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護国寺② 護国寺に眠る有名人(新江戸百景めぐり56-2)

護国寺② 護国寺に眠る有名人(新江戸百景めぐり56-2

 今日は、新江戸百景めぐりの護国寺の2回目で、護国寺に眠る有名人をご案内します。護国寺には、大勢の有名人が眠っていますが、江戸時代の有名人はほとんど眠っていなくて、明治以降の有名人が眠っています。今日は、そうした有名人の中で特に有名な人のお墓をご案内します。


 護国寺でのお墓参りは、護国寺の本堂(観音堂)の中にある寺務所にお願いするとお墓の地図を無料で配布してくれますので、それを見ながらお参りするといいと思います。

 お墓は、本堂の東側と北側そして北西側に大きく広がっています。今日は南東側から北西側に順にご案内します。

安田善次郎

 安田善次郎は、安田財閥の創設者です。安田財閥は、現在は多くの企業が合併して名称が変わっていますが、昔の富士銀行、安田生命、安田火災などが主要企業です。

 安田善次郎の墓所は、本堂の南東側にあります。前回ご案内した鐘楼の東側にあります。

 周囲は塀で囲まれています。正面は下写真のように立派な門があります。 

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 周辺が塀で囲まれているため、中には入れません。
 下写真は、前面の扉の隙間から写したものです。
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 安田善次郎は富山県富山市の出身ですが、江戸に出て両替商で奉公しました。

 このころに、後で紹介する大倉財閥の創設者大倉喜八郎と知り合っています。

その後、独立し安田商店(のちの安田銀行)を開業し、金融業を中心に、業務を拡大し、安田財閥を育てあげました。

 ところで、安田善次郎がどのようになくなったか、ご存知ですか。

 実は、大磯の別荘で、右翼の人物に刺殺されているのです。安田善次郎は、世間的な寄付を好まなかったので誤解され殺されたといわれています。

しかし、実は多くの寄付を行う意向がありました。安田善次郎は、暗殺される前、東大の安田講堂の寄付を約束していました。また、日比谷公会堂も、安田善次郎が寄付すると生前約束していたものです。

この二つとも安田善次郎の死後に完成しました。

大隈重信

 大隈重信のお墓は本堂の北東に広い墓域を占めています。 

 墓所の前に鳥居があるので、よく目立ちます。 

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大隈重信は、早稲田大学の創設者として、あるいは総理大臣経験者として有名です。

 大隈重信は、肥前国の出身者です。肥前藩は、明治維新後は薩長土肥として有力な藩閥を形成しましたが、幕末の倒幕運動にはあまり大きな力を発揮しなかったようです。

 大隈重信も、倒幕運動の中では目立った実績はありませんが、明治新政府になってから頭角を発揮し、参議や大蔵卿を兼任し活躍しました。
 大久保利通が暗殺された後は、明治政府の中心人物となりました。しかし、明治14年、即時議会開設を主張したこともあって、薩長藩閥勢力に排斥され、10月参議を辞任しました。これはが「明治十四年の政変」と呼ばれる事件です。

政変後、政党結成を実行に移し、立憲改進党を結成してその総理となり、また東京専門学校(1902年早稲田大学と改称)を創立しました。

その後、第一次伊藤博文内閣で外務大臣に復帰し、条約改正に努力しましたが、そのさなか、爆弾を投げつけられました。幸い命は取りとめましたが右足を切断する重傷を負いました。

その後、2回、総理大臣を経験しています。

大隈重信は、早稲田大学を創立したように教育にも熱心で、同志社大学や日本女子大学の設立も支援をしています。

大正11110日胆石症で死去し、日比谷公園で国民葬が行われました。

 この時、早稲田の私邸から日比谷公園に向かう行列には早稲田大学関係者2万人が参加したといわれています。また、国民葬には10万人が参列し、行列は神田橋まで続いたそうです。そして、葬儀の後、葬列は護国寺に向かい、埋葬されました。

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松平治郷(はるさと) 

 大隈重信の墓所の北側に、出雲国松江藩主松平家の墓所があります。松江藩の幕末の石高は18万6千石ですが、18万石の墓所としてはあまり広くはありません。その松平家の墓所の入り口にの第7代藩主松平治郷の墓があります。

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 松平治郷は不昧(ふまい)と号したので、松平不昧のほうが有名かもしれません。松平治郷は、17歳で松江藩藩主となりました。それは、家老朝日丹波を中心とした御立派(おたては)の改革の中で擁立されました。改革は勧農抑商を基調として藩財政の立て直しをすすめ成功しましたが、朝日丹波が隠居した後に財政状況はふたたび悪化し、寛政8年(1796)からは治郷自身が親政した後、56歳で隠退しました。その後は、江戸品川の別邸大崎園に数々の茶室を営み風流三昧の生活を送りました。

 松平治郷は、お茶を将軍御数寄屋頭の伊佐幸琢(こうたく)にまなび、石州流不昧派を起こしました。藩財政の好転に伴い道具収集に乗り出し、江戸後期最大の収集者となり、収集した名物道具を分類整理して『古今名物類聚(ここんめいぶつるいじゅう)18巻を著しています。

三条実美

 三条実美の墓所は、本堂の北側にあります。三条実美のお墓の前にも鳥居があります。

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三条実美は、幕末には、攘夷派の若手公卿として活躍しましたが、8月18日の政変で京都を追われて長州に下ったのち、長州征伐で大宰府に移りました。
 王政復古により京都に戻ることが許され、明治新政府では、太政大臣となり明治政府の最高官となりました。
 その後、明治18年内閣制度が発足した際に内大臣となりました。

最初の総理大臣は伊藤博文ですが、この際、三条実美も有力候補者でした。

しかし、総理大臣を選ぶ会議で、英語がわかる人物ということから、伊藤博文が総理大臣ときまった逸話があるそうです。

明治24年(1891年)に55歳でなくなり、護国寺に埋葬されました。

三条実美の墓所の入り口には大きな神道碑があります。この神道碑は国家に功績のあった人物を顕彰するために建てられた碑で、その人物の墓所参道に建てられました。

三条実美のほかに、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、島津久光、大原重徳などの神道碑が明治天皇の命令により建てられました。

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山県有朋

 本堂の北側には多くの人が眠っています。その中に山県有朋の墓所もあります。

 山県有朋の墓所も塀で囲まれていて、入口は鍵がかかっているため中に入ることができません。また、お墓が入口の正面にないため、お墓を正面から撮ることはできません。下写真は墓所の脇から撮影したものです。奥が山県有朋のお墓です。

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山県有朋は、長州出身の政治家・軍人です。松下村塾(しょうかそんじゅく)に学ぶ。長州藩倒幕派に加わり、高杉晋作がつくった奇兵隊軍監として活躍しました。

 明治新政府では、徴兵制を実現し参謀本部を設置し初代参謀本部長になるなど近代軍制の基礎を築きました。

 政治家として、2回総理大臣を務め、伊藤博文が暗殺された後は、政界・軍部・官界に絶大な影響力を発揮しました。

 しかし、最晩年は宮中某重大事件を引き起こし、大正1121日失意のうちに没し、国葬が行われました。

 この直前に行われた大隈重信の葬儀には多くの国民が参列しましたが、山県有朋の国葬には、軍人中心に1000人程度が参列するという状況だったそうです。

築庭・造園に趣味をもち、目白の椿山荘は、山県有朋の別荘でした。東京の椿山荘、京都の無鄰菴、小田原の古稀庵庭園も山県有朋に関係する庭園です。


大倉喜八郎

大倉喜八郎は大倉財閥の創設者です。大倉喜八郎の墓所は、山県有朋の墓所に行く手前にあります。下写真の東側が大倉喜八郎のお墓です。右は夫人のお墓です。

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大倉喜八郎は、新潟県新発田の名主の家に生まれ、江戸に出て、かつお節店の店員となった後、独立し銃砲店を開業し、幕末、維新の動乱に乗じて販売を拡大しました。

戊辰戦争を目前に控えた時期で、洋式兵器の注文は新政府軍、幕府軍の双方から注文がありました。新政府軍が上野の山に立てこもった彰義隊を攻撃する前夜に大倉喜八郎は突然、官軍に鉄砲を売っていたことで、彰義隊に連行されましたが、「官軍は現金払いなので売った」と説明し解放されたというエピソードがあります。

明治維新後は欧米視察のうえ、明治6年、大倉組商会を設立して貿易および用達事業に乗り出し、台湾出兵、西南戦争、日清戦争、日露戦争の軍需物資調達で巨利を得ました。

この間、大倉組商会は合名会社大倉組に改組され、大正期には大倉商事、大倉鉱業、大倉土木の3社を事業の中核とする大倉財閥となりました。

とくに中国大陸への事業進出に積極的で、中国軍閥との関係も深かいものがありました。
 ホテルオークラは、大倉喜八郎の自宅後に建てられたものです。

ホテルオークラに隣接する大倉集古館も大倉喜八郎が設立したものです。また、東京経済大学は大倉喜八郎が作った大倉高等商業学校が発展したものです。

 昭和3年に大腸がんのため永眠しました。享年92歳でした。

山田顕義
 本堂の西北に大きな墓所があります。山田顕義の墓所です。
 きれいに整備されている明るい墓所です。

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 山田顕義は、長州藩士の長男として生まれ、吉田松陰)の松下村塾に学び、尊王攘夷運動に参加し、、蛤御門の戦いや四国連合艦隊との戦いに参加しています。戊辰戦争の箱館五稜郭の戦いでは、海軍参謀として榎本武揚軍と戦いました。
 明治維新後、陸軍少将となり、岩倉具視の遣欧使節に随行しフランスはじめ各国の兵制を調査し、帰国して東京鎮台司令長官となりました。佐賀の乱征圧のため九州に出征し、西南戦争には別働第二旅団長として出征し、戦後、陸軍中将に昇進しました。
 第一次伊藤博文内閣に司法大臣として入閣し、以後第一次松方正義内閣まで4内閣に司法大臣として留任、条約改正の前提として法典編纂にあたりました。
 山田顕義は、日本大学の創設者でもあります。日本大学は、山田顕義が司法大臣の時に開設した日本法律学校を起源とした大学です。
 神道の擁護にも熱心で、有栖川宮幟仁(たかひと)親王を初代総裁とする皇典講究所の初代所長に就任し、国学院(國學院大学の前身)を創設しました。
 なお、1891年に起きた大津事件では、担当大臣として大逆罪を適用するよう大審院の裁判に圧力をかけたことでも有名です。
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 護国寺には、このほか、島津家、南部家、ジョサイア・コンドル、益田鈍翁、団琢磨などのお墓があり、それぞれお参りしましたが、長くなるので、このあたりで一区切りさせてもらいます。




by wheatbaku | 2020-01-13 14:50 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
日本橋七福神めぐり(~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩 神田駅編)

日本橋七福神めぐり(~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩 神田駅編)

昨日は、毎日文化センターの~「山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩」で、神田駅からスタートして、日本橋七福神めぐりをしてきました。

 昨日は晴天に恵まれましたが、風が強くて、寒さが厳しかったので、七福神めぐりの後のお酒が一段とおいしかったです。

ご参加いただいた皆様、寒い中おつきあいいただきありがとうございました。

 昨日のコースは次の通りです。

神田駅 ⇒ 今川橋 ⇒ 時の鐘跡 ⇒ 長崎屋跡 於竹大日如来井戸跡 ⇒ 宝田恵比寿神社 ⇒ 椙森神社 ⇒  元吉原跡 ⇒ 富沢稲荷神社 ⇒ 笠間稲荷神社 ⇒ 末廣神社 ⇒ 〈甘酒横丁〉 ⇒ 松島神社 ⇒ 水天宮 ⇒ 茶の木神社 ⇒ 牡蠣殻銀座跡 ⇒  西郷隆盛邸跡 ⇒ 小網神社 ⇒人形町駅

 昨日の散歩は、元吉原がどの辺りにあったのかも詳しく説明しましたが、日本橋七福神めぐりがメインでしたので、その写真を中心にご案内します。

 

〈椙森神社〉

 椙森神社は、平将門が朝廷に反乱を起こした天慶の乱の時に藤原秀郷が戦勝を祈願した所とも言われます。また太田道灌が雨乞い祈願のため、伏見稲荷神社の神様を勧請して信仰したとも伝えられています。

 江戸時代には、神田にある柳森神社、新橋にある鳥森神社とともに江戸城下の三森の一つに数えられ、椙森稲荷として庶民の信仰を集めました。 

 椙森神社にお祀りされている七福神は恵比寿様です。

 七福神巡りの札所の多くでは、お正月の7日までは、七福神を開帳しているのですが、椙森神社では、恵比寿様は、10月19日20日の恵比寿祭りの時にだけ開帳されるそうで、お正月も開帳しないそうです。 

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〈笠間稲荷神社〉

江戸時代、人形町に笠間藩牧野家(藩祖は牧野成貞)の下屋敷がありました。

そして幕末の安政6年(1859)に、笠間藩8代藩主牧野貞直が常陸の笠間稲荷神社より分霊を受けて建てられたのがこの笠間稲荷神社です。

笠間稲荷神社は別名紋三郎稲荷と言われます。

それを題材にした落語に「紋三郎稲荷」というお話があります。この落語の冒頭に、ここの笠間稲荷神社が紹介されています。 

 笠間稲荷神社には、七福神のうちの寿老人が祀られています。

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〈末廣神社〉

 江戸幕府が開かれる直前の慶長元年(1596)に既にお稲荷様が鎮座していたそうです。

末廣の名は、延宝3年(1675)に 社殿を修復した際、本殿から末廣の扇が出たことに因むそうです。

この末廣神社は、ここに吉原があるころは、その氏神様として、大変信仰されました。吉原が移転した後は、幕府に仕える役人が多く住むようになり、その武家から篤く信仰されたといいます。

末廣神社にお祀りされている七福神は毘沙門天です。 

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〈松島神社〉

 松島神社の由緒は、鎌倉時代末期の元亨年間以前の創建と伝えられているそうです。

 当時、この辺りは入り江の小島であり、下総からここに移住してきた柴田家が自分のお屋敷の中に祀ったとされています。島内に松が生い茂っていたことから松島稲荷大明神と呼ばれたといいます。

松島神社でお祀りされている七福神は、大国様です。

大黒様は、一般的には大黒と書くことが多いのですが、松島神社では、大国と書いています。それは、出雲の神様の大国主神(おおくにぬしのかみ)をお祀りしているからです。

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〈水天宮〉

水天宮は、安産の神様としても有名な神社ですので、参拝客が大勢いました。

水天宮の総本宮は九州の久留米にあります。

 江戸の水天宮は、久留米藩第9代藩主有馬頼徳(ありまよりのり)が、久留米から分霊を勧請して、文政元年(1818)、現在の港区にあった久留米藩の上屋 

その後、明治維新を迎えて、水天宮は明治4年に青山の中屋敷に移り、さらに翌年、日本橋蛎殻町の下屋敷すなわち現在の場所に移転しました。

水天宮にお祀りされている七福神は宝生弁財天です。 久留米藩9代藩主有馬頼徳(よりのり)が加賀藩11代藩主前田成広(なりなが)と宝生流能楽を競われた際に、弁才天に願掛けして、勝利をおさめたことから宝生弁才天と呼ばれています。 弁財天は、琵琶を抱く色白の美女の姿で表されることが一般的になりました。

 下写真の正面が水天宮で左の御社が宝生弁財天の社殿です。

 最近改築したので、両方の社殿とも非常にきれいです。

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〈茶ノ木神社〉

茶ノ木神社は地元ではお茶ノ木様と呼ばれて親しまれています。

 お祀りしてあるのはお稲荷様です。

 江戸時代、この土地は、約3000坪もある下総佐倉藩堀田家の中屋敷でした。茶ノ木神社は、その守護神として祀られたものです。

 神社のまわりに丸く刈り込まれた茶の木が植えられていて、それが大変素晴らしかったので茶ノ木神社と呼ばれようになったそうです。

 数年前までは、茶ノ木神社は町家の中の目立たない神社でしたが、再開発ビルのリガーレ日本橋人形町が建設されるに伴って平成19年に建て替えられ、様変わりしました。

 茶ノ木神社にお祀りされている七福神は布袋様です。

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〈小網神社〉

 日本橋七福神の中で、参拝客が多かったのが水天宮と小網神社でした。

 参拝する人の列が長く続いていました。

 小網神社は、室町時代中期京都で応仁の乱がおころうとしている頃の文正元年(1466)に創建された神社です。創建以来550年がたつ神社です。

もともとは、稲荷神社が起源で、「小網稲荷神社」といっていたそうです。

明治の初めに現在の「小網神社」と名前をかえました。

 小網神社では、七福神は、福禄寿と弁財天が祀られています。

 弁財天は、この境内にあった万福寿寺というお寺に安置されていたものだそうです。

明治2年に、そのお寺が廃止されたため、小網神社にお祀りされるようになったものです。それにちなんで、万福舟乗弁財天といいます。別名東京銭洗い弁天と呼ばれています。

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七福神めぐりでは、次のような地図を配布してくれました。


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by wheatbaku | 2020-01-06 18:29 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
蓬莱園跡-平戸藩上屋敷跡(秋葉原散歩④)

蓬莱園跡-平戸藩上屋敷跡(秋葉原散歩④)

 本日は、大晦日です。

 今年1年間、このブログをお読みいただきありがとうございました。

 いつも熱心にお読みいただきありがとうございます。おかげさまでよい年を迎えられそうです。読者の皆様もよい年をお迎えください。

 今日は、蓬莱園跡-平戸藩上屋敷跡をご案内して、今年の書き納めとさせていただきます。

 現在、都立忍岡高等学校・柳北公園・柳北スポーツプラザのある一帯に、江戸時代、肥前国平戸藩主松浦(まつら)家の上屋敷があり、そこには蓬莱園という名園がありました。
 柳北公園の北西側の忍岡高等学校との境にある石碑「蓬莱園跡」と台東区教育委員会の説明板がそれを示しています。(下写真)

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平戸藩主松浦(まつら)家は、平安時代の武将渡辺綱までさかのぶる、大変古い出自を誇る家柄です。

初代藩主は松浦鎮信で、3代藩主松浦隆信の代の寛永9(1632)、松浦氏は、幕府からこの地を与えられ、小堀遠州が庭園を築造しました。

寛永18 年(1641)、もともと上屋敷だった元誓願寺前屋敷が焼失したことから、その翌年(1642)、鳥越の地を上屋敷としたと書いてあるものもあります。

上屋敷の面積は約15千坪ありました。上屋敷内の庭園は約2500 坪でその大部分が池泉だったそうです。この庭園が、江戸時代後期に蓬莱園となづけられました。

松浦家の歴代藩主の中で、とりわけ有名な殿様が9代目藩主の松浦静山です。

松浦静山は、随筆集「甲子夜話」を書いたことで大変有名です。

松浦静山は、安永4年(1775)に藩主となりました。そして、文化3年に起きた江戸の三大大火の一つといわれる文化3 年(1806 3 月におきた大火(俗に丙寅の火事・車町火事・牛町火事といわれる)で、松浦家の上屋敷が焼け、庭園も壊滅的な被害を受けたと推測されています。

当時藩主であった松浦静山は本所屋敷に退避し、その年11月にそのまま隠居したため、鳥越屋敷は新藩主松浦熈が居住する屋敷となりました。そして、10代藩主松浦熈の時代に、庭園は「蓬莱園」と命名されました。

明治初期の参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図」の地図によると平戸藩上屋敷は「松浦邸」とされていることから、明治以降は、松浦家の邸宅となっていたと思われます。

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柳北公園の北西の歩道脇の台東区教育委員会の説明板(上写真)によると、蓬莱園は明治40年刊行の『東京案内』には「文化文政の頃の築造に係り、東京名園中現存するものの一也」と記されているそうです。

また『浅草区誌』によると、大池を中心に、岡を築き、樹木を植え、東屋を建て、13基余の燈籠を配し、園内各所に雅趣ある名称を付した。面積は約2600坪に及び、池水は鳥越川から取り入れていたそうです。

しかし、蓬莱園は、関東大震災のために荒廃し、昭和12 年、東京都立忍岡高等学校建造のため、敷地は埋め立てられ、ついに消滅してしまいました。

現在は忍岡高等学校グラウンド東北隅に、「望潮の入江」といわれた池の一部と、都天然記念物指定の大イチョウを残すだけとなっています。(下写真)

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私が訪ねた時には黄葉がかろうじて残っていました。

 大イチョウは忍岡高校内あるため、近くで見るには、忍岡高校の許可が必要になります。上写真は、忍岡高校に許可を得て校内から撮影したものです。2回目にお邪魔した時には断られましたから、必ずしも常に許可されるわけではなさそうですので、ご注意ください。

 それでは改めて、皆様、よいお年をお迎えください。


赤印が「蓬莱園跡」の石碑と台東区教育員会の説明版設置場所です。
青印が忍岡高校内にある大イチョウです。





by wheatbaku | 2019-12-31 09:16 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
金綱稲荷神社(秋葉原散歩③)

金綱稲荷神社(秋葉原散歩③)

 藤堂家上屋敷の東西は、AKKAP本社から和泉小学校辺りまでありました。

 現在は、その東側に、和泉公園があります。

 その和泉公園の東側に金網(きんつな)稲荷神社がありますが、この金綱稲荷神社に気付く人は少ないのではないでしょうか。

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しかし、金綱稲荷神社はかなり歴史のある神社です。

現在の運輸業界の大手である日本通運㈱の元となったのは、江戸の定飛脚問屋でした。

日本通運は明治4年(1871)に、4つの飛脚問屋が結成した陸運元会社からスタートしています。

その有力飛脚問屋の一つに京屋弥兵衛がありました。金綱稲荷神社は、この京屋弥兵衛が最初にお祀りしたものです。

金綱稲荷神社には、日本通運金綱稲荷神社奉賛会が寄進したご由緒を書いた石碑があります。

江戸の有力飛脚の一軒に当る飛脚問屋京屋弥兵衛が、徳川幕府から免許をうけて、大坂・京都・江戸間の運送事業を開始することになった際、お客様から頼まれた大切な手紙や金銭・貨物などを、安全正確に送り届けられことを願いました。その時、京屋弥兵衛は、京都の出身であり、伏見稲荷が、中世の頃盛んであった熊野参詣の道中を守護した道中安全の神様であること思い出して、伏見稲荷をお店に勧請しました。

 そして、ある夜、夢枕に王冠白衣のご神霊が立って「汝に黄金の綱を授ける」との詫宣がありました。そこで、早速自分の店で奉祀している神様に「金網(きんつな)」の名前をつけ、前にも増して篤く信仰しました。

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 それ以来、京屋の飛脚は、道中における災いが皆無となり、商売繁盛となりました。

これにより、京屋は、明治4年(1871)に陸運元会社になるまでの長い間、江戸時代を通じて商売を継続できました。

前述したように京屋は、ほかの飛脚問屋とともに明治5年に陸運元会社となりました。これ日本通運の源となるわけですが、陸運元会社は、さらに内国通運、国際通運となり、そして、日本通運となりました。

京屋弥兵衛が商売をしていたのは、日本橋の室町2丁目でしたので、金綱稲荷神社も元は、京屋の屋敷内にあったものと思います。それが、和泉町に移った時期や理由ははっきりしていないようですが、隣地に日本通運神田支店があったことと関係がありそうです。

金綱稲荷神社の隣には、現在日通本社ビルが建築中で、2021年には竣工するそうです。

 奉賛会の石碑(下写真)によると、日本通運では新造船に「金網丸」と命名し、航海の安全を祈ったところ、この金網丸に限り就航以来一度の海難事故はなく、奇跡といわれたこともあるそうです。

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また、大正1291日の関東大震災のとき、猛火が殆んど神田一面をなめつくし、今にも和泉町に延焼しようとしたその刹那、霊狐が、突然神田川沿いの屋上に現れ、炎上する火炎に立向い、それを追払う所作をしたといい、その神々しい姿が目に焼き付いているという話が地元に残っているそうです。



by wheatbaku | 2019-12-28 18:28 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
藤堂家上屋敷跡と伊藤伊兵衛(秋葉原散歩②)

藤堂家上屋敷跡と伊藤伊兵衛(秋葉原散歩②)

前回藤堂家上屋敷跡の話を書きましたが、現在は藤堂家上屋敷跡を感じさせるものはほとんどありません。

そうした中で、藤堂家上屋敷跡の一部に建っているYKKAPの本社ビルの一画に「藤堂和泉守上屋敷を彩った樹々」と書かれた説明板があります。下写真の手前が説明板です。

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説明板には、藤堂家の植木職を代々勤めた伊藤伊兵衛に縁のある樹木を植えたと書かれています。

その説明の通り、本社ビルの歩道脇には、上写真の通りいろいろな品種の樹々が全長約60メートルのコーナーに植えられています。

普通の生活では見かけることのないムラサキシキブなどが植えられていて、さながら小規模な植物見本園のような状態です。(下写真はムラサキシキブの実です。)

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また、「クロモジ」「シロモジ」といった植物もあります。「クロモジ」は楊枝として利用される木であることを知っていましたが、その仲間の「シロモジ」という木もあることは、初めて知りました。(下写真)

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これらすべてが、伊藤伊兵衛に縁のある植物であるかどうか確認できませんでしたが、大変興味深い植物が多く植えられています。植物が好きな人には興味深いコーナーだと思います。

そして、伊藤伊兵衛に関係する植木ももちろん植えられています。

伊藤伊兵衛は、豊島郡染井村の植木職でした。伊藤伊兵衛は代々襲名された名前であり、その三代目が伊藤伊兵衛三之丞、四代目が伊藤伊兵衛政武と考えられています。

藤堂家が染井に下屋敷を与えられたのは明暦4 年 (1658) のことです。明暦の大火後の大名屋敷の移動によるものと考えられています。

藤堂家の下屋敷が染井にあったことから、伊藤伊兵衛が藤堂家に出入りするようになり、三代目の伊藤伊兵衛三之丞は、藤堂家下屋敷の庭掃除などをする「露除(つゆよけ)」、つまり下男のような存在でした。そして、下屋敷で不要になった霧島つつじなど、多くの花木を自らの庭に移植し、多くの花や樹木を栽培し、特に霧島つづじが得意で、三之丞は、自らを「きり嶋屋伊兵衛」と称しました。YKKAPの本社ビルにも霧島つつじが植えられていました。(下写真)

藤堂家上屋敷跡と伊藤伊兵衛(秋葉原散歩②)_c0187004_14255325.jpg

三代目三之丞は、わが国で最初の総合的な園芸書「花壇地錦抄( かだんじきんしょう)」を出版したことでも有名です。

 また伊藤伊兵衛正武も、父の『花壇地錦抄』をより完成したものにするため、『増補地錦抄』『広益地錦抄』『地錦抄附録』を刊行しました。 下写真は、豊島区郷土資料館に展示されている「地錦抄シリーズつまり上記3種類の地錦抄の続編」です。

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 正武の代には、伊藤伊兵衛の庭には、8代将軍吉宗や将軍世嗣(のちの9代将軍)の徳川家重が御成りになったことや、江戸城にも出入りしたことが記録に残っています。

 伊藤伊兵衛正武が、力を入れたのが、楓です。自ら晩年に「楓葉軒(ふうようけん)」と名乗りました。

正武は、『歌僊楓集』『新歌僊楓集』『追加楓集』を著し、100種類の楓を選び出し品種名をつけました。

 さらに、「三夕楓(さんせきかえで)之図」という楓の図譜も著しています。

 三夕楓というのは、新古今和歌集に載っている三夕(さんせき)の和歌にちなんで名づけられた三種類の楓の品種を言います。

三夕の和歌というのは、新古今和歌集の中の結びの句が「秋の夕暮」となっている優れた三首の和歌をいいます。

それは次の三首です。
 西行法師の
 「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮」
 藤原定家の
 「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」
 寂蓮法師の
「さびしさはその色としもなかりけり槙立つ山の秋の夕暮」

 伊藤伊兵衛正武は、この三夕の和歌にちなんで「鴫立沢(しぎたつさわ)」「浦苫屋(うらのとまや)」「槙立山(まきたつやま)」と名付けました。

 これらの三夕の楓のうち、「鴫立沢」だけが現存しています。その貴重な「鴫立沢」の楓が、AKKAP本社脇に植えられていました。(下写真)

 もう紅葉も過ぎて、落ち葉に近い風情ですが、来年は、新緑の頃、紅葉の頃に訪ねてみたいと思いました。

藤堂家上屋敷跡と伊藤伊兵衛(秋葉原散歩②)_c0187004_14255271.jpg

1226日追記】

 新編武蔵風土記稿巻之18の豊島郡上駒込村の中で「芸家伊兵衛」として、伊藤伊兵衛について詳しく書かれています。

 まず、享保123218代将軍吉宗が御成りになり、その際に霧島つつじなどが御用として買い上げられています。そして、425日に、江戸城内の台所口に呼び出され、小納戸役の松下専助から舶来の樹を見せられ、伊兵衛が見たことがないが「深山楓」に似ていると答えたところ、それを持ってくるように命じられました。 後日、植木盆に植えた深山楓を献上すると、その年の秋に、深山楓に接ぎ木した舶来の楓を下賜され、珍しい樹だから繁殖して広めるように命じられたと書かれています。 

 これが、現在「唐楓(トウカエデ)」と呼ばれている楓で、命名したのも伊藤伊兵衛正武だそうです。

 浜離宮恩賜公園には、大きな唐楓(トウカエデ)があります。下写真は以前撮影したものです。

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浜離宮恩賜公園の説明では、この唐楓(トウカエデ)は、吉宗に清国の船が6株を献上し、1株は小石川御薬園(現・小石川植物園)に、5株は浜離宮に植えられたと伝えられているそうです。近くで葉の形をみると、まさにカエデです。(下写真)

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赤印がAKKAP本社脇にある説明板の設置場所です。












by wheatbaku | 2019-12-25 14:15 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
藤堂家和泉守上屋敷跡(秋葉原散歩①)

藤堂家和泉守上屋敷跡(秋葉原散歩①)

 秋葉原駅の東口周辺は江戸の史跡が多いのですが、インターネットで検索してもあまり詳しく説明されたものがないようですので、何回かにわけて、秋葉原駅東口周辺の史跡案内をしようと思います。

 最初に、藤堂和泉守上屋敷跡についてご案内します。

 藤堂家上屋敷は、現在の神田和泉町の西側部分にありました。秋葉原駅東口の目の前に位置します。

〈神田和泉町〉

 神田和泉町は、主に津藩藤堂家の上屋敷であった場所に起立した町です。

藤堂家の藩主が代々和泉守を名乗ったことから、名づけられました。江戸時代は武家地であったことから町名をもっていませんでしたが、明治5年に神田和泉町の名前が正式に誕生しました。

ただ、神田和泉町には、藤堂家上屋敷の東側にあった鶴岡藩酒井家中屋敷や旗本の屋敷も含めた部分も含まれていますので、神田和泉町イコール藤堂家上屋敷ではありません。概ね、現在の和泉小学校までが藤堂家の上屋敷だったと思われます。和泉小学校の東側に和泉公園がありますが、ここは、江戸時代は旗本屋敷でした。

津藩藤堂家の上屋敷の面積は、約1万5千坪あり、広大なものでした。
 下写真は、千代田区が設置した町名由来板です。

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〈藤堂高虎〉

 藤堂高虎は、近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県犬上郡甲良町)に、郷士であった虎高の子として生まれました。15歳のとき、浅井長政に仕え、姉川の戦などで武功をあげました。その後、織田信澄などに仕えた後、豊臣秀吉の弟豊臣(当時は羽柴)秀長に仕え、賤ケ岳の戦、紀伊雑賀攻め、島津攻めなどに軍功があり、加増を重ねられて、紀州粉川で2万石を拝領しました。

天正15(1587)、佐渡守に叙任しました。(最初は和泉守ではなかったんですね)

豊臣秀長の死後、その子秀保に仕え、文禄の役では秀保の代理として朝鮮に出陣し、水軍の将として武功を挙げました。

秀保の没後、高野山にのぼり剃髪しましたが、豊臣秀吉のたっての願いにより秀吉の直接の家来となり、文禄4年(1595)、伊予国に7万石を拝領し、宇和島城主となりました。慶長の役でも、水軍を率いて朝鮮に渡海し、巨済島の戦いで朝鮮水軍を全滅させ、1万石を加増されました。

豊臣秀吉の死後は家康に接近し、関ケ原の戦では、小早川秀秋を監視し、寝返った秀秋と共に大谷吉継を攻撃しました。その功から関ヶ原の戦いの後、12万石を加増され伊予半国を治めることと伊予今治城を建設しました。

藤堂高虎は城普請の名手として知られ、自分の居城である宇和島城、今治城をはじめとして、近江膳所城、伏見城、丹波篠山城、丹波亀山城などの普請を任せられました。さらに、江戸城の縄張りも担当し、江戸城が落成した際に2万石加増され、和泉守に改めました。

そして、慶長13年(1608)には伊賀1国と伊勢8郡にて移封され、伊勢国津城を拠点としました。この移封の際、伊賀上野城を築きました。下写真は、復元された伊賀上野城に展示されている藤堂高虎の兜です。豊臣秀吉から拝領した「唐冠兜(とうかんなりかぶと)」で三重県の文化財に指定されています。昨年、伊賀上野城を訪ねた際に見てきました。

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藤堂高虎は徳川家康から深く信頼され、家康は臨終の床で、「国家の大事のときには、一の先手は高虎、二の先手は井伊直孝」と言い残したといいます。

家康の死後、2代将軍秀忠からも信任され、加増を重ねて、元和3年(1617)に32万3950石となりました。その後秀忠の娘和子(東福門院)の入内にも奔走し、大坂城の縄張りも担当しました。

そして、寛永7年(1630)10月5日、江戸の藤堂藩邸でその生涯を終えました。享年75歳でした。

〈藤堂家の上屋敷〉

藤堂高虎が拝領した屋敷は、現在の神田和泉町の屋敷ではないと思います。

角川日本地名大辞典の神田和泉町の説明によれば、藤堂家は明暦の大火後に神田和泉町に土地を拝領したと書いてあります。

ということは、明暦の大火以前には、神田和泉町に屋敷がないことになりますので、藤堂家の上屋敷が明暦の大火以前どこにあるのか調べました。

いろいろ調べた中で、黒木喬著「江戸の火事」によると、明暦3年(1657)に発生した明暦の大火以後、火災に強い街づくりが計画され、江戸城北の丸にあった4代将軍家綱の弟綱重と綱吉の屋敷を辰の口(現在の大手町)に移し、徳川綱重は加賀藩前田家の上屋敷、徳川綱吉は津藩藤堂家の上屋敷に移ったと書いてあります。

そこで、「寛永江戸庄図」をみると大手門前に「藤堂大学」と書かれた屋敷があります。藤堂高次は、大学頭を名のっていたことがありますので、これは藤堂家の上屋敷で間違いないと思われます。

従って、藤堂家の上屋敷は、明暦の大火以前は辰の口にあり、明暦の大火後に、辰の口から神田和泉町に移転してきたことになります。

 

〈『江戸名所道外尽(どうけづくし) 外神田佐久間町』安藤広景画〉、

藤堂家の上屋敷がどんな様子であったわかる浮世絵があります。

下の浮世絵は安藤広景が描いた「外神田佐久間町」です。

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ここで描かれているのが、藤堂和泉守上屋敷の幕末の正門とそれに続く長屋を描いたものです。

表門は両脇に番所のついた格式の高い門構えとなっています。

また、塀の前には堀があることもわかります。また、門に続く長屋は堅固にできており、二階の窓は武者窓に横木をわたした「曰(いわく)窓」であったことがわかります。

〈森鴎外と東京医学校〉

 明治の文豪森鷗外、明治7年12歳の時、東京大学医学部(当時は第一大学区医学校、のちに東京医学校)に入学しました。

森鷗外は、医学生時代にこの長屋に寄宿していたことがあります。

こうした経験を踏まえて、代表作の一つ短編小説『雁』のなかにその頃のこの長屋の様子を書いています。

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「まだ大学医学部が下谷にある時の事であった。灰色の瓦を漆喰で塗り込んで、碁盤の目のようにした壁の所々に、腕の太さの木を竪に並べて嵌はめた窓の明いている、藤堂屋敷の門長屋が寄宿舎になっていて、学生はその中で、ちと気の毒な申分だが、野獣のような生活をしていた。勿論今はあんな窓を見ようと思ったって、僅わずかに丸の内の櫓やぐらに残っている位のもので、上野の動物園で獅子や虎を飼って置く檻の格子なんぞは、あれよりははるかにきゃしゃに出来ている。」
 これを読むと「曰(いわく)窓」が非常に頑丈にできていたことがよくわかります。

〈種痘所から東京大学医学部へ〉

 さて、森鷗外が入学した東京大学医学部(当時は第一大学区医学校、のちに東京医学校)ですが、元々は、安政5年 (1858) に江戸市中の蘭医が設立した神田御玉ケ池の種痘所がはじまりです。

種痘所は、神田相生町からの出火により類焼し、伊東玄朴の家に移転した後、万延元年 (1860) 10月 幕府直轄の種痘所となりました。

この種痘所は、これ以降しばしば名前を変更しています。

まず、種痘所から西洋医学所となり、さらに医学所と改称さて明治維新を迎えました。

明治以降は、さらにめまぐるしく名前をかえて、医学校、大学東校、東京医学校などの名称を経て東大医学部となっています。いちいち名前の変遷を覚える必要はありませんが、主なところだけ書いておきます。

明治元年 (1868) 7月 医学所は、横浜にあった軍事病院を下谷藤堂邸に移し、医学所とあわせて大病院となり、さらに明治2年大病院は、医学校兼病院と改称されたあと、大学東校と改称されました。

さらに、明治5年 8月 学制が布がれ、東校は、第一大学区医学校と改称された。

明治7年5月には 第一大学区医学校は、東京医学校と改称されました。

森鷗外が入学したのは、この時期にあたります。

そして、東京医学校は、明治9年11月本郷に移転し、明治10年 4月東京開成学校と合併し東京大学となり、東京医学校は、東京大学医学部なりました。



by wheatbaku | 2019-12-19 14:49 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
目白・神田川散歩(「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」)

目白・神田川散歩(「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」)

昨日は、毎日文化センターの「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」で、目白から神田川沿いを散歩してきました。

 絶好の行楽日和で、快晴のもと楽しく散歩してきました。

今回のコースは目白駅から江戸川橋駅までの次のようなコースです。

目白駅 ⇒ 千登世橋 ⇒ 宿坂 ⇒ 金乗院(目白不動尊)⇒ 南蔵院 ⇒ 山吹の里 ⇒ 甘泉苑(休憩) ⇒ 肥後細川庭園 ⇒  水神社 ⇒ 芭蕉庵 ⇒ 椿山荘 ⇒ 大洗堰跡 ⇒ 江戸川橋駅

 ご参加いただいた皆さん、お蔭様で楽しい散歩となりました。ありがとうございました。

 今日は、目白・神田川散歩での主な案内箇所をご紹介しておきます。

目白不動尊(金乗院)

 目白不動尊は、現在は金乗院の境内に鎮座しています。

 もともと、目白不動尊は、現在の場所から東に1Kほど離れた東豊山新長谷寺に鎮座していましたが、昭和20年の空襲で新長谷寺が焼失したため、金乗院と一緒になったものです。

 金乗院の山門の脇に不動堂が建てられて、そこに鎮座しています。

 奥のコンクリートの台の上が不動堂です。

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丸橋忠弥の墓(金乗院)

 由井正雪とともにいわゆる「慶安事件」を起こした丸橋忠弥は、鈴ヶ森で処刑された後、一族が密かに遺骸を貰い受け、紀州に埋葬しますが、一族の後裔である秦武郷(はたたけのり)が金乗院に移し墓碑を建てました。 

忠弥の本姓は長曽我部秦氏でしたので、忠弥のお墓の裏側をよく見ると、墓の裏面には「長曾我部秦盛澄」と刻まれています。

下写真は忠弥のお墓の前で説明を聞く参加者の皆さん

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甘 泉 園

甘泉園は、江戸時代は徳川御三卿のうちの清水家の下屋敷で、南側にある水稲荷神社境内や公務員アパートをふくむ広いものでした。

甘泉園という名は、庭園の中央に湧き水があり、その清水がお茶に合うところに由来しています。

庭園では、結婚式を挙げるカップルが前撮りをしたりする姿が見えることもあり、絶好のビューポイントです。

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肥後細川庭園

肥後細川庭園は、以前は新江戸川公園と言っていた公園で、平成293月から肥後細川庭園に名称を変更しました。

ここは幕末に肥後熊本藩細川家の下屋敷となりました。

庭園入口にある建物は松聲閣と呼ばれ、大正時代の建物です。もと細川家の学問所だった建物で、一時期は細川家の住まいでした。

下写真は松聲閣前で説明を聞く参加者の皆さん

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庭園の中央に大きな池がある池泉回遊式庭園です。目白台台地が神田川に落ち込む斜面地の起伏を活かし、湧水から流れ出した細流が池に流れ込んでいて、変化に富んだ景観をつくり出しています。

下写真は庭園内の土橋近くで説明を聞く皆さん

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芭蕉庵

松尾芭蕉は、延宝5年(1677)年から3年間、昔仕えていた藤堂家が神田上水の改修工事にたずさわり、関口に住んだといわれています。後にそこに芭蕉庵が造られました。庭園内には池があり、芭蕉の真筆を模刻した芭蕉句碑「古池や蛙とびこむ水の音」などがあります。下写真は、その門前で説明を聞く参加者の皆さん

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大洗堰跡

神田上水は、井の頭池を水源として、途中で善福寺川と妙正寺川の水を加えて、関口の大洗堰かから取水し江戸市中に水を供給していました。

江戸川公園に大洗堰跡の説明板が建っていますが、神田川は改修されて、すっかり面影はなくなっています。

下写真は説明板の前で説明を聞く参加者の皆さん。

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by wheatbaku | 2019-11-10 17:09 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
箱根山(戸山公園)に登頂してきました。

箱根山(戸山公園)に登頂してきました。

(「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」

昨日は、毎日文化センターの「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」で新大久保駅をスタートして大久保周辺を散歩して、最後は山手線内で最高峰の箱根山まで登ってきました。 

 NHKの朝の天気予報では、午後は雷雨になるかもしれないという予報でしたので心配しながら出発しましたが、結果的には、雷雨にもあわず、快適な散歩となりました。

 ご参加いただいた皆さん、ありがとうございました。

昨日の散歩ルートは次の通りです。

新大久保駅 ⇒ 皆中稲荷神社 ⇒ 小泉八雲記念公園 ⇒ 小泉八雲終焉の地 ⇒ 稲荷鬼王神社 ⇒ 島崎藤村旧居跡 ⇒ 新宿イーストサイドスクエア(休憩) ⇒ 西向天神社 ⇒ 大聖院 ⇒ 抜弁天 ⇒ 戸山公園(箱根山) ⇒ 東新宿駅

皆中稲荷神社

皆中稲荷神社は、戦国時代の天文2年(1533)に創建された神社で、大久保の鎮守ですが、寛永年間、徳川幕府が鉄砲百人組の組屋敷が現在の新宿区百人町に置かれたことから、鉄砲百人組の人たちに篤く信仰されました。

 ある時、鉄砲組の与力が射撃の上達を祈願したらところ夢の中にお稲荷さんがでてきて、翌日、稲荷神社に参拝してから射撃を試みたところ百発百中、全て的中したそうです。他の隊士たちも、それにならって稲荷神社に祈願して射撃をすると百発百中で的中したため、皆中(みなあたる)ということから皆中稲荷神社とよばれるようになったと言われています。

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小泉八雲記念公園

明治時代の文人小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、明治29年から亡くなる明治37年まで新宿で暮らしていました。小泉八雲が没した旧居跡近くに小泉八雲記念公園が平成5年に造られました。小泉八雲記念公園は、ギリシア風の公園となっていて、ギリシア大使から寄贈された胸像もあります。近くの大久保小学校の校門脇には小泉八雲終焉の地の石碑も設置されています。下写真の中央奥に小泉八雲の胸像があります。

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稲荷鬼王神社

稲荷鬼王神社の創建はご由緒書によれば承応2年(1653)に大久保の氏神として稲荷神社が建てられ、その後、宝暦2年(1752)に当地の百姓・田中清右衛門によって、紀州熊野より勧請された鬼王権現を勧請し、天保2年(1831)に稲荷神社と合祀して「稲荷鬼王神社」となったとされています。

現在では、鬼王権現を祀っている神社は稲荷鬼王神社だけだそうです。

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《紅皿の墓》

西向天神社の北側にある大聖院の駐車場の中に、紅皿の墓があります。

紅皿という名前はあまり聞きなれない名前だと思いますが、紅皿は、太田道灌の山吹の里伝説にでてくる女性です。

 紅皿の墓の脇に設置されている教育委員会の説明板には次のように書かれています。「太田道灌の山吹の里伝説に登場する少女・紅皿の墓と伝承されている。(中略)道灌の死後、紅皿は尼となって大久保に庵を建て、死後その地に葬られたという。」 

その説明板を見ながら説明を聞く参加者の皆さんの様子が下写真です。写真の奥に、紅皿の墓があります。

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抜弁天

抜弁天は、交差点の名前として知られていますが、もともとは厳島神社の別名です。

抜弁天(厳島神社)は、応徳3年(1086)源義家が後三年の役で奥州征伐の途上この地に立ち寄り、遠く富士を望み安芸の厳島神社に勝利を祈願しました。奥州平定して京都に帰る途中、お礼のために厳島神社を創建したと伝えられます。

境内が南北に通り抜けでき、また源義家が多くの苦難を切り抜けたことにちなんで、抜弁天として多くの庶民から信仰されてきました。

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箱根山

散歩の最後は戸山公園にある箱根山です。

箱根山は、標高44.6メートルあり、山手線内で最高峰です。

箱根山がある都立戸山公園の一帯は、江戸時代、尾張藩の下屋敷がありました。当時は「戸山荘」と呼ばれ、約45万平方メートルの広大な敷地には御殿のほか、池や山がありました。尾張藩の戸山荘は、尾張藩2代藩主の徳川光友が築いたもので、池をつくるために掘った土を盛り上げて造った人工の山です。下写真の奥に写っている山が箱根山です。

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 ご参加いただいた皆さんありがとうございました。




by wheatbaku | 2019-06-09 13:31 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
上野公園を散歩してきました。(「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」)

上野公園を散歩してきました。(「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」)

昨日は、毎日文化センターの「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」で上野公園を、参加者の皆さんと一緒に散歩してきました。

 少し暑い程度の陽気で、上野公園は、大勢の行楽客や外国からの観光客ぐらいあふれていました。

 寛永寺の開山堂などは以前は拝観客などほとんどいませんでしたが、昨日はかなりの拝観客がいました。そうした中で、楽しく散歩することができました。下写真は、寛永寺開山堂で説明をきく参加者の皆様ですが、ご参加いただいた皆様ありがとうございました。

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昨日は、次のコースで散歩してきました。

国立西洋美術館 ⇒ 両大師・寛永寺旧本坊表門 ⇒ 根本中堂跡 ⇒ 旧因州屋敷表門 ⇒ 東照宮(大石鳥居、水舎門、燈籠、唐門、透塀、社殿) ⇒ 上野大仏 ⇒ 時の鐘 ⇒ 時忘れじの塔 ⇒ 清水観音堂 ⇒ 秋色桜 ⇒ 彰義隊の墓 ⇒ 西郷隆盛銅像 

 主なご案内ポイントをスナップで紹介します。

 最初のご案内場所は、世界遺産に登録されている国立西洋美術館です。設計者はフランス人のル・コレビュジエです。西洋美術館は、松方コレクションを所属するために建てられた美術館です。前庭には、「考える人」をはじめとするロダンの作品が展示されています。これらのロダンの作品は、すべて本物であると説明したところ、皆さんは大変喜んでいました。下写真は「考える人」を見る参加者の皆様です。

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寛永寺の本坊は、御住職が起居する場所でしたが、上野戦争で焼失してしまいました。その中で、唯一焼失を免れたのが表門です。明治になって、帝室博物館(現在の国立博物館)の表門として利用されたあと、博物館の建直しに伴い、開山堂の東側に移築されました。

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上野公園には、寛永寺本坊表門のほか、もう一つ立派な門があります。それが国立博物館の中にある旧因州池田屋敷表門です。池田家の上屋敷は、現在の丸の内にありました。明治になって、高輪にあった東宮御所の正門として使用されたあと、昭和29年に国立博物館に移築されたものです。鳥取藩は32万石でしたが、その格式に則った立派な門です。

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 上野の東照宮は、元々は藤堂高虎が寛永4年(1627)、自分の屋敷に創建したものです。 現在の社殿は、慶安4年(1651)、3代将軍家光が大規模に造り替えたものです。

 東照宮の大石鳥居は、寛永10年(1633)上州厩橋(現在の前橋)藩主で老中を勤めた酒井忠世が奉納したものです。この石鳥居は基礎工事が万全だったため、安政の大地震、関東大震災の折にも少しも傾かなかったことで有名です。

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東照宮の参道から、上野動物園にある五重塔が見えます。

この五重塔は寛永8年(1631)に、江戸幕府の老中で土井大炊頭利勝の寄進により、上野東照宮の塔として建てられました。しかし竣工の8年後の寛永16年(1639)の春に花見客の過失によって焼失してしまい、現在見ることのできる五重塔は、その年のうちに再建されたものです。明治になって、東照宮から寛永寺に移され、さらに寛永寺から東京都に寄付されたものです。

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上野では、慶応4515日、新政府軍と彰義隊の戦いが起きました。敗北した彰義隊の人々の遺骸を焼いた場所に建てられたのが彰義隊の墓です。政府をはばかって「戦死之墓」とだけ刻まれています。字は山岡鉄舟が揮毫したものです。

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最後に案内したのは、西郷隆盛の銅像です。上野のランドマークの西郷隆盛さんの銅像は、高村光雲と後藤貞行の二人のコンビにより製作されました。明治31年の序幕式で、西郷隆盛の糸子夫人が「うちのひとはこんなひとじゃなかった」とつぶやいたといわれていますので、その背景などを説明しました。

上野公園を散歩してきました。(「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」)_c0187004_14401391.jpg
 上野公園内だけの散歩でしたので、歩く距離は、あまり長くありませんでしたが、そのかわり、各所でじっくりと説明しましたので、終了したのは5時直前でした。

ご参加いただいた皆様ありがとうございました。







by wheatbaku | 2019-05-19 14:37 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
西新宿を散歩してきました!

西新宿を散歩してきました!

 昨日は、毎日文化センターの「~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩」があり、新宿駅から高層ビル群をみながら江戸の面影をさがして西新宿を散歩してきました。

 この間、寒い日が続いていましたが、昨日は、春らしい陽気で久しぶりの行楽日和となり、気分よく散歩できました。

 ご参加いただいた皆さん、ありがとうございました。

 下写真は、新宿駅方向を見ながら、新宿駅の歴史の説明を聞く参加者の皆さんです。

西新宿を散歩してきました!_c0187004_11591932.jpg

 昨日、歩いたコースは次のようなコースです。

新宿駅 ⇒ 策(むち)の井跡 ⇒ 淀橋浄水場趾碑 ⇒ 常圓寺 ⇒ 成子天神社 ⇒ 新宿中央公園(休憩) ⇒ 熊野神社 ⇒ 十二社(じゅうにそう)の池跡 ⇒ 水道道路 ⇒ 韋駄天堂 ⇒ 箒銀杏 ⇒ 玉川上水跡(天神橋跡→勿来橋跡→玉川上水モニュメント→新町駅跡→千駄ヶ谷橋跡→葵橋跡)⇒ 新宿駅

 新宿駅西口は、高層ビルが立ち並んでいますので、高層ビル群が生まれた歴史が欠かせませんので、淀橋浄水場が建設された歴史と高層ビル群の歴史を説明しました。下写真は、高層ビル群をながめながら説明を聞く参加者の皆さんです。

西新宿を散歩してきました!_c0187004_11591355.jpg

高層ビル群のおかげで、新宿駅西口には江戸の面影はなさそうに思いますが、探せば、あちこちにありました。その一つが「策(むち)の井跡」です。

 新宿駅西口には、美濃高須藩松平家の下屋敷がありました。

 高須藩松平家からは、高須四兄弟といわれる幕末に活躍した4人の人物すなわち徳川慶勝、一橋茂栄、松平容保、松平定敬が生まれた家ですが、四兄弟の父松平義建(よしたつ)は隠居後、下屋敷で悠々自適の生活をしていました。

 そんな高須藩下屋敷の名残りをとどめているのが、「策の井」です。下写真左手の植栽の中にモニュメントと説明板があります。

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 青梅街道に面して日蓮宗の常圓寺(じょうえんじ)があります。
 常圓寺には、11代将軍家斉の顔を写したという「感応胎蔵(かんのうはらごもり)の祖師像」が祖師堂に祀られていますし、名奉行の一人筒井政憲の尾お墓があります。下写真は感応胎蔵(かんのうはらごもり)の祖師像」が祀られている祖師堂の前で説明を聞く参加者の皆さんです。

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 成子天神社は、平安時代、九州の太宰府で菅原道真が亡くなったという報せを東国の地で受けた家臣の佐伯と斎宮は、その死を悲しみ、京から菅原道真の生前に彫られた像を柏木村に持ち帰りお祀りしたという歴史のある古い神社です。

 そんな古い歴史を誇る神社ですが、現在の御社殿は平成26年に造営された大変新しいものです。

西新宿を散歩してきました!_c0187004_11585619.jpg

熊野神社は、江戸時代には、熊野十二所権現または十二社(じゅうにそう)といわれました。

熊野神社は、室町時代、中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州の熊野三山より十二社権現を勧請し祠ったものと伝えられます。

現在の拝殿は昭和9年に明治神宮が改築された時に、古材を譲りうけて建築したものです。

熊野神社の境内には、大田南畝の書のある水鉢やこの近辺の風景を讃えた十二社の碑をはじめ数多くの文化財が存在し、ミニ博物館として拝観できるようになっています。

西新宿を散歩してきました!_c0187004_11584985.jpg

新宿ワシントンホテルの敷地の一画に韋駄天堂があり、韋駄天がお祀りされています。

 もともとは、この韋駄天堂は、上州館林の城主秋元但馬守礼朝の守護神として当初江戸浅草にお祀りされていた韋駄天に由来するものです。

韋駄天は足腰の護る仏様ですので、いつまでも足腰が健康で散歩できるようにとお願いをさせていただきました。

西新宿を散歩してきました!_c0187004_11584361.jpg

散歩の最後は、玉川上水跡を散歩しました。

その途中の新宿文化クイントビルの前には、かつてここに、玉川上水が流れていたことを示す煉瓦造りのアーチのモニュメントがあります。

明治時代に新宿駅構内を通過していた玉川上水をイメージしながらモニュメントを見てもらいました。

西新宿を散歩してきました!_c0187004_11583755.jpg

昨日の西新宿散歩も、参加者の皆さんのおかげで、大変楽しい散歩となりました。ご参加いただいた皆さん、ありがとうございました。



by wheatbaku | 2019-04-14 11:55 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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