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「江戸の科学者たち」も頻出問題(江戸検お得情報7)

「江戸の科学者たち」も頻出問題(江戸検お得情報7

 江戸検1級合格のためのお得情報、今日は「江戸の科学者たち」について書いていきます。

 江戸検1級の過去問をよくみると、江戸時代の科学者たちがしばしば出題されていることがわかります。

 日本の近代化は明治以降に大きく前進したため、江戸時代には近代的な科学の知識はなかったのだと思いがちです。

 しかし、その考えは大きな誤解です。江戸時代は、限られて人たちですが、近代科学の知識を学んだ人がいました。

 そこうした人たちが、ここでいう「江戸時代の科学者たち」です。

江戸検1級問題には、この『江戸時代の科学者たち』が繰り返し出題されています。

具体的にいうと、
3回に土井利位(としつら)国友藤兵衛
5回には司馬紅漢
7回は土井利位
8回には浮田幸吉三浦梅園
9回は
田村藍水
10回は
木村蒹葭堂(けんかどう)
11回には長久保赤水(せきすい)鈴木牧之(ぼくし)
12回に宇田川榕庵(ようあん)

が出題されています

 こうした江戸時代の科学者について一人一人を調べて勉強するのは大変だと思います。

 そこで、江戸時代の科学者について一覧的に記載している本を紹介します。

 その本が、金子務著の中公新書『江戸人物科学史』です。

 1級問題に出題された人物のうち、浮田幸吉、田村藍水、長久保赤水以外の人々について書いてあります。1級合格をめざす人には、この本を読むことをお勧めします。

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出題された人々が、それぞれがどんな科学的業績をあげたかは、問題文を読むとわかりますので、それぞれの問題を書いていきます。

3回には、雪の研究をした土井利位(としつら)、太陽の黒点を観測した国友藤兵衛が出題されました。 

61】私は、寛政元年( 1789 )生まれです。大坂城代のとき大塩平八郎の乱を鎮圧し、最後は老中になりました。また、家臣の鷹見泉石とともに雪の結晶を研究し、その成果を「雪華図説』としてまとめました。さて、私は誰でしよう?

)朽木昌綱    )佐竹義敦  
 は)土井利位   に)水野忠邦

69】近江の鉄砲鍛冶国友藤兵衛は、西洋の科学知識を学び、さまざまな発明をしました。では、天保期(183044)に藤兵衛が行なったこととは、次のうちどれでしよう?

)自作の顕微鏡で、コレラ菌を発見した

)自作の温度計で、人の体温を測定した

)自作の反射望遠鏡で、太陽の黒点を観測した

)自作の潜水艇で、琵琶湖の深さを測った

5回は、銅版画で有名な画家でありながら地動説も紹介した司馬紅漢が出題されています。

83】私は最初、鈴木春信に入門し、鈴木春重の名で浮世絵師として絵の道を歩みはじめました。その後、写生体の漢画・美人画などを手がけますが、平賀源内と交流をもったことで西洋画に転向し、腐蝕銅版画の制作に成功。地動説など西洋自然科学の紹介にも努めました。さて、私は誰でしよう?

)亜欧堂田善

)小田野直武

)司馬江漢

)渡辺崋山
 

7回では、第2回に出題された土井利位が違う形で出題されています。 

81】天保期( 1830 )に「大炊文様」の浴衣が、江戸で大流行しました。この文様は、下総国古河藩主の土井利位が著わし天保3(1832)に刊行された、あるものの精巧なスケッチを集めた書籍に由来しています。さて、それは何のスケッチでしよう?

 い)蝶  ろ)鳥  は)花   に)

8回では、ハングライダーで空を飛んだ表具師浮田幸吉、そして思想家として有名ながら物理学も学んでいた三浦梅園が出題されています。

80】名工とうたわれた表具師の浮田幸吉は、備前国岡山城下で天明5( 1785 ) に事件を起こし、闕所のうえ所払を命じられます。この事件については、儒者の西山拙斎や漢詩人の菅茶山も記録していますが、幸吉はいったい何をしたのでしよう?

)連ねた連凧の先端が、城の本丸上空に達した

)ハンググライダーのようなもので、城下を飛翔した

)城下の詳細な絵地図を屏風に仕立て、他藩に売った

)かっての領主宇喜多秀家の張りばてを、城下の広場に
    据えた

84】私は江戸時代中期の医師で、九州地方出身の思想家です。長崎に遊学し、天文学も学んだほか、論理・物理などを総称する「条理学」を説き、著書には『玄語』などがあります。さて、私は誰でしよう?

 い)建部清庵   ろ)華岡青洲

 は)広瀬淡窓   に)三浦梅園

9回は本草学者の田村藍水が出題されています。田村藍水は、『江戸博覧強記』p310に書いてあります。

82】宝暦7( 1757 )、湯島で日本初の物産会「薬品会」が開かれました。この会の主催者で、8代将軍吉宗の命により朝鮮人参の国産化に尽力した人物は、誰でしよう?

 い)桂川甫周 ろ) 田村藍水 は)中川淳庵  に)平賀源内

10回には、大坂の博物学者である木村蒹葭堂が出題されています。

82】経済の中心地・大坂では、学問や研究に打ち込んだり、蓄財した富で文化の向上に寄与した町人も少なくありませんでした。そのうち、『蘭学類聚』(らんがくるいじゅう)などを著わし、明和~天明期( 176489 )ごろに「当代随一の博物学者」として知られた、北堀江の酒造家は誰でしよう?

 い)木村蒹葭堂    ろ)草間直方

 は)鴻池屋又四郎   に)山片蟠桃

11回は、水戸の地理学者長久保赤水と、越後湯沢の縮緬問屋鈴木牧之が書いた「北越雪譜」が記述問題で出題されています。

70】江戸時代後期に広く一般に使用されていた日本図は、長久保赤水が作製した『改正日本輿地路程全図(にほんよちろていぜんず)』でした。安永8(1779 )に刊行されたこの地図には、出版された日本図として初めて記載されたものがあります。それは、次のうちどれでしよう?

)気候区分 ろ)経緯線   )地図記号 )等高線

97】越後塩沢の鈴木牧之が、雪国の厳しい自然や農民の生活・風俗を実証的に描いた随筆のタイトルは、何でしよう?漢字4字で書いてください。

12回は、宇田川榕庵が出題されています。

87】「日本の近代化学の祖」と称される江戸時代後期の蘭学者・宇田川榕庵(ようあん)は、日本初とされるさまざまな業績で知られています。では次のうち、榕庵の業績として間違っているものはどれでしよう?
  い)太陽の黒点を観測した
  ろ)石鹸の製造に成功した
  は)コーヒーに「珈琲」という漢字をあてた
  に)酸素・水素・窒素など元素の日本名を決めた

以上の問題の正解は下記の通りです。

3回 【61】は)【69】は) 

5回 【83】は)

7回 【81】に) 

8回 【80】ろ)【84】に)

9回 【82】ろ)

10回【82】い)

11回【70】ろ)【97】北越雪譜

12回【87】い)



# by wheatbaku | 2020-04-06 15:05 | 江戸検お得情報
『日本永代蔵』も頻出問題(江戸検お得情報6)

『日本永代蔵』も頻出問題(江戸検お得情報6

江戸検1級頻出問題について連載していますが、今日は、『日本永代蔵』について書いていきます。

『日本永代蔵』は、貞享5 (1688)に発刊された6巻もので各巻5話計 30話の短編小説で、知恵と才覚と倹約によって富を得た商人のほか、放蕩や驕りによって富を失う商人たちが描かれている井原西鶴の名作です。

この『日本永代蔵』から、江戸検1級に3回出題されています。

第5回では、井原西鶴が『日本永代蔵』に書いている商人のあるべき姿、第6回では、三井越後屋が出題され、第7回では、酒田の鐙屋が出題されています。

これまで、第5回、第6回、第7回と連続して出題されていますが、その後、出題されていません。

 最後の出題から時間が経っているので、「もうそろそろ出題されるかな」と考えるか、また「8回以降出題されていないので、もう出題はされないだろう」と考えるかは、受検される皆様の判断ですが、私は一度は『日本永代蔵』を読んでおいたほうがよいと思います。特に、「今年こそ合格したいと思っている人」は読んだほうがよいのではないでしょうか。

 現代語訳の『日本永代蔵』は、角川ソフィア文庫、講談社学術文庫、小学館ライブラリーかそれぞれ出版されています。また、原文で読む場合には岩波文庫が良いと思います。

 私が読んだのは、小学館ライブラリーの『日本永代蔵』です。

 『日本永代蔵』は、もともとは6巻で各巻5話計30話の短編小説ですので、文庫でも200ページほどの分量です。現代語訳した暉峻康隆(てるおかやすたか)は井原西鶴県境の第一人者で、わかりやすい現代語訳でした。

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1級問題として出題された問題の詳細です。

5回【78】「人は十三才迄は、わきまへなく、それより廿四五(にじゅうしご)まては、親のさしつをうけ、其後は我と世をかせぎ、四十五迄に、一生の家をかため、・・・・」

これは、井原西鶴の『日本永代蔵』にある、商人のあるべき姿を述べた一節です。若いうちはおおいに仕事をして家を成せとしていますが、その後は隠居してどうせよとしているでしよう?

)老練な技術をもってさらに稼ぎなさい

)蓄財を幕府へ納め、天下のために使いなさい

)跡継ぎをたくさん育て、家の繁栄を図りなさい

)若隠居して、稼いだ金を使って遊びつくしなさい

正解は、 に)若隠居して、稼いだ金を使って遊びつくしなさい  

『日本永代蔵』では、巻四の一「祈るしるしの神の折敷(おしき)」の最終部分に書かれています。

6回【50】江戸時代に大成功した商人のなかで、勤労精神を基本とし、始末と才覚を売りとして堅実に生き、元禄期( 1688 ~ 1704 )の経済変動を乗り切った商人がいました。井原西鶴もその著『日本永代蔵』のなかで、「大商人の手本なるべし」と絶賛した、その商人とは誰でしよう。

)紀伊国屋文左衛門   ろ)鴻池善右衛門

)奈良屋茂左衛門  に)三井高利

正解は、 に)三井高利

『日本永代蔵』では、越後屋三井高利については、巻一の四「昔は掛算今は当座銀」で取り上げられています。

7回【45】江戸時代、最上川舟運、西廻り航路の拠点として栄えた山形県酒田市に、現存公開されている商家「鐙屋(あぶみや)があります。この「鐙屋」は、ある有名な江戸文学のなかで、1項目を立ててその繁栄ぶりを紹介されています。その作品とは何でしよう?

)「日本永代蔵』  ろ)『諸国百物語』

)『世間胸算用』  に)『北越雪譜』

正解は、 い)「日本永代蔵』
『日本永代蔵』では、「鐙屋(あぶみや)」は巻二の五「舟人馬方鐙屋の庭」に書かれています。




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# by wheatbaku | 2020-04-02 16:02 | 江戸検お得情報
「徳川宗春」も頻出問題(江戸検お得情報5)

「徳川宗春」も頻出問題(江戸検お得情報5

 江戸検1級頻出問題を連載していますが、今日は「徳川宗春」について書いていきます。

 徳川宗春は、尾張藩第7代藩主です享保15年(1730)、兄の6代藩主継友の急死によって尾張藩主となりました。時あたかも8代将軍徳川吉宗が推進していた享保の改革の真っ只中のことです。徳川宗春は、この吉宗の方針に真っ向から対立する商業の自由放任・風俗の開放政策をとったことで有名です。

 しかし、徳川吉宗に比べると徳川宗春はマイナーであることは否めません。その徳川宗春が、江戸検1級では、過去4回出題されています。

 第4回では、時の将軍を批判した文章の作者名、第8回では、隠居謹慎させられた宗春のその後、第10回では、宗春の政治理念を示す2つの文字について出題されていて、第12回は、第4回と同じ問題が再出題されています。

 このように4回も出題されていると何らかの対策を講じておいたほうがよいと思います。

 そこで、問題の典拠を探して徳川宗春について書いてある本を見てみました。

 徳川宗春について書いた本がいくつかありますが、その中で、「規制緩和に挑んだ『名君』―徳川宗春の生涯」(大石学編 小学館刊)を読むと、1級問題に出題された問題はすべて正解がわかります。(何ページに書いてあるかは後記を参照してください)

 そのため、1級合格をめざす人は、「規制緩和に挑んだ『名君』―徳川宗春の生涯 」(大石学編 小学館刊)を読んでおくと良いと思います。

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最後に、問題の詳細と正解を書いておきます。



 4回【62「我好ことは人にもこのませ、我きらひなる事は人にも嫌はせ候ゃうに仕なすは、甚(はなはだ)狭き事にて、人の上たる者べっしてあるまじき事也」

これは、ある人物が時の将軍に対して述べたものです。誰が誰に述べたものでしよう?

)会津藩主保科正之が、5代将軍綱吉を諫めたもの

)新井白石が、6代将軍家宣に建言したもの

)尾張藩主徳川宗春が、8代将軍吉宗の政治を批判したもの

)大御所吉宗が、9代将軍家重に言いおいたもの

正解は、は)尾張藩主徳川宗春が、8代将軍吉宗の政治を批判したもの

「規制緩和に挑んだ『名君』―徳川宗春の生涯」のP129に書いてあります。ただし、この本では、原文ではなく現代語訳されています。

8回【77】尾張藩7代藩主徳川宗春は、享保の改革を真っ向から批判し、8代将軍吉宗によって隠居謹慎させられます。では、宗春のその後のことについて、正しい記述はどれでしよう?

)宗春にかわって、吉宗の息子が尾張藩主になった

)宗春は隠居後、江戸の下屋敷に死ぬまで幽閉された

)初めて外出が許されたのは、実母の葬儀のときである

)宗春の墓石には、死後75年間にわたり金網がかけられた

正解は、に)宗春の墓石には、死後75年間にわたり金網がかけられた です。

「規制緩和に挑んだ『名君』―徳川宗春の生涯 」では、P184から190の「晩年の宗春」の中に書いてあります。

10回【737代尾張藩主徳川宗春は、統制に重きをおく享保の改革に異をとなえた人物として知られています。では、宗春の政治理念を示す2つの文字は、次のうちどれでしよう? 藩主としての心の戒めとしたもので、施政方針を示した著書『温知政要(おんちせいよう)の巻頭と巻末にも、大きく書かれています。

)慈・忍  ろ)仁・義  は)忠・孝 に)法・理

正解は、)慈・忍   です。

「規制緩和に挑んだ『名君』―徳川宗春の生涯」の口絵に『温知政要』の巻頭と巻末の写真が掲載されています。

12回【76】「我好ことは人にもこのませ、我きらひなる事は人にも嫌わせそ候うらうゃうに仕なすは、甚(はなはだ)狭き事にて、人の上たる者べっしてあるまじき事也」

これは、ある人物が時の将軍に対して述べた文章です。誰が誰に対して述べたものでしよう?

)会津藩主保科正之が、5代綱吉を諫めたもの

)新井白石が、6代家宣に建言したもの

)尾張藩主徳川宗春が、8代吉宗の政治を批判したもの

)大御所吉宗が、9代家重に言い置いたもの

これは、第4回【62】の問題と同じ問題です。




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# by wheatbaku | 2020-03-30 13:40 | 江戸検お得情報
『シュリーマン旅行記』も頻出問題(江戸検お得情報4)

『シュリーマン旅行記』も頻出問題(江戸検お得情報4

 今日の江戸検お得情報は『シュリーマン旅行記』について書いていきます。

 この旅行記を書いたシュリーマンはドイツの考古学者で、トロイアの遺跡を発見したことで有名ですが、このことを高校の世界史で学んだ人もいると思います。

シュリーマンは、ドイツの貧しい牧師の家に生まれ、刻苦奮励して大商人として財をなしましたが、41歳で商売をやめ、43才になった1865年に世界旅行に出かけ、インド洋から香港に入り、上海、北京を訪れた後、日本にやってきました。日本には、慶応元年6月1日から7月4日まで約1か月間滞在し、横浜・江戸のほか八王子も訪ねています。

旅行の後、パリでこの旅行の紀行文「シナと日本」を出版しました。この旅行記が日本語に翻訳されています。それが『シュリーマン旅行記 清国・日本』(講談社学術文庫)です。(下写真)

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 江戸検1級の問題として、この『シュリーマン旅行記 清国・日本』から過去に4問出題されています。すなわち、第5回の男女混浴、第6回の浅草の大道芸、第8回の王子で食べたアスパラガスによく似た食べ物、第14回の東海道を進むある人物の行列の4問です。(問題の詳細は、後段に書いておきます。)

『シュリーマン旅行記 清国・日本』は、第1章から第3章までが中国に関して書かれていて、第4章江戸上陸、第5章八王子、第6章江戸、第7章日本文明論となっていて、第8章太平洋で完結しています。

半分以上が日本について割かれていますが、この中には、幕末の日本の様子が生き生きと、そして非常に好意的に描かれています。
 あの有名なシュリーマンが日本を訪れていたことに驚きましたが、さらに幕末の日本を好意的に取られていることにも感激しました。

『シュリーマン旅行記 清国・日本』から、1級問題としてしばしば出題されていますので、今年ぜひ合格したいと願っている人は、この『シュリーマン旅行記 清国・日本』も読んでおいたほうがよいと思います。

また、幕末の日本がわかる興味深い本ですので、江戸検対策としでなく、幕末の江戸を知りたいという人も読んでみるといいと思います。

 最後に『シュリーマン旅行記 清国・日本』から出題された江戸検1級の問題を書いておきます。なお、正解と『シュリーマン旅行記 清国・日本』の該当ページも付記しておきます。

5回 【90】私は、幕末の江戸を訪れて江戸の習俗について多くを書き記し、とりわけ湯屋での男女混浴について「何と清らかな素朴さだろう」と述べるなど、異文化に対する深い理解を示しました。さて、のちに考古学上の大発見をした、私は誰でしよう?

) アーサー・ジョン・エノヾン-

)工ドワード・シルベスター・モース

) トーマス・エドワード・ローレンス

)ハインリッヒ・シュリーマン

正解 に)ハインリッヒ・シュリーマン

男女混浴については、『シュリーマン旅行記 清国・日本』(講談社学術文庫)では88ページに書いてあります。

6回【68】トロイの発掘で知られるシュリーマンは、1865年に日本を訪れています。浅草でさまざまな見世物を見てまわった彼は、ある見世物に感嘆し、欧米で興行すれば称賛の嵐を巻き起こすだろうと記しました。それはどんな芸でしよう?

)居合抜き  ろ)軽業   )独楽回し    )手妻

正解 は)独楽回し 

『シュリーマン旅行記 清国・日本』(講談社学術文庫)では141142ページに書いてあります。

8回【37】トロイの発掘で知られるシュリーマンは、慶応元年( 1865 )に日本を訪問しました。江戸近郊の王子を訪ねた彼は、有名な茶屋で日本料理を食べたことを記しています。そのなかで、「アスパラガスに似ている」と書いている食べ物は、何でしよう?

)独活(うど)    )(たけのこ)

)土筆(つくし)   )(ふき)

正解 ろ)(たけのこ)

『シュリーマン旅行記 清国・日本』(講談社学術文庫)では151ページに書いてあります。

14回【90】慶応元年、のちにトロイア遺跡の発見者となる考古学者シュリーマンが来日しました。到着早々シュリーマンは東海道を進むある人物の行列を目撃し、「堂々とした美しい顔は少し浅黒い」とその容貌を旅行記に記録しています。その人物とは誰でしよう?

)生麦事件直前、品川宿を通過する「島津久光」

)長州再征のため上洛する途中の「14代将軍徳川家茂」

)江戸に向けて進軍する「東征大総督・有栖川宮熾仁親王」

)京都で逮捕され、江戸に護送される途中の「大盗賊日本左衛門」

正解 ろ)長州再征のため上洛する途中の「14代将軍徳川家茂」 

『シュリーマン旅行記 清国・日本』(講談社学術文庫)では98ページに書いてあります。




# by wheatbaku | 2020-03-26 14:40 | 江戸検お得情報
「解体新書」も1級頻出問題(江戸検お得情報3)

「解体新書」も1級頻出問題(江戸検お得情報3

 今日も、「江戸検お得情報」について書いていきます。

 1級問題の過去問を丁寧に解いていく、繰り返し出題されている問題があることに気がつきます。今日も、そうした問題について書いてみます。

 第14回の1級問題に次のような問題が出題されました。

79】《誠に艫舵(ろかじ)なき船の大海に乗り出せしが如く、茫洋(ぼうよう)として寄るべきかたなく、ただあきれにあきれて居たるまでなり》

この文章は、ある事業に取り組んだ当事者たちが、前途の多難さに困惑した様子を回想したものです。完成までに4年を要した、その事業とはどれでしよう?

)『解体新書』の翻訳出版  ろ)『大日本史』の編纂

)玉川上水の開削      に)麻酔薬「通仙散」の開発

 この問題の正解は、い)『解体新書』の翻訳出版 です。

解体新書は、ドイツ人クルムスの「解剖図譜」をオランダ語訳した「ターヘル‐アナトミア」を前野良沢や杉田玄白たちが翻訳したものです。

その翻訳作業の中心人物の一人杉田玄白は、『蘭学事始』を書いて、「解体新書」を翻訳し出版した苦心談を中心に蘭学草創期の状況を回想しています。

上記の問題の冒頭の文章はこの『蘭学事始』の中の文章です。

1級の過去問を解いていくと、次のように「解体新書」や杉田玄白に関する出題問題が多いことに気がつきます。

3回では、杉田玄白が墓碑銘を書いた人物の名前が出題されています。

6回では、杉田玄白の弟子の名前が出題されています。

10回では、杉田玄白の弟子の大槻玄沢が中心となって翻訳した書物名、そして杉田玄白がその著書『形影夜話(けいえいやわ)』の中で解説した病気の名前が出題されています。

そして、第13回は、「解体新書」がうまれるきっかけとなった腑分けが行われて場所が出題されています。

それぞれの問題の詳細は下段に書いておきましたので確認してください。

こうしてみてみると「解体新書」と杉田玄白は要注意ということになります。

今年是非とも1級に合格したいと思っている人は、「解体新書」と杉田玄白も勉強しておいたほうがよいように思います。

お近くの図書館で「杉田玄白」で検索すると多くの関係書物がヒットすると思いますので、ご自分の好きな本を読んでみてください。

私が読んだのは講談社学術文庫の「蘭学事始」(全訳注片桐一男)です。まず現代語訳が書いてあり、ついで原文が記載されていて原文も読むことができます。第14回の問題の冒頭の文章は109ページに載っています。さらに詳細な解説も書いてあります。片桐一男先生は青山学院大学名誉教授で杉田玄白関係の著書を数多く手がけている日蘭関係史の第一人者です。

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また、時代小説が好きな人には、新潮文庫「冬の鷹」(吉村昭著)がお勧めです。

この小説の主人公は杉田玄白ではなく翻訳作業の中心人物として苦労した前野良沢です。

杉田玄白が「解体新書」翻訳成功で脚光をあびる一方、地道に翻訳の道を突き進む孤高の人物前野良沢の苦心や晩年の生活が描かれていますが、その中で、「解体新書」翻訳作業の苦心がよく描かれています。

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「解体新書」出版までの概略を手軽に理解するには「風雲児たち~蘭学革命篇~」が良いと思います。コミックですので手軽に読めます。2018年元旦にNHKで放映された正月時代劇の原作本です。

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以上、いくつか「解体新書」や杉田玄白に関する本を紹介しましたが、ご自分でよいと思う本を探して読んでみてください。うまくすれば、これで1点得するかもしれませんので・・・



最後に、「解体新書」と杉田玄白に関係する1級問題を書いておきます。超難問でありませんので正解はご自分で見つけてください。

3回【100】「ああ、非常の人、非常のことを好み、行いはこれ非常、何ぞ非常に死するや」これは、杉田玄白が書いたある人物の墓碑銘の文章です。では、玄白の友人の本草学者で、火浣布やタルモメイトルを制作し、浄瑠璃作家としては福内鬼外(ふくちきがい)などのペンネームでも知られるこの人物は誰でしよう?名前を漢字4文字で書いてください。

6回【80】私は、杉田玄白の弟子です。江戸に私塾の芝蘭堂を開き、『蘭学階梯』「環海異聞(かんかいいぶん)』などの著作を残しました。さて、私は誰でしよう?

)稲村三伯  ろ)宇田川玄随 
 は)大槻玄沢  に)前野良沢

10回【84杉田玄白の弟子のなかでも、大槻玄沢はオランダ語を得意とし、もっとも翻訳事業を発展させました。では、玄沢が中心となり日本で初めてオランダ語から翻訳した百科事典は、次のうちどれでしよう?

)「厚生新編』   )『ハルマ和解』

)『蘭学階梯』  )『暦象新書』

10回【37】初代将軍家康の次男・結城秀康(ゆうきひでやす)は、感染性の病気で命を落としたとされます。江戸時代に大流行したその病気について、杉田玄白は著書『形影夜話(けいえいやわ)』のなかで「毎年1000人あまり治療するが、そのうち700800人はこの患者である」と述べています。その病気はどれでしよう?

)脚気     )梅毒   )麻疹    )労咳

13回【27】明和8( 1771 )、前野良沢は、杉田玄白・中川淳庵らと死刑囚の腑分け(解剖)に立ち会い、オランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア』の正確な人体図に感嘆し、翻訳を決意しました。『解体新書」が生まれるきっかけとなったこの腑分けは、どこで行なわれたでしよう?
 い)神田佐久間町医学館   ろ)小伝馬町牢屋敷

)品川鈴ヶ森刑場     に)千住小塚原刑場





# by wheatbaku | 2020-03-23 11:38 | 江戸検お得情報
「東海道中膝栗毛」も頻出問題(江戸検お得情報2)

「東海道中膝栗毛」も頻出問題(江戸検お得情報2

 歌川広重の「東海道五十三次」が江戸検1級問題の頻出問題であると前回書きました。

 こうした傾向は、1級の過去問を何回もやっているとわかってきます。

 ですから今年合格したいと思っている人は、過去問に何回も挑戦してご自分で傾向をつかんで対策を講じることも大切だと思います。

 過去問を繰り返し取り組んでくると歌川広重の「東海道五十三次」のほか、「東海道中膝栗毛」に関係する問題もしばしば出題されていることがわかります。

 第2回では弥次さん喜多さんの間柄、第3回では弥次さん喜多さんが最初に泊まった宿場名、第4回では十返舎一九の辞世の句、第7回は戸塚に関係する狂歌、第14回では弥次さん喜多さんが2日目に泊まった宿場名が出題されています。(過去に出題された問題がどんな問題であったかを下記に書いておきます。)

 これだけ出題されている「東海道中膝栗毛」は『江戸博覧強記』では触れられていません。こうしてみると今年是非とも合格したいと思う人は「東海道中膝栗毛」も読んでおいた方がよいということになります。

 「東海道中膝栗毛」は、子供たちも読んでおくべき日本の古典に数えられるほどの名作ですので、子供向けに現代語訳されたものも多く出版されています。
 基本的には、江戸検を受検する人がお好みにあわせて選べばよいと思いますが、私は、現代語訳されたものの多くは、物語としてはおもしろいですが、原作のすべてを現代語訳しているわけではないので、原作に忠実とはいえないものが多いように思います。そのため、江戸検対策として役立つかどうか多少不安が残ります。

 そうした中で、私が良いと思うものは、『現代語訳東海道中膝栗毛(岩波現代文庫)』です。(上)(下)2冊に分かれています。こちらは、原作に忠実に現代語訳しています。

「東海道中膝栗毛」も頻出問題(江戸検お得情報2)_c0187004_11393772.jpg

 なお、原作そのままがいいという人は、「東海道中膝栗毛」(岩波文庫)や小学館の「新編日本古典文学全集 (81) 東海道中膝栗毛」などが良いと思います。

過去に出題された問題は下記の通りです。正解は、本やインターネットなどで調べると比較的容易にわかりますので、ご自分で調べてください。

2回【77】弥次さんと喜多さんの珍道中をおもしろおかしく描いた名作『東海道中膝栗毛」は、江戸時代を代表する文芸作品です。この滑稽話は、2人が駿府の町で知り合い、やがて出奔するところから始まっています。では、作者である十返舎一九は、このときの2人の間柄をどのように設定しているでしよう?

 い)恋敵  ろ)幼馴染  は)衆道   )博奕仲間

3回【66】『東海道中膝栗毛』で、江戸を出た弥次郎兵衛・喜多八が最初に泊まった宿場は、次のうちどこでしよう? 慶長9( 1604 )に新設された宿場で、天保14 ( 1843 )の調査では75軒の旅籠がありました。

)川崎   )戸塚   )平塚   )小田原

4回【78】『東海道中膝栗毛』の作者十返舎一九の辞世の句は、ユーモアに富んだものとして知られています。それは、次のうちどれでしよう?

)南無さらば妙法蓮華経かぎり

)善もせず悪も作らず死ぬる身は地蔵笑はず閻魔叱らず

)此世をばどりやお暇(いとま)に線香の煙と共にはい左様(さよう)なら

)今までは人のことだと思ひしにおれが死ぬとはこれはたまらん

7回【26】《お泊りは よい程谷と とめ女(  )前ては はなさざりけり》

これは、「東海道中膝栗毛』にある狂歌です。(  )には、東海道の宿場の名前が入りますが、それはどこでしよう?

 い)大磯    )小田原    )戸塚  に)三島

14回【74】『東海道中膝栗毛』で、江戸を出た弥次郎兵衛と喜多八が最初に泊まったのは、日本橋から10里余りの距離にある戸塚宿です。その次に泊まったのが、戸塚から10里余りにある宿場です。さて、それはどこでしよう?

 い)大磯宿   )小田原宿    )箱根宿    )平塚宿


※※最後に、前回の広重「東海道五十三次」に関する問題の正解を書いておきます。

4回第8問  に)  18問 は)

8回第82問  は)

9回第69問  に)

11回第12問 に)  第84問 は)

13回第78問 に)




# by wheatbaku | 2020-03-19 11:25 | 江戸検お得情報
広重「東海道五十三次」は1級頻出問題(江戸検お得情報1)

広重「東海道五十三次」は1級頻出問題(江戸検お得情報1)  

新型コロナウイルスの感染の拡大で各方面に大きな影響が出ています。私も自宅近くに生活必需品の買い物に出かける程度にして外出を極力控えています。読者の皆様も十分お気をつけください。

 私は「新江戸百景めぐり」(小学館刊)に紹介されている百景はすべて訪ねていますが、数年前に訪ねたところもあり、このブログでは、改めて訪問したうえで、6月から今まで、新江戸百景めぐりを書いてきました。しかし、新型コロナウイルスの影響で、外出を控えているため、新江戸百景めぐりの再訪問ができません。従って、新江戸百景めぐりの記事はしばらく中断させていただきます。

 このブログは、史跡を訪ねて、それを紹介するという記事が多いのですが、今の情勢では、それが無理ですので、これからは、本の情報を中心として、江戸検1級を受検する人たちに役立つ情報を書いていこうと思います。

 江戸検は、今年15回を迎えますが、今年で終了することとなり、1級合格をめざす人にとって最後のチャンスとなります。そこで、3月から江戸楽アカデミーの「合格虎の巻」講座で、しっかりサポートしようと思っていましたが、こちらも中止となり、振替授業を行うことになってしまいました。

 そのため、1級合格をめざす人たちはやきもきしているかもしれません。

 そうした1級合格をめざす人たちのためにお得となる情報を、これから「江戸検お得情報」としてシリーズ的に提供していきたいと思います。

 

 江戸検1級は、基本的にテキストである『江戸博覧強記』から出題されていますが、それ以外からも出題されています。

 その『江戸博覧強記』以外から出題されている問題の中で、繰り返し出題されている事項があります。

 その中の一つが歌川広重「東海道五十三次」です。

 過去の問題を調べてみると次のように出題されています。

 第4回「岡部」「関」第8回「藤川」、第9回「阪之下」、第11回「白須賀」「関」、第13回「四日市」

 過去14回で7問出題されたことになります。そこで、歌川広重「東海道五十三次」を知っておけば「お得」になると思われます。 従って、今年ぜひ合格したいと思う人は、歌川広重の「東海道五十三次」も勉強しておいたほうがよいと思います。
 出題される場合は、広重が描いた絵が出題されると思いますので、東海道の53の宿場と日本橋と京都三条大橋を描いた55枚の絵がどんな絵か覚えておくとよいと思います。(3月18日修正追加)


 さて、今日は、広重「東海道五十三次」からどんな問題がでているか確認してみたいと思います。
 なお、今日は問題だけ書いておきますので、ご自分で試しに解いてみてください。正解は、次回に発表します。

まず、第4回の「岡部」「関」から書いてみます。

8】下の4枚の絵は、東海道と中山道の風景を歌川広重が描いたもので、「木曾海道六十九次」シリーズの絵が3枚と「東海道五十三次」シリーズの絵が1枚です。さて、「東海道五十三次」のものはどれでしよう?
   

広重「東海道五十三次」は1級頻出問題(江戸検お得情報1)_c0187004_14491862.jpg
 い)              ろ)

広重「東海道五十三次」は1級頻出問題(江戸検お得情報1)_c0187004_14493249.jpg
             は)                に)


18】大名は、宿場では本陣に宿泊しました。では、下の絵の画面右手前に描かれているように、大名が宿泊している本陣の前に立てられたものを、何と呼んだでしよう?

  い) 印立(しるしだて)    ろ) 陣札(じんふだ)  

   は) 関札(せきふだ)      に)藩立(はんだて)

広重「東海道五十三次」は1級頻出問題(江戸検お得情報1)_c0187004_14513945.jpg

第8回「藤川」は次のような問題です。

82】右の絵は、歌川広重画『東海道五十三次』のうちの「藤川(ふじかわ)」です。この絵に描かれている棒杭は、宿場の内と外の境界を示す目印ですが、何と呼んだでしよう?その名は、この絵の副題にもなっています。

 い) 境(さかいぼう)  ろ) 端棒(はなぼう)

  は) 棒鼻(ぼうはな)   に)棒引(ぼうびき)

広重「東海道五十三次」は1級頻出問題(江戸検お得情報1)_c0187004_14520215.jpg

9回「阪之下」は次のような問題です。なお、この問題では文章だけで絵は出題されていません。

69】歌川広重『東海道五十三次』の「阪之下(さかのした)」には、「筆捨嶺(ふですてみね)」の副題が付けられています。この副題は、どのようなエピソードに由来するでしよう?

  い)弘法大師が選ばなかった筆を、この山の麓に埋めた

  ろ)松尾芭蕉がこの山を通ったときに、筆を落としていった

  は)曲亭馬琴が使い古した筆をここに捨て、それが山のようになった

  に)絵師の狩野元信がこの山を描こうとしたが、断念して筆を捨てた

第11回「白須賀」「関」は次のような問題です。

12下の絵は東海道随一の景観と賞された潮見坂からの眺望を描いた、歌川広重「東海道五十三次』の1枚です。では、宝永4( 1707 )に発生した宝永地震による津波被害のため、潮見坂下から坂上の現在地へ移転した東海道の宿場はどこでしよう?

 い) 吉原  ろ)興津  は)舞坂  に)白須賀(しらすか)

広重「東海道五十三次」は1級頻出問題(江戸検お得情報1)_c0187004_14523012.jpg

84】参勤交代の際、大名は宿場では本陣に宿泊しました。では、下の絵の画面右に描かれているように、大名の宿泊中に本陣の前に掲げられた大名の名などを記した立札を、何と呼んだでしよう?

   い) 印立(しるしだて)    ろ) 陣札(じんふだ)  

   は) 関札(せきふだ)      に)藩立(はんだて)

広重「東海道五十三次」は1級頻出問題(江戸検お得情報1)_c0187004_14513945.jpg

第13回「四日市」は次のような問題です。

78】次の4枚の絵は、東海道と中山道の風景を歌川広重が描いたもので、『木曽海道六十九次』シリーズの絵が3枚と『東海道五十三次』シリーズの絵が1枚です。さて、『東海道五十三次」のものはどれでしよう?      

広重「東海道五十三次」は1級頻出問題(江戸検お得情報1)_c0187004_14533396.jpg
         い)           ろ)
広重「東海道五十三次」は1級頻出問題(江戸検お得情報1)_c0187004_14554395.jpg
         は)            に)


以上、見ていただいて、繰り返し歌川広重「東海道五十三次」が出題されていることがご理解いただけたと思います。
 これだけ出題されているので、今年はぜひとも1級に合格したいと思う人は何らかの対策を講じたほうがよいと思います。










# by wheatbaku | 2020-03-16 14:42 | 江戸検お得情報
赤坂氷川神社③―勝海舟邸跡 (新江戸百景めぐり62-3)

赤坂氷川神社③―勝海舟邸跡 (新江戸百景めぐり62-3

 赤坂氷川神社の近くに、勝海舟の屋敷がありましたので、赤坂氷川神社の続きとして勝海舟の屋敷跡をご案内します。

 勝海舟と赤坂とは非常に縁の深い関係にあります。

 勝海舟は、文政6年(1823)本所亀沢町の旗本屋敷(現墨田区両国四丁目の両国公園)で旗本勝小吉の子として生まれました。

 成長した後、赤坂溜池にあった福岡藩黒田家の屋敷に住んでいた永井青崖(ながいせいがい)の所まで本所から通って蘭学を学びました。このことで赤坂と縁がつながったと思われます。

そして、結婚後23歳の時に赤坂田町中通り(現赤坂三丁目十三番二号のみすじ通り)の借家に住みました。

 その後、36歳からは赤坂本氷川坂下に住みました。

 明治元年、海舟が45歳の時に、将軍を退いた徳川慶喜に従って、駿府に移りましたが、明治5年に上京し77歳で亡くなるまで赤坂区氷川町四番地(旧氷川小学校跡)に住んでいました。

 青年時代に住んで場所は、赤坂氷川神社から少し離れていますし、その場所には説明板もありませんので、訪ねても探すのが難しいです。

 しかし、本氷川坂下と旧氷川小学校の旧居跡には、説明板や石碑がありますので、訪ねやすくなっています。。下写真は、本氷川坂下の勝海舟邸跡の碑と説明板です。

赤坂氷川神社③―勝海舟邸跡 (新江戸百景めぐり62-3)_c0187004_13103229.jpg

 そこで、本氷川坂下と旧氷川小学校跡の勝海舟邸跡をご案内します。

勝海舟邸跡(本氷川坂下)

勝海舟が、赤坂で2回目に住んだ本氷川坂下とは、赤坂氷川神社の北側の低地にあたります。

赤坂氷川神社の北側に本氷川(もとひかわ)神社がありました。そのため、赤坂氷川神社の境内の西側から北側に下る坂を本氷川坂(もとひかわざか)といいます。(下写真)

赤坂氷川神社③―勝海舟邸跡 (新江戸百景めぐり62-3)_c0187004_13103279.jpg

その坂下にあたる場所が本氷川坂下です。

本氷川坂下のソフトタウンというマンション(下写真)の一郭に「勝海舟邸跡」と書かれた碑が立っていてその下に説明板があります。(最上段写真参照)

赤坂氷川神社③―勝海舟邸跡 (新江戸百景めぐり62-3)_c0187004_13103219.jpg

勝海舟は、安政6年36歳の時に本氷川坂下に住み始め、明治元年の45歳までの約10年間は、住んでいました。

本氷川坂下に住んでいた時代が、勝海舟が最も活躍した時代だったと思います。

ここに住み始めた翌年正月には、咸臨丸でアメリカに渡っていきました。

また、坂本龍馬が海舟を訪ねてきたのもここにあった屋敷でしたし、西郷隆盛と江戸城無血開城の談判をするため薩摩屋敷に出かけたのもこの屋敷からです。

そして明治元年45歳の時に、徳川慶喜に従って静岡に移りました。

勝安房守邸跡(旧氷川小学校跡)

勝海舟が晩年を過ごした屋敷は、勝海舟が亡くなった後、氷川小学校となり、その氷川小学校も平年4年に廃止され、現在は、「赤坂子ども中高生プラザ」という港区有施設となっています。

赤坂氷川神社からは東に徒歩3分ほどの場所にあります。

プラザの前には、平成28年に建てられた勝海舟と坂本龍馬の銅像があります。(下写真)

赤坂氷川神社③―勝海舟邸跡 (新江戸百景めぐり62-3)_c0187004_13103351.jpg

勝海舟は、明治元年に徳川慶喜とともに静岡に一旦移住しました。

その後、明治5年に東京に戻った際に、住んだ場所がここです。

ここは、幕末には大身旗本の柴田七九郎の御屋敷がありました。お屋敷は約2500坪ありました。

その屋敷を5百両で勝海舟が購入しました。

海舟は明治5年(1872)50歳で上京し、明治32年に満76歳で亡くなるまで住み、海軍卿、伯爵、枢密顧問官として華やかな生活を送る傍ら氷川清話などを書いてくらしました。(銅像の裏側には 勝安房守邸跡の石碑が建っています。)

赤坂氷川神社③―勝海舟邸跡 (新江戸百景めぐり62-3)_c0187004_13103266.jpg

勝海舟の晩年の最も大きな仕事は、徳川慶喜の復権でした。

徳川慶喜は、静岡で謹慎しました。1年後に謹慎がとかれましたが、慶喜は東京には戻りませんでした。

明治11年に明治天皇が静岡を訪問した時にも出迎えるよう求められた時も、病気を理由に断っています。

その慶喜が東京に戻ったのは明治30年11月です。そして、義信が皇居に参内して明治天皇との会見が実現したのは、明治31年3月2日でした。

この参内の陰になって動いたのは勝海舟でした。

そして、徳河慶喜の復権にほっとしたのか翌明治32年1月21日に亡くなりました。

最後の言葉は、「これでおしまい」だったそうです。

なお、徳川慶喜の十男の精(くわし)は、海舟の孫娘の婿養子となって勝家を継いでいます。

勝海舟が亡くなった後、屋敷跡を東京都が昭和2年に氷川小学校用地として購入し、平成5年春まで港区立氷川小学校として使われていました。

赤印が本氷川坂下の勝海舟邸跡の碑と説明板がある場所です。

青印が旧氷川小学校跡です。
緑印が本氷川神社です。


 


# by wheatbaku | 2020-03-13 13:06 | 新江戸百景めぐり
赤坂氷川神社②-三次藩浅野家下屋敷跡-(新江戸百景めぐり62-2)

赤坂氷川神社②-三次藩浅野家下屋敷跡-(新江戸百景めぐり62-2

今回は赤坂氷川神社の続きです。

赤坂氷川神社のある場所は、江戸時代前期から中期にかけて、現在の広島県の三次にあった備後国三次藩浅野家の下屋敷がありました。

赤坂氷川神社の境内には、それを示す港区教育委員会設置の説明板があります。(下写真)

赤坂氷川神社②-三次藩浅野家下屋敷跡-(新江戸百景めぐり62-2)_c0187004_19442078.jpg

 三次藩は広島藩の支藩です。初代藩主は浅野長治といいました.

 浅野長治は、広島藩初代藩主浅野長晟(浅野長政の次男)の長子として生まれましたが、母が側室であったため、正室から生まれた光晟が、浅野家宗家の家督を継ぎました。

 そして、長兄の長治が、三次藩を立藩しました。

 三次藩は、浅野長治 → 浅野長照 →浅野長澄浅野長経 浅野長寔と5代続きましたが、4代長経、5代長寔と2代続いて子供がありませんでした。そして、享保5年(1720)に長寔が亡くなったため断絶しました。その後、8代将軍吉宗の命によりこの地に赤坂氷川神社が鎮座するようになりました。下写真は赤坂氷川神社の御社殿です。

赤坂氷川神社②-三次藩浅野家下屋敷跡-(新江戸百景めぐり62-2)_c0187004_19442052.jpg

三次藩浅野家は、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭長矩の正室瑤泉院の実家でした。

 瑤泉院は長治の娘で、落飾前は「阿久里(あぐり)」と言っていました。

 阿久里は10歳で浅野内匠頭結婚しました。

 なお、内匠頭と阿久里は従兄同志と書いている本も見ますが、阿久里の母親は、内匠頭長矩のおじいさん浅野長直の娘ですので、阿久里は、内匠頭長矩から見ると、おじいさんの妹の娘です。従って、正しくは「いとこ」ではなく「いとこおば」です。

 瑤泉院は、赤穂事件の後、実家に戻っていました。

 そのため、大石内蔵助が討ち入り前に瑤泉院を訪ねるとすると赤坂の下屋敷を訪ねることになるため、「南部坂」が舞台として登場することになります。

 南部坂は赤坂氷川神社から歩いて5分ほどの所にあります。

 南部坂は、南に下る坂です。

 坂下には、道標があります。下写真の右下に道標が見えます。

赤坂氷川神社②-三次藩浅野家下屋敷跡-(新江戸百景めぐり62-2)_c0187004_19442044.jpg

 江戸時代の初めに、南部藩の中屋敷は、現在赤坂氷川神社が鎮座している場所(つまり享保年間までは、三次藩浅野家屋敷があった場所)にありました。

 南部家の屋敷のそばにあったことから、この坂が南部坂と呼ばれるようになったと言われています。

 明暦2年(1656)に南部家の中屋敷と、現在の有栖川宮記念公園にあった三次藩浅野家の下屋敷の交換が行われました。

 それにより、三次藩浅野家の屋敷が赤坂にあることになり、そのそばに南部坂があるわけです。 

ちなみに、有栖川宮記念公園の脇にもある坂も南部坂と呼ばれています。

どちらの南部坂も坂のそばに南部家の屋敷があったため、その名前が付けられました。

 南部坂と言えば、思い出すのが忠臣蔵の「南部坂雪の別れ」の場面です。

 そこで、大石内蔵助が討ち入り前にここを訪れてひそかに別れを告げるという場面です。

 これは、明治4年に河竹黙阿弥が「四十七刻忠箭計 しじゅうしちこくちゅうやどけい」を書いて歌舞伎にも取り入れられていますが、講談や浪曲でも有名です。浪曲では、桃中軒雲右衛門が口演したようです。

 私は個人的には、瑤泉院からきつく扱われた大石内蔵助は、雪の降る南部坂をすごすごと登り南部坂の頂上から浅野家屋敷を眺めて深く頭を下げて瑤泉院に別れを告げるものだと勝手に思っていました。

 しかし、実際の南部坂は、南に下る坂ですので、大石内蔵助は、浅野家の屋敷を出るとすぐに頭をさげて別れを告げたということになりそうです。下写真は南部坂の頂上から見下ろしたものです。

赤坂氷川神社②-三次藩浅野家下屋敷跡-(新江戸百景めぐり62-2)_c0187004_19442040.jpg

赤印が赤坂氷川神社です。

青印が南部坂です。





# by wheatbaku | 2020-03-09 19:42
赤坂氷川神社①(新江戸百景めぐり62-1)

赤坂氷川神社①(新江戸百景めぐり62-1

 今日は、新江戸百景めぐりの一環として赤坂氷川神社をご案内します。

 「新江戸百景めぐり」(小学館刊)では134ページの第72景で紹介されています。

赤坂氷川神社は、東京メトロの「赤坂」駅または「六本木一丁目」駅が最寄駅になります。
 下写真は楼門からみた御社殿です。

赤坂氷川神社①(新江戸百景めぐり62-1)_c0187004_18251277.jpg

赤坂氷川神社は、平安時代中期の天暦5年(951)に赤坂一ツ木台地(俗称古呂故ヶ岡)に祀られました。

 江戸時代、赤坂氷川神社が紀州徳川家の赤坂の屋敷の産土神(うぶすながみ)であった縁から、紀州藩主であった徳川吉宗が享保元年(1716)に8代将軍職を継いだため、享保14年(1729)に老中水野忠之に命じ、現在地(赤坂今井台)に現社殿を造営し、翌15年(1730)4月26日に、一ツ木台地から現在地への遷宮が行われました。そして4月28日には吉宗の直々の参拝があったそうです。

 この時に建立された社殿は、安政の大地震・関東大震災・東京大空襲の被災を奇跡的に免れて、江戸時代の創建当時のままの姿を残しており、東京都重要文化財に指定をされています。
  下写真が社殿です。

赤坂氷川神社①(新江戸百景めぐり62-1)_c0187004_18251350.jpg

氷川神社の鎮座範囲 

氷川神社の本社は埼玉県の大宮に鎮座する武蔵国一ノ宮の氷川神社で、ここから分霊し、各地に氷川神社が祀られました。

 出雲の氏族であった武蔵氏が武蔵国造(くにのみやつこ)となって移住した時期、氷川の信仰が広く祀られたといわれています。

 その関係からか、氷川神社の分社は、元荒川と多摩川を東西の境にして武蔵国に広く分布し、現在でも埼玉県に162社、東京都に59社あるそうです。

 「氷川」の名は、出雲の簸川(ひかわ・現在の斐伊川)の名に因むものといわれ、農業用水として大きな恩恵を受ける一方、水害にも悩まされた荒川を簸川に見立て、畏敬の念をもって信仰していたと考えられています。

 氷川神社が祀られた村々はその成立が比較的古く、多くは関東ローム層の丘陵地帯に位置し、森林を開墾し谷の湿地を水田とした農村であったと推定されているようです。

四合(しあわせ)稲荷神社

 赤坂氷川神社の社殿がある高台から一段低くなった境内の東側に四合(しあわせ)稲荷神社が鎮座しています。下写真が社殿です。

赤坂氷川神社①(新江戸百景めぐり62-1)_c0187004_18251331.jpg

 「四合(しあわせ)稲荷」という名称は、明治31年に、赤坂氷川神社周辺に鎮座していた四つの稲荷神社を赤坂氷川神社に遷座して合祀したことから、勝海舟により命名されたものです。

 合祀された稲荷神社は次の四つです。

①古呂故稲荷(赤坂一ツ木二番地、古呂故天神社境内に鎮座)

②地頭稲荷(氷川神社遷座以前より拠の地に鎮座)

③本氷川稲荷(本氷川神社隣接、別当盛徳寺の地内に鎮座)

④玉川稲荷(赤坂門外の御城端、源弁慶橋のあたりに鎮座)


赤印が赤坂氷川神社です。

青印が四合(しあわせ)稲荷神社です。








# by wheatbaku | 2020-03-05 18:11 | 新江戸百景めぐり
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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