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『江戸検1級合格虎の巻』講座の追加開講のご案内

『江戸検1級合格虎の巻』講座の追加開講のご案内


8月5日の『江戸検1級合格虎の巻』講座が近づいたきたため、最後の準備に追われている日々です。

 8月5日の講座が早期に満員になったため、8月19日に追加して開講する ことにしました。
 しかし、こちらの8月19日の講座は、まだ、空席があるとのことです。
 今回の講座は、今まで数年にわたって開講していた私の江戸検1級合格のための対策講座の集大成となる講座です。
 こうした江戸検対策講座は、今年限りで終わりにする予定です。
 今年、1級合格をめざす方、ぜひともお申込みください。


   これを聞けば合格に必ず近づく! 

    『江戸検1級合格虎の巻』 

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 下記の江戸楽アカデミーのホームページに追加講座の内容および申込方法がが書かれていますのでご覧ください。
  江戸楽アカデミー講座ご案内

 

【追加講座内容】

1、開催日時 8月19日(日)13:3015:30

2、講座名  

 これを聞けば合格に必ず近づく! 

 『江戸検1級合格虎の巻』

3、講座説明 

 江戸検勉強グループ「獏塾」を主宰し40人の江戸検1級合格者を輩出した講師が、そのノウハウをすべて公開。過去の経験・実績を集大成した「江戸検1級合格虎の巻」をもとに「こうすれば合格できる」という勉強方法や心構えなど合格のためのポイントを伝授します。合格を目指すなら是非聴いておきたい講座です。










by wheatbaku | 2018-07-30 15:10 | 江戸講座
高島秋帆の幽囚中の暮らしぶり〔高島秋帆②)

高島秋帆の幽囚中の暮らしぶり〔高島秋帆②)

 岡部陣屋に幽囚されていた高島秋帆の日頃の様子がどうであったか気になるところです。

 それについて書いた本がありました。『評伝 高島秋帆』(石山滋夫著)です。

 

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 その中に、高島秋帆が長崎の知人に出した手紙の中に、岡部陣屋での生活の様子を書いた部分が書いてありました。

 石山滋夫氏が現代語訳してくれていますので、それに従って書いてみます。

 岡部がどんな場所か書いてあります。

此地は辺鄙(へんぴ)にて十八丁(約2キロ)深谷と申す処まで参りませんと諸用も弁ぜぬくらいの処でございます。

  陣屋門前にようやく八百屋肴屋荒物屋酒屋を兼ねた店が一、二軒。鳶を一匹も見ないのは食べものがないからでございます。

 陣屋と預けられている場所は、竹垣や板塀で取り囲まれていて、蟄居の部屋は二寸角または一寸三分角の格子で囲まれていました。

その様子は次のように書いてあります。

此の陣屋四方に松杉茂り、その内に竹垣をめぐらしヽ又板塀を廻し、家の内に囲いを作り、二寸角のものを次の間に、或いは縁先は一寸三分位のものにて荒格子でございます。

何の悪事をいたしたればとて六年も苦しんだ末、又々このようであるのかと合点もゆき申さず、余程の悪事をいたさねば久々の苦しみいたす訳もないのに、さてさてわがらぬことでございます。

 見張りをしている藩士の内々の配慮で、庭に菊を植えて気を紛らわすこともできたようです。

番士の情けにて折々庭に出、菊を植えさせおき、それなどをいじって楽しむ儀もございます。これもごくごく内々の事にて、門戸を締め切りまして手狭の庭に出すくらいでございます。

 この秋帆が菊をもらったという番士の話は事実だそうです。

 手紙に書かれている番士は柿沢嘉兵衛という足軽だったようでうす。

 彼はかなりな教養があったらしく、秋帆を尊敬してねんごろにいたわり、扱いも鄭重であったといわれます。

 こうした番士の配慮で、着流しながら秋帆も起居動作はほとんど自由にまかされていたそうですし、藩の内外から揮毫を乞われると秋帆も喜んで筆をとったようです。

 また、長崎生まれの高島秋帆は、岡部が内陸で海が遠いことを嘆いていた様子も手紙に書かれています。

魚にても沢山これなく、川とてはこれなく候間、……溝様なる田の際にある堀に小鰕の類これあり川海老と唱え、秋頃は折々にそれをすくい壱合とったの二合取ったの申すくらい、山にも川にも海にも遠き場所に候。さてま哀れなる処に候

やはり、長崎、そして海が恋しかったようです。

  


by wheatbaku | 2018-07-29 14:01
高島秋帆幽囚の地〔高島秋帆①)

 高島秋帆幽囚の地〔高島秋帆①)

高島秋帆のお墓は、白山の大円寺にあります。(下写真)

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 大円寺は、江戸十大大火の一つ「お七火事」とも言われる天和の大火の火元として有名ですが、そこに高島秋帆のお墓参りをしました。その際に、高島秋帆の事績を調べました。そして、武蔵国岡部藩に預りとなっていたということを知りました。

 岡部藩は、現在の埼玉県深谷市岡部にあった藩です。

 私の自宅からはあまり遠くないので、高島秋帆が幽閉されていた岡部陣屋跡を訪ねてきました。

 岡部陣屋は、JR高崎線岡部駅から約1.5キロの場所にあります。

 高島秋帆が幽閉されていた場所には、高島秋帆幽囚の地と刻まれた石碑(下の写真)があります。

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 高島秋帆は、長崎町年寄でしたが、天保11年(1840)、洋式砲術を採用すべきだとする意見書を江戸幕府に提出し、翌年天保12年幕命により江戸に出て、徳丸ケ原(東京都板橋区)で日本最初の洋式砲術演習を行いました。

これにより幕府の高島流砲術採用が決まり幕臣江川太郎左衛門、下曾根金三郎の高島流砲術を伝えて長崎に帰りました。

しかし、幕府町奉行鳥居耀蔵の陰謀により、長崎奉行伊沢正義によって、天保13年(1842)に長崎で逮捕され、翌天保14年に江戸に送られ小伝馬町牢屋敷に投獄されました。

そして、逮捕後4年近く経った弘化3年(1846)にようやく判決が下りました。

判決は、次の通りです。

地役人どものうちにて重だち相勤め候身分、別して不届きにつき、遠島申付くべきところ、牢屋敷近辺出火の節、放ち遣し候ところ、立ち帰り候につき、中追放申しつける。但し此もの手放しがたきにつき、安部虎之助へ永預け仰せつけらる。

つまり、本来は遠島であるところ、小伝馬町牢屋敷が延焼した際に実行され解き放しで一旦解放されても、逃亡せずに牢屋敷に戻ってきたため、中追放に減刑する。しかし、中追放といっても、囲い地外で自由に行動させれわけにいかないので、岡部藩に永久に預けることとする ということです。

中追放に減刑されていながら、岡部藩への永久謹慎というのも酷な判決だと思いますが、この判決により、高島秋帆は、岡部藩に幽閉されることになりました。

高島秋帆の減刑の一つの理由となっている解き放しの際の立ち帰りですが、天保15年6月、弘化2年3月、弘化3年1月の3回あり、その都度、立ち帰ったようです。

赤印が「高島秋帆幽囚の地」の碑です。




by wheatbaku | 2018-07-27 20:16
只野真葛の書く万治(仙台)高尾 〔高尾太夫⑩〕(江戸のヒロインたち)

只野真葛の書く万治(仙台)高尾
〔高尾太夫⑩〕(江戸のヒロインたち)

今日も万治(仙台)高尾について書いていきます。

仙台藩医の工藤平助の娘只野真葛が万治(仙台)高尾についても書いていたようです。

そこで、今日は、只野真葛が考えている万治(仙台)高尾について書いていきます。

工藤平助は『赤蝦夷風説考』を書いたことで有名ですが、只野真葛は、工藤平助の長女として生まれ、仙台藩士只野行義の後妻となり、経世論「独考(ひとりかんがへ)」、随筆『むかしばなし』などの著作があります。

その只野真葛が高尾太夫について書いた内容は、曲亭馬琴が編集した「兎園小説」に記録されています。

 只野真葛が書いた高尾太夫は、兎園小説の第9章に「遊女高尾」というタイトルで書かれています。この文章は屋代弘賢が書いたものです。

 その内容は次のようなものです。

曲亭馬琴が「みちのくぞうし」という本を所蔵しているが、これは仙台藩の医師工藤平助の娘で只野氏に嫁ぎ仙台に住んでいる女性が書いたものである。

 その中に高尾について書いたものがある。

昔の国主(伊達網宗のこと)がお金を積んで高尾を身請けしたが、三又で切り殺したというのは、浄瑠璃に面白いことを付け加えたりして、本当の事のように創り上げたものである。

 高尾太夫は、実際は藩邸で召し使われて、のちに老女となった後、一家を立てた。

 その家は、杉原重太夫と新太夫と代々交互になのっていて、現在目付役を継勤めている杉原重太夫はその子孫である。

 杉原家は只野家の親戚なので詳細を私は知っている

 高尾太夫は、実は藩主に従って奥州に下り、享保元年に78歳で天寿を全うした。

 お墓は、仙台の仏眼寺というお寺にあり、お墓の法名は浄林院妙賛日晴大姉となっている。

 以上のように書いてあります。

 つまり、只野真葛の考える高尾太夫は、伊達網宗とともに仙台に下り、仙台城の奥向で老女となって暮らし、天寿を全うしたということのようです。

俗に言われている高尾太夫の生涯とは大いに違っているのに驚きました。


by wheatbaku | 2018-07-24 19:51 | 江戸のヒロイン
文京学院大学で『江戸の火消』(第2講)開講

文京学院大学で『江戸の火消』(第2講)開講

 昨日は、文京学院大学生涯学習センターで、『火事だ! いざ出陣!火事と闘った江戸の火消たち』の第2講があり、『江戸の火消』についてお話をしてきました。

 連日、酷暑が続く厳しい天候でしたが、昨日も大勢の人に熱心に受講いただきました。

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 この講座は、2回連続講座で、「明暦の大火、大名火消、定火消、町火消等」についてお話しますが、昨日は、明暦の大火後の都市改造や町火消についてお話しました。

 明暦の大火後の都市改造では、この時の防火都市化のための諸施策が、現代の東京の基礎になっていることを多くの事例をまじえてお話ししました。

 また、町火消では、いろは48組の成立過程や配置、そして町火消の活躍ぶりを画像とともに説明させていただきました。

さらに、下写真は、小川町定火消屋敷跡にたつ東京堂書店ですが、こうした写真を利用して、定火消の屋敷跡が現在どうなっているかについて、詳しく説明しました。

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 今回は、画像をふんだんにとりいれて説明をさせていただいたので、受講された皆様が興味をもって聞いていただいたのが大変印象的でした。

講義後は、「わかりやすい丁寧な説明で江戸の火消がよくわかりました」という感想もいただき非常にうれしく思いました。

受講いただいた皆様、本当にありがとうございました。




by wheatbaku | 2018-07-22 10:07 | 江戸講座
文宝亭文宝の高尾太夫についての考察〔高尾太夫⑨〕(江戸のヒロインたち)

文宝亭文宝の高尾太夫についての考察
〔高尾太夫⑨〕(江戸のヒロインたち)

 万治高尾(仙台高尾)については、お墓が西方寺と春慶院にあり、三洲で吊るし切りされたという説があったり、恋人がいて、それが出家した後は道哲と名乗ったと言われていたり、様々な説があり、どれが正しいのか迷うばかりです。

 江戸時代の人々も同様だったようです。

 そうした中で、大田南畝の友人であった文宝亭文宝と思われる人が書いた万治高尾(仙台高尾)についての考察が、燕石十種の「高尾考」の中に書いてありますので、今日は、それを紹介します。

 文宝は、万治高尾(仙台高尾)は、伊達網宗に三股で斬られたが、即死したのではなく、負傷したにとどまり、三浦屋で養生していたが、ついに亡くなってしまった。万治高尾(仙台高尾)のお墓は、西方寺のほうが本物で、春慶院のお墓(下写真)は、後に建てられたものだろうと推測しています。

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 燕石十種で書かれている文宝の考察内容は、概ね次のようになります。

高尾が仙台侯に殺害されたことは、世に伝えられているので、そのようなことが実際にあったのであろう。

高尾は三股で仙台によって手傷をおったけれど、即死することはなくて、三浦屋の別宅で治療したが、効なくて、12月になって亡くなったのだろう。

辞世の句に紅葉がうたわれているが、12月に紅葉と云うのも少し時期はずれであるが、これは10月に手傷を負ったころに作ったものだろう。

 春慶院にある供養塔はあまり古いものとも思えず、笠塔婆の屋根の紋所や、日輪や月輪を彫り、供養塔の左右に蓮を掘ってある。(下写真参照)

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 このように、あまりにも細工が過ぎているのは、まさしく、道哲(西方寺)に墓を建てたはるか後に、誰かが春慶院に建てたのだろう。

 どうしてかというと転誉妙身の為也と刻まれているが、これは妙身菩提のため後から建てたということが明らかである。

 年号や月日を、西方寺の墓から写し取った時、西方寺の墓が時が過ぎていたので、はっきり読み取ることできないので、万治3年を2年とし、12月25日を5日と写し間違えたものと思われる。(下写真参照)

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 私(文宝)は、西方寺の方のお墓が本物と思う。ただし、春慶院の方が本物だと考える人は、それはそれでよいでしょう。

 と書いていて、最後に  文化己巳十月の中の十日あまり  文宝しるす と書いてあります。

 
 この最後の「文宝しるす」から、この文章は文宝亭文宝が書いたものだと考えました。

 文宝亭文宝は、江戸の飯田町のお茶を扱う商人で、通称は亀屋久右衛門といいました。大田南畝に書と狂歌をまなんで、文宝亭散木や2代目蜀山人などともなのりました。


by wheatbaku | 2018-07-20 22:32 | 江戸のヒロイン
落語「反魂香」〔高尾太夫⑧〕(江戸のヒロインたち)

落語「反魂香」〔高尾太夫⑧〕(江戸のヒロインたち)

高尾太夫の最後に、伊達網宗に殺されたという高尾太夫を題材にした落語「反魂香」をご紹介します。

 「反魂香」を十八番としたのが8代目三笑亭可楽です。

 昔、よく聞いたものですが、この記事を書くにあたって改めて聞いてみました。 

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ご興味がある方は、You Tube にもありましたので、「三笑亭可楽 反魂香」で検索して聞いてみてください。13分程度の短い落語ですので、短時間で聞くことができると思います。

 「反魂香』のあらずじは次のようです。

長屋の八五郎、毎晩毎晩、隣の坊主が毎夜、鉦(かね)を叩くのでうるさいので、我慢しきれなくなり、文句を言いに行く。

 すると坊主は、名を道哲というが、若い頃は、武士の島田重三郎といい、吉原の三浦屋の高尾太夫と「末は夫婦」と約束をした仲だったという。

 しかし、高尾は仙台の伊達の殿様から身請けさるということになり、なんとかしてくれといってきた。

重三郎は如何ともなしがたくあきらめてくれといったが、重三郎に操を立てて決して生きていないので、亡くなったら回向をしてくれと高尾太夫がいっていたので、鉦をたたいて回向をしているという。

道哲は高尾と取り交わしたという魂返す反魂香(はんごんこう)を火鉢にくべる。すると、高尾太夫が現れる。

高尾太夫 「お前は、島田重三さん」

島田重三郎 「そちゃ女房、高尾じゃないか」

高尾太夫 「にせとかわせし反魂香。仇(あだ)には炊いてくだんすな。香の切れ目が縁(えにし)の切れ目」

島田重三郎「そりゃ炊くまいと思えども、そなたの顔がみたきゆえ。」

 高尾が現れるのを見た八五郎は、3年前に死んだ女房に会いたいから反魂香を分けてくれと頼むが、島田重三郎は、これは自分と高尾の間だけにしか効き目がないと言って断わる。

 仕方なく八五郎は、薬屋へ買いに行くが名前を忘れてしまい、看板を順に読んでいき、反魂香と名前のよく似た越中富山の反魂丹を反魂香と思い込んで買って帰る。

早速、火鉢にくべるが煙が出るだけで、女房はなかなか出てこない。

 八五郎、少ないから出てこないだろうと考え、一袋全部くべてしまって部屋中煙だらけとなる。すると表の戸を叩く音がする。八五郎、『煙の中からでるのではなく、表から堂々と現れる』と喜んで戸を開ける。

 八五郎が、「そちゃ女房のお梅じゃないか」というと、隣の女房が「隣のお崎だけどね、さっきからきな臭いのはお前の所じゃないのかい」と言っておわる。

 万治高尾(仙台高尾)は、仙台の伊達網宗に身請けされたが、伊達網宗の思いのままにならなかったので、殺されたという説があるということは、前回の高尾稲荷神社の記事の中で書きました。

 また、伊達網宗をふった高尾太夫が想っていた人は島田重三郎という名前だったという話は、燕石十種の「高尾考」の中の高尾太夫11代説の中の島田高尾の説明の中にあり、島田重三郎は、高尾太夫がなくなった後、出家して道哲となのったという説があることも書いてあります。

 この反魂香は、こうした説に基づいているように思います。

 なお、反魂香にも出てくる道哲が、土手の道哲と言われた西方寺を創建したという説もあります。



by wheatbaku | 2018-07-18 19:54 | 江戸のヒロイン
高尾稲荷神社〔高尾太夫⑦〕(江戸のヒロインたち)

高尾稲荷神社〔高尾太夫⑦〕(江戸のヒロインたち)

万治高尾(仙台高尾)はどのようにしたなくなったのかということについては病気でなくなったという説のほか伊達網宗によって隅田川で惨殺されたという説などがあります。

伊達綱宗によって隅田川で吊るし切りされたという話は広く流布された有名な話ですが、この話に関連して、万治高尾(仙台高尾)をお祀りした神社があります。

 その神社は、日本橋箱崎町にある高尾稲荷神社です。

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 東京メトロ茅場町駅4b出口から10分弱の距離にあります。

 日本橋川がま隅田川に流れ込む直前の左岸にあります。

 境内に箱崎北新堀町々会による「高尾稲荷神社の由来」が設置されています。

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それによれば高尾稲荷神社の縁起は次のようです。

 高尾が仙台藩主伊達綱宗候に寵愛され大金とつんで見請けされたが、彼女にはすでに意中の人あり、操を立てて候に従わなかったため、ついに怒りを買って隅田川の三又(現在の中洲)あたりの楼船上にて吊り斬りにされ、川中に捨てられた。

その遺体が数日後、当地大川端の北新堀河岸に漂着し、当所そこに庵を構え居合わせた僧が引き揚げてそこに手厚く葬ったといわれる。

高尾の可憐な末路に広く人々の同情が集まり、そこに社を建て彼女の神霊高尾大明神を祀り、高尾稲荷社としたのが当社の起縁である。

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また、現在この社には、稲荷社としては全国でも非常に珍しく、実体の神霊(実物の頭蓋骨)を祭神として社の中に安置してありますとも書いてあり、高尾太夫の頭蓋骨が安置されているとのことです。

高尾稲荷神社は頭部に関する病や悩みに御利益があり、商売繁盛、縁結びの御利益があるそうです。

 

赤印が高尾稲荷神社です。



by wheatbaku | 2018-07-17 20:44 | 江戸のヒロイン
紺屋高尾 〔高尾太夫⑥〕(江戸のヒロインたち)

紺屋高尾 〔高尾太夫⑥〕(江戸のヒロインたち)

 「高尾考」の7代説で紺屋九郎兵衛に嫁いだため、「駄染高尾」と呼ばれる高尾太夫は、お題テキスト「江戸のヒロインたち」で紺屋高尾とされています。

 この駄染高尾は、落語の「紺屋高尾」の題材となっていることで有名です。

 「紺屋高尾」は「こんやたかお」と呼びたいところですが、「こうやたかお」と一般的に呼ばれています。

 「紺屋高尾」は、三遊亭円生、三遊亭円楽、立川談志など多くの落語家が演じていますが、今回は、桂歌丸師匠が演じているものが、You Tube にありましたので、それを聞いてみました。

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 桂歌丸師匠の「紺屋高尾」のあらすじは次の通りです。

 神田紺屋町(こうやちょう)の染物職人吉兵衛のお店に、久蔵(きゅうぞう)という職人がいました。

その久蔵が、寝込んで仕事に出てこないので、お玉が池の竹之内蘭石という医者に診てもらうことにした。

久藏をみた蘭石先生は、「これは恋患いだな。そして相手は三浦屋の高尾丈夫だろう?違うか?」

藪医者にずばり言い当てられて驚く久蔵が打ち明けた話では、吉原には花魁道中というものがあるから、いっぺん見ておけと仲間に無理やり連れていかれたのだが、そこで見た高尾の美しさが忘れられないという。それ以来、何を見ても高尾に見えるとも告白。

 蘭石先生が言う。「花魁といえども売物買物だ。金があれば客にとってくれる。そうだな、十両用意すれば会う事が出来るだろう」

 久蔵の給料は一年で3両。蘭石先生から3年一生懸命働いて9両たまったら残りの1両を蘭石先生が足してくれ10両で高尾太夫に合せてくれると言われたた久蔵はすっかり元気になって一生懸命に働きだした。

 それから3年の月日が経った。久蔵は3年で9両を貯め、親方はさらに一両を足してくれた。久藏は、これで高尾太夫を買うと打ち明けた。親方は呆れたが、着物、帯。そして雪踏まで貸してくれて吉原に送り出してくれた。

久蔵は、蘭石先生と一緒に京橋のお大尽という触れこみで高尾太夫に会いにいく。

お茶屋に掛け合ってみると、運よく高尾太夫の体が空いていたのでお茶屋で高尾が会ってくれた。そして高尾太夫からから、「主はよう来なまんした。裏はいつでありんす?」と聞かれ、真正直な久蔵は、「丸3年経ったらきます。3年経たなきゃ、来る事が出来ない」と久蔵は、これまでのことを全て白状してしまう。

それをじっと聞いていた高尾丈夫は、「金で源平藤橘四姓の人と枕を交わす卑しい身を三年も思ってくれるとは、なんと情けのある人か……、わちきは来年の2月15日に年季が明けるから、おかみさんにしてくんなますか」と久藏に言う。

久蔵は天にも昇る気持ちでひたすらに来年2月15日を待ちのぞむ。

そして2月15日当日。一挺の駕籠が神田紺屋町の吉兵衛の店の前に止まる。姿を見せたのは堅気姿の高尾丈夫である。

 そして親方に久蔵とそわせてくれと頼みます。

 久蔵と夫婦となった高尾は80余歳の天寿をまっとうしたという。

 桂歌丸師匠の古典落語もすばらしいものです。生前にもっと聞いておけばよかったとつくづくと思いました。


by wheatbaku | 2018-07-16 19:27 | 江戸のヒロイン
神田川本店(明神下) (江戸の老舗)
神田川本店〔明神下〕 (江戸の老舗)

今年の土用の丑の日は、7月20日(金)ですが、一足早く、江戸時代から続く鰻の名店である神田明神下の神田川本店の予約が運よくとれましたので、神田川本店で鰻をたべてきました。

 神田川本店は、JR秋葉原駅電気街口から、徒歩7分で、外堀通りに面して建っています。

 お店の建物は、築66年経つという建物で、しっとりとした落ち着きがあります。

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 神田川本店は、文化2年(1805)に三河屋茂兵衛が、現在の万世橋近くで神田の青物市場に行き来きする人々を相手に「深川屋」という名前で屋台で商売を始めたのが最初とのことです。

 明治になって、現在の場所に移り、商売を続けましたが、関東大震災と東京大空襲で全焼した後、昭和27年に再建されたものだそうです。(下写真は玄関)

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 お昼時でしたが、予約通り座敷の席に通され、神田川という名前は、すぐ近くを流れる神田川に由来する名前だと思っていましたが、実は、当時の店主の母方の出身である相模国の神田村の「神田」と店主の苗字宇田川の「川」から付けられた名前だと知って、びっくりしました。

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 お料理はコースもありますが、単品の組み合せでお願いしました。ちなみにうな重は4300円と3700円の2段階ありますが、鰻の大きさによる違いだそうです。(メニューは下写真)

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 鰻が焼けるまで時間がかかるということで、ビールを飲みながら待ちましたが、酒の肴に頼んだ「う巻」は抜群の美味しさでした。

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 さて、注文してから1時間ほどたってうな重が到着しました。

 予想以上に大ぶりの鰻がご飯の上にどんとのっていて大満足、甘すぎなく濃すぎることがないタレのかかった鰻は、皮はパリとしていて身は驚くほど柔らか。別途頼んだ赤だしは少し濃いめでうな重とのバランスは抜群でした。

 ご飯は多目でしたが、残さずいただくことになりました。

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 酒の肴にと思って注文した「うざく」もうな重と一緒に出されました。
 

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 今は、まさに鰻のシーズンですが、神田川では、鰻のほか、お店の雰囲気まで堪能できるように、私たちが満足いくまで、ゆっくりと過ごさせてもらいました。(下写真は、現店主が収集しているという煙草盆の数々ですが、これが廊下に展示されていて、これをゆっくり眺める時間もありました。)


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 御蔭で、隣の人や待っている人を気にしながらイス席に座って、うな重が来たらあわただしく掻きこむように食べて、食べ終わったらすぐに出て行っておしまいといったことを経験しなくてもすみました。


 神田川本店は、鰻の超有名店ですが、想像以上に時間をかけてゆっくりと美味しい鰻と老舗名店の雰囲気を味わうことができ大満足でした。また行ってみたいお店です。

 赤印が神田川本店です。




 


by wheatbaku | 2018-07-15 17:20 | 江戸の老舗
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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