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塙保己一の生涯(渋谷散歩⑩) 

塙保己一の生涯(渋谷散歩⑩) 

塙保己一史料館は塙保己一の業績を顕彰する役割も持っているようです。

史料館の玄関先には、塙保己一の銅像が設置されています。(下写真)

そこで、今日は、塙保己一の生涯を簡単に書いておきます。

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 塙保己一は、江戸時代中期の延享3年(1746)5月5日、武蔵国児玉郡保木野村(現在、埼玉県本庄市児玉町)に、父荻野宇兵衛、母きよの長男として生まれました。生まれつき丈夫な方ではなく、7歳の時、肝の病がもとで失明しました。

 宝暦10年(1760)、15歳の時に江戸に出て、雨富須賀一検校の門人となり、鍼・灸・按摩、琴・三味線などの手ほどきを受けました。

しかし、いっこうに上達せず、一年たった時、絶望から自殺を決意しました。しかし、直前に思いとどまり、当初よりの大願である学問をしたい旨を雨富検校に打ち明けました。

雨富検校は、保己一の願いを許してくれました。それから保己一は一心に学問に打ちこみ、それにつれ、按摩の腕も上がり、18歳で衆分という位にあがりました。この時に、生まれ故郷の保木野村から保木一と名のりました。

安永4年(1775)に勾当に進んだのを機に、師匠雨富検校の苗字をもらい塙姓を名乗り、名も保己一と改めました。本名の荻野を名のらず塙を名のったのは、当時、名古屋に平家琵琶の名人荻野智一という検校がいたため、荻野が名乗れなかったという事情があります。

保己一は、中国の文選という書物に「己を保ちて百年を安んず」という言葉あり、それからとったと言われています。

安永8年(1779)34歳の時、『群書類従』の編纂をはじめました。この事業によってわが国の貴重書が散逸から免れさすこととなりました。

 寛政5年、国史・律令の研究機関としての「和学講談所」の設立を幕府に願い出て許され、後に。林大学頭(述斎)の支配下におかれ、講談所は幕府の官学に準ずる機関となりました。

 生涯をかけた『群書類従』は文政2年(1817)、72歳の時に完成しました。

文政4年(1819)2月には、盲人の最高位である総検校となりました。総検校に就任したものの就任後まもなくの文政4年9月12日になくなりました。享年76歳でした。

お墓は、四谷の愛染院にあります。お墓には「前総検校塙先生之墓」と刻まれています。(下写真)

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塙保己一は、記憶力を養うため、毎日般若心経を100回読経、生涯で220万回読んだとも言われています。

また、現在使われている400字詰めの原稿用紙の形式は、塙保己一が「群書類聚」の出版事業を手掛ける際に考案されたものと言われています。







by wheatbaku | 2019-02-28 19:42 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
塙保己一史料館(温故学会会館)(渋谷散歩⑨) 

塙保己一史料館(温故学会会館)(渋谷散歩⑨) 

渋谷郷土資料館・文学館からあまり遠くない場所に塙保己一史料館(温故学会会館)があります。

塙保己一史料館(温故学会会館)(渋谷散歩⑨) _c0187004_19531571.jpg

塙保己一史料館は温故学会が運営しています。温故学会は、塙保己一の業績を顕彰するため、明治42年に渋沢栄一らにより設立された公益社団法人です。

 保己一の精神である温故知新(論語・ふるきをたずねてあたらしきをしる)の趣旨に基づき活動するとともに、重要文化財指定の『群書類従』版木の保管、盲人福祉事業、各種啓発事業に努力しています。

温故学会会館(塙保己一史料館)は、昭和23月に建てられた建物で、会館は、平成124月文化庁より『登録有形文化財』に指定されました。(下写真は建物全景です)

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昭和124月には、三重苦の生涯をおくったヘレン・ケラーが温故学会を訪れています。

ヘレンケラーが訪れて、塙保己一の銅像に触れたという2階の講堂は、現在も当時のまま残こされています。

私たちが訪ねた際に、齊藤代表理事様が、塙保己一についてお話いただいたのが、ヘレンケラーが訪ねた場所だそうです。その話を聞いて大変感激しました。下写真は、講堂で参加者の皆さんにお話される齊藤代表理事様です。

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会館の倉庫には国重要文化財に指定されている「群書類従」の版木が1094枚保管されています。倉庫内は、依頼すれば見させていただけますし、写真撮影も可能です。下写真が倉庫内の様子ですが、両側の棚にぎっしりと積まれているのが板木です。その様子は壮観でした。

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なお、板木が保管されている倉庫は、耐火倉庫ではないため、火の元には大変気をつかっているそうです。

この板木を使用して、現在も印刷が可能だそうです。それを利用した和装本は一冊からでも販売しているそうです。

『群書類従』については、「ブリタニカ国際大百科事典」が大変詳しく書いていますので、「ブリタニカ国際大百科事典」より引用させてもらいます。

日本の古代から江戸時代初期にいたるまでの古書を集大成した叢書。編者は塙保己一を中心に,子の忠宝 (ただとみ) ,孫の忠韶 (ただつぐ) ,弟子の屋代弘賢 (やしろひろかた),黒川春村。正編は 1270種の文献を 530巻に,続編は 2103種の文献を 1150巻に収め,正続ともに神祇,帝王,補任,系譜,伝,官職,律令,公事,装束,文筆,消息,和歌,連歌,物語,日記,紀行,管絃,蹴鞠,鷹,遊戯,飲食,合戦,武家,釈家,雑の 25部に分れる。正編は安永8 (1779) 年に編纂に着手,文政2 (1819) 年に刊行された。(ブリタニカ国際大百科事典より)



by wheatbaku | 2019-02-25 19:41 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
薩摩藩下屋敷跡(渋谷散歩⑧)

薩摩藩下屋敷跡(渋谷散歩⑧)

 渋谷博物館・文学館の前あたりには幕末に薩摩藩下屋敷がありました。

 現在は、薩摩藩下屋敷の面影を残すものは「常盤松」の石碑だけです。

 下写真は、「常盤松」の石碑がある場所を写したものです。マンションの1階部分にあります。

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「渋谷区史」によると薩摩藩下屋敷が渋谷に設置された経緯は次のようです。

 薩摩藩下屋敷がある場所は、江戸時代初期の万治元年(1658)に大和柳本藩主織田源十郎秀一が拝領しました。

 その後時代が下がり、江戸時代後期の文化5年に、越後村上藩内藤家の深川清住町にあった下屋敷と相対替で、この屋敷が内藤家の屋敷となりました。

 この土地が、嘉永5年(1852)に相対替で薩摩藩の下屋敷となりました。

 さらに、内藤家の土地の一部は、幕府に上知され三根山藩牧野家を経て大和芝村藩織田家の下屋敷となっていました。薩摩藩島津家はその土地も相対替で入手しました。

 これで合計1万8千坪の広大な屋敷となりました。

 薩摩藩が、ここに下屋敷を構えたのは、芝の屋敷が海岸近くにあるため、外国船が襲撃してきた際には危険にさらされるため、その危険を避けるためでした。

 安政2年(1855)10月2日に、安政江戸地震が起き、三田藩邸、高輪屋敷、桜田屋敷も被害を受けました。一方、渋谷の下屋敷は、被害がほとんどなかったことから、翌日3日に奥はすべて渋谷に移ることになりました。

 その引っ越した奥一同の中に、天璋院(篤姫)もいました。

 天璋院(篤姫)は、家定に輿入れするために三田の藩邸に滞在していましたが、安政大地震に遭遇したため、渋谷の下屋敷に引っ越していました。

 篤姫が輿入れしたのは、安政江戸地震が起きてから、約1年後の安政3年11月11日のことでした。

 篤姫の輿入れの様子は宮尾登美子著「天璋院(篤姫)」には次のように描かれています。

『安政3年11月11日、その朝、これがおそらく見納めであろうと思われる、天球儀のある表書院で斉彬と篤姫は親子別れの盃ごとを執り行なった。

 女子一たび嫁しては再び帰らずという古訓にのっとり、熨斗はすべて結び切り、二度と同じ動作を繰返さず、そして次の間に下って将軍名代で御台所お迎えの役、大奥総取締滝山との挨拶が交わされたのち、いよいよ行列は出発となる。

 渋谷村から江戸城お広敷まで、先頭は滝山、続いて近衛家より母親役として下向した老女村岡、介添えの幾島のつぎに篤姫は朱塗鋲打ちの駕寵に乗り、その両脇に近衛家から篤姫付きとなった亀岡、花乃井が付従う。

 当日この道筋にあたる諸大名には通達が出され、篤姫通行並びに諸道具送りが屋敷の前を通過するときには、熨斗目麻上下着用の家来、羽織着用の足軽等、禄高に応じて相当の人数を差出し、見物人を払い、土下座して見送るよう、固く指示があった。

 この行列は陸続と続き、先頭が江戸城へ入ったあとでも、後尾はなお渋谷邸を出発しておらず、早朝から日没まで毎日毎日、人を送ったあとは調度品送りとなって、都合65日間続いたという。』

《常盤松の碑》

 島津家下屋敷には常盤松と呼ばれる銘木がありました。その常盤松があったはことを示す嘉永6年に島津藩士が建立した「常盤松の碑」(下写真)があります。現在では、この常盤松の碑だけが、この辺りが薩摩藩下屋敷であったことを示す唯一の名残りとなってしまいました。

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 常盤松の名前の由来には二説あります。

 一つは源義朝の側室であり義経の母である常盤御前が植えたからという説で、もう一つの説は世田谷城主吉良頼康の側室の常盤が植えたからという説です。

 渋谷金王丸は義朝・頼朝に仕えていたので、源氏と深い関係のある常盤御前がこの地に来て松を植えたということになったのだろうが、最初は常緑の松として常盤の松という名前で呼ばれていたものが、常盤御前の名前が当てられたのではないかと渋谷区史は書いています。

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 常盤松は金一千両と言われたとこの地に伝わっていることから、この松は銘木として評価が高かったようです。

 この常盤松は樹齢400年ほどの巨木でしたが惜しくも太平洋戦争で燃えてしまったそうです。
現在は、後継樹が植えられています。(上写真)

この常盤松にちなんで、昔は、常盤松町という町名がありましたが、現在は、常盤松小学校の名前にその面影が残されています。

  なお、常盤松之の碑設置場所の隣地は常陸宮邸ですが、昭和39年のご成婚以来の住居で、常陸宮邸の前には、皇太子明仁親王(当時)の御殿で、第二次世界大戦前までは東伏見宮邸でした。



by wheatbaku | 2019-02-22 19:53 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
松崎慊堂宅地跡 (渋谷散歩⑦)

松崎慊堂宅地跡(渋谷散歩⑦)

 今日は渋谷散歩の続きで、松崎慊堂宅地跡をご案内します。 
 前回ご案内した吸江寺の東に、渋谷区郷土博物館・文学館があります。(下写真)

 渋谷区の歴史・民族に関する展示のほか地下1階には渋谷区にゆかりのある作家の作品・資料などの展示がされています。

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 渋谷区郷土博物館・文学館がある場所は、江戸後期の有名な儒学者松崎慊堂(まつざきこうどう)の宅地だった場所です。

松崎慊堂は、熊本の百姓の子に生まれ16歳で江戸に出て、幕府の昌平黌に学びました。32歳のとき掛川藩に招かれ藩政に参画しました。

掛川藩は太田道濯の血を引く太田氏が藩主で、歴代老中など幕府の重職を担ってきた名門でしたが、藩校を新設しようという計画があり、松崎慊堂が招聘されました。掛川藩に仕えながらも、松崎慊堂は、林述斎を補佐して、朝鮮通信使と対応するなど行ない、その評価は大変高かいものでした。

しかし、文化11年(181444歳のときに、息子に跡を譲り隠居し、文化12年から、下渋谷村羽沢に石経山房(せっけいさんぼう)と名付けられた山荘を営み研究と門弟の教育に尽力し、弘化元年(1844)74歳で没しました。

『渋谷区史』によれば、松崎慊堂が亡くなったあと、その屋敷には、杉田玄白の孫杉田成卿が住んでいたこともあるようです。そうしたことは、渋谷郷土博物館・文学館の東側に建てられている渋谷区教育委員会の説明板にも書かれています。(下写真)

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松崎慊堂は、江戸時代後期の大学者として、知る人ぞ知る大学者です。

 その大学者としての松崎慊堂の名声を一層高めているのが、蛮社の獄(渡辺崋山・高野長英ら蘭学者に対する弾圧事件。蛮社とは蛮学社中の略)で逮捕された渡辺崋山の救援のために必死に奔走したことです。

そこで、松崎慊堂と渡辺崋山との関係についても触れてみたいと思います。

〔渡辺崋山救出に尽力した松崎慊堂〕

  渡辺崋山は、田原藩三宅家の海防掛も兼ねた家老でした。当時、海防問題は各藩とも大きな問題であり、特に田原藩は海に接した部分が長く、無視できませんでした。そのため、海防掛を拝命していた渡辺崋山は蘭学に興味を覚えたと言われています。

 渡辺崋山自身は蘭学の知識がなかったため蘭学の知識が深かった高野長英・小関三英らと交わるようになり、渡辺崋山はその蘭学グループのリーダーと目されるようになります。

 これに対して、当時目付であった鳥居耀蔵(のちに南町奉行となり鳥居甲斐守耀蔵と名のったことから「ようかい」とあだ名される)の策略により、政治批判と無人島渡航計画等の嫌疑で、天保10年(1839514日に逮捕されました。

 渡辺崋山逮捕の報に、崋山の知人は大変驚き、救援に尽力する人がいる一方で、崋山から遠ざかっていく人もいました。そうした中で、松崎慊堂は、高齢であるにもかかわらず、すぐに崋山救出に乗り出し、松崎慊堂の友人で渡辺崋山の師でもある佐藤一斎や事件の当事者ともいえる鳥居耀蔵訪ねています。しかし、鳥居耀蔵は告発の張本人ですので、当然良い返事をするはずもなく、佐藤一斎も積極的には動いた形跡はありません。

そうした状況の中で渡辺崋山に対して重罪が下される怖れがあると考えた松崎慊堂は、ついに時の最高実力者である老中水野忠邦に寛大な処置を嘆願した意見書を提出しました。

水野忠邦はこの意見書を熟読したといわれています。

一時は死罪も噂された渡辺崋山に対して出された判決は国許蟄居で、一命を取り留めることができました。渡辺崋山が死をまぬがれたのは、渡辺崋山を心配する人たちの救援活動の結果でしたが、その中心にいたのが松崎慊堂です。

渡辺崋山も松崎慊堂の尽力を知っており、赦免後松崎慊堂にあてた手紙にあわせて白羽二重と秩父絹を贈って深く感謝しています。

こうして助命された渡辺崋山は、地元田原に蟄居していましたが、天保12年(1841)、藩主に迷惑がかかることを怖れ自害しています。
 

赤印が渋谷区郷土博物館・文学館です。 
青印が吸江寺です。







by wheatbaku | 2019-02-20 16:56 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
板倉勝該の刃傷事件(吸江寺② 渋谷散歩⑥)

板倉勝該の刃傷事件(吸江寺② 渋谷散歩⑥)

 今日も、安中藩板倉家の菩提寺の吸江寺をご案内します。

吸江寺の板倉家の墓の前にある線香置きには、大きな家紋が刻まれています。

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 下写真がその拡大写真です。

 この家紋は、九曜巴(くようともえ)と呼ばれる家紋です。

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 この家紋を見間違えたことによっておきた江戸城内でおきた板倉勝該(かつかね)の刃傷事件についてお話します。

9代将軍徳川家重の時代の延享4年(1747年)815日、江戸城内での刃傷事件が起こりました。

その日は、月例拝賀の式日で総登城の日でしたが、熊本藩主細川宗孝が、旗本板倉勝該(かつかね)に殺害されたのです。

板倉勝該(かつかね)は城内で取り押さえられ取り調べが行われました。その結果、細川宗孝は板倉勝清と間違えて殺害されたことが判明しました。

板倉勝清は、安中藩板倉家の3代藩主でした。享保2年(1618)に家督を継いだ後、享保20年には、寺社奉行に就任していました。板倉勝清は、明和4年((1767)に西ノ丸老中となり、3年後は本丸老中に進んでいます。

板倉勝該(かつかね)は、下総国芳賀郡6千石を知行する板倉重浮(しげゆき)の息子として生まれました。

父の板倉重浮(しげゆき)は堀田正休の次男で板倉重大(しげもと)の養子となって板倉家を継いでいました。

板倉家を継いだのは兄の勝丘でしたが、勝丘が延享3年の12月に、亡くなったため、勝該(かつかね)が、あとを継ぎました。

しかし、板倉勝該(かつかね)には、性格的に問題があり、家内を治めていけないと思った安中藩主の板倉勝清が、板倉勝該(かつかね)を廃して、別の人物に後を継がせようとしました。それを知った勝該(かつかね)が勝清に恨みを抱き、勝清を亡きものにしようと斬りつけたと言われています。

 それでは、なぜ板倉勝清でなく、細川宗孝に斬りつけたかですが、それは板倉勝該が、背中にあったその家紋を見間違えて、宗孝に斬りかかったのでした。

 板倉家の家紋「九曜巴」紋が、細川家の家紋「九曜星紋」にそっくりだった事から、この日、背中にあったその家紋を見間違えて、宗孝に斬りかかったのでした。

 板倉勝該(かつかね)は、そのまま水野忠辰(ただとき)に預けられ、8日後の23日に切腹、改易となりました。

一方、細川家宗孝は未だ31歳の若さで、世継ぎもおらず、後継者も未定でした。後継者がいない場合には、改易となるため、その日のうちに、弟の細川重賢(しげかた)を養子に迎え、幕府に届け出ました。そして、翌16日になって、その死亡を届け出ました。

この事件以降、細川家では、それまで使っていた九曜星紋から、少し●の小さめデザインの家紋に変更し、さらに、それまでは、背中に一つ、両胸に二つ、両そでの前側に計5つ紋だったのを、背後からも見えやすいようにと、両そでの後ろ側にも家紋を配置した「7つ紋」の特別な物にしたと言われています。

この細川宗孝の後を継いだ細川重賢は、その後、熊本藩の藩政改革を実施し名君と呼ばれています。



by wheatbaku | 2019-02-15 18:59 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
吸江寺(渋谷散歩⑤)

吸江寺(渋谷散歩⑤)

 以前書き始めていた渋谷散歩に関する記事ですが、金王八幡宮関係記事で中断していましたので、再び書き始めたいと思います。

 今日は、安中藩板倉家の菩提寺の吸江寺をご案内します。

 吸江寺は、國學院大學の東側にあります。渋谷駅から歩くと15分ほどかかります。

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吸江寺は、臨済宗妙心寺派のお寺です。

はじめ正保年間、麻布桜田に草菴を営んでいた僧良金石潭に、板倉重宗の妻戸田氏(法名玉樹院殿宝林清月大姉-寛永8年没)が深く帰依して、慶安3年に開山したのが吸江寺です。

 元禄14年(1701)、下渋谷村に移りました。それが現在の吸江寺です。ご本尊様は観音様で渋谷区の有形文化財に指定されています。(下写真が本堂です)

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吸江寺では、安中藩板倉家の初代藩主板倉重形が中興開基とされています。板倉重形は、京都所司代をながく勤めた板倉重宗の次男です。長男の重郷の系統が板倉宗家とされています。板倉宗家は、延享元年(1744)には備中松山藩主となりましたが、幕末に15代将軍徳川慶喜を補佐した板倉勝静が有名です。

重形の系統は、安中藩を治めた後、陸奥泉藩、遠江相良藩と転封を繰り返した後、寛延2年(1749)に上野安中藩主となり、それ以降安中藩に定置し明治維新を迎えました。
 板倉重形が中興開基であることから、墓域には、板倉家のお墓があります。下写真の中央の墓碑は最近のものですが、その後ろには、藩主や正室などの墓碑があります。

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安中藩に関係する話題として安政遠足(あんせいとおあし)がありますので、これに触れておきます。

安中は日本のマラソン発祥の地と呼ばれています。

これは、安政2年(1855)安中藩主板倉勝明が藩士の鍛錬のため、藩士96人に安中城門から碓氷峠の熊野権現神社まで走らせました。これが安政遠足(あんせいとおあし)と呼ばれ、安政遠足は、日本におけるマラソンの発祥といわれ、安中城址には「安中藩安政遠足の碑」と「日本マラソン発祥の地」の石碑が建てられているそうです。

この時の時間や着順は重要視されていなくて、ゴールした者には餅などがふるまわれたといいます。 出発地点とゴール地点の距離は約30キロメートルあり、標高差は1000メートル以上あります。

 この安政遠足(とおあし)を指示した板倉勝明(かつあきら)は、上野安中藩の第5代藩主です。板倉勝明は、第4代藩主板倉勝尚の長男として生まれ、文政3年(18201027日、父の死去により11歳で家督を継ぎました。安政4年(1857410日に享年49歳でなくなり、弟で養子の勝殷(かつまさ)が跡を継ぎました。

板倉勝明は愛知県西尾市長円寺に眠っていますが、父親の板倉勝尚と次の藩主勝殷は吸江寺に眠っています。


これをもとにした小説が土橋 章宏の「幕末 まらそん侍」です。

この小説を原作として映画『サムライ マラソン』が2019年2月22日つまりまもなく公開されます。主演佐藤健、監督はハリウッドのバーナード・ローズ。プロデューサーは『ラストエンペラー』のジェレミー・トーマスです。
まもなく公開されますが、原作がとてもおもしろかったので映画も観に行く予定です。


赤印が吸江寺です。





by wheatbaku | 2019-02-13 13:20 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
樋口一葉旧居跡(鶯谷散歩④)

樋口一葉旧居跡(鶯谷散歩④)

鶯谷散歩、今日は、樋口一葉旧居跡をご案内します。

樋口一葉旧居跡は鷲神社から北へ4~5分行った場所にあります。東京メトロ三ノ輪駅1a番出口からは5~6分で行きます。

樋口一葉は明治26年(1893720日、母と妹と共に本郷菊坂町より下谷龍泉寺368番地に移り住みました。

引っ越し先は瓦葺平屋の二軒長屋で、隣は人力車夫が住んでいました。そこで、86日から荒物雑貨・駄菓子店を開業しました。

一葉は商売のかたわら暇を見つけては、上野の図書館に通ったり、さりげなく吉原見物をしたり、店に来る子供達を観察していました。

その経験を活かして書かれた小説が名作「たけくらべ」です。

しかし、商売の方は振るわず、樋口一葉は店を閉じ、明治2751日に本郷丸山福山町四番地へ転居しました。

転居した後に、龍泉寺界隈を背景にして書かれたのが名作「たけくらべ」で、明治281月から『文學界』に連載されました。

「樋口一葉旧居跡」と刻まれた石碑の脇に台東区教育委員会の説明板が建てられています。(下写真)

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その説明板によれば、碑が建っている位置は、「一葉宅の左隣り酒屋の跡にて、一葉と同番地の西端に近く碑より東方6メートルが旧居に当る」そうです。

 一葉は日記「塵の中」で、「此家は、下谷よりよし原がよひの只一筋の道」と書いていますので、当時は前の道路は吉原に向かうメイン道路で、「茶屋町通り」と呼ばれていました。

 下谷方面から、吉原に向かう際には、大門が反対側にあるため、茶屋町通りを通ってお歯黒溝に沿って半周する形になります。

 「たけくらべ」の冒頭は「回れば大門の見返り柳いと長けれど」で始まりますが、樋口一葉がいた家からは大門に向かうには、吉原遊郭をグル~と回ることになりますので、こうした表現になったという説があるそうです。

 

 また、一葉はこのあたりを「鶉なく聲もきこえて花すヽき まねく野末の夕べさびしも」と和歌に詠んでいますが、この和歌で当時の竜泉寺町の様子がわかります。

赤印が樋口一葉旧居跡です。 
紫印が飛不動です。青印が鷲神社です。





by wheatbaku | 2019-02-04 13:46 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
鷲神社(鶯谷散歩③)

鷲神社(鶯谷散歩③)

 鶯谷散歩ですが、今日は、酉の市で有名な鷲神社をご案内します。

鷲神社と書いて「おおとりじんじゃ」と読みます。

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鷲神社は、江戸時代には「鷲大明神社(わしみょうじんやしろ)」と呼ばれていましたが、明治になって「鷲(おおとり)神社」と改称しました。

鷲神社の御祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)と日本武尊(やまとたけるのみこと)です。

鷲神社は「おとりさま」として一般にも親しまれており、毎年11月の酉の日には「酉の市(とりのいち)」が開催され、大勢の人がお参りするので、広く知られています。(下写真は御社殿です)

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鷲神社の社伝によると、「酉の市」の由来は「天日鷲命は、諸国の土地を開き、開運・殖産・商売繁昌に御神徳の高い神様として古来よりこの地にお祀りされていました。その後、日本武尊が東夷征討の際、社に立ち寄り戦勝を祈願し、志を遂げての帰途、社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、そのお礼参りをさた日が11月の酉の日であったので、この日を鷲神社例祭日と定めたのが「酉の市」です。」とされています。

「酉の市」は、江戸時代には、「酉のまち」と呼ばれ、歌川広重の名所江戸百景でも「浅草田甫酉の町詣」(下写真)として描かれています。「酉のまち」は「酉の祭」から由来しました。

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現在も、酉の市は、境内には熊手をうる屋台が並び、幸せを掻き込む縁起物の熊手を求める人で賑わいます。

また、鷲神社の開運・商売繁昌のお守りである熊手御守は、午前零時を期して打ち鳴らされる一番太鼓と共に授与され、一番先に熊手御守を受けた人には、「一番札」として神社の金小判が授けられるそうです。

拝殿正面には、顔の各場所により違うご利益を授かると伝えられている「なでおかめ」があり、人気があります。

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鷲神社は、下町七福神の札所ではなく、「下町八社福参り」や「浅草名所七福神参り」の札所です。

境内には、正岡子規の「雑閙や 熊手押あふ 酉の市」と榎本其角の「春をまつことのはじめや酉の市」という句碑や樋口一葉文学碑などがあります。

下写真は正岡子規の「雑閙や 熊手押あふ 酉の市」句碑です。「雑閙」の字は何と読むのかというのが話題になりましたが、「ざっとう」と読みます。

鷲神社(鶯谷散歩③)_c0187004_12015743.jpg

下写真が榎本其角の「はるをまつことのはじめや酉の市」の句碑です。
 句碑の文字は、くずし字で書かれているため、読み取るのが難しいです。

鷲神社(鶯谷散歩③)_c0187004_12014973.jpg

赤印が鷲神社です






by wheatbaku | 2019-01-31 11:57 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
小野照崎神社(鶯谷散歩②)

小野照崎神社(鶯谷散歩②)

 鶯谷散歩、今日は小野照崎神社をご案内します。

小野照崎神社(鶯谷散歩②)_c0187004_20585108.jpg
 小野照崎神社の小野は御祭神の小野篁の「小野」を表し、「照崎」は、神社が創建された「照崎(現在の上野公園付近)」を表します。

小野照崎神社の祭神は、平安初期の漢学者・歌人として有名な小野篁(たかむら)です。小野篁は初の遣隋使小野妹子の子孫で、美人で有名な小野小町のお祖父さんという説もあります。

小野照崎神社の創建の年代は不明ですが、次のような伝承があります。

小野篁は上野国司の任期を終え、帰洛の途についた際、上野照崎(忍岡、現在の上野公園付近)の景色が良いと讃えました。

そこで、仁寿2年(852)小野篁が亡くなったとき、その景色を楽しんだ上野照崎に小野篁の霊をお祀りしました。

その後、江戸時代をむかえ、寛永2年(1625)忍岡に東叡山寛永寺を創建するにあたって、小野照崎神社を移転することとなり、坂本村の長左衛門稲荷社が鎮座していた現在地に遷座したとされています。

一説には、忍岡から孔子聖廟が昌平橋に移った元禄4年(1691)頃に遷座したのではないかとも言われています。

 現在の社殿は慶応2年(1866)に建てられたもので、関東大震災や東京大空襲などを免れたものです。

小野照崎神社(鶯谷散歩②)_c0187004_20584619.jpg

《下谷坂本の富士塚》

 小野照崎神社境内には富士塚があり、下谷坂本の富士塚と呼ばれています。

富士塚は模造の富士山で、坂本の富士塚は、文政11年(1828)に地元の富士講である東講により築造されたと考えられています。
 坂本というのは地名で、小野照崎神社がある場所が江戸時代は坂本村と呼ばれたことによるものです。

富士山信仰は室町時代末期頃に起こり、江戸時代中期には非常に盛んになり、江戸をはじめとして富士講があちこちで結成され、富士塚も多数築かれました。その数は、江戸とその近郊で、50余りあったといいます。しかし、現在まで残っている富士塚は多くありません。

小野照崎神社(鶯谷散歩②)_c0187004_20583655.jpg

ここの富士塚は高さ約5m、直径約16mです。
 富士塚は富士の溶岩でおおわれ、東北側の一部が欠損していますが、原形がよく保存されていて、国の重要有形民俗文化財に指定されています。

赤印が小野照崎神社です。







by wheatbaku | 2019-01-27 20:52 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
旧陸奥宗光邸(鶯谷散歩①)

旧陸奥宗光邸(鶯谷散歩①)

 今日からは、下谷七福神巡りでご案内した場所を紹介していきます。
 下谷七福神については、過去にアップした記事がありますので、そちらをご覧いただきたいと思います。
 下谷七福神①  (七福神めぐり)
 下谷七福神②  (七福神めぐり)
 下谷七福神③  (七福神めぐり)

 そこで、今日は旧陸奥宗光邸をご案内します。

陸奥宗光は、明治の外務大臣として明治27年に起きた日清戦争の講話条約締結、明治27年のイギリスとの治外法権撤廃などを実現し、日本の外交史上に大きな足跡を残した外交官です。その陸奥宗光の旧邸(下写真)が鶯谷にありますが、このことはあまり知られていないようです。

旧陸奥宗光邸(鶯谷散歩①)_c0187004_18331092.jpg

陸奥宗光の邸宅として有名なものが、駒込の旧古河庭園です。

旧古河庭園は、元々は、陸奥宗光の別邸でしたが、陸奥宗光の次男潤吉が古河財閥創業者である古河市兵衛の養子となり、2代目当主となり、古河家の所有となりました。そのため、旧古河庭園と呼ばれます。

旧古河庭園の本館建物(下写真)はジョサイア・コンドルが設計し、大正65月に竣工したものです。

旧陸奥宗光邸(鶯谷散歩①)_c0187004_18330386.jpg
 鶯谷にある旧邸は、旧古河庭園の建物に比べると木造でもあり、少し見劣りする感は否めません。

それもそのはず、鶯谷の旧邸は、陸奥宗光が、外交畑で本格的に活躍する前の明治16年から明治21年まで住んでいた住宅です。

旧陸奥宗光邸(鶯谷散歩①)_c0187004_18325635.jpg

陸奥宗光は、紀州藩士出身で、坂本龍馬の海援隊に属していたこともあります。明治になって新政府に登用されますが、明治7年に新政府に辞表を提出し和歌山にかえります。そして、西南戦争に加わりませんでしたが、同じ時期に政府転覆活動に関与したため、明治11年に禁固5年の刑を受け山形の監獄に投獄されました。明治16年1月に出獄したあと、明治16年9月にこの邸宅を購入しました。

陸奥宗光は、明治17年4月から明治19年2月まで宗光はロンドンに留学しますが、その留守中、家族がこの家に暮しました。そして陸奥宗光は留学から帰国して明治20年4月に六本木に転居するまでここで過ごしていましたが、明治21年に借金返済と息子のロンドン留学費用の捻出のため、この家を売却しています。

陸奥宗光から購入したのは「ちりめん本」という本を出版していた長谷川武次郎でした。現在も、長谷川武次郎のご子孫が住まわれているということで、敷地内に入ることはできず、敷地外から眺めることができます。

この建物は住宅用建築として建てられた洋館の現存例としては都内で最も古いもののひとつです。

もともとは洋館のほか和風建物が付属した住宅でしたが、現在は、洋館部分だけが残っています。

赤印が旧陸奥宗光邸です。







by wheatbaku | 2019-01-24 18:31 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
  

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