カテゴリ:『幕末』( 213 )
宇田川玄真(津山藩の洋学②)

 宇田川玄真(津山藩の洋学②)

 今日は、津山藩の洋学の2回目として宇田川玄真について書きます。

 宇田川玄真は、伊勢の安岡家に生まれ、江戸で、大槻玄沢・宇田川玄随・桂川甫周などについて蘭学を学びました。

杉田玄白からはその才能を見込まれ婿養子になります。

しかし、放蕩をくりかえし身を持ち崩したために杉田玄白から勘当され離縁されます。

この苦境の宇田川玄真を救ったのが稲村三伯です。

宇田川玄真は、稲村三伯が編纂していた日本初の蘭日辞書『ハルマ和解』にも従事し、『ハルマ和解』の完成に貢献しました。

寛政9(1797)に宇田川玄随が亡くなりましたが、跡継ぎがなかったため、宇田川家の家名断絶が危惧されました。そこで、大槻玄沢らの斡旋により宇田川を継ぐことになりました。榛斎と号しました。

宇田川家を継いだ宇田川玄真は、宇田川玄随の「西説内科撰要」を完成させました。

そして、宇田川玄真は、日本の解剖学の基礎を築いた『医範提綱』を刊行しました。

これは、解剖学の基礎を書いたもので、図が銅版画がきれいなものでした。

また、日本初の西洋薬学書『和蘭薬鏡』を著して、西洋薬物の製法・処方を初めて明らかにしたものです。

このほか、最初の西洋小児科学書「小児諸病鋻法治療全書」、最初の西洋眼科書「泰西眼科全書」を刊行しました。

また、宇田川玄真は、幕府天文方の蕃書和解御用にも出仕し、幕府によるフランス人ショメルの「日用百科全書」を和訳した『厚生新編』の翻訳作業に従事しました。

 また、宇田川玄真は、のちに宇田川玄真の養子となる宇田川榕庵、坪井信道、箕作阮甫・緒方洪庵など多くの蘭学者を直接育成しました。

そのため、「蘭学中期の大立者」とも「江戸蘭学界中興の祖」とも称されました。

 膵臓(すいぞう)の「膵」やリンパ腺の「腺」という和製漢字をつくったことでも知られています。

「膵」という字は,江戸時代に宇田川玄真によって造られた和製漢字で,『医範提綱』に初めて載せられたものだそうです。

東洋医学には「膵臓」という概念はなくて、いわゆる五臓六腑に入っていませんでした。そこで、宇田川玄真は、原語のpancreas(pankreas)から、「膵」という字を考案しました。萃は「集まる」という意味で,月(にくづき)と合わせて「膵」は「肉の集合したもの」という意味を表し、原語と同じように,「すべてが肉からなる」ということを表したものだそうです。

 宇田川玄随からの津山藩の洋学の伝統は「御家光之御筋」と「草創之著述」ですが、宇田川玄真も「草創之著述」をなして、「御家光之御筋」をたてたのでした。


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by wheatbaku | 2017-11-13 11:46 | 『幕末』 | Trackback
宇田川玄随(津山藩の洋学①)

 宇田川玄随(津山藩の洋学①)


 今回の江戸検では、宇田川榕庵についての出題がありましたね。

 博覧強記には、宇田川榕庵の名前はありますが、酸素などの造語をしたり「珈琲」という語句を考えたことは書いていないので、この問題を少し難しいと感じた人もいるかもしれません。
 この宇田川榕庵は、津山藩の藩士です。


 慶応4年4月の江戸城開城後、徳川宗家の後見人になった松平確堂は津山藩の藩主でした。松平確堂を調べる中で、実は、津山藩は、「洋学の津山藩」もしくは「津山藩の洋学」と言われるほど洋学が盛んな土地柄ということを知りました。


 現在でも、津山市には、「津山洋学資料館」という博物館があるほどです。

 津山藩では、それほど、多くの洋学者を輩出しています。

その筆頭が宇田川三代、つまり宇田川玄随、宇田川玄真、宇田川榕庵の親子3代です。

宇田川家は代々漢方医の家系でしたが、宇田川玄随のとき蘭方医に転向しました。

玄随は西洋内科学を日本に紹介し、洋学は養子の玄真、榕庵へと受け継がれ、医学から自然科学へと宇田川家の家学を完成させていったのです。この三代を特に「宇田川三代」といいます。

その宇田川三代の基礎を築いたのが宇田川玄随です。

今日は、宇田川玄随について書きます。


宇田川玄随は、宇田川家蘭学の初代として、桂川甫周、前野良沢、杉田玄白、大槻玄沢らと共に江戸蘭学勃興期に活躍しました。

津山藩医道紀(どうき)の長子として江戸に生まれる。父の没時に幼少だったため叔父玄叔が家督を相継、その養嗣子となって玄叔の没後に家督を継ぎました。


宇田川家は代々漢方医の家系でしたが、25歳のとき、西洋医学の学説に感服して学び始め、杉田玄白、前野良沢、桂川甫周に入門し蘭学を学びました。

特に桂川甫周はその才を愛し、ゴルテルの内科書の翻訳を勧めました。

宇田川玄随は刻苦10年して、わが国最初の西洋内科書刊本『西説内科撰要』全18巻を刊行しました。

ただし、江戸で刊行している途中で宇田川玄随が死んだことから大坂に移されて続刊され、養子宇田川玄真によって完結しています。


本書により本格的な内科学の原型が生まれ、その後の発展を促進しました。

また、内科系に強い宇田川家の学風を形成する基盤をつりました。

杉田玄白は回想録『蘭学事始』の中で、「(玄随は)漢学に厚く博覧強記の人」「鉄根の人ゆえ、その業大いに進み」と玄随のことを述べています。


寛政5年、『西説内科撰要』18巻のうち3巻が刊行された時点で、宇田玄随は、津山藩主松平康哉から「草創之著述」「御家光之御筋」として称賛され、御手当金15両が下賜されました。

これ以降、津山藩の学者たちにとって「御家光之御筋」のために「草創之著述」をなすことが大事とされ、それが求められるようになりました。

これ以降、新しい著作を仕上げて津山藩松平家の家名をあげることが、津山藩の蘭学者のモチベーションとなり、これ以降津山藩で蘭学・洋学が盛んになっていきます。

そうした中で宇田川玄真が活躍します。次回は、宇田川玄真について書きます。








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by wheatbaku | 2017-11-08 20:25 | 『幕末』 | Trackback
箱館戦争を戦ったフランス人

 箱館戦争を戦ったフランス人

 江戸検が終わりましたが、受検された皆さん、よい結果であるといいと思います。

 今年は、過去問から出題が非常に多かったので、過去問も勉強していた方は、良い成績が取れて、合格できた方もいるのではないでしょうか。

今日は、江戸検前に書こうと思っていましたが、時間がなくてアップできていなかった箱館戦争に参加したフランス人10人について書きます。

 

 今回の江戸検1級の問題に、フランス軍人ジュール・ブリュネについての問題が出題されました。

 ブリュネについては、お題テキスト「疾走!幕末・維新」に書いてあるので、正解できた人が多いと思います。

 箱館戦争で旧幕府軍に参加して戦ったフランス人は10人と言われています。

 しかし、10人全員が最初からブリュネと行動したわけではなく、江戸から一緒に行動したのが1人、仙台で合流した人たちが3人、そして箱館で合流したのが5人でした。

 箱館戦争で戦った人たちのリーダーが、ジュール・ブリュネです。

ジュール・ブリュネは、フランスの砲兵大尉で、慶応3年、幕府のフランス軍事顧問団の副団長として来日し、幕府の伝習隊に対して訓練を行っていましたが、翌年戊辰戦争が始まるとフランス政府からの命令を無視して、榎本武揚率いる旧幕府軍に参加します。

 このブリュネと一緒に江戸から箱館まで行動したのが、カズヌーヴです。

カズヌーブは、ナポレオン三世から徳川慶喜に送られたアラブ馬を持ってきたフランス王室付の馬丁でしたが、軍隊経験もあったようです。

 この二人が仙台まで行ったところで、横浜から船に乗って、フランス軍人3人が追いかけてきました。

 3人とは、③ジャン・マルラン、④ルテュール・フォルタン、⑤フランソワ・ブッフィエでした。

 3人は、軍事顧問団のメンバーとして来日し、ブリュネの指揮下にあった下士官でした。

 彼らが、ブリュネの命令で合流したのか、自主的に参加したのかは、はっきりしていないようです。

 蝦夷地を占領した後、ブリュネは旧幕府軍の顧問となり、軍事的な指導を行いました。

ブリュネは、旧幕府軍の陸軍を4つの連隊に分け、「レジマン」と名付けました。「レジマン」とは「連隊」を意味するフランス語です。

この4つの「レジマン」に、カズヌーヴと仙台で合流した3人を配属し、連隊の指揮のサポートさせました。

この5人に加えて、さらに5人のフランス人が参加しました。

この5人は、軍人でなく、民間人でした。

その5人とは、⑥ニコール、⑦コラシュ、⑧クラトー、⑨ブラディエ、⑩トリボーです。

彼らは、箱館にやってきた時は民間人でしたが、それぞれ、もと軍人であったようです。

この5人のうち⑥ニコール、⑦コラシュ、⑧クラトーは、海軍出身者であったため、それぞれ、榎本艦隊の「回天」「高雄」「蟠竜」に乗り組みました。

旧幕府軍は、新政府軍の「甲鉄艦」を奪取するため、宮古湾海戦を企画しましたが、この海戦の作戦を立てたのは⑥ニコールでした。そして、3人は、回天」「高雄」「蟠竜」に乗り込み宮古湾海戦を戦っています。

旧幕府軍のために戦った10人のフランス人たちは、五稜郭が陥落する直前にフランス艦「コエトゴロシ」で箱館から脱出しました。

 ブリュネはその後フランスに帰り、取り調べを受けました、「寛大な処置が」がとられ、罪に問われることはなく、しばらくして、軍に復帰し、普仏戦争で参加等で活躍し、その後、順調に出世しました。



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by wheatbaku | 2017-11-06 14:39 | 『幕末』 | Trackback
尊攘派志士を助けた女性「松尾多勢子」「中西君尾」

尊攘派志士を助けた女性「松尾多勢子」「中西君尾」

明日は、江戸検の本番ですね。
私も会場入り口で皆さんの応援をするつもりですが、
江戸検を受検される皆さんの奮闘をお祈りしています。 

お題テキスト「疾走!幕末・維新」には、「幕末の女性たち」の中で、尊攘派の志士を支えた女性たちが取り上げられています。

 ここに書かれた女性たちは有名な人物ですので、江戸検を受検される皆さんは、すでにしっかり勉強されていると思います。

 今日は、お題テキストに載っていないものの、幕末の女性を取り扱った本には必ず書かれているといってもよい「松尾多勢子」と「中西君尾」について、応援の気持ちを込めて書いていきます。

【松尾多勢子】

松尾多勢子は、尊王攘夷師派の志士の中で、「信州からきた歌詠み婆さん」として、探索,連絡の役を上手に果たした女性で、特に岩倉具視の暗殺計画を中止させたことが最も大きな手柄とされています。

松尾多勢子は信濃国下伊那郡山本村の庄屋、竹村常盈の長女として生まれました。

19歳のとき、伊那谷伴野村の豪農、松尾家の長男、左次右衛門と結婚し、6男4女をもうけました。

主婦・母として30余年を過ごし和歌を学ぶ中で、とりわけ飯田の歌人・国学者岩崎長世の説く尊王攘夷論に感化され、51歳で平田派の門下となりました。

文久2年、隠居の身であった多勢子は52歳で上洛し多くの公卿や志士たちと交わりました。

その当時、公武合体運動の中心として活躍した岩倉具視は佐幕派とみられていて、尊王攘夷派の間には岩倉具視を暗殺しようという動きがありました。

その際に、松尾多勢子は、岩倉具視に「信州からきた歌詠み婆さん」として近づき探索活動を行いました。

その結果、岩倉具視は実は勤王派であることを探り出し、岩倉具視を天誅のリストから外させました。

岩倉具視にとって松尾多勢子は命の恩人となったのです。

翌年2月、平田派の関係した京都等持院足利三代木像梟首事件の際に、嫌疑をかけられ捕縛されそうになり、捕縛直前に長州藩邸にかくまわれ難を逃れています。

その後、故郷に帰り、水戸天狗党が伊那谷を通過する際には、長男を派遣し協力しています。

 明治維新後は、岩倉具視に請われて岩倉家の家政を取り仕切るとともに子供の教育も任され、「岩倉家の女参事」とか「岩倉の周旋老媼(しゅうせんばばあ)」とも呼ばれました。

明治27年84歳でなくなりました。

【中西君尾】

中西君尾は、祇園の芸者でした。

多くの長州藩士と交流したなかで、特に井上聞多、品川弥二郎とのつながりが有名です。

 中西君尾は京都府船井郡八木町に生まれました。

19歳で祇園の置屋、島村屋から芸妓となり、高杉晋作を介して、多くの徴収藩士と交流しました。

長州藩士の中でも井上聞多(井上馨)と親密な間柄となりました。

元治元年、井上馨が長州藩内で敵対する俗論党に襲われ、止めの刃を胸に受けたとき、懐の鏡に切っ先があたり死を免れました。

この鏡は、文久3年に井上馨がロンドンに密航して留学した際に、井上馨が自分の小柄と交換した君尾の鏡でした。

井上馨がずっと肌身離さず持っていた君尾の鏡が命を救ったのでした。

 また、品川弥二郎とは、井上馨がロンドンに留学した後に、恋仲になりました。

 慶応4年に、新政府軍が江戸に向かう際に歌った「宮さん、宮さん、・・・」の「風流トコトンヤレ節」は品川の作詞といわれています。

 そして、作曲は大村益次郎とする説が有名ですが、曲をつけたのは君尾だとする説もあります。

また、錦の御旗の生地を品川弥二郎が君尾に買わせたという説もあります。

中西君尾は、品川との間に一子をもうけましたが、維新後も祇園で芸妓を続け大正7年に75歳でなくなっています。



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by wheatbaku | 2017-11-02 12:10 | 『幕末』 | Trackback
開陽丸沈没後の最強軍艦「甲鉄艦」

開陽丸沈没後の最強軍艦「甲鉄艦」

  昨日の「開陽丸」に続いて、今日は「甲鉄艦」について書きます。

「甲鉄艦」の前名は、「ストーンウォール」と呼ばれました。

このストーンウォールの前半生は数奇な運命をたどりました。

 ストーンウォールは、もともとは、アメリカの南北戦争当時、南軍がフランスに発注したもので、フランスのボルドーで建造された軍艦です。

しかし、フランス政府は、南軍への引き渡しを許しませんでした。

そこで、一旦スェーデンに売り渡され、その後、さらにデンマークに売却されまました。それから、南軍に渡されることになりました。そして、コペンハーゲンで南軍に渡されたた際に、「ストーンウォール」と名付けられました。

これは、南軍の猛将ジャクソン将軍のニックネームがストーンウォールであり、それにちなんでなづけられた名前でした。

その後、キューバを経てアメリカに到着したのは、南北戦争が終了した後でした。
 その頃、幕府は、軍艦を購入するため、小野友五郎を正使とした使節団をアメリカに派遣していました。
 小野友五郎(*小野友五郎については、江戸検お題テキスト『疾走!幕末・維新』でも触れられています)は、ワシントンの海軍工廠で、ストーンウォールを見つけ、これを購入したいとアメリカに要請します。

ストーンウォールをアメリカ海軍にとって不要であると判断したアメリカは、ストーンウォールを徳川幕府に売却することにしました。

 こうして、ストーンウォールが日本にやってくることになりました。

 しかし、ストーンウォールが、慶応4年4月2日に横浜に到着した時には、戊辰戦争が始まっていました。

この時、アメリカは局外中立を宣言し幕府への引き渡しを拒否しました。

一方、海軍力に劣る新政府側も、甲鉄艦の引き渡しを要求しましたが、アメリカはこの要求も拒み、甲鉄艦は横浜にしばらく繋留されたままとなっていました。

 甲鉄艦(ストーンウォール)は、木造の船ですが、重要な部分は5.6インチの厚い鉄板で装甲していました。また、13インチのアームストロング砲も装備していました。

その上、船首の水中に長さ6mの「ラム」と呼ばれる衝角(しょうかく:艦船の船首の水中部分に取り付けられる体当たり用の武装)を持った軍艦でした。

当時は、ほとんどの軍艦も木造船であったため、水面下にある衝角による体当たり攻撃で、相手の船腹に大穴を開けて沈没させることができました。
 また、装甲されているため、船体が重く、喫水線上が舷側が1.5メートルほどしかありませんでした。このため、後述する宮古湾海戦において回天から甲鉄艦に移乗する際に大きな高低差が生じて、回天からの移乗を困難にさせました。

 

ストーンウォールが新政府の手に引き渡されたのは、明治元年12月28日にアメリカが局外中立を解除した後の明治2年2月3日のことでした。

明治新政府に引き渡されたときに、ストーンウォールは「甲鉄艦」と名付けられました。「甲鉄」という名前は、装甲艦を意味した名前です。
 甲鉄艦が日本に引き渡された際には、すでに開陽丸が沈没していたため、当時、国内最強の軍艦でした。

甲鉄艦は、新政府海軍の旗艦となり、箱館に向かいました。

開陽丸を失い海軍力が一気に落ちた榎本武揚率いる旧幕府軍に対して、甲鉄艦を入手した新政府軍は一気に海軍力が高くなりました。

劣勢にたった旧幕府軍は、この形勢を挽回するために、甲鉄艦の奪取を計画しました。こうして起きたのが「宮古湾海戦」です。

旧幕府軍は、回天丸、蟠龍丸、高雄丸の三艦を軍艦を派遣し、アボルダージュ作戦と呼ばれる軍艦乗り移り戦法で、甲鉄艦を奪い取ろうとしました。

しかし、旧幕府海軍は再び悪天候に見舞われ、2艦が離散してしまい、回天のみで突入しましたが、失敗に終わりました。この宮古湾海戦については、お題テキスト『疾走!幕末・維新』に詳しく書かれています。

その後、甲鉄艦は青森に入港した後、箱館戦争に参加し、海上から新政府軍を支援するとともに、箱館総攻撃の際には、箱館湾から五稜郭を砲撃しました。

その威力はすさまじいものだったようです。この砲撃により、旧幕府軍の古屋作左衛門が重傷を負った後亡くなっています。

箱館戦争終了後、甲鉄艦は、明治4年に「東(あずま)」と改名し、明治21年まで、沿岸警備艦として活躍しました。


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by wheatbaku | 2017-11-01 17:04 | 『幕末』 | Trackback
最新鋭艦「開陽丸」

最新鋭艦「開陽丸」

 昨日まで『幕末・維新』を乗り切った商人について書いてきました。まだ書きたい人がいるのですが、幕末・維新の軍艦「開陽丸」と「甲鉄艦」についても江戸検前に書いておきたいので、今日は「開陽丸」について書きます。

 開陽丸は、当時、最新鋭の軍艦で、幕府海軍の旗艦として、新政府軍に無言の圧力をかけていましたが、蝦夷地江差沖で座礁沈没するという悲劇的な最期を遂げます。下記写真は、函館市立博物館に展示されていた開陽丸の模型です。

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幕府は、海軍力を強化するため、アメリカに2隻の軍艦を注文しました。しかし、アメリカで南北戦争が勃発したため、アメリカでの建造が困難になりました。

そこで、文久2年にオランダに軍艦1隻を注文することにしました。

その際に、造船技術の研究と軍艦建造の監督のため、留学生を一緒に送ることにしました。その留学生に選ばれたのが、榎本武揚、沢太郎左衛門、赤松大三郎などでした。

 この発注により建造された軍艦が開陽丸です。「開陽」とは「夜明け」という意味です。

 幕府からの注文は、最新鋭の軍艦を建造してほしいというものでした。

 完成した開陽丸は、400馬力、砲26門を装備した当時最強の新鋭艦でした。

 オランダで開陽丸の建造を指揮した海軍大臣は、長崎伝習所で榎本武揚たちを指導したことのあるカッテンディーケでした。そのため、慶応元年9月に行われた開陽丸の進水式も、オランダを挙げて盛大に行われました。

 完成した開陽丸には、榎本武揚ら9名の留学生が乗り組み、慶応2年12月にオランダを出発し、大西洋、アフリカ南端を通り、インド洋を経て、慶応3年4月に横浜に回航されてきました。

 この開陽丸が加わったことにより、幕府海軍は、諸藩に抜き出た強力な海軍となりました。

 この時、開陽丸の艦長に、榎本武揚、副長に沢太郎左衛門が任命されました。

 開陽丸は、鳥羽・伏見の戦いが勃発した際に、1月4日に阿波沖で、薩摩藩の「春日」と戦っています。これが日本における初めての洋式軍艦同士の海戦でした。
 そして、1月7日、艦長の榎本武揚が上陸している間に、徳川慶喜が、開陽丸に乗りこんできて、江戸に帰るよう指示されました。

しかし、副長の沢太郎左衛門は、榎本武揚の命令がないと出発できないと抗弁し、1日ほど、大坂湾内を航行して、榎本武揚の帰りを待ちましたが、いらだつ徳川慶喜が、沢を艦長に任命し出発を命じ、正月11日に品川に帰還しました。

 

 その後、4月11日の江戸城開城の際、榎本武揚は、開陽丸をはじめとする幕府海軍の引き渡しを拒み房総沖に脱走したものの、勝海舟の説得もあって、古い軍艦だけを新政府軍に引き渡し、開陽丸をはじめとした新鋭艦を保有し続けました。

 そして、8月19日に、榎本艦隊は、品川を発って北に向かいました。

 しかし、出航直後に暴風雨に襲われ、開陽丸も舵を壊され、8月26日にようやく仙台領に到着しました。

 9月15日仙台藩が降伏したため、榎本武揚は、さらに北上し蝦夷地をめざしました。

 明治元年10月20日に蝦夷地鷲ノ木に投錨し、翌日陸軍を上陸させ、開陽丸は、舵の修理を行った後、箱館港に入港します。

 旧幕府軍は松前城を奪取した後、江差へ進軍を開始し、その援護のために榎本武揚自らが開陽丸に乗船し、箱館を出港して江差沖へ向かい、1114日に江差沖に到着し、江差占領を支援しました。

しかし、翌15日夜、天候が急変し、開陽丸は座礁し、数日後に沈没してしました。

中公新書「大鳥圭介」(星亮一著)には、「開陽丸は本来であれば大事に扱うべきであったが、陸軍の大勝利につられて海軍も出動し、榎本武揚が動くほどのこともなかったにもかかわらず、不用意に自ら開陽丸丸に乗り出航させたことが、悲劇を招いた」と厳しい口調で書かれています。

 開陽丸の生涯は、当時、最新鋭の軍艦でしたが、日本に回航されてきて、わずか1年6か月ほどで沈没するという短いものでした。



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by wheatbaku | 2017-10-31 18:04 | 『幕末』 | Trackback
小野善助(幕末・維新を乗り切った商人たち⑦)

小野善助(幕末・維新を乗り切った商人たち⑦)

幕末・維新を乗り切った商人たちの第7回は、小野善助です。

小野善助は、お題テキスト「疾走!幕末・維新」でも取り上げられていませんので、ピンとくる人は少ないかもしれません。

王政復古により幕府を倒した薩長を中心とした新政府軍が大変困ったことがあります。それは、全国各地特に江戸以北の諸藩を従えるための差し向ける軍事費用です。王政復古が成功して新政府が樹立されても、その後の見通しがはっきりしないため、豪商たちは、新政府を支援するかどうか躊躇していました。

そうした中で、いち早く新政府支援を打ち出したのが、三野村利左衛門が率いる三井組、そして小野組、島田組でした。

この小野組の当主が小野善助です。

初代の小野善助包教は、万治元年(1658)に、近江国高島郡大溝(滋賀県高島町)に生まれたいわゆる近江商人でした。

小野善助は、万治年間ごろ盛岡に出て南部を本拠として奥羽物産と上方物産を取り扱っていた叔父の村井権兵衛をたより、元禄2年に盛岡に開店しました。

宝永年間に、京都に町家を求めて移住し、和糸・生絹・紅花・古手問屋ならびに両替業を開業し、京都小野本家を開いた。のち江戸にも開店し、安永5年に幕府の金銀御用達ともなりました。

初代以降、善助が小野家の京都本家の通り名となり明治期の8代まで続きました。

3代目政房のあと、長男包該が善助を相続し、次男・3男はそれぞれ助次郎家、又次郎家を新たにたてました。以後京都小野本家はこの三家連携で経営されました。

幕末・維新期の当主は8代目善助包賢で、糸・絹・古手・油などの商業活動を行っていました。

鳥羽伏見の戦いが始まる直前に、小野組は、三井組、島田組とともにそれぞれ2千両、戦いの後には1万両を献金しました。

いち早く、新政府側に立ったことになります。

明治新政府が発足すると、小野組は、三井組、島田組とともに、新政府の金穀出納所御用達となり、巨額の御用金を拠出し、為替方として公金を取り扱い、全国的規模で金融活動を繰り広げました。

明治5年には、三井組とともに三井小野組合銀行を創設しました。

これが、翌年第一国立銀行となりました。

生糸貿易に乗り出したほか、東京築地・前橋・福島・諏訪などの製糸場を経営しました。

さらに、釜石・院内・阿仁などの鉱山も経営し、事業を拡大して、三井組とともに繁栄しました。

しかし、経営が放漫であったことや小野組転籍事件により長州閥の恨みをかうことになり、破綻することになってしまいました。

 小野組転籍事件というのは、小野組が東京に本店を移動しようとした際に、京都府庁は、京都がさびれることから、転籍に反対しました。この反対の中心となったのは、長州閥の槇村正直第参事でした。小野組は、京都府を相手どり司法省に提訴し、勝訴しましたが、これにより長州閥の恨みをかうことになりました。

 また、明治政府は、為替方に対して、明治6年に政府から預かっている金額に対する担保の提供を命じることにしました。

 この方針に対して小野組は、担保提供が困難となり、破綻しました。

同じ時期に島田組も破綻しましたが、三井は、早めに対策を講じていて、破綻を免れました。三井は、事前に井上馨から情報を入手していたともいわれています。

井上馨は、長州出身で、「三井の番頭」とも揶揄(やゆ)されていましたので、三井には情報を流して助ける一方で、長州閥に恨みをかっていた小野組を助ける人はいなかったのかもしれません。




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by wheatbaku | 2017-10-29 20:06 | 『幕末』 | Trackback
大倉喜八郎(幕末・維新を乗り切った商人たち⑥)

大倉喜八郎(幕末・維新を乗り切った商人たち⑥)

 幕末・維新を乗り切った商人たちの第6回は、大倉喜八郎です。

 大倉喜八郎は、お題テキスト「「疾走!幕末・維新」では取り上げられていませんが、戊辰戦争と大きく関わりがあり、戊辰戦争の中で、商売に成功し、後に大倉財閥を作り上げましたので、取り上げておきます。

大倉喜八郎は、天保8年(1837)新潟県新発田の代々の大名主で苗字帯刀を許された家の三男として生まれました。

安政元年(1855)、江戸に出て、麻布の鰹節店に商売見習いとして3年間住み込み修行し、主人から養子になるように望まれましたが、独立して、下谷の摩利支天横町(現在のアメ横)に乾物店を開業しました。

乾物店を経営しながらも、新しい商売を見つけるため、喜八郎は横浜に向かいました。

大倉喜八郎は、横浜で黒船をみて、天下が一変することを予想し、その時に、「必ず戦争が始まり、戦が始まれば武器が必要になる」と考え、乾物屋をたたみ、八丁堀にあった小泉屋鉄砲店で鉄砲のことを修行した後、神田和泉橋通に「大倉銃砲店」を開業しました。慶応32月のことです。

戊辰戦争を目前に控えた時期で、洋式兵器の注文が、幕府や諸藩から大量に舞い込みました。

新政府軍が上野の山に立てこもった彰義隊を攻撃する前夜に大倉喜八郎は突然、彰義隊に連行され、新政府軍に鉄砲を売っていることを詰問されますが、それに対し「官軍は現金払いなので売ったまでです」と説明し、窮地を脱しました。

 また、箱館戦争の際に、弘前藩から、鉄砲の依頼がありました。ただし、代金はお米で払うとう申出でした。この時、大倉喜八郎は、「弘前藩」からの依頼に対して、「運試しにひとつやってみる。もしこれが失敗するようなことなら、自分に運がないのだと諦めるより以外にない」と考えいさぎよく引き受けました。

そして、自分の財産を残らず売り払って金にし、これで小銃2500挺と弾薬を整え、ドイツの帆船を雇って、それに鉄砲弾薬一切を積みこみ、自分もその船に乗り込んで青森にむけて出帆しました。

しかし、青森を目の前にして、風の方角がかわり、箱館に寄港せざるをえなくなりましたが、箱館は、当時、旧幕府軍が占領しており、発見されれば、武器を押収され、大倉喜八郎の命も危なくなるという危機に瀕しました。しかし、運よく、この危難も脱し、やっと青森に入港し、鉄砲を渡し米を受け取ることができました。

維新後は、明治5年に民間人としては初の欧米経済事情の視察に出発し、欧州滞在中に岩倉使節団と交流しています。帰国後の明治6年、大倉組商会を設立して海外貿易事業に乗り出しました。

 また、大倉喜八郎は、新橋駅建設工事の一部を請け負い、明治5年には銀座煉瓦街の建設工事の一部を請け負い、土木建築事業にも進出しています。

 その後、大倉喜八郎は、明治政府の御用達商人となり、台湾出兵、西南戦争、日清戦争、日露戦争の軍需物資調達で巨利を得ました。

この間、大倉組商会は合名会社大倉組に改組され、大正期には大倉商事、大倉鉱業、大倉土木の3社を事業の中核とする大倉財閥の体制を確立していきました。

なお、ホテルオークラは、大倉喜八郎の自宅に喜八郎死後に建てられたもので、隣接する大倉集古館も大倉喜八郎が設立したものです。

大倉喜八郎は、昭和3年に大腸がんのためなくなり、護国寺に眠っています。

下記写真が大倉喜八郎のお墓です。

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by wheatbaku | 2017-10-28 20:11 | 『幕末』 | Trackback
鴻池善右衛門幸富(幕末・維新を乗り切った商人たち⑤)

鴻池善右衛門幸富(幕末・維新を乗り切った商人たち⑤)

鴻池家の始祖は、戦国大名の尼子氏の忠臣であった山中鹿之助幸盛の長男新六直文であると言われています。

 新六は、慶長年間に摂津国鴻池村(現在の宝塚市)で酒造業を始めました。

鴻池村を本拠としたことから鴻池と名のったと言われています。

新六が改良したとされる酒は「諸白(もろはく)」と言われる清酒ですが、これは、新六の店の手代が叱責された腹いせに灰を投げ込んだことで、はじめてその製法が発見されたものであるとの言い伝えもあります。

やがて、新六は大坂市内の久宝寺町に店舗を設けて醸造・販売を営むようになりました。その後、海運業や両替商にも進出しました。

そして、鴻池村の本家と醸造事業は、新六の七男の新右衛門元英が継ぎました。

また、大坂の醸造・海運事業は、八男の善右衛門正成が引き継ぎ、それ以降代々の当主は善右衛門を名のりました。
 3代目善右衛門宗利の時に、醸造業や海運業から手を引き、両替商に重点を移しています。

幕末・維新期の鴻池の当主は10代目の鴻池善右衛門幸富です。

鴻池善右衛門幸富は、天保12(1841)、鴻池一族の山中又七郎家の長男に生まれ、弘化3(1846)、本家鴻池善右衛門家の養子となりますが、9代善右衛門幸実が早く没したため、嘉永4(1851)11歳で家督相続しました。

当時、鴻池家は、幕末維新の動乱期で、大名への貸付金の回収がままならないうえ、幕府からの御用金の要請が多額となるなど、経営困難に直面していました。

その中で、鴻池善右衛門幸富は、家業の維持に懸命に努力しました。

そうした中で、文久3年に結成された新選組を財政面で支えたのが鴻池であるとも言われています。

「新選組全史」(中村彰彦著)によれば、制服を作る金のなかった新選組は、文久374日 に、芹沢鴨らが鴻池善右衛門幸富を訪ね200両の借用を申し入れ無理やり借りてきました。この際に鴻池善右衛門幸富みずからが応待して200両を用立てたともいいます。
 この話を聞いた会津藩は芹沢鴨を呼びつけ、すぐに借金を返すよう命じたため、この借金は、すぐに鴻池に返済されました。
 (なお、お題テキスト「疾走!幕末・維新」には500両を鴻池から借りたと書いてあります。)
 この件が縁になって、鴻池と新選組は親しくなり、元治元年(1864)
正月、鴻池の屋敷に賊が押し入った際に、近藤勇の指示により土方歳三らが駆けつけ、その謝礼に近藤勇が銘刀・虎徹を鴻池から贈られたという話もあるそうです。(もっとも近藤勇の虎徹については諸説がありますので、これが事実かどうかは不確かのようです。)

 それからも鴻池と新選組の友好関係は続きます。
 箱館戦争で戦死した土方歳三の供養碑が函館市内の称名寺に供養碑を建立されていいますが、この供養碑は、鴻池の箱館支店の手代大和屋友次郎が中心となって建立されたとされています。
 この供養碑は、称名寺が明治になって3回の大火にあっているため、当時のものはありませんが、昭和48年に再建されたものが、箱館山中腹の称名寺現存して、8月に函館に行った際に訪ねてきました。(下写真参照)

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明治になると、大名貸の破綻により、鴻池は一気に経営危機に陥ります。しかし、鴻池善右衛門幸富は、外部から優秀な人物を招へいするなどして、経営危機を脱します。
 そして、第十三国立銀行の設立、日本生命の設立に参加する
など、家業の再生に努めました。

鴻池善右衛門が設立した第十三国立銀行は、鴻池銀行となり、さらに、鴻池銀行・三十四銀行・山口銀行の3行が合併し、三和銀行が創立されました。三和銀行は、UFJ銀行を経て、現在は三菱東京UFJ銀行となっています。



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by wheatbaku | 2017-10-27 23:49 | 『幕末』 | Trackback
浜口梧陵(幕末・維新を乗り切った商人たち④)

浜口梧陵(幕末・維新を乗り切った商人たち④)

 幕末・維新を乗り切った商人たちの第4回は、浜口梧陵です。

 浜口梧陵といえば、戦前の国定教科書にものった「稲むらの火」の主人公として有名です。

 昨年の江戸検のお題「天下大変、江戸の災害と復興」でも取り上げられたので、昨年江戸検を受検された方は覚えていると思います。

 この浜口梧陵が、今年のお題テキスト「疾走!幕末・維新」でも取り上げられています。


 浜口梧陵は、安政南海地震をきっかけとした災害復興や防災事業が大変有名ですが、そのほか、政治活動や公益事業にも力を注ぎ、近代日本の発展に大きな足跡を残しています。

浜口梧陵は、いまも続く銚子の醤油メーカーヤマサ醤油の7代目浜口儀兵衛のことです。

 浜口梧陵は、文政3年(1820)に紀伊国広村(現在の広川町)で浜口家の分家浜口七右衛門の長男、そして5代目浜口儀兵衛の孫として生まれました。

12歳の時、本家の養子となり、はじめて江戸を経て銚子に行き、家業に就きました。

22歳の時に、銚子で開業した蘭学医三宅艮斎と出会いました。
 この出会いにより、浜口梧陵の目は世界に向けられました。

三宅艮斎は、最初江戸で開業しようとしましたが、当時江戸では開業できなかったので、仕方なく、銚子へ下り開業し、そこで浜口梧陵と出会ったのです。

蘭学医と云えば、しばらく後の万延元年(1860)のことになりますが、佐藤泰然の佐倉順天堂で学び銚子で開業していた関寛斎が長崎に遊学しポンぺに学べるように支援したのも浜口梧陵です。

 31歳 の頃には、佐久間象山の門に出入りし西洋砲術を学んだといいます。この時に勝海舟と出会っています。

嘉永6年(1853)には、家督を相続し、7代浜口儀兵衛を襲名し家業に邁進しました。

この年の6月、日本を揺るがすペリー来航がありましたが、浜口梧陵は積極開国策を主張し、海外視察を願い出たともいいます。

翌安政元年(1854)11月、梧陵が広村に帰郷していた時、安政南海地震が起きました。この時、大津波が来ることを予知した浜口梧陵が、村民を避難させるため、田圃に積んであった収穫された稲束(稲むら)に火を投じて急を知らせ、村民の命を救いました。これが、「稲むらの火」に書かれた話です。

その後も、私財を投じて、故郷の復興のため、尽力しました。

安政5年、伊東玄朴らにより、江戸のお玉が池に種痘館が創立されましたが、半年後に種痘館が火災となり焼失しました。
 この時、浜口梧陵は種痘館再興のために3百両を寄付しています。種痘所の再建支援は、三宅艮斎からの要請によるものです。

翌年の安政6年、日米修好通商条約の批准書交換のための遣米使節の随行し、咸臨丸がアメリカに渡りましたが、この時、浜口梧陵は勝海舟から咸臨丸に乗船しアメリカにとこするよう誘われますが、安政2年から、銀94貫を費やして、築造を始めた堤防が築造途中であるなど広村の復興事業が途上であることを理由に断念しています。

 文久元年には、西洋医学所と改称された種痘館に、図書及び機械類の購入費のため更に400両を寄付しています。

明治になると、和歌山藩の勘定奉行などを経て、大久保利通の命を受けて中央政府にも招かれ、初代駅逓頭(えきていのかみ)にもなっています。駅逓は近代的な郵便制度を担当する部署でした。浜口梧陵は、近代的な郵便制度の確立に尽力し、口梧陵の後任の前島密により近代的郵便制度が創設されました。

明治12年には和歌山県議会初代議長に選任されました。

そして、明治18年、浜口梧陵の長年の願いであった欧米への視察途中、ニューヨークにて永眠しました。

浜口梧陵は、佐久間象山、勝海舟、福沢諭吉など多くの幕末・維新の有名人とも広い交流を持ちました。浜口梧陵の死後に建てられた顕彰碑「梧陵濱口君碑」の篆額と撰文は勝海舟の手によるものです。


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by wheatbaku | 2017-10-26 19:02 | 『幕末』 | Trackback
  

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