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カテゴリ:~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩( 103 )
箱根山(戸山公園)に登頂してきました。

箱根山(戸山公園)に登頂してきました。

(「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」

昨日は、毎日文化センターの「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」で新大久保駅をスタートして大久保周辺を散歩して、最後は山手線内で最高峰の箱根山まで登ってきました。 

 NHKの朝の天気予報では、午後は雷雨になるかもしれないという予報でしたので心配しながら出発しましたが、結果的には、雷雨にもあわず、快適な散歩となりました。

 ご参加いただいた皆さん、ありがとうございました。

昨日の散歩ルートは次の通りです。

新大久保駅 ⇒ 皆中稲荷神社 ⇒ 小泉八雲記念公園 ⇒ 小泉八雲終焉の地 ⇒ 稲荷鬼王神社 ⇒ 島崎藤村旧居跡 ⇒ 新宿イーストサイドスクエア(休憩) ⇒ 西向天神社 ⇒ 大聖院 ⇒ 抜弁天 ⇒ 戸山公園(箱根山) ⇒ 東新宿駅

皆中稲荷神社

皆中稲荷神社は、戦国時代の天文2年(1533)に創建された神社で、大久保の鎮守ですが、寛永年間、徳川幕府が鉄砲百人組の組屋敷が現在の新宿区百人町に置かれたことから、鉄砲百人組の人たちに篤く信仰されました。

 ある時、鉄砲組の与力が射撃の上達を祈願したらところ夢の中にお稲荷さんがでてきて、翌日、稲荷神社に参拝してから射撃を試みたところ百発百中、全て的中したそうです。他の隊士たちも、それにならって稲荷神社に祈願して射撃をすると百発百中で的中したため、皆中(みなあたる)ということから皆中稲荷神社とよばれるようになったと言われています。

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小泉八雲記念公園

明治時代の文人小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、明治29年から亡くなる明治37年まで新宿で暮らしていました。小泉八雲が没した旧居跡近くに小泉八雲記念公園が平成5年に造られました。小泉八雲記念公園は、ギリシア風の公園となっていて、ギリシア大使から寄贈された胸像もあります。近くの大久保小学校の校門脇には小泉八雲終焉の地の石碑も設置されています。下写真の中央奥に小泉八雲の胸像があります。

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稲荷鬼王神社

稲荷鬼王神社の創建はご由緒書によれば承応2年(1653)に大久保の氏神として稲荷神社が建てられ、その後、宝暦2年(1752)に当地の百姓・田中清右衛門によって、紀州熊野より勧請された鬼王権現を勧請し、天保2年(1831)に稲荷神社と合祀して「稲荷鬼王神社」となったとされています。

現在では、鬼王権現を祀っている神社は稲荷鬼王神社だけだそうです。

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《紅皿の墓》

西向天神社の北側にある大聖院の駐車場の中に、紅皿の墓があります。

紅皿という名前はあまり聞きなれない名前だと思いますが、紅皿は、太田道灌の山吹の里伝説にでてくる女性です。

 紅皿の墓の脇に設置されている教育委員会の説明板には次のように書かれています。「太田道灌の山吹の里伝説に登場する少女・紅皿の墓と伝承されている。(中略)道灌の死後、紅皿は尼となって大久保に庵を建て、死後その地に葬られたという。」 

その説明板を見ながら説明を聞く参加者の皆さんの様子が下写真です。写真の奥に、紅皿の墓があります。

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抜弁天

抜弁天は、交差点の名前として知られていますが、もともとは厳島神社の別名です。

抜弁天(厳島神社)は、応徳3年(1086)源義家が後三年の役で奥州征伐の途上この地に立ち寄り、遠く富士を望み安芸の厳島神社に勝利を祈願しました。奥州平定して京都に帰る途中、お礼のために厳島神社を創建したと伝えられます。

境内が南北に通り抜けでき、また源義家が多くの苦難を切り抜けたことにちなんで、抜弁天として多くの庶民から信仰されてきました。

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箱根山

散歩の最後は戸山公園にある箱根山です。

箱根山は、標高44.6メートルあり、山手線内で最高峰です。

箱根山がある都立戸山公園の一帯は、江戸時代、尾張藩の下屋敷がありました。当時は「戸山荘」と呼ばれ、約45万平方メートルの広大な敷地には御殿のほか、池や山がありました。尾張藩の戸山荘は、尾張藩2代藩主の徳川光友が築いたもので、池をつくるために掘った土を盛り上げて造った人工の山です。下写真の奥に写っている山が箱根山です。

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 ご参加いただいた皆さんありがとうございました。




by wheatbaku | 2019-06-09 13:31 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
上野公園を散歩してきました。(「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」)

上野公園を散歩してきました。(「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」)

昨日は、毎日文化センターの「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」で上野公園を、参加者の皆さんと一緒に散歩してきました。

 少し暑い程度の陽気で、上野公園は、大勢の行楽客や外国からの観光客ぐらいあふれていました。

 寛永寺の開山堂などは以前は拝観客などほとんどいませんでしたが、昨日はかなりの拝観客がいました。そうした中で、楽しく散歩することができました。下写真は、寛永寺開山堂で説明をきく参加者の皆様ですが、ご参加いただいた皆様ありがとうございました。

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昨日は、次のコースで散歩してきました。

国立西洋美術館 ⇒ 両大師・寛永寺旧本坊表門 ⇒ 根本中堂跡 ⇒ 旧因州屋敷表門 ⇒ 東照宮(大石鳥居、水舎門、燈籠、唐門、透塀、社殿) ⇒ 上野大仏 ⇒ 時の鐘 ⇒ 時忘れじの塔 ⇒ 清水観音堂 ⇒ 秋色桜 ⇒ 彰義隊の墓 ⇒ 西郷隆盛銅像 

 主なご案内ポイントをスナップで紹介します。

 最初のご案内場所は、世界遺産に登録されている国立西洋美術館です。設計者はフランス人のル・コレビュジエです。西洋美術館は、松方コレクションを所属するために建てられた美術館です。前庭には、「考える人」をはじめとするロダンの作品が展示されています。これらのロダンの作品は、すべて本物であると説明したところ、皆さんは大変喜んでいました。下写真は「考える人」を見る参加者の皆様です。

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寛永寺の本坊は、御住職が起居する場所でしたが、上野戦争で焼失してしまいました。その中で、唯一焼失を免れたのが表門です。明治になって、帝室博物館(現在の国立博物館)の表門として利用されたあと、博物館の建直しに伴い、開山堂の東側に移築されました。

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上野公園には、寛永寺本坊表門のほか、もう一つ立派な門があります。それが国立博物館の中にある旧因州池田屋敷表門です。池田家の上屋敷は、現在の丸の内にありました。明治になって、高輪にあった東宮御所の正門として使用されたあと、昭和29年に国立博物館に移築されたものです。鳥取藩は32万石でしたが、その格式に則った立派な門です。

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 上野の東照宮は、元々は藤堂高虎が寛永4年(1627)、自分の屋敷に創建したものです。 現在の社殿は、慶安4年(1651)、3代将軍家光が大規模に造り替えたものです。

 東照宮の大石鳥居は、寛永10年(1633)上州厩橋(現在の前橋)藩主で老中を勤めた酒井忠世が奉納したものです。この石鳥居は基礎工事が万全だったため、安政の大地震、関東大震災の折にも少しも傾かなかったことで有名です。

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東照宮の参道から、上野動物園にある五重塔が見えます。

この五重塔は寛永8年(1631)に、江戸幕府の老中で土井大炊頭利勝の寄進により、上野東照宮の塔として建てられました。しかし竣工の8年後の寛永16年(1639)の春に花見客の過失によって焼失してしまい、現在見ることのできる五重塔は、その年のうちに再建されたものです。明治になって、東照宮から寛永寺に移され、さらに寛永寺から東京都に寄付されたものです。

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上野では、慶応4515日、新政府軍と彰義隊の戦いが起きました。敗北した彰義隊の人々の遺骸を焼いた場所に建てられたのが彰義隊の墓です。政府をはばかって「戦死之墓」とだけ刻まれています。字は山岡鉄舟が揮毫したものです。

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最後に案内したのは、西郷隆盛の銅像です。上野のランドマークの西郷隆盛さんの銅像は、高村光雲と後藤貞行の二人のコンビにより製作されました。明治31年の序幕式で、西郷隆盛の糸子夫人が「うちのひとはこんなひとじゃなかった」とつぶやいたといわれていますので、その背景などを説明しました。

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 上野公園内だけの散歩でしたので、歩く距離は、あまり長くありませんでしたが、そのかわり、各所でじっくりと説明しましたので、終了したのは5時直前でした。

ご参加いただいた皆様ありがとうございました。







by wheatbaku | 2019-05-19 14:37 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
西新宿を散歩してきました!

西新宿を散歩してきました!

 昨日は、毎日文化センターの「~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩」があり、新宿駅から高層ビル群をみながら江戸の面影をさがして西新宿を散歩してきました。

 この間、寒い日が続いていましたが、昨日は、春らしい陽気で久しぶりの行楽日和となり、気分よく散歩できました。

 ご参加いただいた皆さん、ありがとうございました。

 下写真は、新宿駅方向を見ながら、新宿駅の歴史の説明を聞く参加者の皆さんです。

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 昨日、歩いたコースは次のようなコースです。

新宿駅 ⇒ 策(むち)の井跡 ⇒ 淀橋浄水場趾碑 ⇒ 常圓寺 ⇒ 成子天神社 ⇒ 新宿中央公園(休憩) ⇒ 熊野神社 ⇒ 十二社(じゅうにそう)の池跡 ⇒ 水道道路 ⇒ 韋駄天堂 ⇒ 箒銀杏 ⇒ 玉川上水跡(天神橋跡→勿来橋跡→玉川上水モニュメント→新町駅跡→千駄ヶ谷橋跡→葵橋跡)⇒ 新宿駅

 新宿駅西口は、高層ビルが立ち並んでいますので、高層ビル群が生まれた歴史が欠かせませんので、淀橋浄水場が建設された歴史と高層ビル群の歴史を説明しました。下写真は、高層ビル群をながめながら説明を聞く参加者の皆さんです。

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高層ビル群のおかげで、新宿駅西口には江戸の面影はなさそうに思いますが、探せば、あちこちにありました。その一つが「策(むち)の井跡」です。

 新宿駅西口には、美濃高須藩松平家の下屋敷がありました。

 高須藩松平家からは、高須四兄弟といわれる幕末に活躍した4人の人物すなわち徳川慶勝、一橋茂栄、松平容保、松平定敬が生まれた家ですが、四兄弟の父松平義建(よしたつ)は隠居後、下屋敷で悠々自適の生活をしていました。

 そんな高須藩下屋敷の名残りをとどめているのが、「策の井」です。下写真左手の植栽の中にモニュメントと説明板があります。

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 青梅街道に面して日蓮宗の常圓寺(じょうえんじ)があります。
 常圓寺には、11代将軍家斉の顔を写したという「感応胎蔵(かんのうはらごもり)の祖師像」が祖師堂に祀られていますし、名奉行の一人筒井政憲の尾お墓があります。下写真は感応胎蔵(かんのうはらごもり)の祖師像」が祀られている祖師堂の前で説明を聞く参加者の皆さんです。

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 成子天神社は、平安時代、九州の太宰府で菅原道真が亡くなったという報せを東国の地で受けた家臣の佐伯と斎宮は、その死を悲しみ、京から菅原道真の生前に彫られた像を柏木村に持ち帰りお祀りしたという歴史のある古い神社です。

 そんな古い歴史を誇る神社ですが、現在の御社殿は平成26年に造営された大変新しいものです。

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熊野神社は、江戸時代には、熊野十二所権現または十二社(じゅうにそう)といわれました。

熊野神社は、室町時代、中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州の熊野三山より十二社権現を勧請し祠ったものと伝えられます。

現在の拝殿は昭和9年に明治神宮が改築された時に、古材を譲りうけて建築したものです。

熊野神社の境内には、大田南畝の書のある水鉢やこの近辺の風景を讃えた十二社の碑をはじめ数多くの文化財が存在し、ミニ博物館として拝観できるようになっています。

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新宿ワシントンホテルの敷地の一画に韋駄天堂があり、韋駄天がお祀りされています。

 もともとは、この韋駄天堂は、上州館林の城主秋元但馬守礼朝の守護神として当初江戸浅草にお祀りされていた韋駄天に由来するものです。

韋駄天は足腰の護る仏様ですので、いつまでも足腰が健康で散歩できるようにとお願いをさせていただきました。

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散歩の最後は、玉川上水跡を散歩しました。

その途中の新宿文化クイントビルの前には、かつてここに、玉川上水が流れていたことを示す煉瓦造りのアーチのモニュメントがあります。

明治時代に新宿駅構内を通過していた玉川上水をイメージしながらモニュメントを見てもらいました。

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昨日の西新宿散歩も、参加者の皆さんのおかげで、大変楽しい散歩となりました。ご参加いただいた皆さん、ありがとうございました。



by wheatbaku | 2019-04-14 11:55 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
塙保己一の生涯(渋谷散歩⑩) 

塙保己一の生涯(渋谷散歩⑩) 

塙保己一史料館は塙保己一の業績を顕彰する役割も持っているようです。

史料館の玄関先には、塙保己一の銅像が設置されています。(下写真)

そこで、今日は、塙保己一の生涯を簡単に書いておきます。

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 塙保己一は、江戸時代中期の延享3年(1746)5月5日、武蔵国児玉郡保木野村(現在、埼玉県本庄市児玉町)に、父荻野宇兵衛、母きよの長男として生まれました。生まれつき丈夫な方ではなく、7歳の時、肝の病がもとで失明しました。

 宝暦10年(1760)、15歳の時に江戸に出て、雨富須賀一検校の門人となり、鍼・灸・按摩、琴・三味線などの手ほどきを受けました。

しかし、いっこうに上達せず、一年たった時、絶望から自殺を決意しました。しかし、直前に思いとどまり、当初よりの大願である学問をしたい旨を雨富検校に打ち明けました。

雨富検校は、保己一の願いを許してくれました。それから保己一は一心に学問に打ちこみ、それにつれ、按摩の腕も上がり、18歳で衆分という位にあがりました。この時に、生まれ故郷の保木野村から保木一と名のりました。

安永4年(1775)に勾当に進んだのを機に、師匠雨富検校の苗字をもらい塙姓を名乗り、名も保己一と改めました。本名の荻野を名のらず塙を名のったのは、当時、名古屋に平家琵琶の名人荻野智一という検校がいたため、荻野が名乗れなかったという事情があります。

保己一は、中国の文選という書物に「己を保ちて百年を安んず」という言葉あり、それからとったと言われています。

安永8年(1779)34歳の時、『群書類従』の編纂をはじめました。この事業によってわが国の貴重書が散逸から免れさすこととなりました。

 寛政5年、国史・律令の研究機関としての「和学講談所」の設立を幕府に願い出て許され、後に。林大学頭(述斎)の支配下におかれ、講談所は幕府の官学に準ずる機関となりました。

 生涯をかけた『群書類従』は文政2年(1817)、72歳の時に完成しました。

文政4年(1819)2月には、盲人の最高位である総検校となりました。総検校に就任したものの就任後まもなくの文政4年9月12日になくなりました。享年76歳でした。

お墓は、四谷の愛染院にあります。お墓には「前総検校塙先生之墓」と刻まれています。(下写真)

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塙保己一は、記憶力を養うため、毎日般若心経を100回読経、生涯で220万回読んだとも言われています。

また、現在使われている400字詰めの原稿用紙の形式は、塙保己一が「群書類聚」の出版事業を手掛ける際に考案されたものと言われています。







by wheatbaku | 2019-02-28 19:42 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
塙保己一史料館(温故学会会館)(渋谷散歩⑨) 

塙保己一史料館(温故学会会館)(渋谷散歩⑨) 

渋谷郷土資料館・文学館からあまり遠くない場所に塙保己一史料館(温故学会会館)があります。

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塙保己一史料館は温故学会が運営しています。温故学会は、塙保己一の業績を顕彰するため、明治42年に渋沢栄一らにより設立された公益社団法人です。

 保己一の精神である温故知新(論語・ふるきをたずねてあたらしきをしる)の趣旨に基づき活動するとともに、重要文化財指定の『群書類従』版木の保管、盲人福祉事業、各種啓発事業に努力しています。

温故学会会館(塙保己一史料館)は、昭和23月に建てられた建物で、会館は、平成124月文化庁より『登録有形文化財』に指定されました。(下写真は建物全景です)

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昭和124月には、三重苦の生涯をおくったヘレン・ケラーが温故学会を訪れています。

ヘレンケラーが訪れて、塙保己一の銅像に触れたという2階の講堂は、現在も当時のまま残こされています。

私たちが訪ねた際に、齊藤代表理事様が、塙保己一についてお話いただいたのが、ヘレンケラーが訪ねた場所だそうです。その話を聞いて大変感激しました。下写真は、講堂で参加者の皆さんにお話される齊藤代表理事様です。

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会館の倉庫には国重要文化財に指定されている「群書類従」の版木が1094枚保管されています。倉庫内は、依頼すれば見させていただけますし、写真撮影も可能です。下写真が倉庫内の様子ですが、両側の棚にぎっしりと積まれているのが板木です。その様子は壮観でした。

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なお、板木が保管されている倉庫は、耐火倉庫ではないため、火の元には大変気をつかっているそうです。

この板木を使用して、現在も印刷が可能だそうです。それを利用した和装本は一冊からでも販売しているそうです。

『群書類従』については、「ブリタニカ国際大百科事典」が大変詳しく書いていますので、「ブリタニカ国際大百科事典」より引用させてもらいます。

日本の古代から江戸時代初期にいたるまでの古書を集大成した叢書。編者は塙保己一を中心に,子の忠宝 (ただとみ) ,孫の忠韶 (ただつぐ) ,弟子の屋代弘賢 (やしろひろかた),黒川春村。正編は 1270種の文献を 530巻に,続編は 2103種の文献を 1150巻に収め,正続ともに神祇,帝王,補任,系譜,伝,官職,律令,公事,装束,文筆,消息,和歌,連歌,物語,日記,紀行,管絃,蹴鞠,鷹,遊戯,飲食,合戦,武家,釈家,雑の 25部に分れる。正編は安永8 (1779) 年に編纂に着手,文政2 (1819) 年に刊行された。(ブリタニカ国際大百科事典より)



by wheatbaku | 2019-02-25 19:41 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
薩摩藩下屋敷跡(渋谷散歩⑧)

薩摩藩下屋敷跡(渋谷散歩⑧)

 渋谷博物館・文学館の前あたりには幕末に薩摩藩下屋敷がありました。

 現在は、薩摩藩下屋敷の面影を残すものは「常盤松」の石碑だけです。

 下写真は、「常盤松」の石碑がある場所を写したものです。マンションの1階部分にあります。

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「渋谷区史」によると薩摩藩下屋敷が渋谷に設置された経緯は次のようです。

 薩摩藩下屋敷がある場所は、江戸時代初期の万治元年(1658)に大和柳本藩主織田源十郎秀一が拝領しました。

 その後時代が下がり、江戸時代後期の文化5年に、越後村上藩内藤家の深川清住町にあった下屋敷と相対替で、この屋敷が内藤家の屋敷となりました。

 この土地が、嘉永5年(1852)に相対替で薩摩藩の下屋敷となりました。

 さらに、内藤家の土地の一部は、幕府に上知され三根山藩牧野家を経て大和芝村藩織田家の下屋敷となっていました。薩摩藩島津家はその土地も相対替で入手しました。

 これで合計1万8千坪の広大な屋敷となりました。

 薩摩藩が、ここに下屋敷を構えたのは、芝の屋敷が海岸近くにあるため、外国船が襲撃してきた際には危険にさらされるため、その危険を避けるためでした。

 安政2年(1855)10月2日に、安政江戸地震が起き、三田藩邸、高輪屋敷、桜田屋敷も被害を受けました。一方、渋谷の下屋敷は、被害がほとんどなかったことから、翌日3日に奥はすべて渋谷に移ることになりました。

 その引っ越した奥一同の中に、天璋院(篤姫)もいました。

 天璋院(篤姫)は、家定に輿入れするために三田の藩邸に滞在していましたが、安政大地震に遭遇したため、渋谷の下屋敷に引っ越していました。

 篤姫が輿入れしたのは、安政江戸地震が起きてから、約1年後の安政3年11月11日のことでした。

 篤姫の輿入れの様子は宮尾登美子著「天璋院(篤姫)」には次のように描かれています。

『安政3年11月11日、その朝、これがおそらく見納めであろうと思われる、天球儀のある表書院で斉彬と篤姫は親子別れの盃ごとを執り行なった。

 女子一たび嫁しては再び帰らずという古訓にのっとり、熨斗はすべて結び切り、二度と同じ動作を繰返さず、そして次の間に下って将軍名代で御台所お迎えの役、大奥総取締滝山との挨拶が交わされたのち、いよいよ行列は出発となる。

 渋谷村から江戸城お広敷まで、先頭は滝山、続いて近衛家より母親役として下向した老女村岡、介添えの幾島のつぎに篤姫は朱塗鋲打ちの駕寵に乗り、その両脇に近衛家から篤姫付きとなった亀岡、花乃井が付従う。

 当日この道筋にあたる諸大名には通達が出され、篤姫通行並びに諸道具送りが屋敷の前を通過するときには、熨斗目麻上下着用の家来、羽織着用の足軽等、禄高に応じて相当の人数を差出し、見物人を払い、土下座して見送るよう、固く指示があった。

 この行列は陸続と続き、先頭が江戸城へ入ったあとでも、後尾はなお渋谷邸を出発しておらず、早朝から日没まで毎日毎日、人を送ったあとは調度品送りとなって、都合65日間続いたという。』

《常盤松の碑》

 島津家下屋敷には常盤松と呼ばれる銘木がありました。その常盤松があったはことを示す嘉永6年に島津藩士が建立した「常盤松の碑」(下写真)があります。現在では、この常盤松の碑だけが、この辺りが薩摩藩下屋敷であったことを示す唯一の名残りとなってしまいました。

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 常盤松の名前の由来には二説あります。

 一つは源義朝の側室であり義経の母である常盤御前が植えたからという説で、もう一つの説は世田谷城主吉良頼康の側室の常盤が植えたからという説です。

 渋谷金王丸は義朝・頼朝に仕えていたので、源氏と深い関係のある常盤御前がこの地に来て松を植えたということになったのだろうが、最初は常緑の松として常盤の松という名前で呼ばれていたものが、常盤御前の名前が当てられたのではないかと渋谷区史は書いています。

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 常盤松は金一千両と言われたとこの地に伝わっていることから、この松は銘木として評価が高かったようです。

 この常盤松は樹齢400年ほどの巨木でしたが惜しくも太平洋戦争で燃えてしまったそうです。
現在は、後継樹が植えられています。(上写真)

この常盤松にちなんで、昔は、常盤松町という町名がありましたが、現在は、常盤松小学校の名前にその面影が残されています。

  なお、常盤松之の碑設置場所の隣地は常陸宮邸ですが、昭和39年のご成婚以来の住居で、常陸宮邸の前には、皇太子明仁親王(当時)の御殿で、第二次世界大戦前までは東伏見宮邸でした。



by wheatbaku | 2019-02-22 19:53 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
松崎慊堂宅地跡 (渋谷散歩⑦)

松崎慊堂宅地跡(渋谷散歩⑦)

 今日は渋谷散歩の続きで、松崎慊堂宅地跡をご案内します。 
 前回ご案内した吸江寺の東に、渋谷区郷土博物館・文学館があります。(下写真)

 渋谷区の歴史・民族に関する展示のほか地下1階には渋谷区にゆかりのある作家の作品・資料などの展示がされています。

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 渋谷区郷土博物館・文学館がある場所は、江戸後期の有名な儒学者松崎慊堂(まつざきこうどう)の宅地だった場所です。

松崎慊堂は、熊本の百姓の子に生まれ16歳で江戸に出て、幕府の昌平黌に学びました。32歳のとき掛川藩に招かれ藩政に参画しました。

掛川藩は太田道濯の血を引く太田氏が藩主で、歴代老中など幕府の重職を担ってきた名門でしたが、藩校を新設しようという計画があり、松崎慊堂が招聘されました。掛川藩に仕えながらも、松崎慊堂は、林述斎を補佐して、朝鮮通信使と対応するなど行ない、その評価は大変高かいものでした。

しかし、文化11年(181444歳のときに、息子に跡を譲り隠居し、文化12年から、下渋谷村羽沢に石経山房(せっけいさんぼう)と名付けられた山荘を営み研究と門弟の教育に尽力し、弘化元年(1844)74歳で没しました。

『渋谷区史』によれば、松崎慊堂が亡くなったあと、その屋敷には、杉田玄白の孫杉田成卿が住んでいたこともあるようです。そうしたことは、渋谷郷土博物館・文学館の東側に建てられている渋谷区教育委員会の説明板にも書かれています。(下写真)

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松崎慊堂は、江戸時代後期の大学者として、知る人ぞ知る大学者です。

 その大学者としての松崎慊堂の名声を一層高めているのが、蛮社の獄(渡辺崋山・高野長英ら蘭学者に対する弾圧事件。蛮社とは蛮学社中の略)で逮捕された渡辺崋山の救援のために必死に奔走したことです。

そこで、松崎慊堂と渡辺崋山との関係についても触れてみたいと思います。

〔渡辺崋山救出に尽力した松崎慊堂〕

  渡辺崋山は、田原藩三宅家の海防掛も兼ねた家老でした。当時、海防問題は各藩とも大きな問題であり、特に田原藩は海に接した部分が長く、無視できませんでした。そのため、海防掛を拝命していた渡辺崋山は蘭学に興味を覚えたと言われています。

 渡辺崋山自身は蘭学の知識がなかったため蘭学の知識が深かった高野長英・小関三英らと交わるようになり、渡辺崋山はその蘭学グループのリーダーと目されるようになります。

 これに対して、当時目付であった鳥居耀蔵(のちに南町奉行となり鳥居甲斐守耀蔵と名のったことから「ようかい」とあだ名される)の策略により、政治批判と無人島渡航計画等の嫌疑で、天保10年(1839514日に逮捕されました。

 渡辺崋山逮捕の報に、崋山の知人は大変驚き、救援に尽力する人がいる一方で、崋山から遠ざかっていく人もいました。そうした中で、松崎慊堂は、高齢であるにもかかわらず、すぐに崋山救出に乗り出し、松崎慊堂の友人で渡辺崋山の師でもある佐藤一斎や事件の当事者ともいえる鳥居耀蔵訪ねています。しかし、鳥居耀蔵は告発の張本人ですので、当然良い返事をするはずもなく、佐藤一斎も積極的には動いた形跡はありません。

そうした状況の中で渡辺崋山に対して重罪が下される怖れがあると考えた松崎慊堂は、ついに時の最高実力者である老中水野忠邦に寛大な処置を嘆願した意見書を提出しました。

水野忠邦はこの意見書を熟読したといわれています。

一時は死罪も噂された渡辺崋山に対して出された判決は国許蟄居で、一命を取り留めることができました。渡辺崋山が死をまぬがれたのは、渡辺崋山を心配する人たちの救援活動の結果でしたが、その中心にいたのが松崎慊堂です。

渡辺崋山も松崎慊堂の尽力を知っており、赦免後松崎慊堂にあてた手紙にあわせて白羽二重と秩父絹を贈って深く感謝しています。

こうして助命された渡辺崋山は、地元田原に蟄居していましたが、天保12年(1841)、藩主に迷惑がかかることを怖れ自害しています。
 

赤印が渋谷区郷土博物館・文学館です。 
青印が吸江寺です。







by wheatbaku | 2019-02-20 16:56 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
板倉勝該の刃傷事件(吸江寺② 渋谷散歩⑥)

板倉勝該の刃傷事件(吸江寺② 渋谷散歩⑥)

 今日も、安中藩板倉家の菩提寺の吸江寺をご案内します。

吸江寺の板倉家の墓の前にある線香置きには、大きな家紋が刻まれています。

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 下写真がその拡大写真です。

 この家紋は、九曜巴(くようともえ)と呼ばれる家紋です。

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 この家紋を見間違えたことによっておきた江戸城内でおきた板倉勝該(かつかね)の刃傷事件についてお話します。

9代将軍徳川家重の時代の延享4年(1747年)815日、江戸城内での刃傷事件が起こりました。

その日は、月例拝賀の式日で総登城の日でしたが、熊本藩主細川宗孝が、旗本板倉勝該(かつかね)に殺害されたのです。

板倉勝該(かつかね)は城内で取り押さえられ取り調べが行われました。その結果、細川宗孝は板倉勝清と間違えて殺害されたことが判明しました。

板倉勝清は、安中藩板倉家の3代藩主でした。享保2年(1618)に家督を継いだ後、享保20年には、寺社奉行に就任していました。板倉勝清は、明和4年((1767)に西ノ丸老中となり、3年後は本丸老中に進んでいます。

板倉勝該(かつかね)は、下総国芳賀郡6千石を知行する板倉重浮(しげゆき)の息子として生まれました。

父の板倉重浮(しげゆき)は堀田正休の次男で板倉重大(しげもと)の養子となって板倉家を継いでいました。

板倉家を継いだのは兄の勝丘でしたが、勝丘が延享3年の12月に、亡くなったため、勝該(かつかね)が、あとを継ぎました。

しかし、板倉勝該(かつかね)には、性格的に問題があり、家内を治めていけないと思った安中藩主の板倉勝清が、板倉勝該(かつかね)を廃して、別の人物に後を継がせようとしました。それを知った勝該(かつかね)が勝清に恨みを抱き、勝清を亡きものにしようと斬りつけたと言われています。

 それでは、なぜ板倉勝清でなく、細川宗孝に斬りつけたかですが、それは板倉勝該が、背中にあったその家紋を見間違えて、宗孝に斬りかかったのでした。

 板倉家の家紋「九曜巴」紋が、細川家の家紋「九曜星紋」にそっくりだった事から、この日、背中にあったその家紋を見間違えて、宗孝に斬りかかったのでした。

 板倉勝該(かつかね)は、そのまま水野忠辰(ただとき)に預けられ、8日後の23日に切腹、改易となりました。

一方、細川家宗孝は未だ31歳の若さで、世継ぎもおらず、後継者も未定でした。後継者がいない場合には、改易となるため、その日のうちに、弟の細川重賢(しげかた)を養子に迎え、幕府に届け出ました。そして、翌16日になって、その死亡を届け出ました。

この事件以降、細川家では、それまで使っていた九曜星紋から、少し●の小さめデザインの家紋に変更し、さらに、それまでは、背中に一つ、両胸に二つ、両そでの前側に計5つ紋だったのを、背後からも見えやすいようにと、両そでの後ろ側にも家紋を配置した「7つ紋」の特別な物にしたと言われています。

この細川宗孝の後を継いだ細川重賢は、その後、熊本藩の藩政改革を実施し名君と呼ばれています。



by wheatbaku | 2019-02-15 18:59 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
吸江寺(渋谷散歩⑤)

吸江寺(渋谷散歩⑤)

 以前書き始めていた渋谷散歩に関する記事ですが、金王八幡宮関係記事で中断していましたので、再び書き始めたいと思います。

 今日は、安中藩板倉家の菩提寺の吸江寺をご案内します。

 吸江寺は、國學院大學の東側にあります。渋谷駅から歩くと15分ほどかかります。

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吸江寺は、臨済宗妙心寺派のお寺です。

はじめ正保年間、麻布桜田に草菴を営んでいた僧良金石潭に、板倉重宗の妻戸田氏(法名玉樹院殿宝林清月大姉-寛永8年没)が深く帰依して、慶安3年に開山したのが吸江寺です。

 元禄14年(1701)、下渋谷村に移りました。それが現在の吸江寺です。ご本尊様は観音様で渋谷区の有形文化財に指定されています。(下写真が本堂です)

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吸江寺では、安中藩板倉家の初代藩主板倉重形が中興開基とされています。板倉重形は、京都所司代をながく勤めた板倉重宗の次男です。長男の重郷の系統が板倉宗家とされています。板倉宗家は、延享元年(1744)には備中松山藩主となりましたが、幕末に15代将軍徳川慶喜を補佐した板倉勝静が有名です。

重形の系統は、安中藩を治めた後、陸奥泉藩、遠江相良藩と転封を繰り返した後、寛延2年(1749)に上野安中藩主となり、それ以降安中藩に定置し明治維新を迎えました。
 板倉重形が中興開基であることから、墓域には、板倉家のお墓があります。下写真の中央の墓碑は最近のものですが、その後ろには、藩主や正室などの墓碑があります。

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安中藩に関係する話題として安政遠足(あんせいとおあし)がありますので、これに触れておきます。

安中は日本のマラソン発祥の地と呼ばれています。

これは、安政2年(1855)安中藩主板倉勝明が藩士の鍛錬のため、藩士96人に安中城門から碓氷峠の熊野権現神社まで走らせました。これが安政遠足(あんせいとおあし)と呼ばれ、安政遠足は、日本におけるマラソンの発祥といわれ、安中城址には「安中藩安政遠足の碑」と「日本マラソン発祥の地」の石碑が建てられているそうです。

この時の時間や着順は重要視されていなくて、ゴールした者には餅などがふるまわれたといいます。 出発地点とゴール地点の距離は約30キロメートルあり、標高差は1000メートル以上あります。

 この安政遠足(とおあし)を指示した板倉勝明(かつあきら)は、上野安中藩の第5代藩主です。板倉勝明は、第4代藩主板倉勝尚の長男として生まれ、文政3年(18201027日、父の死去により11歳で家督を継ぎました。安政4年(1857410日に享年49歳でなくなり、弟で養子の勝殷(かつまさ)が跡を継ぎました。

板倉勝明は愛知県西尾市長円寺に眠っていますが、父親の板倉勝尚と次の藩主勝殷は吸江寺に眠っています。


これをもとにした小説が土橋 章宏の「幕末 まらそん侍」です。

この小説を原作として映画『サムライ マラソン』が2019年2月22日つまりまもなく公開されます。主演佐藤健、監督はハリウッドのバーナード・ローズ。プロデューサーは『ラストエンペラー』のジェレミー・トーマスです。
まもなく公開されますが、原作がとてもおもしろかったので映画も観に行く予定です。


赤印が吸江寺です。





by wheatbaku | 2019-02-13 13:20 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
樋口一葉旧居跡(鶯谷散歩④)

樋口一葉旧居跡(鶯谷散歩④)

鶯谷散歩、今日は、樋口一葉旧居跡をご案内します。

樋口一葉旧居跡は鷲神社から北へ4~5分行った場所にあります。東京メトロ三ノ輪駅1a番出口からは5~6分で行きます。

樋口一葉は明治26年(1893720日、母と妹と共に本郷菊坂町より下谷龍泉寺368番地に移り住みました。

引っ越し先は瓦葺平屋の二軒長屋で、隣は人力車夫が住んでいました。そこで、86日から荒物雑貨・駄菓子店を開業しました。

一葉は商売のかたわら暇を見つけては、上野の図書館に通ったり、さりげなく吉原見物をしたり、店に来る子供達を観察していました。

その経験を活かして書かれた小説が名作「たけくらべ」です。

しかし、商売の方は振るわず、樋口一葉は店を閉じ、明治2751日に本郷丸山福山町四番地へ転居しました。

転居した後に、龍泉寺界隈を背景にして書かれたのが名作「たけくらべ」で、明治281月から『文學界』に連載されました。

「樋口一葉旧居跡」と刻まれた石碑の脇に台東区教育委員会の説明板が建てられています。(下写真)

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その説明板によれば、碑が建っている位置は、「一葉宅の左隣り酒屋の跡にて、一葉と同番地の西端に近く碑より東方6メートルが旧居に当る」そうです。

 一葉は日記「塵の中」で、「此家は、下谷よりよし原がよひの只一筋の道」と書いていますので、当時は前の道路は吉原に向かうメイン道路で、「茶屋町通り」と呼ばれていました。

 下谷方面から、吉原に向かう際には、大門が反対側にあるため、茶屋町通りを通ってお歯黒溝に沿って半周する形になります。

 「たけくらべ」の冒頭は「回れば大門の見返り柳いと長けれど」で始まりますが、樋口一葉がいた家からは大門に向かうには、吉原遊郭をグル~と回ることになりますので、こうした表現になったという説があるそうです。

 

 また、一葉はこのあたりを「鶉なく聲もきこえて花すヽき まねく野末の夕べさびしも」と和歌に詠んでいますが、この和歌で当時の竜泉寺町の様子がわかります。

赤印が樋口一葉旧居跡です。 
紫印が飛不動です。青印が鷲神社です。





by wheatbaku | 2019-02-04 13:46 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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