人気ブログランキング |
<   2011年 07月 ( 19 )   > この月の画像一覧
酒悦(江戸の老舗の味)
 今日は、福神漬けで有名な「酒悦(しゅえつ)」さんを紹介します。

 「酒悦」さんは、上野駅からは5分、東京メトロの「上野広小路」駅A4出口から2分です。
 鈴本演芸場のとなりにあります。

酒悦(江戸の老舗の味)_c0187004_1624022.jpg【創業以来350年の老舗】 
 「酒悦」さんの創業は1675年(延宝3年)です。江戸時代のはじめになります。
 創業以来350年ほどになります。
 「酒悦」創業者の初代「野田清右衛門」は伊勢山田の出身で山田屋と号し本郷元町に店を構えました。
 やがて店を上野池之端に移し「うに」「このわた」等の珍味類などを扱い、上野近辺にある寺々に出入りしました。
 こうしたなかで、寛永寺のご住職の輪王寺宮が大変高く評価し「酒悦」と名づけてくれたそうです。

【福神漬けの元祖】 
 「酒悦」といえば、福神漬けの考案で有名です。
 「福神漬」を考案したのは、15代目の野田清右衛門だそうです。
 「福神漬」は明治10年頃発明しましたが。野田清右衛門の苦労した処は塩漬しかなかったそれまでの漬物を醤油を使ったものにすることだったそうです。
 彼は日夜蔵にこもり3回漬けする等工夫をし、みりんを加え満足出来る醤油漬にするまで約10年もかかりました。

酒悦(江戸の老舗の味)_c0187004_9251461.jpg【福神漬けの由来】 
 「福神漬」の原料は、7種の野菜、大根、茄子、蕪、うり、しそ、蓮根、刀豆(なたまめ)が入っています。
 「福神漬」の名前の由来は、原料が7種の野菜であることから七福神に因んで名付けられと言われています。
 又、別の説によると「福神漬」は大変美味なので他におかずがいらず知らず知らずの内にお金がたまる縁起の良い漬物だ。福の神も一緒につけてあるのだろうと「福神漬」と呼ばれる様になったという説もあると「酒悦」さんで教えてもらいました。
 「福神漬」が全国的に有名になったのは日清・日露戦争で兵隊の携帯食として使われてからです。

酒悦(江戸の老舗の味)_c0187004_937049.jpg 【カレーの添え物はヨーロッパ航路から】 
 今では、福神漬けは、カレーライスに欠かせないものとなっています。
 我が家でも、カレーの時には、福神漬けが必ず出てきます。
 こうなった由来についても、「酒悦」さんに教えてもらいました。
 福神漬がカレーライスに添えられる様になったのは帝国ホテル、又は資生堂パーラーが最初であると言う説も有ります。
 しかし、事実は明治35年から36年頃日本郵船のヨーロッパ航路の船の食堂が最初だったようです。一等船室のみに「福神漬」を添え、二・三等はたくあんだったとの事です。


酒悦(江戸の老舗の味)_c0187004_1604728.jpg【2種類の福神漬け】 
 福神漬けには、「昔ながらの福神漬け」「元祖福神漬け」と名付けられたものと「特選福神漬け」との2種類がありました。
 「昔ながらの福神漬け」「元祖福神漬け」は、名前の通り、酒悦の昔ながらの味に仕上げた福神漬けだそうです。
 こちらを買いましたが、塩分は多少きつめですが、味はしっかりしていました。
 一方、「特選福神漬け」は、昔ながらの味をやや甘口にしたタイプだそうです。


酒悦(江戸の老舗の味)_c0187004_15575688.jpg【季節の漬物2種類】 
「酒悦」さんでは、珍しい季節の漬物も売っていました。
 上が「キャベツの浅漬け」です。
 これを買ってみました。
 なかなかおいしいものでした。

酒悦(江戸の老舗の味)_c0187004_15581042.jpg こちらも珍しい「かぼちゃの浅漬け」です。
 「かぼちゃの浅漬け」がどんな味がするのか、老舗めぐりに参加された皆さんも興味津々でした。


 赤印が酒悦さんです。

by wheatbaku | 2011-07-13 15:12 | 江戸の老舗
岡埜栄泉 (江戸からの和菓子)
 今日から、上野の老舗の詳細を3回にわたり書いていきます。
 今日は、「岡埜栄泉」さんです。

 「岡埜栄泉」さんは、上野駅の広小路口を出て、マルイを目指して歩くと、正面に見えるビルの1階にお店があります。
 このビルは、岡埜栄泉さんのビルで、各階に飲食店が入っていますが、4階と7階は、岡埜栄泉さんの工場としても使用されているそうです。

 【「総本家」がポイント】 岡埜栄泉 (江戸からの和菓子)_c0187004_14401626.jpg
 岡埜栄泉というお店は、都内各地にあります。上野にも、駅前と広小路通りにあります。
 今日紹介するのは、上野駅前の「岡埜栄泉」さんで、会社名は「株式会社岡埜栄泉」、屋号は「上野駅前岡埜栄泉総本家」です。
 「総本家」という名前を使用しているところがポイントです。
 お店の上の看板にも写真のように大きく書かれています。
 
 【「岡埜栄泉」のルーツは浅草】 
 「岡埜栄泉」のルーツは、浅草の駒形にあった「岡埜栄泉」だそうです。
 そこから、慶応から明治初期に親戚筋の五軒に暖簾分けされたうちの一軒が上野駅前岡埜栄泉だそうです。
岡埜栄泉 (江戸からの和菓子)_c0187004_942346.jpg 
 上野駅前の岡埜栄泉は、創業者「岡野ちよ」によって、明治6年に創業され、創業以来まもなく140年になります。
 幕末から明治にかけて暖簾分けされた5軒は、上野、根岸、本郷三丁目、森川、竹早町にあり、本家を含め、いずれも岡埜(岡野)姓だったそうです。
 しかし、上野駅前店を除きいずれも閉店してしまっているそうです。
 そのため、本家の岡埜筋として最も古い歴史を持つため、「岡埜栄泉総本家」と名乗っているようです。
 東京には、各地に岡埜栄泉というお店がありますが、すべて別経営だそうです。
 総本家のお店はここだけだそうです。上野でも広小路通りに岡埜栄泉というお店がありますが、別経営のお店だそうです。

岡埜栄泉 (江戸からの和菓子)_c0187004_945214.jpg 店内はあまり広くありませんが、逆にこじんまりしていてホッとする空間です。

 ところで、「岡埜栄泉」さんの5代目当主で株式会社岡埜栄泉の社長は、サーカーで有名な岡野俊一郎さんです。以前は、国際オリンピック委員や日本サッカー協会会長などを勤めていました。
 日本サーカー協会の会長の時には、FIFAワールドカップ日韓大会を成功させました。

 なお、現在、「岡埜栄泉」さんを、実質的に切り盛りするのは六代目の岡野だいすけ常務さんだそうです。
 なかなか、お忙しくて、連絡をとるのが大変でしたが、記事掲載を快諾していただきました。
 岡野常務さんありがとうございました。


岡埜栄泉 (江戸からの和菓子)_c0187004_1440536.jpg 【塩味の効いた「豆大福」】 
 岡埜栄泉さんで最も有名なのが豆大福です。
 「米は宮城の「黄金餅」、小豆は十勝の大納言「とよみ」という厳選された最高級の材料を使用しているとのことで、塩味の効いた餡は絶妙な味でした。
 岡野だいすけ常務がみずから朝早くおきて豆大福を作られているそうです。
 それを聞くと、一段とおいしく感じました。
 1個200円です。

 赤印が、「岡埜栄泉」さんです。上野駅のまさに駅前です。

by wheatbaku | 2011-07-13 09:26 | 江戸からの和菓子
上野の老舗めぐり (大江戸散歩)
 今日は、日曜日に「上野の老舗めぐり」でお邪魔したお店を概略説明します。
 詳細は、後日、改めて書いていきます。

【うさぎや】 
 まず「うさぎや」さんに行きました。どら焼きが有名なお店です。
上野の老舗めぐり (大江戸散歩)_c0187004_22261650.jpg  創業は大正2年です。
 うさぎやという名前は、初代がうさぎ年だったからつけた名前だそうです。
 このお店は、味を守るために、支店をださないというこだわりをもったお店です。
 都内には日本橋などに「うさぎや」という同じ看板を掲げたお店があるのですが、それは親戚の人が経営している店だそうです。
 ご主人のお話では、どら焼きはできたてが一番おいしいそうです。店内で焼き立てをたべさせてもらいました。
 どら焼きは1個180円です。

【上野風月堂】 
 次いで、「上野風月堂」さんにお邪魔しました。
上野の老舗めぐり (大江戸散歩)_c0187004_22264115.jpg  風月堂といえば、ゴーフルといわれるぐらいゴーフルが有名です。
 上野風月堂は、ルーツが江戸時代中期にさかのぼるお店です。
 創業者は大住喜右衛門といい、大阪の出身でした。
 風月堂という名前をつけたくれたのは、松平定信だそうです。
 そして、風月堂の文字をかいた暖簾は水野忠邦からいただいたそうです。
 その暖簾の文字は現在まで使用されています。
 上野風月堂については、後日、より詳しく紹介します。
 
【酒悦】 
 3番目の老舗として、福神漬けで有名な「酒悦」さんにお邪魔しました。
上野の老舗めぐり (大江戸散歩)_c0187004_2227161.jpg  「酒悦」さんの創業は1675年」(延宝3年)です。江戸時代のはじめになります。
 創業以来350年ほどになります。
 「酒悦」という名前は、寛永寺の輪王寺宮様の命名のようです。
「酒悦」さんといえば、元祖福神漬けで有名です。
 福神漬は十五代野田清右衛門によって明治10年頃発明されました。
 「酒悦」さんについても、後日、より詳しく紹介します。

上野の老舗めぐり (大江戸散歩)_c0187004_22271944.jpg【岡埜栄泉】 
 最後にお邪魔したのが「岡埜栄泉」さんです。
 「岡埜栄泉」さんは、明治6年創業ですので、江戸時代のお店ではありませんが、老舗であることに間違いはありません。
  豆大福で有名です。
 「岡埜栄泉」さんについても、後日、より詳しく紹介します。
by wheatbaku | 2011-07-12 10:32 | 大江戸散歩
小石川から上野まで散歩 (大江戸散歩)
 昨日、「江戸の老舗をめぐる会」の人たちと一緒に江戸三十三観音めぐりと上野老舗めぐりをしてきました。
 東京は、最高気温34度という暑さの中での江戸探訪でした。
 三十三観音の札所は、12番札所の小石川の伝通院、7番札所の湯島の心城院、6番札所の上野の清水観音堂をお参りしました。
 上野の老舗は、どら焼きの「うさぎや」、ゴーフルの「上野風月堂」、福神漬けの「酒悦」、豆大福の「岡埜栄泉」を訪ねました。

 東京メトロの「茗荷谷」駅に集合し、湯島から上野へと散歩しました。炎天下の中でしたので、熱中症が心配でしたが、風が吹いていたので、意外と暑さを感じることなく、みんな元気に上野駅まで歩けました。
 ご一緒した皆さんお世話になりました。

今日は、江戸三十三観音の札所を中心に散歩の様子を書いていきます。

【伝通院】  
 小石川の伝通院は、江戸三十三観音めぐりの12番札所です。
小石川から上野まで散歩 (大江戸散歩)_c0187004_11254266.jpg 伝通院は、「でんづういん」と濁ります。
 伝通院は、徳川家康の生母於大(おだい)の方の菩提寺です。
 於大の方の法名「伝通院殿 蓉誉光岳智光大禅定尼」から「伝通院」と呼ばれるようになりました。
 その後、千姫をはじめとした将軍家ゆかりの人たちが多く埋葬されています。
 伝通院の山門は、法然上人800年御忌、また開創600年を迎える事業として建築中でしたが、ほぼ完成したようです。


【麟祥院】  
 麟祥院は、東京大学と湯島天神の中間あたりにあります。
小石川から上野まで散歩 (大江戸散歩)_c0187004_11255816.jpg 麟祥院は、春日局が開いたお寺であり、春日局のお墓もあります。
 臨済宗妙心寺派のお寺です。
 寛永元年に創建されました。
 境内の周囲に枳殻の木を植えていたので、別名「枳殻(からたちでら)」とも呼ばれました。
 麟祥院は、午後3時までしか拝観できませんのでご注意ください。

【湯島天神】 
 湯島天神は、大変古い神社です。
小石川から上野まで散歩 (大江戸散歩)_c0187004_11262042.jpg 社伝によると、雄略天皇2年(458年)に、雄略天皇の勅命により創建されたと伝えられています。
 そして、南北朝時代の正平10年(1355年)、住民の請願により菅原道真を勧請して合祀されました。
 徳川家康が江戸城に入ってからは徳川家の崇敬を受けました。
 湯島天神では、若いカップルの結婚式が行われていました。


【心城院】 
 湯島の心城院は、江戸三十三観音めぐりの7番札所です。湯島天神には、喜見院という別当寺がありました。
小石川から上野まで散歩 (大江戸散歩)_c0187004_11263673.jpg その喜見院は、明治の神仏分離令や廃仏毀釈運動により、廃寺となってしまいまい、弁天様をお祭りする弁天堂が残りました。それが現在の心城院だそうです。
 心城院のご本尊様は、聖天様です。絶対秘仏で一般に人は絶対見られないそうです。
聖天様は、十一面観世音菩薩さまが化身された神さまですので、心城院の札所本尊は十一面観音様でした。


【清水観音堂】 
 清水観音堂は江戸三十三観音めぐりの6番札所です。
小石川から上野まで散歩 (大江戸散歩)_c0187004_11285744.jpg 清水観音堂は、寛永8年(1631)に、寛永寺の天海大僧正によって創建されました。
 この清水観音堂は京都清水寺を模して創建されたものです。
 不忍池に臨む正面の舞台造りは、京都の清水寺のものを模したんものです。
 平成2年から解体・修復工事が行われ、平成8年5月に完成しました。重要文化財でもあります。 
 本尊は千手観音様で、京都清水寺より奉安したものだそうです。
 秘仏で平常は厨子内に安置されていますが、毎年2月の初午の日に開扉されるそうです
by wheatbaku | 2011-07-11 12:05 | 大江戸散歩
「稲荷蕎麦『萬盛』」 (江戸の老舗の味)
 今日は、老舗の蕎麦屋さんを紹介します。
 小石川伝通院前に「稲荷蕎麦『萬盛』」という蕎麦屋さんがあります。
 「伝通院前」交差点の南西、マンションの1階にあります。

 「稲荷蕎麦『萬盛』」 (江戸の老舗の味)_c0187004_1038716.jpg【「稲荷蕎麦『萬盛』」外観】
 「稲荷蕎麦『萬盛』」」さんには次のようなお話があります。
 お店でいただいた資料を要約します。

 伝通院は徳川家康の生母於大の方の菩提寺です。
 そして、浄土宗の東十八檀林(学僧の教育機関)の筆頭でした。
 ここに、元和4年(1618年)澤蔵司(たくぞうす)と名乗る一僧が浄土教の修学したいと訪ね入門しました。
 大変優秀で僅か3年余りで浄土教の奥義を修得し、元和6年5月7日の夜、方丈廓山和尚と学寮長極山和尚の夢枕に立って

 「そもそも余は太田道潅公が千代田城内に勧請せる稲荷大明神なるが浄土の法味を受け多年の大望ここに達せり。
今より元の神に帰りて長く当山を守護して法澤の荷恩に報い長く有縁の衆生を救い、諸願必ず満足せしめん。速く一社を建立して稲荷大明神を祀るべし。」

 と残し暁の雲に隠れたそうです。


「稲荷蕎麦『萬盛』」 (江戸の老舗の味)_c0187004_1038327.jpg【澤蔵司稲荷】
 その為、元和6年(1620年)澤蔵司稲荷が建立され、慈眼院が別当寺となり現在まで続いています。
 左写真が澤蔵司稲荷です。

 この澤蔵司が傳通院で修行中、傳通院の門前に蕎麦を商う店が有り、よく蕎麦を食べに行っていたそうです。
 この蕎麦屋が、「稲荷蕎麦『萬盛』」です。
 こうした伝説が残されているのですから、事実とすれば、「稲荷蕎麦 萬盛」の創業は江戸時代の初めで、創業以来約400年はたっていることになります。

 また、当時の「稲荷蕎麦『萬盛』」の主人は、澤蔵司稲荷として祀られてから社前に蕎麦を献じていたと記されていて、江戸中期、後期の縁起、略縁起にもまだ蕎麦の奉納が続いていると記され、明治や昭和初期の記録にも奉納が続いていると書かれているそうです。

【稲荷箱そば】
「稲荷蕎麦『萬盛』」 (江戸の老舗の味)_c0187004_10385844.jpg  現在でもその日の初茹で(初釜)のお蕎麦が朱塗りの箱に収められ奉納されています。
 女将さんの話では、11時半ごろに澤蔵司稲荷に奉納し、翌日にそれをさげにいくそうです。
 この奉納する蕎麦が、「稲荷箱そば」です。
 「稲荷蕎麦『萬盛』」では650円で食べることができます。
 そばとともに甘く煮たあぶらげが添えられています。
 江戸風味の辛いそばつゆに甘いあぶらげがマッチして大変おいしいおそばです。
 
「稲荷蕎麦『萬盛』」 (江戸の老舗の味)_c0187004_10391785.jpg【店内のお稲荷さん】
 店内には、澤蔵司稲荷が祀られています(写真)
 こちらには、毎日、てんぷらを供えているそうです。
 また、年に3回、慈眼院のご住職がお参りにみえるそうです。

 昼時のお忙しい時に、お邪魔しましたが、奥様が親切にご対応いただきました。
 ありがとうございました。

 なお、「稲荷蕎麦『萬盛』」さん、日曜日と祝祭日はお休みです。


by wheatbaku | 2011-07-08 10:31 | 江戸の老舗
将軍の葬儀③ 綱吉の場合
 昨日は4代将軍家綱の様子を書きましたが、寛永寺執事長の浦井正明氏が著した「上野寛永寺 将軍家の葬儀」には、5代将軍綱吉の葬儀についても書かれています。
 今日は、「上野寛永寺 将軍家の葬儀」に基づいて、5代将軍綱吉の葬儀の様子を書いていきます。

 5代将軍綱吉は、宝永6年(1709)の正月10日に亡くなりました。
将軍の葬儀③ 綱吉の場合_c0187004_1131563.jpg そして、22日に綱吉の棺は江戸城から寛永寺に移されました。
 綱吉の棺は、北桔橋に向かい、そこに凌雲院大僧正実観などの寛永寺の迎僧が出迎えました。
 この日は、雨天のためか、北桔橋での法要は行われませんでした。
 綱吉の遺骸は、雨の中を道中し、戌(いぬ)の刻(午後8時ごろ)に寛永寺に到着しました。

 寛永寺では、本坊の東に急遽仮の御門を設け、遺骸はそこから本坊に入り、上之間に上段を設け、そこに安置されました。
 このように、正門や他の既設の門を使用しないということは慣例となっていたそうです。
 本坊への入棺が終わると「五五三」の御膳が供えられました。

 将軍の葬儀③ 綱吉の場合_c0187004_11315292.jpg
 これから28日の葬送の日までの間、毎日、朝の法要、昼の法要、夜の法要が行うよう定められました。
 葬送の日の28日の「申終計(さるのおわりばかり:午後5時から6時前)」に「集会の鐘」(法要のために参集を促す鐘)が衝かれ、寛永寺一山をはじめ各地の天台宗から招集された僧侶たちが本坊に参集しました。
 これら出仕の僧侶たちによる「庭の賛」が終わると、「酉刻計(とりのこくばかり)」(午後6時ごろ)にいよいよご出棺となります。
 綱吉の棺は本坊の東側に設けられた仮の御門から出ます。
 この際に、御門から御廟までの道の左右のすべてには幕が張り回され、その道筋はすべて白布が敷かれました。
 しかも、この道筋の左右には、一間おきに高張提灯がかかげられました。

 白布を敷く仕来りと夜儀について浦井氏は次のように書かれています。

  この白布を敷くという仕来りは、家康の遺骸を九能山に安置したとき以来のものである。
 将軍の葬儀や法要で最も大事な部分は「夜儀(やぎ)」といって、夜に入る頃から執り行われものであり、 これは、家康の時に、天皇家の儀礼を模して行ったことに始まると考えられる。 


 現地の御仮屋では綱吉の棺を輪王寺宮が迎えました。
 そして、起龕(きがん)、鎖龕(さがん)の作法すなわち棺を江戸城から寛永寺に移して法要を勤め、最後に鎖で棺を閉じる作法全体が終わったというわけで、凌雲院住職実観が綱吉のことを賛嘆する文章を読み上げ、輪王寺宮が、しきみの枝を投じました。
 輪王寺宮の作法が終わると綱吉の棺は廟穴の外側に設けられていたお仮屋に納められました。その後、廟穴に何時納められたのかの記載はないそうです。
 家宣の名代として老中の土屋相模守政直が拝礼し、宮は政直に会釈したのち本坊へ帰られました。
 家宣は、この葬送の儀に参列していませんが、当時としてはごく普通のことだったそうです。
by wheatbaku | 2011-07-06 11:40
将軍の葬儀 (江戸に関する本)
 増上寺での将軍の葬儀の様子を前回書きましたが、もっと詳しく書いた本を、江戸検一級仲間の百街道一歩さんから紹介されました。
 それは、寛永寺の執事長をされている浦井正明氏が書かれた「上野寛永寺 将軍家の葬儀」という本です。
 確かに、この本には、家綱と綱吉の葬儀の様子が詳しく書かれています。
 そこで、今日は、家綱の葬儀の様子を、「上野寛永寺 将軍家の葬儀」に基づいて書いていきます。
将軍の葬儀 (江戸に関する本)_c0187004_13543229.jpg
 4代将軍家綱は、延宝8年(1680)5月8日に40歳でなくなりましt。
 5月14日に遺骸の移送が行われました。
 まず申(さる)の刻(午後4時ごろ)に遺骸を迎える僧たちが、寛永寺を出発します。
 午後5時ごろに、江戸城の北桔橋門で乗り物をおり、城内に向かいました。
 遺骸は、酉の刻(午後6時ごろ)に出発し、北桔橋の手前で読経した
のち東叡山に向かいました。

 戌の刻(午後8時ごろ)に遺骸が無事本坊の黒書院上段の間に安置され最初の法要が行われました。
 その後、26日の葬儀まで、毎日3回の法要が行われました。
 後夜(午前6時ごろ)、日中(正午ごろ)、初夜(午後4時ごろ)の勤行が行われました。
 この間、霊廟の建築も進んでいました。
  霊廟の準備が整うと本坊から霊廟の惣門にいたる間を布幕で仕切り、1間半に一つの間隔で高張提灯が架けられます。そして、本坊から霊廟までの道筋には白布が敷かれました。
将軍の葬儀 (江戸に関する本)_c0187004_13554420.jpg
 葬儀当日には、午後4時すぎに、僧が本坊に参集し、幕閣以下の人々が着座し、供茶、供膳とすすんで法要に入ります。
 一連の読経が終わると、大導師以下参列者一同全員が庭に降りて整列し、遺骸の出御を待ちます。遺骸が出御すると三羽の鷹が放されます。
 その放鷹が終わると、行列を整えて霊廟に向かいます。

 遺骸は霊堂前に安置されます。次いで出仕者中の長老の焼香があり、いくつかの作法のあと、大導師の下火之文を唱え終わると、遺骸は石槨中に納められます。

 この後、出仕の僧は、石槨の周り廻りながら読経し逐次正面で焼香します。
 最後に、将軍の名代である酒井忠清が焼香をします。
 この後、拝殿で霊膳を供える作法等が行われ埋葬の儀式が終わります。

 以上が、葬儀の概要です。
 将軍の葬送儀礼は、夕方から夜間に行われました。これは、夜儀(やぎ)と呼ばれ、家康の時代から行われていました。
 また、本堂から霊廟まで、白布が3本敷かれましたが、これも夜儀とともに天皇家の儀式に倣ったものだそうです。
 そして、普通の葬送儀礼を大きく異なることは、本来喪主である将軍綱吉や御三家など一門の人々が、葬儀・中陰などのすべての法要が終わるまで、まったく参詣しないことだそうです。
by wheatbaku | 2011-07-05 12:50 | 江戸に関する本
将軍の葬儀 (増上寺散歩  大江戸散歩)
 増上寺散歩の際に、将軍の葬儀はどう行われるのかが話題になりましたので、今日は、将軍の葬儀について書いていきます。

 増上寺には、6人の将軍が埋葬されています。
 そのうち、6愛将軍家宣と7代将軍家継について、港郷土資料館が刊行した『平成21年度特別展 増上寺 徳川家霊廟』の図録の中に、葬儀の様子が書かれています。

将軍の葬儀 (増上寺散歩  大江戸散歩)_c0187004_11135046.jpg 家宣は、正徳2年(1712)年10月14日に亡くなりました。
 家宣の棺は、正徳2年10月23日に、江戸城を半蔵門から出ました。
 新シ橋を通り、愛宕下、宇田川町、浜松町を経て増上寺に入りました。
 平提灯を先頭に、家宣の棺の傍らには、側用人間部詮房、本多忠良が従いました。
葬儀は11月2日に行われました。
 遺体は、安置されている方丈から廟所まで、行列を組んで移され、高提灯が先導し、棺には、側用人間部詮房、本多忠良が従いました。
 上写真は家宣の宝塔です。


将軍の葬儀 (増上寺散歩  大江戸散歩)_c0187004_11141279.jpg 家継は、正徳4年(1716)4月30日になくなりました。 
 家継の棺は、5月7日申(さる)の刻(午後4時頃)に江戸城を出発しました。
 葬列は、半蔵門を出て、幸橋御門を抜け、二葉町、兼房町、宇田川町、浜松町から増上寺に向かいました。
 棺は、増上寺に入ると、方丈に安置されました。

 5月15日、酉(とり)の刻(午後6時頃)家継の遺骸が埋葬されました。
 上写真は、家継の宝塔です。

 この二人の将軍の葬儀の記録からは、次の点がわかります。
 ①二人とも、江戸城を出るのは、半蔵門を利用しています。
 ②葬列は、夕刻に出発しています。
  家継の場合には、申の刻に出発していますし、家宣の場合には、平提灯が葬列の先頭を進んでいますので、薄暗い時刻であると予想されます。
 ③葬列は、増上寺に入るには、御成門ではなく、浜松町(つまり大門)を抜けています。
 ④増上寺に入った遺骸は、方丈に安置されました。
 ⑤増上寺に遺骸が移された後、8日から9日して埋葬されています。

 将軍は、埋葬される時には、胡坐をした姿で埋葬されるのが基本だと、江戸検1級仲間のハカマオーが教えてくれました。
 
 最後に、江戸時代後期には、将軍の葬儀や年忌法要の際に、将軍家、諸大名が準備する香典料は、男子の場合には老中が、婦女子の場合には、大奥によって定められていたそうです。
 時代が違いますが、 家宣の葬儀の際の香典は、60万石以上の藩主は、(白)銀30枚だったそうです。
by wheatbaku | 2011-07-04 10:52
徳川家墓所②(増上寺散歩 大江戸散歩)
 今日は徳川家墓所の2回目です。
 徳川家墓所には、昨日紹介した宝塔のほか、12代将軍家慶、14代将軍家茂、家茂の正室和宮(静寛院宮)、さらに合祀塔があります。
 今日は、それらを紹介します。

【12代将軍家慶の宝塔】  
 これは、12代将軍家慶の宝塔です。右側の列の一番手前にあります。
徳川家墓所②(増上寺散歩 大江戸散歩)_c0187004_16554495.jpg
 家慶は11代将軍家斉の二男です。幼名敏次郎といいます。天保8年(1837)将軍職を継ぎましたが、家斉在世中は、大御所となた家斉に実権を握られていました。
1841年、家斉の死後、老中水野忠邦を首座に任用して幕政の改革を行いました。これが有名な天保の改革です。
 しかし、忠邦は2年余で失脚し、天保の改革は不十分な結果に終わりました。
 嘉永6年(1853)6月のペリー来航の時は病床にあり、ぺりーが去ってまもなくの6月20日になくなりました。
 法号慎徳院といいます。

【14代将軍家茂の宝塔】  
 これは、14代将軍家慶の宝塔です。左側の列の一番奥にあります。
徳川家墓所②(増上寺散歩 大江戸散歩)_c0187004_1654226.jpg

 家茂は、紀州藩主徳川斉順(なりゆき)の長子です。
 幼名菊千代といい、のち慶福(よしとみ)と名乗ります。
 将軍継嗣(けいし)問題で一橋派の推す一橋慶喜に対抗する候補とされ、条約勅許問題と絡んだ激しい政争が展開した。結局、安政5年(1858)慶福を推す南紀派の井伊直弼が大老に就任したのち、継嗣となり、13代将軍家定の死去後、将軍職を継ぎ、家茂と改めました。
 老中久安藤信正ら公武合体策によりの画策により、文久2年(1862)孝明天皇の妹和宮を夫人に迎えました。
 慶応元年(1865)三たびの上洛ののち、翌年7月に第二次の長州征伐の最中、大坂城にて21歳でなくなりました。法号昭徳院といいます。



【家茂正室静寛院宮の宝塔】  
 これは、家茂の正室和宮(静寛院宮)の宝塔です。左側の列の中央にあります。
徳川家墓所②(増上寺散歩 大江戸散歩)_c0187004_16545696.jpg

 和宮は、本名親子(ちかこ)内親王といい、仁孝(にんこう)天皇の第八皇女です。
 母は議奏(ぎそう)権大納言橋本実久(さねひさ)のむすめ経子(観行院(かんぎょういん))で、誕生後、橋本邸で養育されました。
 嘉永4年(1851)、6歳で、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王と婚約しました。
 しかし、老中安藤信正の公武合体策によって、文久2年(1862)2月11日には江戸で将軍家茂との婚儀が行われました。2人は同年齢でした。
 しかし、将軍家茂は、第二次長州攻撃のため三度目の上洛をした慶応2年(1866)7月20日、大坂城で病死した。21歳の和宮は江戸城にとどまり、12月に静寛院宮(せいかんいんのみや)と名のりました。
 江戸城開城後、清水邸に移り、明治2年正月に京都に戻って明治7年6月まで滞在した後、ふたたび東京に帰りました。
 明治10年8月から、持病の脚気治療のため、箱根塔ノ沢温泉に滞在、9月2日そこで病死しました。
 当初、政府は葬儀を神式で行う予定でしたが、和宮の遺言を尊重する形で、仏式で行われ、亡骸は、家茂がねむる増上寺に葬られました。


 【合祀塔】  
 これは、将軍の生母や側室の宝塔です。
徳川家墓所②(増上寺散歩 大江戸散歩)_c0187004_16551587.jpg

 この宝塔には、6代将軍家宣の父親、徳川綱重、11代将軍家斉の正室広大院、3代将軍家光の側室で5代将軍綱吉の生母桂昌院、6代将軍家宣の側室で7代将軍家継の生母月光院などが埋葬されています。
 この宝塔は月光院の宝塔だったものが利用されています。
by wheatbaku | 2011-07-01 06:08 | 大江戸散歩
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
by 夢見る獏(バク)
プロフィールを見る
更新通知を受け取る
以前の記事
2020年 04月
2020年 03月
2020年 02月
2020年 01月
2019年 12月
2019年 11月
2019年 10月
2019年 09月
2019年 08月
2019年 07月
2019年 06月
2019年 05月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 02月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
ブログパーツ
ブログジャンル
歴史
日々の出来事