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カテゴリ:城下町( 6 )
御手杵の槍(川越城⑥)

御手杵の槍(川越城⑥)

 川越城本丸御殿の大広間に天下三名槍の一つ「御手杵(おてぎね)の槍」の槍鞘(レプリカ)が展示されていました。
 そこで、今日は、松平大和守家と縁のある「御手杵(おてぎね)の槍」について書いてみます。

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天下三名槍は、日本号(にほんごう、ひのもとごう)、蜻蛉切(とんぼきり)そして、御手杵(おてぎね)の三本の槍をいいます。

日本号は、黒田節に歌われているように、黒田官兵衛の家臣母里太兵衛(友信)が大酒を呑んだお礼として福島正則から手に入れたことで有名な名槍です。

蜻蛉切(とんぼきり)は、徳川四天王の一人本多忠勝が持っていた名槍です。

蜻蛉(トンボ)が飛んできて穂先に止まった途端、二つに切れてしまったので、その名前がついたと言われている槍です。

「御手杵(おてぎね)の槍」は、戦国時代に下総国結城の大名結城晴朝が島田宿の名工義助に作らせた槍で、刃渡り約140センチで、柄を含めた全長は約380センチの非常に大きな槍です。

御手杵という名前は、槍の鞘(さや)が手杵の形をしていたことに由来します。
 展示されている槍鞘は、高さ156センチ、最大直径75センチの大きさがあります。(下写真参照)

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手杵というのは、丸い太い棒の中央のくびれた部分を握ってつく杵をいい、十五夜の季節に月でうさぎが餅をついている絵に出てくることがあります。

また、結城晴朝が、ある戦場で挙げた敵の首級をこの槍に通し担いで帰城する途中で、中央の首級が落ち、その時担いだ槍の姿が手杵の様に見えたので、「御手杵」の名がついたともいいます。

「御手杵(おてぎね)の槍」は、結城晴朝から、養子の結城秀康に伝わります。

 徳川家康の次男として生まれ結城秀康は、豊臣秀吉の養子となり、さらに結城晴朝の養子となり結城家を継いでいました。

関ヶ原の戦い後、結城秀康は越前67万石に封じられ、秀康の五男直基が結城氏の名跡を継いだため、「御手杵の槍」は、松平直基に伝わりました。

松平直元基は、松平大和守家の初代ですので、それ以降松平大和守家が受け継いできました。

松平大和守家が川越藩主であったことから、本丸御殿に「御手杵の槍」の槍鞘が展示されているようです。

こうして、松平大和守家に伝わった「御手杵の槍」は、昭和20年の東京大空襲によって、東京の大久保にあった松平邸が焼失した際に、蔵に保存してあった「御手杵の槍」も焼失してしまいました。

 川越城の本丸御殿には、「御手杵の槍」の槍鞘が展示されていますが、栃木県結城市の結城博物館、群馬県前橋市の前橋東照宮、埼玉県東松山市の箭弓神社には、「御手杵の槍」のレプリカがあるそうです。

箭弓神社にレプリカが奉納されているのは、前橋藩主であった松平大和守家の領地が東松山周辺にあり、それを管理する東松山陣屋があった縁のようです。




by wheatbaku | 2018-03-04 11:55 | 城下町
富士見櫓跡(川越城⑤)

 富士見櫓跡(川越城⑤)

 川越城の本丸御殿の南西方向に富士見櫓跡が残されています。

本丸御殿からは、住宅街を通って、3分程です。

明治維新後に川越城は取り壊しが行われ、現存する遺構が非常に少ないのですが、富士見櫓跡は川越城の貴重な遺構の一つとなっています。

富士見櫓があった小高い岡は、下から見上げるとかなりの高さがあります(下写真参照)ので、その上にたつ富士見櫓は、資料がないため、正確な規模はわかりませんが、かなりの高さだったのではないかと思います。

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川越城には、城の中央には太鼓櫓、東北の隅に虎櫓、城の北に菱櫓、南西に富士見櫓の四つの櫓がありました。

川越城には天守閣がありませんでしたので、四つの櫓のうち、最も高い場所にあった富士見櫓が、天守閣の代わりをしていました。

岡の上には「川越城址碑」と刻まれた石碑があります。その後方が櫓台だと思われます。

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富士見櫓跡には、御嶽神社、浅間神社、富士見稲荷の三つの神社が鎮座しています。下写真は、御嶽神社です。

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富士見櫓を復元しようという構想もあるようですが、なかなか進展はないようです。


by wheatbaku | 2018-03-02 10:35 | 城下町
川越藩松平家のあだ名は「引っ越し大名」(川越城④)

 川越藩松平家のあだ名は「引っ越し大名」(川越城④)

川越城本丸御殿を造営したのは川越藩主松平斉典(なりつね)でした。

松平斉典(なりつね)は、松平大和守家といわれる越前松平家の分家の8代目になります。

松平大和守家は、徳川家康の次男である結城秀康の五男の松平直基を初代とする「御家門」と言われる高い家柄ですが、この松平大和守家は、非常に転封が多い大名であったため、「引っ越し大名」というありがたくないニックネームがありました。

今日は、この「引っ越し大名」のお話です。

松平大和守家の初代直基は、越前勝山藩3万石⇒大野藩5万石⇒出羽山形藩15万石⇒播磨姫路藩主15万石と転封しています。

さらに、2代目直矩(なおのり)は、姫路藩15万石⇒越後村上藩15万石⇒播磨姫路藩15万石⇒豊後日田藩7万石⇒出羽山形藩10万石⇒陸奥白河藩15万石へ移され、一代で5回の転封を命じられています。(実は、直矩は藩主に就任する前に2回転封を経験しているので、生涯では7回転封しているのです。)

このように、非常に多くの引っ越しを経験させられているため、「引っ越し大名」と呼ばれました。

 2代松平直矩が藩主であった時の松平大和守家の転封の苦労を描いた小説が土橋章宏さんの『引っ越し大名 三千里』です。

主人公は書庫係でありながら「引っ越し奉行」を押し付けられた片桐春之助で、この片桐春之助が、引っ越し作業に奮闘する姿をコミカルかつホロッとさせながら描いた小説ですが、大名の引っ越しの苦労がよくわかります。

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 松平大和守家は、その後、奥羽白河藩から播磨姫路藩に復帰しますが、さらに上野前橋藩に転封となり、そして、明和4年(1767)に川越に入封したのでした。

 このように、転封を繰り返した松平大和守家は、転封のたびに多額の費用が必要なため、当然のことながら財政的には危機に瀕します。

 松平斉典(なりつね)にとっても財政再建は重要な課題でした。

 財政再建のために諸施策に取り組む中で、御家門ならではの施策を講じました。

 それが子だくさんであった11代将軍の子供を養子に迎えることでした。

 川越藩の働きかけが功を奏して、家斉の25男紀五郎(松平斉省)の養子が決まりました。

 そして、これに合わせて、旧領姫路への帰藩もお願いしましたが、これは聞き届けられませんでした。しかし、2万5千石の加増となりました。

 松平斉典(なりつね)は、姫路藩への転封がダメになったので、さらに、他領への転封を願い出ました。

 この川越藩の願いを受けて、天保11年(1840)に発令されたのが、川越藩松平家を庄内へ、庄内藩酒井家を長岡へ、長岡藩牧野家を川越へ転封する三方領知替えです。

 しかし、この三方領知替えについては、庄内藩の農民が強く反対し、庄内地方だけでなく、江戸でも駕籠訴などを展開したため、三方領知替は、中止となっています。

 そのため、松平大和守家は、庄内藩への転封が中止となったかわりに、2万石の加増が認められています。


by wheatbaku | 2018-02-27 20:13 | 城下町
川越城本丸御殿(川越城③)

川越城本丸御殿(川越城③)

今日は、川越城の本丸御殿について書きます。

川越城の面影を残す遺構が、埼玉県指定文化財になっている本丸御殿です。

 下記写真は、玄関前から見た本丸御殿全景です。訪ねた日は屋根にまだ雪が残っていました。

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川越城の本丸御殿は、嘉永元年(1848)に藩主松平斉典(なりつね)が造営したものです。

それまでは、御殿は本丸でなく、二ノ丸にありましたが、二ノ丸御殿が、弘化3年(1846)に城内で起きた火災で焼失してしまいました。

そのため、御殿の再建が必要となりましたが、二ノ丸では狭すぎるので、本丸に再建する願いを幕府に提出し、幕府から許可を得て本丸に建設しました。

そして、2年間の建築工事をへて、嘉永元年(1848)に完成しました。

完成した本丸御殿は16棟、1025坪の規模をもっていましたが、明治維新後次第に解体され、現存しているのは大広間などの玄関部分と、移築復元された家老詰所だけです。

 

大広間

玄関を入るとすぐ目の前にある大広間は、36畳の広さがあります。

大広間は、来客が城主のお出ましまで待機した部屋と考えられています。

川越藩の御用絵師・舩津蘭山(ふなつらんざん)の「杉戸絵」が描かられた戸板もはめられています。

ここは、戦後には、初狩中学校の屋内運動場として使われたとのことで、天井にはバレーボールの跡がたくさん残っています。

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家老詰所

玄関部分の奥に、家老詰所があります。

家老詰所は、江戸時代には、現在建てられている場所より約90メートル西側に建てられていたそうです。

明治6年にふじみの市の商家に解体移築されたものを、昭和62年に川越市に寄贈され、現在地に移築したものです。

木造平屋で建坪は54坪あり、室内は、床の間を備えた10畳一間と8畳の部屋二間を中心に構成されています。

奥の間には、協議している家老たちの人形が展示されています。

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by wheatbaku | 2018-02-23 00:10 | 城下町
川越市立博物館(川越城②)

川越市立博物館(川越城②)

 川越城の二ノ丸であった場所に、現在は、川越市立博物館があります。

平成231日に開館した博物館ですが、しばしば、近くを通りましたが、先日、初めて入館しました。

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博物館の展示室に入ると、大きな川越のジオラマが展示されていて、江戸時代の川越城の様子がわかります。(下写真は川越城を東から見たものです。)

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 この川越城をしっかり整備したのは、知恵伊豆こと松平信綱です。

川越藩は、天正18年(1590)の徳川家康が関東入国の際、譜代の酒井重忠が1万石で入封立藩しました。その後、酒井忠利、酒井忠勝、堀田正盛に続き、松平信綱となります。

寛永16年(1639)、島原の乱を鎮定した老中松平信綱が忍から6万石で入封しました。

松平信綱は、川越城を拡大し、城下町を整備し、新河岸川舟運の開設、武蔵野開発と野火止用水開削など、川越藩の藩政確立安定に大きな功績を残しました。

 川越城は、松平信綱入封以前は、本丸・二ノ丸・三ノ丸程度の小規模な城郭だったと考えられています。

 松平信綱は、その川越城の北側に新曲輪、西側に追手曲輪、東側に帯曲輪、南側に田曲輪を増設し、総面積は、面積は約326,000(東京ドーム約7個分)となり、川越城の整備は、松平信綱の時代にほぼ完成したとされています。

しかし、残念ながら、松平信綱の川越城の拡張整備について直接裏付ける資料は、現在のところ発見されていないそうです。
 また、松平信綱は、城下町に十ヵ町四門前の制度を整備して、城下町の発展を図っています。十ヵ町は江戸町・本町などの町人町で、四門前とは養寿院・行伝寺・蓮馨寺(れんけいじ)・妙養寺の門前町を指しました。

 博物館には土蔵の仕組みがわかる展示もあり、大変興味深く見物させてもらいました。

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by wheatbaku | 2018-02-21 17:20 | 城下町
川越城の歴史(川越城①)

 川越城の歴史(川越城①)

1月、川越の喜多院に初詣に行ってきました。その際に、川越城を散策してきました。

 川越城については、このブログでまとめて書いたことがないので、これから、数回にわけて書いていこうと思います。

 川越城は、太田道灌が築城したものとされていることから、川越市役所には、太田道灌の銅像がたっています。大田道灌の後方の建物が川越市役所です。(下写真)

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 しかし、川越城の築城には、父親の太田道真もかなり関与して築造したという説も有力です。

太田道真・道灌の主君が扇谷上杉持朝(もちとも)でしたが、川越城は、長禄元年(1457)扇谷上杉持朝(もちとも)の命令により築城されたものです。

扇谷上杉持朝は、古河公方足利成氏(しげうじ)に対抗するため、川越城を太田道真・道灌父子に命じて築城しました。

このころ、関東は、古河に陣取り古河公方と呼ばれた足利成氏とこれに対抗する山内上杉家とに分かれて戦っていました。

太田道灌が仕える扇谷上杉家は山内上杉家の一族でした。

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この両家は、時には争うこともありましたが、古河公方という共通の敵のため、扇谷上杉家は、山内上杉家に与して戦っていました。

 上杉側が、古河公方に対抗するため、この時期に築城したのが、川越、岩槻、江戸の三城です。

 この三城は、従来は太田道灌が築城したと言われています。

 大田道灌が、扇谷上杉家の上杉定正に暗殺されると、扇谷上杉家の勢力が弱体化していきます。

 その一方、小田原の後北条氏の勢力が強くなり、やがて川越城は、後北条氏の占拠するところとなりました。

それに対して、天文15年(1546)川越城の奪回を図った上杉氏は後北条氏の奇襲に会い、大敗して上野方面に逃れました。

 これが河越夜戦と言われる戦いで、日本三大奇襲戦の一つに数えられているほど有名な戦いです。

この川越夜戦以後、後北条氏が川越城を支配することとなりました。

 川越城を掌中に収めた後北条氏は、城代として譜代の重臣大道寺氏を配置しました。

 その後北条氏も、豊臣秀吉により攻撃され、天正18年(1590)、川越城は前田利家に攻められて落城しました。

やがて同年8月徳川家康が一族家臣を従えて関東に移った際には、川越には酒井重忠が1万石をもって封じられました。

それ以降、川越城には、譜代の有力大名が配置されました。

その中で、川越城の大幅な拡張・整備を行い、近世城郭の形態を整えるたのは、知恵伊豆とよばれた松平信綱でした。


by wheatbaku | 2018-02-16 22:05 | 城下町
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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