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カテゴリ:新江戸百景めぐり( 79 )
赤坂氷川神社③―勝海舟邸跡 (新江戸百景めぐり62-3)

赤坂氷川神社③―勝海舟邸跡 (新江戸百景めぐり62-3

 赤坂氷川神社の近くに、勝海舟の屋敷がありましたので、赤坂氷川神社の続きとして勝海舟の屋敷跡をご案内します。

 勝海舟と赤坂とは非常に縁の深い関係にあります。

 勝海舟は、文政6年(1823)本所亀沢町の旗本屋敷(現墨田区両国四丁目の両国公園)で旗本勝小吉の子として生まれました。

 成長した後、赤坂溜池にあった福岡藩黒田家の屋敷に住んでいた永井青崖(ながいせいがい)の所まで本所から通って蘭学を学びました。このことで赤坂と縁がつながったと思われます。

そして、結婚後23歳の時に赤坂田町中通り(現赤坂三丁目十三番二号のみすじ通り)の借家に住みました。

 その後、36歳からは赤坂本氷川坂下に住みました。

 明治元年、海舟が45歳の時に、将軍を退いた徳川慶喜に従って、駿府に移りましたが、明治5年に上京し77歳で亡くなるまで赤坂区氷川町四番地(旧氷川小学校跡)に住んでいました。

 青年時代に住んで場所は、赤坂氷川神社から少し離れていますし、その場所には説明板もありませんので、訪ねても探すのが難しいです。

 しかし、本氷川坂下と旧氷川小学校の旧居跡には、説明板や石碑がありますので、訪ねやすくなっています。。下写真は、本氷川坂下の勝海舟邸跡の碑と説明板です。

赤坂氷川神社③―勝海舟邸跡 (新江戸百景めぐり62-3)_c0187004_13103229.jpg

 そこで、本氷川坂下と旧氷川小学校跡の勝海舟邸跡をご案内します。

勝海舟邸跡(本氷川坂下)

勝海舟が、赤坂で2回目に住んだ本氷川坂下とは、赤坂氷川神社の北側の低地にあたります。

赤坂氷川神社の北側に本氷川(もとひかわ)神社がありました。そのため、赤坂氷川神社の境内の西側から北側に下る坂を本氷川坂(もとひかわざか)といいます。(下写真)

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その坂下にあたる場所が本氷川坂下です。

本氷川坂下のソフトタウンというマンション(下写真)の一郭に「勝海舟邸跡」と書かれた碑が立っていてその下に説明板があります。(最上段写真参照)

赤坂氷川神社③―勝海舟邸跡 (新江戸百景めぐり62-3)_c0187004_13103219.jpg

勝海舟は、安政6年36歳の時に本氷川坂下に住み始め、明治元年の45歳までの約10年間は、住んでいました。

本氷川坂下に住んでいた時代が、勝海舟が最も活躍した時代だったと思います。

ここに住み始めた翌年正月には、咸臨丸でアメリカに渡っていきました。

また、坂本龍馬が海舟を訪ねてきたのもここにあった屋敷でしたし、西郷隆盛と江戸城無血開城の談判をするため薩摩屋敷に出かけたのもこの屋敷からです。

そして明治元年45歳の時に、徳川慶喜に従って静岡に移りました。

勝安房守邸跡(旧氷川小学校跡)

勝海舟が晩年を過ごした屋敷は、勝海舟が亡くなった後、氷川小学校となり、その氷川小学校も平年4年に廃止され、現在は、「赤坂子ども中高生プラザ」という港区有施設となっています。

赤坂氷川神社からは東に徒歩3分ほどの場所にあります。

プラザの前には、平成28年に建てられた勝海舟と坂本龍馬の銅像があります。(下写真)

赤坂氷川神社③―勝海舟邸跡 (新江戸百景めぐり62-3)_c0187004_13103351.jpg

勝海舟は、明治元年に徳川慶喜とともに静岡に一旦移住しました。

その後、明治5年に東京に戻った際に、住んだ場所がここです。

ここは、幕末には大身旗本の柴田七九郎の御屋敷がありました。お屋敷は約2500坪ありました。

その屋敷を5百両で勝海舟が購入しました。

海舟は明治5年(1872)50歳で上京し、明治32年に満76歳で亡くなるまで住み、海軍卿、伯爵、枢密顧問官として華やかな生活を送る傍ら氷川清話などを書いてくらしました。(銅像の裏側には 勝安房守邸跡の石碑が建っています。)

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勝海舟の晩年の最も大きな仕事は、徳川慶喜の復権でした。

徳川慶喜は、静岡で謹慎しました。1年後に謹慎がとかれましたが、慶喜は東京には戻りませんでした。

明治11年に明治天皇が静岡を訪問した時にも出迎えるよう求められた時も、病気を理由に断っています。

その慶喜が東京に戻ったのは明治30年11月です。そして、義信が皇居に参内して明治天皇との会見が実現したのは、明治31年3月2日でした。

この参内の陰になって動いたのは勝海舟でした。

そして、徳河慶喜の復権にほっとしたのか翌明治32年1月21日に亡くなりました。

最後の言葉は、「これでおしまい」だったそうです。

なお、徳川慶喜の十男の精(くわし)は、海舟の孫娘の婿養子となって勝家を継いでいます。

勝海舟が亡くなった後、屋敷跡を東京都が昭和2年に氷川小学校用地として購入し、平成5年春まで港区立氷川小学校として使われていました。

赤印が本氷川坂下の勝海舟邸跡の碑と説明板がある場所です。

青印が旧氷川小学校跡です。
緑印が本氷川神社です。


 


by wheatbaku | 2020-03-13 13:06 | 新江戸百景めぐり
赤坂氷川神社①(新江戸百景めぐり62-1)

赤坂氷川神社①(新江戸百景めぐり62-1

 今日は、新江戸百景めぐりの一環として赤坂氷川神社をご案内します。

 「新江戸百景めぐり」(小学館刊)では134ページの第72景で紹介されています。

赤坂氷川神社は、東京メトロの「赤坂」駅または「六本木一丁目」駅が最寄駅になります。
 下写真は楼門からみた御社殿です。

赤坂氷川神社①(新江戸百景めぐり62-1)_c0187004_18251277.jpg

赤坂氷川神社は、平安時代中期の天暦5年(951)に赤坂一ツ木台地(俗称古呂故ヶ岡)に祀られました。

 江戸時代、赤坂氷川神社が紀州徳川家の赤坂の屋敷の産土神(うぶすながみ)であった縁から、紀州藩主であった徳川吉宗が享保元年(1716)に8代将軍職を継いだため、享保14年(1729)に老中水野忠之に命じ、現在地(赤坂今井台)に現社殿を造営し、翌15年(1730)4月26日に、一ツ木台地から現在地への遷宮が行われました。そして4月28日には吉宗の直々の参拝があったそうです。

 この時に建立された社殿は、安政の大地震・関東大震災・東京大空襲の被災を奇跡的に免れて、江戸時代の創建当時のままの姿を残しており、東京都重要文化財に指定をされています。
  下写真が社殿です。

赤坂氷川神社①(新江戸百景めぐり62-1)_c0187004_18251350.jpg

氷川神社の鎮座範囲 

氷川神社の本社は埼玉県の大宮に鎮座する武蔵国一ノ宮の氷川神社で、ここから分霊し、各地に氷川神社が祀られました。

 出雲の氏族であった武蔵氏が武蔵国造(くにのみやつこ)となって移住した時期、氷川の信仰が広く祀られたといわれています。

 その関係からか、氷川神社の分社は、元荒川と多摩川を東西の境にして武蔵国に広く分布し、現在でも埼玉県に162社、東京都に59社あるそうです。

 「氷川」の名は、出雲の簸川(ひかわ・現在の斐伊川)の名に因むものといわれ、農業用水として大きな恩恵を受ける一方、水害にも悩まされた荒川を簸川に見立て、畏敬の念をもって信仰していたと考えられています。

 氷川神社が祀られた村々はその成立が比較的古く、多くは関東ローム層の丘陵地帯に位置し、森林を開墾し谷の湿地を水田とした農村であったと推定されているようです。

四合(しあわせ)稲荷神社

 赤坂氷川神社の社殿がある高台から一段低くなった境内の東側に四合(しあわせ)稲荷神社が鎮座しています。下写真が社殿です。

赤坂氷川神社①(新江戸百景めぐり62-1)_c0187004_18251331.jpg

 「四合(しあわせ)稲荷」という名称は、明治31年に、赤坂氷川神社周辺に鎮座していた四つの稲荷神社を赤坂氷川神社に遷座して合祀したことから、勝海舟により命名されたものです。

 合祀された稲荷神社は次の四つです。

①古呂故稲荷(赤坂一ツ木二番地、古呂故天神社境内に鎮座)

②地頭稲荷(氷川神社遷座以前より拠の地に鎮座)

③本氷川稲荷(本氷川神社隣接、別当盛徳寺の地内に鎮座)

④玉川稲荷(赤坂門外の御城端、源弁慶橋のあたりに鎮座)


赤印が赤坂氷川神社です。

青印が四合(しあわせ)稲荷神社です。








by wheatbaku | 2020-03-05 18:11 | 新江戸百景めぐり
六義園② 紀州の景勝地 (新江戸百景めぐり61-2)

六義園② 紀州の景勝地 (新江戸百景めぐり61-2

今日も、六義園の続きです。

六義園は、紀州の景勝地を多く取り込んで造られています。 

 六義園のうちには、妹背山、吹上浜、紀ノ川、藤代峠、和歌浦がありますが、これらは、万葉集や古今和歌集などに詠まれた紀州の景勝地を模した景色です。

そこで、今日は、六義園内の紀州にちなむ風景をご案内します。

 六義園のしだれ桜をすぎると目の前が大きくひろがり、正面に大きな泉水が見えてきます。その泉水の中央に「中の島」があります。(下写真)

六義園② 紀州の景勝地 (新江戸百景めぐり61-2)_c0187004_20393474.jpg

 その「中の島」周辺に紀州にちなむ景色がありますので、そこからご案内します。



妹背山

「中の島」の中にある山が「妹背山」と呼ばれています。

古くは女性のことを妹(いも)、男性のことを背(せ)と呼びました。

妹背というと、夫婦や兄と妹または姉と弟を言いました。

この中の島は男女(夫婦または兄妹)の間柄を表現しているそうです。

六義園のモデルとなった紀州(和歌山県)の和歌の浦には、「妹背山(いもせやま)」のある妹背島が今もあります。

妹背山は、厳密にいうと二つの山からなっています。左の山が妹(いも)山、右側が背(せ)山です。(下写真)

六義園② 紀州の景勝地 (新江戸百景めぐり61-2)_c0187004_20393459.jpg

背(せ)山の方が少し大きくなっているのは、背山が男性を意味しているからでしょう。

その間に大きな石がたっていますが、中央に立つ大きな石(紀州青石)は玉笹石と呼ばれています。

それは、

いもせ山 中に生たる玉ざゝの 一夜のへだて さもぞ露けき 藤原信実 新撰和歌六帖
 という歌があるからです。        

その大きな石は、歌の中の男女の仲を隔てる笹に見立てられています。

しかし、男女の仲を隔てる石ではあまりにも悲しいということでしょうか、別の説明では、「玉笹石」は子宝を表し、子孫繁栄を願っているとも書いてあるものもあります。

吹上の松

大泉水の北側に「吹上の松」があります。(下写真)

六義園② 紀州の景勝地 (新江戸百景めぐり61-2)_c0187004_20393485.jpg

「吹上」という地名は全国にありますが、ここは紀州の「吹上の浜」にちなんでいます。

和歌山城の南側にある「吹上」は、かつて、西南の激しい風が白砂を吹き上げていたことからこの名が付いたといわれています。清少納言も『浜は吹上の浜』と名所の随一に挙げました。その吹上の浜には、多くの松が植えられていたそうです。

 それを模して、この「吹上の松」が植えられています。

六義園が作られたときは、園内に多くのマツが植えられていたそうです。

現在は、そのほとんどは失われてしまいましたが、この「吹上松」だけは当時のものだそうです。

吹上の松の左手に「吹上茶屋」があります。(下写真)

六義園② 紀州の景勝地 (新江戸百景めぐり61-2)_c0187004_20393418.jpg
  この茶屋は、「熱海ノ茶屋」として岩崎家によって建てられたものですが、戦災などで焼けてしまいました。その後に東京都によって再建され、現在は抹茶の店舗として活用されています。吹上の松から吹上茶屋の前の浜が、「吹上の浜」です。

紀ノ川

 吹上茶屋から東に行くと園内で一番高い藤代峠が見えてきます。

 藤代峠の登り口に広場がありますが、その広場の南側、大泉水の一部が紀ノ川に見立てられていて、「紀ノ川」と呼ばれています。(下写真)

六義園② 紀州の景勝地 (新江戸百景めぐり61-2)_c0187004_20422585.jpg

紀ノ川というのは、奈良県の大台ケ原から流れ出し、奈良県と和歌山県を流れて和歌山市で紀伊水道に流れ込む大きな川です。

藤代峠

 藤代峠は、園内で一番高い築山で、標高は35mあります。

六義園② 紀州の景勝地 (新江戸百景めぐり61-2)_c0187004_20430268.jpg

紀州の和歌の浦近くに「藤白坂」という坂があります。

 藤白坂は悲劇の皇子として古代史を飾る有間皇子が処刑された場所と有名です。

藤代峠は、その藤白坂に見立てられていると考えられています。

峠の頂上は「富士見山」と呼ばれました。名前の通り、江戸時代は、富士山が見えたようです。

江戸時代は、江戸の百名山の一つに数えられていました。

六義園全体を見渡すことができるポイントとなっています。(下写真)

六義園② 紀州の景勝地 (新江戸百景めぐり61-2)_c0187004_20422681.jpg

渡月橋

藤代峠を降りて、東に向かうと「渡月橋」があります。(下写真)

六義園② 紀州の景勝地 (新江戸百景めぐり61-2)_c0187004_20433896.jpg

「渡月橋」というと、京都の嵐山を思い出すと思いますが、この渡月橋は京都の嵐山の渡月橋を模したものではなく次の和歌から付けられたものです。

「和歌のうら 芦辺の田鶴の 鳴声に 夜わたる月の 影ぞさびしき」

 やはり、和歌の浦に縁のある橋です。

昔は土でできた橋だったようですがが、現在では2枚の大岩による橋となっています。

出汐の湊

 これまでご案内したように六義園は和歌の浦と縁の多い風景が取り込まれています。

 大泉水の南東部にある「出汐の湊」も和歌の浦に縁があります。(下写真)

六義園② 紀州の景勝地 (新江戸百景めぐり61-2)_c0187004_20433805.jpg

「出汐湊」は、和歌の浦に潮が満ちる状態を再現しています。

「出汐」とは、舟が湊(港)に入るときに、満潮になるのを待っていることだと六義園の説明板にかいてあります。

しかし、辞書には「月の出とともに満ちてくる潮」の意味とも書かれています。

ここでは、「出汐」は「月の出」とかけて、月が出るのを待っている様子を表しているそうです。 

ここでは、次のような歌が詠まれています。

「和歌の浦に月の出汐のさすままによるなくたづ(鶴)の声そさひしき」

(和歌の浦に月の出と共に海の水が増してくると、干潟がなくなって飛び立つ鶴の鳴き声がさびしく響く)





by wheatbaku | 2020-03-02 20:33 | 新江戸百景めぐり
六義園①(新江戸百景めぐり61-1)

六義園①(新江戸百景めぐり61-1

 今日は、『新江戸百景めぐり』で六義園をご案内します。

 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、86ページの第36景で紹介されています。

 六義園は、JR山手線・東京メトロ南北線「駒込」駅より徒歩12分のところにあります。

 駒込駅近くの染井門は、春の桜の季節や秋の紅葉の季節のみ開く門で、通常は閉鎖されているため、南側にある正門に向かう必要があり、染井門から10分程歩く必要があります。下写真が正門です。

六義園①(新江戸百景めぐり61-1)_c0187004_21254105.jpg

 六義園は、柳沢吉保が作った庭園です。

元禄8年(1695)に柳沢吉保が拝領した下屋敷に、7年間かけて元禄15年に完成した庭園です。

 現在、広さは、約3万坪あります。

 六義園の名前は、中国の古い書物である「詩経」に出てくる「六義」からとった名称です。「六義」という言葉は、詩の分類を表すもので、次の六個を指します。

 賦(ふ)   感想をそのまま述べたもの

 比(ひ)   例をとって感想を述べたもの

 興(きょう) 外の物にふれて感想を述べたもの

 風(ふう)  民間で行われる歌謡

 雅(が)   朝廷でうたわれる雅な歌

 頌(しょう) 祖先を讃える歌

 現在は、音読みで「りくぎえん」と呼ばれていますが、六義園が作られた際には、柳沢吉保は日本風に「むくさのその」と呼んでいたようです。

宝永6年(1709)綱吉がなくなると、柳沢吉保は、長男の吉里に家督を譲って隠居し、隠居後は六義園で過ごしました。

吉保の孫3代の柳沢信鴻(のぶとき)までは、六義園はかなりしっかりと管理されていたようです。特に3代柳沢信鴻(のぶとき)は隠居後、この六義園に住んで、芝居などをよく観に行っていました。

しかし、寛政4年(1792)信鴻が亡くなると、それ以降20年間ほど、ほとんど六義園は利用されず荒廃していました。そこで、文化6年(1809)、4代保光の時に復旧工事が行なわれています。

明治以降は、六義園は三菱家のものになります。

明治11年に三菱財閥の創始者岩崎弥太郎が手に入れました。そして、弥太郎の長男の岩崎久弥の時代には、久弥の本邸として使用されていたこともありました。

そして、昭和13年4月岩崎久弥から庭園を中心とした3万余坪が、東京市に寄贈され同年10月東京市の管理のもとに公開され今日に至っています。

六義園の正面を入り少し歩くと大きな門「内庭大門」が見えてきます。

六義園①(新江戸百景めぐり61-1)_c0187004_21254202.jpg

内庭大門は、岩崎家所有当時の雰囲気を残していますが、現在の門は東京市によって再建されたものです。

かつては門をくぐった先、しだれ桜のある場所あたり(下写真)あたりに岩崎家の「御殿」と呼ばれる邸があったようです。

六義園①(新江戸百景めぐり61-1)_c0187004_21254280.jpg

 六義園を訪ねた時は、冬景色で、しだれ桜は、枝ばかりでした。

しかし、春には下の写真のように見事な花をさかせます。

枝垂桜は、高さ約15m、幅約20mもあります。

3月下旬の満開の時期には、ライトアップもされて大勢の花見客が訪れます。

六義園①(新江戸百景めぐり61-1)_c0187004_21254102.jpg

 「シダレザクラ」は、「エドヒガン」という桜の品種の一種で、枝が下に垂れているため「枝垂れ桜」と呼ばれています。

「ソメイヨシノ」より少し早く咲きます。非常に有名な桜ですが、昭和30年代に、東京都によって植えられたもので、樹齢はまだ60~70年だそうです。

 
 赤印が六義園正門です。
 青印がしだれ桜です。







by wheatbaku | 2020-02-27 21:18 | 新江戸百景めぐり
駒込富士神社②「一富士、二鷹、三茄子」(新江戸百景めぐり60-2)
駒込富士神社②「一富士、二鷹、三茄子」(新江戸百景めぐり60-2

縁起の良い初夢としてあげられるもの『一富士、二鷹、三茄子』があります。

この三つが縁起のよいものにあがれるかについては諸説がありますが、  「駒込に一富士、二鷹、三茄子」という川柳があり、駒込の名物を挙げたものだという由来説もあります。

 そこで、今日は、駒込の「一富士、二鷹、三茄子」について書いてみます。

まず、「一富士」は、いうまでもありませんが、前回ご案内した「駒込富士神社」であることは、すぐにおわかりになると思います。

下写真は駒込富士神社入り口です。

駒込富士神社②「一富士、二鷹、三茄子」(新江戸百景めぐり60-2)_c0187004_14294388.jpg

「二鷹」は、駒込に鷹匠屋敷があったことによります。

鷹狩は、徳川家康が大変好きでしたので、家光までの歴代将軍も鷹狩を好んで行ないましたが、4代家綱の時には回数が少なくなりました。そして、5代将軍綱吉は、生類憐みの令との関係で鷹狩を禁止しました。鷹狩が復活したのは、8代将軍吉宗の時です。

吉宗が復活した鷹匠屋敷の一つが現在の都立駒込病院の場所にありました。

これがあったことが「二鷹」の由来です。

昭和49年、駒込病院の外溝工事中に貝塚が確認されたことから、2次にわたる発掘調査が行われ、縄文時代の遺跡の上に江戸時代の遺構が発見されました。これが動坂遺跡です。下写真は文京区教育員会が設置した説明板です。

駒込富士神社②「一富士、二鷹、三茄子」(新江戸百景めぐり60-2)_c0187004_14294375.jpg

縄文時代の遺跡が貝塚で、江戸時代の遺構が鷹匠屋敷の遺構です。

そのため、都立駒込病院の入口に、動坂貝塚記念碑(下写真)が設置されています。

上写真と下写真は以前訪ねた時に撮った写真です。現在は状況が変わっているかもしれません。

駒込富士神社②「一富士、二鷹、三茄子」(新江戸百景めぐり60-2)_c0187004_14294303.jpg

続いて「三茄子」ですが、江戸時代、駒込はなすの産地で、「駒込なす」は、江戸では大変有名な野菜でした。

 新編武蔵風土記稿の上駒込村に、

  茄子の土地によろしいので世にも駒込茄子と称す

 と書かれています。

 こうしたことから、駒込富士神社にJA東京が設置した説明板があります。下写真がそれです。

駒込富士神社②「一富士、二鷹、三茄子」(新江戸百景めぐり60-2)_c0187004_14294369.jpg

 縁起の良い初夢としてあげられる『一富士、二鷹、三茄子』がどうして縁起がよいとされるのかについては諸説があります。

徳川家康の好物を挙げたという説や駿河にあるもので高いものを挙げたという説もあります。

「甲子夜話」には、「神君駿城に御座ありし時、初茄子の値貴くして、数銭を以て買得ぬ故、其値高きをいはんとして、まず一に高きは富士なり。その次は足高山なり、其次は初茄子なりといひしことなり」と書かれていて、家康が駿河で高い順にあげたものだそうです。

 ちなみにここで言われている足高山は、愛鷹山のことで、駿河では富士山に次いで高い山です。

赤印が動坂遺跡の説明板と動坂貝塚記念碑のある場所です。
青印が駒込富士神社です。







by wheatbaku | 2020-02-24 14:27 | 新江戸百景めぐり
駒込富士神社①(新江戸百景めぐり60-1)

駒込富士神社①(新江戸百景めぐり60-1) 

今日は、『新江戸百景めぐり』で駒込富士神社をご案内します。

 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、135ページ第73景で紹介されています。

 駒込富士神社は、山手線・東京メトロ南北線「駒込」駅より徒歩12分のところにあります。途中に六義園がありますので、六義園を見たついでにお参りするのもよいと思います。
 下写真は鳥居正面から写した駒込富士神社です。

駒込富士神社①(新江戸百景めぐり60-1)_c0187004_12314209.jpg

駒込富士神社は、本郷村の名主が天正元年(1573)、現在の東京大学本郷キャンパスの地に駿河の富士浅間社を勧請したのが始まりです。

寛永6年(1629)に、本郷の鎮座地が加賀藩前田家の屋敷となったため、現在地に移ってきました。

社伝によれば、現在地は昔から富士塚と呼ばれ、大きな塚があり、この塚は一説によると前方後円の古墳ともいわれているそうです。

駒込富士神社は、その塚の上に、鎮座していますので、正面の石段は大変急な石段になっています。そして、石段を登りきったうえに駒込富士神社の社殿があります。

駒込富士神社①(新江戸百景めぐり60-1)_c0187004_12314338.jpg

江戸時代は、富士山信仰が盛んで、富士の浅間神社にお参りに行く「富士講」が数多くできました。

そして、次のように詠われるほどになりました。

~江戸は広くて八百八町、講は多くて八百八講。江戸に旗本八万騎、江戸に講中八万人。~

そして、富士山に見立たてた富士塚が多く作られました。

富士山に見立てた山の上に拝殿を配したこの富士神社も、富士信仰の拠点の一つでした。
 下写真が現在の社殿です。

駒込富士神社①(新江戸百景めぐり60-1)_c0187004_12314364.jpg

毎年の富士山開きの日にあわせ、代表者が富士山に登り、江戸に残った人たちは、近くの富士塚に参拝しました。ここの富士神社も、山開きの日には大勢の参拝客でにぎわいます。

 以前、お参りした時の記事がありますので、ご興味のある方はご覧ください。
 駒込富士神社の麦藁蛇

本郷の富士浅間神社

富士神社が駒込に移転する前は、加賀藩上屋敷(現在の東大本郷キャンパス)に鎮座していました。鎮座していた場所は、赤門東側にある「赤門総合研究棟」のある場所といわれています。(下写真)

駒込富士神社①(新江戸百景めぐり60-1)_c0187004_12314320.jpg

江戸時代の加賀藩邸の地図を見ると赤門東に緑色に塗られた場所があります。そこが「加賀殿再訪」(東京大学出版会刊)では富士権現旧地と注記されていて、「江戸のミクロモス」(新泉社刊)では富士山と注記されています。ここが富士浅間神社が鎮座していた場所と思われます。下写真は現在の赤門です。

駒込富士神社①(新江戸百景めぐり60-1)_c0187004_12314365.jpg

駒込富士神社が駒込にできた後も富士浅間神社が祀られていましたが、明治になって、前田侯爵家の屋敷が旧加賀藩邸の一画に設けられると、富士浅間神社も屋敷内に鎮座していました。前田家が昭和3年に駒場に移転して跡地が東大キャンパスとなり、現在は、春日通りに面した場所にお祀りされています。下写真が富士浅間神社の社殿です。

駒込富士神社①(新江戸百景めぐり60-1)_c0187004_12314330.jpg

富士浅間神社がある地区の昔の町名は、本富士町といいました。かつて富士山があったことにちなむ名前です。現在も東大のそばにある警察署は、本富士警察署となっています。

〇駒込富士神社の場所

 赤印が駒込富士神社です。青印が六義園です。


〇富士浅間神社の場所

 緑印が富士浅間神社です。オレンジ印が赤門です。ピンクが総合研究棟です。







by wheatbaku | 2020-02-20 12:26 | 新江戸百景めぐり
神楽坂③(新江戸百景めぐり59-3)

神楽坂③(新江戸百景めぐり59-3

 

 神楽坂からは少し離れますが、神楽坂坂上から大久保通りを東に歩いていくと筑土八幡神社があります。神楽坂周辺はには史跡が結構あります。それで、今日は神楽坂からはちょとと離れますが、筑土八幡神社と「寒泉精舎跡」をご案内します。

筑土八幡神社

 筑土八幡神社は、神楽坂上からは徒歩67分、JR飯田橋駅からは徒歩10分です。
 下写真は、大久保通りに面して建っている社標です。

神楽坂③(新江戸百景めぐり59-3)_c0187004_18081317.jpg

 筑土八幡神社の御祭神は、八幡神社の名前の通り、応神天皇、神宮皇后、仲哀天皇です。

 筑土八幡神社の御由緒は、一の鳥居近くに設置されている説明板によれば、今から約千二百年前の平安時代の嵯峨天皇の御代に武蔵国豊嶋郡牛込の里に大変熱心に八幡神を信仰する翁がいました。

ある時、翁の夢の中に神霊が現われて、「われ、汝が信心に感じ跡をたれん。」と言われたので、翁は不思議に思って、目をさますとすぐに身を清めて拝もうと井戸のそばへ行ったところ、かたわらの一本の松の樹の上に細長い旗のような美しい雲がたなびいて、 雲の中から白鳩が現れて松の梢にとまりました。

翁は神霊の現れたことを知り、このことを里人に語り、すぐに注連縄(しめなわ)をゆいまわして、その松を祀ったそうです。

その後のことついて、説明板には、「伝教大師(※)がこの地を訪れた時、この由を聞いて、神像を彫刻して祠に祀りました。」と書いてありますが、「新宿区の文化財史跡ガイドブック」によればここを訪れたのは慈覚大師であり、「江戸名所図会」には、「慈覚大師、東国遊化の頃、伝教大師彫造したまうところの阿弥陀如来を本地仏とし、小祠を経始す」と書いてあります。これらの説明と説明版とは、訪れた人物名が少し違うようです。下写真が社殿です。

神楽坂③(新江戸百景めぐり59-3)_c0187004_18081314.jpg

筑土という名前について、説明板には「伝教大師がこの地を訪れた時に筑紫の宇佐の宮土をもとめて礎としたので、筑土八幡神社と名づけた」と書いてありますが、「新宿区の文化財史跡ガイドブック」には「築き立てた地の意味である」とも書いてあります。

その後、文明年間に江戸の開拓にあたった上杉朝興が社殿を造って、この地の産土(うぶすな)神としたそうです。

現在、境内地は約2200平方メートルあり、前の社殿は昭和20年の戦災で焼失してしまい、現在の社殿は、昭和38年に再建されたものです。

参道の石段の途中には石造りの鳥居があります。この鳥居は、高さは 3.75 メートルあり、享保 11 年(1726 )に建立された鳥居で、新宿区内最古の鳥居で、新宿区の有形文化財に指定されています。(下写真)

神楽坂③(新江戸百景めぐり59-3)_c0187004_18081309.jpg

この鳥居の右側の柱の裏側には奉納した人の名前が刻まれています。

それにより常陸国下館藩主であった黒田直邦によって奉納されたものであることがわかります。(下写真)

 黒田直邦は、旗本中山直張の三男に生まれ母方の祖父黒田用綱の養子となりました。黒田用綱はのちに5代将軍となる徳川綱吉が藩主であった舘林藩の家老であったことから、徳川綱吉に仕えるようになりました。綱吉が5代将軍となったことから幕臣となり、徳川綱吉に寵愛され、元禄16年(17031月常陸国下館藩15千石の藩主となりました。宝永4年に5千石加増され、2万五千石となっています。そして、享保17年(17323月に上野国沼田藩に3万石で移封され、同年7月、西の丸老中に就任しました。

 享保20326日になくなり、埼玉県飯能市にある能仁寺に眠っています。

 

寒泉精舎跡
 飯田橋駅と筑土八幡神社の中間に「寒泉精舎跡」があります。「寛政の三博士」の一人岡田寒泉の家塾の跡です。

 目印のなるのがJCHO東京新宿メディカルセンターですが、その少し手前の大久保通りの西側に「寒泉精舎跡」 と書かれた新宿区教育委員会が設置した説明板があります。

 よく探さないと見落としてしまいますが、ドラッグストア「くすりの福太郎」が目印となります。下写真

神楽坂③(新江戸百景めぐり59-3)_c0187004_18081261.jpg

岡田寒泉は江戸時代後期の儒学者で「寛政の三博士」の一人に数えられています。また、下総国の代官も勤めた幕府の役人でもあります。

岡田寒泉は、江戸牛込に1200石の旗本岡田善富の次男として生まれました。

通称清助といい、寒泉と号しました。寒泉という号は、自宅を寒泉坊といったことによるもので、それは、近くに冷水(ひやみず)の井という井戸があったことにちなむものだそうです。

武芸のほか、兵学を村主淡斎(すぐりたんさい)に、詩文を井上金峨(きんが)に学びました。また、淡斎の子村主玉水(すぐりぎょくすい)から山崎闇斎系の朱子学を学びました。

寛政元年(1789)に松平定信に抜擢されて幕府儒官となり昌平黌(後の昌平坂学問所)で経書を講じました。50歳の時でした。

松平定信の寛政の改革の中で学政や教育の改革に当たり、共に改革を進めた柴野栗山、尾藤二洲とともに「寛政の三博士」と呼ばれました。

寛政6年(1784)に下総の代官に転任しました。岡田寒泉が転任したため、その後任の古賀精里が岡田寒泉の代わりに寛政の三博士の一人に数えられるようなりました。

なお、藩の儒官であった頃の古賀精理自身の手紙に、「寛政の三博士」の呼称が使用されているので、岡田寒泉が最初の「寛政の三博士」の一人であることは明らかと「岡田寒泉」(重田定一著)に書かれています。

岡田寒泉が、代官として民政にあたったのは、常陸国内の182カ村でした。

それ以降14年間、代官として、荒廃の進む農村の立て直し,人口回復に尽力しました。

そのため、名代官の一人に挙げられていて、茨城県内には、つくばみらい市の板橋不動院や筑西市寺上野公民館など各地に岡田寒泉を顕彰する石碑が建てられています。

岡田寒泉は、当初父(または兄)の屋敷に同居していましたが、寛政2(1790)819日この地に幕府から屋敷を拝領し、自宅の隣地3286余の土地も与えられ、寒泉精舎(かんせんしょうしゃ)と名付けた家塾を開きました。

自宅部分は、明治以降、道路となりましたが、寒泉精舎のあった部分に新宿教育委員会設置の説明板があります。

神楽坂③(新江戸百景めぐり59-3)_c0187004_18081207.jpg

文化12 (1815)病気のため寒泉精舎を閉鎖して土地を返上しました。

翌文化1389日、岡田寒泉は77歳で死去し、大塚先儒墓所(国指定史跡)に儒制により葬られました。

赤字が筑土八幡神社です。

青印が寒泉精舎跡の説明板の設置場所です。






by wheatbaku | 2020-02-10 17:54 | 新江戸百景めぐり
神楽坂②(新江戸百景めぐり59-2)

神楽坂②(新江戸百景めぐり59-2

 神楽坂では、善非常に寺が有名ですが、その他にも見どころがあります。

 そこで、今日は神楽坂の続編として、光照寺、天文屋敷跡、行願寺跡についてご案内します。

 

 まず、光照寺ですが、光照寺は善國寺の西側にありますが、あまり知られていないように思います。

 善國寺を過ぎて最初の路地を左に曲がります。そこは地蔵坂という登り坂です。

 そこを登りきった左手に光照寺があります。

 下写真は門前の様子です。右手に寺標が建てられています。

神楽坂②(新江戸百景めぐり59-2)_c0187004_11051015.jpg

 この光照寺一帯は、戦国時代には牛込城があった場所です。

 当時の資料は残されてないため、詳細は不明ですが、城と言っても大規模なものではなく、住居を主体とした館程度のものであっただろうと推定されています。

 牛込城のあった場所は、牛込台地の南端にあたり、江戸城とは谷一つ隔てた場所です。(下写真は本堂脇に設置されている新宿教育委員会の説明版です)

神楽坂②(新江戸百景めぐり59-2)_c0187004_11090646.jpg

 ここの主であった牛込氏は、もともとは、上野国勢多郡大胡の領主大胡氏を祖先とした氏族です。大胡は赤城山の南麓にあります。

戦国時代の天文年間(153255)に大胡重行が南関東に移り、北条氏の家臣となりました。重行の子の勝行は姓を牛込氏と改めました。

しかし、北条氏が滅亡した後は、牛込勝重は、徳川家康に従いました。その際、牛込城は取り壊されました。

牛込城は、重行、勝行、勝重の三代の居館で、ここを拠点として、牛込、桜田、日比谷付近を領有していました。 

 牛込城の跡地に現在建っている光照寺は、浄土宗の寺です。下写真は本堂です。

慶長8年(1603)、神田元誓願寺町に開かれました。そして、牛込城の跡に、正保2(1645)に神田から移転してきたものです。

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出羽国松山藩主酒井家の墓所

光照寺境内の墓所の中に、ひときわ大きな墓碑群があります。

出羽国松山藩主酒井家の墓所です。

松山藩は譜代大名の名門であり徳川四天王の一人あった酒井忠次の子孫庄内藩初代藩主酒井忠勝の三男忠恒が分家として正保4年(16472万石で創設された藩です。松山藩は、現在の山形県酒田市にありました。

光照寺には初代忠恒以下代々の藩主及び妻子の墓があります。

酒井家の墓域はかなり広いのですが、東日本大震災の際に墓碑が緩んで倒れる危険があるため、一般の人は、入ることができません。

墓域の外からの撮影ですが、入り口正面には、初代の忠恒の立派な墓碑が建っています。下写真

神楽坂②(新江戸百景めぐり59-2)_c0187004_11051139.jpg

松山藩酒井家では、江戸で死去したものは光照寺に、国元で死去したものは、酒田市松山心光寺に葬られました。

天文屋敷跡

 光照寺がある場所は、坂の上にあり、昔は、江戸湾に入ってくる船をみることができたそうです。

そのため、戦国時代に城が築かれたのでしょう。そうした見晴らしのよい地形を利用して、 幕府は、明和2(1765)、牛込藁店に天文屋敷が建てられました。

当時使用されていた宝暦暦は、京都の土御門家が中心になって作成した暦でしたが、不正確であったため、宝暦暦の修正のため、明和元年(1764)に佐々木文次郎を天文方に任命し、翌年、光照寺門前の火除地に「新暦調御用所」を設置しました。

ここでは天体観測も行われましたので、いってみれば天文台です。この天文屋敷があった場所が光照寺の門前です。

天文屋敷のあった場所は、以前は日本出版クラブがありましたが2018年に移転して、現在はマンションの新築工事中で2022年3月に竣工する予定です。

現在の目印は、新宿区の保護樹林となっているイチョウの木です。(下写真)

神楽坂②(新江戸百景めぐり59-2)_c0187004_11051102.jpg

ここでの観測を基に宝暦暦の修正が明和6年に終了しましたが、その後も、天体観測が続けられ、ここが最初の幕府天文台となりました。

しかし、光照寺の木立が茂って観測に不便だったため、天明2(1782)に浅草片町裏に移転しました。これが浅草天文台です。

行願寺跡

神楽坂の東には、行元寺という大きなお寺がありましたが、現在、行元寺は目黒に移転して、その跡地は、マンションや戸建て住宅となっています。

その中に、寺内公園があります。(下写真)

神楽坂②(新江戸百景めぐり59-2)_c0187004_11051148.jpg

そこにある説明板によると、行元寺が明治40年に移転した後は、その跡地は「寺内」と呼ばれたそうです。

この寺内公園だけが、行元寺の名残りを伝える唯一のものだろうと思われます。

この行元寺境内で、天明3年(1783年)冨吉という百姓が、父の仇を討ったという記録があります。

これが神楽坂の仇討とも行元寺の仇討とも呼ばれる仇討です。

下総国相馬郡早尾村の百姓冨吉が、親の仇である同じ村の百姓甚内を牛込神楽坂の行元寺境内でうったのでした。

この仇討は江戸中の評判となりました。そこで、時の住職は、太田南畝に依頼して、石碑を「念彼観音力 還著於本人」と刻んだ石碑を建てました。

現在、行願寺門は目黒に移転していますが、そこには、大田南畝ゆかりの石碑が、いまも残されています。

以前、このブログで詳しく書いていますので、ご興味のある方は下記記事にとんでください。

行元寺の大田南畝の隠語碑

赤印が光照寺です。

青印が天文屋敷跡です。

緑印が寺内公園です。

オレンジ印が善國寺です






by wheatbaku | 2020-02-06 10:49 | 新江戸百景めぐり
神楽坂(新江戸百景めぐり59)

神楽坂(新江戸百景めぐり59

新江戸百景めぐり、今日は、神楽坂をご案内します。

 JR飯田橋駅西口を出て牛込見付を見て北に直進すると外堀通りと交差しますが、そのまま直進する坂が神楽坂です。

 坂の入口には、神楽坂の標柱が建っています。

 それには、次のように神楽坂の地名の由来が書かれています。
 「坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。」

神楽坂(新江戸百景めぐり59)_c0187004_16131868.jpg

 神楽坂を登っていくと西側に善國寺があります。

善國寺が創設されたのは、桃山時代末の文禄4年(1595)です。

初代住職は仏乗院日惺上人で、池上本門寺12代貫首を勤めました。日惺上人は、関白二条昭実の実子であり、以前から徳川家康と親交を持っていました。 

天正18年(1590)、徳川家康が江戸に入府した際、 上人が祖父伝来の毘沙門天像を前に天下泰平のご祈祷をしたことを伝え聞き、人に日本橋馬喰町馬場北の先に寺地を与えさらに鎮護国家の意を込めて、「鎮護山・善国寺」の山号・寺号の額を贈りました。

水戸藩主徳川光圀も善国寺の毘沙門天様に信仰し、寛文10年(1670)に焼失した際には、善国寺を麹町に移転し再建したといいます。その後、寛政4年(1792)の火事により、神楽坂へ移転してきました。

下写真が本堂です。

神楽坂(新江戸百景めぐり59)_c0187004_16131876.jpg

善國寺の御本尊は、毘沙門天で、日惺上人が池上本門寺に入山するにあたり、二条昭実からいただいたものと言われています。

毘沙門天は、インド出身の神様で、仏様や仏法を守る役目を担い、四天王の一つとして北方守護を司ります。また、多聞天とも称します。

毘沙門天様への信仰は時代とともに盛んになり、将軍家、旗本、大名へと広がり、江戸末期、特に文化・文政時代には庶民の尊崇の的ともなりました。

善國寺は、神楽坂毘沙門天として江戸の三毘沙門の随一として江戸っ子の篤い信仰を集めていました。

 本堂の前に虎の石像があります。右が阿形、左が吽形です。下写真は阿形の像です。嘉永元年(1848)に奉納されたもので、台石を含めた総高は2メートルを越えます。

神楽坂(新江戸百景めぐり59)_c0187004_16131890.jpg

大久保通りを横切り神楽坂を登っていき、東京メトロ神楽坂駅近くに、赤城神社があります。

 赤城神社は、正安2年(1300)に、上野国勢多郡大胡(現在の群馬県前橋市大胡)の豪族大胡彦太郎重治が牛込に移住した時、鎮守であった赤城神社の御分霊を牛込早稲田田島村(現・早稲田鶴巻町、元赤城神社の社地)に奉斎したのが創祀であるとされています。

 戦国時代の寛正元年(1480)に太田道潅により牛込に遷され、さらに弘治元年に(1555)には大胡氏の子孫である牛込氏によって現在地に再遷座されたといいます。下写真はメトロ出口から見える鳥居です。

神楽坂(新江戸百景めぐり59)_c0187004_16131725.jpg

そして、天和3年(1683)江戸幕府は赤城明神社を江戸大社に列し牛込の総鎮守としました。

江戸時代まで赤城大明神と称されていましたが、明治に入り赤垣神社に社号に替えました。

 赤城神社は、すごく近代的な社殿になっています。

 これは、2020年東京五輪の主会場となる『新国立競技場』をデザインした事でも有名な隈研吾さんが設計したものです。下写真は御社殿です。

神楽坂(新江戸百景めぐり59)_c0187004_16131841.jpg

 本殿の手前西側には天神様が鎮座しています。こちらの天神様は『蛍雪天神(けいせつじんじゃ)』と呼ばれています。

 天神様としては珍しい名前だなと思いましたが、こちらの神社は、2005年に『旺文社』の寄付により再興されたです。そういえば、『旺文社』の発行した雑誌に「蛍雪時代」という本がありましたね。

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by wheatbaku | 2020-01-28 16:07 | 新江戸百景めぐり
牛込見付(新江戸百景めぐり58)

牛込見付(新江戸百景めぐり58

 

今日の新江戸百景めぐりは、前回の小石川後楽園の近くの牛込見付のご案内をします。
 「新江戸百景めぐり」(小学館刊)では44ページの第5景で紹介されています。

私は、牛込門と呼んでいましたが、「新江戸百景めぐり」(小学館刊)では「牛込見付」と呼んでいるので、ここでも「牛込見付」としておきます。

 現在は、牛込見付といっても、江戸好きの人はピンとくるかもしれませんが、一般の人はピンとくる人はあまり多くはないのでないかと思います。

 牛込見付は、江戸時代は、三十六見附の一つであり、上州方面への出口であるため、「上州口」とも言われました。

 牛込見付は、現在のJR飯田橋駅西口にありました。

 現在も、JR飯田橋駅西口に牛込見付の石垣が残されています。(下写真)

牛込見付(新江戸百景めぐり58)_c0187004_17191884.jpg

ちなみに現在の飯田橋は、江戸時代にはありませんでした。当時は、外堀を越えるには牛込見付から渡っていました。

 牛込見付は田安台から牛込方面にでる門で、牛込門や牛込口とも呼ばれていました。

 牛込御門から市ヶ谷門にかけては、江戸時代には、堀の幅が100mもありましたが、現在では大分狭くなっています。

 別名で楓門とも言われますが、秋の紅葉は素晴らしかったそうです。

牛込見付(新江戸百景めぐり58)_c0187004_17191741.jpg

駅西口にある飯田橋駅前交番の北側脇にも巨石が残されています。(上写真)

 牛込門は、寛永13年(1636)に枡形石塁が、そして寛永15年(1638)に門が、阿波徳島藩藩主蜂須賀忠英によって築かれています。 

 交番脇の巨石の左下隅に「阿波乃國」の刻印がされていて、阿波藩で築いたことを物語っています。下写真は刻印の部分を拡大したものです。巨石の一番下に左から右に「阿波乃國」と刻まれています。

牛込見付(新江戸百景めぐり58)_c0187004_17191891.jpg


 外堀は、高低差があり、市ヶ谷寄りと小石川寄りで水位差があるため、土橋(土で作られた橋)で市ヶ谷方面の水を支え、小滝を設けて小石川方面に水を落としていました。


 土橋となっているため、牛込見付まで、船は入ってくることができましたが、これから先には上れませんでした。

【1月24日追記】浄瑠璃坂の仇討

牛込見付の土橋近くで起きた大事件が浄瑠璃坂の仇討です。

浄瑠璃坂の仇討ちは、江戸三大仇討ちの一つに数えられる仇討で寛文12年(167223日、江戸市ヶ谷の浄瑠璃坂で、奥平源八が父を殺害した奥平隼人を討ち果たした事件です。

事件の発端は、寛文8年(166832日、宇都宮の興禅寺で宇都宮藩前藩主奥平忠昌の二七日法要が行われ、法要後、奥平内蔵允と奥平隼人の2人の重臣が、諍(いさか)いを起し、激怒した奥平内蔵允が奥平隼人に向かって斬りかかりました。この時、奥平隼人は軽い傷ですみましたが、奥平内蔵允は奥平隼人から反撃され、大怪我をしました。奥平内蔵允の受けた傷は深手で、その傷がもとで亡くなりました。

2人の喧嘩に対して藩の処分が下され、奥平源八も奥平隼人も追放となりました。2人は、それぞれ宇都宮を離れ、奥平源八とそれを支持する人たちは、藩の処分に納得せず奥平隼人を討ち果たして仇を討とうということになりました。

宇都宮藩を追放された奥平隼人は、各地を転々として江戸に入り、最終的には市ヶ谷浄瑠璃坂上の鷹匠頭戸田七之助の屋敷へ身を隠しました。

そこに、寛文12年(167223日午前4時ごろ、身支度をととのえた奥平源八とその一党42名が奥平隼人の潜む戸田屋敷へ討ち入りました。

討入った時、奥平隼人は不在でしたが、激闘が展開されました。この戦いの中で多くの隼人の助太刀も討ち取られましたが、肝心な隼人が見つかりませんでした。いったん仇討ちを断念した討ち入りの一党が、屋敷から引き上げて浄瑠璃坂を下り、牛込土橋に近づいたところ、奥平隼人が、手勢を率いて追ってきました。そこで、奥平源八は、隼人と対決し、ついに隼人を討ち取りました。

この際に、奥平隼人は外堀に逃げこみ、それを追った奥平源八は、 堀の中で隼人を討ち取ったともいわれています。


赤印が牛込見付の石垣です。

青印が交番脇の巨石です。
緑印がJR飯田橋駅の西口です。





by wheatbaku | 2020-01-23 17:17 | 新江戸百景めぐり
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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