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カテゴリ:文京学院大学江戸講座( 5 )
「江戸の豪商列伝Ⅱ」2回目開講
「江戸の豪商列伝Ⅱ」2回目開講

昨日は、文京学院大学生涯学習センターで「-江戸の豪商列伝Ⅱ-現在も名を残す老舗企業をつくった豪商たち」の2回目講義がありました。

 前回は、住友と白木屋について話をさせていただきましたが、今回は、大丸と松坂屋について話をさせていただきました。

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 大丸は、創業者の初代下村彦右衛門(正啓)が伏見に開業した後、まず大坂に進出し、その後、名古屋、京都へ続けて進出し、寛保3年(1743)についに江戸に進出しました。

 つまり、初代下村彦右衛門(正啓)一代で大丸を豪商にまで大きくしました。そこで、下村彦右衛門(正啓)を中心に大丸の話をしました。

一方、松坂屋は、名古屋で織田信長の小姓をしていた伊藤祐道が創業し、5代目の祐寿の時には、尾張徳川家の呉服御用を承るまでの大きな呉服店にしました。しかし、6代から9代までの当主が若くして亡くなってしまい、松坂屋の危機を迎えます。そうした時に、松坂屋の危機を救い、松坂屋を護ったのが、江戸時代としては稀な女性経営者伊藤宇多です。そこで、その伊藤宇多を中心に話をしました。

 今回も、受講された皆様は熱心に話を聞いていただき、私もつい熱のはいった講義となりました。

 講座終了後には、質問も数多く寄せられるとともに、「大変勉強になりました」という感想もいただきました。

 女性が多かったこともありますが、女性は、特に伊藤宇多について興味深かったようで、伊藤宇多の生き方がすごいという感想もありました。
 受講いただいた皆様ありがとうございました。

 いろいろ話をした中で、このブログでは、大丸の創業者下村彦右衛門と福助人形の関係についてご紹介します。

 福助人形は、幸福を招くといわれる縁起のよい人形です。福助人形のモデルについては、諸説ありますが、百科事典などを見ると、京都伏見の大文字屋の主人という説が載っています。
 大文字屋というのは、下村彦右衛門正啓が開いたお店の名前です。

 つまり初代下村彦右衛門(正啓)がモデルということになります。

 福助人形は、背が低くて、頭が大きく、福耳をしています。

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 正啓は背が低く、頭が大きかったそうです。そのため、人からよくからかわれましたが、子どものころから利発で、何事にも人より優れていて、愛想よくお客様に接したので、誰からも好かれました。そして、一代で、当初大文字屋と呼ばれていた大丸を豪商にまで発展させました。

 こうしたことにあやかろうとして福助人形のモデルとされたようです。

 正啓の木像が、京都伏見の海宝寺の祠堂に残されています。

 海宝寺は、黄檗宗のお寺で、正啓が深く帰依した竺庵禅師が隠居したお寺です。

 そうした縁から大丸とは縁が深く、祠堂(位牌を祀る御堂)も大丸が寄進したものです。

 下写真が祠堂です。

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 その祠堂の中に、正啓の木像が残されています。

 昨年秋に、海宝寺にお邪魔し、特別に拝観させていただき、許可をえて写真も撮影させてもらいました。その際に撮影したのが下写真です。

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 正啓の木像をみると、頭が大きく福耳をしていて、福助人形のモデルといわれるのももっともだと思いました。





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by wheatbaku | 2020-02-16 14:46 | 文京学院大学江戸講座
文京学院大学で「江戸の豪商列伝Ⅱ」開講しました!

文京学院大学で「江戸の豪商列伝Ⅱ」開講しました!

昨日は、文京学院大学生涯学習センターで「江戸の豪商列伝Ⅱ 現在も名を残す老舗企業の豪商たち」のタイトルで、江戸の豪商についてお話してきました。

今回の講座では、住友、白木屋、大丸、松坂屋という、白木屋を除いてすべて現在も老舗企業として営業活動をしている企業の創業者たちのお話です。

昨日は、そのうち、住友と白木屋について話をしました。

 今回も大勢の人に参加いただき、豪商に対する興味を持っている人が多いことに改めて驚きました。

 そして参加者の皆様は非常に熱心に講義を聞いていただきました。

文京学院大学で「江戸の豪商列伝Ⅱ」開講しました!_c0187004_17492694.jpg
 

 昨日は、住友については、「家祖」住友政友、「業祖」蘇我理右衛門から別子銅山が発見された時の当主4代友芳まで、住友の歴史を話しました。

 そして、後半の白木屋では、創業者大村彦太郎の創業時の話をして、その後、江戸の名物であった「白木名水」と「白木観音」についてお話しました。

 終了後には、それぞれの創業期の様子がよくわかったという感想もいただきました。ご参加いただいた皆様ありがとうございました。

 

今日は、講座の中でも話した皇居外苑にある「楠正成像」と住友との関係について書いてみます。

文京学院大学で「江戸の豪商列伝Ⅱ」開講しました!_c0187004_17492615.jpg

皇居外苑の楠木正成の銅像は、東京三大銅像の一つに数えられる有名な銅像です。

 東京三大銅像とは、楠正成像、上野公園の西郷隆盛の銅像、それと靖国神社の大村益次郎の銅像です。

 この銅像を制作したのは、高村光雲を中心とする東京美術学校の先生たちです。高村光雲は楠木正成の頭部を制作し、馬は後藤貞行が制作しました。

 

 高村光雲は、本来彫刻家ですので、楠正成の木型を製作し、それをもとに岡崎雪聲(せっせい)が鋳造し、銅像を造りました。

 そのため、現在も、楠正成の頭部の木型が残されているそうです。

下写真は楠木正成の顔の部分を拡大したものです。

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 この銅像は、別子銅山を開いた住友家が、開坑200年の記念として企画し、明治33年7月に完成し宮内省へ献納されたものです。

銅像の台座には、銅像が造られた経緯などを書く銘鈑が埋め込まれていて、その経緯がわかります。下写真の台座の中央にあるのが銘鈑です。

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なお、一般的に銘鈑がある方が銅像の正面だと思われますので、楠正成像は、銅像としては、後ろ側を見ているということなりそうです。これは、皇居に背中や御尻を見せることが不敬と考えられたためだったと思われます。

台座に埋め込まれている銘鈑は漢文ですので、なかなか読みにくいのですが、次のように書かれています。

自臣 祖先友信開伊予別子山銅坑 子孫継業二百年 亡兄友忠深感國恩 欲用其銅鋳造楠公正成像 献之闕下 蒙允未果 臣継其志 董工事 及功竣、謹献 明治三十年一月  従五位臣住友吉左衛門 謹識

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これを現代語訳すれば、次のようになります。

私の祖先・友信が伊予国別子銅山を開いて以来、子孫は二百年間その事業を継いできました。私の亡くなった兄友忠は、深くその国恩を感じ、その銅(別子銅山産出の銅)を使用して楠木正成公の像を鋳造し、天皇の御前に献上しようと思い、その許可はいただきましたが未だ果たさずにいました。私はその志を継ぎ、工事を取り締まり監督し、竣功に及んだので、ここに謹んで献上します。

明治三十年一月 従五位住友吉左衛門

※「闕下(けっか)」とは、宮城の門の下(もと)。また、天子の前。天皇の前。という意味です。

要約すると「別子銅山は開坑して200年になりました。私たち住友家は、深く国恩を感じ、別子銅を用いて楠木正成像を鋳造して、天皇に献納します」ということです。

銘鈑に書かれている住友吉左衛門とは、住友15代吉左衛門友純(ともいと)です。
 住友は、明治23年(1890)、元禄4年(1691)の開坑以来200年を迎え、記念式典を新居浜や大阪で開催しました。
 その祝賀ムードの中、11月23日に12代住友友親が亡くなり、11月30日に13代住友友忠が19歳で亡くなってしまい、男子の家督相続人がなくなってしまいました。そこで、住友友親の母登久が14代となり、友忠の妹に婿をとり住友家を継いでもらうことにして、西園寺公望の実弟である徳大寺隆麿が婿に選ばれました。

徳大寺隆麿は、明治26年、住友家を継ぎ、友純(ともいと)と名のりました。これが15代住友吉左衛門です。

もともと、楠正成銅像を献納しようと考えたのは、13代友忠でした、200周年の記念の年の前年に、宮内省に願い出ていて、内諾もえていました。しかし、友忠が亡くなってしまい、その志を果たせなかったため、その意思をついだ15代友純が銅像を完成させ献納しました。そのため、銘鈑に「亡兄」という語句が入っています。

住友家が銅像の献納を願い出て内諾がおりたのが明治22年、銅像が完成したのは明治29年、銘文が書かれたのが明治30年、台座ができあがり銅像が完成したのが明治33年と長い年月をかけて完成しました。

銅像の本体の高さは4mあり、台座を加えると約8mになります。また、本体部の重さは、約6.7トンあります。

 この銅像の銅はすべて別子銅山から産出された銅で建設されたということのようですから、別子銅山のすごさがわかります。









by wheatbaku | 2020-02-02 17:47 | 文京学院大学江戸講座
「江戸の豪商」の菩提寺を訪ねて!

「江戸の豪商」の菩提寺を訪ねて来ました!

日曜日から一昨日まで、2泊3日で京都・大阪・名古屋に行ってきました。

来年2月に文京学院大学で「江戸の豪商列伝Ⅱ 現在も名を残す老舗企業をつくった豪商たち」のタイトルで、住友、大丸、松坂屋、白木屋を取り上げて、その創業や発展の歴史についてお話します。詳しくは 下記URLをクリックしてください。

「現在も名を残す老舗企業をつくった豪商たち」 

今回の旅行は、その調査のため、住友、大丸、松坂屋、白木屋のそれぞれのゆかりの地を訪ねてきました。

事前に、住友史料館、大丸や松坂屋の史料館に教えていただいた情報を基に訪ねましたので、大変収穫の多い旅行となりました。この旅行で得られた情報も加えて、2月の講座は充実したものにしていきたいと思います。

今日は、それぞれのゆかりの地のうち、住友、大丸、松坂屋、白木屋の創業者たちが眠る菩提寺をご紹介します。その他のゆかりの地のご紹介は、文京学院大学の講座の中で行います。

多くの方に、講座を受講いただければ幸いです。

永養寺―住友創業者住友政友の菩提寺

住友家の初代は住友政友です。住友家の祖先は、武士の出身ですが、住友政友は武士を捨てて涅槃宗という宗派の僧となりました。涅槃宗が弾圧されたため、在野の僧となり、涅槃宗の教義を守りながら、薬と本を販売する商売を始めました。そして、慶安5年(1652)に68歳でなくなり、京都の永養寺に葬られました。

 永養寺は、京都市下京区の河原町高辻交差点近くにある浄土宗のお寺です。(下写真は本堂)

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浄運院―住友創業者蘇我理右衛門の菩提寺

住友政友は住友家の家系上の祖として家祖と呼ばれています。住友には、もう一人重要な人がいます。それが、業祖と呼ばれる蘇我理右衛門です。住友は銅精錬から事業を発展させましたが、銅精錬事業は、蘇我理右衛門に始まります。そのため、蘇我理右衛門も住友創業者の一人とされています。

蘇我理右衛門のお墓は、京都下京区の浄運院にあります。浄運院は河原町五条の交差点の南西方向にある浄土宗のお寺です。下写真は本堂です。

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宝塔寺―大丸創業者下村彦右衛門の菩提寺

大丸の創業者下村彦右衛門は、京都伏見に生まれました。下村家も武士の出身ですが、彦右衛門が生まれた時は古着商を営んでいました。下村彦右衛門も古着商から商売を始め、その後、伏見に呉服店を開き、さらに大坂に店を出した後、名古屋・江戸にも出店し、有数の呉服商に発展させました。下村彦右衛門のお墓は、京都伏見区深草の宝塔寺にあります。

宝塔寺は 平安時代の昌泰2年(899)創建で創建以来1100年以上たつ古いお寺です。下写真は本堂ですが、重要文化財に指定されています。

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日泰寺―松坂屋創業家伊藤家の菩提寺

松坂屋初代伊藤祐道は、織田信長の小姓を勤めていた武士でした。信長が暗殺された後、商人となり名古屋で呉服小間物屋を始めました。これが発展して、現在の松坂屋となっています。江戸時代後期には、伊藤宇多という女性経営者が出て、松坂屋の経営危機を乗り切っています。

伊藤家歴代のお墓は、名古屋の覚王山日泰寺にあります。

日泰寺は、日本で唯一、どの宗派にも属さない寺として知られています。日泰寺は、非常に広い境内のお寺で下写真の本堂も近代的でした。

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両足院―白木屋創業者大村彦太郎の菩提寺

白木屋の創業者は大村彦太郎です。大村彦太郎は、近江国長浜で生まれたと言われています。最初、木材業を始めたのち、江戸に小間物店を出店し、さらに呉服店を開業し、江戸有数の呉服店に発展させました。

大村彦太郎のお墓は、京都の建仁寺の塔頭両足院にあります。両足院は、通常非公開ですが、私が訪ねた時には、幸運にも公開されていました。下写真は、方丈です。

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by wheatbaku | 2019-11-21 14:51 | 文京学院大学江戸講座
文京学院大学の「江戸の仇討ち」講座開講

文京学院大学の「江戸の仇討ち」講座開講

昨日は、文京学院大学生涯学習センター主催の「いざ 尋常に勝負しろ!江戸の仇討ち」の2回目講義があり、江戸の仇討ちについて話してきました。

今回も熱心な受講者の皆様のおかげで気持ちよく講義をさせていただきました。受講いただいた皆様ありがとうございました。下写真が講座の様子です。

文京学院大学の「江戸の仇討ち」講座開講_c0187004_15371886.jpg

 先週開かれた第1回の講座では江戸三大仇討ちの一つに数えられる伊賀越の仇討ちを中心にお話ししましたが、昨日は、江戸三大仇討ちの一つに数えられる浄瑠璃坂の仇討ちを中心に話しました。

 浄瑠璃坂の仇討ちは、寛文12年(167223日、江戸市ヶ谷の浄瑠璃坂で、父奥平内蔵丞(くらのじょう)を殺害された奥平源八が、敵(かたき)の奥平隼人を討ち果たした事件です。約30年後に起きた赤穂浪士の討入りのモデルともなったともいわれる仇討ちです。

 事件の発端から仇討ち成就そしてその後の展開までお話ししました。

 浄瑠璃坂は、あまり知られていない坂ですので、どこにあるか写真と地図を示しながら解説しました。浄瑠璃坂の場所や雰囲気がよくわかったという感想をいただきました。下写真が現在の浄瑠璃坂です。

文京学院大学の「江戸の仇討ち」講座開講_c0187004_15371327.jpg

 浄瑠璃坂の仇討ちの後は、仇討ちに53年間かかったともせ母子の仇討ち、護持院が原の仇討ち、最後の仇討と呼ばれる臼井六郎の仇討ちなどの有名な仇討ちを説明させていただきました。

 

 昨日は、天気もよく、最高気温も14度まであがりましたので、散歩には支障なかったため、講義の後は、本郷周辺の史跡をご案内しました。 

 追分一里塚跡や老舗の高崎屋、明暦の大火の火元をなった本妙寺の跡、樋口一葉が通った質屋の伊勢屋、菊坂の樋口一葉旧居跡などが主なご案内先です。

 下写真は、樋口一葉が通った伊勢屋の店先に設置された文京区教育委員会の説明板を読む参加者の皆さんです。後ろが伊勢屋です。

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 散歩の後は、本郷三丁目近くの中華屋さんで散歩に参加した皆さんとの懇親会を開き、楽しい時間を過ごしました。

 ご参加いただいた皆さん、ありがとうございました。






by wheatbaku | 2019-02-17 15:28 | 文京学院大学江戸講座
文京学院大学で「江戸の仇討」についてお話しました。

文京学院大学で「江戸の仇討」についてお話しました。

昨日は、文京学院大学生涯学習センター主催の江戸講座が開かれ、「いざ、尋常に勝負しろ!江戸の仇討ち」というタイトルで「江戸の仇討」についてお話してきました。

 天気予報では、大雪の予報でしたので、荒れ模様になるかなと覚悟して出かけましたが、予報が良い方にはずれて、文京学院大学に到着した時点でも雪はまったく降っていませんでした。下写真は昨日の文京学院大学生涯学習センターです。

文京学院大学で「江戸の仇討」についてお話しました。_c0187004_12135192.jpg

そして、講座終了後も、雪が降らず、鉄道のダイヤの乱れもなく無事に帰宅できました。

 大雪の予報でしたので、欠席の方がでるかなとも思っていましたが、欠席もほどんどありませんでした。熱心に受講いただいた皆様、ありがとうございました。

 さて、講座の内容ですが、江戸の仇討について、①仇討ちが許される条件と②有名な仇討ちについて解説するというものです。

 昨日は、そのうち①仇討ちが許される条件と②有名な仇討ちのうちの「伊賀越の仇討ち」と「浜田藩江戸屋敷で仇討ち」についてお話しました。下写真が講座の様子です。

文京学院大学で「江戸の仇討」についてお話しました。_c0187004_12134614.jpg

 仇討ちは、幕府の許可が必要とされています。ただし許可といっても届出です。この届出がされていないと仇討ち後、拘束されて吟味がおこなれますが、確かに仇討ちであることがはっきりすれば放免されます。

 また、仇討ちは、原則として目上の人の仇を目下の人が討つのが原則です。ただし、伊賀越の仇討ちのように、兄が弟の仇討をするケースもないではありません。

 そうしたことを話した後、伊賀越の仇討ちについてお話ししました。

伊賀越の仇討ちは、寛永11年(1634117日、伊賀上野城下鍵屋の辻で、元岡山藩士渡辺数馬が義兄荒木又右衛門とともに、弟渡辺源太夫の敵(かたき)河合又五郎を討った事件です。

日本三大仇討ちと江戸三大仇討ちの一つにそれぞれ数えられる大変有名な仇討ちです。

その仇討ちの経緯について、50分ほどの時間をかけてお話ししました。

文京学院大学で「江戸の仇討」についてお話しました。_c0187004_12153044.jpg

荒木又右衛門は鍵屋の辻で仇討ちを成就した後、4年間ほど津藩藤堂家に御預けになり、寛永15年に鳥取藩に引き取られました。しかし、荒木又右衛門は鳥取に到着してわずか2週間余後の寛永15828日死去しました。この結末には、参加者の皆さんが驚かれていました。

また、昨年12月に伊賀上野に取材に行きましたが、そのた際に写した写真もスライドで見ていただき、喜んでいただきました。上写真は鍵屋の辻にある文政11年建立の道標で、下写真は伊賀市萬福寺にある河合又五郎のお墓ですが、こうした写真を見ていただきました。

文京学院大学で「江戸の仇討」についてお話しました。_c0187004_12133880.jpg

講座の最後には質問を受け付けましたが、参加者の皆さんからは質問が多く寄せられ、その熱心さに感激しました。

受講いただいた皆様、ありがとうございました。



 


by wheatbaku | 2019-02-10 11:53 | 文京学院大学江戸講座
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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