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永井尚志などの墓〔本行寺②〕(日暮里・谷中史跡巡り⑬)

永井尚志などの墓〔本行寺②〕(日暮里・谷中史跡巡り⑬)

 本行寺の墓所は本堂の裏側にあります。その墓所には、永井尚志、市河寛斎・米庵親子の墓、加納藩永井家などの有名人のお墓があります。今日は、これら有名人のお墓を紹介していきます。

《永井尚志(なおゆき)の墓》

 永井尚志のお墓は、本堂の裏側の最奥にあります。

 永井尚志は、三河奥殿藩主松平乗尹(のりただ)の子として生まれましたが、旗本永井尚徳の養子となり、永井家を継ぎました。

老中阿部正弘に抜擢され、長崎海軍伝習所総督、初代外国奉行、初代軍艦奉行を歴任しました。

しかし、将軍継嗣問題で一橋慶喜擁立を画したため、安政6年(1859)井伊大老により軍艦奉行を罷免されました。

3年後の文久2年(1862)、京都東町奉行として復活し、大目付を経て若年寄にまでなりました。徳川慶喜が大政奉還する際に、その奏上文を草案したことでも有名です。

戊辰戦争の際には、箱館戦争に参加し、榎本武揚政権で箱館奉行を勤めていましたが、敗北したため謹慎した後、明治新政府に出仕し、開拓使御用掛・元老院権大書記官などを務めました。明治247月、76歳で没しました。

 永井尚志の孫娘夏子の孫が有名な三島由紀夫ですので、永井尚志は三島由紀夫の高祖父となります。

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《市河寛斎のお墓》

 市河家の墓地は、本堂裏側の墓域の中ほどの東側にあります。墓所には、市河寛斎と市河米庵についての東京都教育員会の説明板があります。下写真はは市河寛斎についての説明板です。

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 市河寛斎は、江戸後期の儒学者であり、漢詩人でもあります。上野に生まれ、江戸に遊学し昌平黌に入り、5年間学員長を務めましたが、寛政異学の禁を批判し、昌平黌を追われました。その後、富山藩校の教授となりました。掛川藩世子の侍講を兼ねる。富山藩に仕えること20年余、63歳で辞任した。漢詩人としても有名で、柏木如亭、菊池五山を教えました。

墓碑の正面には「文安先生市河子静墓銘」と刻まれています。

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《市河米庵のお墓》

 市河米庵は、市河寛斎の子供です。幼い頃から父の薫育を受け、林述斎や柴野栗山から朱子学を学び、とくに書は、長崎で、清の胡兆新(こちょうしん)から直接に教えを受け、加賀藩に招かれ、書名はますます高くなりました。

晩年には大名、町人、僧侶など5000人もの門下を擁したといわれ、巻菱湖(まきりょうこ)、貫名海屋(ぬきなかいおく)とともに、「幕末の三筆」とうたわれました。父市河寛斎の墓碑を書いたのは市河米庵です。 

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上野にある上野風月堂は、ゴーフルで有名な老舗ですが、この上野風月堂の暖簾に書かれた「風月堂」の文字を書いたのが市河米庵です。なお、暖簾の風月堂の風という文字はカゼカンムリに百という文字となっています。


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《永井尚服(なおこと)のお墓》

 本堂のすぐ裏側を右手に曲がり東側奥に向かうと美濃国加納藩永井家の墓所があり、とりわけ大きなお墓が加納藩の最後の藩主永井尚服(なおこと)のお墓です。

加納藩は、現在の岐阜県南部を中心とした地域を納めていた藩です。

岐阜と云えばすぐに岐阜城を思い出します。しかし、関ヶ原の戦いの後、岐阜城はこわされ、岐阜城の城下町は尾張藩が治めていました。

壊された岐阜城の建物は移築され加納城が築かれました。

 加納藩の初代藩主は、徳川家康の娘婿の奥平信昌です。徳川家康が美濃国を重要視していたことがわかります。

 加納藩主は、奥平家、大久保家、戸田家、安藤家と有力譜代大名が勤め、宝暦6年(1756)永井直陳(なおのぶ)が岩槻藩から移封され、以後、永井家が治め、明治を迎えました。

永井尚服(なおこと)は、福島藩主板倉勝俊の子として生まれ、永井尚典の養子となり永井家6代藩主となりました。寺社奉行兼奏者番に就任した後、慶応3年には若年寄兼会計奉行をつとめました。
 なお、永井尚志が養子に入った旗本永井玄蕃頭家は、加納藩主の永井家と同族です。

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by wheatbaku | 2018-05-31 18:49 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
本行寺①(日暮里・谷中史跡巡り⑫)

道潅丘碑〔本行寺①〕(日暮里・谷中史跡巡り⑫)

 本行寺は、日暮里駅北口からすぐです。

 御殿坂に面して大きな山門(下写真)がありますので、すぐにわかると思います。

 そのためか、谷中銀座に行こうとする観光客とくに外国人の観光客が境内を拝観しているのをよくみかけました。

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本行寺は日蓮宗のお寺です。

大永6年(1526)太田道灌の孫の太田資高が、父太田資康の菩提を弔うため平河口(現在の大手町近辺)に建立したと伝えられています。

その後、神田、谷中と移り、宝永6年(1709)現在地に移転しました。

この地には太田道灌が築いたという物見塚があることから縁のある土地であったということが言えますが、それが移転の理由かどうかは不明です。下写真が本堂です。

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《道灌丘碑》

太田道灌が長禄元年(1457)に江戸城を築いた際、ながめのよいこの地に「物見塚」と呼ばれる斥候台(見張り台)を造ったといいます。

寛延3年(1750)に本行寺の住職日忠や道灌の後裔と称する掛川藩主太田氏などが道灌の業績を記した碑を塚の脇に建てました。

しかし、明治になって物見塚は鉄道敷設でなくなり、道灌丘碑だけが残りました。

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《小林一茶句碑》

21世住職の日桓(にっかん)上人は俳号を「一瓢」という俳人で、多くの俳人たちと交遊があり、小林一茶もしばしば本行寺を訪ねたそうです。

本堂手前に一茶の「陽炎や 道灌どのの 物見塚」という句碑があります。

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《月見寺》

景勝地で観月の地として有名だったので通称「月見寺」ともよばれていました。

 一茶の句碑の向かい側に種田山頭火の「ほっと月がある東京に来てゐる」の句碑があるのも、江戸時代に「月見寺」と呼ばれるお寺ならではの句碑です。

ちなみに種田山頭火の句碑は東京では本行寺にしかない貴重なものだそうです。

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 赤印が本行寺です。



【参考】

道灌丘碑には何が書いてあるのかいろいろ調べましたら、ちくま学芸文庫『新訂 江戸名所図会〈5〉』に《道灌丘碑文》の詳細が載っていましたので、参考に記しておきます。原文は漢文ですので、原文を読み下し、注釈等をつけたものだと思います。




《道灌丘碑文》

里を日暮といひ、寺を本行といふ。東都郭北にあり。寺に丘あり、道灌といふ。丘なんぞ道灌と名づくる。太田氏の号なるか。里人太田氏を思ふ。里人なんぞ太田氏を思ふ。その恵みを忘るるなければなり。寺の西北に山あり、また道灌といふ。けだし山はすなはち太田氏保鄣(ほしょう)〔とりで〕の遺にして、丘はすなはちその斥候台の址なり。ゆゑに丘なくただ址のみこれあり。里人の太田氏を思ふより刱(はじ)まるなり。

丘ありてより、いまに二百有余年。相伝ふ、むかし太田氏すでに亡ぶ。里人その墟を過ぐるに、ことごとく禾黍(かしょ)となる。塁壊れ台圮(やぶ)るるを閔(あわれみ)み、彷徨して去るに忍びず、しかしてその址に丘す。ゆゑに丘と山とみなその号を用ひて名づく。寺もと谷中の里にあり。太田氏の群屏摂(へいせつ)〔多くの寺社〕あるところにして、道灌の曾孫いまの懸河侯〔遠江国掛川藩主〕、世々相承してもってその祀を守る。寺と群屏摂とこの里に遷(うつ)るは、宝永〔170411〕中よりなり。遷ってすなはちこの丘を得る。けだし幾(こいねが)はざるに得る、奇といはざるべけんや。

これを譜牒に稽(かんが)ふるに、太田氏、名は持資、官は左衛門大夫、道灌はその号なり。源光禄頼政十世の孫。父道真、名は資清。永享四年壬子(1432)をもって、道灌を相州扇谷に生む。少(わか)くして恢廓(かいふく)〔度量のあること〕、大志あり。博く経史に渉(わた)り、兵法を善くし、画策に明らかなり。このとき天下戦争、諸国瓜裂(かれつ)し、おのおのその党に拠り、迭(たが)ひに唇歯(しんし)となる。

道真・道灌の二世、管領上杉氏に属す。府中道灌を推す、贍智(たんち)豪邁にして文武の材ありと。もっぱら兵機の要を委す。長禄二年戊寅〔1458〕、武州江戸に城(きず)いてこれを鎮む。その封疆(ほうきょう)を正し、その走集を険にし、鄰国と戦ふごとに、利は寡をもって衆に勝つにあり。両毛二総〔上野・下野・上総・下総〕の諸城、風を聞きて震慴(しんしょう)し〔ふるえ恐れる〕、降者絶えず、大半上杉氏の有となるは、みなその力なり。すでにして州界寧粛(ねいしゅく)〔安らかで静か〕、百姓悦服(えつぷく)〔満足して服従する〕、道灌ますます徳を脩め、信もって初附を懐く。敵国の諸将みな、「彼はもっぱら徳をなし我はもっぱら暴をなす。これ戦はずしておのづから服すなり」といふに至る。

寛正〔146066〕中道灌、京に入る。王人、道灌詠ずるところの国風〔和歌〕を采って、天子に奏御す。すなはち御製歌一章を賜ひ、もってこれを褒揚(ほうよう)す。いまに迄(およ)ぶまで世の伝称するところなり。その大英武にして又(正しくは文)者知るべきなり。寛延三年庚午〔1750〕寺主僧日忠、懸河大夫古屋孝長・四宮成煥と石を丘上に樹てんと図る。余をして厥事(けつじ)を属せしむ。石子曰く、「昔灌公の徳武州人に及ぶ。あに荊人(けいひと)の羊叔子(ようしゅくし)を思ふごときか。

しからずんば、何ぞこの里の人またその恵みを忘るるなくしてその址に丘し、もってこれを後世に胎すに至らん」と。われこれを聞く、「羊叔子死して子なし。襄陽(じょうよう)の百姓、その平生游憩(ゆうけい)のところに廟を建て碑を立て、歳時享祀(きょうし)す。その碑を望む者、涙を堕さざるなし」と。

ただ灌公はこれに異なり、国初のときその五世の孫資宗はじめて茅土(ぼうど)の封〔諸侯を封ずること〕を稟(う)く。食邑(しょくゆう)五万石、これを道顕公となす。顕公よりまたいまに四世、瓜瓞緜々(かてつめんめん)〔子  心孫繁栄のたとえ〕、奕葉昌阜(えきようしょうふ)〔代々栄えること〕、それこれ盛なりとす。方今懸河君大夫、歳時をもって朝東し、すなはち春秋斉粛、群屏摂に事(つか)ふるあり。つひにこの丘に登ってこれを望む。

必ずそのときに当たって褊裨(へんぴ)隊を分かち、戎馬を整勒(せいろく)し、セイ旗繽紛〔旗の多く盛んなさま〕、白羽月のごとく、赤羽日のごとく、壁司徒・鋭司徒おのおのその守りを慎み、猛士発揚、踊躍兵を用ふ。すなはちみな頸を延(ひ)いて企腫(きしょう)し、もって斥候の燧を挙ぐるを待っを観る者あらん。ここにおいてか君大夫、慨然として爾祖(じそ)を念ふことなからんや。つひにその徳を脩め、まさにその四竟を慎み、その守備を完うし、有司を訓ふるに義をもってし、小民に施すに恵をもってす。しかして令名を光昭し、もって子孫に示す。またかく監(み)ることなからんや。しかして後に、里人のその址に丘するを知る。寺主のその丘に碑する、みな由あるか。



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by wheatbaku | 2018-05-30 10:37 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
経王寺(日暮里・谷中史跡巡り⑪)

経王寺(日暮里・谷中史跡巡り⑪)

 経王寺は、日暮里駅北口から徒歩3分のところにあります。

経王寺は日蓮宗のお寺です。

明暦元年(1655)、新堀村名主の冠権四郎家の祖勝平が創建したと言われています。下写真が本堂です。

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《経王寺の山門》

経王寺で、まず目に付くのが立派な山門です。

 山門は天保7年(1836)に建立されたもので、脇に門番所がある堂々として門です。下写真の左手に写っているのが門番所です。

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 慶応4年(1868)、江戸城が無血開城された後、上野寛永寺は彰義隊の拠点となりました。5月15日、新政府軍は彰義隊を攻撃したった1日で敗走させました。

 これが上野戦争と呼ばれる戦いです。

上野戦争の際、敗走した隊士の一部が経王寺に隠れたため、経王寺は新政府軍の包囲を受けることとなりました。

山門にはその時新政府軍が発砲した銃弾の痕が今も鮮明に残っています。

下写真は向かって右手扉に残っている弾痕です。

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左手扉にも弾痕が残っています。(下写真)

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《大黒堂》

境内に入ると本堂手前に大黒堂があります。

ここにお祀りされている大黒天像は日蓮上人作と伝えられています。

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赤印が経王寺です。




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by wheatbaku | 2018-05-29 11:28 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
啓運寺(日暮里・谷中史跡巡り⑩)

啓運寺(日暮里・谷中史跡巡り⑩)

 啓運寺は、養福寺の50mほど西側にあります。駅は西日暮里駅より日暮里駅のほうが近いです。

啓運寺は、元々、上野にありましたが、幕末の上野戦争で焼失し、明治18年に現在地に移転しました。

 下写真は、諏訪の台通りから撮った啓運寺の写真です。

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《法華宗(本門流)とは》

啓運寺は、法華宗(本門流)の寺院です。

法華宗というと日蓮宗だと思う人が多いと思いますが、法華宗と日蓮宗はともに日蓮上人を宗祖としていますが、別の宗派です。

日蓮宗は身延山久遠寺が本山ですが、法華宗はいろいろな流派に分れていて、本門流は、京都の本能寺をはじめ四つの寺院を大本山とする流派です。本門流のお寺は、東京では珍しいように思います。

《木造毘沙門天像》

 門を入ると左手に毘沙門堂があります。(下写真)

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そこに荒川区の有形文化財に指定されている木造の毘沙門天像が安置されています。

 毘沙門天は多聞天ともいい、四方を守護する四天王の一つですが、独立した仏様としても信仰されています。

啓運寺の毘沙門天は、運慶作と伝えられているそうですが、台座の裏には「寛政九年八月吉辰、仏師伊東光雲」の墨書銘があることから、江戸時代後期の寛政9年(1797)作とされています。 

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《延宝八年の庚申塔》

荒川区教育委員会設置の説明板には、境内に延宝8年(1680)銘の庚申塔があり、この庚申塔には、「三守庚申三尸伏、妙法、七守庚申三尸滅」の銘文が刻まれていると説明されています。

その庚申塔を探しました。本堂正面にあるものが、そのようです。

銘文の部分は、大部分が損壊していて、ほとんど読めませんが、その脇に延宝八年と読めましたので、これが説明板に書かれている庚申塔だと思います。(下写真)

この庚申塔は、荒川区内では唯一の日蓮宗系の庚申塔だそうです。

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赤印が啓運寺です。




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by wheatbaku | 2018-05-28 10:44 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
『火事だっ!いざ出陣! 火事と闘った江戸の火消たち』の紹介

『火事だっ!いざ出陣! 火事と闘った江戸の火消たち』
 の紹介

 今日は私が講師をする講座の紹介をさせていただきます。

7月に2回、文京学院大学さんで、下記タイトルで、「江戸の火消」についてお話させていただきます。

まだ、お席に余裕があるようですので、ぜひご参加ください。

火事だっ!いざ出陣!

火事と闘った江戸の火消たち

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 「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるほど江戸は火事が多い町でした。その中で江戸最大の大火と呼ばれるのが明暦の大火です。

その大火を教訓に防火対策が進化しましたが、防火対策の重要な一画を占めたのが火消の充実です。

火消には、大きくわけて、大名火消、定火消、そして町火消とありましたが、講座では、こうした火消たちの活躍ぶりについてお話ししようと思っています。

大勢の方のご参加をお待ちしています。
 上写真は消防博物館に展示されている火消道具です。


【講座内容】

講座名    火事だっ!いざ出陣! 

  火事と闘った江戸の火消たち

主な講座内容

●振袖火事は江戸最大の火事― 江戸の大火

●幕府直轄の武家消防隊 ―大名火消・定火消

●大岡越前が組織した“江戸の華”― 町火消

●盛り場両国は防火対策の賜物(?)― 幕府の防火対策

開催日  7月7日(土)、21日(土) 

時 間  14:00~15:30

詳細とお申し込みは こちら ⇒ ぶらり探訪江戸文化



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by wheatbaku | 2018-05-26 12:29 | 江戸講座
木下栄三さんの水彩画展

木下栄三さんの水彩画展

昨日は、木下栄三さんの水彩画展に行ってきましたが、すばらしい展示会でした。

展示期間が5月26日(土)までですので、お時間がありましたら、ぜひお出かけください。展示会場は東京メトロ東銀座駅から数分、歌舞伎座の東にある銀座煉瓦画廊です。(最下段の地図をご参照ください)

水彩画展のタイトルは「-江戸城今昔― 江戸城新三十六御門 重ね絵図 展」となっています。

 江戸城にある三十六個の御門の絵、そして御門を中心とした重ね絵図が展示されていて、木下栄三さんに解説していただきながら作品を見させてもらいました。

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 木下栄三さんによると、これまで朝日新聞に連載していた「江戸城今昔」が昨年終了し、その後、三十六御門の重ね絵図(江戸時代と現代の地図を重ねあわせた地図)を書きはじめ、それも出版したので、それを集大成して展示してみてもらうことになったそうです。

 そのため、会場には、三十六御門の絵がズラリと展示してありました。

 下写真は、ご案内に使用されていた江戸城北桔橋門です。この原画も展示されていました。

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 会場での木下栄三さんの説明は三十六御門の絵を描いた想いを込めた非常に熱のこもった説明でした。(下写真)木下さんいわく、東京に江戸城の門があったことさえしらない人が多いので、まずは江戸城の門があったことを知ってもらうため描いたそうです。

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 会場には、江戸城に登城する様子を再現した絵も展示されていて、その中に江戸城内の中之御門を描いた横長の大きな水彩画が展示されていました。これは、私がもっとも気に入った絵でした。
 絵の中の右手の中之御門の石垣と左手の百人番所以外は現存していませんが、木下栄三さんが様々な資料をもとに再現して描いたものです。
 木下栄三さんのこだわりのすごさは、石垣は、現存の石垣をそっくりそのまま描き写していることです。その絵の前でも木下栄三さんが説明してくださいました。

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 江戸城の三十六御門の絵のほかに、重ね絵図も展示してありました。三十六御門を核とした様々な情報を書き込んだもので素晴らしいもので、江戸歩きの際に大変便利です。(下写真)これは販売されています。

なお、会場内はすべて撮影禁止ですが、木下栄三さんから特別に許可を得て撮影させていただきました。

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赤印が銀座煉瓦画廊です。


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by wheatbaku | 2018-05-25 07:42
養福寺(日暮里・谷中史跡巡り⑨)

養福寺(日暮里・谷中史跡巡り⑨)

浄光寺を南に少し歩くと養福寺があります。

養福寺は真言宗豊山派のお寺で創建の時期ははっきりませんが、中興は、湯島円満寺の木食義高上人と伝えられています。

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門の左手に石柱が立っています。よく見ると「西國貮拾七番播磨國書寫寺寫」と刻まれています。旧字が多いので新字で書くと「西国二十七番播磨国書写寺写」となります。(下写真)

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右手には「安永九年九月」という所まで確認できますが、それ以下には「願主南伝馬町壱丁目亀屋藤七同藤吉」と刻まれているようです。

これは西国三十三箇所観音参りを江戸に写したもので、『東都歳事記』には、「上野より王子駒込辺西国の写し三十三所観音参」の中で「廿七番日暮里養福寺播州書写山写如意りん」と書いてあります。平凡社の『東都歳事記』では第3巻の130ページに書いてあります。

《仁王門》

 境内に入ると赤い仁王門が目に入ります。

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この仁王門は、宝永年間(17041711)の建立と伝え、表側に安置されている仁王像の胎内から、宝永4年(1707)の銘札が発見されており、山門もほぼ同年代に建築されたものと推定されています。

門の裏側には広目天と多聞天の二天王像が安置されていますが、散歩した時には、東京国立博物館で展示公開のため、山門にはありませんでした。

《談林派歴代の句碑》

 山門の奥にある「談林派歴代の句碑」がありますが、なかなか見つかりにくい所にありますので、よく探してください。

「談林派歴代の句碑」は、西山宗因(そういん)を祖とする談林派歴代の句碑で、梅翁花樽(ばいおうかそん)碑・雪の碑・月の碑が並んでいます。

中央が梅翁花樽碑、右側の碑が月の碑で、左が雪の碑です。左手前には「発起玉池谷疎外」と刻まれた菱形の標石があります。

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このうち中央に建っている梅翁花樽碑は、寛政4年(1792)に2代井原西鶴の百年忌を記念して、谷素外(たにそがい)が供養のため建碑したものです。

石碑の正面には「江戸をもって鑑とす也花に樽」の句が刻まれていて、左右には談林派の2代から6代に至るまでの句が、裏面には初代から6代までの没年が刻まれています。2世松寿軒西鶴と刻まれているのが、有名な井原西鶴のことです。

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《柏木如亭の碑》

談林派歴代の句碑の奥に「柏木如亭の碑」があります。

柏木如亭は、市河寛斎、大窪詩仏、菊池五山とともに江戸の四大詩人と称されています。

この碑は、文政3年(1820)に江戸を始め各地の友人が柏木如亭をしのんで建てたものです。「柏山人碑」の篆額は陰陽頭安倍晴親の字で、文字は大窪詩仏の書です。

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赤印が養福寺です。






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by wheatbaku | 2018-05-23 20:12
浄光寺(日暮里谷中史跡めぐり⑧)

浄光寺(日暮里谷中史跡めぐり⑧)


 諏方神社の次に江戸時代は、諏方神社の別当寺であった浄光寺をご案内します

浄光寺は、諏方神社の南側脇にあり、真言宗豊山派の寺院です。

浄光寺には、江戸六地蔵の一つのお地蔵様が鎮座しています。

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江戸六地蔵というと品川寺や東禅寺の大きなお地蔵様が有名です。これは深川の地蔵坊正元という人が建立したものですが、それ以前に 元禄4年(1691)に空無上人が開眼した六地蔵がありました。

こちらの六地蔵は、一番駒込瑞泰寺、二番目千駄木専念寺、三番目が浄光寺、四番目心行寺、五番目上野大仏堂、六番目浅草寺内正智院に安置されました。

浄光寺の地蔵菩薩は、その三番目にあたります。門前にそれを記した石柱があります。現在は、六地蔵の中で残っているのは、ここと専念寺(文京区千駄木)だけとなっています。

 浄光寺の山門前には六地蔵三番目と刻まれた石柱が立っています。

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山門をくぐるとお地蔵様が二体鎮座していますが、向かって右手の立っているお地蔵様が、六地蔵の三番目のお地蔵様です。

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高さ1丈(約3メートル)の銅造地蔵菩薩立像です。

元禄4年(1691)、空無上人により建てられたお地蔵様です。

以前は、門のかたわらの地蔵堂に安置されていて、門前は「地蔵前」とも呼ばれていたそうですが、昭和4・5年頃に山門内に移されました。

お地蔵様の向かって左に水盤がありますが、この水盤には六地蔵三番目と刻まれています。

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立像の隣にある坐像の銅造地蔵菩薩は、文化6年(1809)に鋳造されたもので、台座の正面向かって右手隅に「文化十癸酉歳 五月吉日」と刻まれています。

立像・座像ともに荒川区の有形文化財です。

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地蔵菩薩像の手前の山門側に8基の庚申塔群がありますが、このうち、下写真の右下の塔を除いた7基が荒川区の有形民俗文化財に登録されています。

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元文2年(1737)には8代将軍吉宗が鷹狩の途中で浄光寺に御成りとなり、以後幕末まで、浄光寺は、鷹狩の際に将軍の御膳所となりました。境内には、将軍が来訪した時に腰掛けたとされる「将軍の腰掛けの石」が残されているとのことですが、一般には公開されていません。

また、浄光寺は、諏訪台の高台に位置し、展望が開け眺望がすばらしく、特に雪見に適することから、江戸時代は雪見寺とも呼ばれました。

赤印が浄光寺です。青印が諏方神社です。





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by wheatbaku | 2018-05-22 18:39 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
日ぐらしの里〔諏方神社②〕(日暮里谷中史跡めぐり⑦)

日ぐらしの里〔諏方神社②〕(日暮里谷中史跡めぐり⑦)

今日は諏方神社の2回目です。

 諏方神社は、現在は日暮里・谷中の総鎮守です。

 日暮里は、江戸時代は、新堀村(にいほり またはにいぼり)と表記していました。

昨日紹介した西側の鳥居の額に「新堀谷中総鎮守」と書いてあります。

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また、拝殿脇の庚申塔の一部に「新堀村」と書かれています。

下写真は、拝殿の東側にある庚申塔の一部です。

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《ひぐらしの里》

日暮里は、上野の山から飛鳥山まで西北にのびた上野台地の谷中と道濯山との間にあります。

この台地の東側は崖となっていて、東方の景色が素晴らしく、見渡す限りの田圃、その中を流れる荒川や江戸川、そして遠くには筑波山や日光の山々を望むことができた景勝地でした。

さらにこの辺りは桜の名所でもあり、さらに近辺の寺院は競って庭に林泉を構え、木を植えたので、四季草木の花が咲いていました。

そうした景色を楽しむために、江戸から大勢の人々がやって来ました。

そして、飲み食いし、日の暮れるのも忘れて四季おりおりの景色を楽しみました。そこから、ここは、日ぐらしの里と呼ばれ、さらに「新堀」に「日暮里」の文字をあてたと言われています。

十返舎一九は、日暮里の素晴らしさを次のように詠んでいます。

 桃さくら 鯛より酒の さかなには みどころ多き 日くらしの里  

《歌川広重が描く「日暮里諏訪の台」》

 こうした景色を描いたのが、歌川広重の名所江戸百景の「日暮里諏訪の台」です。

この絵は、諏方神社境内に咲いた満開の桜の下で、人々が花見をしながら、眼下の景色をも見て楽しんでいる様子が描かれています。

崖下に見えている屋根は日暮里村の屋根です。遠景に描かれている山は筑波山です。

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《地蔵坂》

その屋根が見える脇から人が上がっている坂が「地蔵坂」です。

 地蔵坂は、諏方神社の境内にある坂です。

地蔵坂は、JR西日暮里駅に向かって下る坂で、JRの線路を潜って西日暮里駅の東口に出られます。

地蔵坂という名前は、諏方神社の別当寺であった浄光寺に、江戸六地蔵の三番目として有名な地蔵尊が安置されていることにちなむといわれています。

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by wheatbaku | 2018-05-21 13:57 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
諏方神社①(日暮里・谷中史跡めぐり⑥)

諏方神社①(日暮里・谷中史跡めぐり⑥)

諏方神社は、西日暮里駅のすぐ西側、駅のホームから望める場所にあります。

駅の改札からは、徒歩5程度の距離にあります。

下写真は、諏方神社の境内の様子ですが、緑が多くてかなり広い境内です。

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諏方神社の創立は、諏方神社でいただいた資料や荒川区史からは、鎌倉時代の初めの元久2年(1205)豊島経康が信濃国の諏訪大神を鎮座したのが始まりであるとされています。

御祭神は、「建御名方命(たけみなかたのみこと)」です。この神様は古事記の神話に登場する神様で、大国主命の子で、国譲りのため高天原から遣わされた武甕槌神(たけみかづちのかみ―茨城県鹿島神宮,奈良県春日大社の祭神)との勝負に負け、諏訪に引きこもり、国譲りを承諾した神様です。

その後、諏方神社の資料によれば、文安年間(14441499)太田道灌が神領を寄進し、のち江戸時代徳川家光が5石の朱印を与え、寬永12年(1635)社殿を現在の地に遷座しました。

昭和203月の戦災で社殿を焼失しましたが、昭和27年復興しました。

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《諏方神社の表記》

諏方神社の表記は、「諏訪」とせず、「諏方」を使っています。

拝殿に掲げられている額も「諏方神社」となっています。この額は、横山大観の筆で、平櫛田中が刻んだものだそうです。

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「諏方」を使っているのは古来の表記であり、かつて、諏訪神社名には、この表記をもかなり使われていたそうです。

天保5年(1834)に諏訪高島藩では「諏訪」と書く旨の指示が出され、諏訪が通常表記となり、御社名に残っていた「諏方」も使われなくなり、現在は全国の諏訪神社の大部分は「諏訪」と表記し「諏方」と書くのは数社とのことです。

日暮里の諏方神社は、所有する元禄時代に細井広沢が書いた軸に、「諏方大明神」と記されていることから、「諏方神社」の社名を続けているとのことです。

《諏方神社の石鳥居》

 西日暮里駅から諏方神社に参拝する時に、最初にくぐる鳥居が下写真の石鳥居です。

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諏方神社の鳥居は石造で、柱の左裏には「天明二年十二月吉祥日、氏子中」、右裏には「別当浄光寺第六世法印珍静建立。願主杉本昌英」と刻まれており、天明2年(1782)に建立されたことがわかります。

 江戸時代は神社を管理する別当寺というお寺がすぐそばにありました。浄光寺は諏方神社の別当寺でした。現在も諏方神社の南の隣りにあります。

 この鳥居は、昭和59年に南の浄光寺側から境内西側の道路沿いに移されました。

 諏方神社の大祭には、台車に載せた神輿が巡行しますが、台車を新造により、神輿が江戸時代の石鳥居をくぐることができなくなったため、移転したという事情もあるようです。
 下写真が、昭和59年に建てられた鳥居で、神社の南側にあります。

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 赤印が諏方神社です。青印が西日暮里公園です。










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by wheatbaku | 2018-05-20 18:03 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
  

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