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カテゴリ:新江戸百景めぐり( 36 )
湯島天神(新江戸百景めぐり㉟)

湯島天神(新江戸百景めぐり㉟)

昨日は、毎日文化センターの「~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩」があり、湯島周辺を散歩してきました。

 数日前には、長時間雨が降るという予報でしたが、幸いにも昨日は雨は全く降らず、楽しく散歩してきました。

 昨日のコースは、御徒町駅 ⇒ 上野風月堂・上野松坂屋 ⇒ 心城院 ⇒ 湯島天神 ⇒ 旧岩崎邸庭園(休憩を兼ねて) ⇒ 常楽院 ⇒ 耕安寺 ⇒ 東大鉄門(てつもん) ⇒ 麟祥院 ⇒ 富士浅間神社 ⇒ 本郷三丁目駅 

というコースでした。

 ご参加いただい皆様、ありがとうございました。下写真は、湯島天神の社殿前で説明を聞く参加者の皆様です。

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 昨日ご案内した中に、新江戸百景めぐりに取りあげられている寺社が二つあります。湯島天神と麟祥院です。

 そこで、今日は湯島天神についてご案内します。「新江戸百景めぐり」(小学館刊)110ページの第56景で紹介されています。下写真は正面から見た社殿です。

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湯島天神は、正式には「湯島天満宮」と言います。以前は「湯島神社」と言いましたが、平成12331日に「湯島天満宮」に改称しました。

湯島天神は、社伝によると、雄略天皇2年(458)に、雄略天皇の勅命により、天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祭神として創建されたと伝えられていて、南北朝時代の正平10年(1355)、住民の願いにより菅原道真を勧請したとされています。

太田道灌の信仰もうけ、徳川家康が江戸に入ってからは徳川家の崇拝を受けました。

 将軍綱吉の時代に、社殿が火災で全焼した時に、綱吉から金五百両の寄進を受けたこともあるそうです。


湯島天神のご由緒には戸隠神社のことは触れられていませんが、湯島にはもともと戸隠神社が地主神としてお祀りされていて、その御祭神が天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)であり、その後、菅原道真を勧請したとも言われています。その戸隠神社は摂社としてお祀りされています。(下写真)

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社殿

社殿は平成712月に再建されました。

現在の建築基準法では、神社の建築でっても防火地域では新しく木造の建築物を建てることは認められていません。しかし、湯島天神では、防災設備をととのえ、特に木造建築が許可されたそうです。

社殿の正面の屋根の三角部分が特に大きくなっています。

これは、神社の南側の通りに面した鳥居のある場所が社殿の場所より約一メートルの高いため、「妻」と称される三角部分をより大きくして社殿を立派に見せています。

奇縁氷人石(きえんひょうじんせき)

社殿南側の梅林の端に奇縁氷人石と書かれた石柱があります。(下写真)

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これは、江戸時代の迷子情報を交換するための石柱です。

この石柱の右側には「たつぬるかた」、左側には「をしふるかた」と記されています。
 これは迷子がでたとき、子の名を書いた紙を右側に貼って探し、迷子がいた時、その子の特徴を書いた紙を貼って知らせた「迷子しらせ石標」です。

奇縁氷人石は京都の北野天満宮にあり、湯島天神の奇縁氷人石は、それをモデルにしたものと思われます。

「迷子しらせ石標」は、人通りの多い所に建てられました。現在も日本橋に残っていますし、浅草寺にもありました。

このことからも、湯島天神が人で賑わい、江戸有数の盛り場であったことがわかります。

なお、氷人というのはどういう意味か調べました。「精選版日本国語大辞典の解説」によると次のように書いてあります。

ひょう‐じん【氷人】

〘名〙 (中国、晉の令狐策が、氷上に立って氷の下にいる人と話をした夢を見たところ、索紞(さくたん)が、陽である氷上から陰である氷下に語ったのであるから、誰かのために仲人をするだろうといって、その通りになったという、「晉書‐芸術伝・索紞」に見える故事から) 婚礼の媒酌人。なこうど。月下氷人。また、仲立ちをする人

 下写真は、奇縁氷人石を見ながら説明を聞く参加者の皆さんです。

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富くじ

 湯島天神に大勢の人が集まった理由の一つに富くじが行なわれていたことがあげられます。

 湯島天神は、江戸時代は、江戸の三富の一つに数えられほど富くじで有名でした。江戸の三富とは、谷中感応寺、目黒滝泉寺、湯島天神を言いました。

富くじはお寺や神社の修理費用に充てるために興行されました。

このため、興業の許可願いは寺社奉行に出願していましたし、抽籤の際には、寺社奉行の与力が立ち会いました。

庶民に大変人気のあった富くじも、寛政の改革で、松平定信によって制限され、天保の改革では、水野忠邦により全面的に禁止されてしまいました。

筆塚

 湯島天神と言うと、「婦系図」の湯島の白梅でも有名です。

そうしたことから、作者である泉 鏡花の「筆塚」が、昭和17年に、里見惇、久保田万太郎らによって建てられました。

『切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云うものよ。……私にゃ死ねと云って下さい。』というお蔦のセリフは非常に有名です。

 実はこの有名な湯島天神でのせりふは泉鏡花の原作「婦系図」にはなく、このせりふは「婦系図」が、明治41年に新富座で上演されたときに 付け加えられたものです。

その後、大正3年になって、泉鏡花自身が、お蔦と主税の別れの場面である「湯島天神の場」を、舞台のために書き下ろしています。

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表鳥居(東京都指定有形文化財)

湯島天神の鳥居は銅製で、柱の刻銘に江戸時代初期の寛文7年(1667)に建立されたと記されています。その後、何回にわたり修理されたことをしめす刻銘もあります。 

昭和45年東京都指定有形文化財に指定されています。

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湯島天神のホームページには、鳥居の様式は神明鳥居といわれるものと書いてあります。

鳥居の横木が二重になり、反りをもって、柱が内側に傾いています。横木の上の方を笠木、下の方を島木といいます。鳥居の大きさは、柱の下から上端についた台輪までの長さが3.88m、笠木上端の長さが6.81mだそうです。

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上の写真が鳥居の台座部分ですが、台座に唐獅子が飾られていますが、見落としてしまいそうです。

写真の上部に四角い刻銘が写っていますが、ここに寛文6年建立されたこと、その後、寛文11年、宝暦11年、文化6年などに修理されていることが刻まれています。





by wheatbaku | 2019-09-22 14:19 | 新江戸百景めぐり
すみだ北斎美術館(新江戸百景めぐり㉞)

すみだ北斎美術館(新江戸百景めぐり㉞)

 今日は、両国の「すみだ北斎美術館」をご案内します。

 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では64ページに紹介されています。

 すみだ北斎美術館は、都営地下鉄両国駅から徒歩4分、JR両国駅の東口からだと8分かかります。

すみだ北斎美術館は、葛飾北斎は、本所割下水で生まれたとされていることや本所界隈で生涯を送ったといわれていて、墨田区と非常に縁が深いことから墨田区が建設した美術館で、平成28年11月に開館した新しい美術館です。

すみだ北斎美術館は、江戸時代に弘前藩津軽家の大名屋敷があった緑町公園の南端に建てられています。下写真は、公園内から撮ったものです。

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 すみだ北斎美術館は建築家妹島和世氏が設計したもので、一般社団法人日本建設業連合会により、日本国内の優秀な建築作品に与えられるBCS賞を昨年(2018年)に受賞しています。

大変近代的な建物だと思いましたが、建物外壁に淡い鏡面のアルミパネルを使用しているのは、建物外壁にやわらかく下町の風景が映り込み、周辺地域の風景に溶け込むようにという意図だそうです。(下写真)

 

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建物は、地上4階 地下1階で、常設展示場は4階にあります。

 展示は、葛飾北斎の生涯に沿った展示となっています。

下写真は入口からみた常設展示場です。右半分が展示場内ですが照明を落としてありますので、真っ暗な感じです。

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常設展示は、葛飾北斎の絵の歴史にそった展示となっていて、習作の時代⇒宗理様式の時代⇒読本挿絵と肉筆画の時代⇒錦絵の時代⇒肉筆の時代というふうになっています。

この中で錦絵の時代で富嶽三十六景が触れられています。

このコーナーで、有名な「山下白雨」と「神奈川沖波裏」が展示されています。(下写真) 
 その他の富嶽三十六景は、デジタルで見られるようになっていました。また、展示場には北斎漫画も展示されています。

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 常設展示場には、下のような模型もあります。

 葛飾北斎は、晩年、本所の榛稲荷(後述)の近くに、娘の阿栄(おえい)と一緒に住んでいました。その姿を弟子の露木為一(つゆきいいつ)が書き残しています。

 それをもとに再現したもので、北斎が炬燵に半分入りながら絵を画いていて、そばで阿栄が見ている様子です。北斎は90回以上も引っ越ししたと言われていますが、それは、ごみを処理しなかったことが理由らしいと匂わせるコメントがしてありました。

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 ほくさい美術館の周辺に、北斎ゆかりの地がありますので、2ヶ所案内します。

 まず、北斎生誕の地です。

 葛飾北斎は、本所割下水で生まれたとされています。

 現在は、緑町公園に「葛飾北斎生誕地」の説明板が建っています。

 しかし、緑町公園は、前述のごとく津軽藩上屋敷があった場所ですので、葛飾北斎が、ここで生まれた訳ではなく、この周辺で生まれたという意味です。

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 JR両国駅東口から徒歩4分の所に、「榛(はんのき)稲荷」があります。 この辺りには、江戸時代、東西185メートル、南北22メートルほどの馬場がありました。その馬場には榛があったため、馬場が榛馬場と呼ばれました。

 その馬場にお祀りされていたお稲荷様が「榛稲荷」です。下写真

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 その境内には「葛飾北斎住居跡]と書かれた墨田区教育委員会の説明板が設置されています。その中に、露木為一が残したという葛飾北斎と阿栄の絵が描いてありました。(下写真)

 この絵を基に作成されたのが前述したすみだ北斎美術館の模型ですが、模型がよくできていることがわかります。 

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赤印がすみだ北斎美術館です
青印が葛飾北斎生誕地の説明板の設置場所です。
緑印が榛稲荷神社です。








by wheatbaku | 2019-09-18 14:45 | 新江戸百景めぐり
吉良邸跡(新江戸百景めぐり㉝)
吉良邸跡(新江戸百景めぐり㉝)

今日の新江戸百景めぐりは、有名な吉良邸跡をご案内します。

 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では152ページの第87景で紹介されています。

 吉良邸は、裏門側の南北長さが34間4尺8寸(63.3メートル)、東西の長さが73間7尺3寸(約134.9メートル)、面積2550坪ありましたが、現在はほとんど民家となっています。その中で、吉良邸の面影を感じさせるのが本所松坂町公園です。(下写真)

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 吉良家が改易された後、屋敷の跡は町屋になったため、吉良家の名残を残すものはありませんでした。そこで、昭和9年に地元の自治会の有志がお金を出し合い、土地を購入し、東京都に寄付しました。それが吉良松阪町公園です。現在は墨田区に移管され墨田区立公園となっています。本所松坂町公園は約30坪しかなく、元のお屋敷の1.1%ほどの広さです。本所松坂町公園は、JR両国駅東口から徒歩5分です。下写真は東南方向から見た本所松坂町公園です。

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吉良上野介の屋敷は、松の廊下で浅野内匠頭に斬りつけられた当時は現在の東京駅あたりにあった呉服橋門内の以前紹介した北町奉行所と同じ場所にお屋敷がありました。

 そして、刃傷事件の起きた年の元禄14年(1701)9月3日に、吉良上野介は、本所にあった松平登之介(近藤登之介はまちがい)の屋敷跡に移転しました。

 義士の討入りがあってお屋敷を没収されたのが元禄16年(1703)2月4日ですから、吉良家の御屋敷であったのは1年半に満たない短かい期間でした。吉良邸は、赤穂浪士の討ち入り後、吉良家が改易となり、その跡に入る旗本はなかなかいませんでした。そこで、吉良邸跡は、町人が住む町屋になりました。

 江戸時代は、町名は、原則町人が住む町にだけつけられていました。そのため、吉良邸があった頃は本所松坂町という町名はありませんでした。討ち入りの2年後、町人町となった町につけられた町名が松坂町でした。

松坂という名は、謡曲の中からめでたいものが選ばれたようです。
 

吉良上野介像 

公園内には吉良上野介の像が鎮座しています。(下写真)
 これは、愛知県吉良町(現在は西尾市吉良町)にある吉良家の菩提寺の華蔵寺にある木像をモデルに造られています。
 その上野介の木像は元禄3年(1690)、50歳の時に自らが監督し彩色を施したと伝えられています。

以前、華蔵寺を訪ねた際に、吉良上野介の木像は、通常は、御影堂の中にあり、公開されていないのですが、特別に鍵をあけて拝観させていただいたことがありました。

 本所松坂町公園の吉良上野介の像は。華蔵寺の像をモデルに横浜在住の米山隆氏が制作したもので、平成22年に墨田区に寄贈されたものです。

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「吉良家家臣二十士」の供養碑

 公園内に「吉良家家臣二十士」と刻まれた碑があります。

これは、赤穂浪士が討ち入りした際に、なくなった家臣の名前を刻んで慰霊したものです。赤穂浪士が討ち入った際、赤穂浪士側は、完全武装であったため、軽傷者2名で死者はゼロでした。一方、衝撃された吉良方は、20人の死者が出ました。その20人の名前を書いて供養したものです。

 死者で有名な人を挙げると、吉良家の家老の小林平八郎八郎、そして、忠臣蔵によくでてくる清水一学の名前も刻まれています。清水一学は、吉良上野介の小姓でした。その他18名の人の名前が刻まれていました。

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霊験あらたか松坂稲荷大明神 

 公園内には神社もあります。松坂稲荷大明神です。
 これは、江戸時代、この辺りに鎮座していた「兼春(かねはる)稲荷」と「上野(こうづけ)稲荷」を合わせてお祀りしたものです。

 公園開園当時からここに鎮座しています。それ以前に、二つのお稲荷さんがどこに鎮座しているのか調べましたが、それは分かりませんでした。

 「兼春稲荷」をどう読むかについても、「兼春(けんしゅん)稲荷」とフリガナをふった本もありました。しかし、公園近くの和菓子屋さん「大川屋」のおかみさんに以前尋ねたところ「かねはる」と呼ぶと教えていただきました。地元では霊験あらたかなお稲荷さんとして深く信仰されているそうです。

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吉良邸表門

吉良邸は、東側に表門があり、西側に裏門がある細長いお屋敷でした。
 本所松坂町公園の東側近くに、吉良邸表門の説明板が設置されています。(下写真)

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赤穂浪士の討ち入りは元禄15年12月14日に行われたと言われます。

 討ち入りした時刻は午前4時ころですので、今の時間の数え方でいえば正しくは15日に討ち入ったことになります。江戸時代は、夜明けから翌日の夜明けまでを一日と数えました。そこで、討入りした時刻は夜明け前ですので、12月14日ということになります。
 下写真は説明板の遠景写真、歩道もない道路のわきに設置されています。

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 表門隊23人と裏門隊24人に別れ、討ち入りしました。表門は大石内蔵助、裏門は大石主税が大将で、吉田忠左衛門が補佐しました。

 大石内蔵助に指揮された表門隊23人は、表門の屋根に梯子をかけて、屋根を乗り越えて屋敷に討入りました。

屋敷の道路に面した三方向には長屋が設置されていました。

 長屋には、吉良家の家臣が住んでいました。当然、上杉家から派遣された武士も、そこに滞在していました。

 この長屋は二階建てだったと考えられています。

 屋根までの高さは6.6メートルあったとNHKによる推測がされています。

 それだけの高さですから簡単に乗り越えられませんので、赤穂浪士が討ち入る際には、梯子を準備する必要がありました。

 赤穂浪士が準備した道具の中に梯子2丁と長縄がついた鉤(フック)16丁が含まれているのは、こうした事情があったためです。

 表門からの一番乗りは、大高源五と間十次郎でした。

吉良邸裏門

 吉良邸裏門があったのは本所松坂町公園の西側にありましたが、裏門があった辺りにも説明板が設置されています。(下写真)

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裏門隊は大石主税が大将となり、吉田忠左衛門が補佐しました。総勢24人でした。

裏門隊は、表門と違い、門を乗り越えることはせず、かけや(大型の木槌)で三村次郎左衛門と杉野十平次が裏門を打ち破り討入りました。
 下写真は説明板の設置地点を撮った遠景写真、マンションの脇に設置されています。

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討入りの際に、大石内蔵助が山鹿流の陣太鼓を打つのが、テレビ、映画、歌舞伎、講談の定番ですが、これが後世の創作であるのということは、現在では多くの人が知っているところです。

 それは、赤穂浪士が準備した道具の中に陣太鼓がなかったり、事前に定めた「人々心覚」の中にも「太鼓」という言葉でてこないことから、陣太鼓そのものがなかったためと説明されています。

 しかし、討入り当時から、「山鹿流陣太鼓」はともかく大石内蔵助が太鼓を打ち鳴らして討ち入ったという話は、早くから流れていたようで、多くの史料に「討入りの合図に太鼓を使った」と記録されています。

 これは、裏門から赤穂浪士が突入する際に、かけや(大槌)で裏門を打ち破り押し入りましたが、吉良邸の周囲の人が、その扉を打ち破る音を太鼓の音と思ったのだろうと宮澤先生は考えます。

 それが、さらに発展し赤穂浪士が山鹿素行の兵法の影響を受けているという風聞のひろまりにつれて、いつの間にか山鹿流陣太鼓といわれるようになっていたのではないかと

考えている先生もいます。

前原伊助宅跡

 赤穂浪士が討ち入る際に、吉良家の動向を探ることは、非常に重要なことです。

 そのため、赤穂浪士のうちの前原伊助と神崎与五郎は名前を姿を変えて、吉良邸周辺に潜んでいました。

 前原伊助は、吉良邸の裏門近くで米屋五兵衛と名を変えて商売をしていました。その前原伊助宅跡の説明板が、裏門跡の説明板のすぐ近くに設置されています。(下写真)

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前原伊助は、赤穂浪士四十七士の一人で、刃傷事件の時には金奉行として勤仕していたため、商才に長けていました。

 刃傷事件後は日本橋に住んで古着屋を営んでいたといいますが、やがて吉良邸裏門近くの本所相生町二丁目に移り住み、「米屋五兵衛」と称して店を開業し、吉良家の動向を探りました。討ち入りの際には、裏門隊に属していました。

また、前原伊助は、亡君の刃傷事件から討ち入りまでの経過を漢文体で克明に書き綴った「赤城盟伝」を残しています。これは、赤穂浪士自身が書いた討ち入りまでの記録で、赤穂事件の貴重な史料となっています。


赤印が本所松坂町公園です。

青印が吉良邸表門の説明板の設置場所です。

緑印が吉良邸裏門の説明板の設置場所です。

ピンク印が前原伊助宅跡の説明板の設置場所です。






by wheatbaku | 2019-09-15 18:21 | 新江戸百景めぐり
回向院(新江戸百景めぐり㉜)

回向院(新江戸百景めぐり㉜)

今日の新江戸百景めぐりでは、回向院をご案内をします。「新江戸百景めぐり」(小学館刊)では122ページの第64景で紹介されています。

 回向院は、JR両国駅から徒歩5分の距離にあります。

 下写真は、回向院の山門ですが、現在工事中でしたので、以前い撮影したものをアップしておきます。

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 回向院は、明暦の大火でなくなった人々を供養するために明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院です。

 この年、江戸には「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の人がなくなりました。この大火により亡くなられた人々の多くは、身元のわからない人々でした。

 明暦の大火は1月18日~19日に起きました。1月24日は2代将軍秀忠の命日です。大火の後なので、将軍家綱でなく家光の弟の保科正之が代参しました。代参の途中、多くの焼死体が放置されている町の様子を見て、亡くなった人々を一か所に葬むるようにしたいという保科正之の提案を受けて、幕府は、無縁の人々を手厚く葬るようにと現在の回向院がある場所に土地を準備し「万人塚」というお墓を設けました。

 そして、増上寺の住職遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を行いました。

 このとき、念仏をあげるため御堂が建てられました。これが回向院の始まりです。

 宗派に関係なく無縁の人々を回向するということから、諸宗山無縁寺回向院と名付けられました。(下写真は、回向院の本堂です)

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供養塔

 回向院には、創立の経緯から、災害で亡くなった人々の供養塔が多く建てられています。

 回向院建立のきっかけとなった明暦の大火でなくなった人々を供養する明暦大火横死者追善供養塔は、東京都指定文化財となっています。(下写真の最も右手の供養塔です)

 また、安政大地震で亡くなった人々を供養する供養塔も3基建立されています。

 さらに、海難事故で亡くなった人々を供養するものも建立されています。そのなかには、有名な大黒屋幸大夫の名前が刻まれたものもあります。

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鼠小僧の墓

回向院には、鼠小僧次郎吉のお墓があることで有名です。

鼠小僧は大名屋敷を狙い、3000両の金を盗んだと言われます。現在の研究家の間では「鼠小僧は盗んだ金のほとんどは博打と女と飲酒に浪費した」という説が定着しています。

長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が江戸時代から盛んで、いまも墓石を削ってお守りにする人が大勢います。

特に「するりと抜ける」ということから合格祈願に来る受験生方があとをたたないそうです。

 江戸時代は、罪人は原則的に墓を建てらることはできませんでした。回向院の鼠小僧のお墓は、正面に「俗名中村次郎吉之墓」と刻まれていて、裏面には大正15年12月15日建立と刻まれていることから 大正15年に建てられたものと思われます。

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 回向院には、鼠小僧のほか有名な人々のお墓もありますので、そのうちのいくつかを紹介します。

山東京伝・京山の墓

 山東京伝は、本名岩瀬醒(さむる)、紅葉(もみじ)山の東にあたる京橋に住居する伝蔵の意で、山東京伝の号を用いていました。初め北尾重政の門に入り浮世絵師として活躍しましたが、文筆生活に入り、黄表紙・洒落本作者として活躍しました。その隣に、京伝の弟、山東京山(本名、岩瀬百樹)のお墓もあります。下写真の左手が山東京伝(本名の岩瀬醒と刻まれています)、その右が山東京山(本名の岩瀬百樹と刻まれています)です。

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加藤千蔭の墓

 加藤千蔭は、町奉行与力で歌人でもあった加藤枝直の子どもで、父の跡を継ぎ町奉行与力を勤め、賀茂真淵に入門し、村田春海(はるみ)と並ぶ江戸派の代表的歌人として知られました。

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鳥居清長顕彰碑

 浮世絵師鳥居清長のお墓も回向院にあったそうですが、その行方がわかなくなっていました。清長の没後200年になるのにあわせ平成25年に鳥居清長の顕彰碑が本堂裏に建立されました。

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勧進相撲

 江戸時代後期になると、回向院で、相撲が盛んに行われました。

相撲は、江戸時代は主として神社仏閣の再興や造営の費用を集めるための勧進相撲の形態をとっていました。

 最初は、深川の富岡八幡宮で開催されましたが、その後江戸市中のいろいろな神社、寺院で行われるようになり、回向院でも開催されるようになりました。

勧進相撲が回向院境内で初めて行われたのは明和5年(1768)と言われています。その後、天明年間から回向院での相撲興行が多くなり、天保4年(1833)以降、回向院が江戸における大相撲の開催場所を独占するようになり、ついに、回向院だけで行われるようになりました。

そして、明治42年に先代の両国国技館が、回向院の境内地に完成するまでの約80年間、回向院で大相撲が開催されました。

 このように、回向院が江戸の勧進相撲の中心地であったことから、回向院に力塚の碑が建てられています。力塚の碑は、昭和11年に相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊の為に建立したものです。(下写真)

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名所江戸百景「両ごく回向院元柳橋」

歌川広重は、回向院と勧進相撲を結び付けて名所江戸百景のうちの一つ「両ごく回向院元柳橋」を描いています。(下画像)

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近景左手に大きく描かれているのが回向院境内に建てられた櫓太鼓です。相撲が行われている際は、櫓を建てた上で開場閉場などを知らせる太鼓が打たれました。江戸時代の末期には相撲の櫓の高さは約 16mと規定されていましたが、その櫓から打出す太鼓の音は江戸市中に伝わり、大勢のお客を呼び込んでいました。

 隅田川の対岸に描かれているのが元柳橋です。元柳橋は、薬研堀にかかる橋で、北側のたもとに柳があったことから柳橋と呼ばれていましたが、神田川の最下流にかかる橋が柳橋と呼ばれるようになったことから元柳橋と呼ばれるようになりました。

 

 薬研堀は江戸時代初期、両国広小路の南側にあった矢ノ倉と称する米蔵に通じる堀でしたが、明治36年に完全に埋め立てられて現在は残っていません。

赤印が回向院です。

青印が元柳橋があった場所です。

なお、緑印辺りに、江戸時代の両国橋が架かっていました。






by wheatbaku | 2019-09-13 14:13 | 新江戸百景めぐり
両国広小路(新江戸百景めぐり㉛)

両国広小路(新江戸百景めぐり㉛)

 新江戸百景めぐり、今日は、両国広小路についてご案内します。

 「新江戸百景めぐり」(小学館刊)では120ページの第63景で紹介されています。下写真は、江戸東京博物館の両国広小路のジオラマです。

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 明暦3年(1657)に起きた明暦の大火の反省から、幕府はさまざまな防火対策や火事に強い街づくりを実施しました。前回書いたように、両国橋の架橋も、その中の重要な施策でした。

 その一環として、幕府は、市中や重要な橋のたもとには広小路と一般に称せらる火除地(防火地帯)を設けました。

 広小路とは、広い道路のことを言いますが、火除け地としての役割をはたしました。

江戸時代の消防の方法は、火事の延焼を防ぐという考えかたが中心でした。

そのため、実際に火事が発生した場合の消火活動は建物を壊して延焼を防ぐ破戒消防でした。

同じ考えに基づいて、火事が起きた際に道路を広くしておけば容易に延焼しないということから、道路を広くした広小路がつくられました。

 橋は一度焼失すると再建の多くの日数と多額の費用がかかる重要施設でした。そして、橋は、中央から燃えることは少なく、橋の両端からの延焼で燃えることが多かったため、橋のたもとに広小路が設けられました。

 そして、両国橋の東西にも広小路が設けられ、両国広小路と呼ばれました。

火除地としての機能から,広小路には恒久的な建造物は許可されませんでした。

床みせと呼ばれた移動可能な店舗施設が置かれたり、矢来(やらい)や葭簀(よしず)で囲んだ仮設の小屋が設けられました。

この見世物小屋で芝居や講釈などいろいろな興行が行われました。

これらの施設は、高い集客力をもっていました。

さらに、隅田川を越える人々がこの両国橋を利用し、「江戸の盛り場考」(竹内誠著)によれば、その数は2万3千から2万5千に上ったそうです。

そのため、両国広小路は、江戸第一の盛り場として繁栄しました。

その繁栄ぶりは、江戸東京博物館のジオラマによく表現されています。

下写真は、広小路を行きかう大勢の人々です。

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旧跡両国広小路の碑 

 現在は、両国といえば、両国橋の東側(墨田区)を指していますが、江戸時代に西側(現在の中央区東日本橋)のほうが栄えていました。

そのため、中央区側の両国橋の西詰に両国広小路を記念した碑が、設置されています。(下の写真)

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 碑文の前半部を抜き書きすると次のようになっています。

明暦の大火(1657年)は江戸の市街の大半を焼失し10万余の死者を出した。

その際このあたりで逃げ場を失って焼死するものが多数出た。 このため対岸への避難の便を図り両国橋が架けられた。 隅田川は当時武蔵下総両国の境をなしていた。

また延焼防止のため橋に向う沿道一帯を火除け地に指定し空き地とした。

やがてこれが広小路となり 江戸三大広小路の一つとして上野浅草に並び称せられる盛り場に発展した。

 以上のように書いてありました。

両国の川開き 

 人々の集まりやすい両国橋西詰にあった両国広小路は,花火の行われる夏の納涼では特ににぎわいました。

両国の川開きは、享保18年(1733)に始まりました。

前年の享保17年に西日本ではイナゴの大群が発生し凶作となり、多くの餓死者が出ました。さらに疫病も発生し多くの死者がでました。

そこで、幕府は、亡くなった人の慰霊と疫病退散を祈って、隅田川で水神祭を行いました。この時、両国橋畔の料理屋が幕府の許しを得て、川施餓鬼を行い、花火を上げたといいいます。これが後年、年中行事化されて川開きとなりました。

川開きは例年5月28日。この日から8月28日までの3か月間は、隅田川に涼み船をこぎ出すことが許可されました。
 下写真は、納涼船でごったかえす両国橋の下流を描いた江戸東京博物館のジオラマです。

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両国の花火

両国での納涼のかたわら花火を楽しむ風習が生まれたようです。

 江戸で花火業者がいつ起こったかは、はっきりしていないそうですが、有名な鍵屋は万洽2年には、既に両国広小路近くの横山町(現在の中央区)に居住していたと伝えられています。 

花火が墨田川縁で行われるようになったのは、万治2年6月の町触によって「町中にて花火一切仕る間敷侯。但、大川口にては格別の事」と規定され、市中での花火が禁止されたものの隅田川縁では許可されたことが、大きな理由だと考えられています。

花火師で有名なのが横山町の鍵屋弥兵と両国広小路の玉屋市郎兵衛です。玉屋は両国橋の上流を、鍵屋は下流を受け持って、互いにその技を競い合い、「玉屋ぁ~、鍵屋ぁ~」の呼び声が夏の夜空に響きわたりました。

 しかし、天保14年(1843)4月、将軍家慶の日光社参の前夜に当たって、玉屋は不幸にも火災を起こし、吉川町一帯を焼いたため、江戸所払いとなって業を廃し、以後鍵屋のみが存続しました。

その両国の花火を描いたのが、歌川広重の「両国の花火」です。この絵は、現在の台東区側の隅田川上流から両国橋を描いた浮世絵です。

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華屋(花屋)与兵衛

現在の両国は、江戸時代は東両国あるいは向両国と呼ばれました。

 その東両国の「与兵衛鮨(よへいずし)」が、握りずしの初めといわれています。

握りずしの創案者は、華屋(花屋と書くという説もある)与兵衛と言われています。

 華屋(花屋)与兵衛は、霊厳島で生まれ、福井藩出入りの八百屋の倅で、9歳の時に、江戸蔵前の札差に下男奉公に入り、20歳まで勤めます。その後、握り鮨を考案し、文政年間、本所横綱の長屋に住んで、最初は岡持をもって、毎夜、夜明けごろまですしを売り歩き、のちに屋台見世を出して商売を始め、金を貯め、両国回向院前に小さな店を持ったと伝えられています。

 与兵衛寿司は、江戸中の評判となり、

  鯛ひらめ いつも風味は与兵衛鮨 
    買手は見世にまって折詰

  こみあいて 待ちくたびれる与兵衛鮓 
    客ももろてを握りたりけり

 という狂歌ができるほど賑わいました。 

  与兵衛鮨があった場所(墨田区両国1-8)近くに、「与兵衛鮨発祥の地」と書かれた史跡説明板が、建てられています。それによると、「与兵衛鮨」は、昭和5年まで同じ場所で営業していたそうです。

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by wheatbaku | 2019-09-10 13:32 | 新江戸百景めぐり
両国橋(新江戸百景めぐり㉚)

両国橋(新江戸百景めぐり㉚) 

今日からは、両国橋周辺の新江戸百景をご案内します。

 最初は両国橋をご案内します。

 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、64ページの第18景で紹介されています。

 両国橋には、JR総武線浅草橋駅からは7分、両国駅からは13分です。

 下写真は、浅草橋駅側から撮った現在の両国橋です。

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【両国橋架橋】

両国橋が架けられたのは明暦の大火がきっかけでした。

それまで、徳川幕府は、防備の面隅田川には、橋を架けない方針でしたので、江戸初期は、隅田川には千住大橋以外の橋はありませんでした。

 しかし、明暦3年(1657)明暦の大火の時に、被災者が隅田川東側に避難するすべがなく、被害を拡大させた反省から、両国橋が架けられました。

 両国橋の創架年は2説あり、万治2年(1659)と寛文元年(1661)の説がありますが、千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された橋で、長さ96間(約200m)、幅4間(約8m)でした。

 江戸時代の両国橋が架けられていたのは、現在の両国橋より50メートルほど下流でした。

 橋の名称は当初「大橋」と名付けられていました。しかしながら隅田川の西側が武蔵国、東側が下総国であり、この2つの国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれ、元禄6年(1693)に新大橋が架橋されると「両国橋」が正式名称となりました。

 なお、隅田川の東側が武蔵国になった時期については、まさに諸説があります。

【現在の両国橋】 

 両国橋は、江戸時代には、火事により燃え落ちたり、洪水により流されたり、古くなって破損したりして、何度も架け替えがされました。

 明治になってから、明治8年に最後の木でできた橋が架けられました。しかし、この木の橋は明治30年8月の花火大会の最中に、大勢の群集に押されたことにより欄干が崩落してしまい、死傷者が数十名にもおよぶという事故がおきたため、明治37年に、鉄橋に架け替えられました。

 そして、その橋が関東大震災後で被害を受けたため、昭和7年に新しく架けられたのが現在の橋です。

 両国橋は、平成20年、言問橋と共に東京都の東京都選定歴史的建造物に選定されました。(下写真は東側下流からとった両国橋全景です)

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浅草御門

浅草橋駅から両国橋に向かうには神田川を渡ります。その神田川にかかる橋が浅草橋です。

その浅草橋の北たもとに浅草見附跡と書かれた石碑がたっています。(下写真)

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見附というのは、城門のことです。

 江戸時代には、浅草橋の南側に浅草御門がありました。これが浅草見附とも呼ばれていました。

 浅草御門は、奥州街道の出入り口の関門として建てられました。浅草御門は、「浅草寺」の正面にあることから付けられた名前です。「浅草寺 見附で聞けば つきあたり」という句の通り、浅草見附の真北が浅草寺になります。

 門が建てられたのは、寛永13年(1636)で、門を構築したのは、越前藩主松平忠昌でした。

 幕府が開かれた当時は、現在の常盤橋門が、浅草口と呼ばれましたが、この門が構築されてからは、浅草口の名前も、こちらに移りました。

 現在は浅草御門の面影がまったくありませんが、橋の近くにある初音森神社の資料館に浅草御門の門柱の一部が展示されています。(下写真が初音森神社で、写真左手奥に資料館があります。)

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 江戸の三大大火の一つである明暦の大火の時には、この門が閉じられたため、ここで2万3千人もの人が死亡するという惨事が起きました。

 火事が小伝馬町牢屋敷に近づいた時に、石出帯刀が、小伝馬町牢屋敷の囚人を切放(きりはなし)をしましたが、そのことが、浅草橋門に正しく伝わらず、「囚人が牢屋敷から逃げ出した」と伝わりました。浅草門は、江戸市中から浅草方面に逃げる逃げ道でした。そのため、多くの市民が殺到していました。
 しかし、囚人が脱走したと勘違いした番人が警戒のため門を閉めたといわれています。そのため、浅草門内には大勢の人が集まり、身動きできない状態となりました。そこに火事が迫ってきました。

 逃げ場を失った人の中で、体力のあるものは、浅草門の石垣をよじ登り屋根を乗り越えて、そこから神田川に飛び込みました。彼らは頭や体を打ち、大けがをしたり死亡したりしました。後から飛び降りてくる人たちに圧殺されたりしました。そうしているうちに浅草門自体に火が移り、門が大音響とともに崩れおちました。これにより門内にいた人たちも燃やし尽くされてしまいました。ここでの死者は2万3千余りと「むさしあぶみ」は書いています。下写真が初音森神社の資料館に展示されている浅草御門の門柱です。なお、資料館は常時公開されていないようです。どうしても見たいという時には事前連絡されると良いと思います。

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柳橋 

 浅草橋の下流にある橋が柳橋です。(下写真)

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 柳橋は、神田川の最下流にある橋で隅田川との合流地点にあります。そうしたことから、当初は川口出口之橋といっていたようです。
 江戸時代初めには、ここには橋がなく、渡船で往来していましたが、元禄10年に南町奉行所に架橋を願い出て、翌年の元禄11年に完成しました。

 当初は川口出口之橋と呼ばれていましたが、いつしか柳橋とよばれるようになりました。

柳橋という名前は、柳原の土手の先にあるので柳橋と呼ぶとか、橋のたもとに柳があったので柳橋の名がついた等の諸説があります。

現在の柳橋は、永代橋のデザインを採り入れて、昭和4年(1929年)に完成したものです。


 両国橋は、浮世絵にも数多く描かれています。

 その中から、歌川広重の描く名所江戸百景に描かれた両国橋を取り上げみます。

名所江戸百景の「両国橋大川ばた」

 下の絵は、名所江戸百景の「両国橋大川ばた」です。

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 この絵は、西詰から本所側を描いたものです。手前の川端にあるのは、両国広小路のよしず張りの茶店です。

 川面には、屋根船、猪牙(ちょき)船、帆船などが描かれていて隅田川が賑わっている様がうかがえます。

対岸には百本杭(隅田川の水の勢いを弱めるために打たれて多くの杭)も描かれています。

名所江戸百景の「浅草川大川端宮戸川」

 下の絵は、名所江戸百景の「浅草川大川端宮戸川」です。

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両国橋の東たもとには、垢離場(こりば)があり、大山参りの人々が、そこで、身を清めました。

この絵は、垢離場で水垢離を終えた大山講の講中が出発するところです。画面最下段には梵天(棒の先に幣束を何本もさしたもの)を先頭にした大山講の人々が描かれています。

この大山講の人たちが渡っているのが両国橋という説と船で渡っているという説があるそうです。

中ほど右の船上にも梵天が立てられ、先達を務める修験者が法螺貝を吹いています。
 左手に描かれているのが柳橋の料亭で、有名な「万八楼」だろうといわれています。

両国橋の東側に「石尊垢離場跡」(しゃくそんこりばあと)の説明板があり、次のようにわかりやすく書いてあります。

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「石尊とは、神奈川県伊勢原市にある大山の事です。山頂の阿夫利神社は、商売繁盛と勝負事に御利益があるので江戸中期、江戸っ子が講を組み、白衣に振り鈴、木太刀を背負った姿でお参りに出かけました。出発前に水垢離をとり、体を清めました。その垢離場が旧両国橋の東南際にありました。川の底に石が敷いてあり、参詣に出かける者が胸のあたりまで水につかり「さんげさんげ、六根罪障、おしめにはったい、金剛童子・・・」などと唱えながら、屈伸を行い、そのたびにワラで作ったサシというものを流したのです。その賑わいは、真夏の海水浴場のようだったとされています。」

【9月8日追記】

 葛飾北斎の富嶽三十六景の中に両国橋を描いたものがありますので、追記して紹介しておきます。それは「御厩川岸(おんやまがし)から両国橋夕陽見(りょうごくばしせいきようをみる)」です。(下の絵です)

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 御厩川岸は、隅田川の両国橋と吾妻橋の間、現在の厩橋が架かる付近で、江戸時代には、ここに渡し船があり、御厩の渡しといいました。

北斎は、夕暮れ時の渡し船を絵の近景に描き、中景に両国橋を描き、その先に小さな富士を描いています。
 夕暮れ時の富士は紺青に彩られています。

そして、この絵をよくみると船頭の頭を中心点として、両国橋と渡し船が点対称となっていることがわかります。

北斎の面目躍如といったところでしょうか。



赤印が両国橋です。
青印が浅草橋です。
緑印が柳橋です。
ピンク印が初音森神社です。





by wheatbaku | 2019-09-07 23:06 | 新江戸百景めぐり
志村一里塚(新江戸百景めぐり㉙)

志村一里塚(新江戸百景めぐり㉙)

今日は、板橋区にある志村一里塚を案内します。

志村一里塚は、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)70ページに第24景として紹介されています。

 志村一里塚は、都営三田線志村坂上駅より徒歩1分です。出口を出ると目の前にあります。

志村一里塚は下写真でわかるように国道17号を挟んで東西に2基の塚が残っている全国的に見ても貴重な一里塚です。

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一里塚は、慶長9年(1604)徳川家康が秀忠に命じて江戸日本橋を起点とする全国の街道沿いに、1里(約4km)毎に築かせたものです。

一里塚の大きさは、五間(約9メートル)四方、高さ1丈(約3メートル)とされました。
 一里塚には榎が植えられることが多いのですが、その由来について、徳川実紀に2つのエピソードが書かれています。
 一つは、2代将軍秀忠が大久保長安に「良い木」を植えよと命じた際に、大久保長安が「えのき」と聞き間違ったためとされています。
 もう一つのエピソードとして、徳川家康が、土井利勝に対して「余の木」を植えろと指示したのを土井利勝が「えのき」と聞き間違えたためだとも書いてあります。
(下写真は、志村一里塚の西側の一里塚です)

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志村一里塚は中山道の第3番目(つまり日本橋から3里)の一里塚として築かれたものです。 

中山道の日本橋から数えた一番目の一里塚は追分の一里塚です。現在の東大農学部正門前の本郷追分にありました。

現在は、その面影はまったくありませんが、老舗の酒屋「高崎屋」の壁際に文京区教育委員会の設置した説明板があります。(下写真)

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中山道の2番目の一里塚は、板橋の平尾にありました。

現在で言えば、JR埼京線板橋駅の近くになります。板橋駅の東口を出ると駅前に近藤勇のお墓があります。(下写真の左手が近藤勇の墓、右手が永倉新八の墓です)

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その前の道を北に向かい中山道と交差した場所辺りが平尾の一里塚です。現在は、まったく面影もありませんし。板橋区教育委員会の説明板もありません。下写真の濃茶色のビル辺りに平尾の一里塚があったようです。左手道路を進むと板橋駅の東口、中央の道路が旧中山道で、奥が板橋方面です。

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このように、一里塚がほとんど消滅しているのは、明治9年(1876)に「一里塚廃毀」の法令が出され、全国的に取り壊しが進んだためと思われます。

明治以降多くの一里塚が消滅するなか、現在、2基一対で残っている一里塚は、東京では、志村の一里塚と西ヶ原の一里塚だけですし、全国的にも大変少ないものだそうです。

ちなみに西ヶ原の一里塚は、北区西ヶ原(飛鳥山公園の南側)にある一里塚で、日光御成街道の一里塚です。下写真は本郷通りの中央にある一里塚です。この塚から道路を挟んだ東側にもう一つの塚が残されています。

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志村の一里塚は、現在国道17号の東西に、広い道路を挟んで残っているため、いずれかの一里塚が移設されたものだと勘違いする人が多いようです。

しかし、志村の一里塚は、当初から中山道とは少し離れた場所に設置されていたため、国道17号の拡幅工事によって移動したり、削ったりはされていないそうです。

赤印が志村一里塚(東側)です。
青印が志村一里塚(西側)です。






by wheatbaku | 2019-09-04 22:37 | 新江戸百景めぐり
縁切榎 (新江戸百景めぐり㉘)
縁切榎 (新江戸百景めぐり㉘)


 今日からは、板橋区内の新江戸百景をご案内します。「新江戸百景めぐり」(小学館刊)では、縁切榎と志村一里塚が紹介されています。

 今日は、縁切榎を案内します。『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では157ページの第92景で紹介されています。

 縁切榎は、江戸時代から板橋宿の名所として名高い榎です。都営地下鉄三田線板橋本町駅A1出口から5分、板橋区役所前駅A1出口からは15分の旧中山道の東脇にあります。(下写真が縁切榎です。)

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縁切榎にある板橋区教育委員会の説明板によれば、江戸時代には、この場所の道をはさんだ向かい側(西側)に旗本近藤登之助の抱屋敷がありました。その垣根の際には榎と槻の古木があり、そのうちの榎がいつの頃からか縁切榎と呼ばれるようになったとされています。

嫁入りの際には、縁が短くなることをおそれ、縁切榎の下を通らなかったといいます。

京都から将軍家に輿入れする姫君が江戸に向かう際にはほとんど中山道を利用しましたが、その姫君も縁切榎は避けたと言われています。

徳川家茂に嫁ぐため江戸に下向した和宮もご他聞にもれず、縁切榎を避けたとされています。

板橋区の説明板には、「板橋宿中宿の名主であった飯田侃家の古文書によると、文久元年(1861)の和宮下向の際には、五十宮などの姫君下向の例にならい、榎をさけるための迂回路がつくられています。そのルートは、中山道が現在の環状七号線と交差する辺りから練馬道(富士見街道)、日曜寺門前、愛染通りを経て、板橋宿上宿へ至る約一キロメートルの道のりでした。」と書かれています。。(下写真は旧中山道の西側から撮った縁切榎です)

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縁切榎は、庶民の間では、悪縁は切ってくれるが良縁は結んでくれるというので信仰の対象となっていきました。そして、男女の悪縁を切りたい時や断酒を願う時には、この榎の樹皮を削ぎとり煎じ、ひそかに飲ませるとその願いが成就するとされています。

根岸鎮衛の「耳袋」巻之五に「板橋辺縁きり榎の事」として、縁を切りたい妻が榎の樹皮を削って飲ませる話が載っています。

この榎が縁切榎と呼ばれるようになった由来については、もともとは、近藤登之助の屋敷には、榎と槻(つき:ケヤキの木)があり、そして「エノキ」と「ツキ」を続けて呼んで「エンツキ」と呼ばれるようになり、それが「縁つき」となり「縁が尽きる」ことから「縁が切きれる」と信じられるようになり「縁切榎」と呼ばれるようになったという説があります。

また、小日向水道端のお寺の住職であった十方庵敬順が書いた江戸市中の紀行文「遊歴雑記」では、縁切榎と呼ばれるようになったのは寛保の頃で、京から下向して将軍家に輿入れした波の宮(比の宮のことと思われるが、それであれば9代将軍家重の正室)と磯の宮(五十宮のことと思われるが、それであれば10代将軍家治の正室)が、それぞれ結婚後まもなく亡くなったため、誰いうとなく縁切榎と呼んだのが、世間に広まったと書いています。

なお、江戸名所図会には、縁切榎は取り上げられていません。

江戸時代の縁切榎は、明治時代の板橋宿大火で焼失し、2代目が植えられました。その2代目も昭和になって、周辺の再開発に伴って伐採され、現在の縁切榎は3代目です。

ただ、2代目の縁切榎の一部はモルタルで固められ、一部を露出させた形で境内に安置されています。(下写真)

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縁切榎から板橋区役所駅寄りの数分のところに石神井川が流れていて、そこに橋が架かっています。この橋が、板橋という地名の由来のもととなった「板橋」です。現在は昭和47年に行われた石神井川の改修工事の際に架けられた鉄筋コンクリート製の橋ですが、江戸時代の板橋は、太鼓状の木製の橋で、長さは9間(16.2メートル)、幅は3間(5.4メートル)あったそうです。かなり立派な橋だったようです。

下写真は、南側から撮った板橋です。右手に板橋についての説明板が設置されています。

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板橋宿は、江戸のほうか、平尾、仲宿、上宿という三つの町からなりたっています。

和宮が下向した際に宿泊したのが、板橋の仲宿の脇本陣であった飯田宇兵衞家でした。

飯田宇兵衞家は、飯田家の総本家であり、宝永元年(1704)に本陣を飯田新左衛門家に譲っていますが、江戸時代を通じて名主・問屋・脇本陣を努めました。 

その屋敷跡が「板橋宿中宿名主飯田家跡」として残されています。下写真は、屋敷跡に建つ板橋区教育委員会の説明板です。

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江戸時代を通じ、名主であった飯田宇兵衛家と本陣家の飯田新左衛門家は、お互いに養子縁組を行うなど、その機能を補完し合いながら、中山道板橋宿の中心である中宿の管理と宿駅機能の維持・運営にあたってきました。



その飯田新左衛門家は本陣を勤めていましたが、その本陣跡が「板橋宿本陣飯田新左衛門家」として残されています。(下写真) 説明板の後ろの建物の1階がスーパーの「ライフ」です。本陣は、このライフがある場所にあったようです。

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【令和元年9月1日追記】
 板橋宿本陣の説明板の向かい側に、高野長英ゆかりの地(旧水村玄洞宅)の説明板があります。下写真の左手にあります。
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 蛮社の獄により、永牢の刑となった蘭学者高野長英は、弘化元年6月晦日の小伝馬町牢屋敷の火災の際に切り放しされましたが、そのまま牢屋敷に戻らず逃亡しました。
 逃亡1ケ月後の7月下旬の或る夜、板橋宿に住む彼の門人である医師水村玄洞 宅を訪れました。 水村玄洞は身の危険を知りながら一両日高野長英を奥座敷にかくまい、7月晦日の深夜に北足立郡尾間木村(現在のさいたま市)に住む実兄の医師高野隆仙に向けて高野長英を逃亡させています。
 上写真は、本陣跡の説明板の位置から撮った写真ですが、本陣の目の前に、御尋ね者となった高野長英が潜んでいたということになります。その大胆さに驚嘆しました。
 このブログを書き始めたころ、高野長英ゆかりの地について書きました。その時に、板橋を訪ねていますが、そのころと高野長英ゆかりの地(旧水村玄洞宅)が変わっているので驚きました。
 以前書いた記事はこちらです。
水村玄洞宅跡 (高野長英の史跡 ③)


赤印が縁切榎です。青印が板橋です。

緑印が「板橋宿中宿名主飯田家跡」の説明板です。

ピンク印が「板橋宿本陣飯田新左衛門家」の説明板です。
 紫印が「高野長英ゆかりの地(旧水村玄洞宅)」の説明板です。










by wheatbaku | 2019-08-31 18:02 | 新江戸百景めぐり
天王寺(新江戸百景めぐり㉗)

天王寺(新江戸百景めぐり㉗)

 今日は、谷中の天王寺をご案内します。「新江戸百景めぐり」(小学館刊)では110ページの第54景で紹介されています。

 天王寺は、JR鶯谷駅南口から徒歩2分の至近距離にあります。下写真は、昭和57年に建立された本堂です。

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谷中の天王寺は、江戸時代初期には日蓮宗のお寺で長耀山感応寺といいました。

鎌倉時代後期に日暮里の土豪関長耀が、当地に立ち寄った日蓮聖人に帰依して草庵を作り、日蓮の弟子日源が日蓮聖人自らが彫った像を祀って長耀山感応寺と称したのが始まりと伝えられています。

関長耀は、現在の道灌山付近に屋敷をもっていて、出家して道閑となのったため、道灌山という地名は関道閑に由来するという説があるということは前回紹介しました。

感応寺は、その後も日蓮宗のお寺として長く栄えましたが、元禄11年(1698)、幕府から改宗を命じられました。

幕府は、法華信者以外からは布施を受けず、また他宗派の僧には布施を施さないという日蓮宗の不受不施派を弾圧しました。感応寺も不受不施派に属していたため幕府より改宗を命ぜられたのでした。これに抵抗した当時の住職日遼は八丈島へ遠島になりました。

そして、日蓮聖人像はじめ日蓮宗関係の品々もそれぞれ近隣の瑞輪寺等の日蓮宗寺院に移管され、感応寺は廃寺の危機を迎えました。

しかし、東叡山寛永寺の住職である公弁法親王が、由緒ある感応寺が廃寺となるのを惜しみ、天台宗寺院として存続することを幕府にお願いして認められました。

こうして感応寺は天台宗となりました。天台宗に改宗してからの初代住職に千駄木大保福寺の慶運大僧正(のちの長野善光寺中興)を迎え、またご本尊も、比叡山円乗院より伝教大師が刻んだといわれる毘沙門天立像を移して新しいご本尊としました。

天王寺のご本尊は明治になってから、阿弥陀如来坐像にかわりましたが、比叡山から移された毘沙門天は、境内の毘沙門堂にお祀りされています。これが現在も谷中七福神の毘沙門天として篤い信仰を集めている毘沙門天です。(下写真は毘沙門堂です。)

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なお、昭和32年に五重塔が焼失した際に、五重塔の初重は完全には焼失せず、昭和36年に五重塔の残った部材でもって、現在の毘沙門堂が建立されたそうです。



感応寺が、現在の名称である護国山天王寺と改称したのは、天保4年(1833)のことです。

これには、感応寺の日蓮宗への帰宗運動が影響しています。

 感応寺の日蓮宗への帰宗を願った池上本門寺住職日萬の願いを容れる形で、11代将軍徳川家斉は、感応寺の日蓮宗への改宗させることにしました。
 しかし、当時の寛永寺の住職輪王寺宮舜仁法親王は、この考えに強く反対しました。その結果感応寺の日蓮宗への改宗は中止となりましたが、長耀山感応寺から護国山天王寺へと寺号を改称することになり、感応寺という寺号だけ日蓮宗に戻されました。

そして、雑司ヶ谷鼠山に新たに寺院を建立し鼠山感応寺と称することになり、この感応寺が日蓮宗となりました。この鼠山感応寺が、のちに有名な感応寺事件を起こすことになりますが、ここでは、感応寺事件については触れないこととします。

天王寺の富くじ興業

天台宗に改宗したため、日蓮信徒が去り、お寺の経営が厳しくなりました。そこで、お寺の領地を増加するようにお願いを出すも、認められませんでした。 

その代わりとして「富くじ興行」の許可を得ることができました。

感応寺の富くじは、湯島天神、目黒不動とともに江戸三大富くじに数えられ、大いに繁盛しました。これにより感応寺の財政は潤い、これによって諸堂の修造・五重塔の再建が行われたとも伝えられているそうです。

天王寺大仏

本堂の西南に大仏様が鎮座しています。(下写真)

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この大仏様は、元禄3年(1690)に鋳造されたものです。天王寺が日蓮宗から天台宗に改宗する前の住職・日遼が鋳造したものです。

この大仏様、「丈六仏」呼ばれています。

「丈六仏」という言葉は仏像用語でよく使われます。

「丈六仏」というのは、1丈6尺(およそ4メートル85センチ)の高さを持つ仏像をいいます。この大仏様は、とても5メートルあるようには見えませんが、「丈六仏」と呼ばれています。

実は、坐像の場合は、同じ身長の立像の二分の一の高さ、8尺(約2.4メートル)の坐像が丈六仏です。

この大仏の大きさは髪際高241センチメートル(像高296センチメートル)あるので丈六仏と呼ばれています。

天王寺五重塔跡

天王寺の山門を出て南に歩いていくと天王寺の五重塔跡があります。これが幸田露伴が書いた小説『五重塔』のモデルにもなった五重塔の跡です。(下写真)

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最初に五重塔が完成したのは、寛永21年(正保元年・1644)です。その塔が明和9年(1771)の目黒の大円寺から出火した大火いわゆる「目黒行人坂の火事」で焼失してしまい、寛政3年(1791)に近江国高島郡の棟梁八田清兵衛ら48人によって再建されました。

再建された五重塔は、総ケヤキ造りで高さ34.2メートル、寛永寺の五重塔より2メートルほど高かったようです。

関東で一番の高さを誇った五重塔で、谷中のランドマークでした。安政2年の安政江戸地震でも倒壊することはありませんでした。

明治の文豪幸田露伴は、五重塔が望める自宅から、朝夕、五重塔を見て、小説「五重塔」を書き上げました。

五重塔は、関東大震災や昭和20年の空襲もくぐり抜けましたが、昭和32年7月6日、洋服職人長部辰五郎・山口和枝(「江戸の再発見」稲垣史生著より)の男女二人が心中するために放火し惜しくも焼失してしまいました。

笠森お仙

天王寺の南に功徳林寺があります。功徳林寺は浄土宗寺のお寺です。明治7年に開設された谷中墓地では法要をできない不便さがあったため、明治18年に許可を得たのち、明治26年に建物が建立されました。

この境内に笠森稲荷が鎮座しています。(下写真)

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功徳林寺がある場所は、江戸時代は、天王寺の境内で、塔頭の福泉院があり、そこに笠森稲荷社がありました。

この笠森稲荷前にあった水茶屋の鍵屋(かぎや) の看板娘で、江戸の三美人の一人が有名な笠森お仙です。

明和三美人は、浅草観音裏の楊枝(ようじ)店の柳屋お藤、浅草二十軒茶屋の蔦屋(つたや)お芳、そして笠森お仙をいいます。なかでもお仙は人気が高く、初期錦絵の美人画モデルとして一枚絵の錦絵になったほか、歌舞伎にも取り上げられました。

明治になって、福泉院は廃寺となり、笠森稲荷は寛永寺の養寿院に移っています。そして明治26年に建物が建立された功徳林寺の笠森稲荷社は明治41.2年の頃建てられたもので、江戸時代の笠森稲荷とは深い因縁はないと「下谷区史」には書かれています。

とはいっても、有名な笠森お仙を思い起こすにはうってつけなお稲荷さんです。

赤印が天王寺です。
青印が天王寺五重塔跡です。
緑印が功徳林寺です。






by wheatbaku | 2019-08-28 19:20 | 新江戸百景めぐり
日暮里(新江戸百景めぐり㉖)

日暮里(新江戸百景めぐり㉖)

 昨日は、獏塾友の会の勉強会があり参加しました。勉強会では、今年のお題「新江戸百景めぐり」について、既に1級に合格した人3人が講師となって解説してくれました。

 講師は、それぞれの担当分野を深く研究した膨大な資料に基づいて丁寧な説明がしてくれましたので、大変勉強になりました。講師の皆さん、そして参加された皆さん、お疲れ様でした。(下写真は講義の様子)

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 勉強会は、午後からでしたので、会場に向かう途中、西日暮里で途中下車して、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)に載っている日暮里周辺を訪ねてきました。

 そこで、今日は、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)54ページの第12景に紹介されている日暮里をご案内します。少し長くなりますがご容赦ください。

道潅山

 西日暮里の駅から徒歩2分の高台に、西日暮里公園があります。そこに道灌山の説明板が設置されています。

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 道灌山は、 西日暮里4丁目付近の台地で、道灌山の名前の由来には二つの説があり、一つは鎌倉時代の土豪関道閑の屋敷があったという説であり、もう一つは、江戸城を築いた太田道灌の出城がこの地にあったところからついたという説です。

 この二つの説については、江戸名所図会にも書いてあります。ただし、関道閑ついては、関道観坊と書いていて、初めは関小次郎長耀と名のっていたが、後に出家して道観坊となのり、谷中感応寺(現在の天王寺)を開いたと書いています。

 道灌山はかなりの高台で、西日暮里の駅前の切通しを見ると、それがよくわかります。

 下写真は西日暮里駅前からみた道灌山です。前の通りを道灌山通りといいます。

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 道灌山は、江戸時代には眺めがよく、筑波や日光の連山などを望むことができました。当時は薬草が豊富で、年中採取者が訪れてきたといいます。また「虫聴き」の名所としても知られ、秋になると文人たちが訪れ、月を見ながら松虫や鈴虫の音に聴き入りました。道灌山の虫聴きについては、浮世絵にも描かられていて、下の絵は歌川広重の「東都名所道潅山虫聞之図」です。

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諏方神社
 西日暮里公園の南側には、諏方神社があります。

諏方神社は、創立は鎌倉時代の初めの元久2年(1205)豊島経康が信濃国の諏訪大社から御神体を勧請したのが始まりであるといわれています。

文安年間(14441499)太田道灌が神領を寄進し、のち江戸時代徳川家光が5石の朱印を与え、寬永12年(1635)社殿を現在の地に遷座しました。

なお「諏訪」とせず、「諏方」と使っているのは古来の表記であり、かつては神社名には、この方が多かったようです。現在は全国の諏訪神社の大部分は「諏訪」と表記し「諏方」と書くのは数社とのことです。

 日暮里の諏方神社は、所有する元禄時代に細井広沢が書いた軸に、「諏方大明神」と記されていることから、「諏方神社」の社名を続けています。

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 諏方神社は、日暮里周辺から谷中周辺にかけての総鎮守として人々の崇敬を受け、現在も地域の人々に広く信仰されています。例年8月の末に行われる例大祭では、境内及び周辺道路に露店が立ち並び、多くの人々で賑わうと言われていますが、昨日(8月25日)は、ちょうど例大祭にあたり、境内は大勢の人がお参りしていましたし、境内から門前まで屋台が連なっていて、大変にぎやかでした。(上写真は社殿にお参りする人たち、下写真は鳥居前の賑わい)

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 諏方神社の周辺は、諏訪の台と呼ばれていました。ここを描いた浮世絵に歌川広重の「名所江戸百景 日暮里諏訪の台」があります。

 諏訪の台は東北方向に視界が開けており、この絵の様に日暮里の家並み、さらに遠景には左に日光連山、右に筑波山を望むことができました。

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日暮里
 日暮里は、江戸時代は、新堀村と表記していました。幕末の切絵図にも「新堀村」という表記があります。江戸名所図会には、後北条氏の「北条分限帳」には「屋中新堀」の地名があり、日暮里と書くようになったのは寛延の頃と言われていると書いてあります。

江戸時代、人々が日の暮れるのも忘れて四季おりおりの景色を楽しんだところから、ひぐらしの里と呼ばれ、「新堀」に「日暮里」の文字をあてたと言われています。

ひぐらしの里では、寺社が競って庭園を造り、さながら台地全体が一大庭園のようで、それは次の十返舎一九の和歌にもしのばれます。

 桃さくら 鯛より酒の さかなには みどころ多き 日くらしの里  

 

 歌川広重も日暮里を描いています。下の絵は名所江戸百景の「日暮里寺院の林泉」です。

 諏訪神社の西側の崖下一帯に青雲寺、修性院、妙隆寺という3つのお寺があって、これらは、花の寺とも呼ばれましたが、「日暮里寺院の林泉」は、修性院の庭を中心に描いた絵だと言われています。

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修性院(花見寺)
 修性院は、現在も残っていて、谷中七福神の布袋様が祀られています。この布袋様は「日ぐらしの布袋」ともよばれていて大変有名だったそうです。

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【8月28日追記】
青雲寺
 

 花見寺と呼ばれた3ヶ寺のうち、修性院のほか青雲寺も日暮里に残っています。

青雲寺には、曲亭馬琴の筆塚の碑や硯塚の碑などがあります。また、谷中七福神の一つである恵比寿神が祀られていることで有名です。

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富士見坂 
 上の絵の中央にある坂が富士見坂であると書いたものもあります。富士見坂は現在もあります。(下写真)。ここからは、数年前まで富士山が見えましたが、最近は、ビルが建ってしまったため、富士山は見えなくなってしまいました。
 下写真の正面に富士山が昔は見えたようです。

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 浄光寺(雪見寺)
 日暮里には、花見寺のほか、雪見寺や月見寺と呼ばれるお寺もあります。

 諏方神社の南にある浄光寺が雪見寺と呼ばれました。

浄光寺は真言宗豊山派の寺院で、江戸時代は、諏方神社の別当寺でした。

 浄光寺は、諏訪台の高台に位置し、東側の展望が開け眺望がすばらしく、特に雪見に適することから、江戸時代は雪見寺とも呼ばれました。

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 本行寺(月見寺)
 日暮里駅近くの本行寺は、月見寺と呼ばれました。

 本行寺は、日蓮宗のお寺で、大永6年(1526)太田道灌の孫の太田資高が、父太田資康の菩提を弔うため平河口に建立したと伝えられています。

その後、神田、谷中と移り、宝永6年(1709)現在地に移転しました。

この地は景勝地で観月の地として有名だったので通称「月見寺」ともよばれていました。(下写真は本堂です)

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本行寺の20世住職の日桓上人(俳号一瓢)は多くの俳人たちと交遊があり、小林一茶もしばしば当寺を訪れたそうです。

本堂手前には一茶の「陽炎や 道灌どのの 物見塚」という句碑があります。

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本行寺には、幕末に徳川慶喜の側近として活躍した永井尚志(ながいなおゆき)の墓もあります。

永井尚志は、三河奥殿藩主松平乗尹(まつだいらのりただ)の子として生まれました。

旗本永井尚徳の養子となり、長崎海軍伝習所総督、初代外国奉行、初代軍艦奉行を歴任しましたが、安政の大獄で免職となりました。のちに復活して京都西町奉行を勤めたあと、大目付、若年寄にまでなりました。箱館戦争に参加して敗北し、謹慎の後、明治新政府に出仕し、開拓使御用掛・元老院権大書記官などを務め、激動の時代に活躍しました。明治247月、76歳で没しました。

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赤印が西日暮里公園です。
青印がが諏方神社です。
緑印が浄光寺です。
ピンク印が富士見坂です。
紫印が修性院です。
オレンジが本行寺です。本行寺は日暮里駅が最寄駅です。






by wheatbaku | 2019-08-26 20:31 | 新江戸百景めぐり
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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