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渋沢栄一像(日本橋散歩⑥ 大江戸散歩)
外堀にかかる常盤橋のそばに「常盤橋公園」があります。
その常盤橋公園に大きな銅像があります。
 この銅像は、渋沢栄一の銅像です。常磐橋の保存に尽力したためにここに建てられています。

 今日は、渋沢栄一のお話です。
 渋沢栄一は埼玉県の豪農の長男に生まれ、一橋家家臣になり一橋慶喜に仕えました。
 慶喜が将軍となったのに伴い、幕臣となります。
 そして、パリで行われる万国博覧会に将軍の名代として出席する慶喜の弟徳川昭武の随員として、フランスを訪れます。パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行し、そして、西欧の近代的産業設備や経済制度を見聞しました。
 帰国して、大蔵省に出仕。大蔵大丞にまでなりますが、しかし、予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信と対立し、井上馨と共に 退官しました。
 その後、経済界で活躍し、「日本の資本主義の父」と呼ばれることになります。
c0187004_1821428.jpg

 渋沢栄一がかかわった会社は、第一国立銀行のほか、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、秩父セメント、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビールなど、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上とされています。
 また、一橋大学や日本女子大学の設立にもかかわっています。

 渋沢栄一が他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことと言われています。
 「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通し、他の財閥当主が軒並み男爵どまりなのに対し、渋沢一人は子爵を授かっているのも、そうした公共への奉仕が早くから評価されていたためと言われています。

 渋沢栄一は、埼玉県の深谷市の豪農の長男として生まれたことから、埼玉県では、渋沢栄一賞を設け、社会に貢献した渋沢栄一の精神を今に受け継ぐ全国の企業又は企業経営者に渋沢栄一賞を贈っています。

 この銅像の製作者は朝倉文夫です。
 朝倉文夫は「東洋のロダン」とも称された彫刻家です。現在休館中ですが、谷中に朝倉彫塑館という美術館があります。
 有楽町の東京国際フォーラムの大田道灌像や早稲田大学の大隈重信像の製作者でもあります。
by wheatbaku | 2011-05-13 06:24 | 大江戸散歩
日本銀行【金座跡】 (日本橋散歩⑤ 大江戸散歩)
 今日は、日本銀行本店についてご紹介します。
 日本銀行本店は、江戸時代の「金座跡」に建っていますので、「江戸」とも大変関係の深い建物です。

【日本銀行の設計は辰野金吾】 
 日本銀行は、三井本館の西隣にあります。
 日銀は、明治29年に作られました。設計は、東京駅も設計した辰野金吾です。ベルギーの中央銀行を模範に設計したと言われています。
c0187004_21563628.jpg 建物の1階は石造りです。
 2階3階も、外観からは石造りにみえますが、実はレンガ造りで表面に石を積んだ「石積みレンガ造り」です。
 当初の構想では、日銀は総石造りとする予定でしたが、明治24年の濃尾大地震の被害状況から、地震が多い日本では、欧米のような総石造りは無理であると判断しました。
 そのため、2階3階部分は、石造りより軽くなる「石積みレンガ造り」としたそうです。
 日銀の建物は、関東大震災にも耐えた建物で、国の重要文化財に指定されています。
  日銀本店の正面玄関入口には、咆える2頭の雄ライオンが6個の千両箱を踏まえて後足で立ち、日本銀行のシンボルマーク「めだま」を抱えた青銅製の紋章があります。
 右下の写真がそれです。

【日本銀行は江戸の金座跡】 
 日銀のある場所には、江戸時代「金座」がありました。
c0187004_215018.jpg 江戸時代は、金貨と銀貨と銭貨の三種類のお金が流通しました、そのため、それぞれの通貨を製造する金座、銀座、銭座が設けられました。
 金座というのは、小判をつくったり、金貨の鑑定を行うところです。広さは、約3300坪ありました。
 江戸での金座の始まりは、文禄4(1595年)で、 江戸時代の初期には、金座は江戸のほか、京都、佐渡、駿河にもありましたが、中期以降は、江戸が中心となりました。
 また、当初は小判座と呼ばれていました。金座の長官は、御金改役といいまして、後藤庄三郎の家が代々勤めました。
しかし、後藤家は文化7年(1810)に不正があったため取り潰され、後任の後藤家の分家も弘化2年(1845)に取り潰されてしまいました。

【一両はいくら】  
 1両が現在ではどのくらいの価値になるかとよく話題になりますが、正確な答えは、はっきりないのです。
c0187004_21501994.jpg というのは、何を基準にするかによって、大きく変わるからです。
 例えば、米を基準にすると、おおよそ5万円前後、賃金を基準すると30万円になるそうです。
 こんなに差が出てしまいます。
 でも、これでは目安になりませんので、そば代で計算すると、15から16万円になるので、丁度、米と賃金で計算したものの中間でものあるので、15万程度とするのがわかりやすいと思います。
 1両=15万と覚えられるとよいと私は思っています。
 左写真は、貨幣博物館に展示されている「慶長小判」です。重さ約18ミリグラムあります。


【千両箱の重さ】 
 小判が詰まった千両箱の重さはどのくらいかご紹介します。
c0187004_21544396.jpg 時代劇では、千両箱を盗賊が軽々かついで屋根の上を走っていく場面が多くあります。
 しかし、そんな簡単には運べませんでした。
 実は、江戸初期の小判は1枚約18グラムあります。それが1000枚ですから、小判だけで18キロになります。それに千両箱があります。
 千両箱は日銀向かいにある貨幣博物館に本物が展示されています。
 右の写真が千両箱ですが、実物は意外と小さいという印象を私はもちました。
 その千両箱ですが、物によって当然ちがいますが、2キロ程度はあるようです。
 そうしますと、小判の詰まった千両箱は全体で20キロ程度あるということになります。
 なかなか千両箱を簡単に運ぶのは難しいということになります。
by wheatbaku | 2011-05-11 05:50 | 大江戸散歩
三越 (日本橋散歩④ 大江戸散歩)
 体調が芳しくなかったので、ブログの更新がちょっと間があいてしまいました。
 日本橋散歩の続きで、今日は、三越のお話です。

【越後屋は三井高利の祖父が越後守だったから】 
 いうまでもありません、三越は、江戸時代、越後屋でした。
 越後屋の創業者は、三井高利です。三井高利は、伊勢国松坂の出です。
 1673年(延宝元年)創業ですので。創業以来約340年になります。
 三井家は、大和とも近江とも言われる出身の武士であると言われています。
 高利の父の代に松坂で、商人になりました。
c0187004_2233028.jpg 越後屋という商号は、高利の祖父高安が越後守であったので、越後屋という名前にしたと言われています。
 高利は、8人兄弟の末っ子で、長兄俊次は江戸で呉服店を経営していました。14歳のとき江戸に出て、高利はそこで働きますが、あまりにも商才があったので、警戒した兄から、母の孝養という理由をつけられて、28歳のとき松坂に帰されてしまいます。
 そして、再度江戸で商売ができるようになるのは、長兄が死亡した後になります。
 1673年(延宝3年)、52歳の時に、長男の高平を江戸の責任者にして、本町1丁目(ちょうど現在の日銀新館あたり)にお店を開きます。
 そこで、10年間商売をしますが、同業者に恨まれ、迫害を受けるようになり、1683年(天和3年)に、駿河町に移転しました。
 駿河町で開店した場所が、現在、三越のある場所です。

 現在の三越の建物は、明治44年7月5日に起工し大正3年9月15日に完成しました。
 三越100年史によりますと、地下1階、地上5階 面積2043㎡、延べ床面積 4000坪ありました。
 当時は、スエズ運河以東で最大の建物と言われました。
 設計は、横河民輔によります。
 平成11年4月には、「東京都選定歴史的建造物」に選ばれました。

【三越と言えばライオン像】 
 三越の正面玄関にあるライオン像は、モデルとなったのは、ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン提督像を囲むライオン像です。大きさはそこの約半分になっているそうです。
c0187004_21564781.jpg  英国の彫刻家メリフィールドが型どり、バルトンが鋳造したものです。
 完成までに3年の歳月を要したそうです。
 これは、当時の三越の支配人の日比翁助(ひびおうすけ)のアイデアです。
 日比は、ライオンが大好きで自分の息子に「雷音」と名前を付けたほどでした
 戦時中の金属回収に伴い供出されましたが、海軍の配慮で東郷神社に奉納されていたのが、戦後、三越社員に発見され、21年に三越に戻ったというエピソードがあります。
 
【名所江戸百景「する賀てふ」】 
 有名な歌川広重の名所江戸百景のうちの「する賀てふ」、それとほぼ同じ方向からみた現在の姿です。
 現在の写真の左側が三越、右側が三井本館です。
 越後屋は、広重の絵のように、道の両側に、お店を構えていました。
それは、店の暖簾に「丸に井桁三」のマークがついているので、越後屋であることがわかります。
 絵の右側を本店(ほんだな)といい、呉服(絹織物)を扱っていました。
 左側は向店(むこうだな)といい、太物(綿織物)を扱っていました。 
 c0187004_21585311.jpgc0187004_2159878.jpg

 江戸時代には、正面に見えた富士山は、いまや、ビルにさえぎられて、まったく見えません。
 なお、この場所が、江戸時代には「駿河町」という町名であったのは、富士山が見えたからだと言われています。
 この由来がもっともだと思わせてくれる広重の「する賀てふ(するがちょう)」です。
by wheatbaku | 2011-05-10 06:16 | 大江戸散歩
日本橋(日本橋散歩③ 大江戸散歩)
 先日の「大江戸日本橋散歩」のスタートとなった日本橋について書いていきます。

 日本橋は、家康が、征夷大将軍となった慶長8年(1603年)に架けられたと言われています。
 日本橋は、19回架け替えられました。
 現在の橋は、20代目の橋で、明治44年(1911年)に架けられたもので、重要文化財に指定されています。
c0187004_1036527.jpg 今年ちょうど日本橋が架けられてから100周年になります。
 そこで、日本橋周辺では架橋100周年のイベントが開かれています。
 その日本橋の欄干には、彫刻家渡辺長男(おさお)の獅子像があります。
 獅子が抱いているのは、東京都のマークです。
 獅子は運慶の狛犬を参考にしたと言われています。
 渡辺長男は、「東洋のロダン」と言われた朝倉文夫の実のお兄さんです。
 苗字がちがうのは、朝倉文夫が養子にいっているからです。

 さて、下の写真は、日本橋の欄干の中央部にある麒麟像の写真です。
c0187004_10372166.jpg

 日本橋の欄干の麒麟像の頭は龍、胴が鹿であり、羽があります。
 麒麟麦酒のラベルにある麒麟というより、西洋のドラゴンという雰囲気です。
 小さい台座にバランスよく載せるのに渡辺長男は苦労したそうです。
 二つの麒麟像の間の柱の上部には、松並木の松と一里塚の榎も彫られています。
 日本橋が五街道の起点であったことにちなむものだと言われています。


 c0187004_10374424.jpg 日本橋が五街道の起点となった伝統はいまも続いており、現在も「日本国道路元標」として道路の起点になっています。
道路元標の本物は日本橋の道路の中央にあります。
 本物は、道路の真ん中に埋め込まれていて、よくわかりません。
 そこで、日本国道路元標の複製が作られています。
  道路元標の字は佐藤栄作元首相の字です。
 日本国道路元標の前には、東京市道路元標が、道路の真ん中にありました。それを昭和47年に移転したものです。
 東京市道路元標は、当時日本橋を走っていた市電の電柱や電灯も兼ねた独特のものになっています。
 写真の手前が道路元標の複製です。奥にあるのが東京市道路元標です。


 最後に、魚河岸の碑を見てもらいました。
 徳川家康が、豊臣秀吉の命令により、江戸に入ったのは、天正18年(1590年)です。
c0187004_10381313.jpg この時に、家康に従って摂津国西成郡佃村(現在の大阪市淀川区佃町)の名主森孫右衛門が、佃村及び隣村の大和田村の漁師34名と共に 江戸に出てきました。そして、現在の佃島を拝領するとともに、江戸近辺の海と川の漁業権を与えられました。
 それと同時に森孫右衛門たちは、将軍家へ魚を納める役を仰せつかりました。
 森たちは、その後、将軍家に納めた魚の余りを日本橋小田原河岸で販売したといいいます。
 これが魚河岸のはじまりです。そのため、森孫右衛門ら一族がその始祖といわれています。

 魚河岸の記念碑は、昭和29年に建てられました。
 写真の奥に映っている記念碑が乙姫像なのは、川柳で「日本橋 龍宮城の 港なり」と詠まれたことに因みます。
 この魚河岸は、大正12年(1923)の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。
by wheatbaku | 2011-05-05 10:45 | 大江戸散歩
「にんべん」と「山本海苔店」(日本橋散歩② 大江戸散歩)
昨日に続いて、日本橋の老舗めぐりの様子を書いていきます。
今日は、「にんべん」さんと「山本海苔店」さんです。

【かつおぶしの「にんべん」】 
「にんべん」さんは、鰹節の老舗です。
c0187004_23165888.jpg 以前は、自社ビルに店舗がありました。
 しかし、「コレド室町」ができた際に、「コレド室町」に出店しました。
 現在本社ビルを建て替え中です。
 「にんべん」さんの歴史と鰹節の説明を諸橋係長様にしていただきました。
 「にんべん」は、元禄12年(1699年)で、創業以来312年になる老舗です。

c0187004_23173078.jpg 創業者は初代高津伊兵衛で、伊勢四日市出身だそうです。
 初代伊兵衛は、店の屋号を「伊勢屋伊兵衛」とし、暖簾印に伊勢屋と伊兵衛のイ(にんべん)をとり、商売を堅実にするためのお金(かぎの形)を合わせて、「カネにんべん」としました。
 これについて、江戸の町民たちは、「伊勢屋」のかわりに、誰いうとなく「にんべん」と呼ぶようになったそうです。
 (右写真は、にんべんの商標の由来をご自分の名札を利用し説明される諸橋係長様)

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 「にんべん」さんは、日本初の商品券を発行しました。
 「にんべん」さんの発酵した商品券は、鰹節の格好をした銀の薄板で、表面には金額を記していたそうです。
 この券をもってくれば、鰹節と交換できたそうです。
 今の価値でいうと商品券1つで、約3300円だそうです。
 店内に、その商品券のレプリカが展示してあります。
 ちょっと小さめの銀の商品券です。

c0187004_23181391.jpg 鰹節には、雄節と雌節があるのも知りました。
 雄節は、カツオの背側を使うものをいい、雌節は、腹側を使うものだそうです。雌節は、脂肪分が多く、コクのあるダシがとれます。
 本枯節から出しただしの試食にさせていただきました。
 参加された皆さんも説明もそこそこに味見をして、そのおいしさに驚いていました。

 ご説明いただいた諸橋係長様、そして、大場店長様、本当にお忙しいところありがとうございました。特に諸橋係長様、予定の時刻を過ぎたのにもかかわらず、お待ちいただいて説明していただきありがとうございました。

この後、三井本館、三越、越後屋の説明をして、日本銀行を見て、常磐橋をみました。

【海苔の「山本海苔店」】 
 そして、最後は、「山本海苔店」さんにお邪魔しました。
c0187004_8442078.jpg 「山本海苔店」さんは、嘉永 2年に、初代山本徳次郎が創業した海苔の老舗です。
 「山本海苔店」さんでは、堀口様にご説明をいただきました。



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  味附海苔は、明治2年に、明治天皇が京都へ行幸の際、東京のお土産として仰せつかり2代目徳治郎が考え出したもので、「山本海苔店」さんが元祖だそうです。
 堀口様のお話によると、関東では焼のりを中心に食べるが、関西では、海苔といえば味付け海苔をさす感覚だそうです。
 (左の写真は堀口様、40分間立ったままでご説明いただきました。)

c0187004_8521092.jpg 「まるうめ」の紋の説明もありました。海苔というものは、梅の咲く寒中に取れるものが一番良いそうです。
 そのため、梅の文字をいれた紋にしたという説明でした。
 「山本海苔店」さんの代表的ブランド商品は「梅の花」ですが、「山本海苔店」さんと「山本山」さんの混同が多いので、ぜひ「まるうめ」とご用命くださいとのお話もありました。
 「山本海苔店」さんといえば、山本陽子さんですが、一社専属期間が長くギネスブックに載っているという説明もありました。



c0187004_8445436.jpg 現在の海苔はほとんど有明海産のものだそうです。その海苔を店内で山田店長様が焼かれたものを、みんなで試食させてもらいました。
 すごく、海のかおりがしておいしい海苔でした。
 さらに、現代のニーズあわせた商品(左の「海苔と紀州梅のはさみ焼き」)も試食させていただきました。。
 ここでも、参加された皆さん、一杯お買い物をしていました。
 ご説明いただいた堀口様そして山田店長様大変ありがとうございました。

 今回の「日本橋散歩」はすっかりお買い物ツァーの様相を呈していました。
 それにしても、4カ店の皆さま、御説明は手慣れたもので感服しました。
 関係された皆様、大変ありがとうございました。
 大感激の日本橋散歩でした。
 参加された皆さんも大変喜んでいました。
by wheatbaku | 2011-05-02 10:00 | 大江戸散歩
日本橋鮒佐(日本橋散歩①-2)


【佃煮の「日本橋鮒佐」】 
 そして、次に向かい側の「日本橋鮒佐」さんにお邪魔しました。
c0187004_8441612.jpg 「日本橋鮒佐」さんは、幕末の1862(文久2)から続く佃煮の老舗です。
「日本橋鮒佐」さんでは、宮内社長様にお待ちいただいてご自身で歴史と佃煮についてご説明いただきました。  
 「日本橋鮒佐」さんの初代佐吉は、北辰一刀流の免許皆伝の腕前だった、小鮒を串刺しにして醤油で付け焼きするという”鮒寿々め焼(ふなすずめやき)”というものを商いにしていたそうです。
c0187004_8445488.jpg その佐吉が1862年(文久2年)のある日、釣りをする為舟を出した所、品川沖で時化(しけ)に遭い、佃島に漂着しました。
 漂着した佃島で佐吉は、地元の漁師が雑魚を塩煮にしているのにヒントを得て、小魚を醤油で煮込み市中で売り出しました。この時の醤油煮が現在の”佃煮”の原型を創ったと云い伝えられていると云われているそうです。
(上の写真は、日本橋鮒佐さんの登録商標となっている「金鮒佐」の商標登録を記念して作られた掛け絵をもちながら説明される宮内社長様)

 「日本橋鮒佐」さんの自慢の一つが、64年使い続けたタレだそうです。
 タレが、コブ、しらす干し、アサリ、アナゴの出汁を効かせたものであるという説明も丁寧にしていただきました。
c0187004_8453264.jpg そんなお店の歴史と味自慢の説明のあと、ご飯と佃煮とだしをご用意いただき、試食をさせていただきました。
 江戸の佃煮は濃い味付けだそうで、ご飯にまぶして食べてくださいということでした。
 その後、出汁をかけて食べてみてくださいとの説明がありました。
 実際にいただくと、2度おいしい味でした。特にうなぎの佃煮が評判でした。
 さすが、64年の長い間作り続けたタレがしみ込んだ味がしました。
 ここでも、参加者の皆さんは、佃煮のお買い物をしていました。

c0187004_84555100.jpg お買い物のあと、お店の前にある、松尾芭蕉の
「発句也 松尾桃青 宿の春」
という句碑の由来の説明をいただきました。
 (写真は、句碑の由来を説明される宮内社長様)
 この句碑は、「日本橋鮒佐」さんが建てられたものだそうです。
 ご説明いただいた宮内社長様そしてご準備いただいた奥様大変ありがとうございました。
 御礼申し上げます。

 日本橋の老舗の御親切なご対応に感激ひとしおの皆さんでした。
 参加された皆様お疲れ様でした。

 「にんべん」さん、「山本海苔店」さんでも同じようご対応いただきました。
 そのお話は明日させていただきます。

 
by wheatbaku | 2011-05-01 14:15
神茂(日本橋散歩①-1)
昨日、「江戸の老舗を巡る会」の会員の皆さんと「大江戸日本橋散歩」と称して、日本橋の史跡と老舗を訪ねてきました。

 日本橋は江戸の最大の繁華街でしたので、史跡の一杯残っているのですが、老舗めぐりもお楽しみとして組み込みました。
 女性の方が多かったこともあり、史跡めぐりと老舗でのお買い物に盛りあがった「大江戸日本橋散歩」でした。

 そんなことで、「大江戸日本橋散歩」のレポートは老舗めぐりから書いてきます。

 昨日訪問した老舗は、江戸時代創業の「神茂」さん、「日本橋鮒佐」さん、「にんべん」さん、「山本海苔店」さんの4ヶ店です。
 今日は、その内の「神茂」さんと「日本橋鮒佐」さんの訪問の様子をご紹介します。

【はんぺんの「神茂」】 
 「神茂」さんは、はんぺん、かまぼこの老舗です。 c0187004_8393299.jpg 明治以降の当主の方が「神崎屋茂三郎(かんざきやもさぶろう)」という人であったので、「かんも」と読みます。
「神茂」さんでは、営業課長の三村様が丁寧に歴史からご説明いただきました。
 それによると、「神茂」さんの創業は元禄元年(1688年)、創業以来 323年になるそうです。
 初代は神崎屋長次郎と言い、関西から出て、現在地の日本橋に店を開いたのが始まりです。



c0187004_8403187.jpg  創始者が関西方面の神崎というところの出身だったので、、江戸時代には「神崎屋」という屋号を使っていましたが、当主の方が「神崎屋茂三郎」を世襲するようになり、明治に入り「神茂」という屋号に改めたそうです。
 現在のご当主は、18代目だそうです。
 ここで、半ぺん製造販売を始めたのは、中国に輸出した鮫のヒレを取った残りの鮫を利用して、半ぺんを造り始めたのだそうです。
 はんぺん・蒲鉾を中心にしていますが、「神茂」さんのビルの地下1階で現在も製造しているそうです。
 (上の写真は「いのうえ」ののれんをバックに説明される三村課長様)

c0187004_841381.jpg グチ(イシモチ)100%でできた蒲鉾の極上を試食させていただきましたが、抜群の味で、参加者の皆さん、「うまい」「うまい」の連発でした。
 さすが、老舗の味はちがうと云う事を実感させてもらいました。
 これを味わったのでは、買わずにいられません。ほとんどの人がお土産に半ぺん・蒲鉾などを買っていました。
 ご説明いただいた三村課長様、それとご準備いただいた井上店長様ありがとうございました。
 大変お世話になりました。
by wheatbaku | 2011-05-01 14:09
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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