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伏見の大黒寺〔『西郷どん』ゆかりの寺③〕(30年京都冬の旅⑨)

伏見の大黒寺〔『西郷どん』ゆかりの寺③〕(30年京都冬の旅⑨)

 『西郷どん』ゆかりの寺で訪ねた伏見の大黒寺は、過去3回訪ねているので、4回目の拝観でした。

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 一度目は、伏見の幕末史跡を訪ねた際、2回目は平田靭負のお墓参り、そして、昨年の幕末維新史跡めぐりの際でした。

 過去に訪ねた時の記事が2つあり、大黒寺や寺田屋事件や平田靭負について詳しく書いていますので、ご覧ください。

 寺田屋事件と薩摩寺

薩摩寺と松林院

 今回は、いつもは拝観できない西郷隆盛や大久保利通らが会談したという「会談の間」が見られるということでお邪魔しました。

 訪ねてみると大黒寺では、付属の保育園の改築工事中でした。

 工事中によく特別公開したなぁと思って感心しました。

 解説員の方がいましたので聞いてみると、特別公開については、『西郷どん』が放映されているので京都観光協会から強い要請があり実現したそうです。

 なるほどなぁと納得しました。

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 会談の間には、西郷隆盛が使用したと伝わる煙草盆、筆と硯箱が部屋の中央に展示されていて、触れることも可能でした。しかし、写真撮影禁止でしたので、撮影できませんでした。

 平田靭負の肖像画も展示されていたほか、寺田屋事件で亡くなった人たちを追悼する和歌・漢詩も展示されていました。

 その中に、清河八郎のものも展示されていましたが、大変達筆なことに驚きました。

 その感想をいうと、清河八郎を知らない拝観者でも、同様な感想をもつと解説の方がコメントしてくれました。

 会談の間を拝見した後、平田靭負のお墓と寺田屋殉難九烈士のお墓をお参りさせていただきました。

 平田靭負のお墓

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寺田屋殉難九烈士のお墓

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by wheatbaku | 2018-03-31 12:06 | 京都探訪
「忠僕茶屋」と「舌切茶屋」〔『西郷どん』ゆかりの寺②〕 (30年京都冬の旅⑧)

「忠僕茶屋」と「舌切茶屋」〔『西郷どん』ゆかりの寺②〕 (30年京都冬の旅⑧)

  

 清水寺の舞台の下の音羽の瀧を見て仁王門前に戻る途中に二つの茶屋があります。

 音羽の瀧に近いほうに「舌切茶屋」、 仁王門に近い方に「忠僕茶屋」があります。

忠僕茶屋と舌切茶屋の二つとも、月照上人と縁のある茶屋です。

今日は、清水寺にある「忠僕茶屋」と「舌切茶屋」をご紹介します。

 

前回書いたように、月照上人は幕府の追及の手から逃れ薩摩藩に向かいました。

この時に、月照上人と薩摩に向かった若い下僕がいました。

これが、大槻重助(おおつきじゅうすけ)です。

この大槻重助は、薩摩までお供をし、月照上人と西郷隆盛が入水する船にも同乗し、入水の場面に遭遇しました。

月照上人が入水して亡くなった後は、薩摩の南洲寺に月照上人を懇ろに葬り、その遺品をもって京都に持ち帰りました。しかし、京都に戻った重助は、捕えられ、六角獄舎につながれます。

大槻重助は6ヶ月間牢に入っていましたが、やがて無罪放免となり解放され、一旦は生まれ故郷に帰った後、再び清水寺に戻り、月照上人の菩提を弔いました。

 この忠僕大槻重助を顕彰する碑が、西郷隆盛詩碑・月照上人歌碑・信海上人の歌碑の手前脇に建てられています。碑文の文字は西郷従道の揮毫によるものだそうです。

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 また、成就院の執事であった近藤正慎(こんどうしょうしん)も幕府に捕らわれ、京都・六角牢獄で月照上人の行方を問われて拷問をうけます。

しかし、近藤正慎は、拷問をかけられても白状することはありませんでした。

それだけでなく、絶対に口を割らないようにするため、牢獄の壁に頭を打ちつけ自ら舌を噛み切って壮絶な最期を遂げました。

 この近藤正慎を顕彰する碑も、西郷隆盛詩碑・月照上人歌碑・信海上人の歌碑の脇に建てられています。

 周囲に柵が設けられていて、正面からの撮影はできませんでした。

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清水寺は、この大槻重助と近藤正慎の二人の功績に報いるため、清水寺境内で永代にわたり茶屋を営業する権利を与えました。

これが、忠僕茶屋と舌切茶屋です。

大槻重助の茶屋が「忠僕茶屋」、近藤正慎の遺族が営む茶屋が「舌切茶屋」です。下写真は舌切茶屋です。

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忠僕茶屋という名前は、有村俊斎(のちの海江田信義)と西郷従道により名付けられたもので、舌切茶屋という名前は近藤正慎が舌を切って自死したことによります。

この二つの茶屋のうち、忠僕茶屋(下写真)で、食事をさせていだきました。   

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そして、御主人の飯尾祐亮様とお話をさせていただきました。

飯尾様は、大槻重助からは5代目のご子孫にあたる方です。

苗字が大槻ではありませんが、4代目までは大槻姓だったそうですが、5代目を継ぐ直系の方がいなかったため、先代の甥御さんにあたる飯尾様が5代目を継いだそうです。

現在は京都市内に住んでいて茶屋には通ってきているそうですが、先々代までは、清水寺境内の中に住んで営業していたそうです。こうした話にも清水寺の配慮が感じられました。

飯尾様はとても気さくで笑顔がとても素敵な方でした。
 最後に、写真を撮ることをお願いしたら快くお許しいただきました。

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 飯尾様、本当にありがとうございました。

赤印が忠僕茶屋です。 青印が舌切茶屋です。



by wheatbaku | 2018-03-30 15:27 | 京都探訪
成就院と月照上人〔『西郷どん』ゆかりの寺①〕 (30年京都冬の旅⑦)



 成就院と月照上人〔『西郷どん』ゆかりの寺①〕 (30年京都冬の旅⑦)

第52回の「京の冬の旅」非公開文化財特別公開は、大河ドラマ『西郷どん』に併せて、西郷隆盛ゆかりの寺が特別公開されていました。

 先日ご紹介した相国寺林光院もそうですが、そのほか、清水寺の成就院、伏見の大黒寺などです。

 その中で、清水寺の成就院と伏見の大黒寺はぜひ訪ねてみたいと思っていたお寺です。

 そこで、京都での用事の合間をぬって、訪ねてきました。

 今日は、清水寺の成就院をご紹介します。

 成就院は、清水寺の塔頭で、本堂の北側にあります。

 「清水の舞台」の喧騒とは別世界の静寂の中にあります。

 下写真は、成就院の玄関先から写した写真です。

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 成就院は、応仁の乱の後、焼け落ちた清水寺を復興した「願阿上人(がんあしょうにん)」により創建された寺院です。

最近では、清水寺の中興の祖とされる大西良慶師も住職を務めていた寺院です。

この成就院で大変有名なものが、「月の庭」と呼ばれる庭園です。

この庭園は、室町時代の相阿弥の作で小堀遠州によって補修されたとか、俳人松永貞徳の作などと伝わりますが詳細は分かっていません。

庭園や建物はすべて撮影禁止でした。下写真は、境内に建てられていた案内板のなかの写真です。この写真でご想像ください。

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音羽山の斜面と隣の高台寺の敷地となっている山を巧みに利用した借景庭園となっています。

わずか48坪(確か!)のあまり大きくない庭園ですが、借景を利用して、庭園内の灯籠と高台寺敷地内の灯籠で遠近感を出していたり、刈込の大きさを変えたりしており、実際の広さ以上に雄大に見えます。

庭には、豊臣秀吉お手植えの侘助椿や豊臣秀吉の寄進と言われる「誰が袖手水鉢」などもあり、見飽きない庭園です。

「月の庭」と呼ばれるのは、庭園の池に月がうつり、それが月の移動に伴い、東から西に移動していく見事さや月の光に照らし出される庭の見事さから、名付けられた名前だそうです。

この成就院が、『西郷どん』ゆかりの寺であるのは、西郷隆盛の盟友であった月照上人が住職を務めていたことによります。

そのため、室内には、西郷隆盛や月照上人ゆかりの品が展示されていましたが、撮影禁止であるため、お見せできないのが残念です。


月照上人は讃岐国多度郡に生まれ、10 歳の時、叔父蔵海の弟子となり月照と名乗りました。

叔父蔵海が京都清水寺の成就院の住職と成り、叔父と一緒に京都に上ります。

天保6 年(1835)月照上人23歳の時、蔵海が亡くなったので跡を継いで成就院の住職になりました。


その後、国の内外が激動する時代がきたため、嘉永7 年(1854)弟信海に成就院の住職をゆずり、尊皇倒幕運動に参加しました。

近衛忠煕の和歌の門人となったことにより、和歌を通して近衛家に出入し、薩摩藩士や水戸藩士との接触を深めました。その中で、西郷隆盛とは大変親しくなりました。


安政5 年(1858)、安政の大獄が開始されると、月照上人は、捕縛の危険が迫ってきたため、京都を去り、西郷隆盛・有村俊斉、そして下僕の大槻重助らと一緒に、大阪から薩摩船で旅立ち、長州・福岡をへて、福岡藩士平野国臣、下僕大槻重助とともに鹿児島に入りますが、島津斎彬が亡くなった薩摩藩の空気は一変していて、月照上人をかくまう考えをなくし、日向送りが命じられます。日向送りというのは、薩摩の国境を越えたら殺せという意味を含んでいました。


そして、11 15 日、日向に向かうため、月照上人・西郷隆盛・平野国臣・大槻重助は、錦江湾を渡り始めました。

その船から、死を決意した月照と西郷隆盛は錦江湾に身を投じました。

同乗していた平野国臣らによって、月照上人と西郷隆盛は錦江湾から引き揚げられましたが、西郷隆盛だけが助かり、月照は息を吹き返すことはありませんでした。

一方、成就院の住職をしていた月照上人の弟信海上人も、幕府に捕らえられ、京都の六角獄舎に投獄されたのち、江戸の小伝馬町牢屋敷に送られ、そこで獄中死します。

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成就院の南にある北総門の北側(上写真)には、西郷隆盛の詩碑(右)、月照上人の歌碑(中央)、信海上人の歌碑が建てられています。(下写真ご参照)

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右側の西郷隆盛の詩碑には「相約して淵に投ず 後先なし あに図らんや 波上再生の縁頭を回(めぐ)らせば 十有余年は夢 空しく幽明を隔てて墓前に哭す」と刻まれています。

中央の月照上人の碑には、辞世「大君の為には何か惜しからん 薩摩の迫門(せと)に身は沈むとも」が刻まれています。

左側には信海上人の辞世「西の海あずまのそらとかわれども こころはおなじ君が代のため」が刻まれています。
 碑文の文字はあまりにも達筆で一部分読むのが難しいので、清水寺に問い合わせて全文を教えていただきました。



by wheatbaku | 2018-03-28 13:42 | 京都探訪
家定と本寿院(大河ドラマ『西郷どん』⑯) 

家定と本寿院(大河ドラマ『西郷どん』⑯) 

 『西郷どん』第12回「運の強き姫君」では、篤姫の輿入れがようやく本決まりとなりました。

病弱な家定に輿入れすることが必ずしも幸福なことではないことを知っても毅然とし態度をとる篤姫、しかし、やはり悲しく思っていることが大地震の西郷とのやりとりで表現され、しかも、それを見せたのは一瞬で、すぐに立ち直るという描き方、今回の篤姫の描き方は非常に素晴らしかったと思います。

 篤姫が輿入れする徳川家定は、12代将軍徳川家慶の第九子として生まれました。

徳川家慶は、27人の子沢山でしたが、30歳まで成長したのは、徳川家定だけでした。

 家定は、幼名は政之助、後に家祥(いえさち)と名のりました。しかし、歴代将軍のうち扁のつく名前の将軍は、家綱・家継ですが、この二人の将軍には世嗣ができませんでしたので、縁起をかついで家祥から扁のない「定」を使用した家定と改名しました。
 しかし、家定には世嗣が授かりませんでした。

 家定は、子供だけでなく御台所にも恵まれませんでした。

家定は正室として鷹司政煕の娘任子(ただこ)を迎えましたが、疱瘡にかかり25歳でなくなりました。

次いで嘉永2年(1849)に迎えた一条忠良の娘秀子も、翌年26歳で亡くなってしまいました。

このように続けて御台所がなくなっていることから、『西郷どん』で、本寿院や家定が「健康で長生きできる人を!」という言葉になっています。

家定の母、本寿院は、徳川家慶の側室で、家慶が存命中は、お美津の方と呼ばれていました。 
 本寿院は、家慶が亡くなり剃髪した後の院号です。

本寿院は、家定がなくなった後も、慶応4年の江戸城開城の際に一橋邸に移るまで、江戸城に住んでいました。
 

 さて、後半では、安政の江戸地震も大きな事件として取り上げられていました。

安政年間(18541860)には,大きな地震が連続して起こりました。

安政元年(1854)11月4日の東海地震,翌5日の南海地震,そして、『西郷どん』で描かれた安政2年(1855)10月2日の江戸地震です。

安政の大地震とも呼ばれる安政の江戸地震は、安政2年10月2日午後10時頃,江戸を中心として起こった激震です。

安政年間に各地に頻発した地震のなかで最大の被害が江戸でおきました。

震源は東京湾北部,地震の規模はマグニチュード6.9~7.1と推定されている直下型地震です。

江戸は、下町を中心に甚大な被害を受け、死者は1万人以上と推定されています。

最も被害の大きかったのが、新吉原でした。地震が起きた時間が夜10時ですので、吉原では営業の真っ最中でした。この時間帯に地震とそれに伴う火災が発生し、多くの遊女とお客が亡くなりました。

将軍徳川家定は地震の時、 江戸城の吹上に避難して無事でしたが、西郷隆盛が訪ねたことのある水戸藩の藤田東湖が,このときに圧死しています。

これは、『西郷どん』でも紹介されていました。

高輪の薩摩藩邸は、建物などに甚大な被害を受けたため、篤姫は、渋谷の下屋敷に引っ越ししました。

翌年、篤姫は、渋谷の下屋敷から江戸城に輿入れしますが、渋谷の下屋敷から輿入れしたのは、こうした事情があります。


by wheatbaku | 2018-03-27 18:41 | 大河ドラマ
西郷隆盛と目黒のお不動様(大河ドラマ『西郷どん』⑮)

 西郷隆盛と目黒のお不動様(大河ドラマ『西郷どん』⑮)

京都に行っていたため、前回の『西郷どん』「斉彬暗殺」は見落としたので、土曜日の再放送を見ました。

島津斉彬の五男虎寿丸が亡くなり、島津斉彬自身も生死の境をさまよい、怒った西郷隆盛が島津斉興にまで直訴するという展開でした。

島津斉彬は、六男五女の子供がいましたが、男の子は、全員幼くして亡くなっています。
 最も大きくなった男の子が虎寿丸で、5歳でした。

その虎寿丸が、安政元年(1854)閏7月24日に亡くなりました。 

 その後、島津斉彬も意識不明の重態になってしまいました。

『西郷どん』では、これがヒ素によるものとなっていました。

 『島津斉彬』(芳即正著)、『島津斉彬公伝』(池田俊彦著)で調べましたが、この重病について詳しくは書いてありませんでした。

 この時、西郷隆盛が島津斉彬の病気回復を願ったのが、目黒のお不動様です。

 『島津斉彬公伝』(池田俊彦著)に載っている西郷隆盛が鹿児島の親友福島三太夫にあてて書いた手紙には、「御煩(わずら)い重う候ては、誠に暗の世に罷り成り候と、只、身の置く処を知らず候。只今、致し方御座無く、目黒の不動へ参詣致し、命に替えて祈願をこらし、昼夜祈り入り事に御座候」(フリガナや点を適宜追加しています)と書いています。

 下写真は、現在の目黒のお不動様の本堂です。

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 目黒のお不動様は、正式名称を龍泉寺といいます。

目黒不動尊は、第3代の天台座主となった慈覚大師円仁によって開かれた関東最古の不動霊場です。

龍泉寺と名付けられた経緯は次のような言い伝えがあります。

大同3年、15歳の慈覚大師は、伝教大師最澄のもとへ行く途上、目黒の地に立寄ったところ、不思議な夢を見ました。

 面色青黒く右手に降魔の剣を提げ左手に縛の縄を持つ大変恐ろしい形相の神人が枕元に現れて『我この地に迹を垂れ魔を伏し国を鎮めんと思ふなり。来って我を渇仰せん者には諸々の願ひを成就させん。』と告げられました。

 夢から覚めた後、慈覚大師自らがその御姿を彫刻したのが、御本尊の目黒不動明王です。
 お寺建立を決意された慈覚大師が、法具の独鈷(とっこ)を投じると、そこに泉が湧き出ました。
 そこから、この瀧は「独鈷の瀧」と名づけられ、この霊泉に因んで、寺号は「瀧泉寺」と名付けられました。下写真が独鈷の瀧です。

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西郷隆盛は主君島津斉彬の病気平癒のために日参したと目黒のお不動様にも伝えられています。
 西郷隆盛は、断食行を行ったとも、水垢離修行を行ったとも言われています。

「独鈷の瀧」の流れは、数十日間の炎天旱魃が続いても涸れることはなく、不動行者の水垢離場として利用されていましたので、西郷隆盛が、瀧に打たれたとすれば、独鈷の瀧に違いありません。
 下写真をよくみていただくと独鈷の瀧は瀧筋が二つあり、龍頭があるところから流れおちているのがわかるだろうと思います。現在も水勢は強く、たくさんの水が流れおちています。

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なお、明治になって、薩摩藩出身の東郷平八郎連合艦隊司令長官も日本海海戦の勝利を目黒のお不動様にお願いしています。



by wheatbaku | 2018-03-26 16:54 | 大河ドラマ
旧三井家下鴨別邸〔今出川通沿いの神社仏閣史跡⑤〕 (30年京都冬の旅⑥)

旧三井家下鴨別邸〔今出川通沿いの神社仏閣史跡⑤〕 (30年京都冬の旅⑥)

 今日は、旧三井家下鴨別邸について紹介します。

 京都に行かれた方でも、旧三井家下鴨別邸を御存知の方は少ないと思います。

 それもそのはず、平成28年10月まで非公開で、平成28年10月1日から一般公開された御屋敷です。

 旧三井家下鴨別邸は、下鴨神社の南にあります。 

 同志社女子大学を訪ねた後、徒歩10分ほどで到着しました。

 旧三井家下鴨別邸は、大正14年に、三井北家(惣領家)第10代当主の三井八郎右衛門高棟(たかみね)によって整備されました。

  約5700平方メートルの敷地に木造3階建ての主屋(しゅおく)、主屋につながる平屋の玄関棟があります。さらに離れとして茶室が建っています。

下写真の右が主屋、左が玄関棟です。

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 門を入るとまず目にはいるのが玄関棟で、玄関棟で、ボランティアガイドの説明がありました。

主屋は、京都木屋町三条に明治13年に建てられた三井家の木屋町別邸を下鴨に移築したものです。

主屋は、3階建ての建物で、1階2階は座敷となっていて、3階部分は望楼となっています。下写真は、庭園からみた主屋です。

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望楼に登ると四方が見渡せるようになっていて、東山、比叡山や鴨川の眺望が楽しめるそうですが、一般には公開されていません。

しかし、1階や2階の座敷から眺める庭園が見事でした。下写真は、2階から眺めた庭園です。

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旧下鴨別邸は、先祖を祭る顕名霊社(あきなれいしゃ)での例祭の際などに休憩所とするために移築されました。

呉服を扱う三井家は養蚕の神を祭る京都太秦の木嶋(このしま)神社を信仰し、木嶋神社境内に先祖を祭る顕名霊社(あきなれいしゃ)を設けていました。

明治になって、廃仏毀釈運動の高まりの中で、明治7年に顕名霊社(あきなれいしゃ)は、京都の油小路にあった三井惣領家に遷座されました。

顕名霊社(あきなれいしゃ)は、その後、一旦、木嶋神社に戻った後、明治42年に三井高利の祖父・三井高安(たかやす)の三百年忌に合わせて社殿が建てられ、下鴨に移されました。

 戦後、三井財閥解体に伴って、顕名霊社(あきなれいしゃ)は、三井惣領家に戻された後、昭和33年に、三井惣領家の邸宅が処分され、京都の顕名霊社(あきなれいしゃ)は、東京の顕名霊社(あきなれいしゃ)に遷座しました。

 東京の顕名霊社(あきなれいしゃ)は、三井惣領家が東京に移ったのに伴い、明治7年に、東京に分霊を勧請して創建されたものです。

戦後の財閥解体後、下鴨別邸の地は、昭和24年に国有化され、社殿の跡地には京都家庭裁判所が建てられ、昭和26年、下鴨別邸は裁判所所長の官舎になりました。それ以降平成19年まで官舎として使われました。その後、平成23年に重要文化財に指定され、現在は、京都市が管理しています。

下写真は、1階の座敷です。 

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赤印が旧三井家下鴨別邸です。




 京都には、越後屋の本店がありました。

 その跡地が三井越後屋京本店記念庭園として残されています。

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 旧三井下鴨別邸とは距離がありますが、ホテルからあまり距離が離れていませんでしたので、そちらも訪ねてきました。

 越後屋の本店は、宝永元年(1704)に、室町通二条上ルに開店し、明治以降は三越京都支店として、昭和58年まで存続しました。

 京都支店の時代には950坪の広さがあったそうですが、京都支店閉店後は、大部分の敷地は売却され、現在はマンションとなっています。

 その敷地のうち68坪が記念庭園として残されました。

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 通常は公開されていませんので、門は閉鎖されています。

 塀越しに庭園を眺めてみると、庭園内に神社がありました。

 この神社は、越後屋京本店時代からお祀りされている三国稲荷大明神だそうです。
 青印が三井越後屋京本店記念庭園です。


 


by wheatbaku | 2018-03-25 15:32
相国寺・林光院〔今出川通沿いの神社仏閣史跡④〕(30年京都冬の旅⑤)
相国寺・林光院〔今出川通沿いの神社仏閣史跡④〕 (30年京都冬の旅⑤)


 同志社大学の北側に相国寺があります。

 同志社大学の正門東の道を北に向かうとすぐに相国寺の総門(下写真)に着きます。

相国寺は、臨済宗相国寺派の大本山で京都五山第二位に列せられる名刹です。正式名称は萬年山相国承天禅寺です。

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 室町幕府第3代将軍足利義満により夢窓疎石を開山として明徳3年(1392)に花の御所の隣に創建されました。

相国寺は「しょうこくじ」と読みます。

「相」は「そう」と読むほうがなじみがあるかもしれませんが、宰相、首相という熟語もあり、「しょう」と発音します。

「相国」とは中国では宰相を意味しますが、日本では、太政大臣・右大臣・左大臣を意味します。

 相国寺を創建した当時、足利義満は左大臣でしたので、創建したお寺が相国寺と名付けられたといいます。

また足利義満の時代は中国では明の時代でしたが、このとき、中国の開封に大相国寺という中国における五山制度の始まりのお寺があり、この大相国寺の寺号から「相国寺」と名付けられたそうです。

 山門を入ってしばらく歩くと左手に大きな建物が現れます。法堂(はっとう)です。(下写真)

相国寺の法堂は慶長10年(1605)に豊臣秀頼により再建された物で日本最古の法堂です。

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 相国寺の現在の境内は約4万坪もの面積があり12の塔頭寺院があります。有名な金閣寺、銀閣寺も相国寺の塔頭です。

 その多くの塔頭のうち、「第52回京の冬の旅」非公開文化財特別公開で、相国寺では、法堂・大方丈、さらに塔頭の豊光寺と林光院が公開されていました。そのうち、林光院だけを拝観してきました。

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林光院は、足利3代将軍義満の第二子で、4代将軍義持の弟義嗣が25歳で亡くなったため、その菩提を弔うため、夢窓国師を開山として創建されました。

寺号は、義嗣の法号「林光院殿亜相考山大居士」から名付けられています。

 当初は、二条西ノ京の紀貫之の屋敷跡に創建されましたが、その後、移転を繰り返した後、豊臣秀吉により相国寺山内に移されました。

 林光院は、薩摩藩と縁の深いお寺です。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いのとき、島津義弘が東軍の中央を突破し伊賀に逃れました。この時、大阪の豪商田辺屋今井道與(どうよ)が潜伏先から救出し、堺港より海路によって無事薩摩に帰国することができました。

この功により、今井道與(どうよ)は、薩摩藩秘伝の調薬方の伝授を許されました。これが現在の田辺製薬の始まりだそうです。

後に今井道與の孫乾崖梵竺が林光院の五世住職となり、義弘の像と位牌が林光院に安置されることになり、それ以降、薩摩藩との関係ができました。

こうしたことから、相国寺東門脇の林光院墓所には、禁門の変や鳥羽伏見の戦いで亡くなった薩摩藩士の墓があります。

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林光院の本堂は、現在の滋賀県蒲生郡日野町にあった仁正寺(にしょうじ)藩市橋家の藩邸(安政年間建立)を買い取り移築したものです。

庭園・屋内ともに写真禁止であったため、下写真は山門外から撮影した本堂玄関です。

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林光院は明治になると非常に荒廃し、明治7年(1874)ついに廃院となってしまったそうですが、大正8年の相国寺派管長・橋本獨山により再興され、その際に購入したものだそうです。

 この本堂の襖には、4年の歳月をかけて藤井湧泉が書きあげた襖絵が描かれています。

 下の絵は「虎図」で、「第52回京の冬の旅」のパンフレットの表紙を飾ったものですが、どうも猫に似ていて仕方がありません。

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 なお、庭園に「鶯宿梅」と名付けられた有名な梅の木があり、まさに満開でしたが、残念ながら、写真撮影禁止でしたので、撮影できませんでした。



by wheatbaku | 2018-03-24 13:37
同志社大学と薩摩藩邸〔今出川通沿いの神社仏閣史跡③〕(30年京都冬の旅④)

同志社大学と薩摩藩邸〔今出川通沿いの神社仏閣史跡③〕(30年京都冬の旅④)

今出川通も烏丸今出川の交差点を過ぎると、北側に同志社大学のキャンパスです。

 同志社大学は明治8年に、新島襄が同志社英学校として設立した大学です。

 この同志社大学は、江戸時代には、薩摩藩の藩邸でした。

 同志社大学の西門前に、薩摩藩の藩邸であったことを示す石標と説明板があります。

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 同志社大学が建てた二本松藩邸跡の説明板によれば、文久2年(18629月、薩摩藩が相国寺から土地を借りて藩邸を造営したもので、同志社大学の今出川キャンパスの約3分の2を占めていました。

敷地の広さ、5,805坪(約1万9千平方メートル)で、9棟の建物と多くの土蔵が立ちならんでいたようです。

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 この薩摩藩邸で、行われた重要事件が薩長同盟の合意です。

薩長同盟は、慶応2年正月21日に合意しましたが、その話し合いが、二本松の藩邸で行われたのでした。

 薩長同盟の合意がどこで行われたかについては、小松帯刀の屋敷で行われたという説もあるようですが、「京都の歴史」では二本松の藩邸で行われたと書いています。

 

 同志社大学の土地は、明治維新の混乱の中で薩摩藩邸跡地を購入した山本覚馬から寄贈された土地です。

 山本覚馬は元会津藩士で、幕末には会津藩の公用方として活躍しましたが、眼病を患い、鳥羽伏見の戦いでは、薩摩藩に捕えられ、薩摩藩邸に幽閉されました。

 その幽閉中に、「管見」を書き、小松帯刀や西郷隆盛に目に留まり、京都府顧問として登用されます。

 また、山本覚馬の妹八重は、兄を探して京都にやってきて、兄の生活を援けます。

そうしている中で、アメリカらから帰国した同志社大学の創始者新島襄と知り合い結婚することになります。

 一方、薩摩藩邸は、明治になって京都府に収公され、その藩邸が売却されることとなり、山本覚馬が購入しました。

 新島襄のキリスト教学校設立の考えに共鳴した山本覚馬が土地を新島襄に格安で譲ったのでした。

 そこに開学されたのが同志社英学校で、その後、大学に昇格し、現在の同志社大学となりました。

 同志社大学には、重要文化財に指定されている建物が数多くありますが、二本松藩邸跡の石柱のある西門を入ったところにあるのが「彰栄館」です。

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 西門を入って「彰栄館」を近くから見ると下写真のようです。

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 同志社大学の東側には同志社女子大学があります。
 この地は、江戸時代は五摂家の一つ二条家の邸宅でした。 

同志社女子大学の東門の前に、それを表す石碑が建てられています。

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 同志社女子大学の前身は明治9年に開塾した同志社女子塾で、明治11年に現在地に移転しました。

 同志社女子大学正門を入った正面にある建物が栄光館です。

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栄光館は昭和7年に竣工された建物で同志社女子大学のシンボル的な建物です。

通常は講堂として使用されていますが、この竣工まもない栄光館が最初に使用されたのは、山本八重の葬儀だったそうです。

現在では、入学式や卒業式に使用されています。訪ねた日は、同志社女子大学の卒業式が挙行されていて、大変華やかでした。

 赤印が同志社大学西門(薩摩藩邸跡の石柱)、
 青印が同志社女子大学東門(二条邸跡の石碑) です。



by wheatbaku | 2018-03-23 13:47 | 京都探訪
大聖寺〔今出川通沿いの神社仏閣史跡②〕(30年京都冬の旅③)

大聖寺〔今出川通沿いの神社仏閣史跡②〕(30年京都冬の旅③)

今出川通沿いの神社仏閣史跡の2回目は、大聖寺(だいしょうじ)です。

大聖寺といってもほとんどの人が知らないお寺だと思います。

 それもそのはず、非公開のお寺ですので、ガイドブックにも載っていません。

しかし、大変由緒あるお寺です。

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 大聖寺は烏丸今出川の交差点の北東方向にある 同志社大学寒梅館の南側にあります。

 下写真は、大聖寺の大玄関ですが、写真の後方に見える建物が同志社大学の寒梅館です。ちなみに寒梅館がある場所は、元は大聖寺の敷地でした。

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 大聖寺を訪問したのは、ここが花の御所つまり室町幕府があった場所にあるお寺だからです。

 大聖寺の山門を入ると右手に、その名残りを表す「花の御所」と刻まれた石碑があります。

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大聖寺は、まさにひっそりとたたずんでいるといった趣です。大聖寺は実は尼寺です。

 非公開のお寺にもかかわらず、御住職様は丁寧に大聖寺のご由緒について教えてくださいました。

 大聖寺は、南北朝時代の北朝初代天皇である光厳天皇の妃であった無相定円禅尼が亡くなった後、その住まいであった花の御所内の「岡松殿」を寺としたのが始まりとされています。

無相定円は俗名を日野宣子といい、足利義満の正室であった日野業子の叔母であり、光厳天皇の妃でした。

大聖寺という寺号は開基の大聖院無相定円の法名に因み、山号の岳松山(がくしょうざん)は岡松殿に由来しています。

室町時代から江戸時代末期の光格天皇の皇女まで歴代24世の内親王が住職をつとめ、明治以降は公家の子女が住職をつとめたそうです。

このように天皇家と縁の深い大聖寺ですので、山門を入ると左手(西側)に見える本堂は昭和18年に東京の青山御所(貞明皇后の御殿)から移築された建物です。下写真は山門から撮った本堂・大玄関です。

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 ちなみに、大聖寺は、門跡寺院であったため檀家いないそうです。

 そこで、会員制の寺院維持組織があり、その会の支援により、維持されているそうです。

大聖寺の庭園は非公開ですが、京都市の名勝に指定されていて素晴らしいようです。

 この庭園は元禄10年(1697)に明正天皇の河原の御殿から材料を移して作庭したものだそうです。

庫裏に庭園を写した写真が掲示されていましたので、写真を撮らせていただきました。

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 その写真を見ると、とても烏丸今出川に近くにあるお寺とは思えない雰囲気があります。

 本堂の北西方向に「宮御殿」と呼ばれている書院があり、その前には光格天皇から拝領した花菖蒲が植えられていて、花の季節は見事だそうです。

 やはり庫裏に写真が掲示されていましたので、撮らせていただきました。

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 大聖寺より南の今出川通りと室町通りの交差点北東隅に、「従是東北(これよりとうほうく) 足利将軍室町第址」と刻まれた石標が建てられていて、この一画に室町幕府があったことを示しています。

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赤印が大聖寺青印が室町幕府の跡の石標です。







by wheatbaku | 2018-03-22 12:32
白峯神宮〔今出川沿いの神社仏閣史跡①〕(30年京都冬の旅②)

白峯神宮〔今出川通り沿いの神社仏閣史跡①〕(30年京都冬の旅②)

今回の京都旅行2日は、今出川通り沿いに、神社仏閣や史跡を訪ねてきました。

主な訪問場所は、白峯神宮、大聖寺、同志社大学、相国寺、旧三井下鴨別邸です。

これらを順にご紹介していきますが、今日は、白峯神宮をご紹介します。

白峯神宮は、今出川堀川の交差点の北東にあり、今出川通りに面しています。

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白峯神宮は、慶応4年、明治天皇により創建された神社です。

もともと、この神社を創建しようと思われたのは、121代孝明天皇です。

孝明天皇は、保元の乱に敗れ失意のうちに亡くなった第75代崇徳天皇の御霊を慰め、さらに未曾有の国難にご加護を祈るため、崇徳天皇の御霊を、四国・坂出の「白峰山陵」から迎え、これを祀ろうとしましたが実現しないうちに亡くなりました。

 そこで、孝明天皇のその思いを継いだ明治天皇が、公卿「飛鳥井家」の邸宅地跡に創建したのが、白峯神宮です。

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 そして、明治6年には、崇徳天皇とともに第47代淳仁天皇も併せてお祀りするようになりました。

 従って、御祭神は、崇徳天皇と淳仁天皇です。

 下写真は拝殿です。

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 お祀りされている第75代崇徳天皇は、第74代鳥羽天皇の第1皇子で、鳥羽天皇から譲位されましたが、鳥羽上皇により近衛天皇へ譲位をしいられ,近衛天皇崩御後は、同母弟の後白河天皇が即位しました。

鳥羽上皇の死後、後白河天皇と争い、保元の乱が起きました。崇徳天皇は、保元の乱に敗れて讃岐に流され、失意のうちに讃岐でなくなりました。

崇徳天皇は、和歌が上手で、百人一首にも次の歌が載せられています。

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の

   われても末に 逢はむとぞ思ふ

 この歌は、落語「崇徳院」にもなっているほど有名な和歌です。

 そうしたことから、この歌の碑が、境内に建てられていました。

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 白峯神宮が創建された場所は、公卿飛鳥井家の邸宅跡です。

飛鳥井家は、和歌・蹴鞠の宗家でした。そこで、飛鳥井家が「まり」の守護神として代々邸内にお祀りしてきた「精大明神」も祀られています。

そのために、今では白峯神宮は、「まりの神様」とされ、野球・サッカーを始めとする球技の上達を願う人たちが大勢参拝するそうです。

拝殿には、多くのボールが奉納されていました。(下写真)

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また、春季例大祭や七夕祭りには蹴鞠の奉納が行なわれています。そのための球戯場も用意されています。(下写真)

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さらに、境内には蹴鞠の碑もありました。中央のボールを回転させると球運が授かります。

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赤字が白峯神宮です。








by wheatbaku | 2018-03-21 14:10 | 京都探訪
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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