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橋本左内登場 (松平春嶽④ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、松平春嶽を助けて、一橋慶喜擁立に尽力した後、若くして安政の大獄で斬首された 橋本左内 について書いていきます。

【左内は最適の補佐役】 
 春嶽は、継嗣問題を好転させるために橋本左内を越前から急いで出府させました。
 橋本左内は、先祖代々25石5人扶持の藩医の長男として生まれ、名は綱紀(つなのり)、号は景岳、黎園(れいえん)と言います。左内は通称です。
c0187004_15595178.jpg 18歳の時に、大阪に遊学し緒方洪庵に蘭学・西洋医学を学びました。
 安政元年江戸に赴いて英語・ドイツ語のほか物理・化学の知識も吸収しています。
 この時に藤田東湖や西郷隆盛らとも交際し内外情勢への識見を深めています。
 安政2年には藩医を免じられて御書院番に登用され、藩校明道館学監に任じられて洋学習学所を設置するなどの成果を挙げていました。
 その橋本左内が、春嶽を補佐するもっとも適任者とされたのでした。

 そこで、同年江戸に呼ばれて藩主松平慶永の侍読兼内用掛となり、一橋慶喜を擁する将軍継嗣運動に携わりました。
 右の橋本左内の写真は国立国会図書館蔵です。

【左内は春嶽のブレーン】 
 橋本左内の重要なことは、一橋慶喜擁立についての理論構築を担ったことでした。
 橋本左内は、名目上の将軍のもと、一部の譜代大名出身の老中が独占する古い政治を大きく変えて、これまで圏外に置かれていた親藩・外様の名君たちを中央の政治に参加させて、英知を結集して外圧の危機に対応するとともに、開国後の日本の針路を定めようと考えました。
 そして、その改革を行う前提として、新体制の頂点に万機を親裁できる将軍を位置づけることが不可欠であり、そこに英明の慶喜を将軍継嗣として座ることにより、徳川の天下を再強化することを通しながら現状打開の道をさぐろうと考えました。
 また、積極的に開国してロシアと攻守同盟を結び、外国貿易を盛んにして富国強兵を実現しようとも考えていました。この時代に、ロシアとの同盟を考えるなど非常に先進的な考えを持っていました

【左内は京都でも活躍】 
 この頃、条約勅許問題も重大な局面を迎えていました。
 アメリカ領事ハリスとの通商交渉に対応していた堀田正睦は、将軍に謁見したハリスとの会談により通商条約締結を決意し、諸大名に諮問を行うとともに、通商条約の勅許によって諸大名の反対を抑えようとしました。 正睦は上洛し条約勅許を得ようとしますが、朝廷の態度は固く、勅許は得られず、事態は暗礁に乗り上げてしまいました。
 そうした時期に、春嶽は橋本左内を上京させました。その任務は、堀田正睦を側面から援助するとともに朝廷側に慶喜継嗣の急務を説いて、慶喜を望む旨の天皇の内勅を幕府に下させるようにすることにありました。

 そして、京都における活動の結果、慶喜を名指しした内勅が降下されるような状況までこぎつけました。
 しかし、長野主膳の運動により、最終的には、慶喜の名前もなく、さらに「英傑・人望・年長」の三要件も削除された勅書になってしまいました。
 ここに、春嶽・左内の目的は完敗という結果に終わってしまいます。

 さらに、井伊直弼の大老就任により、一橋派が破れ、慶喜擁立に関わった人たちが安政の大獄で処罰されるなかで、橋本左内も安政5年に捕らえられ、翌年10月7日小伝馬町牢屋敷で斬首されることになります。
 その話は後日改めて書いてみたいと思います。
by wheatbaku | 2010-08-05 06:05 | 『幕末』
将軍継嗣問題 (松平春嶽③ 江戸検定今年のお題「幕末」)
  今日は、松平春嶽の3回目ですが、将軍継嗣問題で、春嶽自らが積極的に一橋慶喜擁立を実行したことについて書いていきます。

 松平春嶽は、将軍継嗣問題において、一橋派の中心人物というより総帥として、一橋慶喜擁立運動を主導して推進し、幕府内や有志大名の間、さらには朝廷に対して強力な働きかけを行いました。 

【将軍継嗣問題の解決は自分の使命と考えた】 
 13代将軍家定は、虚弱で凡庸で癇癖が強く、政務遂行能力がなく、子供もいなかったことから、家定が嘉永6年に将軍になるや、早くも世継ぎ選定の議が幕府内外に起こりました。
  越前家はご家門として、事あれば徳川将軍家の支持・擁護に全力を尽くす立場にありました。 
 御三家・御三卿の当主は、将軍継嗣の候補の当事者であるため、擁立工作に加わることは好ましくありません。
 そのため、御三家・御三卿を除いて、将軍家にもっとも近い家門第一の名門越前松平家の当主すなわち春嶽が、将軍継嗣問題を解決すべき使命があると春嶽は考えていました。
 
【御三家・御三卿の状況】 
 将軍家定の継嗣は、当然御三家・御三卿から求めなければなりません。
 安政4年の御三家・御三卿の藩主・当主を見てみると次のような状況でした。
①尾張家は尾張藩の支藩高須家生まれの慶恕(よしくみ)が入って藩主となりましたが、将軍家とは血脈が遠く、年齢も34歳で将軍家定と同じ年齢でした。 
②紀伊藩主の慶福は、将軍家定と従兄弟で血縁は一番近いのですが、年齢は8歳でした。
③水戸藩主慶篤は人格・才幹についてとかくの批判がありました。
④田安家の当主慶頼にも政治家として問題がありました。
⑤清水家には当主がいません。
⑥一橋家当主の慶喜は水戸家出身ですが、英明の誉れが高く人望がありました。

【一橋慶喜擁立に動く】 
 こうして比較すると、一橋慶喜が将軍継嗣として最もふさわしいということになります。
c0187004_9243223.jpg  また、春嶽の生家田安家と一橋家との間には数代にわたっての緊密な関係がありました。
 そこで、春嶽は、嘉永6年に、老中阿部正弘に対して働きかけを始めています。
 また、薩摩藩主島津斉彬とも相談しており、島津斉彬は春嶽と同じ立場でした。
 安政3年(1856)11月に篤姫が第13代将軍・徳川家定の正室となったのは将軍継嗣問題で慶喜擁立を家定に直接働きかけるねらいがあったということは有名な話しです。
 そして、春嶽は安政4年初秋には、老中久世広周・堀田正睦・松平忠固に対して所信をのべて協力を求め、安政4年10月には、蜂須賀斉祐と連署して慶喜擁立の建議書を提出しています。
 右の徳川慶喜の写真は国立国会図書館蔵です。

  一橋慶喜擁立の総帥は春嶽です。そして阿部正弘、島津斉彬、山内容堂、伊達宗城らの雄藩連合派の大名が支持しました。また、幕府の役人では、川路聖謨( としあきら)、土岐頼旨、永井尚志(なおむね)、鵜殿長鋭(ながとし)、岩瀬忠震(ただなり)、堀利煕(としひろ)、水野忠篤らの開明的な俊秀が賛同しました。
 
 このように、春嶽は、一橋慶喜擁立のために誰からか働きかけられたわけではなく、自ら一橋派の中心となって動いています。 
 しかしながら、同志の阿部正弘や島津斉彬がなくなり、守旧的な幕府内部の雰囲気や大奥の水戸嫌いの空気が強い中で、なかなか思うとおりに進みませんでした。
  そうした中で、春嶽を支えたのが、橋本左内です。
  明日は、橋本左内について書いていきます。
by wheatbaku | 2010-08-04 06:21 | 『幕末』
越前松平家 (松平春嶽 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、春嶽が継いだ、越前松平家について書いていきます。

【藩祖は結城秀康】 
 越前松平家の藩祖は、結城秀康です。
 秀康は家康の次男で、2代将軍となった秀忠の兄ですが、はじめ豊臣秀吉の養子となって徳川家を離れ、のちに結城氏を継いでいたこともあって、徳川家の家督および将軍職を継ぐことはできませんでした。
 慶長6年(1601)に関ヶ原の戦いの後、秀康は越前一国68万石を与えられ、柴田勝家の築いた北ノ庄城を修復し居城としました。
 福井城本丸跡・南西側
福井城本丸跡・南西側 posted by (C)ふるさと福井ビデオレター
 
【多難な歴史を持つ越前藩】 
 しかし、秀康の長男の2代藩主忠直は、不行跡の理由で、元和9年(1623)に豊後に配流されました。
 そして、翌年の寛永元年(1624)、忠直の嫡男松平光長は越後高田藩26万石に移されます。この系統が、津山松平家になります。
 入れ替わりに越後高田藩で25万9千石を与えられていた秀康の次男の松平忠昌が50万石で越前藩領を継承します。
 しかし、貞享3年(1686)第6代藩主綱昌は発狂を理由に領地没収され、前藩主昌親が領地が25万石に半減された上で越前藩領の継承が認められました。
 以後、10代藩主宗矩まで忠昌の子孫が続きましたが、11代重昌が一橋家から迎えられようやく32万石となります。それ以降14代まで、一橋家からの養子の系統がつづきました。
 そして、春嶽の養父となった15代藩主斉善(なりさわ)は、将軍家斉の二十二男で、将軍家から越前松平家に養子として入っていたのです。
 そして、斉善にも嗣子がいなかったため、春嶽が養子となったのです。

 【越前松平家は八家ある】 
 越前松平家は分家が多く、越前松平家系の大名は秀康の子供6人のうち、早世した4男吉松丸を除く5人の子供が、それぞれ津山松平家、福井松平家、松江松平家、前橋松平家、明石松平家を起こしています。
 さらに福井藩から糸魚川藩が別れ、松江藩からは広瀬藩・母里藩が分かれ、合計で八家となります。
 この8家を総称して越前松平家といわれます。

 越前松平家を個別に書くと次のようになります。
 ①津山松平家(津山藩10万石)  …  秀康の長男松平忠直の子孫
 ②福井松平家(福井藩32万石)  …  秀康の次男松平忠昌の子孫
 ③松江松平家(松江藩18.6万石) …  秀康の三男松平直政の子孫
 ④前橋松平家(前橋藩17万石)  …  秀康の五男松平直基の子孫
 ⑤明石松平家(明石藩6万石)   …  秀康の六男松平直良の子孫
 ⑥糸井川松平家(糸魚川藩1万石)  … 福井藩の支藩。秀康の曾孫・松平直堅が起こした藩。
 ⑦広瀬松平家(出雲広瀬藩3万石)  … 松江藩の支藩。松江藩初代藩主・直政の2男・近栄が立藩
 ⑧母里(もり)松平家(出雲母里藩1万石) … 松江藩の支藩。松江藩の初代藩主・松平直政の3男・隆政が立藩
by wheatbaku | 2010-08-03 06:14 | 『幕末』
松平春嶽  (江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日から、 松平春嶽(慶永) について、書いていきます。
 松平春嶽(慶永)は、文政11(1828) 御三卿田安家に生まれました。
 春嶽は号で、慶永(よしなが)が本名です。他に礫川、鴎渚などの号を用いたそうですが、生涯通して春嶽の号を最も愛用しました。

 【春嶽は田安家出身】 
c0187004_8202629.jpg 春嶽は、田安徳川家第3代当主・徳川斉匡の八男です。
 田安家は、8代将軍吉宗の次男宗武が起こした家です。
 初代が宗武で、2代治察が病弱で早世しました。このとき、治察の弟定信は既に白河藩の久松松平家への養子行きが決められており、3代目を相続することが認められなかったため、田安家は、しばらく当主がいませんでした。
 そこで、天明7年(1787)に、一橋家から一橋徳川家2代当主徳川治済の五男の徳川斉匡が入り3代当主となりました。徳川斉匡は11代将軍家斉の弟になります。
 右写真は国立国会図書館蔵です。

 【将軍家慶は従兄弟】 
 この斉匡が春嶽の父です。従って、春嶽からみて11代将軍家斉は叔父になり、12代将軍家慶は従兄弟になります。
 春嶽の男の兄弟は10人いましたが、主な兄弟としては、一橋徳川家の5代当主となった四男の斉位(なりくら)、一橋徳川家の7代当主となった五男慶壽(よしひさ)、田安徳川家の第5代当主である慶頼(よしより)は9男、尾張藩第13代藩主となった慶臧(よしつぐ)が十男でした。
 松平春嶽は10歳の天保9年(1838)に越前藩15代藩主松平斉喜(なりさわ)の養嗣子となります。そして翌年11歳の時に、斉喜の死去によって16代藩主に就任しました。

 【中根雪江が補佐役】 
 そして、当時、大名は17歳まで帰国を許されない決まりでしたが、春嶽は16歳で帰国し、藩政の改革に取り組みました。
 春嶽の補佐には有名な中根雪江(せっこう)がつきました。
 中根家は代々700石を知行する上級藩士の家です。中根雪江は通称は靱負(ゆきえ)と言います。靱負を雪江とも書き、さらに「せっこう」と音読みしました。
 雪江は平田篤胤から国学を学んでいました。天保9年(1838年)に春嶽が藩主に就任すると側用人見習いとなり、春嶽に近侍しました。

 【名君との交わり】 
 春嶽が人間形成の上で大きな影響を受けたのが、徳川斉昭、阿部正弘、島津斉彬です。
 また、大変親しい友人に山内容堂がいます。
 徳川斉昭には、福井入国する前に、小石川藩邸を訪れて、初対面の挨拶したのち、藩主としての心得9か条の質問書を出して教えを請うています。
 28歳年長のため、初めは師父として教えをこい、その後は同士として藩政改革と海防に協力しました。
 阿部正弘は春嶽より9歳年長で、正室も越前家出身であり親戚関係にありました。
 春嶽が攘夷不可能を知り積極開国論に転向したのは阿部正弘の影響によるものです。
 島津斉彬との交流は、斉彬37歳、春嶽18歳の時に始まります。春嶽は斉彬を師父と仰ぎ、もっとも懇意であったと書いています。また、斉彬も、久光への遺言として、諸侯中穏健誠実の第一の人物は春嶽であるから国事周旋にはその協力を仰ぐよう言い残しています。
 山内容堂は盟友ともいうべき関係です。春嶽は容堂を常に熟友といっていました。容堂は春嶽より一歳年下で肝胆相照らし切磋琢磨する仲で、幕府崩壊まで公武合体の主流としてともに活動しました。



 
by wheatbaku | 2010-08-02 06:22 | 『幕末』
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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