覚王院義観の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑭)
谷中霊園に眠る幕末の有名人の第14回は覚王院義観について書いておきます。
覚王院義観については、私は「彰義隊」(吉村昭著)でその存在を知りました。

この小説は、輪王寺宮公現親王(のちの北白川宮能久親王)が主人公ですが、覚王院義観は、輪王寺宮公現親王のそばに仕えていたため重要な人物として登場しています。
覚王院義観は、寛永寺の執当でしたが、新政府軍の対応に怒り、彰義隊を支援し、徹底して新政府軍に抵抗した人物でした。
覚王院義観は、現在の埼玉県朝霞市で金子栄蔵の子として生まれました。幼いころから優秀で、10歳になる天保3年(1832)、寛永寺の大慈院住職尭覚の授戒で得度し、尭運という名をもらいました。
その後、真如院住職義厳の弟子となり、義観の法名を授かりました。
26歳の時、義厳が凌雲院の住職となったため、覚王院義観が真如院の住職となりました。
慶応3年3月に輪王寺宮慈性法親王から「覚王院」の院室号を賜り、同時に東叡山寛永寺執当職に任ぜられました。
この執当職は、寛永寺の座主である輪王寺宮が居住する御本坊に詰め、寛永寺のことはもちろん、全国の天台宗全寺院から、幕府や諸大名等との交渉に至るまで、およそ座主が僧侶として関係する寺務一切を代行する重要な役でした。
覚王院義観のお墓は、谷中霊園の中にあります。覚王院義観が住職であった真如院の墓地の中にあります。
お墓の表面には、輪王寺宮公現親王から贈られた「寂静心院」の号が刻まれています。

慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いに破れ、江戸に逃げ帰った15代将軍徳川慶喜は、恭順の姿勢を示し、東叡山寛永寺の大慈院に入って蟄居謹慎しました。
東叡山寛永寺の輪王寺宮公現法親王(後の北白川宮能久親王)が、覚王院義観、龍王院尭忍の両執当を従えて、慶喜の助命嘆願のため、2月21日に、京都に向かいました。
輪王寺宮の一行は、3月7日に駿府に入り、東征大総督有栖川宮熾仁親王宮に面会し、慶喜の謝罪状を提出し助命を嘆願しました。
しかし、有栖川宮熾仁親王は輪王寺宮からの嘆願をまったくとりあわずすぐに江戸にかえるよう言います。
「彰義隊」では、有栖川宮熾仁親王が非常に冷たい態度で対応したと書いてあります。
こうした有栖川宮熾仁親王と新政府軍の対応に対して覚王院義観は大いに怒りました。
そのため、浅草本願寺に屯集していた彰義隊が、慶喜の護衛を名として寛永寺に入ると、覚王院義観はこれを援助するだけでなく煽動し、東征軍への反抗姿勢を顕にしました。
また、覚王院義観の後援を得た彰義隊は徳川家にとって良い影響を与えないと考えた山岡鉄舟は、覚王院義観を訪ねます(勝海舟の指示で訪問したともいいます)が、覚王院義観は山岡鉄舟の必死の説得にも耳を貸そうとしませんでした。
新政府側は、戦争を避けるために、輪王寺宮の江戸城への登城を要請したり、覚王院義観や龍王院尭忍を召喚しようともしたが、その都度、覚王院義観が拒否したと言われています。
この覚王院義観の態度が、上野戦争を起したとも言われています。
いろいろな策を講じましたが、ついに新政府側は彰義隊の討伐を決断し、5月15日、寛永寺に立て籠もる彰義隊を攻撃しました。
主戦場となった黒門口はお昼過ぎには新政府軍に突破され、彰義隊は一日で敗北しました。
そこで、輪王寺宮公現親王は、谷中口から脱出し、覚王院義観は、輪王寺宮とは別に寛永寺を脱出しました。
輪王寺宮は、谷中から尾久に抜け、さらに浅草の東光院、市谷の自性院に隠れた後、品川沖の「長鯨丸」に乗って、平潟まで渡り、さらに会津若松に至りました。
一方、覚王院義観は、輪王寺宮一行の後を追い、「覚王院義観戊辰日記」という史料によれば、土浦、水戸、棚倉を経て6月2日に会津に入り、6月6日に輪王寺宮一行に合流しました。
その後、輪王寺宮公現親王は、奥羽諸藩の要請により、白石城に入って奥羽越列藩同盟の盟主となりました。
しかし、奥羽越列藩同盟参加の諸藩は新政府軍に降伏していき、ついに9月11日には仙台藩が降伏に決し、9月22日には会津藩が降伏しました。
そうした情勢のなか、仙台に滞在中の輪王寺宮は、9月24日に鎮撫総督府に謝罪文を提出しました。
覚王院義観はその当時、奥羽列藩同盟の主唱者である米沢藩の降伏の阻止と輪王寺宮の立石寺への移座などのために米沢に出張中でしたが、仙台に戻った時には、すでに執当職を解任され、総督府から蟄居が命じられました。
輪王寺宮は、東京に護送される時、伊達家に対して、義観と尭忍の庇護を懇請するとともに、義観には「寂静心院」の号を贈りました。
覚王院義観も東京に送られ獄舎に収監された後、本郷壹岐坂上松平美作守の屋敷に預けられました。
そこで、覚王院義観は、明治2年2月26日、亡くなりました。
「彰義隊」(吉村昭著)では、新政府軍への抵抗は、あくまでも覚王院義観の判断であって輪王寺宮はあずかりしらないことと主張し、提供される食事を丁寧に断り、そのまま亡くなったと書いてあります。享年47歳でした。
覚王院義観のお墓は、寛永寺の墓地の中にある「真如院墓地」の中にあります。

「真如院墓地」は、谷中霊園の乙8号4側・5側に南側、徳川慶喜の墓所の北側にありますが、少しわかりにくい場所にあります。
上写真の「真如院谷中墓地」が目印となりますので、この目印を丹念に探してください。
「 谷中霊園に眠る幕末の有名人」は、今回の覚王院義観で、一区切りとさせていただきます。
















