カテゴリ:江戸のヒロイン( 44 )
お美代の方と講安寺(江戸のヒロインゆかりの寺社⑦)

お美代の方と講安寺(江戸のヒロインゆかりの寺社⑦)

今日は、江戸のヒロインゆかりの寺で、11代将軍家斉の側室お美代の方ゆかりの講安寺を紹介します。

 講安寺は、東京メトロ千代田線湯島駅1番出口から徒歩5分の所にあります。

 有名な旧岩崎邸庭園の北側の無縁坂沿いにあります。しかし、旧岩崎邸庭園の入口は、耕安寺より手前にありますので、講安寺を知っている人は少ないと思います。

c0187004_18555255.jpg

 講安寺は、お美代の方が明治になってから暮らした場所で、亡くなったのも講安寺であったといわれています。
 下写真は本堂ですが、防火機能が高い土蔵造りという建築様式で造られていて、文京区の文化財に指定されています。

c0187004_18554236.jpg

 お美代の方は、11代将軍徳川家斉の側室で、多くの側室の中で家斉から最も寵愛を受けたといわれている側室です。

 父親は、中山法華経寺の智泉院の住職の日啓と書かれたものが多いのですが、国史大辞典によれば、「父は内藤造酒允就相、川尻与兵衛、中山法華経寺の日啓などとの諸説があり一定しない」と書いてあります。

 はじめ駿河台の旗本中野清茂(清武ともいう)の屋敷へ奉公に上がりましたが、中野清茂はお美代を自身の養女として大奥に奉公させまました。
 お美代の方は美しかったので、家斉の目にとまり、寵愛を受けるようになり、文化7年(1810)に御中臈となりました。

そして、文化10年(1813)3月26日に溶姫、文化12年(1815)10月17日に仲姫、文化14年(1817)9月18日に末姫を産みました。

仲姫は3歳で亡くなりましたが、溶姫と末姫は成長し、溶姫は加賀藩主前田斉泰(なりやす)、末姫は安芸国広島藩主浅野斉粛(なりたか)へ嫁入りしました。

お美代の方は、天保7年(1836)、家斉に働きかけて鼠山感応寺を建てもらい、実父の日啓が感応寺の住職となりました。

天保12年(1841)に家斉が亡くなると、剃髪し専行院と名のりました。家斉がなくなると、老中首座の水野忠邦は、家斉の側近たちを排除し、天保の改革を開始しました。


水野忠邦は、頽廃した綱紀の粛正と経費削減に乗り出し、寺社奉行阿部正弘により感応寺住職であった日啓は捕縛され、遠島とされました。(実際には島に流される前に牢死しています)

こうしたことから、お美代の方も、かつての栄光はなくなりました。

そして、前田家に輿入れした溶姫の願いにより、加賀藩前田家に引き取られました。しかし、溶姫が加賀藩国許の金沢に行くことになり、浅野家に移りましたが、続いて浅野家に嫁いだ末姫も国許に行くこととなり、そこを出ることとなりました。

そして、明治になってからは、お美代の方は、加賀藩前田家の上屋敷近くにある講安寺で暮らすことになりました。

溶姫は、明治元年5月1日に亡くなっていますので、こうしたことも、加賀屋敷の外で暮らすことになった理由ではないかと私個人は考えています。

そして、お美代の方は、明治5年6月11日に講安寺で亡くなりました。

国史大辞典でも「墓所未詳」と書いてありますので、講安寺を訪ねて、お美代の方のお墓が講安寺にあるかどうか確認させていただきましたが、講安寺にはないとの回答で、お美代の方のお墓はどこにあるのかわかりません。

赤印が講安寺です。





[PR]
by wheatbaku | 2018-10-19 18:28 | 江戸のヒロイン
柳沢吉保の側室染子のお墓(江戸のヒロインの墓㉔)

柳沢吉保の側室染子のお墓(江戸のヒロインの墓㉔)

江戸のヒロインのお墓、今日は柳沢吉保の側室染子(以下柳沢染子と言います)のお墓をご紹介します。

 柳沢染子は、柳沢吉保の側室ですが、江戸検のお題テキスト「江戸のヒロイン」には載っていない女性ですので、あまり知られていないかもしれません。

 ただ、柳沢染子のお墓は、笠森お仙のお墓がある正見寺のすぐそばにありますので、ご案内しておきます。

 柳沢染子のお墓は臨済宗妙心寺派のお寺である龍興寺にあります。 

龍興寺は、寛永6年(1629)に牛込津久土明神下に創建され、承応3年(1654)には小石川小日向に移転し、さらに、明治41年中野区上高田へ移転しました。下写真は龍興寺の本堂です。

c0187004_19373113.jpg

柳沢染子のお墓は、本堂の裏手にあります。お墓の表面には「霊樹院殿月光寿心大姉」という柳沢染子の戒名が刻まれています。(下写真)

c0187004_19372115.jpg

 柳沢吉保は、5代将軍綱吉の側用人を勤め、綱吉の寵臣で、佐貫藩で大名となった後川越藩主となり、その後、甲府藩15万石の藩主まで栄進をしました。

 その柳沢吉保は、上野国館林藩士柳沢安忠の長男として江戸市ヶ谷に生まれました。
 吉保の母は柳沢安忠の側室の佐瀬氏(了本院)でした。

 了本院は、柳沢吉保を生むとまもなく、吉保を正室の子として育てるため実家に帰され、吉保は生母を知らずに育ちました。そして父親の正室が亡くなった後、生母の存在を知った吉保は20年ぶりに母子の名乗りをあげました。

 柳沢染子は、吉保の生母了本院に侍女でした。


柳沢染子は、柳沢氏の領地上総国市袋村の郷士飯塚正次の三女として生まれた、了本院に仕えていました。


柳沢吉保の正室は、甲州出身の旗本の曽雌定盛の次女定子でしたが、子供が生まれなかったため、正室定子と相談のうえ、染子が側室に挙げられたようです。
 そして、貞享4年(168793日に、染子は柳沢吉保の嫡男となる吉里を生んでいます。そして、吉里が嫡子となりました。
 そのため、染子は正室定子に準ずる地位を与えられていました。
 そして、宝永2年(1705510日になくなりました。41歳でした。


この柳沢染子は、5代将軍の側室であり、懐妊したまま、柳沢吉保が拝領し、それから生まれたのが柳沢吉里だという話があります。

つまり、柳沢吉里は、5代将軍綱吉の御落胤ということになります。そこで、柳沢吉保は、柳沢吉里を徳川綱吉の養子にして将軍職を継がせようとしたという話にまで発展していているようです。

しかし、これらはあくまでも俗説のようで、柳沢吉保邸へ、徳川綱吉がしばしば訪れているため、それは、徳川綱吉が染子と吉里に会うために御成になったためと考えられたことなどから、そうした俗説が唱えられたようです。

赤印が龍興寺です。青印が正見寺です。






[PR]
by wheatbaku | 2018-10-16 19:35 | 江戸のヒロイン
大円寺と笠森お仙の碑(江戸のヒロインゆかりの寺社⑥)

大円寺と笠森お仙の碑(江戸のヒロインゆかりの寺社⑥)


笠森お仙にゆかりの寺社として、「笠森阿仙之碑」がある大円寺をご案内します。この記事も以前掲載したものの再掲です。

 大円寺は、谷中にありますが、東京メトロ千駄木駅からが近いです。

 千駄木駅1番出口から3分程度の至近距離にあります。

c0187004_21061564.jpg

大円寺は、日蓮宗のお寺です。創建年代等ははっきりしませんが、元禄16年(1703)に現在地に移転したとされています。


大円寺の本堂に近くに「笠森阿仙之碑」が建てられています。大正8年に建てられたものです。

「笠森阿仙之碑」は小説家永井荷風が文章を書いています。(下写真)

c0187004_21061035.jpg


「笠森阿仙之碑」の手前に「錦絵開祖鈴木春信」碑があります。

「錦絵開祖鈴木春信」碑は文学博士笹川臨風が撰し、題字は東京美術学校(現、東京芸術大学美術学部)校長正木直彦が書いています。(下写真)

c0187004_21060507.jpg


鈴木春信は、江戸時代中期の浮世絵師ですが、多色摺木版画の錦絵を始めた人物とされています。

その鈴木晴信が、笠森お仙の姿を数多く描いています。

そうしたことから笠森お仙と鈴木春信は大変関係が深い二人です。



大円寺に笠森お仙と鈴木晴信の碑が建てられたのは、大円寺にも笠森稲荷がお祀りされていた縁によるものといわれています。

大円寺の本堂は、お堂が二つ繋がった形をしています。(下写真)

c0187004_21060102.jpg


向かって左側は経王殿の額が掲げられていて、御本尊様(日蓮上人)が追お祀りされています。

向かって右側は薬王殿の額が掲げられています。こちらに笠森稲荷がお祀りされています。

c0187004_21055417.jpg
 

大円寺の笠森稲荷は、御住職の説明では、元々は瘡守稲荷だったようで、旗本大前氏が河内から勧請したそうです。

薬王殿の前には瘡守薬王菩薩と刻まれた石柱があります。(下写真)

c0187004_21054993.jpg


御住職の話では、こちらの笠森稲荷は、吒枳尼天(だきにてん)だそうです。笠森稲荷と呼ばず瘡守薬王菩薩と呼んでいるのは、神仏分離令と廃仏毀釈の影響だそうです。


このように、大正8年当時には、本来の笠森稲荷があった福泉院は廃寺となっていて、大円寺に笠森稲荷がお祀りされていたので、笠森お仙とそれを描いた鈴木春信の碑が、大円寺に建立されたと考えられています。

 赤印が大円寺です。





[PR]
by wheatbaku | 2018-10-11 20:45 | 江戸のヒロイン
功徳林寺と笠森お仙(江戸のヒロインゆかりの寺社⑤)

功徳林寺と笠森お仙(江戸のヒロインゆかりの寺社⑤)

 笠森お仙がいた水茶屋は、笠森稲荷の前にありました。
 その笠森稲荷は、明治になくなってしまい、現在は、功徳林寺になっています。
 そこで、今日は、功徳林寺を紹介します。 
 (なお、この記事は、過去に掲載したものを一部修正して再掲するものです。)

功徳林寺は、日暮里駅北口からは徒歩約6分、南口からは谷中霊園を通りぬけて徒歩約5分の距離にあります。

功徳林寺は浄土宗のお寺です。下写真は初音通りからみた功徳林寺です。

c0187004_16473366.jpg

谷中霊園は、明治7年に開設されましたが、墓地だけで法要をできませんでした。特に、谷中には浄土宗のお寺が全くないため、浄土宗の人たちは大変不便な思いをしていたようです。そこで、浄土宗が一致して新寺の建立を願い、日向国佐土原藩の第11代藩主であった伯爵島津忠寛が発起人となり明治18年に許可を得たのち、明治26年に建物が完成しました。それが功徳林寺です。

現在の本堂は、平成23年に完成したものだそうです。(下写真が本堂です)

c0187004_16472957.jpg

功徳林寺がある場所は、江戸時代は、天王寺の境内で、塔頭の福泉院があり、そこに笠森稲荷がありました。

笠森稲荷前にあった水茶屋の鍵屋(かぎや) に明和初年(176469)頃にお仙という名前の看板娘がいました。

これが、江戸の三美人の一人に数えられた笠森お仙です。

c0187004_16470892.jpg

三美人は、浅草観音裏の楊枝店の柳屋お藤、浅草二十軒茶屋の蔦屋(つたや)お芳、そして笠森お仙をいいます。なかでもお仙は人気が高く、初期錦絵の美人画モデルとして一枚絵の錦絵になったほか、歌舞伎にも取り上げられました。

また、手鞠うたに「向こう横丁のお稲荷さんへ、一銭あげて、ざっと拝んでお仙の茶屋に……」とうたわれるほど人気がありました。

明和7年(1770)に御家人の倉地政之助の妻となり突然消えたことも江戸の話題となり、「とんだ茶釜が薬罐に化けた」と騒がれました。「とんだ茶釜」はとんだ美人という意味でお仙をさし、「薬罐」は年取った薬罐頭の店番を意味しています。

福泉院は、明治になって、廃寺となり、笠森稲荷は寛永寺の養寿院に移っています。廃寺となった福泉院の跡地に創建されたのが功徳林寺です。

そのため、功徳林寺には、笠森稲荷堂があります。(下写真)

c0187004_16471498.jpg

お仙と笠森稲荷に関係する場所が、谷中に3か所あります。功徳林寺、大円寺、そして養寿院です。

それぞれの関係について、『台東区史』が非常にわかりやすく次のように書いています。

いま、谷中にはお仙に関係する場所がこの(功徳林寺)ほか二か所ある。三崎坂の中程に大圓寺がある。ここには「錦絵開祖鈴木春信璋」がある。また、水井荷風の碑文で「笠森阿仙乃碑」が建っている。大圓寺には享和年間に小石川白山から移した瘡守稲荷があり、よく笠森稲荷と混同された。

つぎは上野桜木一丁目の養寿院の笠森稲荷である。この稲荷は明治三年、天王寺中門前町から移したもので、これがお仙の茶屋のあった稲荷である。明治の初めに天王寺は縮小され、子院であり稲荷の別当にあたる福泉院が取り潰しにあったので、笠森稲荷を引き継いだのが養寿院であった。

さきの功徳林寺は明治十六年の創建で、現在の笠森稲荷はその後の勧請であるから、お仙の時代のものとは違う。

功徳林寺には、現在も笠森稲荷堂があり笠森稲荷がお祀りされています。

ここにお祀りされているのは吒枳尼天(だきにてん)です。(下写真参照)
笠森稲荷堂は、平成27年に新しく建てられたそうです。

c0187004_16464607.jpg
赤印が功徳林寺です。



[PR]
by wheatbaku | 2018-10-09 19:46 | 江戸のヒロイン
笠森お仙のお墓(江戸のヒロインの墓㉓)

笠森お仙のお墓(江戸のヒロインの墓㉓)

江戸のヒロインのお墓、今日は、笠森お仙のお墓をご紹介します。

笠森お仙という名前を初めて聞くという人は、江戸検を受検する人では一人もいないと思うほど江戸好きな人には有名な女性です。

笠森お仙は、谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘で、明和年間、浅草寺奥山の楊枝屋「柳屋」のお藤、浅草の二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」のおよしとともに明和期の三美人に数えられる女性です。

 笠森お仙のお墓は、東京都中野区上高田の正見寺にあります。

 正見寺は、浄土真宗本願寺派のお寺で、東京メトロ東西線落合駅1番出口から約5分、JR中野駅西口から約10分で到着します。(下写真)

c0187004_21131672.jpg

 笠森お仙のお墓は、本堂裏手の倉地家の墓所の中に建っています。ただし、笠森お仙のお墓は、現在は公開していないという情報を聞きましたので、お参りは難しいかもしれません。
 下の写真は、6年ほど前に、笠森お仙のお墓参りに行った際に撮らさせていただいたものです。その当時は寺務所にお願いすればお参りをさせてくれました。
 左側の「深教院妙心大姉」が笠森お仙です。

c0187004_21130827.jpg

 笠森稲荷は、谷中の天王寺の福泉寺の境内ありました。

 その笠森稲荷の前にあった水茶屋の看板娘が、笠森お仙です。

 大変な美人であったため、江戸っ子の評判を呼び、鈴木春信の錦絵にも取りあげられ、さらに評判となりました。

 どのくらい評判になったかについて、太田南畝が『半日閑話』巻十二の「笠森お仙其外」で次のように書いています。(本来は文語で書かれていますが、ここでは、わかやすいように書き換えています。)

 谷中の笠森稲荷にある水茶屋の娘でお仙(18最)が美人だというのでみんな見に行く。水茶屋の名は鎰屋(かぎや)五兵衛と言う。錦絵の一枚絵、あるいは絵草紙、双六、読売等に出ている。手拭いに染められる。飯田町中坂の世継稲荷が開帳した時(お仙の)人形も作って奉納した。明和五年五月に堺町で、中島三甫蔵の台詞で次のように言われた「釆女が原に若紫、笠森稲荷に水茶屋お仙云々と」 これによってますます評判になった。

 その秋七月には、森田座で、中村松江のおせんの狂言が大当りとなった。

浅草観音堂の後ろ、銀杏の木の下の楊枝店のお藤もまた評判が高い。あだ名は「いちょう娘」と言い、錦絵、絵草紙、手拭い等にも取り上げられた。読売や歌にも取り上げられた。それで、あちこちの娘の評判が上り、浅草地内大和茶屋の女蔦屋およし、堺屋おそでが錦絵の一枚絵に取り上げられるになった。

童謡に、「なんぼ笠森お仙でもいちょう娘にかないやしよまい(注意書:実は、笠森お仙の方が美しかった)どうりでかぼちゃが唐茄子だ」ということばがはやった。

 これを読むと、明和三美人と言いながら、笠森お仙が最も美人だったようです。

 そんな美人で大評判だった笠森お仙が、明和7年2月ころ、突然鍵屋から姿を消しました。

 このことについても、太田南畝が『半日閑話』巻十二の「とんだ茶釜」で次のように書いています。

 明和7年2月頃、「とんだ茶釜が薬缶に化けた」という言葉が流行した。

笠森稲荷の水茶屋のお仙がどこかにいってしまい、その跡に年取った父親が居るための戯れ言だという。

笠森お仙が突然消えたのは、御家人倉地政之助(甚左衛門)に嫁いだからです。

笠森お仙は桜田御用屋敷に住み、子宝にも恵まれ、文政10年1月29日に亡くなりました。享年77歳でした。

赤印が正見寺です。






[PR]
by wheatbaku | 2018-10-07 21:00 | 江戸のヒロイン
三沢局のお墓(江戸のヒロインの墓㉒)

三沢局のお墓(江戸のヒロインの墓㉒)

 前回紹介した阿茶局のお墓のある雲光院のすぐそばに浄心寺があります。

 浄心寺に眠っている江戸のヒロインは4代将軍徳川家綱の乳母三沢局です。

 ただ、江戸検のお題テキスト「江戸のヒロイン」には載っていないので、注目していない人も多いと思います。

 浄心寺は、雲光院の南西にあります。

 浄心寺は、三沢局の菩提を弔うため、万治元年(1658)に創建された日蓮宗のお寺で、江戸時代は十万石の格式をもつ大寺院で、身延山の出開帳がしばしば行われた日蓮宗の名刹です。(下写真が本堂です)

c0187004_21101744.jpg

三沢局のお墓は、本堂の左手の西側にある墓所の中央最奥部にあります。

c0187004_21101059.jpg

 三沢局は、3代将軍徳川家綱の乳母です。

 慶長16年(1611)に三沢為毘(ためあきら)の娘として生まれました。

大名茶人や造園家として有名な近江小室藩主小堀政一つまり小堀遠州の側室となり、寛永18年(1641)に5男政貞を生みました。同じ年、徳川家綱が生まれ、家綱の乳母として召し出されました。

慶安4年(1651)に家綱が4代将軍に就任すると御年寄に昇進し、本丸御殿へ移り、大奥老女として重用されました。

明暦2年(1656)3月30日亡くなりました。法名は「浄心院殿妙秀日求大姉」といいます。享年46歳でした。

亡くなった2年後の 万治元年(1658)三沢局の生前の願いにより将軍家綱により江戸深川に浄心寺の建立がゆるされ、三沢局が開基とされました。

なお、三沢局は、谷中の延命院の開基でもあります。

延命院については、下記の記事をお読みください。



赤印が浄心寺です。青印が雲光院です。








[PR]
by wheatbaku | 2018-10-02 21:07 | 江戸のヒロイン
阿茶局のお墓(江戸のヒロインの墓㉑)

阿茶局のお墓(江戸のヒロインの墓㉑)

 阿茶局のお墓については、以前、京都の金戒光明寺にある阿茶局のお墓を紹介しました。

阿茶局のお墓は、東京の深川の雲光院にもあります。

 

 雲光院は、慶長16年(1611)阿茶局により、増上寺の高僧であった潮呑上人を初代住職として創建された浄土宗のお寺です。阿茶局の法名「雲光院」がそのままお寺の名称となっています。(下写真が本堂です。)

c0187004_19443078.jpg

 最初に創建されたのは、現在の中央区馬喰町付近でしたが、明暦の大火で焼失し、神田岩井町に移転した後、天和2年(1682)現在の深川に移転しました。

 雲光院は、東京メトロ清澄白河駅 出口から徒歩8分の場所にあります。

 雲光院に向かう途中に、松平定信のお墓があることで有名な霊厳寺や深川江戸資料館があります。

 阿茶局のお墓は本堂の右側(方位でいうと北側)の墓所のほぼ中央部の最奥部にあります。

 大きな宝篋印塔(ほうきょういんとう)で雲光院殿従一位尼公正誉周栄大姉と刻まれています。(下写真)

c0187004_19441851.jpg

 阿茶局については、以前も書きましたが、今日は少し詳しく書いておきます。

阿茶局は、武田氏の家臣飯田直政の娘として生まれ、今川家臣神尾忠重に嫁ぎ、夫の死後、寡婦となっていましたが、天正7年(1579)、徳川家康に召し出され家康に仕えました。

阿茶局は戦場にも随行し、小牧長久手の戦いの際にも妊娠していた身で戦場にいて、結果的に流産してしまいました。

阿茶局は、才知に優れ、側室よりも側近といったほうがよく、大坂冬の陣では、淀君の妹で京極高次の妻常高院と交渉し、大坂城に入り和睦の使者となって淀君・秀頼母子の誓書をとっています。

元和2年に徳川家康がなくなった際にも、通常であれば側室も落飾するのですが、徳川家康の命令により髪を下ろしませんでした。

徳川家康が亡くなった後も、徳川秀忠の信頼は厚く、秀忠の娘和子の入内の際には、母代わりをつとめました。

その後、皇女(のちの明正天皇)誕生にも立ち会いました。

そうしたことから、元和9年(1623)、朝廷より、従一位をさずけられました。そのため、神尾一位局とよばれました。

 寛永9年、徳川秀忠が亡くなった際に、剃髪し、雲光院と名乗りました。

 家康没後、竹橋門内に屋敷を拝領し、そこに住んでいましたが、寛永14年(1637)正月22日に83歳でなくなりました。

 そして、当時、日本橋馬喰町にあった雲光院に埋葬されました。

 なお、雲光院のホームページには、「(阿茶局は)京都にて逝去されたと伝えられ、晩年の活躍の場であった京都東山金戒光明寺に葬られ(た)」と書いてあります。

多くの本には、深川の雲光院に埋葬されたと書いてありますので、雲光院さんに、事情を伺ったところ、「ホームページの内容は間違っています。京都の金戒光明寺のお墓は供養塔です」という回答でした。 

赤印が雲光院です。
青印が霊厳寺です。
ピンクが深川江戸資料館です。






[PR]
by wheatbaku | 2018-09-29 19:41 | 江戸のヒロイン
瑤泉院のお墓(江戸のヒロインの墓⑳) 

瑤泉院のお墓(江戸のヒロインの墓⑳) 

前回ご紹介したお岩さんのお墓のある妙行寺に、瑤泉院のお墓がありますので、ご紹介します。

 

 瑤泉院のお墓は、お岩さんのお墓へ向かう途中にありますので、お岩さんのお墓を目印にするとすぐにわかります。

 瑤泉院のお墓は、浅野家の奥方のお墓がある一画にあります。

 浅野家の墓所の中央には、浅野内匠頭長矩のおじいさん浅野長直の奥方つまり浅野内匠頭長矩のお祖母さんのお墓があります。お墓には高光院殿と刻まれています。(下写真)

c0187004_20474611.jpg

瑤泉院のお墓は、高光院殿の左手にあります。

瑤泉院のお墓は泉岳寺にあります。妙行寺にあるのは供養塔です。

瑤泉院は、松の廊下の刃傷事件により浅野家が断絶となったため、お祖母さんの供養がされなくなると心配したため、永代供養料として30両を妙行寺に納めました。

妙行寺の供養塔はそのことを記念して昭和28年に建立されたものです。

c0187004_20472446.jpg

瑤泉院は、延宝2年(1674)、広島藩浅野家の支藩三次藩浅野家の初代藩主浅野長治の二女として生まれました。

 誕生した翌年の延宝3年、浅野長矩との縁組願いが提出され、延宝5年阿久利4歳で結納が交わされ婚約が成立しました。

長矩の父浅野長直の妹が生んだ娘が阿久利ですので、二人は従兄妹同志ということになります。

翌延宝6年、5歳の阿久利は赤穂藩浅野家の屋敷へ移りました。

二人が正式の結婚したのは天和3年で、浅野長矩17歳、阿久利10歳でした。

浅野内匠頭長矩と阿久利の間には子供は生まれませんでしたが、二人の仲は非常に良かったようです。

元禄14年(1701314日、浅野内匠頭長矩が江戸城松之廊下で吉良上野介義央に斬りつける刃傷事件を起こし即日切腹した際にも、瑤泉院は取り乱す様子はなかったといいます。

 浅野内匠頭長矩の切腹により、赤穂藩浅野家上屋敷から赤坂にある三次藩浅野家の下屋敷に移り、落飾し寿昌院と称しました。

 後に、この法名が5代将軍綱吉の母桂昌院と一字同じとなることから、瑤泉院に変えています。

 それ以降は、浅野内匠頭長矩の菩提を弔いながら余生を過ごしました、

 そうした生活の中で、瑤泉院は、赤穂浪士の遺児たちの赦免に尽力しました。

 赤穂浪士が討ち入りした時点で15歳に達していた赤穂浪士の遺児4人は伊豆大島に流されていました。その遺児たちが宝永3年(1705)にご赦免となりましたが、このご赦免に尽力しました。

 遺児たちが赦免となった9年後の正徳4年(1714)6月3日なくなりました。41歳でした。



[PR]
by wheatbaku | 2018-09-27 19:59 | 江戸のヒロイン
お岩さんのお墓(江戸のヒロインの墓⑲)

お岩さんのお墓(江戸のヒロインの墓⑲)

江戸のヒロインの墓ですが、今日は四谷怪談で有名なお岩さんのお墓を案内します。

 お岩さんは「東海道四谷怪談」の主人公として大変有名ですので、お岩さんは芝居上の人物だと思う人が多いと思いますが、そのモデルとなったお岩さんは、実在の人物とされています。

 そのお岩さんのお墓があるのは、西巣鴨の妙行寺です。(下写真は本堂です)

c0187004_20004898.jpg

 都営地下鉄西巣鴨駅A4番出口から徒歩6分の距離にあります。

妙行寺は、法華宗陣門流のお寺です。

妙行寺は、寛永元年に赤坂に創建され、江戸時代には四谷鮫ヶ橋にありました。

明治40年に東京府による市区改正事業のため現在地へ移転しました。

妙行寺の宗派は法華宗(陣門流)のお寺です。日蓮の流れをくむ宗派は日蓮宗だけだと思いましたが、実は多くの宗派があるようです。

日蓮宗は久遠寺(身延町)を中心とする宗派で、日蓮宗のほかに、法華宗があります。さらに、法華宗にも多くの教団があり、法華宗(陣門流)というのは、新潟県三条市にある総本山本成寺を中心とする教団だそうです。

 お岩さんのお墓は本堂西側の墓所の最奥部にありますが、案内がしっかりしているので、探すのは容易です。

c0187004_20005993.jpg

実在のお岩さんは、御家人の田宮又左衛門の娘で、旦那さんは田宮伊右衛門といいました。

妙行寺の説明では、夫の田宮伊右衛門は、隣家の娘とねんごろになりお岩さんを虐待していました。

お岩さんは、寛永13年2月22日になくなり、妙行寺に葬られました。

当時、妙行寺は四谷にありましたので、田宮家とはあまり遠くありませんでした。

最初、お岩さんの法名は「得証妙念」という簡単なものでしたが、田宮家には「災い」がたえなかったため、「得證院妙念日正大姉」と改めました。それからは、田宮家にも災いがなくなったといいます。

お岩さんがなくなったのは寛永年間で、お岩さんが主人公の有名な「東海道四谷怪談」を鶴屋南北が書いたのはお岩さんがなくなって約200年もの後です。

現在も、お岩さんに塔婆を捧げ熱心に祈れば願い事が叶うということから多くの塔婆が捧げられています。

赤印が妙行寺です。






[PR]
by wheatbaku | 2018-09-25 19:50 | 江戸のヒロイン
白子屋お熊のお墓(江戸のヒロインの墓⑱) 

白子屋お熊のお墓(江戸のヒロインの墓⑱) 

「浅岡飯炊きの井」のある良源院跡のすぐ近くに常照院があります。常照院も増上寺の子院です。。(下写真は常照院の山門です)

c0187004_16393783.jpg

 この常照院に白子屋お熊のお墓があります。

 山門を入ってすぐ右に白子屋お熊のお墓があります。
 下写真の左側が白子屋お熊のお墓、中央が供養碑、右が案内の標柱です。

c0187004_16394343.jpg

白子屋お熊は、日本橋新材木町の材木商白子屋庄三郎の娘で、お熊は手代の忠七と密通したうえ、養子の又四郎を追い出そうとし、母のお常が、下女菊に又四郎を襲わせた事件を起しました。

この白子屋お熊(おくま)一件は、大岡越前守忠相の活躍ぶりを描いた「大岡政談」の中で、唯一大岡越前守忠相が裁いた事件として有名です。

白子屋は、江戸日本橋の新材木町にある材木問屋でした。

主人白子屋庄三郎の娘お熊は、下女お久の仲立ちにより、店の手代忠八と密通していました。しかし、白子屋は商売がうまくいっていなかったため持参金目当てで婿養子にもらうこととなり、大伝馬町の地主の手代又四郎を婿にもらい結婚をしました。

結婚後も、お熊は忠八との関係は続き、なんとか又四郎を追い出したいと思っていました。それを知った母親のお常もお熊を叱るどころかお熊の企てに加担する始末で、婿養子又四郎をいびりだそうとして、白子屋の下女のお菊に又四郎を襲わせました。下女お菊に襲われた又四郎は怪我をした程度ですみましたが、このことが表沙汰となり、南町奉行大岡越前守忠相の吟味が行なわれ、享保12年(1827)2月25日に判決が下りました。

その判決では大勢の人が処罰されています。中公新書「大岡越前守」(辻達也著)に引用されている「享保通鑑」巻十一享保12年によると次のような処罰となっています。

まずお熊ですが、お熊(21歳)は市中引廻しの上死罪

密通の相手の手代忠八は市中引廻しの上浅草にて獄門、

母親お常は遠島、父親庄三郎江戸払

下女きく死罪、下女久市中引廻しの上死罪

お熊と獄門としている本もありますが、中公新書「大岡越前守」(辻達也著)に書かれている「享保通鑑」によれば、お熊は死罪となっていますので、死罪が正しいと思います。

また、この事件の15年後の寛保2年(1742)に完成に定められた公事方御定書でも、その48条「密通御仕置之事」で、「密通をした妻は死罪で、相手も死罪」と定められていますので、お熊は獄門ではなく死罪だったと思います。
 なお、死罪は、小伝馬町牢屋敷で斬首される刑ですが、獄門と云うのは、小伝馬町牢屋敷で斬首された後、刑場に首をさらす刑で、獄門の方が重い刑罰です。
 一方、お熊の相手の手代忠七は、死罪より重罪の獄門となっていますが、当時は、主従関係が非常に厳しい時代でしたので、主人の妻と密通した男は重罪に処すべきという考えがあり、手代忠八は主人の妻のお熊と密通したため、獄門となりました。

本来は、犯罪者の埋葬や墓の建立は許されないケースが多いのですが、白子屋阿熊の場合には、お墓が建てられています。

「享保通鑑」によれば、「くま死骸は、早速首を継ぎ、施主の願いにより、増上寺内念仏堂常照院に、これを葬る」と書かれていて、特別に許可されたものと思われます。

こうして建てられた白子屋阿熊のお墓ですが、常照院のホームページによれば次のような経緯があります。(下写真は常照院の本堂です)

c0187004_16424036.jpg

阿熊の遺骨は、昭和9年の墓地改葬に伴い、当院墓地の無縁塔に合祀されました。一方、墓石は残りましたが、太平洋戦争の戦災で焼かれ、破砕がひどく、戒名等も一部しか判読できない状態となりました。

そこで、お熊の260回忌に相当した昭和61年に墓石の一部を復元し、供養碑を建立しました。(常照院ホームページより)

 お熊は、斬首される前に市中引廻しとなりました。この時、お熊は、黄八丈を着ていました。そのため、黄八丈は不吉な着物だという評判がたち、黄八丈は一時期大変すたれてしまいました。
 しかし、お熊が処刑されてから48年たった安永4年(1775)に「恋娘昔八丈」が上演されると黄八丈の人気が復活したばかりでなく、お熊の評判も高くなりました。
 そして、明治6年には、河竹黙阿弥が「梅雨小袖昔八丈」を書き、お熊の人気は一層高くなりました。

 赤印が常照院です





 



[PR]
by wheatbaku | 2018-09-23 16:34 | 江戸のヒロイン
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
by 夢見る獏(バク)
プロフィールを見る
画像一覧
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31
以前の記事
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
ブログパーツ
最新のコメント
ツユクサさん 江戸城散..
by wheatbaku at 12:53
獏様 江戸城散策、お疲..
by ツユクサ at 08:26
宮越さん コメントあり..
by wheatbaku at 11:42
今回のブログで、霊厳寺が..
by 宮越重遠 at 10:51
やぶひびさん 本妙寺は..
by wheatbaku at 13:05
「江戸から東京へ1」を図..
by やぶひび at 09:30
ツユクサさん 土曜日は..
by wheatbaku at 21:00
獏さん 案内お疲れ様で..
by ツユクサ at 11:10
小ツルさん 「むさしあ..
by wheatbaku at 09:50
バクさま、加州そうせい公..
by 鶴ヶ島の小ツル at 16:57
加州そうせい公様 私も..
by wheatbaku at 07:34
バクさん 昨日の江戸楽..
by 加州そうせい公 at 17:31
mikawaさん 先日..
by wheatbaku at 12:55
宮越さん コメントあり..
by wheatbaku at 09:03
宮越さんからコメントをい..
by wheatbaku at 09:00
mikawaです。先日は..
by mikawa ケンイチ at 08:17
ツルさん 名古屋に住ん..
by wheatbaku at 16:18
獏さま ははあ、あの石..
by 鶴ヶ島の小ツル at 15:20
やぶひびさん NHKB..
by wheatbaku at 17:54
今夜3/3.20:00~..
by やぶひび at 12:49
最新のトラックバック
『西郷どん』、恋愛ごっこ..
from Coffee, Cigare..
各合戦の動員人数について..
from Coffee, Cigare..
天ぷらの歴史 (天麩羅処..
from グドすぴBlog
天ぷらの歴史 (天麩羅処..
from グドすぴBlog
天ぷらの歴史 (天麩羅処..
from グドすぴBlog
再出発が始まる
from 哲学はなぜ間違うのか
穴八幡宮
from Coffee, Cigare..
風景印  28.4.30..
from としちゃんの風景印・郵趣日誌
山王日枝神社@溜池山王
from たび☆めし☆うま BLOG
浮世絵の誕生・浮世絵の歴..
from dezire_photo &..
お気に入りブログ
江戸・東京ときどきロンドン
ファン
ブログジャンル
歴史