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仁王門と鷹居の松〔目黒不動尊①〕(目黒史跡散歩⑫)

仁王門と鷹居の松〔目黒不動尊①〕(目黒史跡散歩⑫)

有名な目黒のお不動様の正式な名前は龍泉寺と言います。

目黒のお不動様は、寺伝では、大同3年(808)慈覚大師円仁が15歳の時に下野国から比叡山に赴く途中に、この地で不動明王の夢を見ました。そして夢にみた像を自ら刻み、それを安置したことに始まるといいます。

貞観4年(862)清和天皇から「泰叡」の勅額を賜わり、それから山号を「泰叡山」とつけられました。

ご本尊は、目黒不動明王と呼ばれています。

江戸には五色不動と呼ばれるお不動様があります。

五色不動とは、五色不動は、目黒不動、目白不動、目赤不動、目青不動、目黄不動の56個所のお不動様をいいます。

《仁王門》
 目黒のお不動様でまず目に入るのが仁王門です。

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 目黒のお不動様は昭和20年5月の空襲でほとんどの建物が焼失しまいました。

仁王門は昭和36年に再建されたものです。

仁王門の上には、「泰叡山」と書かれた額があります。

「名所図会」には、江戸時代の楼門に掲げられていた「泰叡山」の額は後水尾天皇の筆によるものと書かれています。

仁王門に安置されている仁王像は、目黒在住の彫刻家・後藤良(ごとうなおし)が制作を依頼され製作にとりかかりました。後藤良は皇居外苑の楠正成の銅像の馬などを制作した後藤貞行の息子ですが、能彫刻を確立したことで有名です。

後藤良(ごとうなおし)は、昭和32年、原型が完成したところで、突然に亡くなり完成を見ることができませんでした。その後の作業を3人の高弟が引き継ぎ、仁王像は昭和35年に完成しました。

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《鷹居の松(たかすえのまつ)》

仁王門を過ぎ、真っ直ぐ進むと、本堂に通じる男坂が現れます。その男坂の登り口の右手に松がありますが、その松は鷹居(たかすえ)の松と呼ばれています。

寛永元年(1624)、家光が目黒の地で鷹狩をした際に、鷹が行方不明になりました。

そこで寺の別当の実栄に命じて祈願したところ、鷹が帰ってきて、松のこずえに止まり、家光が声をかけると、鷹は手に移りました。

家光は大いに喜び、この松を「鷹居の松(たかすえのまつ)」と命名するとともにこの不動尊を深く尊信し、火災のために堂塔ことごとく烏有に帰した当寺再建のため堂塔を寄進し、寛永11年(1634)には諸堂末寺等53棟に及ぶ壮大な堂塔伽藍が完成したといいます。

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《役の行者像》

 男坂は急坂ですが、男坂の右手に登りの緩やかな女坂があります。

 その途中に役の行者像があります。

役の行者像は、高さ42.2センチメートル、坐高92.7センチメートルある銅製で、その表面は黒光りし鋳工の間でカラス銅と呼ばれる色をしています。

腹部、胸部、腕部に刻銘があり、それによると、寛政8年(1796)太田駿河守藤原正義による制作だそうです。

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by wheatbaku | 2018-04-30 14:04 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
「「D51会」の皆さんと浅草寺を散歩してきました!

「D51会」の皆さんと浅草寺を散歩してきました!

 昨日は、以前勤めていた会社の業界研修で一緒だった人たちでつくっている「D51会」の仲間と一緒に浅草寺を散歩してきました。

 昨日は、雲一つない快晴で暑いくらいの陽気で、ゴールデンウィーク初日の浅草寺は大勢の人でごったがえしていました。
集合時間より早めにいきましたら、本堂裏で「泣き相撲大会」(下写真)が開かれていて、こちらも大勢の見物客であふれていました。

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 雷門に集合して、浅草寺の主な見どころを案内しましたので、スナップを中心にアップします。

雷門は左右に風神雷神を安置していることから、正式には「風雷神門」と言います。昭和35年に松下電器産業(現パナソニック)創業者松下幸之助さんの寄進により、再建されたものです。

松下幸之助さんが寄進した大提灯の底には、金龍山という浅草寺の山号にちなみ、龍が彫られています。(下写真)

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宝蔵門は、元々は、仁王様を祀っていたことから仁王門と呼ばれていました。

仁王門は、昭和20年3月10日の空襲で焼失してしまいました。

そこで、昭和39年にホテルニューオータニの創業者である大谷米太郎(よねたろう)氏の寄進により建築されました。宝蔵門には、大谷米太郎さんの「レリーフがはめ込まれています。下写真は、宝蔵門をみる参加者の皆さん

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 現在、浅草寺では、「伝法院庭園特別拝観と大絵馬寺宝展」が57日まで開催されていて、伝法院庭園が公開されていますので、そこにご案内しました。

 下写真は、伝法院庭園内に保管されている「石棺」の説明板をみる参加者の皆さんです。

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 伝法院庭園の後、本堂にお参りしました。本堂の中の内陣まで入れますので、内陣で、お参りさえてもらいました。

 本堂は大勢の参拝客でごったがえしていました。(下写真)。しかし、外の喧騒とうってかわって内陣の中は静寂で、参拝客も私たちグループ以外はほどんどいない状況でゆっくりお参りさせてもらいました。 参加者全員が、内陣まで入るのは初めてということで大変喜んでくれました。

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 浅草寺の本堂は、昭和20年の東京大空襲により焼失しました。

 その時、御本尊の観音様は地中に埋められていましたので、焼失を免れました。

 その御本尊様を御守りした天水桶が、本堂の西側の淡島堂に保存されています。 下写真は、天水桶を見る参加者の皆さん。

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 浅草寺の観音様のお参りしてあと浅草神社にもお参りしました。
 浅草の観音様を掬い上げお祀りした土師中知、檜前浜成・武成の3
人をお祀りしています。そのため、江戸時代は「三社様」と呼ばれていました。下写真は浅草神社にもお参りする参加者の皆さん。

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浅草神社にお参りした後は、二天門のご案内をしました。

二天門は、浅草神社の東にあり、四天王のうちの持国天と増長天をお祀りしています。もとは、江戸時代初期に浅草寺にあった東照宮の随身(ずいじん、ずいしん)門として作られましたが、明治時代の神仏分離の際、両随身像は浅草神社に移られ、それにかわり倉の鶴岡八幡宮の経蔵にあった二天をお祀りして「二天門」と改称しました。

 下写真は、二天門の説明板を見る参加者の皆さん。

 

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 最後に本堂前で撮った集合写真をアップしておきます。

昨日の浅草寺散歩にご参加されたD51の皆さん、お疲れ様でした。

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by wheatbaku | 2018-04-29 10:22
獏王像・三匝堂(さんそうどう)〔五百羅漢寺②〕(目黒史跡散歩⑪)

獏王像・三匝堂(さんそうどう)〔五百羅漢寺②〕(目黒史跡散歩⑪)

今日は、五百羅漢寺の2回目です。

五百羅漢寺には、見ごたえのあるものがありますので、それらを紹介します。

ただし、建物内の写真撮影が禁止されているので、文章だけになることをお許しください。

羅漢堂の中に《獏王(白沢)像》があります。この獏王は重要文化財に指定されています。

獏は人間の悪い夢を食い、善い夢を与えてくれる動物であると古くから言い伝えられています。

昔わが国では、いい夢を見るために大晦日の夜、枕の下に宝船の絵を敷いて眠る風習がありましたが、その宝船の帆に獏の字や絵を書いたものです。

また江戸時代の百科事典には「白沢(はくたく)は獏なり」とあって、獏は中国の想像上の神獣である白沢と同じものと考えられていました。

松雲元慶もそのことを念頭において獏王像を彫ったと思われ、人面牛身虎尾で額と腹の両側に各三個ずつ、計九個の眼があります。

もとは本尊のうしろに護法神として安置されていましたが、今はこの屋上の守り神として祀られています。

本堂(下写真)の南側にある法堂の脇にも見ごたえのあるものがあります。

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 そのうち、《造立寄進者名簿》は、本尊や五百羅漢像などを造るために寄進をした人たちの名前が記載されたものです。

その名簿には、五代将軍徳川綱吉の母桂昌院、浅野内匠頭長矩、浅野大学長広、日本橋越後屋などの名前も見られます。名簿も重要文化財に指定されています。

また、五百羅漢寺にあった三匝堂(さんそうどう)通称「さざえ堂」の額も展示されています。

五百羅漢寺の境内にあった三匝堂(さんそうどう)は、寛保元年(1741)に建立されました。

「匝」とは一周廻ると言う意味で、三匝堂とは、3回廻る堂の意味で、内部が三層の螺旋状をしており、同じ通路を通らずに上り下りができる構造でした。

その形状がサザエのようであることから「さざえ堂」と呼ばれました。

さざえ堂は、秩父、坂東、西国の三大観音霊場百ヶ所の観音様を請来し一堂に集めてあり、参詣者は右回りに堂内を一巡すれば百観音の霊場巡りができました。

さざえ堂は、明治初年に壊されてしまい、現存していません。



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by wheatbaku | 2018-04-27 18:53 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
五百羅漢寺の羅漢像〔五百羅漢寺①〕(目黒史跡散歩⑩)

五百羅漢寺の羅漢像〔五百羅漢寺①〕(目黒史跡散歩⑩)

海福寺のすぐそばに、五百羅漢寺があります。

 五百羅漢寺は、海福寺と同じように、江戸時代は、本所にありましたが、明治になってから目黒に移転してきたお寺です。

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五百羅漢寺の創建は、元禄8(1695)で、五百羅漢像を制作した松雲元慶(しょううんげんけい)により創建され、松雲が開基、師の鉄眼が開山とされています。

五百羅漢寺は、本所五ツ目(現在の江東区大島)に創建 されましたが、江戸時代後期の弘化年間の暴風雨や安政の大地震で荒廃し、明治20年に本所緑町に移転した後、明治41年、目黒の現在地に移ってきました。

移転後も、大正6年の暴風雨や大正12年の関東大震災によって、昭和初期、大円寺は大変零落しました。

そうした時期に、もと新橋の芸者で「お鯉さん」と呼ばれていた安藤妙照尼が昭和13年に出家し大円寺に入り、それから4代にわたり尼僧が大円寺をまもってきました。

大変近代的なお寺ですが、これらのお堂は昭和56年に完成したものです。

五百羅漢寺で有名なのは五百羅漢像です。

羅漢像は当初は500余体あり、現在でも305体が残されています。

そのうち146体の羅漢像が羅漢堂に安置されていて、残りは本堂(下写真)に安置されています。

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羅漢堂や本堂内部は撮影禁止ですので、羅漢像をアップできないのが残念です。

下写真は、拝観する際にいただいたパンフレットです。こちらでご想像ください。

こうした像が、羅漢堂を本堂にずらっ~と並んでいて壮観です。

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五百羅漢像を造ったのは、松雲元慶(しょううんげんけい)というお坊さんです。

松雲元慶は、黄檗宗の鉄眼道光(てつげんどうこう)に師事し、豊前国耶馬渓の羅漢寺の羅漢像に感激して五百羅漢を造ることを発願して、江戸で5代将軍綱吉の母桂昌院らの寄進をえて完成させました。

下写真は、お寺入口にある五百羅漢の一つ「不退法尊者」の銅像です。

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羅漢さんは お釈迦さまのお弟子さんで実在した人々です。

お釈迦さまの説法を実際に聴き教えのとおりに修行に励んで煩悩を払い聖者になった人たちです。

修行を積んで煩悩を払い真実の智慧を完成した聖者をインドで「アラハン」と讃えました。仏教が中国に伝わり「アラハン」の発音をそのまま生かして「阿羅漢」と表現し、使い慣れるうちに「阿」がとれて「羅漢」と呼ばれるようになったそうです。

ちなみに「江戸名所図会」の行人坂の説明の中に、大円寺の五百羅漢の解説がありますが、その中では、「五百阿羅漢」と書いてあります。

お釈迦さまが亡くなられたときに集まった500人のお弟子さんたちが「五百羅漢」のモデルであるといわれています。


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by wheatbaku | 2018-04-26 11:15 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
永代橋崩落事故〔海福寺③〕(目黒史跡散歩⑨)

永代橋崩落事故〔海福寺③〕(目黒史跡散歩⑨)

 昨日、海福寺にある永代橋崩落事故の犠牲者の供養塔についてご案内しました。

 そこで、今日は、永代橋崩落事故とはどのような事故だったのかについて説明しようと思います。下写真は現在の永代橋です。

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永代橋は、元禄11年(1698)に隅田川に架かる4番目の橋として架橋されました。 

橋の長さは110間(約200メートル)で、橋の下を船が航行するため、桁下は大潮のときでも3メートル以上確保されていたという巨大な橋でした。

しかし、架橋してから時が経つに従い橋の損傷が激しくなりました。

幕府は、財政的に厳しく修理もままならないため、町人請負にして、補修工事をしていましたが、町人請負としてもなかなか十分な補修はできませんでした。

そうした中で、文化4年(1807)に、永代橋崩落事故が起こります。

文化48月、江戸三大祭のひとつ、深川富岡八幡宮の祭礼が久しぶりに開催されることになりました。(下写真は、富岡八幡宮)

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東京都教育委員会設置の説明版板では12年ぶり、滝沢馬琴編集の「兎園小説余禄」によれば30余年ぶり、太田南畝の「夢の憂橋」によれば34年ぶりと、年数は違っていますが、長いこと開催されていなかった富岡八幡宮の祭礼がしばらくぶりに開催されることとなり、江戸っ子の関心を集めていました。

*ウィキペディアには、永代橋崩落事故について触れたのが「兎園小説」と書かれていますが、正しくは「兎園小説余禄」ですので、ご注意ください。

富岡八幡宮の祭礼は、通常は815日に開催されますが、雨のため順延され819日開催となりました。

819日当日は、朝早くから大勢の見物客が深川に向かいました。

その時、将軍関係者が永代橋の下を御座船で通行することから、永代橋は午前10時ごろから一時通行止めとなりました。

東京都教育委員会設置の説明板では、「将軍世子」とされているので11代将軍家斉の子供徳川家慶ということなります。一方、兎園小説では、一橋家と書かれていますので、徳川家斉の実父一橋治斉(はるさだ)ということになると思われます。

こうした違いはありますが、いずれにしても永代橋は通行止めとされていました。その通行止めが解除されるとともに、それまで、通行止めのため、橋のたもとでごったがえしていて大群衆が一気に永代橋を渡り始めました。その結果、大勢の重みに耐えかねて永代橋が崩れ落ちてしまいました。

大群衆の後方の人々は、橋が崩れ落ちたことを知らず、どんどん前に進んでくるため、最前列の人たちは、後ろから押されて、将棋倒しのように次々と隅田川に落ちていくという悲惨な情景が呈され、悲劇が拡大しました。

この時、危機を察した武士が欄干につかまりつつ刀を振り回し、人々が後ずさりしたため落下は止まったと「兎園小説」や「夢の憂橋」に書かれています。

こうした緊急対応がありましたが、「夢の憂橋」と説明板によれば440名の人が亡くなりました。

さらに行方不明者を含めれば被害者は1000人を超えたといわれています。なお、兎園小説では、「水没の老若男女数千人」と書かれていますが、これは被害者が多すぎるように思われます。

この大事故は、歌舞伎や落語の題材ともなり、歌舞伎『八幡祭小望月賑(はちまん まつりよみやの にぎわい)』、落語「永代橋」などの作品が残されています。

『八幡祭小望月賑』は、永代橋崩落事件と文政元年(1818)に起きた本郷の呉服屋が深川芸者を刺殺した事件を脚色した河竹黙阿弥の作品です。

また、You Tubeには、三遊亭円生と林家正蔵の落語「永代橋」がアップされています。

昭和の名人と呼ばれる二人の「永代橋」を聴いてみるもの良いと思います。


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by wheatbaku | 2018-04-25 10:42
永代橋崩落事故の供養塔〔海福寺②〕(目黒史跡散歩⑧)

永代橋崩落事故の供養塔〔海福寺②〕(目黒史跡散歩)

 海福寺の山門に至る左手に、永代橋崩落事故でなくなった人たちの供養碑があります。

 永代橋はいうまでもありませんが、隅田川に架かる橋です。

 この橋が、文化4年に崩落するという事故がおきて、大勢の人がなくなりました。

 この事故の供養碑が、隅田川から遠く離れた目黒にあるのは、海福寺が明治になってから移転してきたからです。

 永代橋崩落事故の供養碑は、東京都の文化財に指定されていて、東京都教育員会の説明板では、「文化4年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑」と長い名前が付けられています。(下写真)

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山門左手前の「文化4年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑」は、文化4年(1807)の深川富岡八幡宮大祭の時に起こった永代橋崩落事件の死者供養のために建てられたものです。

文化48月の深川富岡八幡宮の大祭は12年ぶりに開催されたため大変な賑わいとなりました。

その時、一刻、永代橋が通行止めとなり、さらに混雑の度合いが高くなりました。そして、通行止めの解除と同時に一挙に大勢の人々が永代橋を渡りました。

その際、群衆の重みに耐えかねた永代橋が崩落し多数の溺死者を出すという大惨事が発生しました。溺死者440名とも言われ江戸はじまって以来の大惨事でした。

その時、永代橋近くにあった海福寺には身元不明の無縁仏が埋葬されました。

そして、百日忌、五十回忌、七十七回忌、九十一回忌の追善供養が行われました。

そのうち百日忌に供養塔が建立され、五十回忌に「永代橋沈溺横死諸亡霊塚」が海福寺境内に建立されました。

供養塔2基あるのうち左が永代橋崩落事故の犠牲者の供養塔です。右手のもの海福寺の歴代御住職の供養塔だそうです。

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左の供養塔の向って右手の台座をみると「無阿弥陀仏」の文字の横に「百ヶ日」と刻まれています。(下写真)

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供養塔の前にある「永代橋沈溺横死諸亡霊塚」と刻まれているのが五十回忌に建立された塚です。(下写真)

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この塚の台座にも「五十回忌供養」と刻まれています。(下写真)

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by wheatbaku | 2018-04-24 07:28 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
海福寺の四脚門〔海福寺①〕(目黒史跡散歩⑦)

海福寺の四脚門〔海福寺①〕(目黒史跡散歩)

 

蟠龍寺から目黒のお不動様に向かって歩いていくと右手に海福寺があります。

 今日は、その海福寺のご案内です。

海福寺は、東京ではあまり数多くない黄檗宗の寺です。道路脇にある左の門柱に明記されています。

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黄檗宗は、江戸時代初めに、中国の隠元禅師が伝えた禅宗の一派で、黄檗宗として最も有名なお寺は総本山の宇治万福寺でしょう。

海福寺は、永寿山海福寺は、元々は深川寺町通りにある真言宗の寺でした。

承応3年(1654)に明の福建省より隠元禅師が来朝した時、海福寺の住職独本は長崎に赴き弟子となりました。

隠元禅師は万治元年(1658)に4代将軍徳川家綱に招かれ江戸に下りました。

その際、独本は海福寺を真言宗から黄檗宗に改宗し、隠元禅師に開山となるようお願いし、自分は二世住職に就きました。

山城国宇治に総本山の万福寺が創建されたのは、寛文元年(1661)です。

海福寺は、万福寺より3年早く創建されましたので、日本で最初の黄檗宗のお寺ということになります。

海福寺は水害を避け明治43年に現在地へ移転しました。

山門の赤い四脚門(しきゃくもん)は目黒区の指定文化財で、宇和島藩伊達家から寄進されたものです。(下写真)

明治後期に新宿区上落合の泰雲寺(現在は廃寺)から移築されました。

 四脚門は中央にある親柱2本とその前後に2本ずつある4本の控柱からきた名称で日本建築の代表的な門の形式です。

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 山門には、宇和島藩伊達家の宇和島笹と呼ばれている家紋がついているとのことですが、表や裏を探しましたが見つかりませんでした。

実は妻側に鮮やかな宇和島笹がありました。下は拡大です。

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海福寺の本尊はお釈迦様ですが、本堂(下写真)に安置されている木造阿弥陀如来立像は目黒区の文化財に指定されています。

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境内の梵鐘(下写真)は、天和2年(1682)に海福寺が全焼した際に梵鐘も焼けたため、天和3年(1683)鋳造されたものです。

隠元が鐘の新鋳を祝う銘文が刻まれているそうです。

この梵鐘は東京都の指定文化財となっています。


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赤印が海福寺です。
青印が蟠龍寺、ピンク印が目黒不動尊です。





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by wheatbaku | 2018-04-23 11:31 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
岩屋弁天とおしろい地蔵〔蟠龍寺〕(目黒史跡散歩⑥) 

岩屋弁天とおしろい地蔵〔蟠龍寺〕(目黒史跡⑥) 

 太鼓橋を渡る道を真っ直ぐに西に進むと山手通りに当たります。

 そこには横断歩道はありませんが、左手に歩道橋がありますので、その歩道橋を越えると、蟠龍寺が見えてきます。

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目黒行人坂付近に慶安元年(1648)に開創された称明院というお寺がありました。

蟠龍寺は、そのお寺を、増上寺の霊雲上人が宝永6年(1709)現在地に移し、称明院蟠龍寺と改名し再建したお寺です。

霊雲上人は、「江戸名所図会」によれば、吟蓮社竜誉一雨霊雲和尚と号し、上野国新田の大光院を隠退した後に蟠龍寺を開いたと書いてあります。

蟠龍寺の山号は霊雲山といいますが、この山号は霊雲上人の名前に由来するのではないかと思います。

 参道に「不許辛肉酒入山門」と刻まれた石柱があります。(下写真)

「辛肉酒(しんにくしゅ)、山門に入るを許さず」と読みますが、寛政6年(1794)律院(戒律を厳守する寺院)となった名残りです。

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 参道を少し進むと本堂があり(下写真)、 本堂には本尊として「木像阿弥陀如来像」があります。都の文化財に指定されています。

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蟠龍寺は、山手七福神の一つ岩屋弁財天がお祀りされています。

名前の通り、本堂の北側の脇の岩窟内(下写真)に弁天様がお祀りされています。

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「江戸名所図会」にも、「蟠龍寺、窟(いわや)弁天祠」として絵が描かれている江戸時代から有名な弁天さまです。

岩窟内にお祀りされている弁天様は八臂(8本の手をもつ)の石造の弁天様です。(下写真)

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岩屋からすぐそばに弁天堂(下写真)があり、そこには木造弁財天(八臂の天女像)が安置されています。

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弁天堂の下には、美人になれる御利益があるという「おしろい地蔵」がお祀りされています。(下写真)

 説明板によれば、もともとは浅草にあり、関東大震災で被災したため、蟠龍寺に移ってきたお地蔵様です。

 言い伝えによれば、顔に痘痕(あばた)がある娘さんが人並みの結婚ができず悩んでいましたが、このお地蔵様にお願いしたら痘痕が消え、幸せな障害を送ることができたそうです。

 また、江戸時代の歌舞伎役者がおしろいに含まれる鉛の害に悩み、お地蔵様のお顔におしろいをつけて願をかけたと言われているそうです。

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赤印が蟠龍寺です。 青印が太鼓橋です。





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by wheatbaku | 2018-04-21 18:19 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
お七の井戸と太鼓橋(目黒史跡散歩⑤)

「お七の井戸」と太鼓橋(目黒史跡散歩⑤)

 行人坂を下っていくと、八百屋お七の恋人西運に関係する史跡として「お七の井戸」と『太鼓橋』があります。 今日は、その二つを紹介します。

《お七の井戸》

 目黒雅叙園のエントランスに向かう歩道脇に「お七の井戸」があります。

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雅叙園のエントランスから庭園にかけて明治18年頃まで、明王院というお寺がありましました。

幕末の切絵図をみると、明王院は大円寺より大きなお寺として描かれています。

 明王院は、八百屋お七の恋人吉三が出家した後の西運がいたお寺です。

 西運は、目黒不動と浅草観音に、隔夜一万回の日参念仏行を行ったと言われています。

 雅叙園の駐車場入り口にある井戸は、西運が念仏行に出かける際に水垢離とったといわれている井戸です。

《夕日の岡》

 下写真は、お七の井戸を遠くから撮った写真ですが、お七の井戸の後ろ側にある斜面一帯は、江戸時代は、夕日の岡と呼ばれ、紅葉の名所でした。

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 江戸の紅葉の名所としては、品川の海晏寺が有名でしたが、海晏寺と並ぶ名所だったようです。

 しかしながら、「江戸名所図会」には、「いまは楓樹少なく、ただ名のみ存せり」と書かれていますので、江戸時代後期の天保の頃には、紅葉はほとんど見られなくなったようです。

《太鼓橋》
 太鼓橋は、目黒川にかかる橋で、現在の橋は平成3年に完成したものです。

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江戸時代の橋は、太鼓の胴の形をしていたため「太鼓橋」と呼ばれました。(下段の広重の浮世をご参照ください。)

江戸で最初に架橋された唐式の石拱橋(せっこうきょう:石造のアーチ橋)で、建設された当時としては珍しく目黒の名物でした。 

太鼓橋を造った人物は、八百屋お七の恋人西運である説があります。

それによれば、西運は、目黒不動と浅草観音に毎日参詣し、往復の途中、江戸の市民から寄進を集めて太鼓橋を造ったといわれています。

また、諸国を回遊する木喰上人が架けたとも、八丁堀の町人が資金を出し合い完成させたという説もあります。

『江戸名所図会』には、「柱を用ひず、両岸より石を畳み出して橋とす。故に横面よりこれを望めば、太鼓の胴に髣髴たり。故に世俗、しか号く。享保の末、木食上人これを制するとなり」と木食上人が造ったと書いてあります。

太鼓橋を描いた浮世絵として有名なものが、歌川広重の名所江戸百景のうちの「目黒太鼓橋夕日の岡」(下写真)です。橋の欄干にもそのレリーフがはめ込まれています。

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「目黒太鼓橋夕日の岡」で描かれた風景は、すっかり変わっていますが、一つだけ変わらないものがあります。それが、目黒雅叙園側の橋のたもとにある椎の木です。

 下写真は、椎の木を近くで写した写真です。

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広重が描いた太鼓橋は、大正9年の豪雨で流されてしまい、昭和7年になって先代の鉄橋が架けられ、そして、平成3年に現在のものになりました。

今は、桜の季節には、花見客でごったがえす桜の名所となりました。下写真は今年(平成30年)3月14日の太鼓橋です。桜が満開でした。

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by wheatbaku | 2018-04-20 11:06 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
八百屋お七の恋人吉三〔大円寺③〕(目黒史跡散歩④)

八百屋お七の恋人吉三〔大円寺③〕(目黒史跡散歩④)


大円寺は、八百屋お七の恋人吉三ゆかりの寺でもあります。

八百屋お七は、愛しい恋人に会うために火をつけ、その罪により処刑されたヒロインとして大変有名ですが、お七が避難したお寺や恋人の名前については、書物によって様々です。

そのなかで、井原西鶴が書いた「好色五人女」では、吉祥寺に避難しそこの寺小姓の吉三が恋人とされています。

その恋人吉三と大円寺は縁があるお寺であると寺伝で伝えられています。

そのため、西運ゆかりの建物として本堂西側の阿弥陀堂(下写真)があり、阿弥陀堂には、西運上人像やお七地蔵がお祀りされています。

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《八百屋お七の恋人西運》

 八百屋お七の恋人吉三は、お七が処刑された後、出家して西運を名乗りました。

下写真は阿弥陀堂内にお祀りされている西運上人像です。

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そして、出家後、お七の菩提を弔うため、念仏を唱えながら諸国を巡りました。

その後、江戸に戻った西運は、大円寺の下(今の雅叙園の一部)にあった明王院に身を寄せたといいます。

そして、西運は明王院境内に念仏堂を建立するための勧進とお七の菩提を弔うために目黒不動尊と浅草観音に隔夜1万日日参の悲願を立て、往復10里の道を、雨の日も風の日も首から下げた鉦をたたき、念仏を唱えながら日参しました。こうして27年5ヶ月後に満願となりました。

 この修行の中で、寄進が集まり、集まった浄財で、行人坂を石畳に修繕し、目黒川に架かる橋を石の橋に造り替え、明王院境内に念仏堂を建立しました。

しかし、明王院は明治初めごろ廃寺となってしまい大円寺に統合されました。

明王院にあった仏像などは大円寺に移され、西運の木像やお七地蔵などが現在の阿弥陀堂にお祀りされています。

阿弥陀堂は、西運に深い関心を持っていた大円寺住職によって、昭和18年、再建されました。

阿弥陀堂の御本尊は阿弥陀三尊像(下写真)です。

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大円寺の阿弥陀如来像は、半跏像です。半跏というのは右足を曲げ左足を下に垂れた姿です。そして、印相は中品下生です。

半跏の阿弥陀如来像や中品下生の阿弥陀如来像は大変珍しいそうです。

阿弥陀如来像の前に、お七地蔵(下写真)がお祀りされています。満願の日に、西運の夢に出てきたお七の姿を刻んだものだそうです。

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阿弥陀堂前には、西運の姿を刻んだ碑が建てられています。(下写真)

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その碑には大円寺の福田実衍(じつえん)師が、昭和18年、阿弥陀堂を再建した際に描いてもらった「お七吉三縁起絵巻」の一部、木枯らしが吹きすさぶなかを、念仏鉦を力一杯たたき、念仏を唱えながら、日参する西運の姿が刻まれています。また、上部に書かれている賛は「吉三発心 只たのむ かねの音きけよ 秋の暮」と書かれているそうです。



 さらに、境内には、元禄16年に西運が建てた「行人坂敷石造道供養碑」(下写真)があります。

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 それには、行人坂を利用する念仏行者たちが、目黒不動尊と浅草観音に参詣し、人々から喜捨を受け、行人坂に敷石の道を造るため、この成功と往来の安全を供養祈願したことが書かれているようです。

【4月20日追記】

 大円寺の本堂手前の五百羅漢像側に、西運が造ったとされる太鼓橋の石材がベンチとして残されています。

 写真の左手のベンチ風に設置されている石が、太鼓橋として使用されていたものです。

 写真右手には、そのことを説明した石柱が写っています。

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by wheatbaku | 2018-04-19 13:01 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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