カテゴリ:『幕末』( 213 )
松平春嶽  (江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日から、 松平春嶽(慶永) について、書いていきます。
 松平春嶽(慶永)は、文政11(1828) 御三卿田安家に生まれました。
 春嶽は号で、慶永(よしなが)が本名です。他に礫川、鴎渚などの号を用いたそうですが、生涯通して春嶽の号を最も愛用しました。

 【春嶽は田安家出身】 
c0187004_8202629.jpg 春嶽は、田安徳川家第3代当主・徳川斉匡の八男です。
 田安家は、8代将軍吉宗の次男宗武が起こした家です。
 初代が宗武で、2代治察が病弱で早世しました。このとき、治察の弟定信は既に白河藩の久松松平家への養子行きが決められており、3代目を相続することが認められなかったため、田安家は、しばらく当主がいませんでした。
 そこで、天明7年(1787)に、一橋家から一橋徳川家2代当主徳川治済の五男の徳川斉匡が入り3代当主となりました。徳川斉匡は11代将軍家斉の弟になります。
 右写真は国立国会図書館蔵です。

 【将軍家慶は従兄弟】 
 この斉匡が春嶽の父です。従って、春嶽からみて11代将軍家斉は叔父になり、12代将軍家慶は従兄弟になります。
 春嶽の男の兄弟は10人いましたが、主な兄弟としては、一橋徳川家の5代当主となった四男の斉位(なりくら)、一橋徳川家の7代当主となった五男慶壽(よしひさ)、田安徳川家の第5代当主である慶頼(よしより)は9男、尾張藩第13代藩主となった慶臧(よしつぐ)が十男でした。
 松平春嶽は10歳の天保9年(1838)に越前藩15代藩主松平斉喜(なりさわ)の養嗣子となります。そして翌年11歳の時に、斉喜の死去によって16代藩主に就任しました。

 【中根雪江が補佐役】 
 そして、当時、大名は17歳まで帰国を許されない決まりでしたが、春嶽は16歳で帰国し、藩政の改革に取り組みました。
 春嶽の補佐には有名な中根雪江(せっこう)がつきました。
 中根家は代々700石を知行する上級藩士の家です。中根雪江は通称は靱負(ゆきえ)と言います。靱負を雪江とも書き、さらに「せっこう」と音読みしました。
 雪江は平田篤胤から国学を学んでいました。天保9年(1838年)に春嶽が藩主に就任すると側用人見習いとなり、春嶽に近侍しました。

 【名君との交わり】 
 春嶽が人間形成の上で大きな影響を受けたのが、徳川斉昭、阿部正弘、島津斉彬です。
 また、大変親しい友人に山内容堂がいます。
 徳川斉昭には、福井入国する前に、小石川藩邸を訪れて、初対面の挨拶したのち、藩主としての心得9か条の質問書を出して教えを請うています。
 28歳年長のため、初めは師父として教えをこい、その後は同士として藩政改革と海防に協力しました。
 阿部正弘は春嶽より9歳年長で、正室も越前家出身であり親戚関係にありました。
 春嶽が攘夷不可能を知り積極開国論に転向したのは阿部正弘の影響によるものです。
 島津斉彬との交流は、斉彬37歳、春嶽18歳の時に始まります。春嶽は斉彬を師父と仰ぎ、もっとも懇意であったと書いています。また、斉彬も、久光への遺言として、諸侯中穏健誠実の第一の人物は春嶽であるから国事周旋にはその協力を仰ぐよう言い残しています。
 山内容堂は盟友ともいうべき関係です。春嶽は容堂を常に熟友といっていました。容堂は春嶽より一歳年下で肝胆相照らし切磋琢磨する仲で、幕府崩壊まで公武合体の主流としてともに活動しました。



 
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by wheatbaku | 2010-08-02 06:22 | 『幕末』 | Trackback
鳥羽伏見の戦い (松平容保⑧ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日まで8回にわたり松平容保について書いてきましたが、今日でとりあえず最後とします。
 今日は、鳥羽伏見の戦いで敗れて江戸に帰ってくるまでを書きます。 
 それまで、会津藩は京都で非常に苦労してきましたが、江戸帰還後、更なる苦労が降りかかることとなりますが、そのことは、別の機会に書くこととしたいと思います。

 【大政奉還】  
 慶応2年12月(1867年1月)に、公武合体派の孝明天皇が崩御すると、薩摩藩、長州藩を中心とした倒幕の動きが急速に進みます。
c0187004_16175562.jpg こうした中で土佐藩から提出された大政奉還の建白書を受けた徳川慶喜は、慶応3年(1867)10月14日、二条城(右写真)にて大政奉還をおこないました。
 この時期、岩倉具視らの動きにより討幕の密勅が下されようとしていた時でした。慶喜は彼らの先手を打って大政を奉還することで、討幕の口実を失わせることとなりました。

 【王政復古】  
 大政奉還により、倒幕の口実を失ったものの、あくまでも倒幕をめざす岩倉具視や薩摩・長州藩は、慶応3年12月9日に倒幕のためのクーデターを起こし、「王政復古の大号令」を発令しました。
 その内容は、 「幕府および.摂政・関白を廃止し、.新たに総裁、議定、参与の三職をおく。 」というものでした。
 これにより京都守護職や京都所司代も廃止されました。
 これに対して、5年にわたる長い間京都守護職として苦労してきた会津藩や容保の弟松平定敬が京都所司代として任命されていた桑名藩は激怒し、薩摩・長州と戦うべしという主戦論が強まります。
c0187004_16181827.jpg そこで、慶喜は、それらの意見を押さえるため、二条城から大坂城に入り、戦争を回避しました。
 しかし、江戸の薩摩藩邸焼き討ちに触発された幕府軍は、翌年1月3日に、巻き返しを図るため京都に進軍を開始し、鳥羽・伏見の戦いが始まります。
 鳥羽伏見の戦いでは、会津藩は、伏見街道で幕府軍の先鋒として戦いますが、幕府側は新政府軍に敗北します。

 【江戸に脱出】  
 敗北の報が伝わると、大阪城にいた慶喜は、反攻を宣言しながら、夜間に大阪城を抜け出し、幕府軍艦開陽丸に乗って江戸に脱出してしまいます。
 慶喜に従ったものは、松平容保、松平定敬、老中の板倉勝静、酒井忠惇など数名でした。
 この経緯について、慶喜は、明治になって、「昔夢会筆記」に
 「大坂を出る時に会津藩の松平容保と桑名藩の松平定敬を一緒に連れて帰ったのは、彼らを大坂に残しておけば、戦争が始まるからである」と述べています。
 会津や桑名の主戦派により鳥羽伏見の戦いが始まったことを悔いた慶喜は、神保修理の「速やかに東帰して前後の策をめぐらすべし」という建言にもとづき江戸に帰ることを決意したといいます。
 なお、神保修理は会津藩家老神保内蔵助の子で当時軍事奉行添役で、若手の俊英といわれていました。

 結果的に、会津藩兵を見捨てる形となった容保は、彼らからの非難を受けて、 「公(将軍慶喜)に随行して東下すれば、臣下に義を失い、臣下に対して義をたてんとすれば、公に義を失う」。両立することはできないので、「遂に公に従って密かに発航した」と苦しい心情を吐露しているそうです。
 そして、東帰を進言したといわれる神保修理に切腹を命ずるとともに、容保自身も家督を養子の慶徳に譲って隠居することにしました。
 こうして恭順の意を表しますが、時すでにおそく容保は新政府の追討の対象となり、悲劇の戦争に突入することになるのです。
 
 戊辰戦争における会津の戦いは、またの機会に書くこととして、ひとまず松平容保についての記事は一区切りつけたいと思います。
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by wheatbaku | 2010-07-16 05:40 | 『幕末』 | Trackback
孝明天皇崩御(松平容保⑦ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 孝明天皇は、松平容保を深く信頼して、容保も孝明天皇を大変敬愛していました。
その孝明天皇が、突然、崩御されました。今日の松平容保は、この孝明天皇崩御について書いていきます。

 【公武合体派の天皇は倒幕に反対】 
 孝明天皇は、攘夷主義者でしたが、朝廷と幕府がともに協力しあうべきであるとする公武合体論の立場から、深く幕府を信頼し、倒幕の考えはまったくありませんでした。
c0187004_864451.jpg しかし、朝廷では、第2次長州征伐が幕府軍の敗北に終わったのをきっかけに、尊攘派公家を朝廷に復帰させるべきであるという声が大きくなってきました。
 こうした中で、追放されている公家の復帰・朝政の改革など国事につき建言するため、大原重徳を中心とした公家22名が朝廷に押しかける騒擾事件である廷臣二十二卿列参事件(ていしんにじゅうにきょう れっさんじけん)が発生します。
 しかし、天皇はこれを退け、逆に22名に対して謹慎等の処分を下し、変わらぬ信頼を幕府に寄せました。

【孝明天皇崩御】 
 こうした中で、孝明天皇が、突然、慶応2年(1867)12月25日、在位21年にして崩御されました。
 享年35歳でした。死因は天然痘と診断されました。
c0187004_872386.jpg 慶応2年(1867)12月11日、風邪気味であった孝明天皇は、宮中で執り行なわれた神事に医師たちが止めるのを押して参加し、翌12日に発熱し、投薬したが、翌日になっても病状が好転しませんでした。
 12月16日、改めて診察した結果、天皇が痘瘡(天然痘)にかかっている可能性が高くなりました。
 松平容保は、すぐ御所にかけつけお見舞いを申し上げました。
 17日には武家伝奏などへ天皇が痘瘡に罹ったことを正式に発表しました。
 それ以後、24時間体制での治療により、順調に回復しているかに見えました。
 しかし、12月25日になって、天皇が痰がひどくなり、医師たちも御所に昼夜詰めきりでしたが、25日午後11時過ぎに崩御されました。
 天皇の崩御が公にされたのは29日になってからのことでした。
 右の写真は、 「長崎大学附属図書館所蔵」の幕末もしくは明治の京都御所です。

【会津藩の悲運】 
 孝明天皇崩御により、容保は頼るべきところを失い、茫然自失となり、10日ほど床につきました。
 慶応3年 正月27日、孝明天皇の大葬が執り行われ、容保は、病をおして参列しました。
 大葬が終わり、容保は虚脱状態になりました。
 容保は、今度こそ辞職すると、辞意を重ねて表明しました。
 ここで辞意が認められれば、戊辰戦争の会津藩の悲劇はなかったかもしれません。
 それに対して、今回も、引きとめ工作が盛んにおこなわれました。
 だが、容保の辞意は固く、今度こそ帰るという意思でした。
 しかし、朝廷からの参議昇任の沙汰や「幼帝の意思」が伝えられました。そして、最後は、慶喜から「宗家とともに盛衰をともにし、留まってほしい」といわれ京都に留まることとなります。
 容保と会津藩は、またも藩祖保科正之の遺訓に立ち戻ることとなったのでした。
 会津藩の悲運は、この時に決まったことになるかもしれません。
 容保と会津藩士は複雑な思いをもって、京都に留まることになります。

【孝明天皇暗殺説】 
 孝明天皇は、大変壮健でした。その天皇が35歳の若さであえなく崩御してしまったことから、崩御直後からその死因に対する疑問がだされ、暗殺説が消えていません。
 佐伯理一郎やねずまさしによるヒ素による毒殺説が有力です。両氏は岩倉具視首謀・堀河紀子(岩倉具視の妹)実行説を唱えています。
 しかし、これに反対する原口清氏の病死説もかなり有力のようです。
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by wheatbaku | 2010-07-14 06:07 | 『幕末』 | Trackback
禁門の変 (松平容保⑥ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、 「禁門の変」 について書いていきます。
 八月十八日の政変で京都を追放された長州藩では、尊皇攘夷派の多くは長州に帰国しました。

【長州藩、進発論強まる】 
  しかし、元治元年(1864)に入ると、孝明天皇を再び長州藩の手中にとりもどすため、京都に乗り込もうとする進発論が盛んになりました。
 この時、進発論を積極的に説いたのが、来島又兵衛、久坂玄瑞でした。一方桂小五郎は反対し、高杉晋作は慎重派でした。
 来島や久坂は、古い攘夷論のままでしたが、桂や高杉は、小攘夷を捨てて、長州藩の富国強兵をはかり、対外貿易も行おうと考えるようになっていました。

【長州勢、京都に滞陣】  
 そうした、長州藩情勢の中で、6月5日の池田屋事件が起こりました。
c0187004_22322360.jpg 池田屋で新選組に藩士が殺されたという変報が長州にもたらされると、福原越後や益田右衛門介、国司信濃の三家老等の積極派は、慎重派の周布政之助・高杉晋作を振り切って上京しました。
 真木和泉や久坂玄随らも京都に向けて出発しました。
 益田、久坂玄瑞らは山崎天王山に、国司、来島又兵衛らは嵯峨天龍寺(右写真)に、福原越後は伏見長州屋敷に兵を集めて陣営を構えました。
 この動きに対して、孝明天皇は都を守護するため、禁裏守衛総督の一橋慶喜と容保に長州軍の上京を阻止する権限を与えました。
 その時、容保は、病気のため床にふせっていましたが、病を押して参内し、厳戒態勢を取りました。

 【禁門の変】  
 幕府や朝廷からの再三の撤兵勧告もかかわらず、長州藩は兵を増強しつづけ、ついに7月18日に禁門の変が始まりました。
c0187004_822561.jpg 長州藩の攻撃目標は会津藩でした。「国賊肥後守を討ち取る」といって進軍しました。
 この時、会津藩は2陣8隊1500人の戦力でした。1陣4隊が竹田街道に布陣し、残り1陣のうち3隊が御所、1隊が黒谷を守りました。
 各地で戦闘が始まる中、容保は病気を押して参内し孝明天皇の傍に控え、宮中の動揺を抑えるよう努力しました。
 会津藩が守る蛤御門付近で長州藩兵と会津藩兵とが衝突し、一時、会津藩が厳しい状況に陥りましたが、薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転して、長州勢は敗退しました。
 禁裏内で来島又兵衛は戦死し、久坂玄瑞は自刃しました。

 この後、幕府は、長州藩兵が内裏や禁裏に向けて発砲した事等を理由に長州藩を朝敵として、第一次長州征伐を行うこととなります。

 蛤御門は、正式には新在家門といわれ、常に閉ざされていました。
 天明8年(1788)に起きた天明の大火の際、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたため、「焼けて口開く蛤」にたとえて、蛤御門と呼ばれるようになったといわれています。
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by wheatbaku | 2010-07-13 05:45 | 『幕末』 | Trackback
八・一八の政変 (松平容保⑤  江戸検定今年のお題「幕末」)
 先週土曜日は、友人たちを日本橋散策に案内しました。その準備の関係で、ブログをちょっとお休みしてしましました。
 今日も松平容保について書いていきます。今日は 「八・一八の政変」 を中心に書いていきます。

【守護職屋敷】 
c0187004_185335.jpg 松平容保は、文久2年(1862)12月24日、京都守護職として入洛したが、屋敷は急ごしらえもできず、金戒光明寺を本陣と定めて、京都市中取締りの指揮を執りました。
 その後、文久3年末に、京都守護職の役宅は,釜座通りの東西1町、南北2町にわたり、約68,000坪の広大な面積を誇り、建物は7,000坪の大きな屋敷が新築されました。
 隣には京都所司代千本屋敷が在り、東には御所があると言う正しく京都守護の要衝でした。
 守護職屋敷は現在の京都府庁周辺にあたり、京都府庁には「京都守護職屋敷跡の碑」が建っています。

 【八・一八の政変】 
 文久3年(1863)8月18日、京都で俗に「八・一八の政変」と呼ばれるクーデターが起こりました。
 当時朝廷は三条実美らの攘夷急進派が主導権を握っていました。これに対して、公武合体派が巻き返しをおこない、尊王攘夷派を京都から一掃し、政局の主導権を奪取したのです。
 孝明天皇は、過激な攘夷主義者でしたが、倒幕などはまったく考えておらず、朝廷と幕府が協調して攘夷は あくまでも幕府が中心となって実施していこうという公武合体派でした。
 8月13日、突然薩摩藩の高崎佐太郎が会津藩士の秋月悌次郎を訪ねてきました。
そして、宮中から尊王攘夷派の公家を排除することをもちかけました。

c0187004_9282051.jpg 容保は公武合体派の中川宮や近衛忠熈父子、二条斉敬なりゆき)の協力を取り付けるとともに、ちょうど交替時期で京都を離れていた会津藩兵1000名を呼び戻して準備しました。

 8月18日深夜1時に中川宮は急遽参内し、次いで近衛忠熈父子、二条斉敬(、京都守護職松平容保、京都所司代稲葉正邦らが密かに参内しました。
 ただちに、御所の門は全て固く閉じられて会津藩・薩摩藩らの兵によって厳重に警護されました。そして召命のないものはたとえ関白でも入門させないとの厳命がくだりました。

 そして、その中、御前会議が開かれ、攘夷親征のための行幸延期、尊皇攘夷急進派の公家の参内停止と謹慎、長州藩の堺町門警衛解任などが議決されました。
 異変に気づいた三条実美らが駆けつけますが中に入ることはできず、長州兵もいそぎ堺町門へ行きますが会津藩・薩摩藩の兵と対峙したままで、入門することはできませんでした。
 その長州藩に対して、対峙の場から退去すべきとの勅命が下りました。
攘夷急進派はやむを得ずいったん東山の大仏妙法院へ退去して軍行いました。その結果いったん長州へ退いて再起を期すことにします。
 そして19日、三条実美、三条西季知、沢宣嘉、東久世通禧(みちとみ)、壬生基修(もとなが)、四条隆詞(たかうた)、錦小路頼徳(よりのり)七人の公家が長州へと下っていきました。これが名高い七卿都落ちです。

【御宸翰と御製】 
 孝明天皇は、容保の主導により、8月18日の政変(クーデター)が成功し尊王攘夷派が退けられたことに大変満足でした。
c0187004_8183612.jpg そこで、クーデターの中心となった容保に対して、10月9日、孝明天皇より御宸翰(非公式の手紙)と御製(天皇が作った歌)を賜わりました。
 これは「8月18日の政変(クーデター)」が成功したことを喜んだ孝明天皇が、その働きをたたえて下した褒状です。
【御宸翰】
 堂上以下、暴論を疎ね、不正の処置増長につき、痛心に耐え難く、内命を下せしところ、すみやかに領掌し憂患掃攘、朕の存念貫徹の段、まったくその方の忠誠にて、深く感悦のあまり、右一箱これを遣わすもの也。
 文久三年十月九日
【御製】
 たやすからざる世に、武士(もののふ)の忠誠のこころをよろこびてよめる
  和(やわ)らくもたけき心も相生の まつの落葉のあらす栄え舞
  武士とこころあはしていはほをも つらぬきてまし世々の思ひて

 孝明天皇の容保への信任は非常に高かったのです。そして、容保は、上の国立国会図書館蔵の写真のように美男子であり、彼が参内すると宮中の女官たちはそわそわするほど、宮中で人気がたかったそうです。
 御宸翰と御製を賜った容保は感激し生涯忠誠を尽くすことを決意したそうです。
 そして、これらを写真の左下の錦の筒に納めて、終生、この御宸翰と御製を肌身離さず持っていたそうです。
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by wheatbaku | 2010-07-12 06:19 | 『幕末』 | Trackback
京都守護職 (松平容保④ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、松平容保が、京都守護職に就任するまでの経緯について書きます。
 容保は、大変苦悩したうえで、京都守護職に就任しています。そのことについて書いていきます。

【京都守護職は新設ポスト】 
 まず、京都守護職ですが、文久2年の幕政改革の一環として設置された新設のポストです。
 当時、京都は、尊攘派の活動が活発であり、テロも頻繁に起きました。
 しかし、京都所司代や町奉行所ではこれを押さえきれず、幕府の威厳は失墜していました。
 そこで、京都市中の治安維持及び御所・二条城の警護などを担う役割として設置したものです。

【容保、就任を断る】 
c0187004_8384197.jpg 当初は、越前藩主松平春嶽も有力候補でしたが、春嶽が政治総裁職についたため、 会津藩の松平容保に白羽の矢があたりました。
 家門であり、門閥に不足はなく、兵力も十分に保持していたためです。
 そのため、松平春嶽(右写真は、「国立国会図書館蔵」)は、松平容保を推薦し説得しました。
 要請があったとき、再三、容保は固辞しています。そして重臣も断ることに賛成でした。
 それは、容保自身が、健康でなかったことや藩の財政が厳しかったことがあります。
 容保は浅才であり大任を果たす自身がないということや万一、失策のあった場合には、徳川宗家に累が及ぶのと同じだとも言って断っています。

【説得の切り札は会津藩家訓】 
 しかし、松平春嶽はあきらめません。 書を出したり、重臣を呼んだりして説得を続けます。
 そして最後のとどめが「会津藩家訓」でした。
 次の手紙は、保科正之が定めた「会津藩家訓」を十分踏まえた説得の言葉です。
 「台徳院(2代将軍秀忠のこと)の御血脈の公方様、土津様(保科正之のこと)御末裔の貴兄に候えば、御情において御同然と存じ奉り候。
 徳川氏の信不信の相立ち、公武御合体の有無は貴兄の断、不断にあり。
 小生泣いて申し上げ候も、方今台徳院様、土津公あらせられ候わば、必ず御受け相成り申すべくと存じ奉り候。」

【家臣ともども悲壮な覚悟で受諾】 
 会津藩藩祖や家訓まで持ち出され、こうまで言われて、容保は観念しました。c0187004_8343678.jpg 
 就任の方向との知らせを聞いた国家老の西郷頼母(たのも)、田中土佐は、駕籠を飛ばして江戸に駆けつけました。 西郷と田中は、色をなして諌めました。
 「いまこの至難の任にあたるのは、まるで薪を背負って火を救わんとするもので、労多くして、その功は少ない」
 しかし、容保は「私が固辞していることを一身の安全を図っているという人がいるそうだが、会津藩には藩祖の家訓がある。いやしく安きむさぼるといわれては決心する他はない」といいました。
 重臣たちもこの容保の決意にうたれ、「総力を挙げて大任にあたり、君臣もろともに京師の地を死場所としよう」と、悲壮な覚悟を固めたといいいます。

【容保父子の歌】 
 この時の容保の心境をよく表したのが、実父義建に贈った次の歌です。
  行くも憂し 止まるもつらし 如何にせん 君と父と 思うこころ
 これに対して、実父の義建は、次の歌を返しました。
  父の名は よし立てずとも 君がため 勲(いさを)あらわせ 九重のうち

 容保は、ついに 京都守護職を受諾しました。
 そして、容保は会津藩兵を連れて、京都に向かったのでした。
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by wheatbaku | 2010-07-08 08:21 | 『幕末』 | Trackback
会津藩家訓(かきん) (松平容保③ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、保科正之が定めた「会津藩家訓(かきん)15ヶ条」  のお話です。

 「会津藩家訓(かきん)15ヶ条」 は、名君と言われた保科正之が、自分の子孫や家老たちに戒めとして定めたものです。
 正之が推敲に推敲を重ね、さらに山崎闇斎にも意見を聞いて定めたと言われています。
 その各条文は最下段に書きましたので後でお読みください。

【徳川家への忠義が最も大切】 
 その中で、特に目をひくものが第一条です。第一条は次のように書かれています。
 一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。
   若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。

 意味は、次のようなものです。
 「徳川将軍家については、一心に忠義に励むべきで、他の諸藩と同じ程度の忠義で満足していてはならない。もし徳川将軍家に対して逆意を抱くような会津藩主があらわれたならば、そんな者は我が子孫ではないから、家臣は決して従ってはならない」
 まさに、徳川将軍家に対する忠義一途の思いです。

【会津藩の規範】 
 この家訓が会津藩の藩是として、江戸時代を通じて、会津藩と会津藩士の行動を決める重要な規範となりました。
 会津藩では、家老に登用されたものは、その末尾に記名血判したという説もあります。
 そればかりでなく、年頭には、家訓が奉読され、藩主も家来ともども平伏して拝聴するということが行われていたそうです。 
 家訓は、会津藩にとって大変重要なもので、「その文僅々15条と雖も我藩の憲法にして磐石よりも重かりしなり」(会津藩教育考)というものでした。

【容保も徹底的に教え込まれる】  c0187004_842347.jpg
 弘化3年(1846)に会津藩主松平容敬(かたたか)の養子となった松平容保は、この家訓を養父容敬から徹底的に教え込まれました。
 この家訓が、幕末に容保が何回も固辞し京都守護職を最終的には受諾する大きな要因となりました。
 その話は明日します。

 それでは、最後に、「会津藩家訓(かきん)15ヶ条」全文を書きます。
本来は、漢文だそうですが、書き下し文で書きます。
一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。
  若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。
一、武備はおこたるべからず。士を選ぶを本とすべし 上下の分を乱るべからず
一、兄をうやまい、弟を愛すべし
一、婦人女子の言 一切聞くべからず
一、主をおもんじ、法を畏るべし
一、家中は風儀をはげむべし
一、賄(まかない)をおこない 媚(こび)を もとむべからず
一、面々 依怙贔屓(えこひいいき)すべからず
一、士をえらぶには便辟便侫(こびへつらって人の機嫌をとるもの
  口先がうまくて誠意がない)の者をとるべからず
一、賞罰は 家老のほか これに参加すべからず
  もし位を出ずる者あらば これを厳格にすべし。
一、近侍の もの をして 人の善悪を 告げしむ べからず。
一、政事は利害を持って道理をまぐるべからず。
  評議は私意をはさみ人言を拒ぐべらず。
  思うところを蔵せずもってこれを争うそうべし 
  はなはだ相争うといえども我意を介すべからず
一、法を犯すものは ゆるす べからず
一、社倉は民のためにこれをおく永利のためのものなり 
  歳餓えればすなわち発出してこれを救うべしこれを他用すべからず
一、若しその志をうしない 
  遊楽をこのみ 馳奢をいたし 土民をしてその所を失わしめば
  すなわち何の面目あって封印を戴き土地を領せんや必ず上表蟄居すべし

  右15件の旨 堅くこれを相守り以往もって同職の者に申し伝うべきものなり
  寛文8年戊申4月11日

 25年1月24日に「会津藩家訓」の第4条について補足説明しました。
 こちらご覧ください。 
 ⇒  「媛姫(はるひめ)毒殺事件(「八重の桜」余談)」
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by wheatbaku | 2010-07-07 05:43 | 『幕末』 | Trackback
藩祖保科正之 (松平容保② 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、松平容保の2回目ですが、会津藩の藩祖の保科正之について書いていきます。

 会津藩は御家門の名門にあたります。
 藩祖は、保科正之です。

【秀忠の隠し子】 
 保科正之は、慶長16年(1611)、第2代将軍・徳川秀忠の四男として生まれました。
 幼名は幸松(幸松丸とも)といいました。生母は秀忠の側室のお静です。
c0187004_2355920.jpg 恐妻家であったといわれる秀忠は、お静の妊娠を知り、お江(崇源院)に知られないように、見性院(武田信玄の次女、穴山信君正室)にお静を預け、そこで生まれた幸松は見性院に養育されました。
 元和3年(1617)、見性院の縁で、幸松は信濃国高遠藩主保科正光の養子となり、名も正之と名のりました。
 父秀忠と初めて面会したのは、秀忠の御台所お江が死んだ後の寛永6年(1629)、正之が18歳の時でした。
 寛永8年(1631)には、正光の跡を継ぎ高遠藩3万石の藩主となり、肥後守となります。
 この頃、3代将軍家光が正之の存在を知ったそうです。家光は、律儀な異母弟正之をかいわいがりました。
  寛永13年(1636)には出羽国山形藩20万石となり、さらに、寛永20年(1643)、会津藩23万石の大名に引き立てられました。
 御三家の水戸藩に並ぶ石高を与えられるほど、家光の正之に対する信頼が厚かったということでしょう。

【託孤(たっこ)の遺命】 
 慶安4年(1651)の家光の臨終の歳に、正之は家光からただ一人呼ばれ、自分亡き後、家綱のことは正之に託すと言われます。
 これが「託孤(たっこ)の遺命」と呼ばれているものです。
 以後、正之は全身全霊「託孤(たっこ)の遺命」を守るよう幼少な将軍家綱を補佐しました。
 正之が指導力を発揮した事件、政策は数多くあります。
 大きな事件としては、慶安事件、明暦の大火があり、それぞれ的確に対処し、将軍は幼少でしたが、幕府はゆるぐようなことはありませんでした。
 現在、江戸城には天守台だけがあります。明暦の大火で江戸城の天守閣は炎上しましたが、その再建を取りやめを進言したのは、保科正之でした。
 これは、天守閣は遠くを見る程度の役割しかない。このようなものに財力を費やす時期ではないので取りやめるべきだという考えに基づくものでした。
 このほか、正之の主導で実施した政策には玉川上水の開削もあります。
 さらに、家綱政権の三大美事といわれる末期養子の緩和、殉死の禁止、大名証人の廃止も保科正之が関わっています。

【松平姓を固辞】 
 保科正之は、最後まで、「保科」姓を名乗り続けました。
 家光は、「松平」姓を名乗り、葵の家紋を使用することも許したそうですが、しかし、正之は、それを固辞、「保科」姓を名乗り続けました。
 それは、正之が小さい頃に育ててくれた保科正光に対して恩義を感じていたためだそうです。
 ここにも、正之の律儀な人柄があわられていると思います。
 会津藩主が、松平姓を名乗るようになったのは、3代藩主正容( まさかた)からです。

【「会津藩家訓(あいずはんかきん」制定】 
 寛文8年(1668)に、正之は「会津藩家訓(かきん)」15ヶ条を定めました。
 自ら推敲に推敲を重ね、山崎闇斎にも添削してもらい作成したものです。
 この「家訓」が幕末の会津藩に大きな影響を与えれることになります。
 その家訓の詳しい話は明日。
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by wheatbaku | 2010-07-06 12:46 | 『幕末』 | Trackback
高須松平家 (松平容保① 江戸検定今年のお題「幕末」)
 江戸検定一級合格者との四谷・新宿散策では、「津の守弁財天」も案内しました。
 ここは、幕末の京都守護職を務めた松平容保が生まれた場所でした。
 松平容保は、美濃高須藩主義建(よしたつ)の六男として天保6年(1835)に、四谷にあった高須藩上屋敷で生まれたのです。

 そこで、今日からしばらく松平容保(かたもり)について書いていきます。

 【高須藩】 
 c0187004_23165959.jpg 津の守弁財天は、四谷三丁目駅4番出口から5分のところにあります。
ここに江戸時代、美濃高須藩松平家の上屋敷がありました。
 高須藩は、尾張藩第2代藩主・徳川光友の次男松平義行が起こした藩です。
 高須藩は、宗家に嗣子が絶えたときこれを相続し、尾張藩を輔弼する役割を果たす支藩として機能しました。
 尾張藩7代藩主宗春は、享保の改革に対抗して奢侈な政策を実施したため、8代将軍吉宗により隠居謹慎させられます。
 その後の尾張藩の8代藩主徳川宗勝は、高須藩第3代藩主松平義淳が宗家を継いで尾張藩主となったものです。

【高須四兄弟】 
 松平 容保(かたもり)は、美濃国高須藩主・松平義建(よしたつ)の六男でした。
c0187004_9274138.jpg 義建(よしたつ)は子沢山で8人の男子がいました。そのうち6人が成人しそれぞれ藩主となっています。
 長男は夭逝し、次男の慶勝は尾張藩主、三男の武成は石見浜田藩主、五男茂徳(もちなが)は慶勝が安政の大獄で隠居謹慎を受けた後の尾張藩主となり、さらにその後一橋家を継いで茂栄(もとはる)を名乗ります。 四男が夭逝し、六男が容保です。七男定敬は桑名藩主、八男の義勇(しげたけ)が高須藩を継ぎます。
 このように兄弟が徳川家の親藩や家門の藩主となっていますが、特に、慶勝、茂徳(もちなが)、容保、定敬は、高須四兄弟と呼ばれています。
 右写真は、4人がそろった写真です。右側たっているのが慶勝、前列右側で座っているのが茂徳(もちなが)、後列で立っているのが容保、左側で座っているのが定敬です。

【高須藩は水戸系】 
  容保の祖父になる9代藩主松平義和(よしなり)は、水戸藩主徳川治保の次男ですので、幕末には、尾張藩や高須藩は水戸系の子孫でした。
 松平容保は、公か3年(1846)に、11歳で、会津8代藩主・容敬(かたたか)の養子となり、嘉永5年(1852)に会津藩を継ぎました。 養父となった容敬高須松平家出身で実の叔父(義和の四男)に当たります。

 明日は、容保が継いだ会津藩の藩祖・保科正之について書きます。

 ところで、津の守弁財天の「津の守」は「摂津守」を略した名称なので、「つのもり」でなく「つのかみ」と読みます。
 代々、摂津守を名乗った高須藩の上屋敷にあったため、「津の守弁財天」の名前がついています。近くにある「津之守坂」という地名も高須藩の摂津守に由来するものです。
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by wheatbaku | 2010-07-05 06:05 | 『幕末』 | Trackback
山岡鉄舟 (幕末の剣豪 江戸検定今年のお題「幕末」)
 幕末の剣豪の追加で、今日は勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される「山岡鉄舟」について書いていきます。
 
【飛騨で育つ】 
c0187004_8111254.jpg 山岡 鉄舟は、天保7年(1836)江戸本所で旗本小野朝右衛門の四男として生まれまれました。
 父が飛騨郡代になったため、幼ない時期を飛騨高山で過ごしました。
 そして、弘法大師流入木道(じゅぼくどう)の書を学ぶとともに、父が招いた井上清虎より剣術を学びました。
 17歳の時に、父が死んだため江戸へ帰りました。この後、生活に窮して「ボロ鉄」などと呼ばれました。
 安政2年(1855)に講武所に入り、千葉周作らに剣術を学びました。
 この頃には、腕が上達し、「鬼鉄」と呼ばれるようになったそうです。

【山岡静山の妹と結婚し山岡家を継ぐ】 
 その頃、当時日本一の槍の名人といわれていた山岡静山に槍術を学びました。
c0187004_2149692.jpg しかし、山岡静山が急死したため、静山の実弟でもあった高橋謙三郎(後の高橋泥舟)らに望まれて山岡家の養子となり、静山の妹の英子(ふさこ)と結婚しました。
 この時、高橋泥舟は、既に、山岡家から母方の高橋家の養子となっていたため、山岡家を継ぐことができなかったので、鉄舟に養子となるようお願いしたようです。
  右の写真は、小石川播磨坂の桜並木の向かい側の山岡の旧居跡です。高橋泥舟の屋敷と隣り合っていました。
  安政4年(1857年)、清河八郎らと尊王攘夷を標榜する「虎尾の会」を結成しています。
 文久3年(1863年)には、清河の建議により結成された浪士組の取締役となり浪士234人を連れて、将軍徳川家茂の先供として中山道を通り上洛しますが、間もなく清河八郎の動きを警戒した幕府により浪士組は呼び戻され、これを引き連れ江戸に帰ります。そして、清河八郎が暗殺された後は謹慎処分を受けます。
 この頃、中西派一刀流の浅利又七郎義明と試合をするがとても勝てず、浅利に弟子入りし、明治になって免許皆伝を受けます。

【西郷と交渉する】 
 慶応4年(1868年)、江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、勝海舟の指示のもと、益満休之助とともに3月9日官軍の駐留する駿府に辿り着き、西郷隆盛と面会し、江戸開城の5つの条件の提示を受けます。この中の一つ慶喜を備前藩に預けるについては断固反論し、西郷に認めさせることに成功しました。

 【明治天皇の侍従となる】 
 明治維新後は、徳川家達に従い、駿府に居住します。
 明治4年(1871)、廃藩置県に伴い新政府に出仕し、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任しました。
 そして、明治5年には、西郷のたっての依頼により、10年間の約束で侍従として宮中に出仕し明治天皇に仕えました。そして10年たった明治15年には、西郷との約束どおり致仕しました。
 明治21年胃がんのため、皇居に向かって、白装束で座禅を組んだまま絶命しました。享年53歳でした。

 【あんぱん大好き】 
 身長188センチ、体重105キロと大柄な体格でした。
 アンパンは、明治初年に木村屋総本店の木村安兵衛が考案したものですが、山岡鉄舟はアンパンが大好きで、アンパンを明治天皇に献上されるよう取り計らっています。
 また、山岡は書は頼まれるとほとんど断ることはなかったそうです。そのため、相当の書が残っています。
 木村屋総本店の看板の字も山岡の字です。
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by wheatbaku | 2010-06-24 05:26 | 『幕末』 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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