺の歴史

寛永寺は、寛永2年(1625)天海大僧正によって創建されました。

天海は、江戸に天台宗の拠点となる大寺院を造営したいと考えていました。

そのことを知った秀忠は、元和8年(1622)、現在の上野公園の地を天海に与えました。

当時この地には伊勢津藩主・藤堂高虎、弘前藩主・津軽信牧、越後村上藩主・堀直寄の3大名の下屋敷があったが、それらを収公してお寺の敷地としました。

秀忠が隠居した後、寛永2年(1625)、3代将軍徳川家光の時に今の東京国立博物館の敷地に本坊(住職の住む坊)が建立されました。

寛永寺の建立時期については諸説があるそうですが、この本坊ができた年が寛永寺の創立年とされることが多く、寛永寺の執事長の浦井正明師もこの説を述べています。下写真は現在の寛永寺根本中堂近景です。

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天海大僧正は、比叡山延暦寺を手本に寛永寺を建立しました。

寛永寺は江戸城の鬼門(東北)にあたる上野に建立されましたが、これは比叡山延暦寺が、京都御所の鬼門に位置し、鬼門守護の役割を果たしていたことにならったものです。
 また、山号は東の比叡山という意味で東叡山とされました。

そして、寺号も延暦寺が建立当時の年号を使用して命名されたとの同じように、創建時の年号を使用することを勅許され、寛永寺と命名されました。年号が、お寺の名前に使用されているのは、非常に稀な例です。

また、院号として円頓院という院号が使われていますが、これも「円頓止観」という言葉があり、延暦寺が止観院と称していたことによるものだそうです。

さらに、天海大僧正は、延暦寺境内に建立した建物も、前回書いた不忍池や不忍池の弁天堂、清水観音堂など比叡山とその近くの京都・近江の建物・風景を模したものとしました。

現在、合格大仏を言われている大仏様は、元々は京都の方広寺の大仏を模したもので、大仏殿もありましたが、その後、地震や火災などにより被害をうけ、現在は頭部だけが残されています。(下写真)

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天海大僧正が存命中には、寺の中心となる根本中堂はありませんでした。

根本中堂が落慶したのは開創から70年以上経った元禄11年(1698)、5代将軍綱吉の時代です。

根本中堂は、現在の上野公園の噴水池の場所にあり、回廊を巡らせた間口45m、 奥行42m、高さ32mという荘厳の建物だったようです。下写真は、歌川広重が書いた根本中堂です。国立国会図書館HPより転載させていただきました。

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寛永寺本坊表門

寛永寺の境内地は、最盛期には現在の上野公園を中心に約三十万五千坪に及び、さらにその他に大名並みの約1万2千石の寺領を有しました。

この寛永寺の住職は輪王寺宮法親王でした。その住職の住まいを本坊といい、現在、東京国立博物館がある場所は、江戸時代、本坊があり、輪王寺宮法親王が居住していました。

ところが幕末の戊辰戦争では、境内地に彰義隊がたてこもって戦場と化し、官軍の放った火によって、全山の伽藍の大部分が灰燼に帰してしまいました。本坊も焼失してしまいました。そうした中で本坊の表門は奇跡的に焼失を免れました。(下写真)

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明治11年、帝国博物館(現、東京国立博物館)が開館すると、正門として使われ、関東大震災後、現在の本館を改築するのにともなって現在地に移築されました。

門扉には、上野戦争時の弾痕が残されていて、当時の戦闘の激しさを物語っています。下写真の黒い扉の一部に丸い白くなっている部分が砲弾が通過した痕です。

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両大師(りょうだいし)
 開山堂は、東叡山寛永寺の開山である慈眼大師(じげんだいし)天海大僧正と、天海大僧正が尊崇していた慈恵大師(じえだいし)良源大僧正をお祀りするお堂で、現在のお堂は平成5年に再建されたものです。下写真が本堂です。

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もともとの創建は正保元年(1644)で、前年に亡くなられた天海大僧正を祀る「開山堂」でしたが、後に寛永寺本坊内にあった慈恵堂(じえどう)から慈恵大師(じえだいし)像を移し、慈恵・慈眼のお二人のお大師をお祀りしたことから一般に「両大師(りょうだいし)」と呼ばれ、庶民に信仰されています。 下写真は山門ですが、左手の板面に両大師と書かれています。

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慈眼大師天海大僧正(15361643)は、東叡山寛永寺を開山された天台宗の僧侶で、生前の数々の功績が讃えられ、朝廷より「慈眼大師」の大師号が下賜されました。

慈恵大師良源大僧正(912985)は、天海大僧正が尊崇した僧侶です。良源大僧正は正月3日に亡くなられたことから「元三(がんざん)大師」とも呼ばれています。さらに良源大僧正は「おみくじ」の創始者としても知られています。良源大僧正の幅広い活躍に対し、朝廷より「慈恵大師」の大師号が下賜されました。

上野東照宮(重要文化財)

上野東照宮は、藤堂高虎が創建したものです。

寛永寺ができる前には、藤堂高虎等の下屋敷がありました。そうしたこともあって、藤堂高虎が寛永4年(1627)その屋敷跡に、徳川家康を祭神とする上野東照社を創建しました。 

 一説では、家康がなくなる時に、藤堂高虎と天海僧正が、危篤の家康の病床に招かれ、三人一つ所に末永く魂鎮まるところを作ってほしいという遺言されたので、藤堂高虎の屋敷があった場所に創建されたとされています。

 また、江戸市民が東照宮に参拝しやすくするために上野に創建されたとも言われています。

 東照宮は、創建当時は東照社と呼ばれていましたが、正保3年(1646)、朝廷は家康に「東照宮」の宮号を贈りましたので、それ以後、東照宮と呼ぶようになりました。

 現在の社殿は、慶安4年(1651)、3代将軍家光が阿部重次に造営奉行を命じ規模に造り替えたものです。現在、社殿(下写真)はじめ唐門・透塀などが国の重要文化財に指定されています。

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東照宮五重塔(重要文化財)

東照宮五重塔は、上野動物園東園の園内にあるため、東照宮からは近寄ることはできませんが、参道わきから身近に五重塔が見えます。この五重塔は「旧寛永寺五重塔」として国の重要文化財に指定されています。下写真は東照宮の参道から撮ったものです。 

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寛永8年(1631)に、江戸幕府の老中で、後に大老となる土井大炊頭利勝(どいとしかつ)の寄進により、上野東照宮の塔として建てられました。

 しかし竣工の8年後の寛永16年(1639)の春に花見客の過失によって焼失してしまい、現在見ることのできる五重塔は、その年のうちに再建されました。

高さが約32メートルあり、江戸時代には、増上寺、浅草寺、谷中天王寺の五重塔とともに「江戸四塔」の一つと言われました。

明治になる、「神仏分離令」により、東照宮から寛永寺の管理下に移されました。

「塔」というのはそもそも仏舎利(釈迦の遺骨)を収めるためのものですので、神社である東照宮においておくわけにはいかず、寛永寺に移されたのでした。

その五重塔が昭和33年になると今度は寛永寺から東京都へ寄付されます。これが今日、上野動物園内で見られる現在の五重塔の姿となります。そのため、名称が「旧寛永寺五重塔」とされています。

現在、江戸時代から残された五重塔は、寛永寺の五重塔と池上本門寺の五重塔の二つだけとなってしました。

徳川家綱霊廟勅額門(重要文化財) 

寛永寺は、当初は、徳川将軍家の祈願寺でしたが、3代将軍家光が埋葬されてからは徳川将軍家の菩提寺となり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠っています。

上野寛永寺には、4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家済、13代家定の6人の将軍が眠っています。

そのうち、4代将軍家綱と5代将軍綱吉の霊廟の勅額門を見ることができます。

 4代将軍家綱の霊廟の勅額門は、国立博物館の真北にあります。最寄駅はJR鶯谷駅で南口から徒歩5分です。

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4代将軍徳川家綱は延宝8年(168058日に死去し、法号を厳有院といったので、正しくは厳有院霊廟勅額門と呼ばれます。

霊廟の一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失してしまいました。勅額門、これらの災害を免れた貴重な遺構で重要文化財に登録されています。

徳川綱吉霊廟勅額門(重要文化財) 

5代将軍綱吉霊廟の勅額門は、寛永寺の北東にあります。

綱吉は宝永6年(1709110日に死去し、法号は常憲院とされたため、正しくは常憲院霊廟勅額門と呼ばれます。

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綱吉の霊廟は、歴代将軍の仲でもっとも整ったものの一つであったと言われていますが、綱吉の霊廟も、維新後に一部が解体されたり、第二次世界大戦で焼失したりしていて、勅額門は、これらの災害を免れた貴重な遺構で重要文化財に登録されています。

3代将軍家光の霊廟

 寛永寺に眠る将軍は6人ですが、この6人の霊廟のほか、江戸時代の一時期、3代将軍家光の霊廟がありました。

家光は慶安4年4月20日になくなり、その遺骸は寛永寺に移され、初七日にあたる26日に寛永寺を発し日光に移され、日光の地蔵山に埋葬されました。日光の大猷院は、家光が眠る霊廟ですが、死去1年後の慶安5年に寛永寺にも家光の霊廟が建立されました。

 この霊廟は享保5年に焼失してしまいました。厳有院殿霊廟の勅額門の台東区教育委員会の説明板に「この勅額門は昭和32年(1957)の改修時に発見された墨書銘によって、もと家光の上野霊廟の勅額門であったものを転用したものと考えられる。」と書いてありますので、焼失後は再建されなかったものと思います。

 現在、江戸時代に寛永寺の塔頭であった林光院が、上野国立博物館の東側にありますが、その山門前に、「東叡山大猷院殿尊前」と刻まれた燈籠が2基設置されています。この石燈籠が家光の霊廟があったことのわずかな名残りです。

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赤印が寛永寺根本中堂です。青印が東照宮です。
オレンジ印が両大師です。緑印が家綱霊廟勅額門です。
ピンク印が綱吉霊廟勅額門です。紫印が林光院です









# by wheatbaku | 2019-10-05 13:30 | 新江戸百景めぐり
上野不忍池(新江戸百景めぐり㊳)

上野不忍池(新江戸百景めぐり㊳)

今日の新江戸百景めぐりでは、不忍池をご案内します。『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では「上野不忍池」として108ページの第55景で紹介されています。

下写真は清水観音堂の舞台の下から撮った弁天堂方面の写真です。

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上野寛永寺を創建したのは天海大僧正ですが、天海大僧正は、「見立て」という考えによって、延暦寺周辺の景色を上野に再現しようとしました。

まず、お寺の名前ですが、比叡山延暦寺に模して東叡山寛永寺と称しました。

天海大僧正は、延暦寺に模したのは、名前だけではなく、風景も再現しようとしました。

不忍池を琵琶湖に模しました。琵琶湖には竹生島があり、そこの宝厳寺には有名な弁才天が鎮座してします。そこで、竹生島の弁天様を模しして、不忍池の中に島を築き弁天様をお祀りしました。

不忍池には、元々聖天島という小さな島がありました。その島の脇に備中松山藩藩主の水谷(みずのや)勝隆の協力を得て築かれたのが中島です

琵琶湖と竹生島に見立てられたため、当初は弁天堂に参詣するにも船を使用していたのですが、参詣者が増えるにともない江戸時代に橋がかけられました。下写真は現在の弁天堂です。

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弁天堂

弁天堂は昭和20年の空襲で焼失してしまいましたが、昭和33年に再建されました。その弁天堂に鎮座されている弁才天は、谷中七福神の一つですが、「江戸名所図会」によると中島(なかじま)弁才天と呼ばれていて、慈覚大師の作と伝わっているそうです。

御本尊の弁才天は秘仏で、年に一度、9月の巳の日の「巳成金(みなるかね)大祭」にだけ御開帳されます。下写真は弁天堂に掲示されていた「巳成金大祭」の案内です。

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大黒堂

弁天堂の北側に、大黒堂があります。豊臣秀吉が護持していた大黒天を祀っているとされています。

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聖天島

不忍池に、元々あった聖天島は、その存在を知らない人がほとんどですが、中之島の西北に現在も残されています。(下写真)

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しかし、江戸時代の人たちは、不忍池に二つの島があったことはよく知っていたようです。

「江戸名所図会」の不忍池の絵を見ると聖天島が明確に描かれています。

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清水観音堂

不忍池に弁才天をお祀りしたのと同じように、京都の清水寺を模して造られたものが清水観音堂です。清水観音堂は、寛永8(1631)に創建されました。

清水寺といえば舞台造りですので、この清水観音堂も舞台造りとなっています。

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清水観音堂は、初めは「擂鉢山(すりばちやま)」に建てられました。

摺鉢山は、その形が摺鉢を伏せた姿に似ていることから名付けられました。(下写真は擂鉢山への登り口から撮った写真です)

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ここから土器や埴輪の破片が出土したことから、擂鉢山は前方後円墳だと考えられています。

昭和59年に発掘調査が行われました。それによると現存長70メートル、後円部径43メートル、前方部幅は最大部で23メートル。後円部の道路との比高差は5メートルであると報告されています。この岡の上に、天海僧正により、江戸時代の初め寛永8年(1631)に建立されましたが、寛永寺根本中堂建立のため、元禄7年(1694)に現在地に移築されました。

上野の山に現存する創建年時が明確な建物のなかで最古の建物であり、国の重要文化財に指定されています。

清水観音堂の御本尊は、清水寺から遷座された千手観世音菩薩で、平安時代の比叡山の高僧・恵心僧都の作と伝えられています。

御本尊様は秘仏で年に1日、2月の「初午(はつうま)」の日にだけ開帳されます。

舞台下には、変わった樹形をした松の木があります。この松の丸い部分からは不忍池の弁天堂が見えるようになっています。

これは、歌川広重が描いた「名所江戸百景」のうちの「上野清水堂不忍ノ池」と「上野山内月のまつ」の中に描かれた松を復元したものです。

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「上野清水堂不忍ノ池」を良く見ると、月の松は、清水観音堂の下の参道より不忍池側にあることがわかります。

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また、「上野山内月のまつ」を見ると右下部分に赤い建物をした弁天堂が描かれていて、その周辺に家が描かれていますが、これらは料理屋だと思われます。

不忍池は現在も蓮が密生していますが、江戸時代も不忍池では蓮が有名で蓮茶飯が名物でした。

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# by wheatbaku | 2019-10-02 13:52 | 新江戸百景めぐり
赤門(新江戸百景めぐり㊲)追記

赤門(新江戸百景めぐり㊲)追記

 今日は前回書いた赤門について1点追記しておきます

[101日追記]

 赤門の両脇には番所が設置されています。

 この番所は、表から見ると下写真のように朱塗りとなっています。

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 しかし、門をくぐって内側からみると朱塗りではありません。(最下段写真)

 不思議だなぁと思っていましたが、思いがけない所に、その理由が書いてありました。

 その理由が書いてあるのが、磯田道史先生が書いた「武士の家計簿」です。 「武士の家計簿」は、加賀藩の会計のプロ猪山家が残した家計簿を読み解き、激動の時代を生き抜いた武士の姿を描いたものです。

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 その中で、磯田先生が、赤門を取り上げています。溶姫の輿入れは7代目の猪山信之の時でした。信之は、この婚礼の準備係を命じられ、それに関するメモが残されています。そのメモには、今度の将軍家との婚儀だけは首尾よくやるため、内輪向きのものは欠落してもよいという指示が上層部から出ていたそうです。

 100万石の大藩であっても財政状態は厳しく、将軍家の輿入れに対応するのも大変だったようです。

 磯田先生は、「内輪向きの費用を徹底して削れ」という指示が徹底していた例として赤門の内側が塗料を節約して朱塗りになっていないことを挙げています。

 つまり、経費削減の影響で、赤門の番所の内側は下写真のように朱塗りとせず黒いままとしたようです。細かくは確認していないので断定できませんが、黒くなっているのは、黒い塗料を塗ったのではなく、時の経過で黒っぽく見えるようになったのかもしれません。

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# by wheatbaku | 2019-10-01 10:33 | 新江戸百景めぐり
赤門(新江戸百景めぐり㊲)

赤門(新江戸百景めぐり㊲)

新江戸百景めぐり、今日は、東京大学の赤門についてご案内します。

『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では89ページの第40景で紹介されています。

「赤門」は東大を象徴する門であり、東大の代名詞でもあります。(下写真)

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 文政10年(1827)加賀藩13代藩主前田斉泰(なりやす)は、
11代将軍徳川家斉の娘溶姫(多くは「ようひめ」と呼びますが「やすひめ」とふりがなされていることもあります)を正室に迎えることになりました。この時に建立されたのが「赤門」です。


 江戸時代、三位以上の大名が将軍家から妻を迎える際は、奥向きの住まいは御守殿と呼ばれました。御守殿の門であることから正式には御守殿門と呼ばれますが、朱塗りの門であったことから通称で赤門とも呼ばれました。
 

 三位以上大名に将軍の娘は御守殿と呼ばれ、四位以下の大名に嫁いだ場合には御守殿でなく御住居(おすまい)と呼ばれ、御守殿とは区別されていたとされています。

ちなみに手元にある角川書店発行の「角川新版 日本史辞典」にも、そう書いてあります。

 なお、「赤門」(東京大学総合研究博物館発行)の畑尚子氏の「加賀藩邸内の徳川将軍家」によれば、9代将軍家治以前は輿入れ先の家格や相手の官位にかかわらず御守殿と呼ばれていたが、11代家斉の息女から御守殿と呼ばれるのは御三家・御三卿と婚姻を結んだ者に限られるようになった。そして、溶姫の場合は加賀藩からの強い要望により安政3年(1856)に御住居から御守殿に変わったと書いてあります。

以上、御守殿と御住居の区分の違いはあるもの、御守殿が、加賀藩だけに許されたわけではありません。

 溶姫の姉の峯姫は水戸家に嫁いでいますが、嫁ぎ先の徳川斉修(なりのぶ)が従三位であったため、やはり御守殿と呼ばれたと「十五万両の代償」(佐藤雅美)に書かれています。

御守殿門は一代限りで対象となる人物がなくなると再建を許されないので、東大の赤門は御守殿門として唯一残された門です。 

赤門は、 建築様式は薬医門という形式で、屋根は切妻作りの本瓦葺で、左右に番所があります。
 門の屋根上部の棟瓦は葵の紋、軒の丸瓦は前田家の家紋梅鉢となっています。前田家は菅原氏の出身と称しています。そのため、前田家の家紋は天神様の神紋と同じ梅鉢紋となっています。

鬼瓦には大学の学の旧字である學という字が刻まれています。下写真は休日の赤門、潜り門だけが開いています。

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 赤門は明治10年に東京大学に移管され、それ以降、東大の門となりました。

赤門の所在地は、元々は現在地より15メートル東にありましたが、明治36年校舎建設のため現在地(つまり西側に15メートルの場所)に移転しました。
 その後、幸いなことに関東大震災や空襲も免れることができて、昭和36年に解体修理され、現在は国の重要文化財に指定されています。

加賀藩上屋敷の変遷

東大の本郷キャンパスの中心を占める部分は加賀藩上屋敷、そして東側の東大病院の部分は、加賀藩前田家の支藩である富山藩と大聖寺藩の上屋敷、農学部のある弥生キャンパスや浅野キャンパスが水戸藩中屋敷でした。
 本郷の加賀藩江戸藩邸は、元々大久保忠隣の屋敷であったが忠隣が没落したのち、元和2年(1616)・元和3年(1617)頃に拝領し下屋敷として発足しました。
 加賀藩の上屋敷は、江戸時代初めの慶長10年~明暦3年(1605~1657)は、大手門の前の辰の口に、その後の明暦3年~天和3年(1657~1683)は筋違橋門内にありました。
 その後、5代将軍綱吉の時代 天和31683)年に本郷が上屋敷となりました。(いずれも「江戸のミクロモス 加賀藩江戸屋敷」(追川吉生著)によります)
 それ以降の加賀藩の江戸藩邸は中山道に沿ってあり、中屋敷は現在の文京区駒込の六義園の近くに、下屋敷は現在の板橋区にありました。下屋敷の跡地には加賀町という名前が現在残っています。


鉄門(てつもん)
 東京医学校(現在の東大医学部)が本郷に移転した1876年から法・

文学部が移ってくるまで、赤門は医学部の通用門として使われていたどうです。そのため、東大医学部の紋章は赤門をデザインした紋章となっています。

医学部が移転してきた当初は赤門は通用門でしたが、医学部の正門であったのが鉄門(てつもん)です。

鉄門は、現在、東大病院の近くに再建されていて、先日の江戸散歩でもご案内しました。下写真はその時の写真です。

c0187004_16384972.jpg

東京大学医学部の創立は安政5年(1858)5月、神田お玉ヶ池の川路聖謨の屋敷に開設されたお玉ヶ池種痘所までさかのぼります。

お玉ヶ池種痘所は開設したばかりにもかかわらず同じ年の11月に類焼し、現在の秋葉原駅の北東の下谷和泉橋通りに移転しました。

種痘所の門扉は厚い板を鉄板で囲い、鉄板の間を頭の丸い鋲釘で打ちつけ点黒に塗ってあったので、江戸の人々は種痘所を鉄門と呼んでいたそうです。

その後、種痘所は西洋医学所、医学所、医学校、大学東校、東校、東京医学校と改称されました。

そして、明治9年に東京医学校は本郷に移転しました。

本郷に移転した翌年の明治10年に東京医学校は東京大学医学部となりました。

東京医学校の正門は、現在の鉄門の位置から西に約30メートルほどの場所に設置されていました。移転当初は種痘所の門扉も使用されたそうです。

明治17年に法学部と文学部が、その翌年理学部が神田一ツ橋から移転してきたことにより、全学部共通の正門として本郷通り側に現在の正門が造られてからは、医学部正門は鉄門と呼ばれるようになりました。

その後、大正期に鉄門前の民有地が構内に取り込まれたため鉄門は撤去されてしまい、その後、長いこと鉄門はありませんでした。

現在の鉄門は、東京大学医学部の創立150年を記念し、2008年に再建されたものです。下写真が現在の鉄門です。

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赤印が赤門です。青印が鉄門です。








# by wheatbaku | 2019-09-29 16:34 | 新江戸百景めぐり
  

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