今日からは、江戸時代に有名であった一本桜についてご案内します。
渋谷の金王八幡宮「金王桜」、新宿柏木の円照寺「右衛門桜」、白山神社の「白山旗桜」は江戸時代に有名で、現在も後継樹が花を咲かせていますので、順にご案内します。
まず、最初は、
渋谷の金王(こんのう)八幡宮にある金王(こんのう)桜 です。
下の写真が、その金王桜です。今を盛りと一杯の花を咲かせています。
奥の工事の仮囲いが「ちょっと・・・」です。
【金王八幡宮は、人の名前から付けられたもの】
金王八幡宮は、源義家が、後三年役の勝利は河崎基家(渋谷の祖)の崇拝する八幡神の加護なりと渋谷城内に寛治6年(1092)に勧請したのがはじまりと由緒に書かれています。
また、基家の子、重家は堀河天皇から渋谷の姓を賜り、これが渋谷の地名の発祥とされているそうです。

重家には子がなく夫婦で金王八幡宮に祈願を続けていると、金剛夜叉明王が妻の胎内に宿る霊夢をみて立派な男子を授かりました。
そこで、その子に明王の上下二文字から「金王丸」と名付けました。
金王丸が17歳の時、源義朝に従って保元の乱(1156)で大功を立てました。
その義朝は平治の乱(1159)で敗れた尾張国野間で最期を遂げました。
金王丸は、京に上り常磐御前にこのことを報じた後、渋谷で剃髪、土佐坊昌俊と称して義朝の霊を弔いました。
そして、頼朝が挙兵した時には、金王八幡宮に参籠して平家追討の祈願をしました。
壇ノ浦の戦いの後、頼朝は義経に謀反の疑いをかけ、これを討つよう昌俊(金王丸)に命じました。
昌俊は断ることもできず、京都に上り、義経の館に討ち入り、立派な最期を遂げました。
金王八幡宮は、古くは単に八幡宮又は渋谷八幡宮と称してそうですが、渋谷金王丸の名声により、金王八幡宮と称されるようになったそうです。
【金王桜も、人の名前から付けられたもの】
金王桜は、、頼朝が金王丸の忠誠をしのんで名付けて植えたとされています。

文治5年(1189)7月7日 源頼朝が、金王八幡宮に太刀を奉納した際、父義朝に仕えた渋谷金王丸の忠節を偲び、金王丸の名を後世に残すべしと厳命し、鎌倉亀ヶ谷の館にあった憂忘桜をこの地に移植させ、金王桜と名付けたとされています。
金王桜は、チョウシュウヒザクラ(長州緋桜)という種類で、雄しべが花弁化したものも交じり、一枝に一重と八重が入り混じって咲く珍しい桜です。
現物をみて、最初は八重がよくわからなかったので社務所で聞いたら、宮司の奥様が丁寧におしえてくれました。
確かによく見ると八重(といっても6~7枚程度の花弁のもの)が一杯ありました。
写真の桜は花弁が6枚のものですが、わかりますでしょうか!
奥様の話では、今年の桜は、例年より白いそうです。確かに緋桜というには白すぎる色でした。
金王桜は、現在に至るまで代々実生より育て植え継がれているそうで、次代のものも近くに植えられていました。
【江戸名所花暦と芭蕉句碑】
金王桜について、しばしば引用する江戸名所花暦では
『渋谷八幡宮境内にあり。別当 東福寺。久寿(1154~1156)年中、源義朝、鎌倉亀ヶ谷の館に植えられし憂妄(ゆうもう)桜を金王丸にたまふ。領知渋谷にもて来たり、鎮守八幡のみづがきのほとりに植えるとあり』
と書かれています。
金王桜の下に、松尾芭蕉の句碑も建立されていました。
左の写真がそれです。
しばらくは 花のうえなる 月夜かな
【社殿・神門は春日局が寄進】
社殿及び神門は、慶長17年(西暦1612)の建立です。
3代将軍が家光と決まる以前、家光の乳母春日局と教育役であった青山伯耆守忠俊は大変心配して、この八幡宮に祈願を重ねました

。
家光が無事将軍となったことを神明の加護と喜んで、春日局と青山忠俊は金百両、材木多数を奉納して、社殿が造営されました。
それが現在の社殿と神門です。
江戸時代初期の建築様式を現在にとどめる、都内でも代表的な建物の一つとして、渋谷区指定文化財とされています。