人気ブログランキング |
<   2018年 02月 ( 13 )   > この月の画像一覧
「~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩」開講のお知らせ
「~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩」 開講の
 お知らせ

今日は、毎日文化センターで開講する「~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩」のご案内です。

「~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩」は、山手線各駅に集合して、そこを起点にして各駅周辺の江戸ゆかりの史跡を散歩する毎日文化センター主催の講座です。

この散歩を始めたのは、一昨年の10月からです。これまで、品川、大崎、五反田、池袋、大塚、巣鴨、駒込、田端の各駅周辺の史跡散歩を楽しんできました。

今回は第3ステージで、目黒駅、西日暮里駅、恵比寿駅をスタートとして、各駅の周辺の江戸ゆかり史跡を散歩したいと思います。
 各駅ごとに完結している散歩ですので、今からのご参加でも、十分楽しめる散歩です。

ご希望の方は、最下段の【申込書送付依頼】をクリックしてお名前等をお知らせください。

今回の散歩のスケジュールは次の通りです。
1、日程、集合場所、主な散歩場所

4月14日(土)
  〈集合場所〉JR山手線目黒駅中央改札口前
  このコースは、目黒の御不動様を中心にその周辺の寺々を回り
  ます。

【主な散歩場所】大円寺、五百羅漢寺、目黒不動、成就院、行元寺

5月12日 (土)

〈集合場所〉JR山手線西日暮里駅 改札口前(改札口は一つだけ)
 
 このコースでは、山岡鉄舟のお墓のある全生庵など谷中周辺の寺々
  を回ります。
  【
主な散歩場所】諏訪神社、本行寺、観音寺、全生庵、大円寺

6月9日(土)

〈集合場所〉JR山手線恵比須駅 東口改札口前
  このコースでは、黒田長政のお墓のある祥雲寺など広尾の寺々を回
  ります。
最後はヱビスビール記念館です

【主な散歩場所】東北寺、祥雲寺、有栖川宮記念公園、光林寺、
   ヱビスビール記念館

2、集合時間   毎回13時30分です。
3、受講料    9,720円 (税込・3回分) 
         ※交通費などは各自負担
4、保険料    423円(@141円×3回分)

 


【申込書送付依頼】

 ↑ こちらをクリックすると「申込書送付依頼」のページが
   表示されます。 必要事項を入力し送信して下さい。

【目黒不動尊本堂】

c0187004_21315662.jpg

【全生庵の山岡鉄舟のお墓】
c0187004_21315111.jpg

【祥雲寺の庫裏】
c0187004_21314350.jpg



by wheatbaku | 2018-02-28 20:01 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
川越藩松平家のあだ名は「引っ越し大名」(川越城④)

 川越藩松平家のあだ名は「引っ越し大名」(川越城④)

川越城本丸御殿を造営したのは川越藩主松平斉典(なりつね)でした。

松平斉典(なりつね)は、松平大和守家といわれる越前松平家の分家の8代目になります。

松平大和守家は、徳川家康の次男である結城秀康の五男の松平直基を初代とする「御家門」と言われる高い家柄ですが、この松平大和守家は、非常に転封が多い大名であったため、「引っ越し大名」というありがたくないニックネームがありました。

今日は、この「引っ越し大名」のお話です。

松平大和守家の初代直基は、越前勝山藩3万石⇒大野藩5万石⇒出羽山形藩15万石⇒播磨姫路藩主15万石と転封しています。

さらに、2代目直矩(なおのり)は、姫路藩15万石⇒越後村上藩15万石⇒播磨姫路藩15万石⇒豊後日田藩7万石⇒出羽山形藩10万石⇒陸奥白河藩15万石へ移され、一代で5回の転封を命じられています。(実は、直矩は藩主に就任する前に2回転封を経験しているので、生涯では7回転封しているのです。)

このように、非常に多くの引っ越しを経験させられているため、「引っ越し大名」と呼ばれました。

 2代松平直矩が藩主であった時の松平大和守家の転封の苦労を描いた小説が土橋章宏さんの『引っ越し大名 三千里』です。

主人公は書庫係でありながら「引っ越し奉行」を押し付けられた片桐春之助で、この片桐春之助が、引っ越し作業に奮闘する姿をコミカルかつホロッとさせながら描いた小説ですが、大名の引っ越しの苦労がよくわかります。

c0187004_20222242.jpg

 松平大和守家は、その後、奥羽白河藩から播磨姫路藩に復帰しますが、さらに上野前橋藩に転封となり、そして、明和4年(1767)に川越に入封したのでした。

 このように、転封を繰り返した松平大和守家は、転封のたびに多額の費用が必要なため、当然のことながら財政的には危機に瀕します。

 松平斉典(なりつね)にとっても財政再建は重要な課題でした。

 財政再建のために諸施策に取り組む中で、御家門ならではの施策を講じました。

 それが子だくさんであった11代将軍の子供を養子に迎えることでした。

 川越藩の働きかけが功を奏して、家斉の25男紀五郎(松平斉省)の養子が決まりました。

 そして、これに合わせて、旧領姫路への帰藩もお願いしましたが、これは聞き届けられませんでした。しかし、2万5千石の加増となりました。

 松平斉典(なりつね)は、姫路藩への転封がダメになったので、さらに、他領への転封を願い出ました。

 この川越藩の願いを受けて、天保11年(1840)に発令されたのが、川越藩松平家を庄内へ、庄内藩酒井家を長岡へ、長岡藩牧野家を川越へ転封する三方領知替えです。

 しかし、この三方領知替えについては、庄内藩の農民が強く反対し、庄内地方だけでなく、江戸でも駕籠訴などを展開したため、三方領知替は、中止となっています。

 そのため、松平大和守家は、庄内藩への転封が中止となったかわりに、2万石の加増が認められています。


by wheatbaku | 2018-02-27 20:13 | 城下町
西郷隆盛は涙もろい人だった(大河ドラマ『西郷どん』⑩)

 西郷隆盛は涙もろい人だった(大河ドラマ『西郷どん⓾)

『西郷どん』第8回は「不吉な嫁」でした。

 今回は、嘉永6年のペリー来航時の島津斉彬の対応、篤姫の江戸行の準備、そして、西郷隆盛の江戸行きが決まり、そのための旅費づくりに苦悩する西郷家の人々の姿などと描かれていましたが、「不吉な嫁」というタイトルとは異なり、西郷隆盛とその妻「須賀」との温かい心が伝わる素晴らしい展開だったと思います。 


 表面的な冷たい言葉と異なり、「須賀」は西郷隆盛の温かい心を知っていて、「須賀」がいる限り、西郷隆盛が江戸に行かないことがわかったため、あえて身を引く決意を固め離縁を通告する「須賀」、そして、それを怒る西郷家の人々、その中で、一人だけ「須賀」の気持ちを知って「ありがとう」とつぶやく西郷隆盛。なかなかの感動場面でした。

 もちろん、この展開は大河ドラマの話ですので、実際にこうしたやりとりがあったかどうかはわかりませんが、今回の『西郷どん』をみていて、思い出したのが、『西郷隆盛維新150年目の真実』(家近良樹著)に書かれていた西郷隆盛の涙もろさです。

c0187004_19293322.jpg

 家近先生によると西郷隆盛は、男は人前で涙を見せてはいけないという不文律があったであろう江戸時代に平気で涙を流せた男だったそうです。

そして、「西郷隆盛には、周りの眼や世間体を気にせず、素直に涙を流せるような一面があり、こうした人間らしさが、多くの部下や周囲の人物を強く惹き付ける一因となっただろうことは否定できない」と書いています。

 また、大隈重信は、西郷隆盛を評して、「非常に惰に脆い、涙弱い人」だったとも回想しているそうです。

家近先生は、こうした涙もろさが、西郷隆盛を「一人画然とした位置に立たせた大きな理由」だとしています。

 まさに、今回の『西郷どん』は、そうした西郷隆盛の姿が遺憾なく描かれていたと思います。


by wheatbaku | 2018-02-26 19:24 | 大河ドラマ
文京学院大学「大江戸八百八町を守った男たち」開講

文京学院大学「大江戸八百八町を守った男たち」開講

 昨日、文京学院大学生涯学習センターで、「大江戸八百八町を守った男たち」というタイトルで「江戸の町奉行」について説明してきました。

 「大岡越前」や「遠山の金さん」でおなじみの町奉行は、現在で言えば、東京都知事、警視総監、東京高等裁判所長官、消防総監兼任しているようなもので、大変な激職でした。

 今回の講座は、町奉行の仕事のうち、司法・警察に関係することを中心に講義する講座でした。

c0187004_14004465.jpg

 昨日はその講座の2回目でした。

1回目で、町奉行の職務内容や町奉行所の変遷などを解説してありますので、昨日は主に、容疑者の取り調べ方法、犯罪と刑罰の関係などについてお話しました。

取り調べでは、お白洲での取り調べ中は、町奉行は、座布団も敷かず、煙草盆もなく、寒中でも火鉢がなく、暑中でも扇も使わず、取り調べ中は席もたたず、膝もくずさなかったということから、時代劇の「遠山の金さん」のようにお白洲で啖呵をきることは絶対なかったといったお話をしました。

また、判決の言い渡しを「落着」といいますが、刑罰のうち、中追放以下は町奉行単独で刑罰を確定できましたが、重追放以上は老中の指図が必要で、さらに遠島以上は将軍の裁決が必要でしたので、「遠山の金さん」のように吟味終了後、即座に「打ち首・獄門」と言い渡すようなことはできなかったということなどをお話ししました。

1時間30分の短い時間でしたが、受講された皆さんには、大変興味をそそられた様子で、熱心に聞いていだだきした。

皆さんが大変熱心に聞いていただいたので、話していた私も楽しく講義することができました。

受講いただいた皆様、ありがとうございました。

講義後は、オプションで、大学のキャンパス近くにある八百屋お七ゆかりの「大円寺」と「円乗寺」をご案内するミニ史跡散歩を行いました。

下写真は、円乗寺の八百屋お七のお墓をお参りする参加者の皆さんです。

c0187004_14003587.jpg



by wheatbaku | 2018-02-25 13:50 | 江戸講座
川越城本丸御殿(川越城③)

川越城本丸御殿(川越城③)

今日は、川越城の本丸御殿について書きます。

川越城の面影を残す遺構が、埼玉県指定文化財になっている本丸御殿です。

 下記写真は、玄関前から見た本丸御殿全景です。訪ねた日は屋根にまだ雪が残っていました。

c0187004_23030992.jpg
 

川越城の本丸御殿は、嘉永元年(1848)に藩主松平斉典(なりつね)が造営したものです。

それまでは、御殿は本丸でなく、二ノ丸にありましたが、二ノ丸御殿が、弘化3年(1846)に城内で起きた火災で焼失してしまいました。

そのため、御殿の再建が必要となりましたが、二ノ丸では狭すぎるので、本丸に再建する願いを幕府に提出し、幕府から許可を得て本丸に建設しました。

そして、2年間の建築工事をへて、嘉永元年(1848)に完成しました。

完成した本丸御殿は16棟、1025坪の規模をもっていましたが、明治維新後次第に解体され、現存しているのは大広間などの玄関部分と、移築復元された家老詰所だけです。

 

大広間

玄関を入るとすぐ目の前にある大広間は、36畳の広さがあります。

大広間は、来客が城主のお出ましまで待機した部屋と考えられています。

川越藩の御用絵師・舩津蘭山(ふなつらんざん)の「杉戸絵」が描かられた戸板もはめられています。

ここは、戦後には、初狩中学校の屋内運動場として使われたとのことで、天井にはバレーボールの跡がたくさん残っています。

c0187004_23030194.jpg

家老詰所

玄関部分の奥に、家老詰所があります。

家老詰所は、江戸時代には、現在建てられている場所より約90メートル西側に建てられていたそうです。

明治6年にふじみの市の商家に解体移築されたものを、昭和62年に川越市に寄贈され、現在地に移築したものです。

木造平屋で建坪は54坪あり、室内は、床の間を備えた10畳一間と8畳の部屋二間を中心に構成されています。

奥の間には、協議している家老たちの人形が展示されています。

c0187004_23025547.jpg



by wheatbaku | 2018-02-23 00:10 | 城下町
川越市立博物館(川越城②)

川越市立博物館(川越城②)

 川越城の二ノ丸であった場所に、現在は、川越市立博物館があります。

平成231日に開館した博物館ですが、しばしば、近くを通りましたが、先日、初めて入館しました。

c0187004_17181966.jpg

博物館の展示室に入ると、大きな川越のジオラマが展示されていて、江戸時代の川越城の様子がわかります。(下写真は川越城を東から見たものです。)

c0187004_17181282.jpg

 この川越城をしっかり整備したのは、知恵伊豆こと松平信綱です。

川越藩は、天正18年(1590)の徳川家康が関東入国の際、譜代の酒井重忠が1万石で入封立藩しました。その後、酒井忠利、酒井忠勝、堀田正盛に続き、松平信綱となります。

寛永16年(1639)、島原の乱を鎮定した老中松平信綱が忍から6万石で入封しました。

松平信綱は、川越城を拡大し、城下町を整備し、新河岸川舟運の開設、武蔵野開発と野火止用水開削など、川越藩の藩政確立安定に大きな功績を残しました。

 川越城は、松平信綱入封以前は、本丸・二ノ丸・三ノ丸程度の小規模な城郭だったと考えられています。

 松平信綱は、その川越城の北側に新曲輪、西側に追手曲輪、東側に帯曲輪、南側に田曲輪を増設し、総面積は、面積は約326,000(東京ドーム約7個分)となり、川越城の整備は、松平信綱の時代にほぼ完成したとされています。

しかし、残念ながら、松平信綱の川越城の拡張整備について直接裏付ける資料は、現在のところ発見されていないそうです。
 また、松平信綱は、城下町に十ヵ町四門前の制度を整備して、城下町の発展を図っています。十ヵ町は江戸町・本町などの町人町で、四門前とは養寿院・行伝寺・蓮馨寺(れんけいじ)・妙養寺の門前町を指しました。

 博物館には土蔵の仕組みがわかる展示もあり、大変興味深く見物させてもらいました。

c0187004_17180647.jpg


by wheatbaku | 2018-02-21 17:20 | 城下町
西郷隆盛の結婚(大河ドラマ『西郷どん』⑨)

西郷隆盛の結婚(大河ドラマ『西郷どん』)

昨日の『西郷どん』第7回「背中の母」では、西郷家の悲劇が描かれていました。

 西郷隆盛は、嘉永5年に、あいついで家族を失っています。
 祖父の龍右衛門、父吉兵衛、母まさと、連続してなくなりました。

 26歳の西郷隆盛は、一家の責任のすべてを負うことになり、後年、「自分の一生で最も悲しかったのはこの年である」と追憶させるほどの年でした。

 

 さて、今回の『西郷どん』では西郷隆盛の結婚も描かれているので、今日は西郷隆盛の結婚の話をさせてもらいます。

西郷隆盛は三度結婚をしています。

 最初の妻が、伊集院兼寛の娘です。『西郷どん』で「須賀」で呼ばれていましたが、『西郷隆盛』(田中惣五郎著)によれば、記録として名前は残っていないようです。

 西郷隆盛と結婚して、間もなく、次々と義理の父と母がなくなり、「須賀」」も大変だったと思います。さらに、西郷隆盛には大勢の弟や妹がいましたので、これらの小姑や小姑を相手にしたのですから、「須賀」の苦労が思いやられます。

 そのため、しばらくしてから、伊集院家から離縁の申し出があり、西郷隆盛はそれを受けざるをえませんでした。

 心優しい西郷隆盛は、のちのちまでこのことを気にかけていたそうです。

二番目が、西郷隆盛が、奄美大島に流されていた時の妻「愛加那」です。

『西郷どん』でも描かれると思いますが、西郷隆盛は、安政の大獄が始まると、幕府からの追及を逃れるため、薩摩藩は、西郷隆盛を奄美大島に島流しにします。

 この時、島妻となったのが「愛加那」です。「愛加那」とは穏やかな生活を送り、子供を2人もうけました。男の子が、明治になって京都市長となった菊次郎です。

 女の子は、菊子と名付けられています。

 西郷家は、肥後国の豪族菊池氏の子孫という伝承があるため、西郷隆盛は奄美大島では菊池源吾という変名を使っていました。子供の命名も菊池氏から菊の一字をつけたといわれています。

 しかし、西郷隆盛が、許された薩摩に戻った際に、「愛加那」は薩摩についていけませんでした。それが、当時の島妻のしきたりだったようです。
 子供たちは、のちに鹿児島の西郷家に引き取られています。

なお、林真理子の「西郷どん」の冒頭は、西郷菊次郎が京都市長に着任する場面です。



 三番目の妻が、『西郷どん』でしばしば登場している岩山糸子です。

 西郷隆盛と岩山糸子との結婚は、ずっ~と後の慶応元年のことで、西郷隆盛は39歳の時でした。

 岩山糸子は、岩山直温の次女として生まれました。そして、一度結婚をしていましたので、糸子も再婚ということになります。

 糸子との間には、3人の男の子を授かりました。

 寅太郎、午次郎、酉三です。それぞれ、生まれた年の干支が使用されているのでわかりやすい命名です。

 このうち、寅太郎が、西郷隆盛の嫡男となりました。

奄美大島で生まれた菊次郎のほうが年上ですが、庶子であったので寅太郎が嫡男となったようです。

 この寅太郎の子供が、参議院で法務大臣も務めた西郷吉之助氏です。

 現在も、田町にあるNEC本社の敷地内に「薩摩屋敷跡」と書かれた石碑がありますが、この文字を書いたのが西郷吉之助氏です。

c0187004_10564366.jpg


by wheatbaku | 2018-02-19 10:50 | 大河ドラマ
川越城の歴史(川越城①)

 川越城の歴史(川越城①)

1月、川越の喜多院に初詣に行ってきました。その際に、川越城を散策してきました。

 川越城については、このブログでまとめて書いたことがないので、これから、数回にわけて書いていこうと思います。

 川越城は、太田道灌が築城したものとされていることから、川越市役所には、太田道灌の銅像がたっています。大田道灌の後方の建物が川越市役所です。(下写真)

c0187004_22133038.jpg

 しかし、川越城の築城には、父親の太田道真もかなり関与して築造したという説も有力です。

太田道真・道灌の主君が扇谷上杉持朝(もちとも)でしたが、川越城は、長禄元年(1457)扇谷上杉持朝(もちとも)の命令により築城されたものです。

扇谷上杉持朝は、古河公方足利成氏(しげうじ)に対抗するため、川越城を太田道真・道灌父子に命じて築城しました。

このころ、関東は、古河に陣取り古河公方と呼ばれた足利成氏とこれに対抗する山内上杉家とに分かれて戦っていました。

太田道灌が仕える扇谷上杉家は山内上杉家の一族でした。

c0187004_22133689.jpg

この両家は、時には争うこともありましたが、古河公方という共通の敵のため、扇谷上杉家は、山内上杉家に与して戦っていました。

 上杉側が、古河公方に対抗するため、この時期に築城したのが、川越、岩槻、江戸の三城です。

 この三城は、従来は太田道灌が築城したと言われています。

 大田道灌が、扇谷上杉家の上杉定正に暗殺されると、扇谷上杉家の勢力が弱体化していきます。

 その一方、小田原の後北条氏の勢力が強くなり、やがて川越城は、後北条氏の占拠するところとなりました。

それに対して、天文15年(1546)川越城の奪回を図った上杉氏は後北条氏の奇襲に会い、大敗して上野方面に逃れました。

 これが河越夜戦と言われる戦いで、日本三大奇襲戦の一つに数えられているほど有名な戦いです。

この川越夜戦以後、後北条氏が川越城を支配することとなりました。

 川越城を掌中に収めた後北条氏は、城代として譜代の重臣大道寺氏を配置しました。

 その後北条氏も、豊臣秀吉により攻撃され、天正18年(1590)、川越城は前田利家に攻められて落城しました。

やがて同年8月徳川家康が一族家臣を従えて関東に移った際には、川越には酒井重忠が1万石をもって封じられました。

それ以降、川越城には、譜代の有力大名が配置されました。

その中で、川越城の大幅な拡張・整備を行い、近世城郭の形態を整えるたのは、知恵伊豆とよばれた松平信綱でした。


by wheatbaku | 2018-02-16 22:05 | 城下町
旧古河庭園と戸川播磨守

旧古河庭園と戸川播磨守

『蘭学事始』のことを書くため、いろいろな本を読みましたが、その中に菊地寛の短編小説『蘭学事始』があります。

 これは、菊地寛大の歴史短編小説を集めた『恩讐の彼方に・忠直卿行状記』と題する岩波文庫に収められています。

c0187004_13473838.jpg
 その中に岩波文庫のなかに『名君』という短編がありました。
それは14代将軍徳川家茂と家茂の習字の先生戸川播磨守のエピソードのお話です。

ストーリーは後で書きます。

 『名君』の話の前に、まず、旧古河庭園のお話をします。 

旧古河庭園は、ジョサイア・コンドルの設計の洋館とバラの咲く洋風庭園で大変有名です。

c0187004_13442541.jpg

毎日文化センターの「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」で昨年秋にも案内しました。

旧古河庭園は、名前の通り、戦前に古河家の屋敷があった跡地に造られた庭園です。

旧古河庭園は、もともとは明治の政治家陸奥宗光の別邸があったところです。

陸奥宗光の次男潤吉が古河財閥の創業者である古河市兵衛の養子となったことから古河家の所有となりました。

古河潤吉は、明治36年に市兵衛が亡くなった後、古河家の2代目当主となり、それまでの個人事業経営を会社組織に改め、古河鉱業会社を設立し、その社長に就任したが、その年の暮れに急逝しました。ちなみに潤吉が社長に就任したとき、副社長を務めたのが、後に首相になる原敬です。

古河潤吉の死後、跡を継いで3代目当主となったのは市兵衛が晩年にもうけた実子虎之助で、この虎之助により、旧古河庭園は、1万坪あまりに拡張されるとともに、現在まで残る洋館と庭園が造られました。

 この旧古河庭園のある場所を、切絵図でみると「戸川播磨守」となっています。

 つまり、旧古河庭園は、戸川播磨守の屋敷跡にあります。

 この戸川播磨守の事績を昨秋調べてみましたが、あまりエピソードらしきものがありませんでした。

 しかし、実はおもしろいエピソードがあり、それが、冒頭書いた菊地寛の短編小説『名君』に書いてありました。 

 そのストーリーは次のようなものです。

戸川播磨守は、14代将軍家茂の習字の先生を勤めていました。

しかし、手習をしていた家茂は、あまり熱心に習字の練習をしませんでした。

そこで、ある日のこと、ついに戸川播磨守は、家茂の手をぎゅっと握りしめて字をしっかり書かせました。

字を書き終えた時、家茂は、突然、墨をするために机上においてあった水入れの水を戸川播磨守にあびせて、部屋を出て行ってしまいました。

側にいた御側衆が驚いて、戸川播磨守に近づき、「あまりの御乱行だ」と気の毒そうに慰めました。

ところが、水を浴びせられた戸川播磨守は怒るでもなく、気落ちするでもなく、涙を流していたのでした。

 実は、73歳となった戸川播磨守は小用をもようしたものの我慢して御側に仕えていましたが、家茂の手を握りしめた瞬間、少々漏らしてしまいました。

 このことがわかると、戸川播磨守は謹慎閉門どころか切腹もあろうかと心配していたところ、家茂がとっさに水を頭からかけて、失禁がわからないようにしてくれたのでした。

 このことを戸川摂津守は涙を流しながら語ったのでした。それを聞いて近習たちは、家茂の仁慈に感嘆の声をあげ、その逸話は、江戸城の隅から隅まで伝えられ、名君家茂を讃えないものはいなかった

 菊地寛が、何を題材に、この『名君』を書いたかわかりませんが、家茂と戸川播磨守のこの逸話は、戸川残花が「幕末小史」の中に記している話だそうです。


by wheatbaku | 2018-02-14 12:04
ジョン万次郎と薩摩(大河ドラマ『西郷どん』⑧)

ジョン万次郎と薩摩(大河ドラマ『西郷どん』)

 『西郷どん』の第6回は「謎の漂流者」でした。タイトルの漂流者とは、ジョン万次郎のことでした。

そこで、今日は、ジョン万次郎と薩摩の関係について書いていきます。
 下写真は、雑司ヶ谷霊園にあるジョン万次郎のお墓です。
 墓表には中濱萬次郎を刻まれています。

c0187004_10190848.jpg

ジョン万次郎は、多くの人が御存知の通り、15歳の時に漁に出たところ暴風雨にあって遭難し、伊豆七島の一つ鳥島に流れつき、アメリカの捕鯨船にすくわれ,アメリカで教育を受け、捕鯨船の船員として暮らしていましたが、望郷の念が抑えきれず、ついに帰国することにします。

 そこで、ハワイで、上海行きの商船「サラ・ボイド号」に漁師仲間2人と共に乗り込みました。

嘉永4年(185112日、琉球近くまで来た段階で、琉球への上陸をめざし「アドベンチャー号」という小船に乗りこみ商船を離れました。

 翌日お昼頃、万次郎たちの乗ったボートは、無事、琉球の摩文仁の海岸に到着しました。

 海岸には、村人たちがいたので、比較的日本語を覚えていた漁師仲間の伝蔵を先頭に上陸しましたが、見慣れない姿の人間に驚いた村人の中でも、3人の日本語を理解した人がいて、ようやく話が通じました。

上陸した3人は、番所で簡単な取り調べを受け、那覇に送られることになりましたが、那覇の手前で、翁長(おなが)に留まることになりました。

翁長では、琉球王朝の役人による尋問が行われた後で薩摩藩の取り調べが行われました。

万次郎たちがいた屋敷の周りには竹囲いがされ軟禁状態でした。

しかし、待遇は非常に良くて、地元の人たちのとの交流も盛んに行われたようです。

『西郷どん』では、西郷家の人たちが、万次郎を歓待している場面がありましたが、あのような歓待ぶりだったのではないでしょうか。

そして、ジョン万次郎たちは、711日に那覇に行き薩摩に向かいました。

翁長には、約6か月滞在したことになります。

薩摩の山川港には、730日に到着し、翌日鹿児島に入港しました。

西田町下会所が宿舎とされました。

この段階までに、ジョン万次郎たちのことは、島津斉彬に報告されていて、島津斉彬からは丁重に処遇するよう指示がでていました。

万次郎は、島津斉彬からも呼び出されて、外国の事情を聞かれたこともありました。

『西郷どん』で描かれたいた通りだったと思います。

薩摩藩では、万次郎のもとに船大工たちを通わせ、「アドベンチャー号」や万次郎の情報を元に、洋式船のひな形を造りました。

このひな形をもとに薩摩藩では、試験的に日本初の小型洋式船をつくりました。この船は「越渡船(おっとせん)と呼ばれ、越通船は湾内での輸送用に使われました。

こうした、万次郎たちは、48日間、薩摩に滞在し厚遇された後、918日に長崎に送られました。

万次郎たちは、長崎でも取り調べを受けましたが、鹿児島での待遇とはうってかわり、罪人として牢屋に入れられました。

しかし、長崎での取り調べの最後に踏絵が行なわれ、万次郎たちは、帰国が許され無罪放免となり、嘉永56月に土佐藩に引き渡されました。

その後、万次郎は、土佐藩での取り調べも無事終わり、嘉永5105日、母親と無事再会を果たしました。

今回、ジョン万次郎を演じたのは劇団ひとりさんですが、たった1回の出演のため、劇団ひとりさんが演じるはずはないと思います。

ジョン万次郎は、のちに薩摩藩の開成所の教授となって、薩摩藩士の教育指導にあたっていますので、『西郷どん』では、西郷隆盛と再会場面があるのではないかと思います。



by wheatbaku | 2018-02-12 18:59 | 大河ドラマ
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
by 夢見る獏(バク)
プロフィールを見る
更新通知を受け取る
以前の記事
2019年 08月
2019年 07月
2019年 06月
2019年 05月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 02月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
ブログパーツ
ブログジャンル
歴史
日々の出来事