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小伝馬町牢屋敷(新江戸百景めぐり㉔)

小伝馬町牢屋敷(新江戸百景めぐり㉔)

前回と前々回と2回にわたり南北奉行所跡を案内しましたが、町奉行所と関係の深い小伝馬町牢屋敷を本日はご案内します。『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、75ページに第30景として紹介されています。

 小伝馬町牢屋敷は、現在の十思公園と十思スクウエアにありました。十思公園は、東京メトロ小伝馬町駅出口から徒歩1分の至近距離にあります。

 この公園で遊んだり休憩したりする人が大勢います。この穏やかな公園が、江戸時代には牢屋敷があったと知っている人が何人いるでしょうか?

 下写真は、小伝馬町駅側から撮った十思公園です。ここ全体が小伝馬町牢屋敷でした。

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 十思公園の隣には十思スクェアがあります。十思スクェアは、以前は十思小学校でした。この十思の名前は、明治になってから、この地区が第十四小区であったことから、中国の宋の時代の歴史書「資治通鑑(しじつがん)」の中にある「十思之疏(じっしのそ)」の十思の音が十四に通じるところから名づけられました。十思之疏(じっしのそ)とは、「資治通鑑(しじつがん)」の中に書かれている唐の名臣魏徴が大宗皇帝にさし上げた十ヶ条の天子のわきまえなければならない戒めです。

十思公園は、十思小学校の東隣にあることから、小学校の名をとって「十思公園」と名付けられました。

なお、大区・小区制とは、明治初年の地方行政制度であり、区名には番号を使用したと「角川新版日本史辞典」に説明されています。


小伝馬町牢屋敷

十思公園と十思スクェアがある場所が、江戸時代に小伝馬町牢屋敷があった場所です。

牢屋敷は、約2600坪ありました。十思公園のほか、隣の十思スクェア(旧十思小学校)と向かい側の大安楽寺や身延山東京別院や民家のある場所を含めた範囲でした。

牢屋敷は、十思スクェアと十思公園の北側にあり、牢屋奉行の屋敷などは、南側にありました。

大安楽寺

十思公園の南側に大安楽寺があります。大安楽寺は真言宗のお寺です。(下写真が本堂です)

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大安楽寺は、明治の初年、ここを通った高野山の山科俊海というお坊さんが、燐の火が燃えているのを見て、霊を慰めるためにお寺の建立を思い立ち、明治8年に大安楽寺を建立しました。

その頃、一坪100円程度した土地の値段が、ここは牢屋敷の跡だということで、3円50銭だったそうです。

建立に際して、現在の大倉財閥創始者の大倉喜八郎と安田財閥創始者の安田善次郎が多額の資金を出したことから、二人の名前をとって大安楽寺と名づけたと言われています。しかし、本当は「理趣経」に基づく寺号とのことです。

 大安楽寺の延命菩薩地蔵が鎮座する場所辺りが死罪所といわれています。下写真が延命菩薩地蔵です。

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 ここで、「下手人」「死罪」「獄門」の刑を言い渡された罪人が斬首されました。

土壇場という言葉はご存知だと思いますが、「最後の最後」という意味で、「土壇場でキャンセルする」というように使われています。その「土壇場」というのは、首切りの刑を行うために築いた土の壇をいいます。まさに、延命菩薩地蔵が鎮座する場所辺りが、本当の土壇場でした。

延命地蔵菩薩像は、ここでなくなった人たちを供養するために建立され、台座の下の部分に「為囚死群霊離苦得脱」と供養の言葉が書かれていますが、これは、山岡鉄舟の字です。有名な吉田松陰もここで処刑されました。

吉田松陰終焉之地の碑

吉田松陰は、安政6年(1859)10月27日に、小伝馬町牢屋敷で処刑されました。吉田松陰終焉之地の碑は、昭和14年に、萩の有志の人が建てたもので、当初は十思小学校の校庭にありましたが、GHQの命令で、こちらに移転したと言われています。(下写真)

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碑には、「身はたとひ(え) 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留置(留めおか)まし 大和魂」と書かれています。

 これは、「留魂録」という松陰の遺書といわれている本に書かれている辞世の歌です。

 そして、二十一回猛士と書かれていますが、これは、吉田を崩して再構成すると二十一回となり、杉という字も二十一になるところから、松陰が自ら付けた号で、猛というのは猛々しいことを行うという意味でつけたようです。

時の鐘

十思公園には、時の鐘があります。(下写真)

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江戸時代後期に9つあった時の鐘の一つです。

時の鐘は、日本橋石町、浅草、上野、本所横川町、目白不動、市ヶ谷八幡、四谷天竜寺、赤坂成満寺、芝切り通しの9ヶ所にありました。

その中で、石町の時の鐘が最初に設置された時の鐘です。

十思公園にある時の鐘は、宝永8年(1711)鋳造であり、既に300年を過ぎています。

元々、時の鐘は、本石町にありました。

明治4年に時の鐘が廃止され、鐘は近くの屋敷(松沢家:大阪屋孫八 勘定御用達)の庭においてありましたが、昭和2年に十思小学校校庭に移され、昭和5年に十思公園に鐘楼を建てて設置しました。

石町にあった時の鐘は、約9メートルあり、高さ3尺(約1メートル)の石垣のうえに、高さ京間4間(約8メートル)の鐘楼が建っていて、そこに鐘がつるされていたと推定されています。

 

十思スクエア

十思スクェアの建物は昭和3年に建てられた十思小学校の校舎を利用しています。(下写真)

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 十思小学校は平成2年に廃校となり、その後は中央区の日本橋特別出張所仮庁舎として利用され、平成12年に改修工事を行って「十思スクエア」としてオープンしました。

建物は関東大震災の復興期に建てられた小学校建築の代表的なものとして、東京都の歴史的建造物に選定されています。

 十思スクェアの別館入口に、小伝馬町牢屋敷の模型が展示されています。(下写真)

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小伝馬町牢屋敷の仕組み

 最後に、小伝馬町牢屋敷について少し詳しく説明しておきます。

 ご興味のある方はお読みください。

1、江戸の牢屋敷は、江戸時代初期の慶長年間(15961615)に常盤橋外から小伝馬町に移されたとされています。そして、明治8年に市谷監獄が新設されるまで、江戸時代を通じて小伝馬町に牢屋敷がありました。これが小伝馬町牢屋敷です。

2、牢屋敷というと刑務所と誤解する人が多いのですが、刑務所は懲役刑や禁錮刑の人を収監しておく施設で、江戸時代には、刑罰は死刑と追放刑が中心で、懲役刑はありませんでした。(ただし、永牢という長期間収監する刑が例外的にありました。)。

そのため、牢屋敷は、刑務所ではなくて、刑が決まるまでの一時的な収容所、今で言うと拘置所にあたります。

3、囚人を収容する牢屋は、細かく区分されていましたので、その区分ごとに説明します。下写真が小伝馬町牢屋敷の模型を拡大したものですが、中央が表門で、左手(実際に北側)に牢屋がありました。

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①ます、牢屋は、大きく分けて、東牢、西牢に分かれていて、東牢、西牢にそれぞれ揚屋が二つずつあり、大牢と二間牢が一つづつありました。

②揚屋は、御目見以下の直参、陪臣、僧侶、医師、山伏などを入れた牢です。。

 東西とも入口に近い方を口揚屋、遠い方を奥揚屋と呼びました。

③大牢には 町人を入れました。

④二間牢は町人を入れていれた牢ですが、江戸時代後期には無宿人を入れました。 

⑤女牢(女部屋ともいう)は女性の囚人を収容する牢で西口揚屋を使用しました。

⑥遠島部屋は、遠島の刑を受けた囚人を船出まで収容しておく部屋で東口揚屋を使用しました。

4、以上は、牢屋敷の北側にある牢屋にありますが、これとは別に、独立した建物として揚座敷と百姓牢がありました。        

①揚座敷は見分の高い囚人を収容する牢で、独立した建物でした。ここに収容されるのは、御目見以上、これに準ずる僧正、院家(いんげ、門跡寺の別院にいて門跡を補佐する僧)、紫衣その他の重き僧侶、神主の罪人でした。 

②百姓牢は、百姓だけを入れた牢で、独立した建物でした。A,

大牢や二間牢は牢馴れした者が多く、そこに百姓を入れるといじめられたり、彼らに影響されて悪に走ったりする弊害があったので、両者を別々に収容するために安永4(1775)に新しく百姓牢が作られたものです。

 以上、長々と牢屋敷のしくみを書きました。最後まで読んでいただきありがとうございました。

赤印が十思公園です。
青印が十思スクエアです。この別館に牢屋敷の模型が設置されています。
 




# by wheatbaku | 2019-08-20 12:08 | 新江戸百景めぐり
南町奉行所跡(新江戸百景めぐり㉓) 

南町奉行所跡(新江戸百景めぐり㉓) 

今日は、前回の「北町奉行所跡」に続いて「南町奉行所跡」について書いていきます。
 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、74ページの第
29景で紹介されています。

 江戸時代の「南町奉行所」は、JR有楽町駅の周辺にありました。「南町奉行所跡」の史跡説明板は、イトシア前の広場の地下1階に降りる階段・エスカレーターの東側にあります。有楽町駅の中央口からはちょうど正反対側になります。(下写真) 大きな看板のほか、コンクリートの壁に説明板がはめ込まれています。写真左手の石組は下水溝の石組を復元したものです。

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 町奉行は、南町奉行と北町奉行と二人いて、町奉行所は2か所にありました。

 (正確には、短期間ですが、中町奉行がいて、町奉行が三人いる時代もありました。)

 南町、北町奉行と言うと、江戸の町を南北に管轄を分けて取り仕切っているような印象がありますが、江戸を南北に分割して管轄していた訳ではありません。
 それでは、どのように分担していたからと言いますと、一月交代で、仕事を分担していました。これを月番制といいます。南町奉行が月番の場合には、南町奉行所が門を開けていました。

 そして、北町奉行所の方は、門を閉めていて、南町奉行所だけが訴訟や請願・申請そして事件を受け付けました。月番でない奉行所は休んでいたかというとそうではありません。それまでに受け付けていた訴訟や申請や事件の処理を行っていました。このように月番制で江戸の町政を担当していました。

 それでは、南町奉行所、北町奉行所の区別は何によるかということになりますが、これは奉行所の所在地によります。二つある奉行所のうちどちらが南にあって、どちらが北にあるかによります。 有楽町駅周辺にあった南町奉行所は、宝永4年(1707)に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転し、幕末までこの地にありました。

そして、江戸時代を通じて、数寄屋橋門より南に他の奉行所があったことがありませんでした。

 そのため、宝永4年以降江戸時代を通して、数寄屋橋門内にあった奉行所は、南町奉行所と呼ばれ続けました。(下写真は、東側から見た旧跡説明板です。コンクリートの壁に設置されています。)

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 その間、享保2年(1717)から元文元年(1736)にかけては、時代劇でも有名な名奉行大岡越前守忠相が南町奉行としてここで執務していました
 

 数寄屋橋門内の南町奉行所は、広さが約2620坪ありました。

 表門は東側にあり、現在の有楽町イトシア辺りにあり、西側は、有楽町駅脇のガードまで、南はマリオンとの間の道路脇まで、北はほぼ有楽町駅の中央口あたりだったと思われます。

奉行所というのは、役所の部分と町奉行の私邸の部分とからなっていました。現在、首相官邸と首相公邸が同じ敷地内で隣接しているのと同じような状態でした。

 南町奉行所は、表門が東側にありましたので、東半分が役所部分となっていました。そして、町奉行やその家族が私的に出入する裏門は西側にあり、西半分が自宅部分でした。

 表門を入ると正面は奉行所玄関となっていました。その玄関までは、まっすぐに五六尺の幅の青板の敷石、それを残して一面に那智黒の砂利石が敷き詰めてあったようです。

 表門を入った左手つまり南側に時代劇によくでてくる「お白州」がありました。

 

 南町奉行所跡は、都指定旧跡「南町奉行所跡」になっていて、有楽町駅前地区再開発事業が実施されるのに際して、発掘調査が1次平成17年4月25日~6月30日、2次11月17日~12月19日の間実施されました。
 この発掘により、大名屋敷期の遺構は131基、南町奉行所期の遺構は23基検出され、両時期に伴う多くの遺物が出土したそうです。
 遺構としては、奉行所表側地境の石組下水溝、穴蔵、井戸、上水遺構などが発見され、遺物としては、陶磁器のほか、「大岡越前守御屋敷ニ而~ 」と墨書された木札などが出土したそうです。 有楽町イトシアの地下1階広場には、この発掘調査で出土した穴蔵を復元したものが展示されています。(下写真)

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 穴蔵というのは、火災が起きた際に重要品を焼失しないように保護するため地下に設置された木製の蔵です。
 穴蔵のなかに重要品を放り込み蓋をしたうえで、土をかぶせ、そのうえに濡れたふとんや畳をかぶせて焼失するのを防ぎました。
  そのほか、遺蹟からは上水道管も出土しました。その江戸時代の水道管である木樋が穴蔵脇の木製のペンチとなっています。

 さらに、出土した石を利用してベンチが、地下1階に作られています。(下写真)

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 この木製ベンチや石製ベンチで多くの人々が休息しています。しかし、木製ベンチや石製ベンチが南町奉行所跡から出土した品であることを何人の人が知っていることでしょうか。


 赤印が、「南町奉行所跡」の説明板が設置されている場所です。有楽町駅の中央改札を出ると正面に地下への入り口がありますが、その入り口の裏側に設置されています。

 





# by wheatbaku | 2019-08-16 19:53 | 新江戸百景めぐり
北町奉行所跡(新江戸百景めぐり㉒)

北町奉行所跡(新江戸百景めぐり㉒)

新江戸百景めぐりですが、今日は北町奉行所跡をご案内します。

 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、74ページの第
28景に紹介されています。
 下写真は、東京都教育委員会設置の「都旧跡 北町奉行所跡」の石碑の全体写真です。

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 江戸の町奉行は、江戸市中の行政・司法・警察など、幅広い分野を担当していて、俗に町奉行は、現在の東京都知事、警視庁の警視総監、東京地裁・交際の所長の仕事と同じ仕事をしていたといわれています。町奉行所は、江戸時代の中期に一時期3か所に設置されていた時期を除き、南北2 か所に設置され、それぞれ何度か移転しています。

 北町奉行所は文化3(1806)から幕末まで、呉服橋御門内にありました。 

現在の呉服橋交差点の南西、東京駅日本橋口周辺に当たります。

 その北町奉行所跡を示す石碑は、現在2ヶ所に設置されています。

 一つは丸の内トラストタワーN館東側、もう一つが東京駅八重洲北口の先にある大丸デパートのハズレにあります。

 丸の内トラストシティは、もとは東京駅の側線や東京鉄道管理局等のあった東京駅八重洲口に隣接したJRの鉄道用地でしたが、その土地を森トラストが購入して建設した高層ビルです。トラストシティには、北側の丸の内トラストタワーN館と南側の丸の内トラストタワー本館の2棟が建っています。

 北町奉行所は本館の部分にあったようですが、「北町奉行所跡」の石碑は、N館の東側にあります。「新江戸百景めぐり」(小学館刊)に記載されている写真は、これを写したものです。(下写真)

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 一方、東京都教育員会が設置した「北町奉行所跡」の石碑は、東京駅八重洲北口改札を出て大丸デパートを過ぎた建物の外にあります。(下写真)

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 この石碑の右半分には、北町奉行所がどこにあったかわかるように絵図が描かれています。(下写真) 

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 北町奉行所というのは、南に対する北ということで、相対的な位置関係で呼ばれました。文化3年(1806)に常盤橋門内から呉服橋門内に移転してきました。そして、それ以降、幕末まで、北町奉行所は呉服橋門内にありました。(なお、「新江戸百景めぐり」(小学館刊)では文化2年に移転したとなっていますが、おそらく間違いではないかと思います。)

 北町奉行所は、現在も天保11年の絵図が残されています。
 それによると、表門は、南町奉行所と同じように東向きにありま、表門を入ると正面に玄関があり、左つまり南側にお白洲がありました。
 「江戸建築叢話」(大熊喜邦著)によれば、奉行所と奉行の役宅部分はほぼ正方形で、間口約48間(約86メートル)、奥行約40間(約72メートル)ありました。さらに、北側には間口21間半(約39メートル)奥行22間半(約41メートル)の長屋の敷地がありましたので、全体としては南北に細長い敷地でした。そして、総面積は、 「江戸建築叢話」によれば、2400余坪だったようです。 

 北町奉行といえば、時代劇で有名な遠山金四郎がまずあげられます。

遠山金四郎つまり遠山左衛門尉景元は、天保11年(1840)から天保14年(1843)まで、3年間、北町奉行を勤めていました。

しかし、水野忠邦が進めていた天保の改革に抵抗したため、天保14年に大目付に異動させられました。

 その後、水野忠邦が失脚した後、弘化2年(1845)に南町奉行に就任しています。そして7年間、南町奉行を勤めました。
 遠山景元まで、南北奉行を経験した人はいませんでしたし、江戸時代を通じても南北奉行を経験した人は稀でした。

 北町奉行所があった場所には、元禄時代には、忠臣蔵で有名な吉良上野介の屋敷がありました。

 赤穂浪士が討ち入りしたのは本所の吉良上野介の屋敷ですが、本所には、松の廊下の刃傷事件が起きた後の元禄14年(1701)に移転したもので、それ以前、吉良上野介の屋敷は、呉服橋門内にあり、文化年間以降に北町奉行所となった場所が吉良上野介のお屋敷でした。

 北町奉行所所の屋敷の東側の道路に玉川上水の石樋もしくは木樋が埋められていました。そして、そこから、北町奉行所には、玉川上水が引きこまれていました。下写真の縦の点線が、玉川上水が埋設されていた跡です。

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 丸の内トラストシティの敷地内には、その跡がわかるように工夫してあります。(下写真) 足元をよくみていないと見落としてしまいそうです。


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 また、北町奉行所の東側は道路をはさんで、外堀に面していました。

 そうした位置関係であったため、丸の内トラストシティの敷地内には、外堀の石垣が復元されています。(下写真)

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 下写真が、復元された石垣の説明版です。
 上の写真は、説明板の石垣の絵とほぼ適合するような位置で撮影したものです。
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赤印が東京都教育委員会設置の北町奉行所の石碑です。

青印が丸の内トラストシティの敷地内の北町奉行所の説明板の設置場所です。







# by wheatbaku | 2019-08-14 14:47 | 新江戸百景めぐり
貨幣博物館(新江戸百景めぐり㉑)

貨幣博物館(新江戸百景めぐり㉑)

 今日は、前回ご案内した日本銀行の目の前にある貨幣博物館のご紹介をします。「新江戸百景めぐり」(小学館刊)では、73ページで紹介されています。

 その前に先週土曜日の8月10日午後12時30分から、江戸楽アカデミーで「1級合格虎の巻講座」が開講されましたので、まずそれをレポートしておきます。

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 当日は、35度を超える暑さのなか、大勢の人に受講いただきました。

 江戸検も、来年で終了するため、あと2回しかチャンスがないため、合格のノウハウをしっかり書き込んだ「合格虎の巻」を利用して合格のための心構えや勉強方法を説明しました。

 昨年1級に合格したお二人の合格体験談の発表もあって、3時間の長丁場でしたが、参加者の皆さんは、大変熱心に聞いていただきました。

 その後、希望者による懇親会を開催しましたが、この席では、「これまでまったくわからなかった合格への道がわかった」「目からうろこが落ちた」といった絶賛の声をいただき大変うれしく思いました。また、その席では「今年は絶対合格します」と宣言する人もいて、参加者の熱気があふれる懇親会になりました。

 当日の講義の写真は撮り忘れましたが、懇親会の写真を撮りましたので、そちらをアップしておきます。

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 講座に参加していただいた皆様ありがとうございました。
 そして懇親会までご参加いただいた皆様ありがとうございました。

 さて、貨幣博物館ですが、前回ご案内した日本銀行本店の道路を挟んだ南側にある日本銀行分館の中にあります。下写真が入口の写真です。

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 貨幣博物館は、正式名称「日本銀行金融研究所貨幣博物館」の如く、日本銀行の付属施設です。

ここでは、貨幣および貨幣に関係する資料が展示されています。

 貨幣博物館の所蔵資料の中核となっているのは、古貨幣収集家・研究家であった田中啓文氏が収集していて、昭和19年に日本銀行に寄贈された銭幣館コレクションです。

 貨幣博物館は、日本銀行創立100周年(1982年)を記念して昭和60年(1985)に開館した博物館です。
 貨幣博物館を訪れるのは久しぶりでしたが、今から4年前にリニューアルされていて、以前に比べて大変見やすい展示となっています。下写真が展示室の入口です。

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展示されている貨幣つまり江戸時代の小判や大判はじめ現在通用している1万円札などはすべて本物だそうです。そのため、展示ケースはロックされています。またケースには、警報機も設置されているそうです。

こうしたことから、博物館内は撮影禁止となっています。

そうした中で、下記1億円の重さを実体験できるものは展示室外に展示されていました。1億円の重さは約10キロあるそうです。実際に持ってみましたが、結構重かったです。

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また、日本銀行の本店の外観を見学する見学会が毎週火曜日~金曜日の12:45から(30分程度)開催されています。料金はかかりません。

日本銀行の外観しか見学できませんが、外観をみながら丁寧な案内があり、大変参考になります。下写真は、本店見学の様子です。

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展示されている内容は、大判・小判の推移から藩札、さらに両替商の仕事など、幅広いものとなっています。
 その中には、小判が黄金色に輝く理由なども説明されています。実は、小判は、純金でできているわけだはなく、金と銀の合金でできていました。それにもかかわらず、小判が黄金色に輝いて見えるのは、製造の最後の工程で「色付け」または「色揚げ」という作業が行われていたからです。

これは、数種類の薬品を小判の表面に塗って炭火で焼き、水の入った桶の中で磨く作業です。この作業を行うことによって表面から銀だけが溶けて取り除かれ、金だけが残ります。そのため、黄金色に輝いて見えるそうです。

貨幣博物館の入り口の看板には、「色付け」の工程が描かれていました。(下写真)

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赤印が貨幣博物館です。

青印が日本銀行本店です。






# by wheatbaku | 2019-08-12 11:52 | 新江戸百景めぐり
金座(新江戸百景めぐり⑳)

金座(新江戸百景めぐり⑳)


 今日は、金座についてご紹介します。

 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、第27景(73ページ)で紹介されています。

 江戸時代に金座があった場所に、現在は、日本銀行が建っています。下写真は、常盤橋からみた日本銀行の遠景です。

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 現在の日本銀行は、明治29年4月に建設された建物で、東京駅を設計した辰野金吾が設計しました。

日本銀行の建物は、下写真のように外観から見ると石造りのように見えますが、設計した石積みレンガ造りと呼ばれる建て方の建物です。

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当初は総石造りとする予定でしたが、明治24年に濃尾大地震が起きたため、総石造りは耐震上無理があるということで、積み上げたレンガの外側に、外装材として石を積み上げるという方法に変更したため、石積レンガ造りとなりました。

この建物は昭和49年に、国の重要文化財に指定されました。

この地に、江戸時代に金座がありました。金座は、勘定奉行の支配下にあり、御金改役を長官として、幕府から大判を除く金貨製造に関する独占的な特権を与えられていました。

ところで、金座というのは、通称です。正しくは、①御金改役(おきんあらためやく)役所②金局(きんきょく)、③吹所(きんふきしょ)の3つの役所からなりたっていました。

御金改役役所は、金座の長官である後藤庄三郎光次の役宅でした。

御金改役は、後藤庄三郎家の世襲でした。しかし、文化7年(1810)に後藤庄三郎光包が流罪となり、当時銀座年寄役を勤めた後藤三右衛門が新たに御金改役となりました。この後藤三右衛門家も弘化2年(1845)に後藤光亨が死罪となり、別家の後藤吉五郎が御金改役となりました。

金局は、金貨鋳造作業のすべてを所管する金座人の役所でした。

吹所は、小判を鋳造する工場です。

金座は慶応2年(1866)焼失し、明治2年には造幣局の設置に伴って廃止されました。

赤印が日本銀行です。青印が日本橋です。






# by wheatbaku | 2019-08-09 20:11 | 新江戸百景めぐり
日本橋(新江戸百景めぐり⑲)
日本橋(新江戸百景めぐり⑲)

 前回は、越後屋を中心に日本橋通りをご案内しましたが、今日は、日本橋について紹介します。

『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では60ページの第16景に紹介されています。

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日本橋は、家康が、征夷大将軍となった慶長8年(1603)に建てられたと言われています。

なぜ、日本橋と呼ばれるようになったかはっきりはしません。

日本国中から人があつまって架けた橋だから日本橋という説もあります。

日本橋がかけられる前に、2本の木を渡しただけの橋があったからだという説もあります。

 

架橋後15年後の元和4年(1618)に長さ37間4尺5寸(約67.4m)、幅4間2尺5寸(約7.7m)の大橋に架け替えられました。

その後も日本橋は度々架け替えられ、「道路史余話」によると少なくとも19回架け替えられ、その平均架橋寿命は約16年とされています。

江戸時代後期の日本橋が、江戸東京博物館に復元されています。

江戸東京博物館の日本橋は、文化3年(1806)と文政2年に架けられた日本橋を基にした日本橋の北半分が復元されています。これによると、文化・文政当時の日本橋は、長さ約51メートル、幅約8メートルありました。(下写真)

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現在の橋は、明治44年に架けられたもので、重要文化財に指定されています。

「日本橋」の橋名は最後の将軍徳川慶喜の筆によるものです。

長さ49.1メートル、幅は27.3メートルあります。車道10間で2間半の歩道が両側にあり合計15間となっています。江戸時代のものと比較して、長さはほぼ同じで、幅は約3倍となっています。

獅子像と麒麟像

現在の日本橋の意匠設計は、妻木頼黄(よりなか)が担当し、欄干の麒麟像と獅子像は彫刻家渡辺長男(おさお)が製作しました。

渡辺長男は、朝倉文夫の実のお兄さんです。苗字がちがうのは、朝倉文夫が養子にいっているからです。

獅子が抱いているのは、東京都のマークです。運慶の狛犬を参考にしたと言われています。(下写真)

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下写真が麒麟像です。頭は龍、胴が鹿、羽があります。

麒麟麦酒のラベルにある麒麟というより、西洋のドラゴンという雰囲気ですね。小さい台座にバランスよく載せるのに苦労したそうです。上には、松並木の松と一里塚の榎も彫られています。

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江戸時代は、擬宝珠がある橋は、格の高い橋でした。江戸城の橋は別として、一般の橋では、この日本橋、京橋、新橋の三つの橋しかありませんでした。

橋の南側にある江戸時代から続く漆器店黒江屋の2階のウィンドウに江戸時代初期の万治元年(1658)と刻まれた擬宝珠が陳列されています。(下写真)

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日本国道路元標

日本橋は、架橋の翌年には、五街道が定められ、日本橋が五街道の起点となりました。そうしたことから、現在も「日本国道路元標」として各道路の起点になっています

日本橋の北詰の西側に日本国道路元標の複製が展示されています。道路元標の字は佐藤栄作元首相の字です。(下写真)

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日本国道路元標の前には、東京市道路元標が、道路の真ん中にありました。その東京市道路元標が日本国道路元標の後ろに立っています。下写真の右奥が東京市道路元標、手前左が日本国道路元標です。

なお、歩道からははっきり見えませんが、日本国道路元標の本物が日本橋の道路の中央にあります。

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魚河岸

 日本橋の北詰の東側には魚河岸がありました。

 それを記念して魚河岸の記念碑が建てられています。

正十八年(1590年)、徳川家康が江戸入りした時に、家康に従って摂津国西成郡佃村(現在の大阪市淀川区佃町)の名主森孫右衛門が、佃及び隣村大和田村の漁師34名と共に江戸に出てきて、佃島を拝領するとともに、江戸近辺の海川の漁業権を与えられ、そのかわりに徳川家の御膳魚を納める役を仰せつかりました。そして、その後、納魚の余りを日本橋小田原河岸で販売したといいます。これが魚河岸のはじまりであり、森孫右衛門ら一族がその始祖といわれています。

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昭和29年に建てられた日本橋魚河岸記念碑が乙姫像(上写真中央)なのは、川柳で「日本橋 龍宮城の 港なり」と詠まれたことに因みます。なお、上写真の左手には日本橋魚市場岸発祥の地と刻まれた石碑も建てられています。

この魚河岸は、大正12年(1923)の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。

近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛び交い、一日に千両の取引があるともいわれ、「朝千両(魚河岸)、昼千両(歌舞伎)、夜千両(吉原)」と、その繁栄を詠われました。

高札場

五街道の起点でもあり、人が多く集まる日本橋は、幕府にとって政策のPR場所でもありました。それらが、ともに日本橋の南詰めにありました。

ひとつは高札場であり、ひとつは晒し場でした。

南詰西側には、高札場(こうさつば)がありました。

高札場とは、幕府が決めた法令を木の板に書き、人目をひくように高く掲げておく場所のことです。

高札場の跡には、高札の形を模した日本橋の由来を書いた「日本橋由来記」が組み込まれた石碑が建てられています。(下写真)

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 高札場には、重要な高札場つまり大高札場とふつうの高札場との二種類ありました。江戸には、大高札場は日本橋をふくめ六カ所、普通の高札場は35カ所ありました。6ヶ所の大高札場は次の通りです。

日本橋、常盤橋門外、筋違橋門外、浅草橋門外、半蔵門外、札の辻、

中でも重要なのが日本橋の高札場でした。日本橋の高札場は、有名な歌川広重の東海道53次の日本橋の中にも描かれています。下写真の左手に高札場が描かれています。

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大高札場には、キリシタン禁制、運賃を制定した高札など共通の定高札といわれる7枚の高札がありましたが、

日本橋には、ここだけにしか設置されない高札が掲げられていました。それは、幕府が政策としてもっとも重視したものであった。
 たとえば、五代将軍綱吉の「生類憐れみ令」の高札、享保年間に立てられた「目安箱の設置に関する高札」「諸国新田取り立ての高札」などがありました。新田取立の高札が、なぜ日本橋に立てられたのか不思議に思われるかもしれませんが、当時、新田開発の大事業は、江戸その他の大都市の富豪が金子元にならなければ実行できないことを反映しています。
 

晒し場

日本橋南詰の東側は、江戸時代は晒し場です。

心中未遂の男女、女犯僧は、見せしめのため、日本橋で晒されました。

また、主人殺しの犯人は、首だけ出して土に埋め、3日間見せ物として晒されました。その際、罪人の首の左右にタケの鋸と鉄の鋸を立てかけておいたが実際に鋸で首を挽くことはなく、晒した後は市中引き回しをしたうえで磔としました。

このように見せしめのための晒刑が実行されたのは、大勢の庶民に、「悪事を働くとその結果はこのようになりますよ」と実際に認識させるためでした。

そのため、江戸で最も多くの人が集まる日本橋が晒し場に選ばれました。

赤印が日本国道路元標(複製)がある場所です。
青印が日本橋魚河岸記念碑です。
緑印が日本橋由来記です。
ピンク印が黒江屋です。(お店はビルの2階にあります)







# by wheatbaku | 2019-08-02 21:41 | 新江戸百景めぐり
日本橋通り(新江戸百景めぐり⑱)

日本橋通り(新江戸百景めぐり⑱)

 先週土曜日に、文京学院大学生涯学習センターで「江戸の豪商列伝 一代で巨大な富を築いた男たち」の2回目の講座が行なわれました。

 今回は、三井高利について話をさせていただきました。

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 三井高利は、越後屋の創業者です。延宝元年(1673)52歳で江戸の本町通りに越後屋を開店し、「現金掛け値なし」の革新的な商法で、越後屋を繁栄させましたが、呉服や仲間からの妨害を受けたため、天和3年(1683)駿河町に移転し、その後、両替商も兼営し、呉服と両替を車の両輪として、越後屋を江戸随一の豪商に押し上げました。

受講者の皆さんは、今回も大変熱心に聞いていただきました。私も、受講者の皆さんの熱意に押されて楽しく話をさせていただきました。

 受講いただいた皆様ありがとうございました。

 この講座では、東京の三井本館と三越日本橋本店、京都の三井家の菩提寺真如堂、松阪の三井発祥の地など三井高利ゆかりの地も紹介しました。

『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、越後屋のあった日本橋通りも取り上げられています。そこで今日は、日本橋通りをご案内します。

『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、P116の第60景で紹介されています。

越後屋があった場所は、現在の三越日本橋本店と三井本館がある場所です。下写真の奥が三越日本橋本店、手前のビルが三井本館、手前の道路が中央通りです。

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三井高利は、天和3年(1683)に、それまであった本町から駿河町に店舗を移転しました。その移転場所が、現在の三越日本橋本店のある場所です。

最初の店舗は、間口7間で、東側4間で呉服店、その西側3間が両替店でした。その後、貞享2年(1685)に、両替店を北側(現三井本館のある場所)に移し、南側は呉服店だけとしました。

そして、元禄11年(1698)には、北側は呉服店本店とし絹織物を扱い、南側は綿店として木綿製品等を扱うこととして、駿河町の南北は越後屋が占めることになりました。

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まさに、葛飾北斎の「冨嶽三十六景『江都駿河町三井見世略図』」(すぐ上浮世絵)や歌川広重の「名所江戸百景『する賀てふ』」(下浮世絵)に描かれているような景色となりました。

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現在の三越日本橋本店は、大正3年に建設されました。当時はスエズ運河以東最大の建物と言われました。

建物はネオ・ルネッサンス・スタイルの建築で、5階建一部6階でした。その後、関東大震災で損傷し、昭和2年に修復工事が完了し、昭和10年に増改築され、現在みられるような形となりました。三越日本橋本店は平成28年に国の重要文化財に指定されています。

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三越の正面玄関にあるライオン像は、モデルとなったのは、ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン提督像を囲むライオン像です。大きさはそこの約半分になっているそうです。

これは、当時の三越の支配人の日比翁助(ひびおうすけ)のアイデアです。日比は、ライオンが大好きで自分の息子に「雷音」と名前を付けたほどでした

 

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三越日本橋本店の北側には、江戸時代は、越後屋の本店と両替店がありましたが、現在は、三井本館が建っています。

三井本館は、三井財閥を構成していた三井合名会社、三井銀行(現三井住友銀行)、三井信託銀行(現三井住友信託銀行)、三井鉱山(現日本コークス工業)等の主要各社の本社が入居し、三井財閥の拠点として昭和4年(1929)に建設されました。今年は2019年ですので、ちょうど90周年を迎えることになります。三井本館も平成10年に国の重要文化財の指定を受けました。

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三越日本橋本店の地下は、東京メトロ三越前駅に直結しています。

 その地下コンコース壁面に、約17メートルにわたる「熈代勝覧」の複製絵巻が展示されています。(下写真)

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「熈代勝覧」とは、「熈(かがや)ける御代の勝(すぐ)れたる景観」という意味で、この絵巻は、文化2年(1805)頃の日本橋から今川橋までの大通り(現在の中央通り)を東側から俯瞰したものです。

絵巻には沿道にある88軒の問屋や店のほか、通りを歩く人1671人、犬20匹、馬13頭、牛4頭、猿①匹、鷹2羽が描かれていると言われています。もちろん、越後屋も描かれています。直前の貴重な記録といえます。

この絵巻により、文化時代の日本橋通りの様子がよくわかります。

 三井本館から中央通を北に少し行くと「日本橋室町三井タワー」が見えてきます。この建物は、今年(2019年)3月には竣工した建物です。

下写真は「日本橋室町三井タワー南東の入口の全体写真です。

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その南東の入口に「十軒店跡」の説明板が設置されています。

半透明なので写真に写りにくいのですが、下の写真であればタイトルがいくらかわかると思います。

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十軒店は雛市(ひないち)の立つ場所として江戸で有名でした。

十軒店は、下の切絵図でわかる通り、町の名前です。その名前は、戸時代の初め、桃の節句・端午の節句に人形を売る仮の店が十軒あったことから、この名があるともいわれています。

 江戸時代中期以降は、3月と5月の節句や12月には、お雛様、五月人形、鯉のぼり、破魔矢、羽子板など、季節に応じた人形や玩具を売る店が軒を並べていました。

 「江戸名所図絵」には「十軒店雛市」と題し、店先に小屋掛まで設けて繁昌(はんじょう)している挿絵が描かれています。

「日本橋室町三井タワー」の北東に新日本橋駅があります。その駅の入口に『中崎屋跡』の説明板が設置されています。(下写真)

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 長崎屋は、江戸時代、薬種問屋でしたが、長崎に駐在したオランダ商館長の将軍に拝謁するために江戸に参府した際の定宿になりました。

将軍拝謁は諸外国のうち、鎖国政策のため外国貿易を独占していたオランダが、幕府に謝意を表するために献上品を携えて行った行事でした。江戸出府は江戸初期から毎年一回行われましたが、長崎からの随行の人々は、商館長の他、通訳、学者などが賑やかに行列して江戸に来ました。しかし、経費のことなどで、江戸中期からは数年に1回となっています。

 商館長に随行したオランダ人の中には、ツンベルクやシーボルトなどの一流の医学者がいたので、蘭学に興味を持つ桂川甫周や平賀源内はじめ日本人の医者や蘭学者が訪問し、外国の知識を吸収する貴重な場所でした。

 長崎屋の北には、石町の時の鐘がありました。

 そのため、新日本橋駅の北側の通りに「石町の時の鐘」の説明板があります。(下写真)

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江戸の初期は、江戸城内の土圭の間にある時計で時刻をはかり、城内にある太鼓を打って知らせていました。しかし、城内ではうるさいので、町方に移させるということになりました。その移転先が石町でした。つまり、石町の時の鐘が最初の時の鐘です。

その後、時の鐘は増加して、江戸時代後期には、日本橋の石町、浅草、上野、本所横川町、目白不動、市ヶ谷八幡、四谷天竜寺、赤坂成満寺、芝切り通しの9カ所となりました。

そして、時の鐘は明治4年に廃止されたため、石町の時の鐘は近くの屋敷の庭に放置されていましたが、昭和5年に十思公園内に鐘楼を建てて移設されました。それが現在、十思公園にある時の鐘です。(下写真)なお、鐘楼は、移設時に新たに建設されたものです。 

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赤印が三越日本橋本店、その北側が三井本館です。

青印が日本橋室町三井タワーの十軒店跡の説明板設置場所です。

緑印が長崎屋跡の説明板設置場所です。
ピンク印が石町の時の鐘の説明板設置場所です。









# by wheatbaku | 2019-07-31 18:57 | 新江戸百景めぐり
 永代橋(新江戸百景めぐり⑰)

 永代橋(新江戸百景めぐり⑰)


「新江戸百景めぐり」(小学館刊)には、永代橋が紹介されていますので、今日は永代橋をご案内します。

 永代橋は、東京メトロ門前仲町もしくは茅場町から歩いて行けます。門前仲町からですと約9分、茅場町からですと約8分で大差はありません。

 現在の永代橋は、大正15年に竣工したもので平成19年6月、勝鬨橋・清洲橋と共に国の重要文化財(建造物)に指定されました。

現在は橋の改修工事中で、通行は可能ですがきれいな外観をみることはできません。下写真は以前に撮影したものです。

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  永代橋は、元禄11年(1698)8月に、5代将軍徳川綱 吉の50歳を祝って架橋されました。

橋を架ける材木は、同じ年に竣工した寛永寺根本中堂造営であまった材木を利用したといわれています。

 江戸時代の永代橋が架けられていた場所は、現在の橋がある位置よりも100 m程上流でした。架けられた場所は、「深川の大渡し」と呼ばれる渡しがあったところです。

現在日本橋川が隅田川と合流する地点に豊海橋が架けられていますが、その北のたもと付近に架けられていました。下写真の左が豊海橋、中央奥が日本アイビーエムの本社、豊海橋とアイビーエムの本社ビルの間に江戸時代の永代橋が架けられていました。

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永代橋が架けられて場所は、当時は、隅田川の最も河口に近い場所であったため、隅田川を行き交う船が多かったため、船の通行の邪魔にならないように、橋げたが高く作られていました。

 そのため、永代橋からの見晴しは良かったと言われています。

 この難しい工事の指揮をとったのが、関東郡代の伊奈忠順でした。伊那忠順は、新大橋の架橋も指揮しています。

 伊那忠順のお墓は川口の赤山にあったと思われますが、以前、私が訪ねた際には確認できませんでした。その替り、伊那忠順の奥様が開基となったお寺が深川にあります。玄信寺がそれです。(下写真)

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玄信寺は、関東郡代伊奈忠順の妻が開基、還蓮社本誉玄故上人が開山となり、寛永6年(1629)深川下佐賀町に創建、寛永18年当地に移転したといいます。開基の理照院のお墓も残されていますが、お参りにはお寺の許可が必要です。 

 永代橋は、元禄15年(1702)12月15日に、吉良上野介を討ち取った赤穂浪士たちが、討ち入り後に泉岳寺の浅野内匠頭の墓前に上野介の首を供えるために泉岳寺に向かった際に、両国橋でなく永代橋を渡ったことで有名です。 

 その赤穂浪士たちに、甘酒をふるまったのが、永代橋の東のたもとにあった乳熊味噌でした。乳熊味噌の初代竹口作兵衛は赤穂浪士の大高源吾と榎本其角の門下生として親しかったことから、作兵衛は一同を招き入れ甘酒粥を振る舞い、労をねぎらったと言われています。

それを記念した石碑が、永代橋東のたもと近くにあります。(下写真)

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この石碑は、昭和38年、株式会社ちくま味噌によって建立されたものです。

乳熊屋(現在はちくま味噌)は初代竹口作兵衛義通が、伊勢国乳熊郷(三重県松坂市中万町)から慶安年間(1648年~51年)に江戸に進出、日本橋に塗物店を営み、作兵衛勝義(後、通称を喜左衛門と改む)が元禄初年(1688)に深川永代橋際に味噌醸造を始め、乳熊屋作兵衛門商店としたのが、ちくま味噌の始まりだそうです。

ちくま味噌は、現在も存続していますが、現在は永代橋に店舗はなく、ネット販売主力で営業しているようです。

永代橋で有名な事件が、永代橋崩落事件です。

この事件は、文化4年(1807)の富岡八幡宮大祭の時に起こった事件です。文化4年8月の富岡八幡宮の大祭はひさしぶりに開催されたため大変な賑わいとなり、大勢の人々が永代橋を渡った際に、永代橋が崩落し多数の溺死者を出すという江戸はじまって以来の大惨事でした。

文化4年の富岡八幡宮の大祭は、滝沢馬琴編集の「兎園小説余禄」によれば30余年ぶり、太田南畝の「夢の憂橋」によれば34年ぶりと、年数は違っていますが、長いこと開催されていなかった富岡八幡宮の祭礼がしばらくぶりに開催されることとなり、江戸っ子の関心を集めていました。

富岡八幡宮の祭礼は、通常は8月15日に開催されますが、雨のため順延され8月19日開催となりました。8月19日当日は、朝早くから大勢の見物客が深川に向かいました。

その時、将軍関係者が永代橋の下を御座船で通行することから、永代橋は午前10時ごろから一時通行止めとなりました。

 目黒区の海福寺に設置されている東京都教育委員会設置の説明板では、「将軍世子」とされているので11代将軍家斉の子供徳川家慶ということなります。一方、兎園小説では、一橋家と書かれていますので、徳川家斉の実父一橋治斉(はるさだ)ということになると思われます。

こうした違いはありますが、いずれにしても永代橋は通行止めとされていました。その通行止めが解除されるとともに、それまで、通行止めのため、橋のたもとでごったがえしていて大群衆が一気に永代橋を渡り始めました。その結果、大勢の重みに耐えかねて永代橋が崩れ落ちてしまいました。

大群衆の後方の人々は、橋が崩れ落ちたことを知らず、どんどん前に進んでくるため、最前列の人たちは、後ろから押されて、将棋倒しのように次々と隅田川に落ちていくという悲惨な情景が呈され、悲劇が拡大しました。

この時、危機を察した武士が欄干につかまりつつ刀を振り回し、人々が後ずさりしたため落下は止まったと「兎園小説」や「夢の憂橋」に書かれています。

こうした緊急対応がありましたが、「夢の憂橋」と説明板によれば440名の人が亡くなりました。

さらに行方不明者を含めれば被害者は1000人を超えたといわれています。なお、兎園小説では、「水没の老若男女数千人」と書かれていますが、これは被害者が多すぎるように思われます。

 その被害者の供養塔が、深川から遠く離れた目黒の海福寺にあります。下写真が供養塔です。

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海福寺は、明から来朝した隠元禅師が万冶元年(1658)に江戸深川寺町通り(現江東区深川2丁目付近、)に創建した黄檗宗の寺で、日本で最初の黄檗宗のお寺です。有名な宇治の万福寺が創建されたのは、寛文元年(1661)で、海福寺の創建より3年後です。明治43年に現在地へ移転しました。

海福寺があったのは、現在の明治小学校付近だそうで、小学校正門前の公園に下写真の観光高札が建てられています。

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永代橋崩落事故の時、永代橋近くにあった海福寺に無縁仏が埋葬されました。その後、被害者たちの供養塔が海福寺境内に建立されました。

海福寺は、明治43年、目黒に移転しましたが、供養塔もそのとき一緒に移設されました。海福寺の山門左手前にあるのが「文化4年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑」(都指定文化財)です。

赤印が永代橋です。

 青印が「赤穂浪士休息の地の碑」設置場所です。

緑印が豊海橋です。

ピンク印が海福寺の跡地です。









# by wheatbaku | 2019-07-29 18:14 | 新江戸百景めぐり
木場公園(新江戸百景めぐり⑯)

木場公園(新江戸百景めぐり⑯)

前回まで、「新江戸百景めぐり」(小学館刊)に載っている深川の紀文にゆかりがあるといわれている場所を案内しました。今日は、紀伊国屋文左衛門も可関係したと思われる木場について案内します。

「新江戸百景めぐり」(小学館刊)ではP72に第26景「木場公園」として紹介されています。

 江戸時代、木場として栄えた場所は、現在は、木場公園となっています。

 東京メトロ東西線木場駅から徒歩5分です。こちらは南側から訪ねるということになります。北側からですと、清澄白河駅から約15分また都営地下鉄新宿線菊川からも約15分歩くことになります。下写真は、木場公園の南側の入口です。

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 木場公園は、江戸から昭和にかけて、江戸・東京へ材木を供給してきた「木場」が、新木場に移転したことにより、その跡地を利用して公園として整備されたものです。

 従って、約24万平方メートルもある非常に広大な広さを持っていて、敷地内にテニスコート、イベント広場、バーベキュー広場、東京都現代美術館などが広がっています。

 現在は、木場公園の中には、残念ながら江戸時代の木場を思わせるものは残されていません。下写真は、木場公園のシンボルとなっている木場公園大橋です。左手遠くに東京スカイツリーが見えています。

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 しかし、毎年10月に開催される江東区区民まつりには、木場公園内のイベント広場近くの池で有名な木場の角乗りなどのイベントが行われます。(下写真)

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 下写真は、深川江戸資料館で放映されていた木場の角乗りの様子です。

 下駄をはいて木に乗るときは、表面が丸いほうが乗りやすくて、四角だと乗りにくいのだそうです。従って、角乗をするには相当の熟練が必要な技だそうです。

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 富岡八幡宮には木場の角乗りの碑(下写真)があり、次のように刻まれています。
 木場の角乗りは300余年の昔徳川幕府から材木渡世の免許を与えられた業者の木材を扱う川並の祖先の余技として進展し若者の技術練磨の目的を以て今日に傳わるものである。
 其の間明治初年(1868)三島警視総監時代水防出初式に始めて浜町河岸で披露又グランド将軍が来朝の際上野不忍の池にて催し後須賀に於て軍艦進水式の折り、明治天皇の天覧の栄を賜る 其の後浜離宮や両国橋開通式の祝事に披露されて来た。
 第二次世界大戦により中断したが戦後有志相倚り東京木場角乗保存会を設立し昭和27年(1952)9月東京営林署貯木場に於て披露し同年11月3日東京都文化保存條令に基き都技芸木場の角乗りとして無形文化財に指定された。

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 また、木場公園近くの木場親水公園には、「筏を操る川並の像」があって、当時の面影が少し感じられます。

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【木場の歴史】
 木場はいうまでもありませんが、木材を貯蔵しておく場所ですが、現在の木場公園に、木場が設置されるまで、江戸の材木貯蔵場所は、いろいろ変遷しました。そこで、木材置き場としての木場の歴史を書いてみたいと思います。
 徳川家康が、天正18年(1590)、江戸に入府すると同時に、江戸城の築城と江戸の都市づくりが始まります。木材は城造り・町造りに欠かせない重要な資材でした。

 徳川家康が最初に手掛けた工事の一つが道三堀の開削でした。この道三堀沿岸に材木町がまず成立し、築城用材木の揚げ場となりました。

その後、外濠工事が行なわれ、道三掘が郭内になったため江戸湊東岸部に移転させられました。これが本材木町に発展しました。これから、茅場町や八丁堀、三十間堀などにも拡大していきます。

しかし、寛永 18年(1641)におきた大火(いわゆる桶町火事)をきっかけに、老中松平伊豆守信綱は府内35ケ町の材木業者に材木高積を禁止し、材木置場として隅田川に面した永代島を指定しました。

この材木置き場は、現在の佐賀町、永代、福住周辺にあり、この頃から木場と呼ばれるようになりました。

元禄 12 年(1699)になると、幕府は佐賀町周辺の材木置き場の地所をとりあげ、永代浦の東側へ木場が移転するよう命じます。

それ以降、佐賀町、永代、福住の木場のあった場所は元木場と呼ばれるようになりました。

この移転は、江戸が拡大してきたため、元木場を町人が住む町にするためでした。

しかし、永代浦東側の埋め立てが思うように進まなかったため、猿江の材木蔵の用地周辺に一旦移転させます。

その後、元禄 14年(1701)になって、木場の造成が完了したことから、猿江から木場に移転しました。

これ以降、江戸時代から昭和まで、材木置き場周辺が木場と呼ばれ、独特の文化をはぐくんできました。

しかし、昭和になると、東京湾の埋め立ても進み、木場が海から遠くなり、また木場周辺の開発も進んだことから、さらに移転が検討され、新木場に移転することになり、昭和40年代から移転作業が行われ、昭和56年に完了しました。

そして、木場の跡地は埋め立てられ、平成4年に都立木場公園として開園しました。

赤印が木場公園です。

青印が木場親水公園です。






# by wheatbaku | 2019-07-26 08:52 | 新江戸百景めぐり
富岡八幡宮(新江戸百景めぐり⑮)

富岡八幡宮(新江戸百景めぐり⑮)

深川には、清澄庭園の外にも紀伊国屋文左衛門にゆかりのある場所があります。それが富岡八幡宮です。富岡八幡宮も、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)で第70景としてP130に紹介されています。 そこで、今日は富岡八幡宮についても案内します。

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 富岡八幡宮は、社伝によれば、寛永4年(1627年)、長盛法印というお坊さんが当時永代島と呼ばれていた現在地に創建しました。 

周辺の砂州一帯を埋め立て、合計で60508坪もの土地を境内としました。

御祭神は、八幡宮の名前でわかるように応神天皇です。

「江戸最大の八幡様」で、「深川の八幡様」と親しまれています。

富岡八幡宮の現在の社殿(下写真)は昭和31年に建設されたものですが、江戸時代初期の社殿は、紀伊国屋文左衛門が奉納したと言い伝えがあります。

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神輿

紀伊国屋文左衛門が、富岡八幡宮に八幡造り・神明造り・春日造りの三基の神輿を奉納したといわれてきました。しかし、紀文が奉納したと伝わっていた神輿が関東大震災で焼失してしまいました。

そこで、平成3年、当時佐川急便会長だった佐川清氏が、かつての紀伊国屋文左衛門が奉納した神輿にも劣らぬ巨大な「一の宮神輿」を奉納しました。重さ4.5トンを誇る日本一の神輿です。完成した時には、永代橋から陸あげされ、大鳥居前で行なわれた初担ぎには3000人が参加し、巨大神輿をみごとに担ぎあげました。しかし、あまりに大きくて重すぎたため渡御どころではなくなり、これ以降は境内に展示されるだけになっています。(下写真)

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一の宮神輿があまりにも大きいため、新たに平成9年に、重さ約2トンの二ノ宮が作られ、お祭りにはこの二の宮神輿がかつぎだされます。

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富岡八幡宮の例祭は8月15日を中心に行われます。俗に「深川八幡祭り」とも呼ばれ、赤坂の日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭とともに「江戸三大祭」の一つに数えられています。

富岡八幡宮の祭礼は本祭・御本社祭・陰祭の順番で祭礼が行われることになっています。

3年に1度、八幡宮の御鳳輦が渡御を行う年は本祭りと呼ばれ、子・卯・午・酉の年に行われます。鳳輦とは屋形の上に金銅の鳳凰をつけた輿のことで、富岡八幡宮の御神体を渡御する時に用いられます。

本祭りの翌年(丑・辰・未・戌の年)には八幡様の氏子町会が協力して二の宮神輿を担ぎます。本祭りの前年(寅・巳・申・亥の年)のイベントは陰祭とよばれ、子供神輿の連合渡御が行われます。

紀伊国屋文左衛門が住んだという一の鳥居付近

紀伊国屋文左衛門は、晩年は落ちぶれて、富岡八幡宮の一の鳥居脇に住んでいたと言われています。

 現在の富岡八幡宮には一の鳥居はなく、永代通りに南面して大鳥居があります。(最上段写真)。

 江戸時代の一の鳥居は、大鳥居から西に500メートルほど行った永代通り付近にありました。下写真の幕末の江戸切絵図参照してください。右端が富岡八幡宮です。富岡八幡宮の前の通りを左に行ったところに一ノ鳥居と書かれています。

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 富岡八幡宮は江戸勧進相撲発祥の地として有名です。

江戸時代の相撲興業は トラブルが多くしばしば禁令が出ていました。しかし、幕府は貞享元年(1684)幕府より春と秋の2場所の勧進相撲が許しました。その時、開催場所となったのが富岡八幡宮の境内でした。

その後、蔵前八幡や神田明神も興行場所となりましたが、ここ富岡八幡宮でしばしば行われ、77年で31回開催されています。天保4年以降、本場所は、本所回向院に移っていきますが、勧進相撲の勃興期における富岡八幡宮の地位はかなり高いものでした。そうしたことから横綱力士碑や大関力士碑など相撲関係の石碑が数多くあります。

横網力士碑

横綱力士碑は、明治33年、江戸時代の最後の横綱である第12代横綱陣幕久五郎を発起人に建立されたものです。

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両側には伊藤博文、山県有朋、大隈重信といった賛同者の名が刻まれており、広く各界から協賛を得て建立されたことを物語っています。

ここに横綱力士碑が建てられたのは、①かつての大相撲興行が行われていたこと ②相撲の祖先とされている野見宿弥が祀られていること、③陣幕と同郷の釈迦ヶ嶽雲右衛門を記念する碑が江戸時代に建てられていたことなどによるものだそうです。

 当初は、本殿の裏手に建てられていましたが、関東大震災後、現在地に移されたものです。

その大きさは高さ3.5メートル、幅3メートル、重量は20トンに及び、横綱を顕彰するにふさわしい堂々たる石碑です。

この碑には初代明石志賀之助から72代稀勢の里までの四股名が刻まれています。

 新横綱誕生時には相撲協会立会いのもと刻名式がおこなわれ、新横綱の土俵入りが奉納されます。

大関力士碑

表参道大鳥居をくぐってすぐ右手には、 歴代大関を顕彰するために建立された 「大関力士碑」があります。

この碑は明治の頃に、9代目市川団十郎と5代目尾上菊五郎により寄進されていた2基の仙台石を活用し、初代大関雪見山からの歴代大関の四股名が彫り込まれています。

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伊能忠敬の銅像

大鳥居の脇に伊能忠敬の銅像があります。 平成13年(2001)に建立されたものです。(下写真)

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 伊能忠敬の測量開始は寛政12年西暦でいうとちょうど1800年です。

伊能忠敬像は測量開始200年にあたり広く一般から浄財を公募して建立されました。

伊能忠敬は、この後案内する深川黒江町(現・門前仲町1丁目)に住んでいて、測量に出発する時富岡八幡宮を参拝していたことから、ここに銅像が建てられました。

 除幕式当日には映画「伊能忠敬-子午線の夢」で忠敬翁を演じた加藤剛さん、妻・お栄役の賀来千香子さんらが役柄の扮装のまま駆けつけて除幕を行なったそうです。

 伊能忠敬は、佐原で代々名主を勤め、酒造業や運送業を営む伊能家の当主でしたが、50歳の時に、隠居して深川の黒江町(現在は門前仲町1丁目)に家を構えました。

 住居跡には、江東区教育員会が設置した標柱が建てられています。(下写真)

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江戸に出府した伊能忠敬は、幕府暦局の高橋至時に入門し天文学を学びました。ここで天文学を学ぶうちに地球の大きさを知りたいと思うようになり、そのためには、緯度1分の長さを正確に測りるため、蝦夷地測量の名目で距離を測ることとし、幕府に願いをだし、無事許可されました。そこで、約200年前の寛政12年閏4月19日(陽暦では1800年6月11日)の早朝に富岡八幡宮に参拝して暇夷地測量の旅に出かけました。

伊能忠敬はこのときを含めて全部で10回の測量旅行を企画しましたが、第8回までは、出発の都度の際に必ず、内弟子と従者を率いて富岡八幡宮に参詣して、無事成功を祈念したのち、歩き出しと言います。

富士塚

富岡八幡宮の社殿の西北に鎮座する浅間神社の前に富士塚があります。

非常に小さいものですが、平成14年に再建されたものです。

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江戸時代から続いていた富士塚は、富岡八幡宮の北側にある数矢小学校の西側に、昭和30年ごろまではあったそうです。

ここの北側にあった富岡八幡宮の富士塚は、東都歳事記にも絵が載っています。

富士塚は、享保7年~8年(1722~1723)に造られ、規模は高さ2丈(約6メートル)周囲は50間(約90メートル)あっとと、江東区史に書かれています。

三十三間堂跡

 富岡八幡宮の東側に江戸時代後半から三十三間堂がありました。

深川の三十三間堂の跡には、石碑が建てられています。(下写真)

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 三十三間堂といえば、京都の三十三間堂つまり蓮華王院が大変有名です。

江戸の三十三間堂は、この京都蓮華王院を模して、寛永19年(1642年)に浅草に建立されました。 この浅草の三十三間堂が元禄11年9月6日の火事(いわゆる勅額火事)により焼失してしまいました。そして、元禄14年(1701)に深川に移されました。

深川における三十三間堂は、南北66間(約118.8m)・東西4間(約7.2m)の建物であり、本尊は千手観音であったそうです。

江戸に三十三間堂が作られたのは、京都の三十三間堂での通し矢が盛んに行われた影響だそうです。

 江戸の三十三間堂も、京都と同じように南北に長い建物で、その西側の回廊で、通し矢が行なわれ、京都三十三間堂での記録保持者を「天下一」、江戸の三十三間堂での記録保持者を「江戸一」といいました。

 深川に移転した後に「江戸一」の記録は、文化6年(1809)に渡辺弥三郎という人が樹立した、明け六つから翌日の明け六つまで24時間射続けて、総数13092本、射とうした矢の数は11740本という記録だと江東区史に書かれています。

 深川三十三間堂は、明治5年(1872年)に解体されて、本尊は近くの正覚寺(深川2-22-5)に移されました。

 深川の三十三間堂の跡の石碑にはその様子がレリーフで描かれています。(下写真)

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 このレリーフはブロンズ製で文政4年(1821年)堂守、鹿塩久右衛門の元にあった深川三十三間堂での通し矢の記録を本として出版した「深川江戸三十三間堂矢數帳」の中の絵のページが描かれ、三十三間堂がみごとに描かれています。 

また、コンクリートの台座には陶板による一間(約1.8メートル)の「矢」が描かれています。深川の三十三間堂があった辺りは、昭和6年(1931年)まで深川数矢町といいました。数矢町は明治2年起立の町で、町名は「三十三間堂が射手数矢を演じたる地なる」ことにちなんでいます。現在は、数矢町という町名はなくなりましたが、その名前は、富岡八幡宮の北側にある数矢小学校の名に残っています。



赤印が富岡八幡宮社殿です。

青印が富士塚です。

緑印が三十三間堂跡の石碑です。






# by wheatbaku | 2019-07-22 19:36 | 新江戸百景めぐり
  

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