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神田上水②(新江戸百景めぐり52-2)

神田上水②(新江戸百景めぐり52-2

今日は「神田上水」の続編ですが、今日は、大洗堰で取水された水が、どのようにして、江戸市中に供給されたかについて説明していきます。

 

大洗堰で分流した水は、小日向台の下を通って、水戸藩上屋敷の中を流れた後、現在の水道橋駅付近で神田川を越えて、神田や日本橋地区に給水されました。

〈神田上水旧白堀跡〉

水戸藩上屋敷までは、現在の巻石通りを蓋のされていない水路(白堀)で流れて行きました。

巻石通りの途中に文京総合福祉センターがあります。その入口付近に神田上水の白堀跡が残されています。(下写真)

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文京総合福祉センターの建設工事をする際に、平成23年から24年にかけて発掘調査が行われ、神田上水関連の遺構が発見されました。

この調査で発見された白堀跡は、石積み護岸で、長さは60m以上確認されました。そして、その一部が現地で展示されていて、地上から見えるようになっています。

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〈小石川後楽園を通る神田上水〉

神田上水は、水戸藩上屋敷(現在の小石川後楽園)を通っていました。その名残りが現在も小石川後楽園に残されています。

小石川後楽園に残された神田上水跡を見ると江戸時代の神田上水がどのようなものであったのかよくわかります。下写真は、小石川後楽園に残された神田上水路で、水路の左手に「神田上水跡」と書かれて杭があります。

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また、意外と神田上水だと気が付かないのが円月橋の下を流れる水路です。この水路も神田上水跡です。円月橋は、明の儒学者朱舜水が設計したと言われていて、水面に映る形が満月のように見えることから円月橋と名付けられました。

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下の絵が小石川後楽園の園内図ですが、赤字のラインが神田上水の水路です。左側が北になりますので、園内の北側の水路部分が神田上水の流路ということになります。

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〈御茶ノ水の懸樋(かけひ)〉

 水戸藩上屋敷を流れた神田上水は、石樋を利用して、現在の白山通りの下を流れた後、神田川を越えていきました。

 神田上水が神田川を渡るためにかけられた橋が「懸樋」と呼ばれています。

懸樋の長さは約17間(約56m)あり、銅張の屋根が葺かれていました。

 水道歴史館には、懸樋の模型があります(下写真)

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写真の左側(現在の文京区)から右側(同・千代田区)に給水されていました。

 また、懸樋が架けられていた場所に「神田上水懸樋(掛樋)跡」と刻まれて石碑が建てられています。 

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〈神田上水の給水地〉

 神田上水が供給した範囲は、江戸城の東から東北方面にあたる神田・日本橋・京橋地区一帯になります。

 懸樋により、神田川を越えた神田上水は、小川町や神保町に供給しつつ神田橋に向かいます。

 神田橋で、二筋に分れて、一筋は神田橋門内に入り、神田橋門内の大名屋敷に供給します。もう一筋はお堀に沿って流れて行き、龍閑橋(現在はありません)で、内神田一帯と供給する支流を分岐し、本流は常盤橋に向かいます。

本流は、常盤橋に行くまでに、大伝馬町から両国(現在の東日本橋)に供給しました。本流は、一石橋で御堀を越えて京橋地区にまで供給しました。

 下写真は、江戸東京博物館に掲示されている神田上水の供給範囲です。 緑色が神田上水の水路です。なお、青印は玉川上水の水路です。

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 赤印が文京総合福祉センターです。

 青印が「神田上水懸樋(掛樋)跡」石碑の設置場所です。





# by wheatbaku | 2019-12-05 15:28 | 新江戸百景めぐり
神田上水①(新江戸百景めぐり52-1)

神田上水①(新江戸百景めぐり52-1

 新江戸百景めぐりで、今日は「神田上水」をご案内します。

 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では56ページの第14  景で紹介されています。

 神田上水について原稿を書いていたら長くなりましたので、2回に分けて案内します。今日は、神田上水と大洗堰について案内します。

 下写真は、神田上水の大洗堰があった場所付近に架かっている大滝橋と文京区教育委員会が設置した「大洗堰跡」の説明板です。

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〈神田上水とは〉

 神田上水は、井の頭池を水源として、途中で善福寺川と妙正寺川の水を加えて、大洗堰かから取水し江戸市中に水を供給していました。

東京市稿には「神田上水は府下三上水の一つなり、水源は多摩郡吉祥寺村の井ノ頭ノ池より流出するものを本流とす。また、上井草村善福寺の池より流出するもの一条あり。和田村において本流に合し。下井草村妙正寺池より流出する井草川あり。落合村に至りて本流へ合す。(中略)関口に至り別れて両派となり、一つは大洗堰を下りて江戸川となり、一つは水門より目白台下を白堀に入りて、すなわち上水となる」と書いてあります。

 昭和40年に河川法の改正により、井の頭池から隅田川の合流地点まですべてが神田川と呼ばれるようになりましたが、江戸時代は、井の頭池から大洗堰を経て江戸市中までを神田上水といい、大洗堰の余水が流れる川を江戸川、そして現在の飯田橋より下流を神田川と呼びました。

神田上水の開設時期と開設者については二説あります。

一つが、徳川家康の江戸入りの直後、大久保主水が開いたと言われていて、その功績により大久保主水(もんと)の名を拝領したと言われています。その一方で、寛永年間に内田六次郎が開いたという説もあります。

この二説について、どちらが正しいのか、いまだにはっきりしていないようです。

「江戸町人の研究第5巻」(吉川弘文館刊)の「江戸の水道制度」(伊藤好一著)では、大久保主水が開いたという説と神田六次郎が開いたという説を開設したうえで、「神田上水の開鑿(かいさく)については、その開鑿の年時が不明であるとともに、開鑿した者についても不明な点が多い」と書いています。

〈大洗堰〉

 大洗堰は目白台下にありました。現在は、大洗堰は取り払われてすっかり姿を消しましたが、大滝橋の辺りにあったと考えられていて、そこには文京区教育委員会の説明板がたっています。(最上段写真)

先日の毎日文化センターの「~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩」でも、大洗堰を案内しました。下写真は、文京区の説明板を見ながら説明を聞く参加者の皆様です。

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 大洗堰は、ここで水位をあげて、関口台へ水を流すために設けられましたが、神田川では、この地点まで海水が遡ることを考慮して大洗堰を設けていました。

大洗堰は、石造りで、増水した際には堰の上を水が乗り越えられるように造られていました。水が堰を洗うように流れるため、大洗堰をいう名がついたといいます。 

 下画像が、「江戸名所図会」に載っている大洗堰です。江戸時代の大洗堰がどのような形をしていたかよくわかります。

 

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〈大洗堰由来碑〉

文京区設置の説明板の下流側の歩道脇に「大洗堰由来碑」がありました。

それによると、東京市は、大洗堰の保存のために、大正8年、大洗堰があった周辺の地を江戸川公園として整備しましたが、昭和12年に江戸川が改修され、大洗堰がなくなりました。そこで、翌年、堰の部材を再利用して、由来碑を建てました。しかし、その由来碑もなくなってしまいました。その後、碑文だけが見つかったため、見つかった碑文を改めて江戸川公園に設置したそうです。(下写真の左が碑文です)

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発見された由来碑の碑文の文面は次の通りです。

  神田上水舊蹟碑記

徳川氏府ヲ江戸ニ開クノ初大久保主水忠行命ヲ受ケテ上水開設ノ工ヲ起シ多摩郡井之頭池ノ水ヲ用ヒ此処ニ堰ヲ設ケテ神田ヨリ市中ニ給水ス神田上水即チ是ナリ此処ハ地勢高峻老樹翁尉タル目白臺下ノ景勝ニ位シ亦四季ノ景物ニ富メルヲ以テ古来江戸名所トシテ聞ユル事久シ俳聖芭蕉嘗テ上水道修築ニ従ヒテ此処ニ寓シ遺阯今ニ傳ヘテ風流ノ余韻ヲ慕フモノ尠カラズ

大正八年(1919)附近水道附属地ヲ江戸川公園ト為シ上水史蹟ノ保存ニ努メシガ昭和12年(19373月江戸川改修ノ工成ルニ至ツテ遂ニ舊観ヲ失ヘリ仍テ茲ニ舊洗堰遺材ノ一部ヲ用ヒ碑ヲ建テ由来ヲ刻シ以テ追憶ノ資トナス

 昭和13年(20013月 東京市

〈神田上水取水口の石柱〉

由来碑の近くに神田上水取水口の石柱があり、次のような説明がされています。

「関口の大洗堰(現在の大滝橋あたり)で水位をあげ、上水路(白堀)で水戸屋敷(現後楽園一帯)に入れた。そこから地下の水道で、神田、日本橋方面に給水した。

 この大洗堰の取水口に、上水の流水量を調節するため「角落(かくおとし)」と呼ばれた板をはめこむための石柱が設けられた。ここにある石柱は、当時のもので、昭和8年大洗堰の廃止に寄り撤去されたものを移した。なお、上水にとり入れた余水は、お茶の水の堀から隅田川へ流された。」

 石柱をよくみると溝がきられていて、そこに板を落として水量を調整したと思われます。(下写真)

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 赤印が大滝橋です。




# by wheatbaku | 2019-12-01 22:40 | 新江戸百景めぐり
雑司ヶ谷鬼子母神(新江戸百景めぐり51)

雑司ヶ谷鬼子母神(新江戸百景めぐり51

 新江戸百景めぐり、今日は、雑司ヶ谷鬼子母神をご案内します。『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、146ページの第83景で紹介されています。下写真が鬼子母神堂遠景です。

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鬼子母神(きしもじん)とは

 鬼子母神はインドの神様で訶梨帝母(カリテイモ)とよばれ、王舎城(オウシャジョウ)という夜叉神の娘で、多くの子供がいました。その数は500人とも1000人ともいわれます。しかし大変乱暴な神様で、人間の子供たちをとって食べるので、人々から恐れられました。

お釈迦様は、その過ちをやめさせるため、鬼子母神が大変かわいがっていた末っ子を隠してしまいました。その時、鬼子母神は大変嘆き悲しみました。そこで、お釈迦様は、「千人のうちのたった一人の子どもを失ってもこのように嘆き悲しむ。それほど多くの子どもを持たない人間の一人の子ども食ってしまったら、その父母の嘆きはどんなに大きなことだろうか。」と戒めました。

鬼子母神ははじめて今までの過ちを悟り、お釈迦様に帰依し、その後安産・子育の神となることを誓い、人々に尊崇されるようになったとされています。

ここの鬼子母神像は、鬼形ではなく、吉祥果(ざくろ)を持って幼児を抱いた菩薩形の美しいお姿をしているので、鬼という字もとくに角のつかない鬼の字が使われています。 下写真は鬼子母神堂に掲げられている額ですが、角のない鬼の字となっています。

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雑司ヶ谷鬼子母神のご由緒

雑司ヶ谷鬼子母神堂におまつりされている鬼子母神(きしもじん)の像は室町時代の永禄4年(1561年)116日、清土(せいど;文京区目白台)辺りより掘りだし、星の井(清土鬼子母神境内にある三角井戸)あたりでお像を清めた後、東陽坊(後、大行院と改称、その後法明寺に合併された)という寺に納めたものです。
 鬼子母神像が出現した場所には、現在、清土(せいど)鬼子母神堂があり、その境内に星の井もあります。星の井は三角形をした珍しい井戸です。(下写真)

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なお、清土鬼子母神堂は、雑司が谷七福神のうち吉祥天をお祀りしています。下写真の左が星の井で、右手の幟が立っているところに吉祥天が鎮座しています。


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 東陽坊の一僧侶が、その霊験顕著なことを知って、ひそかに像を自分の故郷に持ち帰ったところ、意に反してたちまち病気になったので、その地の人々が大いに畏れ、再び東陽坊に戻したとされています。

その後、信仰はますます盛んとなり、安土桃山時代の天正6年(1578)「稲荷の森」と呼ばれていた現在地に、村の人々がお堂を建ててお祀りされました。

鬼子母神堂

現在の鬼子母神堂の本堂は、本殿が寛文4年(1664)に加賀藩3代藩主前田利常の娘で、安芸藩主浅野家2代藩主(浅野宗家としては3代目)浅野光晟に嫁いだ満姫(自昌院殿英心日妙大姉)の寄進により建立されたものです。

その後 拝殿と幣殿(相の間)は元禄13年(1700)に建立されました。

 鬼子母神堂は、平成28年7月25日、国の重要文化財に指定されました。

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上川口屋

 鬼子母神堂への参道の左手にレトロな感じの駄菓子屋さんがあります。「上川口屋」です。この上川口屋は、創業が天明元年(1781)と言いますので、創業以来330年以上の老舗中の老舗です。

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 女将さんの内山様、大変気さくな方でいろいろなことを教えていただきました。内山さんの話では、もともとは、川口屋という飴屋さんだったそうですが、あまりにも繁盛して川口屋と名乗るお店が多くなったので、最初という意味で「上」の字を付けたそうです。

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 また、江戸名所図会の「雑司ヶ谷鬼子母神」を描いた挿絵が下写真ですが、そこに「あめや」と書かれているのが、上川口屋とのことです。

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武芳稲荷神社

鬼子母神境内に武芳稲荷神社があります。創建年代ははっきりしませんが、雑司ヶ谷鬼子母神縁起によれば、天正5年に、稲荷の森と言われていた現在地に鬼子母神像を安置したとされているたま、それ以前に鎮座していたと考えられる鬼子母神の地主神です。

現在の社殿は、昭和42年に建立されたもので、鳥居25本は昭和45年に奉納されたものです。このお稲荷さんは出世稲荷とも呼ばれ、地元の多くの人に信仰されています。

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雑司ヶ谷鬼子母神のイチョウ

鬼子母神の境内には、樹高30メートル、幹周8メートルの大きなイチョウの木があります。都内のイチョウでは、麻布善福寺のイチョウに次ぐ巨樹と言われていて、室町時代の応永年間(13941428年)に僧日宥(にちゆう)が植えたと伝えられています。

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鬼母神大門ケヤキ並木

 東京メトロ雑司が谷駅や都電荒川線の鬼子母神前駅からの参道に約100メートルのケヤキ並木があります。

 このケヤキは、戦国時代の天正(15731591)の頃、雑司谷村の住人長島内匠が、鬼子母神へ奉納のため植え付けたものと言われています。

推定樹齢600年を超える古木は、昭和10年代には19本が確認されていたそうですが、道路整備等のため伐採され、現在は参道西側に3本、東側に1本だけとなりました。

伐採された箇所には、地元有志や豊島区、東京都による植え替えが行われ、ケヤキ並木の景観は今も残されています。

古木となった4本のケヤキは、目通り幹囲56メートルの巨木で、東京都の「天然記念物」に指定されています。

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茗荷屋

雑司ヶ谷鬼子母神の門前には、参詣客を当て込んで料理屋、茶屋、土産物屋などが軒を連ねていました。

その中で、特に有名な料理屋が「荷屋(みょうがや)」です。

この茗荷屋は、歌川広重の「江戸高名会亭尽」の中の「雑司ケ谷之図」(下写真)に描かれるほど、江戸で知られた料亭でした。(なお、下写真は国立国会図書館のものを転載させていただきました。)

料亭の前の大きな木は、ケヤキの木のように見えますがいかがでしょうか?

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この茗荷屋は、慶応4年2月17日、一橋家家臣など17名が集まり、上野寛永寺に謹慎していた徳川慶喜の助命嘆願などを相談しました。この会合が後の彰義隊の発足につながります。いってみれば、彰義隊発祥の地ともいうべき場所が雑司が谷の茗荷屋です。

赤印が雑司ヶ谷鬼子母神です。
青印がケヤキ並木です。
緑印が清土鬼子母神堂です。






# by wheatbaku | 2019-11-28 12:50 | 新江戸百景めぐり
肥後細川庭園(新江戸百景めぐり㊿)

肥後細川庭園(新江戸百景めぐり㊿)

久しぶりに、新江戸百景めぐりを更新します。

 今月の9日に、毎日文化センターで目白駅をスタートして、神田川沿いに散歩しましたが、その時に案内した中に「肥後細川庭園」があります。この「肥後細川庭園」も『新江戸百景めぐり』(小学館刊)で紹介されていますので、今日は、この肥後熊本庭園を取り上げて案内します。

 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では87ページの第38景で紹介されています。

 下写真は、庭園内にある松聲閣(しょうせいかく)です。

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〈肥後細川庭園の歴史〉

最初、「肥後細川庭園」と聞いて、そんな庭園が東京にあったかぁと思いました。実は、肥後細川庭園は、以前は「新江戸川公園」と言っていた公園で、平成29年3月から肥後細川庭園に名称を変更したものでした。

庭園入口に掲げられている庭園名は、細川護煕元首相の筆です。

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肥後細川庭園がある一帯は江戸時代末期には御三卿の清水家、その後、一橋家の下屋敷となり、幕末に肥後熊本藩細川家の下屋敷となりました。

明治15年からこの地が細川家の本邸となり、現在の肥後細川庭園の台地の上の部分に本邸が造られました。その屋敷は和敬塾として現在も残っています。和敬塾は、私はまだ訪ねてことがありませんが、月に一度公開されているようです。

第2次世界大戦後、この土地は細川家の手を離れ、その後、西武鉄道が入手するなど何回か所有者が変わった後、昭和34年に東京都が敷地を買収し昭和36年に都立公園として開園し、さらに昭和50年に文京区に移管されました。

肥後細川庭園は、細川家下屋敷の庭園の跡地をそのまま公園にしたものです。

下写真は紅葉の始まった庭園の様子です。11月9日の散歩の際に撮りました。

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〈庭園の見どころ〉

肥後細川庭園は、庭園の中央に大きな池がある池泉回遊式庭園です。目白台台地が神田川に落ち込む斜面地の起伏を活かし、湧水から流れ出した細流が池に流れ込んでいて、変化に富んだ景観をつくり出しています。

庭園の中央にある池をめぐると、礼拝石(らいはいせき)、雪見灯籠、亀石などの見どころがあります。

礼拝石からは庭園全体を見渡すことができます。手前の石が礼拝石です。

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雪見灯籠は、灯籠の高さが低く、笠が大きく、短い3本脚をもつ灯籠です

雪見灯篭という名前の由来は諸説あるそうですが、笠に積もった雪を鑑賞して楽しむものという説が私は気に入っています。

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亀石は、亀の形をしている石で、言われなくてもわかるほど亀に似ています。

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 また、庭園には、肥後六花(肥後花菖蒲、肥後椿、肥後山茶花、肥後芍薬、肥後菊、肥後朝顔)のうち、肥後花菖蒲、肥後椿、肥後山茶花、肥後芍薬が植えられていて、それぞれの花の季節に花を見ることができます。 

 私たちが訪ねた11月初旬には、山茶花が咲き始めていました。(下写真)

 

〈松聲閣(しょうせいかく)〉

入口にある建物は松聲閣と呼ばれ、大正時代の建物です。(最上段写真)

もと細川家の学問所だった建物で、一時期は細川家の住まいでした。細川護熙元首相も暮らしたことがあるそうです。下写真は、庭園側からみた松聲閣です。

整備工事等を行い、平成281月にリニューアルオープンしました。

玄関入口に掲げられている額は細川護煕元首相の筆によるものです。(下写真)

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 松聲閣は2階建で、各部屋には、肥後六花の名前が付けられています。

1階に休憩室と4つある集会室があります。

1階の喫茶室「椿」では500円で抹茶を味わうことができます。下写真は「椿

の室内の写真です。

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庭園をみながらのお抹茶の味わいは格別です。(下写真)

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2階には展望所があります。展望所といっても座敷です。

廊下に立てば目の前に庭園が広がっていて、庭園が一望にできます。展望所からの眺望も見事です。(下写真)

また、部屋内に公園の解説ビデオが流されていて、ゆっくり休みながらビデオを見ることができます。

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〈永青文庫〉

肥後細川庭園と永青文庫の間の門扉は10時から16時まで開門されていて、この時間帯は二つの施設の回遊が可能です。 ですから、肥後細川庭園から、永青文庫にも行くことができます。現在の建物は旧細川侯爵家の家政所(事務所)として昭和初期に建設されたものです。下写真が永青文庫の入口です。

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永青文庫は、昭和25年、細川家16代細川護立によって、細川家に伝来する文化財の散逸を防ぐ目的で財団法人として設立され昭和47年から一般公開を始めました。

永青という名称は、細川家の菩提寺である京都建仁寺塔頭永源庵の「永」と細川家初代の細川藤孝の居城青龍寺城の「青」の二字をとって細川護立が名付けたものです。

永青文庫の展示室は写真厳禁ですが、建物内の一部は写真撮影可能です。下写真は、永青文庫発行の書物等を見ることができる部屋の写真です。

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赤印が肥後細川庭園です。

青印が永青文庫です。
 肥後細川庭園には、東京メトロ江戸川橋駅が近いように思っている人が多いと思います。私もその一人ですが、都電の早稲田駅からの方が近いことに今回気が付きました。





# by wheatbaku | 2019-11-25 11:38 | 新江戸百景めぐり
「江戸の豪商」の菩提寺を訪ねて!

「江戸の豪商」の菩提寺を訪ねて来ました!

日曜日から一昨日まで、2泊3日で京都・大阪・名古屋に行ってきました。

来年2月に文京学院大学で「江戸の豪商列伝Ⅱ 現在も名を残す老舗企業をつくった豪商たち」のタイトルで、住友、大丸、松坂屋、白木屋を取り上げて、その創業や発展の歴史についてお話します。詳しくは 下記URLをクリックしてください。

「現在も名を残す老舗企業をつくった豪商たち」 

今回の旅行は、その調査のため、住友、大丸、松坂屋、白木屋のそれぞれのゆかりの地を訪ねてきました。

事前に、住友史料館、大丸や松坂屋の史料館に教えていただいた情報を基に訪ねましたので、大変収穫の多い旅行となりました。この旅行で得られた情報も加えて、2月の講座は充実したものにしていきたいと思います。

今日は、それぞれのゆかりの地のうち、住友、大丸、松坂屋、白木屋の創業者たちが眠る菩提寺をご紹介します。その他のゆかりの地のご紹介は、文京学院大学の講座の中で行います。

多くの方に、講座を受講いただければ幸いです。

永養寺―住友創業者住友政友の菩提寺

住友家の初代は住友政友です。住友家の祖先は、武士の出身ですが、住友政友は武士を捨てて涅槃宗という宗派の僧となりました。涅槃宗が弾圧されたため、在野の僧となり、涅槃宗の教義を守りながら、薬と本を販売する商売を始めました。そして、慶安5年(1652)に68歳でなくなり、京都の永養寺に葬られました。

 永養寺は、京都市下京区の河原町高辻交差点近くにある浄土宗のお寺です。(下写真は本堂)

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浄運院―住友創業者蘇我理右衛門の菩提寺

住友政友は住友家の家系上の祖として家祖と呼ばれています。住友には、もう一人重要な人がいます。それが、業祖と呼ばれる蘇我理右衛門です。住友は銅精錬から事業を発展させましたが、銅精錬事業は、蘇我理右衛門に始まります。そのため、蘇我理右衛門も住友創業者の一人とされています。

蘇我理右衛門のお墓は、京都下京区の浄運院にあります。浄運院は河原町五条の交差点の南西方向にある浄土宗のお寺です。下写真は本堂です。

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宝塔寺―大丸創業者下村彦右衛門の菩提寺

大丸の創業者下村彦右衛門は、京都伏見に生まれました。下村家も武士の出身ですが、彦右衛門が生まれた時は古着商を営んでいました。下村彦右衛門も古着商から商売を始め、その後、伏見に呉服店を開き、さらに大坂に店を出した後、名古屋・江戸にも出店し、有数の呉服商に発展させました。下村彦右衛門のお墓は、京都伏見区深草の宝塔寺にあります。

宝塔寺は 平安時代の昌泰2年(899)創建で創建以来1100年以上たつ古いお寺です。下写真は本堂ですが、重要文化財に指定されています。

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日泰寺―松坂屋創業家伊藤家の菩提寺

松坂屋初代伊藤祐道は、織田信長の小姓を勤めていた武士でした。信長が暗殺された後、商人となり名古屋で呉服小間物屋を始めました。これが発展して、現在の松坂屋となっています。江戸時代後期には、伊藤宇多という女性経営者が出て、松坂屋の経営危機を乗り切っています。

伊藤家歴代のお墓は、名古屋の覚王山日泰寺にあります。

日泰寺は、日本で唯一、どの宗派にも属さない寺として知られています。日泰寺は、非常に広い境内のお寺で下写真の本堂も近代的でした。

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両足院―白木屋創業者大村彦太郎の菩提寺

白木屋の創業者は大村彦太郎です。大村彦太郎は、近江国長浜で生まれたと言われています。最初、木材業を始めたのち、江戸に小間物店を出店し、さらに呉服店を開業し、江戸有数の呉服店に発展させました。

大村彦太郎のお墓は、京都の建仁寺の塔頭両足院にあります。両足院は、通常非公開ですが、私が訪ねた時には、幸運にも公開されていました。下写真は、方丈です。

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# by wheatbaku | 2019-11-21 14:51 | 文京学院大学江戸講座
池上本門寺その3(新江戸百景めぐり㊾-3)

池上本門寺その3(新江戸百景めぐり㊾-3

池上本門寺の3回目になりますが、今日は、奥絵師の狩野探幽や加藤清正供養塔など有名なお墓のほか、あまり有名ではないものの注目すべき人物のお墓を案内します

 

狩野探幽の墓

狩野探幽の墓は、多宝等の南西部にあります。

記念碑のような縦長のお墓と瓢箪形をしたもの2つのお墓が並んでいます。(下写真)

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 狩野探幽は、江戸時代初期の狩野派の絵師で、有名な狩野永徳の孫です。父の狩野孝信と一緒に慶長19年(1614)江戸へ下向し、幕府の奥絵師として、二条城障壁画制作などに大活躍しました。鍛冶橋門外に1000坪余の屋敷と215石を拝領し、鍛冶橋狩野家の祖となりました。

瓢箪形のお墓は、元々、目黒区の永隆寺にあった分骨墓で昭和11年に改葬されたものです。瓢箪形の墓には「玄徳院殿前法眼守信日道」と刻まれています。

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 なお、狩野探幽について、興味深いことを知りましたので、ここで書いておきます。

 狩野探幽の母は、戦国武将佐々成政の娘養秀院だとされています。この養秀院の姉岳星院は五摂家の一つ鷹司信房に嫁いでいます。鷹司信房の娘孝子が将軍家光の正室となっていることは前回ブログに書きましたが、家光の正室となった孝子と狩野探幽とは従兄妹ということになります。また、将軍家光と狩野探幽は義理の従兄弟ということになります。思いがけない関係に驚きました。

狩野孝信の墓

 狩野孝信は、狩野探幽の父です。狩野孝信のお墓は多宝塔の南東にあります。狩野探幽のお墓とは少し離れています。

 孝信のお墓には、法名慈父圓大院考信日養霊と刻まれています。

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 狩野孝信は狩野永徳の次男として生まれました。しかし長男光信が若くして亡くなり、さらに光信の長男貞信も若くしてなくなったため、孝信が狩野派の中心となって活躍しました。

 孝信の長男探幽は鍛治橋狩野家となり、次男尚信が木挽町狩野家を興しました。三男安信は、狩野派宗家を相続し中橋狩野家を興しました。さらに、次男尚信の孫岑信が浜町狩野家を起こしています。

 下写真の一番右のお墓が狩野孝信です。真ん中が、若くして亡くなった狩野貞信(本来の狩野派宗家を継ぐはずであった人物)、そして一番左が、木挽町狩野家を興した狩野尚信の墓です。

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加藤清正家供養塔

 霊宝殿の裏側(西側)に、加藤清正の供養塔があります。

この供養塔は、加藤清正の娘で、紀州徳川家の初代藩主徳川頼宜の正室である瑤林院が、慶長16年(1611)に亡くなった加藤清正の供養のために満38年目の忌日に当る慶安2年(1649)に建立したものです。

表面に加藤清正の法名「浄池院殿永運日乗」が刻まれています。

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加藤清正正室の逆修供養塔

加藤清正の正室正応院が建てた逆修供養塔は、五重塔に向かう参道の北側にあります。

 加藤清正の正室正応院は、清正の嫡男忠広の母です。

加藤忠弘は、11歳で家督を相続しましたが、いわゆる「牛方馬方騒動」と呼ばれる御家騒動が起きるなど藩政が混乱しました。そして、寛永9年(1632)には、加藤家は改易されてしまいます。加藤忠広の改易は、3代将軍家光の日光社参のおりに、老中土井利勝を首謀者として家光暗殺を計画するという内容の密書を、忠広の子供光広が発したとされることに基づくというもので、秀忠死去後の大名の動向をうかがうために企てられた可能性がある事件とも言われています。

正応院は、改易後、忠弘と一緒に出羽国丸岡に移り、慶安3年(1650)に亡くなっています。

この供養塔は正応院が、寛永3年(1626)に建てられたもので、生前に建てられた逆修供養塔です。

逆修供養塔といのは生前に自分の供養のために仏事をおさめ、死後の冥福を祈るために建立される供養塔をいいます。

元は11層でしたが、3層が失われ8層になっています。

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前田利家側室の逆修供養塔

加藤清正正室の逆修供養塔の手前に「前田利家室層塔」があります。

これは、前田利家の側室寿福院が生前に自身のために建てた逆修供養塔です。

寿福院は前田利家の側室で、加賀藩3代藩主前田利常の生母です。

元々、寿福院は利家の正室芳春院(お松)付の侍女でしたが、利家の側室となり3代利常を生みました。

関ヶ原の戦いが起こる前年に、前田利家亡き後、金沢城主となった前田利長の謀反が疑われ、実母の芳春院が人質として江戸に送られました。芳春院は15年間、人質として江戸で暮らした後、金沢に戻ります。この芳春院の替わりに人質として送られたのが寿福院でした。

寿福院が生前に死後の冥福を祈り造ったのが11層塔です。現在は五層のみが残されています。

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円光院(米沢藩主上杉綱憲正室)の墓

 五重塔の北側すぐ近くに、紀州徳川家2代藩主徳川光貞の次女で、米沢藩上杉家4代藩主綱憲の正室であった円光院のお墓があります。

 表面に「円光院殿日仙榮寿大姉」と刻まれています。

 上杉綱憲は、赤穂事件で有名な吉良上野介の実子で、米沢藩 代藩主上杉綱勝の養子となりました。赤穂浪士の吉良邸討ち入りの際には、赤穂浪士を追いかけようとして家老に留められる場面で有名です。宝永元年(1703)になくなった上杉綱憲のあとを追うように宝永2年(1704)に亡くなっています。

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# by wheatbaku | 2019-11-15 18:02 | 新江戸百景めぐり
池上本門寺その2(新江戸百景めぐり㊾-2)

池上本門寺その2(新江戸百景めぐり㊾-2

池上本門寺の2回目ですが、今日は、池上本門寺に眠る有名人をご案内したいと思います。

 池上本門寺は、大名家、絵師など多くの有名人が眠っています。そのため、それらをすべてお参りするには、多くの時間が必要です。先日、お参りした際は、江戸時代の大名家のお墓を中心にお参りしましたが、英一蝶など、時間がなくてついにお参りすることができませんでした。また、日をあらためてお参りしようと思っています。

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 多くの有名人が眠っている中で、特に目立つのが紀州徳川家関係のお墓です。

 前回ご案内した、多宝塔(上写真)の北側は斜面となっていますが、その中段に紀州徳川家のお墓がまとまってあります。

 下写真の最も右から養珠院(ようじゅいん)、妙操院(みょうそういん)、天真院(てんしんいん)、瑤林院(ようりんいん)のお墓です。 そのお墓の順にご案内します。

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養珠院(ようじゅいん)

 養珠院は徳川家康の側室で紀州徳川家初代藩主徳川頼宣の母です。名は万(まん)といいます。御三家の一つ水戸徳川家初代藩主徳川頼房の母でもあります。

 お万の方は上総国勝浦城主・正木頼忠の娘として生まれました。慶長元年(1596年)頃、家康に見初められ側室となりました。

万は慶長7年(1602年)に長福丸(後の徳川頼宣)を、さらに翌慶長8年に鶴千代(後の徳川頼房)を生みました。

慶長8年(1603年)に常陸水戸20万石が長福丸に与えられ、慶長14年(1609年)には、駿河・遠江50万石に移り、元和5年(1619)、紀伊和歌山55万5千石に封じされました。

なお、鶴千代(徳川頼房)は慶長11年(1606年)に下総下妻10万石が与えら、慶長14年水戸25万石に移封されました。

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妙操院(みょうそういん)

妙操院は、11代将軍徳川家斉の側室で、名は登勢といいました。

子どもが13女あり、男子が徳川治寶の養子となり、11代藩主となった徳川斉順です。

斉順の子供慶福が14代将軍となる徳川家茂ですので、妙操院は家茂のお祖母さんということになります。

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天真院(てんしんいん) 

天真院は、紀州藩第2代藩主・徳川光貞の正室です。
 伏見宮貞清親王の王女として生まれました。名は照子といいます。
 4代将軍徳川家綱の正室である顕子女王は妹です。また、8代将軍・徳川吉宗の正室である理子女王は、姪となります。

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瑤林院(ようりんいん) 

 瑤林院は、徳川頼宣の正室です。瑤林院は、加藤清正の娘で、名は八十姫(やそひめ)といいました。元和3年(161717歳の時に、肥後より駿府藩主徳川頼宣に輿入れしました。

 瑤林院は、池上本門寺に加藤清正供養塔を寄進しています。

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寛徳院(かんとくいん)

寛徳院は、第8代将軍となる徳川吉宗が紀州藩主だった頃の正室です。

寛徳院のお墓は、瑤林院のお墓の北側にあります。

寛徳院は、伏見宮貞致(さだゆき)親王の娘です。名は理子(まさこ)といいます。宝永3年(1706)に吉宗と結婚し、4年後の宝永7年(1710)死去しました。ちなみに吉宗が将軍に就いたのは享保元年(1716)です。

2代藩主徳川光貞の正室の照子女王は伯母、第4代将軍・徳川家綱の正室顕子女王は叔母、

9代将軍・徳川家重の将軍世子時代の正室増子女王は姪に当たります。法名は寛徳院玄真日中大姉です。

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松寿院

養珠院のお墓の近くに、松寿院のお墓があります。
松寿院は、徳川頼宣の娘松姫で、上野国吉井藩の祖松平信平の正室です。

松平信平は、関白鷹司信房の4男で、徳川家光の正室孝子(本理院)の弟でした。鷹司家は、五摂家の一つですが、信平は京都にとどまらず、家光の正室として江戸に下向した姉の孝子(本理院)を頼って、江戸に下りました。

そして、家光に愛され、徳川頼宜の娘松姫を正室として娶り、松平の称号をゆるされ、鷹司松平家と呼ばれるようになり、孫の代には、上野国に吉井藩を起こしました。

松平信平のことは、昔から知っていましたが、その正室のお墓にお参りできて、新たな収穫となりました。

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 以上が多宝塔の背後にある紀州徳川家のお墓ですが、このほか、徳川吉宗の側室二人のお墓が、五重塔の北側にもありますので、二人のお墓をご案内します。

深徳院(しんとくいん)

 深徳院は、八代将軍徳川吉宗の側室で、9代将軍徳川家重の生母です。お須磨(おすま)の方とよばれました。

 徳川吉宗の側室となったのは、吉宗が将軍となる享保元年(1716)より以前のことで、家重を出産したのは正徳元年(1711)でした。その後、再び懐妊しましたが、難産のため母子ともに 正徳3年(1713)に亡くなりました。享年26才、法名は深徳院妙順日喜大姉です。

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本徳院(ほんとくいん)

本徳院は、江戸幕府8代将軍徳川吉宗の側室で、御三卿の田安宗武の生母です。お古牟(こん)の方と呼ばれました。

正徳5年(1715)に田安宗武)を出産しました。翌享保元年(1716年)、吉宗は将軍となり、お古牟の方も吉宗とともに江戸城大奥に入りました。

しかし、享保8年(1723221日、28歳でなくなり、池上本門寺に埋葬さました。法名は本徳院妙亮日秀大姉です。

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 このほかに有名人のお墓がありますが、長くなりましたので、今日は紀州徳川家関係者のお墓だけの案内とします。
 狩野探幽のお墓などは次回にご案内します。

赤印が紀州徳川家の墓所です。それぞれのお墓は省略します。
ピンク印が多宝塔ですので、多宝塔の背後に紀州徳川家の墓所があります。
オレンジ印が五重塔です。
青印が深徳院のお墓です。
緑印が本徳院のお墓で、深徳院の北側で少し離れた場所にあります。








# by wheatbaku | 2019-11-12 21:39 | 新江戸百景めぐり
目白・神田川散歩(「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」)

目白・神田川散歩(「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」)

昨日は、毎日文化センターの「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」で、目白から神田川沿いを散歩してきました。

 絶好の行楽日和で、快晴のもと楽しく散歩してきました。

今回のコースは目白駅から江戸川橋駅までの次のようなコースです。

目白駅 ⇒ 千登世橋 ⇒ 宿坂 ⇒ 金乗院(目白不動尊)⇒ 南蔵院 ⇒ 山吹の里 ⇒ 甘泉苑(休憩) ⇒ 肥後細川庭園 ⇒  水神社 ⇒ 芭蕉庵 ⇒ 椿山荘 ⇒ 大洗堰跡 ⇒ 江戸川橋駅

 ご参加いただいた皆さん、お蔭様で楽しい散歩となりました。ありがとうございました。

 今日は、目白・神田川散歩での主な案内箇所をご紹介しておきます。

目白不動尊(金乗院)

 目白不動尊は、現在は金乗院の境内に鎮座しています。

 もともと、目白不動尊は、現在の場所から東に1Kほど離れた東豊山新長谷寺に鎮座していましたが、昭和20年の空襲で新長谷寺が焼失したため、金乗院と一緒になったものです。

 金乗院の山門の脇に不動堂が建てられて、そこに鎮座しています。

 奥のコンクリートの台の上が不動堂です。

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丸橋忠弥の墓(金乗院)

 由井正雪とともにいわゆる「慶安事件」を起こした丸橋忠弥は、鈴ヶ森で処刑された後、一族が密かに遺骸を貰い受け、紀州に埋葬しますが、一族の後裔である秦武郷(はたたけのり)が金乗院に移し墓碑を建てました。 

忠弥の本姓は長曽我部秦氏でしたので、忠弥のお墓の裏側をよく見ると、墓の裏面には「長曾我部秦盛澄」と刻まれています。

下写真は忠弥のお墓の前で説明を聞く参加者の皆さん

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甘 泉 園

甘泉園は、江戸時代は徳川御三卿のうちの清水家の下屋敷で、南側にある水稲荷神社境内や公務員アパートをふくむ広いものでした。

甘泉園という名は、庭園の中央に湧き水があり、その清水がお茶に合うところに由来しています。

庭園では、結婚式を挙げるカップルが前撮りをしたりする姿が見えることもあり、絶好のビューポイントです。

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肥後細川庭園

肥後細川庭園は、以前は新江戸川公園と言っていた公園で、平成293月から肥後細川庭園に名称を変更しました。

ここは幕末に肥後熊本藩細川家の下屋敷となりました。

庭園入口にある建物は松聲閣と呼ばれ、大正時代の建物です。もと細川家の学問所だった建物で、一時期は細川家の住まいでした。

下写真は松聲閣前で説明を聞く参加者の皆さん

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庭園の中央に大きな池がある池泉回遊式庭園です。目白台台地が神田川に落ち込む斜面地の起伏を活かし、湧水から流れ出した細流が池に流れ込んでいて、変化に富んだ景観をつくり出しています。

下写真は庭園内の土橋近くで説明を聞く皆さん

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芭蕉庵

松尾芭蕉は、延宝5年(1677)年から3年間、昔仕えていた藤堂家が神田上水の改修工事にたずさわり、関口に住んだといわれています。後にそこに芭蕉庵が造られました。庭園内には池があり、芭蕉の真筆を模刻した芭蕉句碑「古池や蛙とびこむ水の音」などがあります。下写真は、その門前で説明を聞く参加者の皆さん

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大洗堰跡

神田上水は、井の頭池を水源として、途中で善福寺川と妙正寺川の水を加えて、関口の大洗堰かから取水し江戸市中に水を供給していました。

江戸川公園に大洗堰跡の説明板が建っていますが、神田川は改修されて、すっかり面影はなくなっています。

下写真は説明板の前で説明を聞く参加者の皆さん。

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# by wheatbaku | 2019-11-10 17:09 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
池上本門寺その1(新江戸百景めぐり㊾-1)

池上本門寺その1(新江戸百景めぐり㊾-1

 江戸検が終わりましたが、新江戸百景めぐりは、まだ途中ですので、引き続き「新江戸百景めぐり」(小学館刊)で紹介されている寺社等をご案内していきます。

 再開の初めに、前回の記事で、総門の扁額の筆跡で江戸検受検者を悩ませた池上本門寺をご案内します。

 池上本門寺は、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、145ページの第82景で紹介されています。

 池上本門寺は、非常に見どころの多いお寺ですので、訪ねるときには、十分余裕を持っていくとよいと思います。私は2時間かけて回りましたが、見どころすべてを見ることができませんでした。

 そんなに見どころの多い池上本門寺ですので、2回に分けてご案内します。初回は、建造物をご案内していきます。
 下写真は本堂です。

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 池上本門寺は、東急池上線の池上駅から徒歩10分の場所にあります。池上駅からは一本道ではありませんので、池上駅を下りたら道順をよく確認してから出発することをお勧めします。

池上本門寺は、正式には長栄山本門寺といいます。その山号の由来は、「法華経の道場として長く栄えるように」という祈りを込めて日蓮聖人が名付けたものです。

池上本門寺は、日蓮聖人が今から鎌倉時代後期の弘安5年(1282)10月13日に亡くなった場所に建てられた寺院です。

 日蓮聖人は、弘安5年9月8日、9年間棲みなれた身延山に別れを告げ、病気療養のため常陸の湯に向かう途中、武蔵国池上の豪族池上宗仲の館で亡くなりました。

そして大檀越の池上宗仲が、日蓮聖人が亡くなった後、法華経の字数(69,384)に合わせて約7万坪の寺域を寄進し、それ以来「池上本門寺」と呼ばれています。

池上本門寺は、昭和20年4月15日の空襲で多くの建物が焼失していますが、奇跡的に総門・経堂・五重塔・多宝塔などが炎上を免れて、現在も昔の姿を留めています。下写真は総門です。

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総門

総門は、池上本門寺にお参りする際に最初に通る門で、元禄年間に建立されたと伝えられていて、昭和20年4月15日の戦災を免れた数少ない建物です。

 総門の扁額「本門寺」は、前回書いたように寛永の御三筆の一人である本阿弥光悦の筆によるものです。ちなみに、この扁額は門が建てられた時期より古く、寛永4年(1627)に書かれたものだそうです。

現在本物は、霊宝殿に所蔵されていて、総門に掲げれられているものは複製です。(下写真が現在の扁額です)

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 本阿弥光悦の扁額は、下記池上本門寺のホームページの境内案内のうちの総門をクリックするとみることができます。
 池上本門寺 ウェブサイト
 上記をクリックすると池上本門寺のトップページにとびます。トップページの最上段の「知る」の中に境内案内の項目があります。
 総門の柱等がきれいですが、平成30年9月に建造当初の姿に復刻・改修されたものです。

此経難持坂 (しきょうなんじざか)

 総門を入ると正面に急な坂が見えてきます。この坂が此経難持坂(しきょうなんじざか)です。 

この坂は、加藤清正が寄進したものです。加藤清正は、熱心な法華信者でした。加藤清正は、母の第7回忌にあたる慶長11年(1606)、追善供養のため、祖師堂を建立寄進していることから、その時に築造されたものと考えられています。

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仁王門

 仁王門は、昭和20年4月15日の空襲で灰燼に帰し、仁王門は昭和52年に再建されました。

旧仁王門は、慶長13年(1608)に2代将軍秀忠が五重塔と共に建立したもので、桃山期の豪壮な門として旧国宝に指定されていました。

旧扁額「長栄山」は本阿弥光悦が書いたもので関東三額の一つであった、そうです。

現在の扁額「長栄山」の「栄」の字は旧字だが、伝統的な慣習で、火伏せのため、冠りを「火」2つでなく「土」2つとしてあるそうです。

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大堂(だいどう)

 大堂は、日蓮聖人をお祀りする建物です。旧大堂は、昭和20年4月15日の空襲で焼けてしまい、昭和39年に再建されたもので鉄筋コンクリート造りの建物です。

旧大堂は、慶長11年(1606)、熱心な法華信者として有名な加藤清正が、母の七回忌追善供養のために建立したもので、間口25間の堂々たる建築で、加藤清正が兜をかぶったまま縁の下を通ることができたと伝わっています。

その壮観さから、江戸の人々は「池上の大堂」と称し、これに対して、上野(寛永寺)は中堂、芝(増上寺)は小堂と呼んだといいます。

また、旧扁額「祖師堂」は本阿弥光悦筆であったそうです。

その祖師堂は、宝永7年(1710)に焼失し、享保8年(1723)、8代将軍吉宗の用材寄進で、大岡越前守を普請奉行として、当時の倹約令に従い間口13間に縮小されて再建されましたが、旧祖師堂は、昭和20年4月15日の戦災で焼失しました。

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経蔵

 大堂の左手(西側)に経堂があります。

 現在の経堂は、天明4年(1784)に建立されましたが、それ以前に2回建立されていたようです。

この経堂は、昭和20年4月15日の空襲の際に焼失を免れました。

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本殿

本殿は、大堂の北側にあります。

昭和20年4月15日の空襲で焼失した釈迦堂を再建したのが本殿です。元々、祖師堂の左隣にありましたが、再建にあたって境内の奥の方へ移されました。

 正面内陣にある釈迦仏の胎内には、インドのガンジー伝来で故ネール首相より寄贈された釈尊の真舎利2粒が奉安されているそうです。

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日蓮聖人御廟所

境内の最も奥にあるのが日蓮聖人御廟所です。日蓮聖人の遺灰と御骨を奉安しているお堂です。かつては昭和6年に建てられた御真骨堂がありましたが、昭和20年4月15日の空襲で焼失し、昭和54年に再建されました。

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多宝塔

 大堂から西に下る大坊坂と下る途中に北側に大きく見えてくるのが多宝塔です。

 この多宝塔は、日蓮聖人の尊骸を荼毘に付した蹟に建つ供養塔です。

日蓮聖人の550遠忌を期に、文政11年(1828)に上棟、文政13年(天保元年)に開堂供養されています。

石造りの基壇の上に木造宝塔が建っています。総高17・5メートルあり、漆や彩色によって華やかな装飾が施されている堂々たる多宝塔です。

国の重要文化財に登録されています。

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五重塔

五重塔は、仁王門をくぐると右手に見えますので、すぐわかります。
 関東には、幕末以前の五重塔が4基ありますが、この塔は、慶長12年(1607)に建立された一番古い塔です。

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文禄2年(1593)に、徳川秀忠が疱瘡にかかり、一命も危うい容態におちいってしまいました。その時、熱心な法華信者であった乳母岡部局(のち正心院)が、大奥より池上本門寺に日参し、「心願が成就したあかつきには御礼に仏塔を寄進する」とひたすら祈った甲斐あって、秀忠は快癒しました。

秀忠が将軍となった後、慶長12年(1607)に、その御礼と武運長久を祈って、五重塔が建立されました。

当初、大堂の右手前、現在の鐘楼堂と対の位置に建てられましたが、建立直後の慶長19年(1614)の大地震で傾き、元禄15年(1701)、5代将軍綱吉の命で現在地へ移築、修復されたといいます



# by wheatbaku | 2019-11-07 20:59 | 新江戸百景めぐり
江戸検お題問題解説その4(新江戸百景めぐり番外④)

江戸検お題問題解説その4(新江戸百景めぐり番外④)

江戸検お題問題解説その4は、16問から20問まで解説します。

これまでの問題は、すべてお題テキスト『新江戸百景めぐり』(小学館刊)(以下お題テキストといいます。)から正解がわかる問題でしたが、今日解説する18問だけはお題テキストを読んだだけではわかりませんので、苦労された方も多いだろうと思います。

16】次にあげるのは、徳川将軍家ゆかりの寺とその説明です。正しいものはどれでしょう?

 い)寛永寺には、秀忠ら6人の将軍が葬られている

 ろ)護国寺には、家光が寄進した惣門が現存している

 は)伝通院には。家康の生母・於大の方の墓所がある

 に)鵬祥院は、秀忠の娘・千姫の発願で創建された

これらは、すべて、お題テキストに関連することが書かれています。

い)お題テキストの96ページは寛永寺についてですが、寛永寺には6人の将軍が埋葬されていますが、秀忠は増上寺に埋葬されていますので、これは間違いです。

 ろ)お題テキストの95ページは護国寺について書いてあります。 この中で、護国寺の惣門は、綱吉と母桂昌院の御成りのためにつくられた門だと書かれています。従って、ろ)は間違っています。

は)お題テキストの94ページに伝通院について書いてあり、問題文は正しいので、これが正解です。

に)お題テキストの94ページに麟祥院について書いてありますが、麟祥院は春日局が創建したお寺ですので、これも間違いです。

 

17】徳川家の祈願所だった穴八幡宮で行なわれる行事で、8代将軍吉宗が世嗣の疱瘡平癒祈願のために奉納したことに始まるものは何でしょう? 現在は、近くの戸山公園に場所を移して行なわれています。

 い)獅子舞    ろ)薪能  
 は)梯子乗り   に)流鏑馬

 これもお題テキストの90ページに書かれています。に)の流鏑馬が正解です。

18】池上本門寺は日蓮聖人終鷲の地に建てられた日蓮宗の名刹です。江戸時代には、庶民の信仰を集めるとともに、幕府や諸大名の寄進も多く、格式を誇りました。元禄期(16881704)の建立と伝えられる総門の扁報は、著名な文化人の筆跡ですが、それは誰でしょう?

 い)狩野探幽   ろ)松花堂昭乗 
 は)本阿弥光悦  に)三井親和

 この問題は、お題テキストを読んでいただけでは正解が分らないので難しかっただろうと思います。

 この正解は、は)の本阿弥光悦です。

 池上本門寺の公式ホームページに書かれていますし、扁額の写真も載っていますので、ホームページで確認してください。

 下写真が、現在の本門寺の惣門ですが、本阿弥光悦の扁額は、霊宝殿に所蔵されていて、惣門に掲げられているものは複製です。

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 このことを知らなくて、どう正解を導くかですが、そのヒントを書いておきます。

 まず、い)狩野探幽 は、絵師ですので、これはないだろうということになります。次いで、に)三井親和は、元禄年間に生まれ、江戸時代中期に活躍した人ですので、この人もないだろうということになります。ここまでは、『江戸博覧強記』に書いてあるレベルの知識でわかると思います。

 そこで、残るのは二つです。松花堂昭乗も本阿弥光悦も寛永の三筆の一人で、この二人が候補となります。

そこで、どちらかということになりますが、これからは、松花堂昭乗と本阿弥光悦に関する知識がどれだけあるかによります。

松花堂昭乗は、男山石清水八幡宮の社僧であったことや真言密教を修業したことを知っていれば、この人が日蓮宗の本門寺の額を書くことはないだろうという推測がたちます。

また、本阿弥光悦が熱心な日蓮宗信者であったことを知っていれば正解はわかります。また、そこまで知らなくても日蓮宗が京都の町衆の多くに信仰されたことを知っていれば、本阿弥光悦は日蓮宗の信者だろうという推測がたち、そこから、正解を導き出すこともできます。

いずれにしても、お題テキストに書かれていること以外の知識が必要ですので、難しい問題だったと思います。

       

【19】下の4枚の絵は、いずれも「江戸名所図会」のものです。では、神田明神の祭礼を描いたものはどれでしょう?

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 これらの絵はすべてお題テキストに掲載されている絵です。
 従って、丹念にお題テキストをよく読んでおけば、正解がわかる問題です。

い)は、お題テキスト115ページの神田明神の中に載っています。従って、これが正解です。

ろ)は、お題テキスト132ページの日枝神社の中、は)は、お題テキスト136ページの芝神明宮の中に載っています。 に)は、お題テキスト141ページの品川宿の中に載っている「品川牛頭天王神輿洗の図」です。

 また、神田祭が、江戸時代には9月15日に行われていたことを知っていれば、い)の挿絵の右上に9月15日と書いてあるので、それから、い)が正解だとわかります。

20】品川宿一帯には、多くの寺社がありました。では、次の寺社についての説明で、間違っているものはどれでしょう?

 い)海晏寺一紅葉の名所として知られた

 ろ)品川神社一境内の鯨塚が有名だった

 は)品川寺一江戸六地蔵の第1番だった

 に)寄木神社一伊豆長八の鏝絵が現存する

 これらの選択肢は、すべてお題テキストの140ページ~141ページに載っています。ここを読んでいれば、正解は簡単に分かったと思います。

 鯨塚があるのは、品川神社ではなく利田(かがだ)神社ですので ろ)が間違っています。

以上で、江戸文化歴史検定の「今年のお題」関連の問題についての解説を終わりにしますが、お題テキストを読み込んでいれば、正解がわかる問題が大半であったということがお分かりいただけたことと思います。


# by wheatbaku | 2019-11-05 13:08 | 新江戸百景めぐり
  

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