日曜日の江戸楽アカデミーでは「水害」飢饉」「疫病」について説明しました。
お題の参考図書「天下大変 江戸の災害と復興」の「第3章 水害」の中では、江戸の三大洪水について触れられています。
しかし、その一つ天明3年の大洪水で田沼意次が進めていた印旛沼干拓が不首尾に終わったことについては参考図書には触れられていません。
そこで、天明3年の大洪水で、印旛沼干拓が不首尾に終わり、このことも田沼政権にとって大きな影響を及ぼしたと思われますので、ブログで少し説明しておこうと思います。
新田開発が盛んになったのは、8代将軍吉宗の時代からです。
吉宗の時代に開発された主な新田は、武蔵野新田、飯沼新田、見沼新田、紫雲寺潟新田の四つです。
このうち武蔵野新田以外の三新田は、湖や沼を干拓して開発した新田いわゆる湖沼干拓新田です。
印旛沼の干拓も、新田開発が盛んな吉宗の時代に、計画されました。
印旛沼の干拓工事は、享保9年に千葉郡平戸村の染谷源右衛門のが幕府に対して出願し、幕府がこれを許可し6千両の補助金も与えて、源右衛門らを請負人としてエ事にとりかかりました。
しかし、この工事は予想外な難工事で、工事を請け負った源右衛門たちも破産するという状態となり、ついに中止されてしまいました。
このように一旦は不成功に終わった印旛沼の干拓事業が、田沼意次政権で開始されました。
印旛沼の干拓事業は、利根川と接続している部分を閉切り、反対側に掘割を造って水を江戸湾に流して干拓しようというものです。
天明2年7月に勘定奉行所で実施と決定され、工事のため現地役所が設けられ、ここに幕府勘定所から派遣された多数の普請役が詰め、工事の指導監督にあたりました。
作業は順調にすすみ。利根川の閉切り工事をはじめ、その全工程の三分の二ほど終った段階の天明6年7月に参考図書にも大きく取り上げられている「天明6年の大洪水」が起きました。
天明6年の大洪水は、参考図書にも書かれていますが、『徳川実紀』に「すべて慶長のむかし府を開かれしより後、関東の国々水害かうぶることありし中にも、これまでは寛保二年をもて大水と称せしが、こたびはなほそれに十倍せりといへり」という大洪水でした。
この天明6年の大洪水は、天明三年の浅間山の大噴火によって、利根川の川底が高くなっていて、水はけを悪くしていたため起きたものです。
この大洪水により、三分の二ほど出来上がっていた印旛沼干拓工事が「元の木阿弥」となってしまいました。
三分の二ほど出来上がっていた印旛沼干拓工事がすべて破壊されたため、ついに8月24日、幕府は印旛沼干拓の中止を決定することになりました。
そして8月27日、田沼意次は病気を理由に老中を辞職しました。辞職とはいうものの罷免されたと同じことのようです。