カテゴリ:~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩( 89 )
金王八幡宮④渋谷川支流の面影(渋谷散歩④)

金王八幡宮④渋谷川支流の面影(渋谷散歩④)

 前回紹介した金王八幡宮の宝物館の中に、中世の頃の渋谷城の模型が置いてあります。下写真がその模型です。

c0187004_21031841.jpg

 左側の大きな流れが渋谷川です。渋谷川が渋谷城の西側の重要な防御ラインとなっていました。

 渋谷川があることが渋谷城が金王八幡宮の場所に築かれた大きな要因と考えられます。

 

 さらに、模型をみると渋谷城の防御ラインは渋谷川だけでないことがわかります。それは、渋谷城の手前にある小さいな川です。これも渋谷城を護る防御ラインとなっています。

 しかし、現在は、金王八幡宮の神門の前は、アスファルト舗装されていて、小さな川の面影など、まったくありません。(下写真)

c0187004_21031337.jpg

しかし、昭和30年頃まで、門前には小さな川が流れていました。この小さな流れは、「黒鍬谷」と呼ばれる谷間を流れる渋谷川の支流で金王八幡宮の周りを流れてから渋谷川に合流していました。
渋谷城があった頃は、この流れが、渋谷城の掘割としての機能を持っていました。

そして、その川には、太鼓橋が架けられていました。それを写した古写真も残されています。

小さな川に架かっていた太鼓橋の一部が金王八幡宮境内に残されています。

手水舎の手前にある5つの石材がそれです。写真左が手水舎になります。

c0187004_21030592.jpg
 

 なお、上流の青山学院大学の西側辺りに、江戸時代に「黒鍬者」の屋敷がありましたが、その屋敷の近くにあった谷であるため『黒鍬谷』と呼ばれています。

「黒鍬者」と呼ばれる人たちは、江戸城内の土木工事や建築工事、荷物の運搬などを担当し、将軍の遠出の際にも雑用のためお供する幕府の下級役人です。








by wheatbaku | 2019-01-17 21:00 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
金王八幡宮③「宝物館」(渋谷散歩③)

金王八幡宮③「宝物館」(渋谷散歩③)

 金王八幡宮の社殿の右手に社務所があり、そこに併設されている宝物館はかなり充実しています。今日は宝物館に展示されているものの中で代表的なものだけを紹介します。

《神輿と鳳輦》

宝物館の中央には、神輿と鳳輦が飾られています。下写真の手前が神輿で奥が鳳輦です。

c0187004_18163105.jpg

金王八幡宮の神輿は、作者は不明なものの鎌倉時代のもので、都内最古の神輿だそうです。この神輿は、江戸時代の初期に、金王八幡宮の氏子であった青山百人組の人たちが鎌倉八幡宮の祭礼に参詣した際、鎌倉から担いできて、金王八幡宮に奉納したものです。この神輿を追ってきた人々は、途中で日が暮れたため神輿を見失ってしまったと言われ、その場所は「暗闇坂」と呼ばれているそうです。

鳳輦は、昭和31年に新調したもので、9月の例大祭には氏子地域を渡御します。

《算額》   

金王八幡宮の宝物殿には三面の算額が展示されています。

算額は数学の問題が書かれた絵馬のことで、江戸時代になってから神社仏閣に奉納されるようになりました。

金王八幡宮の算額は、幕末に奉納されたもので、今でも図形が鮮やかで美しい算額です。金王八幡宮の算額の難易度は高校レベルだそうです。

①嘉永3年(1850)5月に、中渋谷村の海老澤摠右衛門正泰が奉納した数列の問題を出題した算額です。

c0187004_18162699.jpg

②安政6年(1859)4月に、関流の伊予国西條藩の藩士山本庸三郎貴隆が奉納された算額で、問題は3問あります。

c0187004_18162297.jpg

③元治元年(1864)に、関流の野口富太郎貞則が奉納した扇形の算額です。扇形の算額は珍しいものです。

c0187004_18161789.jpg


冲方丁(うぶかたとう)の時代小説「天地明察」に金王八幡宮が登場します。
 「天地明察」は江戸時代の天文学者渋川春海の改暦事業を題材にした小説で、岡田准一主演で映画化もされました。

小説で、渋川春海は金王八幡宮に奉納されている算額を通して、和算家の関孝和を知ることになりますが、金王八幡宮は算額が奉納されることで有名な神社として描かれています。

「天地明察」を機に算額に興味をもった読者が大勢金王八幡宮に参詣するようになったそうですが、渋川春海が金王八幡宮に算額を奉納した記録はないそうです。

《東郷実氏奉納の額》

渋谷氏の子孫は全国各地に広がっていますが、薩摩にも鎌倉時代に渋谷氏が下向し、東郷氏、祁答院氏、鶴田氏、入来院氏、高城氏の一族がいます。有名な東郷平八郎元帥も渋谷氏の子孫の一人です

その東郷平八郎元帥の二男で海軍少将まで昇進した東郷実氏が奉納した額が宝物館に展示されています。

c0187004_18160958.jpg


by wheatbaku | 2019-01-14 18:11 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
金王八幡宮②「金王丸」(渋谷散歩②)

金王八幡宮②「金王丸」(渋谷散歩②)


渋谷散歩の2回目ですが、今日も金王八幡宮について説明します。

金王八幡宮は、古い昔は単に八幡宮又は渋谷八幡宮と言われていましたが、渋谷金王丸の名声が高いことから、金王八幡宮と呼ばれるようになりました。それでは、金王丸とはどういう人物かからお話します。

c0187004_20025249.jpg

《金王丸》

 金王八幡宮という名前は、渋谷金王丸という人物に由来するものです。

 渋谷金王丸についても諸説がありますが、金王八幡宮の由緒によると次のようです。

渋谷金王丸常光(こんのうまるつねみつ)は、渋谷重家の子です。

渋谷重家には子がなく夫婦で金王八幡宮に祈願を続けていると、金剛夜叉明王が妻の胎内に宿る霊夢をみて立派な男子を授かりました。そこで、その子に明王の上下二文字を戴き「金王丸」と名付けました。

金王丸が17歳の時、源義朝に従って保元の乱で手柄を立て、その名を轟かせました。

その後の平治の乱では義朝は敗れ、東国に下る途中立ち寄った尾張国野間であえない最期を遂げました。金王丸は、京に上り常磐御前にこのことを報じたのち渋谷で剃髪し、土佐坊昌俊(しょうしゅん)と称して義朝の御霊を弔いました。

金王丸は、義朝の子である頼朝との交わりも深く、頼朝が挙兵する際は、密かに金王八幡宮に参籠して平家追討の祈願をしました。

 平家滅亡後、源頼朝は源義経に謀反の疑いをかけ、これを討つよう土佐坊昌俊(金王丸)に命じました。土佐坊昌俊は断ることもできず、文治元年(1185)10月、百騎ばかりを率いて京都に上り、同月23日夜義経の館に討ち入りました。しかし、土佐坊昌俊は、はじめから義経を討つ考えはなく、捕らえられて勇将らしい立派な最期を遂げました。

金王丸は、「平治物語」に書かれているだけでなく、土佐坊昌俊として「平家物語」、「源平盛衰記」、「吾妻鏡」などに書かれています。さらに、金王丸のゆかりの地は、全国に広がってありますので、鎌倉時代には、金王丸という人物は、かなり有名人だったと考えられます。

《金王丸御影堂》

金王八幡宮の境内にある金王丸御影堂には、金王丸が17歳で出陣の折、自分の姿を彫刻し母に形見として残した木像が納められています。金王丸の木像は、3月最終土曜日に斎行される金王丸祭で御影堂の開帳があり、特別公開されます。

c0187004_20032091.jpg

《金王桜》  

本殿向かって左手にある金王桜(下写真)は、渋谷区指定天然記念物で、長州緋桜という種類で、雄しべが花弁化したものも交じり、一枝に一重と八重が入り混じって咲く珍しい桜です。

c0187004_20024621.jpg

 金王八幡宮の「社傳記」によれば、文治5年(1189)7月7日 源頼朝が藤原泰衡退治の下向の時、渋谷高重の館に立ち寄り当神社に太刀を奉納しました。その際金王丸御影堂へ参り、父義朝に仕えた渋谷金王丸の忠節を偲び、金王丸の名を後世に残すべしと厳命し、鎌倉亀ヶ谷の館にあった憂忘桜をこの地に移植させ、金王桜と名付けたとされています。

また、江戸時代盛んに作られた地誌にも紹介されており、江戸三名桜の一つに数えられました。金王桜は、現在に至るまで代々実生より育て植え継がれ、守り伝えられています。

なお、傍らには、松尾芭蕉の句碑も建立されています。(下写真)

 しばらくは 花のうえなる 月夜かな

c0187004_20001998.jpg




by wheatbaku | 2019-01-11 19:58 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
金王八幡宮(渋谷散歩①)

金王八幡宮(渋谷散歩①)


代々木駅からの散歩については、前回で一区切りとして、今日からは昨年9月に行った毎日文化センターの渋谷駅からの江戸散歩で訪れた史跡についてご案内します。

 その時のコースは次のようなコースで、渋谷駅から南西方向の文教地区にある史跡を散歩しました。

渋谷駅 ⇒ 金王八幡宮 ⇒  八幡通り(鎌倉街道跡) ⇒ 國学院大学博物館 ⇒ 吸江寺 ⇒ 塙保己一史料館 ⇒ 渋谷区郷土博物館 ⇒ 常盤松碑(薩摩藩下屋敷跡) ⇒ 並木橋(鎌倉街道跡)⇒ 渋谷駅  


 今日は、まず、金王八幡宮についてご案内します。

c0187004_20165452.jpg
 金王八幡宮は、渋谷駅から徒歩約7分の所にあります。しかし、金王八幡宮は江戸城の方向つまり東側を向いているため、渋谷駅から歩いていくと裏側から入ることになります。上写真が渋谷駅側の鳥居です


金王八幡宮は、渋谷・青山の総鎮守で、金王八幡宮の社殿(下写真)は、慶長17年(1612)の建立された大変歴史のあるものです。

c0187004_20171589.jpg

徳川家光は徳川秀忠とお江(崇源院)の間に生まれましたが、両親の愛情は弟の徳川忠長に注がれて、3代将軍は徳川忠長のほうが有力でした。

そのため、家光の乳母春日局、さらい家光の教育役であった青山伯耆守忠俊は大変心配して、青山伯耆守忠俊は熱心に金王八幡宮に祈願し、春日局は祈願料80両を奉納しました。

その後、春日局の徳川家康への直訴もあり、家光が次期将軍と決ったので、祈願成就の礼として社殿と門が造営されました。青山伯耆守は材木を奉納し、春日局は金100両を寄進しています。

拝殿正面左には虎、右側に獏の彫刻が彫られています。

c0187004_20154302.jpg
c0187004_20153193.jpg

金王八幡宮の神門の建立年代は、明確ではありませんが、明和6年(1769)建立と書いた資料もあることから明和6年(1769)建立説と享保元年(1801)に丹波篠山藩青山忠裕から金150両の寄進があり建物が修理されていることから享和元年(1801)に造られたとする二説があります。

c0187004_20152477.jpg

金王八幡宮の御由緒は社伝によると次のようです。

金王八幡宮は平安時代中期の寛治6年(1092)鎮座したとされています。

桓武天皇の曽孫である高望王の後裔で秩父別当平武基は源頼信による平忠常の乱平定において功を立て、軍用八旒の旗を賜り、その内の日月二旒を秩父の妙見山に納め八幡宮と崇め奉りました。

武基の子武綱は、嫡子重家と共に後三年の役の源義家の軍に300騎余を従え1番で参向し、仙北金沢の柵を攻略しました。その大功により名を河崎土佐守基家と賜り武蔵谷盛庄を賜りました。義家は、この勝利は基家の信奉する八幡神の加護なりと、基家が拝持する妙見山の月旗を乞い求め、この地に八幡宮を勧請しました。

c0187004_20151349.jpg

重家の代となり禁裏の賊を退治したことにより堀河天皇より渋谷の姓を賜り、金王八幡宮を中心に館を構え居城としました。これが渋谷の発祥ともいわれ、現在も境内に渋谷城砦の石が保存されています。(下写真)

渋谷氏は代々金王八幡宮を氏族の鎮守と崇めました。

c0187004_20150683.jpg

赤印が金王八幡宮です。





by wheatbaku | 2019-01-09 20:11 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
福泉寺と斎藤弥九郎の墓(代々木散歩⑦)

福泉寺と斎藤弥九郎の墓(代々木散歩⑦)


 今日は、福泉寺についてご案内します。

 福泉寺は、江戸時代、代々木八幡宮の別当寺でした。

 そのため、福泉寺は代々木八幡宮の参道の東側に接してあり、代々木八幡宮の参道からお参りできます。戦前に建てた本堂が昭和20年の戦災で全焼しため、昭和34年に現在の本堂(下写真)が再建されました。

c0187004_12203130.jpg

福泉寺の創建は、寺伝によれば、源頼家の旗本近藤三郎是茂の家人、荒井外記(げき)智明という武士が、修禅寺事件(1203)以後代々木の地に隠居し、夢の中で神から宝珠のような鏡を感得したので、名を宗友と改め、鶴岡八幡宮を勧請して庵を創建したといいます。

創建以後久しく荒廃していましたが、江戸時代に至り、正保元年(1644)浄土宗より天台宗に改めました。

寛文4(1664)第3世長秀法印(中興開基)のとき、紀州藩徳川頼宣の側室円住院殿の後援を得て、寛文11(1671)より翌12年にかけて、代々木八幡宮と共に、現在の地に移りました

円住院殿は大和添上郡岩掛城主山田政秀の六女と伝えられ元和8(1622)紀伊藩祖徳川家頼宣の側室となり、当寺三世長秀と同族との関係によって、当寺で法要など営んだということです。

福泉寺の墓域には、円住院殿のお墓があります。(下写真)

c0187004_12202570.jpg

円住院の娘松姫は上野吉井藩の始祖となる松平氏に嫁したところから、福泉寺は吉井松平家の崇敬をも得て次第に寺運は隆盛し、「江戸名所図会」所載の如き堂宇が整いました。円住院及び松平家では、仏像、仏具、田畑など多く当寺に寄進し、その存続発展に資するところが多かったといいます。しかし、現在は吉井松平家ゆかりのものは福泉寺には残されていないと御住職がおっしゃっていました。

《斎藤弥九郎のお墓》

斎藤弥九郎のお墓が福泉寺墓所の松の木の下にあります。(下写真の松の木の下の三角形のお墓が斎藤弥九郎のお墓です)

c0187004_12201917.jpg

斎藤弥九郎は、幕末の剣術家で、彼が始めた練兵館は、千葉周作の玄武館,桃井春蔵の士学館とともに幕末江戸3大道場ひとつに数えられました。斎藤弥九郎の名は善道、晩年篤信斎(とくしんさい)と号しました。墓正面には「贈従四位 篤信斎斎藤先生之墓」と刻まれています。(下写真)

c0187004_12201358.jpg

斎藤弥九郎は、越中国(富山県)氷見郡仏生寺村の農家に生まれました。文化9年(1812)志をたてて江戸に出て、旗本能勢祐之丞(のせすけのじょう)の家僕となり、15年神道無念流岡田十松吉利の撃剣館に入門し、初めて剣術を学びました。撃剣館では、江川太郎左衛門,藤田東湖らと親交を結びました。斎藤弥九郎の修業ぶりは目覚ましく、わずか数年の間に先輩たちを凌駕して、代稽古を勤め、岡田十松の没後は、嗣子利章を補佐して道場の経営にあたりました。この間、剣術だけでなく、儒学、馬術、兵学を学び、のちに砲術も学んでいます。同門の江川太郎左衛門英龍と特に親しく、江川太郎左衛門英龍の援助により、29歳で九段坂下俎橋(まないたばし)畔に道場練兵館をおこし独立しました。その後、天保9年(1638)三番町に移しました。現在の靖国神社の境内です。天保6(1835)江川が伊豆韮山の代官になるとその手代として、西洋銃隊調練や品川台場の築造などに当たりました。また、このころ渡辺崋山とも知り合っています。

練兵館には、全国から入門者が集まりましたが、長男の新太郎(2代弥九郎,182888)が萩で長州藩士の剣術指導をしていたことから,練兵館には長州の志士が多く集まり,門下三千余人ともいわれた。当時盛んになってきた竹刀打ち込みの剣術稽古を採用し,門下から桂小五郎,高杉晋作,品川弥二郎らが出ています。

明治維新後、新政府に出仕し、会計官権判事となり、造幣局権判事を務め大坂に在職しました。

それ以前、安政5(1858)開墾地として福泉寺から3375坪の土地を購入し、三番町の道場から月に数回、門下生を連れて来て、自ら指揮をして開墾を行わせ、砲台築造の練習もしました。その後代々木付近一帯に茶園を開き、代々木茶の名をおこしました。

晩年は、隠居場を「代々木山荘」と名付け代々木に移り住みました。

明治41024日没、享年74歳でした。遺言で代々木山荘に葬られますが、のちに小石川昌林院に改葬し、弥九郎の遺志を生かすため、改めて明治38年福泉寺に改葬しました。墓碑には明治40年に建立されたことが刻まれています。

赤印が福泉寺です。青印が代々木八幡宮です。



by wheatbaku | 2019-01-07 12:18 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
代々木八幡宮(代々木散歩⑥)

代々木八幡宮(代々木散歩⑥)

 今日から仕事始めで、お仕事をされている方が多いと思います。今年も頑張ってください。

 さて、今日は、年末までに書き終わらなかった代々木散歩の続きとして、代々木八幡宮について書きます。

c0187004_18172800.jpg

 代々木八幡宮は、社伝によれば、鎌倉時代の初め建暦2年(1212)に、鎌倉幕府の第2代将軍源頼家の家臣近藤三郎是茂の家来荒井外記智明(ともあきら)によって創建されたとされています。

 荒井外記智明は、源頼家が伊豆の修善寺で暗殺されてから代々木の地に隠棲し、名も宗祐(または宗久)と改めて、日夜亡き主君らの冥福を祈っていましたが、ある夜夢の中で八幡様のお告げを聞き、目がさめると手には宝珠のごとき鏡が残されていました。そこで、代々木の地に小さな祠を建て 鶴岡八幡宮の分霊を勧請したのがはじまりです。

 代々木八幡宮は、小田急線代々木八幡駅北口から3分、東京メトロ千代田線代々木公園駅八幡口からは徒歩4分で、大鳥居に到着します。山手通りからは急な石段を登ることになり、代々木八幡宮が高台にあることが実感されます。

c0187004_18172342.jpg

《稲荷社・天神社・榛名社》

 代々木八幡宮の本殿の東側には、稲荷社、天神社、榛名社があります。

 稲荷社は、紀州家側室の延寿院が守護神としてお祀りしていた稲荷社に明治以降に掘出稲荷を合祀したそうです。

 天神社は、紀州家側室の延寿院が守護神としてお祀りしていたものです。そして、そこに、玉川上水脇にあった銀杏天神社を合祀したものです。

 榛名社は、雨乞いのため、周辺の村などにお祀りされていたものがここ移されたものと考えられています。

c0187004_18171439.jpg

《出世稲荷社》

 三社の隣には、出世稲荷社があります。

 このお稲荷さんは、昭和20年5月25日に代々木周辺が爆撃された際、被害を受けた稲荷社の祠や狐像を集めて、八幡宮の境内に合祀したのが始まりだそうです。

 最近は、出世稲荷と呼ばれ、霊験あらたかなお稲荷さんだとして、地元の人々は篤く信仰していると地元の人が教えてくれました。

c0187004_18170710.jpg

《代々木八幡遺跡》

代々木八幡宮は標高約32メートルの台地上にあり、その境内からは、石器時代の遺物が発見されていました。

 代々木八幡遺跡は、昭和25年の夏國學院大學と地元の上原中学校の生徒によって発掘調査が始まりました。そして、同じ年に渋谷区史編纂委員会が発掘調査を行われました。2回の調査で多くの遺物が出土したうえ、関東ローム層を浅く掘りくぼめた住居と、その中に掘られた柱穴が発見されました。

 ここから加曾利E式土器と呼ばれる土器の種類が多数出土したことから、ここには約4500年まえに人が住んでいたと推定されました。

そして、昭和26年には、國學院大學の樋口清之名誉教授により縄文人の住居が復元され、現在も境内には、竪穴式の古代住居が復元されています。

c0187004_18165972.jpg

《代々木八幡遺跡の出土品陳列館》

 本殿の南西側に、代々木八幡遺跡から出土した品を展示した出土品陳列館があります。(下写真は夕暮れ時の陳列館です)

c0187004_18165104.jpg

出土品陳列館には、代々木八幡遺跡発掘の経過、縄文時代の竪穴住居やそこで暮らす縄文人の男女が復元されています。また、遺跡から出土された土器や石器が展示されています。

c0187004_18164304.jpg

赤印が代々木八幡宮です。






by wheatbaku | 2019-01-04 18:09 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
「春の小川」(代々木散歩⑤)

「春の小川」(代々木散歩⑤)

代々木散歩、今日は「春の小川」について書いていきます。

「春の小川」といえば、小学生の頃になじんだ童謡です。

春の小川は さらさら行くよ  

岸のすみれや れんげの花に

すがたやさしく 色うつくしく 

咲けよ咲けよと ささやきながら

 この「春の小川」のモデルとなったと言われているのが、代々木を流れていた河骨川(こうほねがわ)です。

《高野辰之住居跡》

「春の小川」を作詞したのは、高野辰之です。

 高野辰之は、長野県豊田村(現中野市)に生まれました。長野師範学校卒業後上京し、後に東京音楽学校(現東京芸大)教授となりました。

 「春の小川」のほか、「春が来た」や」「朧(おぼろ)月夜」「故郷(ふるさと)」など私たちに馴染み深い文部省唱歌を多く作詞しています。

その高野辰之は、現在の代々木3丁目3号に住んでいました。そこの前に道路脇に「高野辰之住居跡」と書かれた標柱が建てられています。

c0187004_12054947.jpg

《春の小川(河骨川)跡》

 春の小川のモデルとなったと言われているのが、渋谷川の支流の河骨川(こうほねがわ)です。黄色のかわいらしい「こうほね」(下写真)が数多く咲いていたので、河骨(こうほね)川と呼ばれました。

c0187004_12065371.jpg

 河骨川は、甲州街道脇の谷間から流れ出し、谷間を南に流れ、小田急線を越えると直角に曲がり、それ以降は小田急線沿いに西に流れて代々木公園駅近くで宇田川と合流します宇田川は、渋谷駅北側で隠田川と合流し渋谷川となります。
下写真の中央が、小田急線沿いを流れていた河骨川跡です。電柱には渋谷区が設置した「春の小川」という表示がされています。

c0187004_12054331.jpg

 

《「春の小川」歌碑》

 代々木公園西口門近くの小田急線の脇に「春の小川」歌碑があります。碑の説明板には次のように書かれています。(説明板は下写真の左手です。)

c0187004_12052668.jpg

ここはかつて清らかな小川が流れ、黄色のかわいらしい「こうほね」が咲いていたので、河骨(こうほね)川と呼ばれていました。春になると、岸辺にはれんげやすみれが咲く、のどかな所でした。

 明治42年(1909)から代々木山谷(現代々木3丁目3号)に住んでいた国文学者の高野辰之は、このたりの風景を愛して、しばしばこのほとりを散策したといわれています。

そして、今も歌い続けられている『春の小川』を作詩して、大正元年(1912)に発表しました。この詩は、小学唱歌となり、現在に至るまで広く愛唱されています。

 現在、河骨川は暗渠となり、当時のおもかげはありませんが、この詩から明治末ごろの代々木周辺ののどかな様子を知ることができます。

歌碑は、高野辰之の娘の高野弘子さんが揮毫したものです。

c0187004_12044979.jpg

 なお、私たちが知っている春の小川の歌詞は冒頭の歌詞ですが、碑に刻まれている歌詞は、それとは違っていて、次の詩が刻まれています。

春の小川は、さらさら流る    
  岸乃すみれや、れんげの花よ

 にほひめでたく、色うつくしく 
  咲けよ咲けよと、ささやく如く

 高野辰之が書いた歌詞は文語体でしたが、昭和17年に口語体に改められました。そのため、私たちが知っている歌詞と違っている歌詞が、歌碑には刻まれています。

 赤印が高野辰之住居跡です。青印が春の小川歌碑です。




by wheatbaku | 2018-12-28 11:57 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
正春寺(代々木散歩④)

正春寺(代々木散歩④)

代々木散歩、今日は正春寺をご案内します。

正春寺は、徳川秀忠の乳母であった初台局ゆかりのお寺です。

正式な寺号は、湯島山安養院正春寺といい、もともとは天台宗でしたが、その後改宗して、浄土真宗東本願寺派のお寺となりました。

寺号のうち、安養院(あんにょういん)は、初台局の院号に由来し、正春寺は、開基で初台局の娘梅園局の法名正春院に由来しています。下写真は正春寺の本堂です。

c0187004_21172372.jpg

 初台局は、土井利勝の弟・土井昌勝の妻でしたが、徳川秀忠の乳母となりました。 土井昌勝は、有名な土井利勝の弟です。

 土井利勝は、三河国刈屋城主水野信元の子で、徳川家康の命令により2歳で土井利昌の養子となりました(これは正春寺に設置されている下記写真の説明板に基づいています。土井利勝の出自には諸説があります)。徳川秀忠と徳川家光に仕え、徳川秀忠時代には老中として将軍を補佐し、家光の時代には大老となり、幕府において重要な役割を果たしました。(土井利勝については最下段に詳細に書きました)

c0187004_21173221.jpg

 初台局は 大河内正頼の妹で土井昌勝の妻となりました。その後、徳川秀忠の母宝台院に仕え、2代将軍秀忠の乳母となり初台局と称しました。その功績により、天正19年(1591)代々木村に2百石の知行地を拝領しました。

初台局は、知行地に菩提寺を建立することを発願しましたが、当時は、新寺建立が禁止されていたため、孫の正入が住職をしていた湯島の専西寺(せんさいじ)を引寺として、代々木にも、元和6年(1620)に専西寺が建立されました。

初台局は、専西寺が創建された翌々年の元和8年に没し、法名は安養院(あんにょういん)釈尼香薫といいます。 

湯島と代々木の2ヵ所の専西寺は、開山の正入が兼任しました。

 専西寺の開基は、初台局の娘梅園局となっています。

 梅園局は2代将軍秀忠の乳母の初台局の娘で、3代将軍家光の乳母で、木村吉次を婿としました。木村吉次は土井吉次となりましたが将軍秀忠の命により、土井を改め柴山と改姓しました。梅園局の法名は正春院釈尼清安といいます。

 二人の間に生まれた子供が 開山正入です。正入の俗姓は土井甚三郎昌興といいました。

専西寺は、寛永4年(1627)改宗して浄土真宗となり、寛永10年(1632)湯島山安養院専西寺と称することとなり、まもなく正保2年(1645)山号を柴山(さいざん)と改めています。その後、天和3年(1683)湯島の専西寺が火災により焼失し、両寺は併合したような形となって代々木の専西寺だけとなりました。

そして元禄5年(1692)に、開山の梅園局の法名正春院釈尼清安にちなみ寺号を正春寺と改めました。

《土井家先祖の供養墓》

本堂裏側の墓所の中に、初台局の子孫である土井利意(としもと:寛政2年没享年68歳)が建てた先祖の供養墓があります。

墓正面に刻まれている七代祖土井小左衛門利昌とは、初台局の夫である土井昌勝の父親土井利昌です。墓石の左側の面に土井昌勝の名があり、その左に「土井次郎左衛門昌勝室 號安養院」と刻まれているのが初台局のことです。

c0187004_21173936.jpg
 

《初台の地名の由来》

初台という地名は、太田道灌が築いた八ケ所の砦のうち一の砦があった場所から出た名であるという説がありますが、初台の地名は、徳川秀忠の乳母の初台の局が拝領し隠居したことに由来するとも伝えられています。渋谷区役所作成の「渋谷散策マップ」は初台局説を取っています。

《土井利勝》 『江戸時代人名控』をベースに作成 

徳川家康に仕えた土井利昌の長子とされるが、家康の庶子とする説が有力で、家康の母の兄水野信元の子とする説もある。幼時から家康に仕え、1579年(天正7)秀忠誕生とともに秀忠付きとなり、秀忠の終生にわたって近侍してよく任を果たした。慶長7年(1602)に下総小見川(おみがわ)1万石が与えられ、10年加増されて同国佐倉(32000石余)へ転封、以後しばしば加増あって、寛永2年(1625)には142000石を領するに至った。この間従五位下、大炊助(おおいのすけ)の叙任を受けた。土井利勝は酒井忠世、大久保忠隣(ただちか)、本多正信らとともに秀忠補佐の中心におり、家康の信頼も厚く、徳川政権の基礎を固めるために大きな働きをした。家康、本多正信が相次いで没したのちは元老と称され、秀忠政権を支える中心に位置した。秀忠も利勝邸に赴くなど親近の情が厚かった。家光の補導にも努めている。明正天皇即位のときは秀忠の使者を務めた。

秀忠没後も年寄を務め、下総古河へ移され16万石を領した。土井利勝は、72歳で死ぬまで幕閣の重鎮で、知者の名が高く、優れた識見を有していたといわれる。

赤印が正春寺です。







by wheatbaku | 2018-12-25 20:19 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
玉川上水旧水路緑道(代々木緑道)(代々木散歩③)

玉川上水旧水路緑道(代々木緑道)(代々木散歩③)

代々木散歩の続きで、今日は玉川上水跡に設置されている玉川上水旧水路緑道(代々木緑道)についてご案内します。

 新宿駅近くの甲州街道の南には、かつて神田上水とともに江戸の二大上水と呼ばれた玉川上水が流れていました。昭和40年以降、順次、暗渠となっていて、現在は、その地上部分が遊歩道として整備され、玉川上水旧水路緑道(代々木緑道)となっています。

玉川上水旧水路緑道は代々木三丁目から笹塚一丁目まで続いていきますが、そのうち代々木三丁目から四丁目までの区間が代々木緑道となづけられています。

c0187004_22355289.jpg

 玉川上水は、羽村取水堰から多摩川の水を取り込んで四谷まで、43キロの道のりを開渠で流れ、四谷から地下に潜って、江戸市中に水を供給していました。

渋谷区教育委員会の説明板が簡潔に玉川上水について説明してくれていますので、それを転記しておきます。

c0187004_22354097.jpg

《玉川上水跡》 

 ここには、かつて神田上水とともに江戸の二大上水と呼ばれた玉川上水が流れていました。現在は暗渠となり、当時の面影を偲ぶことはできませんが、各所に残る橋の欄干は玉川上水の名残です。

 江戸時代初期、江戸の住民は神田上水と赤坂溜池の水を飲料水として利用していましたが、江戸市中の発展につれ水不足をきたしました。そこで、承応元年(1652)に玉川上水開設の計画が立てられたのです。承応2年(1653)正月、幕府は庄右衛門・清右衛門兄弟に工事請負を命じました。ここに老中松平伊豆守信綱を惣奉行とする、玉川上水開設の計画はスタートしたのです。信綱の巨安松金右衛門の設計に従い、多摩郡羽村に堰を設けて取水口とし、四谷大木戸まで約43キロの開削水路を通し、そこから先は地価に配管(石樋・木樋)を敷設するという、当時としては非常に画期的な工法がとられました。

 このほかに玉川上水は、江戸市民の飲料水供給にとどまらず、灌漑用水や新田開発など武蔵野台地の発展にも計り知れない恩恵を授けたのです。

 渋谷区教育委員会

《箒銀杏(ほうきいちょう)》

 上記の説明板が設置されているすぐ近くに箒銀杏(ほうきいちょう)があります。

c0187004_22352688.jpg

この銀杏は、少しはなれた所から見ると、箒を逆さまにたてたようにみえるところから、箒銀杏 とよばれています。

 樹齢は約200年と推定されます。

 この木に根本にある天満宮の小祠があります。(下写真)

ご祭神は代々木八幡宮に合祀されていますが、小さな祠が残されていて、近くの人のお参りする姿が見られました。また、以前、この近くを流れていた玉川上水に架けられた橋は天神橋と名づけられていました。

c0187004_22332372.jpg

 玉川上水旧水路緑道は、かなりの道幅があります。
 これは、玉川上水跡だけが緑道となったわけではないからです。実は、玉川上水に並行して京王線が走っていました。京王線は、現在は地下を通っていますが、京王線の笹塚-新宿間が地下化されたのは昭和384月のことでした。

それまでは、京王線も地上を走っていて、西参道までの線路は、玉川上水の南側にありました。

そして、西参道で大きなSの字を描いて、西参道から以西は、京王線は玉川上水の北側を走っていたようです。

赤印が渋谷区教育委員会設置の「玉川上水跡」の説明板の場所です。 

青印が箒銀杏です。






by wheatbaku | 2018-12-23 22:13 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
田山花袋終焉の地

田山花袋終焉の地(代々木散歩②)

 江戸検を受検された皆さん、結果通知がご自宅に届いているようですね。

 見事合格された皆さん、おめでとうございます。この間の努力の賜物とお喜び申し上げます。

一方、惜しくも合格点に達しなかった皆さん、捲土重来を期して、頑張ってください。江戸検1級は、頑張り続けられば、必ず合格できますので、落ち込まずに頑張ってください。

 さて、代々木散歩では、平田神社の後には、平田神社から徒歩3分の距離にある田山花袋終焉の地に行きました。そこで、今日は、その田山花袋終焉の地についてご案内します。下写真が、田山花袋終焉の地の標柱です。

c0187004_19030930.jpg

田山花袋は、この地に明治39年から昭和5年に60歳亡くなるまで住んでいました。

田山花袋は、群馬県館林市出身の明治を代表する文豪の一人で、代表作は「蒲団」(明治40年発表)「田舎教師」(明治42年発表)などです。これらの代表作も代々木で書かれました。

田山花袋は、本名録弥といい、群馬県館林に生れました。

尾崎紅葉の指導を受け、自然主義的な作品「重右衛門の最後」によって文壇に認められました。

その後、告白的な暴露小説「蒲団」を発表し、続いて「田舎教師」等を書き、島崎藤村とともに自然主義文学の代表的作家となりました。

代表作の「田舎教師」は、高校時代に読んで印象深かった小説ですので、ちょっと触れておきます。

《代表作「田舎教師」》

田山花袋の長編小説で、多くの人々の心をとらえた名作として有名です。

埼玉県の旧制熊谷中学校を卒業し、埼玉県羽生在の弥勒(みろく)尋常高等小学校の代用教員をしていた教師小林秀三をモデルとした林清三が、この小説の主人公です。


田山花袋は、日露戦争従軍から帰っり、義弟の太田玉茗の寺である埼玉県羽生の建福寺で、小林秀三の真新しい墓標を見て心を動かされ、小林秀三の生涯を描きました。

 渋谷区が設置した標柱は、壁側に説明が書いてあり、大変読みにくいので、裏側からゆっくり読んでください。

c0187004_19025632.jpg

赤印が田山花袋終焉の地です。青印が平田神社です。








by wheatbaku | 2018-12-20 18:44 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
by 夢見る獏(バク)
プロフィールを見る
画像一覧
更新通知を受け取る
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
以前の記事
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
ブログパーツ
最新のコメント
ツユクサさん 江戸城散..
by wheatbaku at 12:53
獏様 江戸城散策、お疲..
by ツユクサ at 08:26
宮越さん コメントあり..
by wheatbaku at 11:42
今回のブログで、霊厳寺が..
by 宮越重遠 at 10:51
やぶひびさん 本妙寺は..
by wheatbaku at 13:05
「江戸から東京へ1」を図..
by やぶひび at 09:30
ツユクサさん 土曜日は..
by wheatbaku at 21:00
獏さん 案内お疲れ様で..
by ツユクサ at 11:10
小ツルさん 「むさしあ..
by wheatbaku at 09:50
バクさま、加州そうせい公..
by 鶴ヶ島の小ツル at 16:57
加州そうせい公様 私も..
by wheatbaku at 07:34
バクさん 昨日の江戸楽..
by 加州そうせい公 at 17:31
mikawaさん 先日..
by wheatbaku at 12:55
宮越さん コメントあり..
by wheatbaku at 09:03
宮越さんからコメントをい..
by wheatbaku at 09:00
mikawaです。先日は..
by mikawa ケンイチ at 08:17
ツルさん 名古屋に住ん..
by wheatbaku at 16:18
獏さま ははあ、あの石..
by 鶴ヶ島の小ツル at 15:20
やぶひびさん NHKB..
by wheatbaku at 17:54
今夜3/3.20:00~..
by やぶひび at 12:49
最新のトラックバック
『西郷どん』、恋愛ごっこ..
from Coffee, Cigare..
各合戦の動員人数について..
from Coffee, Cigare..
天ぷらの歴史 (天麩羅処..
from グドすぴBlog
天ぷらの歴史 (天麩羅処..
from グドすぴBlog
天ぷらの歴史 (天麩羅処..
from グドすぴBlog
再出発が始まる
from 哲学はなぜ間違うのか
穴八幡宮
from Coffee, Cigare..
風景印  28.4.30..
from としちゃんの風景印・郵趣日誌
山王日枝神社@溜池山王
from たび☆めし☆うま BLOG
浮世絵の誕生・浮世絵の歴..
from dezire_photo &..
お気に入りブログ
江戸・東京ときどきロンドン
ファン
ブログジャンル
歴史
アウトドア