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豆源(江戸からの和菓子)
  今日は麻布十番の豆菓子の老舗「豆源」について書きます。

豆源(江戸からの和菓子)_c0187004_829278.jpg 麻布十番商店街は、平日も休日も大勢の買い物客や行楽客が行きかう商店街です。
都内でも、常時歩行者がいる商店街は最近は少なくなってきたように思いますが、麻布十番は非常に活気のある街だと思います。
 この麻布十番商店街には、明治大正以前開業の老舗が数多くあります。
 しかし、江戸時代までに遡るとさすが数が少なくなってきます。
 そんな中で、「豆源」は江戸時代創業の豆菓子の老舗です。


豆源(江戸からの和菓子)_c0187004_8295987.jpg 「豆源」は 麻布十番」駅4番出口から約200メートルの距離で、麻布十番商店街の中にあります。
 「豆源」の創業は、江戸時代末期の慶応元年(1865年)です。
 「豆源」の初代駿河屋源兵衛は「豆やの源兵ヱ」さんと相性されて煎り豆を肩に、また屋台荷車を引き歩いて江戸下町の人々に親まれていたようです。
 「豆源」商号の由来は、商品名「豆」と初代の名前「源兵衛」からきているようです。

 
豆源(江戸からの和菓子)_c0187004_8302375.jpg 販売されている豆菓子や煎餅は100種類以上もあるとも言われます。お店にも数多くの種類の商品があります。
 その中で、人気が高いのは、「おとぼけ豆」だと教えてもらいました。
 「おとぼけ豆」は青海苔、きざみ海苔、海老の3種類の豆菓子が入っており、3つ一緒に食べるととぼけた味になるとのことからおとぼけ豆という名前がつけられたそうです。
 これを買って帰りましたが、後を引くおいしさであっというまに食べてしまいました。


豆源(江戸からの和菓子)_c0187004_8304869.jpg 「豆源」は、平日も休日も買い物客が大勢います。
 特に休日の店内は、右写真のようにお客様であふれんばかりです。
 豆菓子のお値段は1袋315円で買いやすいのもお客様が入る要因ではないでしょうか。


 赤印が豆源です。

by wheatbaku | 2013-03-19 07:15 | 江戸からの和菓子
松平容保の病い(八重の桜 第11回「守護職を討て!」)
 昨日の八重の桜」は、珍しく時間がゆっくり流れていました。
 文久3年6月5日の池田屋事件以後の長州進発を踏まえて、7月 日の佐久間象山暗殺事件から7月17日の「蛤御門の変」までの出来事でした。

 先週から松平容保は病気になっていて、綾野剛も弱々しく演じていましたが、今週も弱々しい容保でした。
 容保は元々蒲柳の質でした。京都守護職の就任要請を受けた時も頑強に固辞しましたが、それは、健康でないことも要因の一つでした。
松平容保の病い(八重の桜 第11回「守護職を討て!」)_c0187004_9555836.jpg それが、守護職となって京都に赴任して、激しい京都の政治状況の中で、激務をこなしてきました。
 当然、心労も重なります。そうしたことから、体調を壊してしまうのも当然といえましょう。
 文久4年正月以降は、容保は体調はひどく悪かったようです。
 山川浩が書いた「京都守護職始末」にも
 「わが公の病は甚(はなは)だ重く、食物が咽喉を通らないことが旬余日もつづき、衰弱が甚だしく、主治の医員も手を空しくこまぬいて、術の施しようがなかた。」
 と書かれています。
 そのため、京都守護職の辞任を申し出ます。
 しかし、容保に対する孝明天皇の信任が厚く、軍事力をもった会津藩が、京都を去ってしまいますと京都における幕府の力が弱まることになります。
 そのため、容保の辞任は許されませんでした。
  
 容保の病気が何だったとのだろうという疑問が起きます。
 容保の病状は、側に仕える医師の土屋一庵、東条玄硯から、定期的に江戸と会津に報告されています。
松平容保の病い(八重の桜 第11回「守護職を討て!」)_c0187004_8293820.jpg  その記録に基づき、星亮一氏が医師に病名を尋ねた結果が、中公新書「幕末の会津藩」(星亮一著)に書かれています。
 それによると
 「これらの症状は現代の医学でいえばどんな病気に該当するのか。以前、私は複数の内科医に聞いてみたことがあった。それを総合すると胆道系の病気、胆石症、胆嚢炎にほぼ間違いということだった」そうです。
 また、「しばしば風邪をひいているところから胸部疾患、軽い結核も考えられるという医師もいた」そうです。

 こうした病気で体調が不十分の中で、容保は京都守護職を務め、蛤御門の変も迎えることになります。

 右上段の写真は、京都国際ホテルに移築されている「京都守護職屋敷正門」です。
by wheatbaku | 2013-03-18 07:33 | 大河ドラマ
久坂玄瑞(八重の桜 第11回「守護職を討て!」)
 
 明日の「八重の桜」では、池田屋事件で、多くの尊王攘夷派浪士を殺害され激昂した長州藩が、京都に攻め上ります。
 その中には、久坂玄瑞(くさか げんずい)もいます。
 久坂玄瑞は、松下村塾の門下生で、高杉晋作とともに「松門の双璧」と呼ばれていましたが、あまりクローズアップされていませんので、今日は、その久坂玄瑞について書いてみます。

 久坂玄瑞は、天保11年(1840)萩藩医・久坂良迪(りょうてき)の三男秀三郎として生まれました。
 幼少の頃から高杉晋作と一緒に私塾に行き、後に藩校明倫館に入学した秀才と言われていました。
 安政元年(1854)に兄玄機と父も亡くし、15歳で、藩医久坂家の家督を継ぎ(二男は早世している)、医者として頭を剃り、名を玄瑞と改めた。
玄瑞は、身長は六尺(約180cm)ほどの長身で、声が大きく美声であったといいいます。

久坂玄瑞(八重の桜 第11回「守護職を討て!」)_c0187004_14104686.jpg 安政3年(1856)、九州に遊学し、熊本に宮部鼎蔵を訪ねています。この際に、吉田松陰に弟子入りするよう宮邉鼎蔵から勧められたといいます。
そして、手紙で入門を願い出て、数度のやりとりの後、玄瑞は、翌安政4年(1857)、正式に松門に弟子入りしました。

 松下村塾では高杉晋作と共に「松門の双璧」、高杉新作、吉田稔麿、入江九一と共に「四天王」といわれ、安政4年(1857)12月、松陰の妹文(ふみ)と結婚しました。。

 安政5年(1858)、京都・江戸に遊学しましたが、安政6年(1859)に安政の大獄によって松陰が処刑されてしまいました。
 久坂玄瑞は、松陰の死後、文久元年(1861年)12月、松下村塾賞を中心とした長州志士の結束を深め、松陰亡き後、玄瑞が塾の指導的立場となりました。

 長州藩の藩論が、長井雅楽の「航海遠略策」によって公武合体論に傾くと、長井を攻撃し謹慎させられます。
 その後、藩論が尊王攘夷に変更され、玄瑞も謹慎を解かれ、上京し文久2年10月、江戸に下り、高杉とともに一緒に行動し、12月、彼らは品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを実行しました。

 その後、玄瑞は、京都に戻り、文久3年(1863)1月27日に京都翠紅館にて各藩士と会合したようです。
 翠紅館には、昨年夏に訪ねました(右上写真)が、久坂玄瑞も会合していたんですね。
 それから、玄瑞は長州藩京都藩邸御用掛として活躍しました。

 攘夷期限が文久3年5月10日と決まると玄瑞は帰藩し、中山忠光を首領とし光明寺党を結成しました。この光明寺党は後の奇兵隊と姿を変えることになります。
久坂玄瑞(八重の桜 第11回「守護職を討て!」)_c0187004_1411692.jpg
 文久3年(1863)、八月十八日の政変によって長州藩は京都を追われてしまいました。
 しかしその後も、玄瑞はしばらくの間京都詰の政務座役として在京し、失地回復を図っていました。
 その間、三条実美・真木和泉・来島又兵衛らの唱える進発論に対して桂小五郎・高杉晋作らとともに反対していました。
 しかし、その後、玄瑞は進発論に転じ、池田屋事件をきっかけに長州藩は京都出兵を決めました。
 久坂玄瑞も来島又兵衛や真木和泉らと諸隊を率いて上京しました。
 そして、禁門の変が起こることになります。
 
7 月17日、男山八幡宮で会議では、玄瑞は、即時進撃はやめて後続の部隊を待つ慎重論を主張しますが、木島又兵衛や真木和泉の進撃論と激しく対立し、結局、玄瑞も同意し進撃しました。
 結果は、長州藩の敗北となります。
 玄瑞たちは堺町御門を攻撃し、鷹司邸に入り、鷹司輔煕に参内のお供をし嘆願をさせて欲しいと嘆願しましたが、輔煕に拒否されます。鷹司邸は火を放たれ、玄瑞は退却を命じ、入江九一に後を託しました。た。
 流れ弾を膝に受けた玄瑞は寺島忠三郎と共に鷹司邸内で自刃して果てました。享年25歳でした。
 右2段目の写真は、霊山護国神社にある久坂玄瑞と寺島中三郎のお墓です。

 大河ドラマ「八重の桜」では、「禁門の変」は第12回で取り上げられるようです。
by wheatbaku | 2013-03-16 14:03 | 大河ドラマ
浅野内匠頭長矩の評判(江戸検お題「本当の忠臣蔵」6)
 今日は、浅野内匠頭長矩について、同時代の人がどう評価されていたのかについて書いていきます。
 浅野内匠頭長矩がどういう人物であったのか元禄時代に書いた書物があります。
 磯田道史氏の「殿様の通信簿」で取り上げられてから名前が知られるようになった「土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)」という本です。
浅野内匠頭長矩の評判(江戸検お題「本当の忠臣蔵」6)_c0187004_8245250.jpg
 この「土芥寇讎記」は金井円氏の校訂で昭和42年に翻刻されて新人物往来社から出版されています。
 今は絶版となっているので購入はできませんが、図書館などで所有しているので閲覧か可能です。
 私は、埼玉県立図書館で閲覧しました。
 江戸文化歴史検定を受ける方(特に一級を受ける方)は、「殿様の通信簿」だけでなく「土芥寇讎記」そのものを一読されることをお勧めします。

 「土芥寇讎記」は、元禄3年に作成された、「全国の諸大名の、紳士録であり、評判記であり、また功課簿」(「土芥寇讎記」金井円氏)です。
 記録されているのは、元禄3年現在の全国243人の大名が網羅されています。
 「殿様の通信簿」を読むとごく少数の大名を隠密が調査した結果が報告されているような印象を持ちましたが、そうではなく、全大名について書かれたものでした。 
 土芥寇讎記という書名は、『孟子』巻八「離婁章句下」第二段の
 「 君の臣を視ること土芥の如ければ 則ち臣の君を視ること寇讎の如し」から採ったと考えられています。
 「土芥」とは「ごみ」のことであり、「寇讎」とは「かたき」という意味です。

 「土芥寇讎記」は、姓名、略歴、家系、所領概況、家老名等が調査されて記載されています。
 これは比較的客観的なデータと言えると思います。
 最後に「謳歌評説(おうかひょうせつ)」という項目があり、編者の人物評価がされています。

 浅野内匠頭長矩については次のように書かれています。

 長矩、智有テ利発也。家民ノ仕置モヨロシキ故ニ、士モ百姓モ豊也女色好事、切也。 故ニ奸曲ノ諂イ者、主君ノ好ム所ニ随テ、色能キ婦人ヲ捜シ求テ出ス輩、出頭立身ス。況ヤ、女縁ノ輩、時ヲ得テ禄ヲ貪リ、金銀ニ飽ク者多シ。昼夜閨門ニ有テ戯レ、政道ハ幼少ノ時ヨリ成長ノ今ニ至テ、家老之心ニ任ス。

 そして、「謳歌評説」には
 此将ノ行跡、本文ニ不載。文武之沙汰モナシ。故ニ無評。唯女色ニ耽(ふける)ルノ難而已(なんのみ)ヲ揚タリ。淫乱無道ハ傾国・家滅ノ瑞相、敬(つつしま)ズンバアルベカラズ。前漢書ノ李延年ノ歌ニ、北方有佳人、絶世而独立、一顧傾人城、再顧傾人国、寧不知傾城與傾国、佳人難再得トアル。次、家老ノ仕置モ無心許(こころもとなし)、若年ノ主君、色ニ耽(ふけ)ルヲ不諫(いさめざる)程ノ不忠ノ臣ノ政道無覚束(おぼつかなし)。

と書いています。

 土芥寇讎記」と同じく全国の諸大名261人の石高、居城、系譜、家族人柄などを記載し「愚評」と付け加えた書物に『諫懲後正(かんちょうこうせい)』という本があります。
 これは、「松の廊下刃傷事件」が起きる前後の元禄14年に書かれたものです。
 浅野内匠頭長矩については、「土芥寇讎記」の中に書かれていますので、次に書いておきます。

 長矩、文道ヲ不学、武道ヲ好ム。生得小気ニシテ律儀ナリ。尤淳直ニシテ、非義ナシ。家士・民間ヲ憐ムト云ニハ非ズ。国家ノ政道厳シク、仁愛ノ気味ナシ。不奢シテ民ヲ貪リ、軍学儒道ヲ心掛アリ。公勤ヲ不怠、世間ノ出合専ラニテ、其気質ハタバリナク智恵ナク、短慮ニシテ、行跡宜シト云々。


 「愚評」には次にように書かれています。

 愚評曰、凡主将ノ可嗜ハ文道ナリ。文ナキ将必ズ所行ニ付テ疎カルベシ。況ヤ、此将文道ナク、智恵ナク、気ノハタバリナク、小気ニシテ律儀ナリト云ヘドモ、短慮ナレバ、後々所行ノ程覚束ナシトナリ。去ドモ長矩、淳直ニシテ、行跡不義ナク、不奢、公勤ヲ重ジ、世間ノ出合宜シクセラレルトナラレバ、悪キニ非ズ。先年奥方ノ下女ニ付テ、少々非道ノ沙汰有之、其比専ラ世間ノ唱ヘ不宜、既ニ此家危キ事ナリト批判セシカドモ、何ンナク事治リヌ。元来長矩仁政少キ故、民ヲ貪リ、所行ニモ少々不宜アリシ歟ト云ヘリ。然レバ此将行末トテモ覚束ナシトナリ。
(以下略します)
by wheatbaku | 2013-03-15 07:23 | 忠臣蔵
浅野内匠頭長矩(江戸検お題「本当の忠臣蔵」5)
 今日は.3月14日、現代では「ホワイトディ」で記憶されている日ですが、約300年前の元禄14年(1701)に「松の廊下の刃傷事件」が起きた日でもあります。
 そこで、江戸文化歴史検定試験の今年のお題「本当の忠臣蔵」について赤穂浅野家の系譜を4代にわたり書いてきましたが、今日は、浅野内匠頭長矩について書きたいと思います。

 浅野長矩は、寛文7年(1667)8月11日、浅野長友の長男として江戸鉄砲洲(現東京都中央区明石町)の浅野家上屋敷で生まれました。

 父の長友が藩主に就任してわずか3年後の延宝3年(1675)に死去しため、長矩がわずか9歳で浅野家の家督を継ぎ、赤穂藩第3代藩主となりました。
浅野内匠頭長矩(江戸検お題「本当の忠臣蔵」5)_c0187004_21274325.jpg  同年4月7日には4代将軍徳川家綱に初めて拝謁し、父の遺物備前守家の刀を献上しました。
 さらに同年には、備後三次藩主浅野長治の娘阿久里との縁組が決まりました。そして阿久里はその準備のため延宝6年(1678)から赤穂藩の鉄砲洲上屋敷で暮らすようになりました。
 阿久里は、長矩と「いとこ」と書いてある本が見受けられますが、長矩の祖父の長直の妹が、浅野長治の正室となっていて、阿久里は、その娘です。
 つまり、阿久里は、内匠頭長矩から見ると、おじいさんの妹の娘です。従って、「いとこ」ではなく「いとこおば」です。

 長矩は、延宝8年(1680)8月18日に従五位下内匠頭に叙任しました。
 天和元年(1681)には、弟の長広とともに、山鹿素行に入門しています。
 そして、 天和2年(1682)には幕府より朝鮮通信使饗応役に選ばれました。

 天和3年(1683)は、長矩にとって大変重要なできごとが次から次と起きています。
 まず、2月には、霊元天皇の勅使饗応役を拝命しました。
 朝鮮通信使饗応役、勅使饗応役を2年続けて拝命していますが、この時の指南は、高家吉良義央が務めていました。この饗応役を浅野内匠頭は無事務め上げています。
 勅使饗応役のお役目が終わった直後の5月に阿久里と正式に結婚しました。
 長矩17歳、阿久里10歳でした。
 またこの結婚の直後の5月18日には家老大石良重(大石良雄の大叔父)が江戸で死去しました。
 そして、6月23日にはじめて赤穂に入りました。
 天和3年は、長矩にとって重要な出来事が2月、3月、5月、6月と、立て続けに起きていますね。
 この年は、内匠頭長矩も大変だったと思います。 
 
 元禄3年(1691)には本所の火消し大名に任命され、以降、しばしば火消し大名として活躍しました。
 もともと、赤穂藩浅野家は、内匠頭の祖父である初代長直の時から奉書火消命じられていて「火防の上手」と言われていました。
浅野内匠頭長矩(江戸検お題「本当の忠臣蔵」5)_c0187004_2128249.jpg 
 元禄6年(1693)12月22日には備中松山藩の水谷家が改易になったのを受けて、その居城である松山城の受け取り役を命じられました。
これを受けて長矩は、元禄7年(1694)2月に総勢3700名からなる軍勢を率いて赤穂を発ち、備中松山(現在の岡山県高梁市)へと赴むき、2月23日に城を無事受け取りました。。

 また元禄7年(1694)8月21日、弟の浅野長広に新田3000石を分知しました。
 翌元禄8年には長矩が疱瘡をわずらって一時危篤状態に陥ったため、長広を正式に嗣子として届けでました。

 元禄14年(1701)2月4日、二度目の勅使饗応役を拝命することとなります。
 そして、3月14日に松の廊下で刃傷事件を起こし、その日のうちに切腹となりました。
 これが「元禄赤穂事件」で、江戸文化歴史検定の今年のお題の中心テーマですので、この経緯については、後日詳しく書いてみたいと思います。
by wheatbaku | 2013-03-14 07:18 | 忠臣蔵
福澤諭吉の墓(麻布十番散歩4)
 麻布十番散歩の最後は、善福寺です。
 善福寺は、浄土真宗本願寺派の寺院で、山号は麻布山(あざぶさん)と言います。
福澤諭吉の墓(麻布十番散歩4)_c0187004_16545145.jpg 平安時代の天長元年(824)に弘法大師空海によって開山されたと伝えられていて都内では浅草寺についで古いお寺です。
 当初は真言宗の寺院でしたが、鎌倉時代になって越後国に流されていた親鸞上人が善福寺を訪れた際に、浄土真宗に改宗したとされます。

 善福寺は、安政6年(1859)に善福寺はアメリカ合衆国公使館となり、明治8年12月まで公使館として利用されました。
 そこで、参堂入り口には 「最初のアメリカ公使宿館跡」の碑が建てられています。

 善福寺については、以前、書いています(「善福寺 【幕末の公使館① 江戸検定今年のお題 幕末】」)が、福沢諭吉のお墓については触れていませんので、今回は、福沢諭吉のお墓についてご案内します。
右写真は、善福寺の勅使門の写真です。後方に見える近代的なマンションは「元麻布ヒルズ」で、善福寺の隣地に建っています。
 

 福沢諭吉のお墓は、本堂向かって右手の墓域の中の開山堂の手前にあります。
他のお墓より少し広めのお墓です。
福澤諭吉の墓(麻布十番散歩4)_c0187004_16552932.jpg 福沢諭吉のお墓は、もともと、上大崎の常光寺にありました。
 それは、生前に福沢諭吉が、そこに埋葬するよう決めていたからだそうです。
 しかし、昭和52年、福沢家の意向で善福寺に改葬されたそうです。
 改葬された理由は確かなことはわかりませんが、福沢諭吉の葬儀が善福寺で行われていたという事情もあるように思います。
 福沢諭吉は明治34年(1901)2月3日になくなりました。
 諭吉の葬儀は2月8日に、慶応義塾をあげて行われ、当日は三田の自宅から善福寺まで「2キロ足らずの道を、1万5千人の会葬者が徒歩して棺に従った」(小泉信三『福沢諭吉』)そうです。

 なお、お墓は福澤諭吉夫妻のもので、福澤家の墓地は多摩墓地にあるそうです、

 明治34年2月8日付けの「東京朝日新聞」には次のうような記事が載ったそうです。
「◎福沢諭吉氏の葬儀・・・・・福沢諭吉氏の葬儀は本日午後一時三田出棺麻布十番善福寺において式を行える上、白金大崎本願寺(瑞聖寺の隣)に埋葬せらるべし。行列は慶応義塾普通部生徒、幼稚舎生徒、商業学校生徒、大学部生徒、次に樒三対、それより導師、香炉、位牌(大観院独立自尊居士)銘旗、次に柩にて棺側は慶応義塾評議員一同なり。次に喪主、親戚、柩台にして塾員及び同窓者も皆徒歩して之に随い、それより会葬者の順序にて一万人以上に達すべく混雑を防ぐため車夫馬丁の心附はせずという。」
by wheatbaku | 2013-03-13 07:37 | 大江戸散歩
麻布一本松(麻布十番散歩3)
 大法寺の前の坂は「大黒坂」と言います。この坂を上っていくとオーストリア大使館の方から上ってくる「幽霊坂」と一緒になります。この合流点に一本の松が生えています。
麻布一本松(麻布十番散歩3)_c0187004_841412.jpg この松が「麻布一本松」です。 このあたりになると坂の名前も「一本松坂」になり、このあたり周辺も松にちなんで麻布一本松とも呼ばれていました。
 この松についてはいろいろな言い伝えがあるようですが、松のたもとにある石碑に書かれているのは、天慶の乱で平将門を追討した源経基が冠装束をかけたので冠の松という話です。

 石碑(左下写真)には、 「江戸砂子によると天慶二年西紀939年ごろ六孫源経基 平将門を征服しての帰途此所に来り民家に宿す 宿の主粟飯を柏の葉に盛りささぐ 翌日出立の時に京家の冠装束を松の木にかけて行ったので冠の松とも云い又一本松とも云う」と書かれています。

 江戸名所図会には次のように書かれています。

 「同所北の裏通り、一本松町道の傍にあり。一株の松に注連(しめ)を懸け、その下に垣を廻らせり。里諺に云く、六孫王経基(源経基)この地を過ぐる頃、この松に衣冠を懸け給ひしとて、冠松(かむりまつ)の名ありとも、その余さまざまの説あれども分明(ふんみょう)ならず。今この辺りを一本松と号して地名となれり。あるいはいふ、小野篁麻布一本松(麻布十番散歩3)_c0187004_8453299.jpg(たかむら)が植ゆる所なりとも。(按ずるに、氷川明神の別当徳乗院より、この松樹の注連(しめ)をかけかゆること怠らず。ある人いふ、この松は氷川の神木なればなりとぞ、この説是なり。されど昔の松は枯れて今若木を植ゑ置けり)」
 
 

江戸名所図会には、「一本松」の脇に茶店が描かれています。
 この茶店が、池波正太郎が鬼平犯科帳の中で麻布を舞台に書いた「麻布一本松」という短編作品に出てきます。
 『鬼平犯科帳(21)』に収録されています。
 「麻布一本松」のあらすじは次のようです。
麻布一本松(麻布十番散歩3)_c0187004_8402352.jpg  「うさぎ」というあだ名のついている同心木村忠吾は、見廻り区域が麻布に変わり面白くないと腹いせに蹴った石が浪人に当たり、怒った浪人が刀を抜いたため、忠吾は、とっさに浪人の急所を蹴って走り去りました。
数日後、忠吾が塗笠をかぶって見廻り中、一本松の茶店で酒を頼むと、忠吾好みの女がお酌を申し出ます。
 女はお弓といい明後日の再開を約束しました。
 翌日、忠吾は長谷川平蔵に供を言いつかります。平蔵は麻布方面の見回りを行っている最中、刺客に襲われ平蔵は撃退しますが、忠吾は太ももを斬られて怪我をしてしまいます。
 しかし、忠吾は怪我をしているにもかかわらず、麻布へいきたいと思います。
 忠吾の浮気ごころのなせる業です。でもとても行ける状態ではありません。
 平蔵は、一人で麻布を見廻っている時に予て知っていた剣客市口又十郎に出会います。
 市口又十郎が語るには、先日、浪人に急所を蹴られて、今日は、その浪人が現れるのを待っていると事情を説明しました。
 市口がいう浪人は忠吾のことだと気が付いた長谷川平蔵が、太ももの傷の治療をしている忠吾のところに、市口を連れて行くと、忠吾が驚きのあまり卒倒するというお話です。
 この話の中で、忠吾がお弓と出会い再会を約束したり、平蔵が市口又十郎と会ったのが、「麻布一本松」の脇にあった茶店でした。

赤印が「麻布一本松」です。

by wheatbaku | 2013-03-12 07:47 | 大江戸散歩
賢崇寺(麻布十番散歩2)
 今日は、麻布十番散歩で賢崇寺(けんそうじ)をご案内します。
 賢崇寺(けんそうじ)は麻布十番商店街の南西方向にあり、、麻布十番駅から、約5分の距離にあります。
 入り口は、なだらかですが長い坂道となっています。
賢崇寺(麻布十番散歩2)_c0187004_8382594.jpg 賢崇寺は、曹洞宗の寺です。
 寛永12年(1635年)、鍋島藩初代藩主鍋島勝茂が疱瘡で亡くなった息子の鍋島忠直の菩提を弔うためい建立されました。
 寺号は忠直の戒名 「興国院殿敬英賢崇大居士」 から興国山賢崇寺とされました。
 それ以降鍋島家の菩提寺となりました。
 本堂の裏側に、鍋島家の墓所があります。
 そこには、当初葬られた鍋島忠直、その父で初代佐賀藩主鍋島勝茂、勝茂が亡くなった際に殉死した家来30名などのお墓があるとのことですが、現在は立ち入り禁止となっていて近寄ることができません。
 左下写真は、墓所外がら撮影したものです。
賢崇寺(麻布十番散歩2)_c0187004_8384599.jpg 幕末の名君と呼ばれた10代藩主鍋島直正(いわゆうる閑叟の号で有名っです)の墓も賢崇寺にありました。
 本堂前に広い墓所があったそうですが、明治にできた佐賀の春日山の神道墓所に平成11年に移されました。 
 墓前に奉納されていた明治の元勲大隈重信、江藤新平、大木喬任等から寄進され灯籠が境内のかたすみに残されていて、これから整備されるのを待っています。
 東京大空襲では境内のほとんどを消失し、本堂は昭和47年に再建されたものです。

 賢崇寺には、二・二六事件で処刑された「二十二士」も葬られています。
賢崇寺(麻布十番散歩2)_c0187004_8391563.jpg 本堂裏側の墓所の奥まったところに、「二十二士之墓」と刻まれた墓石があります。
 これには死刑となった香田大尉、安藤大尉はじめ19名に、自決した野中大尉・河野大尉の2名、相沢事件で死刑となった相沢中佐が含まれています。

 お墓の裏側には、埋葬されている22名の死亡日と名前とが刻まれています。
 2月29日 野中四郎、3月6日 河野寿、
 7月3日 相澤三郎(中佐;陸軍省軍務局長永田鉄山少将斬殺) 
 7月12日 香田清貞(大尉)、安藤輝三(大尉)、竹島継夫(中尉)、
        對馬勝雄(中尉)、中橋基明(中尉)、栗原安秀(中尉)、丹生誠忠(少尉)、
        坂井直(中尉)、田中勝 (中尉)、中島莞爾(少尉)、安田優(少尉)、
        高橋太郎(少尉)、林八郎(少尉) 、渋川善助、水上源一
 8月19日 村中孝次(大尉)、磯部浅一(一等主計)、北輝次郎(北一輝)、西田税  

 当初は遺体の引渡しすらままなりませんでしたが、栗原安秀中尉の父勇が自ら賢崇寺の第二十九世住職藤田俊訓師に入門し、藤田住職とともに墓建立に奔走したそうです。
 現在の墓碑は、昭和27年7月12日第十七回忌法要時に建立されました。
 それまでは、二十二士の遺骨が本堂に安置されていてお墓はなかったそうです。
 それが、昭和27年に建立されたのでした。
 毎年2月26日、7月12日に慰霊祭が行なわれるそうです。ちなみに7月12日は、15人が死刑に処せられた碑です。

 二十二士のお墓にいく途中には、作家の戸川幸夫(下左写真)、詩人の蒲原有明(下右の写真)のお墓もあります。
賢崇寺(麻布十番散歩2)_c0187004_8424731.jpg賢崇寺(麻布十番散歩2)_c0187004_84307.jpg



赤印が、賢崇寺です。

by wheatbaku | 2013-03-11 08:24 | 大江戸散歩
池田屋事件(八重の桜 第10回「池田屋事件」)
今週の「八重の桜」では、池田屋事件が発生します。
 
 池田屋事件は、幕末の元治元年(1864)6月5日年に、三条小橋脇の池田屋にいた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、新選組が襲撃しました。

 池田屋事件は、6月5日に捕らえらた古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)の自白により尊王攘夷派の浪士による「御所に火を放ち、一橋慶喜や松平容保を暗殺し、孝明天皇を長州にお連れする」という容易ならざる計画が実行されようとしていることがわかりました。
池田屋事件(八重の桜 第10回「池田屋事件」)_c0187004_22211617.jpg 新撰組はすぐに会津藩に報告しました。
 会津藩では、緊急の重役による会議を開きました。
 打ち捨てておけば役目がはたせないし、取り押さえれば長州および尊攘派から恨みをかうことになるがこの機会をのがす訳にはいかないということになり、容保も同意しました。
 そこで、慶喜、所司代に相談すると、それぞれ同意しました。
 新撰組には祇園会所へ集合を命じました。
 
 当日の態勢は、次のような大掛かりの態勢が計画されました。
 会津藩150人、彦根藩150人、所司代100人、京都町奉行70人、淀藩100人
 そして、新撰組は、四条辺りから北上し、会津藩は二条辺りから南下し、一か所に落ち合うという計画でした。
 しかし、会津藩は、慶喜や所司代との打ち合わせに時間がかかり出動できたのが夜遅くなってしまいました。
 そのため、新撰組は、指示通り5ツ時に集合しましたが、会津藩は、予定時刻に集まりませんでしたので、新撰組が単独で市中探査を開始することとなりました。
池田屋事件(八重の桜 第10回「池田屋事件」)_c0187004_22223885.jpg 新撰組は、近藤勇が隊員9名を率いた組と土方歳三を隊長とする組とに分けて、探索を開始しました。
 そして、近藤勇が、三条の池田屋に尊攘浪士が集合していることを察知し、踏み込んだのでした。
 この戦いで、新撰組は、多くの尊攘派浪士を殺害しました。
 肥後の宮部鼎蔵、土佐の石川潤次郎、伊予松山の福岡祐次郎は池田屋内で殺害されました。また、長州の吉田稔麿は木屋町通の加賀藩邸前で討死、土佐の望月亀弥太は河原町通り二条の角倉邸前で自害、北添佶麿は翌日の残党狩りの際に殺害されました。
 さらに、肥後の松田重助、林田藩の大高又次郎、長州の杉山松助、長州の広岡浪秀も殺害されました。 
 池田屋事件で殺害された人物は、尊攘派の大物・逸材が大勢いました。
 そのため、この事件に長州藩は激高し、京都に進軍することとなり、禁門の変を引き起こすこととなります。
 そして、会津藩、池田事件をきっかけに、長州藩と完全に敵対関係になりました。
 
 池田屋事件については、以前、詳しく書いていますので、そちらもご覧ください。
 池田屋事件① 
 池田屋事件②
 池田屋事件③
 池田屋事件④
by wheatbaku | 2013-03-10 07:11 | 大河ドラマ
浅野長友(江戸検お題「本当の忠臣蔵」4)
  赤穂浅野家の当主について、浅野長政、長重、長直と三代書きました。
 今日は四代目で浅野内匠頭長矩の父、浅野長友について触れたいと思います。

 浅野長友は、寛永20年(1643)に浅野長直の長男として生まれました。
 明暦元年に初めて4代将軍家綱にお目見えしました。
 そして、明暦3年(1657)、祖父長重と同じ従五位下采女正に任官しました。
浅野長友(江戸検お題「本当の忠臣蔵」4)_c0187004_15593852.jpg 寛文11年(1671)、父長直が隠居したため、家督を継ぎました。
このとき、5万3,000石の所領のうち、3,500石を義兄の長賢(ながかた)に与え、新田3,000石を長恒(ながつね)に分与しました。
 長賢は、松平清昌の五男で、長直の養子です。
 浅野長直には男子がしばらく生まれませんでした。長直の妻の兄弟である清昌の子供の長賢を養子としました。
 ところが長賢の養子となって、しばらくすると浅野長直に実子の長友が誕生したため、長賢は次男の扱いを受けていました。
 また、長恒は、家老の大石頼母助良重の子供で、長直の養子となっていました。
長友は先代長直の実子ですが、長賢と長恒は養子ですので、赤穂藩は長友が継ぎ、養子の二人を分家としたわけです。
 寛文12年(1672)、赤穂に初めて入りました。
 しかし、延宝3年(1675)省月26日、赤穂でなくなりました。享年33歳でした。
 家督は、長男の長矩がわずか9歳で継ぎました。
 遺体は、高輪泉岳寺に埋葬されました。
 長友のお墓は、泉岳寺の赤穂義士の墓所の中にあります。
 浅野内匠頭のお墓の手前右手の一画にあります。
 右上写真の左手が浅野長友のお墓で、右が内匠頭の弟浅野内匠頭長矩大学のお墓です。
 浅野内匠頭、 瑤泉院や赤穂浪士とはちがい、案内板や説明板もありませんので、ここに二人のお墓があることさえ知られていないようです。
 通常に日には、線香はあげられていませんし、義士祭りでもごくわずかにしか供えられません。
by wheatbaku | 2013-03-09 07:37 | 忠臣蔵
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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