カテゴリ:大河ドラマ( 137 )
家定と本寿院(大河ドラマ『西郷どん』⑯) 

家定と本寿院(大河ドラマ『西郷どん』⑯) 

 『西郷どん』第12回「運の強き姫君」では、篤姫の輿入れがようやく本決まりとなりました。

病弱な家定に輿入れすることが必ずしも幸福なことではないことを知っても毅然とし態度をとる篤姫、しかし、やはり悲しく思っていることが大地震の西郷とのやりとりで表現され、しかも、それを見せたのは一瞬で、すぐに立ち直るという描き方、今回の篤姫の描き方は非常に素晴らしかったと思います。

 篤姫が輿入れする徳川家定は、12代将軍徳川家慶の第九子として生まれました。

徳川家慶は、27人の子沢山でしたが、30歳まで成長したのは、徳川家定だけでした。

 家定は、幼名は政之助、後に家祥(いえさち)と名のりました。しかし、歴代将軍のうち扁のつく名前の将軍は、家綱・家継ですが、この二人の将軍には世嗣ができませんでしたので、縁起をかついで家祥から扁のない「定」を使用した家定と改名しました。
 しかし、家定には世嗣が授かりませんでした。

 家定は、子供だけでなく御台所にも恵まれませんでした。

家定は正室として鷹司政煕の娘任子(ただこ)を迎えましたが、疱瘡にかかり25歳でなくなりました。

次いで嘉永2年(1849)に迎えた一条忠良の娘秀子も、翌年26歳で亡くなってしまいました。

このように続けて御台所がなくなっていることから、『西郷どん』で、本寿院や家定が「健康で長生きできる人を!」という言葉になっています。

家定の母、本寿院は、徳川家慶の側室で、家慶が存命中は、お美津の方と呼ばれていました。 
 本寿院は、家慶が亡くなり剃髪した後の院号です。

本寿院は、家定がなくなった後も、慶応4年の江戸城開城の際に一橋邸に移るまで、江戸城に住んでいました。
 

 さて、後半では、安政の江戸地震も大きな事件として取り上げられていました。

安政年間(18541860)には,大きな地震が連続して起こりました。

安政元年(1854)11月4日の東海地震,翌5日の南海地震,そして、『西郷どん』で描かれた安政2年(1855)10月2日の江戸地震です。

安政の大地震とも呼ばれる安政の江戸地震は、安政2年10月2日午後10時頃,江戸を中心として起こった激震です。

安政年間に各地に頻発した地震のなかで最大の被害が江戸でおきました。

震源は東京湾北部,地震の規模はマグニチュード6.9~7.1と推定されている直下型地震です。

江戸は、下町を中心に甚大な被害を受け、死者は1万人以上と推定されています。

最も被害の大きかったのが、新吉原でした。地震が起きた時間が夜10時ですので、吉原では営業の真っ最中でした。この時間帯に地震とそれに伴う火災が発生し、多くの遊女とお客が亡くなりました。

将軍徳川家定は地震の時、 江戸城の吹上に避難して無事でしたが、西郷隆盛が訪ねたことのある水戸藩の藤田東湖が,このときに圧死しています。

これは、『西郷どん』でも紹介されていました。

高輪の薩摩藩邸は、建物などに甚大な被害を受けたため、篤姫は、渋谷の下屋敷に引っ越ししました。

翌年、篤姫は、渋谷の下屋敷から江戸城に輿入れしますが、渋谷の下屋敷から輿入れしたのは、こうした事情があります。


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by wheatbaku | 2018-03-27 18:41 | 大河ドラマ | Trackback
西郷隆盛と目黒のお不動様(大河ドラマ『西郷どん』⑮)

 西郷隆盛と目黒のお不動様(大河ドラマ『西郷どん』⑮)

京都に行っていたため、前回の『西郷どん』「斉彬暗殺」は見落としたので、土曜日の再放送を見ました。

島津斉彬の五男虎寿丸が亡くなり、島津斉彬自身も生死の境をさまよい、怒った西郷隆盛が島津斉興にまで直訴するという展開でした。

島津斉彬は、六男五女の子供がいましたが、男の子は、全員幼くして亡くなっています。
 最も大きくなった男の子が虎寿丸で、5歳でした。

その虎寿丸が、安政元年(1854)閏7月24日に亡くなりました。 

 その後、島津斉彬も意識不明の重態になってしまいました。

『西郷どん』では、これがヒ素によるものとなっていました。

 『島津斉彬』(芳即正著)、『島津斉彬公伝』(池田俊彦著)で調べましたが、この重病について詳しくは書いてありませんでした。

 この時、西郷隆盛が島津斉彬の病気回復を願ったのが、目黒のお不動様です。

 『島津斉彬公伝』(池田俊彦著)に載っている西郷隆盛が鹿児島の親友福島三太夫にあてて書いた手紙には、「御煩(わずら)い重う候ては、誠に暗の世に罷り成り候と、只、身の置く処を知らず候。只今、致し方御座無く、目黒の不動へ参詣致し、命に替えて祈願をこらし、昼夜祈り入り事に御座候」(フリガナや点を適宜追加しています)と書いています。

 下写真は、現在の目黒のお不動様の本堂です。

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 目黒のお不動様は、正式名称を龍泉寺といいます。

目黒不動尊は、第3代の天台座主となった慈覚大師円仁によって開かれた関東最古の不動霊場です。

龍泉寺と名付けられた経緯は次のような言い伝えがあります。

大同3年、15歳の慈覚大師は、伝教大師最澄のもとへ行く途上、目黒の地に立寄ったところ、不思議な夢を見ました。

 面色青黒く右手に降魔の剣を提げ左手に縛の縄を持つ大変恐ろしい形相の神人が枕元に現れて『我この地に迹を垂れ魔を伏し国を鎮めんと思ふなり。来って我を渇仰せん者には諸々の願ひを成就させん。』と告げられました。

 夢から覚めた後、慈覚大師自らがその御姿を彫刻したのが、御本尊の目黒不動明王です。
 お寺建立を決意された慈覚大師が、法具の独鈷(とっこ)を投じると、そこに泉が湧き出ました。
 そこから、この瀧は「独鈷の瀧」と名づけられ、この霊泉に因んで、寺号は「瀧泉寺」と名付けられました。下写真が独鈷の瀧です。

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西郷隆盛は主君島津斉彬の病気平癒のために日参したと目黒のお不動様にも伝えられています。
 西郷隆盛は、断食行を行ったとも、水垢離修行を行ったとも言われています。

「独鈷の瀧」の流れは、数十日間の炎天旱魃が続いても涸れることはなく、不動行者の水垢離場として利用されていましたので、西郷隆盛が、瀧に打たれたとすれば、独鈷の瀧に違いありません。
 下写真をよくみていただくと独鈷の瀧は瀧筋が二つあり、龍頭があるところから流れおちているのがわかるだろうと思います。現在も水勢は強く、たくさんの水が流れおちています。

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なお、明治になって、薩摩藩出身の東郷平八郎連合艦隊司令長官も日本海海戦の勝利を目黒のお不動様にお願いしています。



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by wheatbaku | 2018-03-26 16:54 | 大河ドラマ | Trackback
薩摩藩の老女幾島(大河ドラマ『西郷どん』⑭)

薩摩藩の老女幾島(大河ドラマ『西郷どん』⑭)

前回の『西郷どん』では、南野陽子さんが演じる幾島が出てきました。斎藤由貴さんの代替だそうですが、南野陽子さんの演技が光っていました。

 以前の大河ドラマ『篤姫』では、確か松坂慶子さんが演じていましたが、松坂さんの幾島に劣らずという感じです。これから大変楽しみです。

 そこで、今日は、その幾島という人がどういう人だったのか書いておきます。

 幾島は、『西郷どん』で描かれていたように、篤姫の教育係として、京都から呼ばれ、その後、篤姫とともに江戸城大奥に入り、島津斉彬の意をていして、大奥工作を行う人物です。

 幾島は、薩摩藩士朝倉景矩の娘として、文化5年(1808)に生まれました、

 朝倉景矩は、江戸及び大坂の留守居役をへて、最終は御側御用人となります。

 幾島は、13歳の時、島津斉宣の娘郁姫に仕え、郁姫が近衛忠煕に嫁いだ後は、藤田と名乗り京都で郁姫とともに過ごしました、

 しかし、嘉永3年(1850)に郁姫が33歳で亡くなると出家して得浄院となり、郁姫の菩提を弔っていました。

 そうした時に、篤姫が将軍家に輿入れするということになり、島津斉彬から篤姫の教育係として江戸に呼ばれ、幾島と名乗るようになりました。

 篤姫が安政3年(1856)に江戸城に入ったのちは、大奥に入り、篤姫を助けるとともに、西郷隆盛を介して、大奥の情報を島津斉彬に伝えていました。また、島津斉彬からの指示を西郷隆盛から受けて大奥工作を行っていました。

 幾島は、気性のすぐれた肝っ玉の太い女丈夫で、顔にコブがあることから、人々は蔭でコブ・コブと呼んで怖れていたそうです。

幾島は明治3年4月26日に63歳で東京で死去し、芝の大圓寺(東京)に葬られました。その後、鹿児島に改葬され、弟が建立した幾島の招魂墓は、現在は、鹿児島市内唐湊墓地にあるようです。

 この招魂墓に書かれている銘文が、『江戸女人の碑文』(柴田光彦著)に載っていましたので、それを参考して書いてみました。


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by wheatbaku | 2018-03-16 01:02 | 大河ドラマ | Trackback
篤姫の輿入れ(大河ドラマ『西郷どん』⑬)

篤姫の輿入れ(大河ドラマ『西郷どん』⑬)

 『西郷どん』第10回は「篤姫はどこへ」では、篤姫の輿入れ先が将軍家であることが島津斉彬から伝えられ、それから篤姫の特訓が始まりました。

 

 そこで、今日は、篤姫の輿入れについて書いてみます。

 篤姫(のちの天璋院)と13代将軍家定との縁組は、将軍継嗣問題で一橋慶喜を擁立しようと考えていた阿部正弘・島津斉彬や松平春嶽が考えたとされています。

当時、大奥は水戸の御隠居徳川斉昭を毛嫌いしていました、そのため、徳川斉昭の子供である一橋慶喜が将軍になることに強く反発して、一橋慶喜より紀州藩主徳川慶福を将軍になって欲しいという意見が主流でした・

そこで、篤姫を徳川家へ輿入れさせて、大奥内から働きかけて、一橋慶喜が将軍になれるようにしようと考えたとされていました。

島津家の修史事業に従事し、当時の事情を知っている元薩摩藩士市来四郎は

阿部正弘は、家定は病弱で大事なことは判断できないので、次期将軍は一橋慶喜になってもらおうと考えたが、これは表から申し上げることは難しいので、島津斉彬と相談して御台所から徐々に勧めてもらったほうがよいということになった

と篤姫輿入れの事情を述べています。

従来、私も、篤姫輿入れの経緯は、上記のようだと思っていました。

しかし、『島津斉彬』(芳即正著)では、「将軍家継嗣問題と篤姫縁組は本来無関係」というタイトルで事情を解説しています。

それによると、次のようです。

家定の正室は、最初鷹司家から輿入れしたが亡くなり、次いで一条家から輿入れした継室も亡くなってしまいました。これにこりた家定の実母本寿院が島津家から夫人を迎え入れたいと考え島津家に申し込みました。

島津家を候補先としたのは、55人もの子女をもうけた11代将軍家斉の正室広大院が島津家出身だったからです。

この時期は、島津斉彬が、藩主になる直前の嘉永3年の秋のことです。

藩主になった島津斉彬は、島津家に適当な候補者がいないことから、大奥からの縁談申し込みを受けた苦慮したようです。

しかし、島津斉興の従三位昇進を促進させるために役立つだろうと考え、島津忠剛の娘於一(おかつ)を島津斉彬の実子と届け出て縁組を進めました。

そして、安政3年12月18日に無事婚礼が終わり、将軍岳父となった島津斉彬は大廊下下の間詰を命じられました。

ちょうど、その頃、将軍継嗣問題が起こり、島津斉彬は、篤姫の結婚を、将軍継嗣問題に利用しようと考え始めました。

 芳即正先生は、「(将軍継嗣問題と篤姫の縁組は)紛れもなく単なる偶然の結果である」と本の中で、断言しています。

 私はなるほどなぁと思いました。読者の皆様はどう考えられますでしょうか?




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by wheatbaku | 2018-03-13 10:50 | 大河ドラマ | Trackback
薩摩藩邸(大河ドラマ『西郷どん』⑫)

薩摩藩邸(大河ドラマ『西郷どん』⑫)

薩摩藩の藩邸はたくさんあります。幕末には私が知っているだけで6か所あります。

そこで、今日は、江戸の薩摩藩邸についてご案内します。

三田藩邸(上屋敷)

『西郷どん』の時代の薩摩藩の上屋敷は、三田にありました。

西郷隆盛の孫となる西郷吉之助氏が書いた「薩摩屋敷跡」の石碑がNEC本社の敷地内にあります。

これが『西郷どん』の最後の「紀行」の中で放映されていましたね。

しかし、NEC本社は薩摩藩上屋敷の南のはずれで、薩摩藩上屋敷の中心は、NEC本社の北側にある三井住友信託銀行とセレスティンホテルの部分です。

三井住友信託銀行とセレスティンホテルの間の広場に、「芝さつまの道」と書かれた案内図があります。

上屋敷は、藩主がいる御屋敷ですので、島津斉興が藩主の時代には、島津斉興が住んでいました。そして、島津斉彬もここで生まれ、育ちました。

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高輪藩邸(中屋敷)

島津斉彬が生まれた際には、曾祖父島津重豪、祖父島津斉宣、父島津斉興と四代の藩主が江戸にいました。

 曾祖父島津重豪がいたのは、高輪の藩邸です、

現在の品川駅の目の前にありました。現在は、SHINAGAWA GOOS(シナガワグース)がある辺りです。

 以前は「ホテルパシフィック東京」でしたが、現在は、ビジネスホテルの「京急EXイン品川駅前」核テナントとした複合商業施設となっています。

幕末の慶応4年3月13日の西郷隆盛と勝海舟の江戸城無血開城に向けた第1回の話し合いが行われたのが、薩摩藩の高輪藩邸でした。

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田町蔵屋敷

西郷隆盛と勝海舟の江戸城無血開城に向けた第2回目の話し合いが行われたのが、田町の蔵屋敷だったと言われています。

「西郷南洲・勝海舟会見之地」と刻まれた石碑が建っています。

この文字も西郷吉之助氏の筆です。

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白金藩邸(中屋敷)

祖父島津斉宣がいたのは、白金の藩邸です。

現在は八芳園となっています。

幕末の切絵図を見ると、松平薩摩守の下屋敷となっているので、幕末には薩摩藩藩邸であったことがわかります。

ここは、明治の末には渋沢栄一の従兄弟の渋沢成一郎の屋敷となりました。

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装束屋敷

薩摩藩は、江戸城のそばにも御屋敷がありました。

現在の日比谷公園の東側でみずほ銀行の北側に、装束屋敷と呼ばれる屋敷がありました。

装束屋敷という名前は、琉球使節が江戸城に登城する際に、ここで装束を整えたことに由来するとされています。

 明治になって鹿鳴館が建てられたのが装束屋敷跡です。

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渋谷藩邸(下屋敷)

薩摩藩は、渋谷に下屋敷がありました。

幕末の切絵図によれば、金王八幡宮近くに「松平薩摩守」と記された屋敷があります。これが薩摩藩下屋敷です。

現在、薩摩藩下屋敷の面影を残すのは江戸時代に薩摩藩士が建てた常磐松の碑くらいです。

『西郷どん』で北川景子が演じている篤姫は、13代将軍家定と結婚しましたが、その際、渋谷の下屋敷から輿入れしています。

篤姫は、江戸に到着した際には三田藩邸に入りました。しかし、三田藩邸が安政の大地震で被災したため、渋谷に移り住んでいましたので、ここからの輿入れとなりました。

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by wheatbaku | 2018-03-06 22:50 | 大河ドラマ | Trackback(1)
西郷隆盛と藤田東湖(『西郷どん』⑪)

西郷隆盛と藤田東湖(『西郷どん』⑪)

西郷どん』第9回は「江戸のヒー様」でした。

「ヒー様」というのは誰なんだろうと予告編の段階から考えていましたが、まさか「一橋慶喜」のことだとは思いませんでした。 予想外の展開でした。

 安政元年(1854)いよいよ、西郷隆盛が島津斉彬に従って、江戸に参府することになりました。 この時、西郷隆盛は中小姓として江戸詰を命じられています。
 1月21日に鹿児島を出発して3月8日に江戸に到着しています。

 そして、到着して約1か月後の4月に「御庭方」に任じられています。

 御庭方は、表面的には御庭の管理をする役目ですが、常に藩主との接点があり、藩主からの特命事項や秘密事項をも取り扱う役目です。

 島津斉彬に、西郷隆盛を御庭方に推薦したのは、藩の儒学者の関勇助という人物だとも言われています。
 また、重野安繹(やすつぐ)によれば、御庭方は、西郷隆盛のために新設した役職であったと回想しています。

 この抜擢に、西郷隆盛は大変感激して、島津斉彬への忠誠を誓い、命をかけてお仕えすることを決意したようです。
 島津斉彬が西郷隆盛を知ったきっかけについて、西郷隆盛自身が、しばしば

 西郷隆盛の御庭方として初仕事は、『西郷どん』で描かられていたように水戸家への御用のようでした。

 ただし、大河ドラマのように、最初から徳川斉昭に面会できたかどうかはわかりません。

しかし、水戸藩の重臣藤田東湖とは安政元年4月10日に面会しています。

この最初の面会について西郷隆盛は、手紙の中で、「東湖先生の家を訪問すると清水に浴したような塩梅で、心中一点の曇霞なく、ただ清浄なる心になり、帰路を忘れてします」と感激しながら書いています。

その後も、しばしば藤田東湖を訪ねて感化を受けています。

その藤田東湖は、西郷隆盛が初めて面会した翌年の安政2年におきた安政の江戸地震の際に、逃げ遅れた母を庇うため、落ちてきた梁を受け止め圧死してしまいました。

この藤田東湖の死は西郷隆盛に大きな衝撃を与えました。

薩摩への手紙には「頓と此の限りにて何も申す口は御座なく候。」と書かれています。

大変なショックだったと思われます。
 なお、『西郷どん』には、藤田東湖は登場しないようですね。



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by wheatbaku | 2018-03-05 20:28 | 大河ドラマ | Trackback
西郷隆盛は涙もろい人だった(大河ドラマ『西郷どん』⑩)

 西郷隆盛は涙もろい人だった(大河ドラマ『西郷どん⓾)

『西郷どん』第8回は「不吉な嫁」でした。

 今回は、嘉永6年のペリー来航時の島津斉彬の対応、篤姫の江戸行の準備、そして、西郷隆盛の江戸行きが決まり、そのための旅費づくりに苦悩する西郷家の人々の姿などと描かれていましたが、「不吉な嫁」というタイトルとは異なり、西郷隆盛とその妻「須賀」との温かい心が伝わる素晴らしい展開だったと思います。 


 表面的な冷たい言葉と異なり、「須賀」は西郷隆盛の温かい心を知っていて、「須賀」がいる限り、西郷隆盛が江戸に行かないことがわかったため、あえて身を引く決意を固め離縁を通告する「須賀」、そして、それを怒る西郷家の人々、その中で、一人だけ「須賀」の気持ちを知って「ありがとう」とつぶやく西郷隆盛。なかなかの感動場面でした。

 もちろん、この展開は大河ドラマの話ですので、実際にこうしたやりとりがあったかどうかはわかりませんが、今回の『西郷どん』をみていて、思い出したのが、『西郷隆盛維新150年目の真実』(家近良樹著)に書かれていた西郷隆盛の涙もろさです。

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 家近先生によると西郷隆盛は、男は人前で涙を見せてはいけないという不文律があったであろう江戸時代に平気で涙を流せた男だったそうです。

そして、「西郷隆盛には、周りの眼や世間体を気にせず、素直に涙を流せるような一面があり、こうした人間らしさが、多くの部下や周囲の人物を強く惹き付ける一因となっただろうことは否定できない」と書いています。

 また、大隈重信は、西郷隆盛を評して、「非常に惰に脆い、涙弱い人」だったとも回想しているそうです。

家近先生は、こうした涙もろさが、西郷隆盛を「一人画然とした位置に立たせた大きな理由」だとしています。

 まさに、今回の『西郷どん』は、そうした西郷隆盛の姿が遺憾なく描かれていたと思います。


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by wheatbaku | 2018-02-26 19:24 | 大河ドラマ | Trackback
西郷隆盛の結婚(大河ドラマ『西郷どん』⑨)

西郷隆盛の結婚(大河ドラマ『西郷どん』)

昨日の『西郷どん』第7回「背中の母」では、西郷家の悲劇が描かれていました。

 西郷隆盛は、嘉永5年に、あいついで家族を失っています。
 祖父の龍右衛門、父吉兵衛、母まさと、連続してなくなりました。

 26歳の西郷隆盛は、一家の責任のすべてを負うことになり、後年、「自分の一生で最も悲しかったのはこの年である」と追憶させるほどの年でした。

 

 さて、今回の『西郷どん』では西郷隆盛の結婚も描かれているので、今日は西郷隆盛の結婚の話をさせてもらいます。

西郷隆盛は三度結婚をしています。

 最初の妻が、伊集院兼寛の娘です。『西郷どん』で「須賀」で呼ばれていましたが、『西郷隆盛』(田中惣五郎著)によれば、記録として名前は残っていないようです。

 西郷隆盛と結婚して、間もなく、次々と義理の父と母がなくなり、「須賀」」も大変だったと思います。さらに、西郷隆盛には大勢の弟や妹がいましたので、これらの小姑や小姑を相手にしたのですから、「須賀」の苦労が思いやられます。

 そのため、しばらくしてから、伊集院家から離縁の申し出があり、西郷隆盛はそれを受けざるをえませんでした。

 心優しい西郷隆盛は、のちのちまでこのことを気にかけていたそうです。

二番目が、西郷隆盛が、奄美大島に流されていた時の妻「愛加那」です。

『西郷どん』でも描かれると思いますが、西郷隆盛は、安政の大獄が始まると、幕府からの追及を逃れるため、薩摩藩は、西郷隆盛を奄美大島に島流しにします。

 この時、島妻となったのが「愛加那」です。「愛加那」とは穏やかな生活を送り、子供を2人もうけました。男の子が、明治になって京都市長となった菊次郎です。

 女の子は、菊子と名付けられています。

 西郷家は、肥後国の豪族菊池氏の子孫という伝承があるため、西郷隆盛は奄美大島では菊池源吾という変名を使っていました。子供の命名も菊池氏から菊の一字をつけたといわれています。

 しかし、西郷隆盛が、許された薩摩に戻った際に、「愛加那」は薩摩についていけませんでした。それが、当時の島妻のしきたりだったようです。
 子供たちは、のちに鹿児島の西郷家に引き取られています。

なお、林真理子の「西郷どん」の冒頭は、西郷菊次郎が京都市長に着任する場面です。



 三番目の妻が、『西郷どん』でしばしば登場している岩山糸子です。

 西郷隆盛と岩山糸子との結婚は、ずっ~と後の慶応元年のことで、西郷隆盛は39歳の時でした。

 岩山糸子は、岩山直温の次女として生まれました。そして、一度結婚をしていましたので、糸子も再婚ということになります。

 糸子との間には、3人の男の子を授かりました。

 寅太郎、午次郎、酉三です。それぞれ、生まれた年の干支が使用されているのでわかりやすい命名です。

 このうち、寅太郎が、西郷隆盛の嫡男となりました。

奄美大島で生まれた菊次郎のほうが年上ですが、庶子であったので寅太郎が嫡男となったようです。

 この寅太郎の子供が、参議院で法務大臣も務めた西郷吉之助氏です。

 現在も、田町にあるNEC本社の敷地内に「薩摩屋敷跡」と書かれた石碑がありますが、この文字を書いたのが西郷吉之助氏です。

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by wheatbaku | 2018-02-19 10:50 | 大河ドラマ | Trackback
ジョン万次郎と薩摩(大河ドラマ『西郷どん』⑧)

ジョン万次郎と薩摩(大河ドラマ『西郷どん』)

 『西郷どん』の第6回は「謎の漂流者」でした。タイトルの漂流者とは、ジョン万次郎のことでした。

そこで、今日は、ジョン万次郎と薩摩の関係について書いていきます。
 下写真は、雑司ヶ谷霊園にあるジョン万次郎のお墓です。
 墓表には中濱萬次郎を刻まれています。

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ジョン万次郎は、多くの人が御存知の通り、15歳の時に漁に出たところ暴風雨にあって遭難し、伊豆七島の一つ鳥島に流れつき、アメリカの捕鯨船にすくわれ,アメリカで教育を受け、捕鯨船の船員として暮らしていましたが、望郷の念が抑えきれず、ついに帰国することにします。

 そこで、ハワイで、上海行きの商船「サラ・ボイド号」に漁師仲間2人と共に乗り込みました。

嘉永4年(185112日、琉球近くまで来た段階で、琉球への上陸をめざし「アドベンチャー号」という小船に乗りこみ商船を離れました。

 翌日お昼頃、万次郎たちの乗ったボートは、無事、琉球の摩文仁の海岸に到着しました。

 海岸には、村人たちがいたので、比較的日本語を覚えていた漁師仲間の伝蔵を先頭に上陸しましたが、見慣れない姿の人間に驚いた村人の中でも、3人の日本語を理解した人がいて、ようやく話が通じました。

上陸した3人は、番所で簡単な取り調べを受け、那覇に送られることになりましたが、那覇の手前で、翁長(おなが)に留まることになりました。

翁長では、琉球王朝の役人による尋問が行われた後で薩摩藩の取り調べが行われました。

万次郎たちがいた屋敷の周りには竹囲いがされ軟禁状態でした。

しかし、待遇は非常に良くて、地元の人たちのとの交流も盛んに行われたようです。

『西郷どん』では、西郷家の人たちが、万次郎を歓待している場面がありましたが、あのような歓待ぶりだったのではないでしょうか。

そして、ジョン万次郎たちは、711日に那覇に行き薩摩に向かいました。

翁長には、約6か月滞在したことになります。

薩摩の山川港には、730日に到着し、翌日鹿児島に入港しました。

西田町下会所が宿舎とされました。

この段階までに、ジョン万次郎たちのことは、島津斉彬に報告されていて、島津斉彬からは丁重に処遇するよう指示がでていました。

万次郎は、島津斉彬からも呼び出されて、外国の事情を聞かれたこともありました。

『西郷どん』で描かれたいた通りだったと思います。

薩摩藩では、万次郎のもとに船大工たちを通わせ、「アドベンチャー号」や万次郎の情報を元に、洋式船のひな形を造りました。

このひな形をもとに薩摩藩では、試験的に日本初の小型洋式船をつくりました。この船は「越渡船(おっとせん)と呼ばれ、越通船は湾内での輸送用に使われました。

こうした、万次郎たちは、48日間、薩摩に滞在し厚遇された後、918日に長崎に送られました。

万次郎たちは、長崎でも取り調べを受けましたが、鹿児島での待遇とはうってかわり、罪人として牢屋に入れられました。

しかし、長崎での取り調べの最後に踏絵が行なわれ、万次郎たちは、帰国が許され無罪放免となり、嘉永56月に土佐藩に引き渡されました。

その後、万次郎は、土佐藩での取り調べも無事終わり、嘉永5105日、母親と無事再会を果たしました。

今回、ジョン万次郎を演じたのは劇団ひとりさんですが、たった1回の出演のため、劇団ひとりさんが演じるはずはないと思います。

ジョン万次郎は、のちに薩摩藩の開成所の教授となって、薩摩藩士の教育指導にあたっていますので、『西郷どん』では、西郷隆盛と再会場面があるのではないかと思います。



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by wheatbaku | 2018-02-12 18:59 | 大河ドラマ | Trackback
島津斉彬、初のお国入り(大河ドラマ『西郷どん』⑦)

 島津斉彬、初のお国入り(大河ドラマ『西郷どん』⑦)

『西郷どん』第5回「相撲じゃ!相撲じゃ!」では、島津斉彬がようやく藩主に就任し、初のお国入りを果たしたエピソードが描かれていました。

 そこで、今日は、島津斉彬の初のお国入りについて書いていきます。

島津斉彬は、嘉永4年(1851)2月2日に無事に薩摩藩主に就任しました。

そして、就任後まもない3月9日に江戸をたち、5月8日、藩主として初めてお国入りしました。

島津斉彬は、安政5年(1858)7月16日に亡くなっていますので、約7年間、藩主の座にありました。

その間、3回、薩摩にお国入りしていますが、嘉永4年のお国入りした際がもっとも長期間で嘉永5年8月23日に出発するまで、約1年4か月、薩摩に滞在しました。

その滞在期間中に、新藩主として、民生・勧業・造船・洋式産業など様々な施策に着手しています。

島津斉彬は、緊迫する海外情勢をみて、軍備の近代化が不可欠と考えていました。

そこで、嘉永4年には、洋式帆船をつくりはじめます。

これが実って、安政元年には、「伊呂波丸」と名付けられた洋式帆船が建造されました。

この技術をもとに、嘉永6年5月には軍艦の建造に着手することになります。

これが安政元年(1854)に完成し、安政2年には幕府に献上され「昇平丸」となります。

また、嘉永4年冬には、反射炉の雛形を作り始め、翌年夏には完成しています。

この反射炉は小型であったため温度が不十分で失敗でした。

そこで、斉彬は、磯邸に大反射炉を築造するよう命令し、嘉永6年に完成しました。

この反射炉築造をきっかけとして、磯邸に、近代的な工場群「集成館」ができることになります。

こうした新政策を進める一方で、島津斉彬は人事問題にほとんど手をつけませんでした。

島津斉彬の藩主就任にあたっては、お由羅騒動で、多くの藩士が切腹を命ぜられ遠島処分となりました。

斉彬が藩主に就任したからには、切腹を命じられた人たちの名誉回復や遠島処分になった人たちのご赦免があり、お由羅側にたった人たちの処分があるものと多くの藩士が思いました。

これらのことは「西郷どん」に描かれていた通りです。

しかし、斉彬は、こうした人事には手をつけませんでした。

これに対する、斉彬擁立を願った藩士からは不満が出るのは当たり前です。

このように、斉彬が人事に手をつけなかったのは、前藩主斉興の影があったからのようです。

お由羅騒動の処罰者が、許されるには、さらに数年が必要でした。大久保利通の父治右衛門が許されたのは安政2年(1855)のことになります。

なお、「西郷どん」に、北川景子さん演ずる「於一(おかつ)」(後の篤姫)が出ていました。

 於一(おかつ)は、島津家の分家である今和泉島津家の島津忠剛の長女として生まれました。

 島津忠剛は島津斉興の弟ですので、於一(おかつ)は島津斉彬の従妹ということになります。

 『島津斉彬』(芳即正著)によれば、12代将軍家慶の御世継家定の継室を、島津家からお願いしたいという話が将軍家からありました。

しかし、島津本家には、適当な女性がいませんでした。そこで分家の今和泉家の於一(おかつ)に白羽の矢があたり、於一(おかつ)を将軍家に輿入れさせようという話は、斉彬が初のお国入りをしたころに決まったようです。

 ただ、於一(おかつ)が、正式に島津斉彬の養女になるのは 嘉永6年のことです。
 「西郷どん」で描かれた時期よりは、もう少し後のことになります。



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by wheatbaku | 2018-02-06 17:43 | 大河ドラマ | Trackback
  

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