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大垣の華溪寺(江戸のヒロインゆかりの寺③)

大垣の華溪寺(江戸のヒロインゆかりの寺③)

今日は、梁川紅蘭ゆかりのお寺華溪寺をご案内します。

梁川紅蘭と梁川星巌がともに教えを乞うた大随和尚が住職であったお寺が華溪寺です。華溪寺は現在も大垣市曽根町にあります。

 まだ、私は訪ねたことがありませんが、地図で見ると大垣駅からほぼ真北の方向に4キロ余り行った揖斐川の畔にあります。

 華溪寺は、梁川紅蘭ゆかりのお寺ですが、もう一人の「江戸のヒロイン」ゆかりのお寺です。その「江戸のヒロイン」とは春日局です。

 まず、春日局との関係をご紹介します。

華溪寺は、実は曽根城というお城の跡にあるお寺です。

 戦国時代の曽根城の城主は、稲葉一鉄でした。

稲葉一鉄は、最初は美濃の戦国大名斎藤道三に仕え、斎藤家滅亡後は織田信長に仕えた名将で、安藤守就(本巣北方城主)・氏家卜全(大垣城主)とともに、西美濃三人衆と称されました。

一鉄は生涯80回余りの戦に出陣し、一度も負けたことがないと言われています。

華溪寺は、稲葉一鉄が母の菩提寺として現在地から東へ200メートルの位置に創建しました。

稲葉一鉄は、春日局の祖父の弟つまり大叔父になります。

春日局の父親は斎藤利三です。
 斎藤利三は、明智光秀の家老として有名ですが、当初は稲葉一鉄に仕えていました。
 そして、利三の妻あんは、一鉄の兄通明の娘でした。つまり春日局は一鉄からみて兄の孫ということになります。

斎藤利三は、春日局が生まれた頃は稲葉一鉄に仕えていたため、春日局が生まれたのは、曽根城(つまり現在の華溪寺がある場所)という説があります。

華渓寺は、創建の後、一時衰退し、無住寺院となってしまいました。

そして、17世紀後半になって、稲葉一鉄の家臣であった稲津家の3代目当主稲津種正により、佛鑑和尚を中興開山として、華渓寺が再興されました。

この稲津家が梁川星巌の生家です。

ちなみに梁川星巌は、稲津長高の長男として生まれ、江戸で放蕩した際に、稲津から梁川星巌に改名したと言われています。

華溪寺は、享保19年(1734)、揖斐川の氾濫の被害を避けるため、江戸時代初期に廃城となっていた曽根城の本丸跡へ移築しました。これが現在の華溪寺がある場所です。

華溪寺7世の太隨和尚は稲津家の出身で、梁川星巌および紅蘭の大叔父にあたります。

太隨和尚は星巌が幼少の頃より学問を教え、後見人ともなって支えた人ですし、紅蘭も幼いころから大随和尚から薫陶を受けています。

こうしたことから華溪寺は梁川紅蘭のゆかりの寺であるとともに梁川星巌のゆかりの寺でもあります。

そのため、現在、華溪寺には梁川星巌記念館が設置されています。

まだ訪ねたことがないので、写真の掲載はできません。しかし、近い将来に訪ねてみたいお寺です。

赤印が華溪寺です。









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by wheatbaku | 2018-08-31 20:19 | 江戸のヒロイン
梁川紅蘭のお墓(江戸のヒロインの墓⑪)

梁川紅蘭のお墓(江戸のヒロインの墓⑪)


※昨日投稿した記事を補充追加しました。(8月30日)

 江戸のヒロインのお墓、今日は南禅寺塔頭の天授庵の梁川紅蘭のお墓をご案内します。

 南禅寺は、有名なお寺ですので、よく御存知だと思います。

 その南禅寺の三門の南隣にある塔頭が天授庵です。

 下写真が、天授庵の拝観用の通用門です。

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 天授庵は、細川幽斎が細川家の菩提寺として再興した塔頭で、枯山水の方丈東庭や池泉回遊式の書院南庭が有名で、紅葉が素晴らしいお庭です。

 (下写真は、817日の撮影した方丈東庭ですが、青い紅葉もまたきれいでした)

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梁川紅蘭は、美濃国安八郡曽根村(現在の岐阜県大垣市)に稲津長好の次女として生まれました。

 7歳のころ曽根村の華渓寺の大随和尚から読み書きを学びました。14歳のときに、江戸から帰った梁川星巌が開いた塾「梨花村草舎」で漢詩を学びました。

梁川紅蘭と梁川星巌は、それぞれのお祖父さんが兄弟でしたので、二人は又従兄妹(あるいはハトコともいう)でした。
 また、華渓寺の大随和尚は紅蘭の祖父の弟でした。

 そして、紅蘭は、文政3年(1820)に星巌と結婚しました。紅蘭17歳、星巌は32歳でした。紅蘭の方が星巌に対して好意を持っていたようです。

ところが結婚後すぐに星巌は、「三体詩を暗誦すること」を紅蘭に命じて旅に出てしまいました。星巌はなかなか帰ってこず、親戚の人は紅蘭に離婚を勧めるものもありましたが紅蘭は決然と断ったといいます。
 星巌が帰ってきたのは文政5年の春でした。三河、遠江、駿河を訪ねあるいていたそうです。
 もちろん、紅蘭は、命ぜられた三体詩の暗誦をやってのけたていました。

星巌は、一旦戻ったものの、文政5年(1822)の秋には旅に出ると言い出しました。今度は、紅蘭は一緒に連れていってくれと頼み、星巌も承知しました。

二人が向かったのは、西国でした。岡山、広島、長崎、日田さらに丸亀・高松まで足を延ばし、西国を足かけ5年かけて巡りました。

この旅では、二人は、岡山の管茶山、広島の頼杏坪(頼山陽の叔父)、福岡の亀井昭陽(亀井南冥の子供)、日田の広瀬淡窓などの各地の有名人訪ね歩き交流しています。
 広瀬淡窓を訪ねた際には、星巌一人で訪ねていて、紅蘭は宿で待っていたそうです。

そして、文政9年(1826)4月に故郷に戻りました。

この中国・九州への旅行については大原富枝著の『梁川星巌・紅蘭 放浪の鴛鴦』に詳しく書かれています。

故郷に戻った後も、京都、彦根などに滞在したり、伊勢を周遊したりしています。星巌と紅蘭はどうも一ヶ所にはとどまらずに放浪もしく漂白しているように思います。
 しかし、天保3年(1832)10月、江戸に出てからは、江戸に長く滞在しています。
 江戸では天保3年12月南八丁堀に住んだ後、天保5年11月、お玉が池の畔に、新居を設け、ここで私塾「玉池吟社(ぎょくちぎんしゃ)」を開きます。

江戸に住むこと14年、星巌44歳から57歳まで、紅蘭29歳から42歳までの間ということになります。

 この間、安積艮斎(あさかごんさい)、菊池五山、林述斎、大窪詩仏ら有名な文化人と交わり、さらに藤田東湖とも親しくなり、火事の時には、水戸屋敷に住んでいたこともありました。

 特に、天保10年に「玉地吟社」の隣に「象山書院」を開いた佐久間象山とは朝夕親しい交流が行なわれました。 
 象山は当時30歳代の働き盛りでした。星巌は50歳代でしたが、若い象山に大いに影響を受けたようです。

 そして、星巌と紅蘭は、弘化2年(1845)、江戸を去り故郷に戻り、翌弘化3年には、故郷を去り、12月に京都に入り、それ以降京都で暮らします。

その京都で尊王攘夷派の人々との交流を深め京都における尊王攘夷派の志士たちの指導者となりました。

 こうしたことから、星巌は幕府から睨まれるようになり、安政大獄の標的とされましたが、捕吏が屋敷に到着する直前の安政5年(185892日に星巌はコレラで病死します。
 死期を悟った星巌は、紅蘭を別室に下がらせ、頼山陽の子供頼三樹三郎に抱かれ正座して死んだといいます。

星巌が亡くなった直後の9月8日、幕府の捕吏が住まいを襲い、紅蘭は星巌の身代わりとして捕らえられました。

紅蘭は捕らえられる前に星巌と交流のあった人物との手紙などの書類を焼却していたといわれています。

 京都町奉行所で町奉行小笠原長門守から紅蘭は尋問を受けるますが、「妻として夫の秘密をもらすことはできません。あなたがたは、国家の大事を奥さんに話すのですか?星巌は男ですよ。死ぬときも私を別室に下がらせた程の男です。国事をどうして女に話したりするものですか。」と答え、半年後の翌安政6年(1859)2月16日に釈放されました。

 この釈放に関しては、紅蘭は獄舎のなかで、家に残してきた鳩のことばかりを気にして、気ちがいのように鳩に餌をやったかと言い続けて、あまりにうるさいので、出獄を許されたという説もあるようです。

出獄後は星巌の遺稿を出版したり、私塾を開いて暮らしていました。

元治元年(1864)、紅蘭の元を佐久間象山が訪ねてきて、佐久間象山の妾を寄宿させてくれと依頼しました。その際に、佐久間象山の依頼をきっぱりと断ったうえで、象山の西洋かぶれを注意したという逸話があります。

伊藤信著の『梁川星巌翁附紅蘭女史』には次のように書かれています。

「先生は深く洋風を好まれ、日々西洋馬具を着けたる馬に召され、御奔走との評判を承ることなるが、此節京都にては攘夷の論盛にて、大藩の士も多ぐ上り居り、浪士も多く、中には檄烈の輩もあり、暗殺などの事は屡々聞く所に候『人の目に立つ事は御止めなされ、巌重に御用心ありたし。此言は能く御聴きを願ふ』とありければ、象山氏の答に「御注意は辱けなし。併し今般の上京は幕命なれども、其実は朝延の御内意もあり。吾が志行はれ、吾が説用ゐらる々事近きに在るべし。人の評判など御配慮に及ばす。」とて、更に聴き容る々様子も見えざりしが、日ならずして、象山翁、白昼刺客の手に罹りたり.(後略)」
 
 明治6年に、紅蘭は70歳となり、大勢の星巌門下の人々が盛大な古希のお祝いを催しました。
 そして、明治10年、曽根村に帰省し1年近く滞在したあと、京都に戻りました。そして、翌明治12年3月29日に亡くなりました。75歳でした。


天授庵に眠る梁川星巌の脇に葬られました。
 星巌のお墓には「星巌梁川先生之墓」と刻まれています。そして、紅蘭のお墓には、「紅蘭張氏之墓」と刻まれています。
 紅蘭は、自らは張氏紅蘭と称していました。張氏というのは、紅蘭の祖父の奥さんが尾張藩士の娘であったため、尾張の一字をとって張氏と称したようです。
 この改姓の時期は星巌との結婚の時期と思われます。稲津から張氏に改姓した理由について『梁川星巌翁附紅蘭女史』では、古来、同じ姓同士の結婚を忌んだため、稲津から張氏に改めてのだろうと書いてあります。
 

天授庵では、梁川紅蘭や星巌のお墓参りをしたいとお願いすれば観光でない限り許していただけるそうです。ただし、お墓をブログ等にアップするのは控えていただきたいということですので、このブログでもお墓の写真掲載は控えさせていただきます。

 赤印が天授庵です。青印が南禅寺三門です。





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by wheatbaku | 2018-08-29 22:14 | 江戸のヒロイン
幾松(木戸松子)のお墓(江戸のヒロインの墓⑩)

幾松(木戸松子)のお墓(江戸のヒロインの墓⑩)

 江戸のヒロインのお墓、今日は、幾松(木戸松子)のお墓をご案内します。

 幾松(木戸松子)のお墓は、霊山護国神社にあります。

 霊山は、幕末期に亡くなった人々のお墓があることで有名です。坂本龍馬・中岡慎太郎のお墓もあります。

 幾松(木戸松子)と木戸孝允のお墓は、墓所の最も高い場所にあります。

 お墓には、「贈正二位木戸孝允妻岡部氏松子墓」と刻まれています。

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 幾松(木戸松子)のお墓は、夫木戸孝允のお墓から向かって左奥に寄り添っていますが、 木戸孝允のお墓より少し小さめです。(下写真の右が木戸松子のお墓で、左が木戸孝允のお墓です。)

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幾松(木戸松子)は、若狭小浜藩酒井家の藩士生咲市兵衛の次女でした。

市兵衛は、事情があり、京都に出て、幾松を始め3人の娘を三本木の瀧中という置屋に預けました。

 当時桂小五郎といっていた木戸孝允と知り合ったのは文久2年頃のことでした。

 当時桂小五郎は30歳、幾松は、木戸より10歳若い20歳でした。


 幾松が危険を顧みず、桂小五郎のために動き回ったのは、禁門の変の後のことです。俗に、三条大橋の橋の下で乞食に変装していた桂小五郎のもとに食事を届けたということが大変有名です。

 この話に以前から興味をもっていたので、どのように書かれているか調べてみました。木戸孝允について書いた名著にはそれぞれ次のように書いてありました。

 『木戸孝允』(田中惣五郎著) 木戸の京都潜居敷日聞が、いはゆる三條橋下の乞食生活であり、幾松の活躍時代なのである。木戸一生の最も生命の燃廃した時代であらう。(中略)

木戸はさしづめこの今井家の離れに一時ひそんで居り、そこを気づかられぬために、他にも幾ところも隠れ家を作って居り、三條橋下の伝説もその隠れ家の一つして伝えられたものであらう。食物はここで拵えた握飯の類を、これも姿を変じた幾松が運んだのであるが、日々所を変えるため、今日は近所で済むとか、今日は道が遠いとかといふものの、隠れ家のことは今井一家にも洩らさなかったといふ。ために幾松も危難にあい、新選組あたりにも拉致されたが、ついに木戸を庇いとおした。

   

『木戸孝允』(松尾正人著)

 この京都で潜伏をよぎなくされた小五郎は、幾松に助けられた。潜伏場所は幾松の住む三本木やその周辺の数ヵ所であったようだ。幾松が握飯の類を運んだが、日々場所を変えて隠れ場所は誰にも洩らしていない。良く知られている三条橋下の乞食生活の伝説は、隠れ場所の一つであったのかもしれない。

『木戸孝允』(大江志乃夫著)

小五郎の潜伏を知っていたのは、長州藩御用商人の今井太郎右衛門であった。今井をつうじて芸妓幾松が小五郎と連絡をとり、今井家でこしらえた握り飯を、幾松が夜ひそかに二条大橋の下にひそむ小五郎のもとにはこんでその飢えをみたしたという。幕末政争史をいろどる、もっともあでやかでロマソチ″クなエピソードとして有名なシーンである。

 乞食に変装して二条大橋の下にひそむ「勤王の志士」桂小五郎と、これも変装して食物をはこぶ美妓幾松の幕吏のきびしい探索を逃れてのつかのまの夜の逢瀬という、舞台装置も役者も満点のこの情景は、結局、五日ののち、小五郎の京都脱出となって終った。

木戸孝允の伝記の基本といわれている『松菊木戸公伝』には、「公は京都に潜伏すること5日公の夫人松子は干辛萬苦能く公を庇護して危難を免れしめたり」とだけかかれていることは確認しました。しかし、「甲子の変後、公の窮困して飢え苦しむや夫人之を深慮して(今井)太郎右衛門の妻に謀りて結飯を作り、変装して夜に紛れ、密かに二条大橋の下に赴き、之を公に与えて僅かに其の飢を凌がしたり」とも書いてあるようです。

 このように多くの本が、二条橋と三条橋の違いがあるものの、橋の下で乞食に変装した桂小五郎に幾松が食事を届けたと書いています。

こうした苦労をしながらも京都に5日間宣布していた桂小五郎は、危険きわまりない京都をさけて、出石に逃れました。元治元年7月のことです。

これは、対馬藩に出入していた出石の商人広戸甚助に助けられて出石に入りました。しかし、出石も危険であったため、甚助およびその弟直蔵の援助により、養父郡養父村や城崎にも隠れたのち、出石に戻り、広戸家の分家広江孝助という触れ込みで小店を開き荒物屋に変装していました。

京都に残された幾松は、広戸甚助の助けで、対馬に逃れました。

長州藩で、高杉晋作の功山寺決起により、藩政が尊攘派のものになると、桂小五郎の帰藩を願う声が強くなり、桂小五郎の居場所を知る幾松が、広戸甚助にともなわれて対馬から下関に戻り、出石に迎えに向かいました。

こうして、桂小五郎が下関に戻ったのは、5月13日でした。

長州に戻った桂小五郎は、藩主の命令により、木戸貫治と名のるようになります。これは、幕府が長州の最重要人物の一人として桂小五郎の行方を探索していたためといわれています。

なぜ、木戸と名のったかについては、大江志乃夫先生は、その由来は不明としていますが、松尾正人先生は、桂小五郎が養子となった桂家が、「木戸桂」と呼ばれていたことによると書いてあります。

このように、木戸孝允の最も厳しい時期を援けた幾松は、明治3年、長州藩士岡部藤吉の養女として、晴れて木戸孝允と結婚をします。

岡部氏の養女として木戸孝允の妻となったため、墓碑にも岡部氏と刻まれています。

明治の元勲となった木戸孝允が、明治10年5月26日、西南戦争の行方を心配して「西郷もう大抵にせんか」と44歳で叫びながら病死すると、幾松は直ちに剃髪し、木戸孝允の菩提を弔いました。

そして、明治19年4月10日なくなりました。夫孝允と同じ享年44歳でした。若くして亡くなりました。法名は翠香院です。

〔8月28日追加〕
①三本木とは
 幾松(木戸松子)が、芸妓となった三本木はどこにあったのでしょうか?
 現在の京都で花街といわれる街は、祇園甲部、祇園東、先斗町、上七軒、宮川町の5つです。これらの花街
を称して「五花街」と呼ばれています。
 三本木は、現在は花街でないので、当然、現在の五花街に入っていません。そのため、あまり名が知られていません。
 三本木は、大雑把にいうと京都御所の東側で鴨川の西側にありました。
 さらに詳しく言うと、丸太町通りと河原町通りの交差する河原町丸太町の交差点の北東方向の一角にありました。現在は東三本木通りと西三本木通りの名前が残っています。
 長州藩邸は現在の京都市役所の東側にありました。そのため、長州藩邸からあまり遠くありません。桂小五郎と幾松が知り合ったのは、この地縁もあったのではないでしょうか。

②木戸公神道碑

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霊山護国神社の木戸孝允と木戸松子のお墓に行く途中でもあり、霊山護国神社の墓所全体の入り口にもあたる場所に、巨大な銅製の碑が建っています。

碑の最上部の篆額には、「故内閣顧問贈従一位勲一等木戸公神道碑」と刻まれています。

神道碑は国家に功績のあった人物を顕彰するために建てられた碑で、その人物の墓所参道に建てられました。

木戸孝允のほかに、岩倉具視、三条実美、大久保利通、島津久光、大原重徳などの神道碑が明治天皇の命令により建てられました。

赤印が京都霊山護国神社です。








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by wheatbaku | 2018-08-27 20:11 | 江戸のヒロイン
光雲寺(江戸のヒロインゆかりの寺社②)

光雲寺(江戸のヒロインゆかりの寺社②)

今日は、東福門院和子ゆかりのお寺として、京都の光雲寺をご案内します。

 光雲寺は、南禅寺の境外塔頭で、南禅寺の北方にあり、南禅寺から永観堂を過ぎて徒歩15分ほどの距離にあります。

 ただし、光雲寺は、南禅寺・禅センターを兼ねているため、「座禅中に付き、関係者以外立ち入り禁止」の貼紙がされていて、一般に人には公開されていません。

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 光雲寺はもと摂津国にあった寺院で、弘安三年(1280)に南禅寺を開山した大明国師(無関普門禅師)によって創建されました。

寛文年間、後水尾天皇と東福門院和子は南禅寺の英中禅師に深く帰依しました。そして東福門院和子によって、東福門院和子が生んだ女三宮顕子のため、現在の場所に再興されました。

 御本尊には、東福門院和子の釈迦如来と観音菩薩が安置されているそうです。

 そうしたことから、東福門院和子の菩提寺とされています。

 光雲寺は東福門院の菩提寺ですが、東福門院和子のお墓は、先日ご案内した通り、泉涌寺の月輪陵にあるため、光雲寺にはありませんので、ご注意ください。

 
 光雲寺は一般公開されていませんので、境内には入ることはできませんでしたが、了解を取って、山門から本堂を写させていただきました。

 本堂は、光雲寺が現在地に移転した際に建築されました。

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 東福門院和子は、幕府の財政援助を元に、京都にある宮門跡寺院や尼門跡寺院の復興に力を注ぎました。

 その代表が、光雲寺ですが、そのほか、後水尾天皇の皇子・皇女が門跡となった青蓮院、仁和寺、大覚寺、妙法院、知恩院、聖護院、三千院、円照寺、宝鏡寺、林丘寺、大聖寺、霊鑑寺、光照院など、そうそうたる寺院が復興されました。

 

赤印が光雲寺です。 青印が南禅寺です。






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by wheatbaku | 2018-08-24 22:43 | 江戸のヒロイン
明正天皇のお墓(江戸のヒロインの墓⑨)

明正天皇のお墓(江戸のヒロインの墓⑨)

今日の江戸のヒロインのお墓は、昨日紹介した東福門院和子の娘である明正天皇のお墓をご紹介します。明正天皇も東福門院和子と同じ泉涌寺の月輪陵(つきのわみさぎ)に眠っています。(下写真)

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泉涌寺を紹介する時にはよく使用される風景は大門からの撮った仏殿の光景だと思います。(下写真参照)
 この景色の写真はガイドブックなどで
見たこともある方も多いと思いますが、月輪陵は、この仏殿の南東後方にあります。

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明正天皇は後水尾天皇の第2皇女で、元和9(1624)1119日に誕生しました。母は東福門院和子ですので、徳川秀忠の外孫ということになります。

幼い頃は女一姫と呼ばれていましたが、諱は興子といいました。

 興子内親王は、寛永6年118日後水尾天皇が突然の譲位を宣言したことにより、翌7年912日即位しました。明正天皇の即位です。

 後水尾天皇の譲位の意向は、ごく少数の天皇の側近を除く公家たちさえ全く知りませんでした。そのため、幕府にとっても突然のことでした。

このような全く異例の譲位が発表されたのは、後水尾天皇が幕府に対して強い不快感を持っていたことによると考えられています。

 譲位にいたる最大の理由が、紫衣事件です。紫衣事件とは、後水尾天皇が大徳寺・妙心寺の僧に与えた紫衣着用の勅許を幕府が無効であるとし、これに抗議した大徳寺の沢庵らを処罰した事件です。 

 その2が、お福(春日局)参内事件です。紫衣事件の解決のため、幕府は、寛永6年(1629)、伊勢神宮参拝に向かったお福(春日局)を上洛させました。これは、徳川秀忠の強い意向があったと言われています。お福は、東福門院和子に伺候した後、武家伝奏の三条西実条(さねえだ)の猶妹という資格で天皇に拝謁しました。この時に「春日」という局号と緋袴を賜りました。しかし、春日局は、無位無官であり、無位無官の春日局の参内に公家達は反発し、後水尾天皇も不快感を示しました。

後に、後水尾天皇が書いた「当時年中行事」の中で

武家の者のむすめ、堂上のものの猶子などになりて御前に参ること、近き頃まではかつてなき事なり。

当時、大奥を取り仕切っていた春日局も形無しで,後水尾天皇にとっては不快感を呼び起こす事件だったようです。

これが主な理由ですが、細川忠興が細川忠利に送った手紙によれば、公家の官位にまで幕府が干渉するようになったことがあげられ、さらに東福門院和子以外の女官が生んだ子供が殺されたり流産させられ、無念に思っていることがあげられています。

確かに、後水尾天皇は子だくさんで、33人の子供が生まれましたが、東福門院和子の入内後水尾天皇の譲位まで間に生まれた子供は、東福門院和子の子供だけ二皇子三皇女5人だけしかいません。このことは譲位後に26人の子供が生まれていることから異常なこと考えられています。

 こうした理由から、後水尾天皇は譲位を決意しましたが、当寺、譲位できる皇子・皇女は、和子が生んだ皇女が二人だけでしたので、やむなく、興子内親王が天皇に即位しました。

当時興子内親王は7歳であり、後水尾上皇が院政をしき政治をみていました。

明正天皇は、奈良時代の称徳天皇以来の女性天皇でしたが、東福門院和子に皇子が生まれれば、その子に譲位するという含みで即位しました。

しかし、東福門院和子は、後水尾天皇の譲位後は、皇子を生むことがなかったため、将軍家が期待した将軍家の血筋を引いた男子が天皇に即位するということは実現しませんでした。

東福門院和子に皇子が生まれなかったため、京極局が生んだ紹仁親王(後光明天皇)に譲位されることになります。

譲位は明正天皇が15年在位した後の寛永20年10月3日のことです。

後水尾天皇の近臣であったもと武家伝奏の中院通村(なかのいん みちむら)は、継橋宮と呼ばれた興子内親王について「世を渡る人の上にもかけて見よいかに心のままの継橋」という和歌を詠んでいます。このことから、明正天皇は、幕府の庇護のもと、わがままな女性だったのではないだろうかという説があります。

明正天皇は、後光明天皇に譲位した後、54年間を仙洞御所で暮らして、元禄9年(1696) 11月10日、74歳でなくなりました。

明正天皇の名前は、奈良時代の女性天皇の元明天皇と元正天皇の名前からそれぞれ一字をとったものです。



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by wheatbaku | 2018-08-23 20:10 | 江戸のヒロイン
東福門院和子のお墓(江戸のヒロインの墓⑧)

 東福門院和子のお墓(江戸のヒロインの墓⑧)

 先週、大文字の送り火を見に行った際に、「江戸のヒロインたち」に載っている女性のお墓にもお参りしてきました。

 これからは、京都にあるヒロインのお墓を順にご案内します。

 最初は、東福門院和子のお墓をご案内します。

 東福門院和子は、泉涌寺の月輪陵(つきのわみさぎ)に眠っています。(下写真)

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泉涌寺は、東山にある真言宗泉涌寺派のお寺です。

江戸時代には、後陽成天皇から孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の葬儀は泉涌寺で行われ、後水尾天皇から孝明天皇までの陵が境内に設けられています。

 こうしたことから、泉涌寺は天皇家の菩提寺といわれていて、「御寺(みてら)」とも呼ばれています。

京都駅からそれほど遠くないバス停「泉涌寺道」から数分歩くと見えてくる総門を入口として、坂道を登っていきますが、広大な境内の最も奥まった所にある霊明殿の東に月輪陵(つきのわみさぎ)があります。下写真が泉涌寺の境内地図ですが、御寺泉涌寺と書かれている辺りが月輪陵です。

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ここには、後水尾天皇から仁孝天皇までの天皇のほかに皇妃、皇子・皇女が埋葬されています。

東福門院もここに眠っています。入口に埋葬されている天皇の名前が書かれていますが、その中に後水尾天皇皇后和子と書かれています。(下写真)

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 東福門院は和子、2代将軍徳川秀忠とお江の間に慶長12年(1607)10月4日に五女として生まれました。

誕生後まもなくから入内が計画されていて、 慶長17年(1612)には、かなりつこんで幕府と朝廷との間で交渉が行なわれました。

しかし、大坂の陣(1615)や徳川家康の死去(1616)、後陽成天皇(1617)の死去があり、延期されていました。そして、いよいよ入内となった時に、後水尾天皇の傍に仕える「およつ津御寮人」が後水尾天皇の皇子を出産したことが発覚し、このことで朝廷と幕府の関係がギクシャクし、また延期となりました。

和子が女御として入内したのは、元和6年(1620)6月18日でした。この時和子は14歳でした。

入内した頃はまだ幼かった和子ですが、父秀忠が上洛し後水尾天皇に拝謁した元和9年6月25日には、懐妊していました。

父秀忠と兄家光が帰府した直後の10月19日に女子を出産しましまた。この子が後に明正天皇となる女一宮(おんないちのみや)です。

その後も、後水尾天皇との間には多くの子供が生まれ、2皇子5皇女を儲けました。しかし、2皇子1皇女は幼くして亡くなり、幕府が期待していた皇子の成長はありませんでした。

和子は、女御として入内しましたが、寛永1(1624) 11月中宮となりました。

それから5年後の寛永6年11月に、「紫衣事件」など幕府との軋轢のなかで後水尾天皇は東福門院が生んだ女一宮である興子内親王に突然譲位しました。これが明正天皇ですが、この譲位に伴い東福門院という院号を名のるようになります。

明正天皇は実子ですから当然のこととして、明正天皇の後に皇位を継承した後光明天皇、後西天皇についても、養母として皇子の教育にも関わりました。

後水尾天皇との間は、入内当初は、ぎくしゃくした面もあったようですが、その後の二人の間は円満だったようです。

東福門院和子は、延宝6年(1678)6月15日に亡くなりました。72歳の長命でした。

 この時、後水尾天皇はまだ存命で、最期は、後水尾法皇、明正上皇たちに看取られて、あの世に旅立っていったそうです。

 東福門院和子の化粧料は1万石であったため、財政面で大変恵まれていたため、後水尾天皇や皇子・皇女の生活をささえるばかりでなく、文化面でも大きな役割を果たし、華やかな寛永文化が花開く基ともなったようです。

赤印が泉涌寺です。









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by wheatbaku | 2018-08-22 13:19 | 江戸のヒロイン
江戸検1級合格対策講座の2回目、開講しました

江戸検1級合格対策講座の2回目、開講しました

 昨日は、江戸楽アカデミーで 第2回目の「これを聞けば合格に必ず近づく! 『江戸検1級合格虎の巻』」が開講しました。

 既に8月5日に第1回目は開講していますが、第1回目が早い段階で満員になったため、昨日は、同じ内容の講座を追加して開講しました。

 ご参加いただいた皆さん、ありがとうございました。

c0187004_15560422.jpg

 内容は、前回と同じ内容ですが、昨日受講された方は、私の講座を聞くのは初めてという方が3分の1以上でしたので、前回、不足していたところも少し補足して説明しました。 

 また、1級の受検が初めてという方も大勢いましたので、そうした点も配慮して説明しました。

 基本的には、1級合格には相当の努力が必要ということと、その努力を続けていけば、誰でも必ず合格できるということを強調しました。

 参加された皆さんは、大変熱心でした。

 大変な努力が必要だということを説明しましたので、シュリンクする人もいるかなと心配しましたが、全体の雰囲気では、そうしたこともなく、真剣に聞いてくれました。

 講義の後に懇親会を開きました。

 初めてお会いする人ばかりでしたので、新鮮でもありました。

懇親会の席でも、講義の内容が話題となり、「『虎の巻』とはどんなものかと思っていたが、大変参考になって、受講した良かった」という言葉や、年初から今年は合格しようと思って頑張ってきたが、今日の講義を聞いて、一層やる気が出た」という言葉、「今年は、他の用事もあって、今年合格をめざすという訳にはいかないが、来年は絶対合格をめざして頑張ります」といった言葉をいただきました。

 講義が役にたったようで、大変、うれしく思いました。

 御蔭で、お酒も美味しいお酒となりました。

 最後までお付き合いいただいた皆さんありがとうございました。



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by wheatbaku | 2018-08-20 15:51
大文字の送り火


大文字の送り火


8月16日から17日にかけて京都に行ってきました。

 16日の「大文字の送り火」を見るのがメインでしたので、今日は、「大文字の送り火」の様子をご紹介します。

 なお、「大文字の送り火」は、一般的には「大文字焼き」と呼ばれていますし、私もそう思っていましたが、京都の人たちは「大文字の送り火」もしくは「「大文字」というそうで、「大文字焼き」とは言わないそうです。

 こうしたお話は、「大文字の送り火」を見る前の同志社女子大学の吉海直人先生のお話の中で教えてもらいました。

 16日の天候は、事前の天気予報では雨でした。しかし、雨であっても「大文字」は必ず実行されるということでした。これは、「大文字」は、盂蘭盆会の一環として行われるので、延期や中止はないのだということを吉海先のお話しで知りました。

 「大文字」は、「五山の送り火」といわれているように、「大文字」「妙法」「舟形」「左大文字」「鳥居」と五種類の送り火があります。

 8時から、「大文字」に着火され、順に5分刻みで着火されていきました。着火の直前には、雨が降ったそうですが、着火の時点では雨が上がっていました。

 「大文字」の中心に着火され、それが徐々に全体に広がっていき、5分ぐらいで「大文字」となりました。

 真っ暗な闇夜に浮かびあげる「大文字」は非常に感動的でした。

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「大文字」に見とれている間に、妙法が着火されました。妙法は、妙と法と二文字でワンセットだそうです。(下写真のような位置関係になります)

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妙法は、元々は、妙の一文字であったのが、その後、法が追加されてワンセットとなったと説明されました。

しかし、法が先で、後から妙が追加されたという別の説もあるそうです。

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 次に舟形が燃え上がりました。

 舟形の船底の部分は、木にさえぎられて見えませんでした。

 この舟形は、西側が船先で、船が西に向かっていく様子が描かれているそうです。

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 次いで、「左大文字」が燃え上がりました。

 五つの送り火の中で、最も遅い時代に加わったのが「左大文字」だそうです。

 遅いと言っても江戸時代の初期の万治年間のことのようです。

 「左大文字」といわれているのは、「大文字」と区別するために、そう呼ばれるようになったそうです。

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私が見たのは4階のビルの上からでしたが、「左大文字」までの4つの送り火を見ることができましたが、鳥居は、見ることができませんでした。

 聞くところによると、京都御所付近からだと鳥居は、縦の一本線となっていて、鳥居形には見ることができないそうです。
 ちなみに「大文字」も京都駅周辺では、大の字に見えずアルファアベットのKに見えるので「K文字(けいもんじ)」とも呼ばれているそうです。

 以上五つの送り火は、「大文字」から順に西側に向かって、燃え上がっていきます。精霊が西国浄土に帰っていくのを意識したのだろうと言われているようです。

 「大文字」から順に送り火が着火されていきますが、最後まで燃えていたのは「大文字」でした。「大文字」がほぼ消えるまで約45分ありましたが、この「大文字」の火が少しづつ消えていくのも、ものの憐れが感じられ、先祖に思いをはせることもでき、すばらしい時間でした。

 「大文字」は、初めて見ましたが、非常に幻想的であるとともに、自分の先祖にも想いを馳せることができて、感動的でした。

 翌日訪ねた金戒光明寺でも、「大文字」について話題になりましたが、京都に住んでいる人たちの話では、今年の「大文字」は近年になく空気が澄んでいて見事な「大文字」だったと言っていました。そんな「大文字」を見ることができてラッキーでした。 



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by wheatbaku | 2018-08-18 14:30
初姫(興安院)のお墓(江戸のヒロインの墓⑦)

初姫(興安院)のお墓(江戸のヒロインの墓⑦)

伝通院に眠る江戸のヒロイン、最後は、秀忠の四女初姫をご紹介します。

初姫はお題テキスト「江戸のヒロインたち」にも取り上げられるています。

 初姫のお墓は、於大の方のお墓の北側にあります。

 案内板はありませんが、大きな五輪塔ですので、よく目立ちます。

 墓表には、興安院殿豊誉天清陽山大姉と刻まれています

c0187004_00385903.jpg

「幕府祚胤伝(そいんでん)」によれば、次の内容が書かれています。

初姫は、慶長7年7月9日に、江戸城で生まれました。

慶長11年(1606)7月に若狭小浜藩主京極忠高へ嫁ぎました。

寛永7年3月4日に亡くなっています。29歳でした。

初姫が嫁いだ若狭小浜藩主京極忠高の父高次の正室は初姫の母お江の実の妹初(常高院)です。

初(常高院)には実子がなかったため、お江の生んだ初姫を養女とした後で京極忠高と娶わました。

初姫と忠高とは又従兄妹の関係に当たります。

初姫と忠高の間に子供もできず仲も良くなかったようです。特に初姫臨終の際の忠高の態度はひどいものだったようです。

初姫臨終の際の様子が、『江戸城の宮廷政治』(山本博文著)に書いてありますので、その内容を書いておきます。

徳川秀忠は初姫を大変かわいがり、亡くなった際にはしばらくご飯ものどをとおらないほどでした。

細川忠興が息子忠利に送った手紙によると、初姫の臨終の時、忠高はそれを無視して相撲見物に興じていたといいます。

伝通院は徳川家に関係の深い寺院で、京極家の菩提寺でありません。しかも、忠高は初姫の葬儀に関わらないようにという命令も出されました。まさに異例だったといえます。

初姫、臨終の知らせは、秀忠にも届き、すぐに酒井忠世、土井利勝らの年寄が屋敷に向かうと、相撲見物に興じていた忠高はあわてて奥に入り、同席していた他の人たちも蜘蛛の子を散らすようなあわてぶりだったそうです。

 このように初姫に冷たかった京極忠高でしたが、その後、特に京極家改易などの処分は行われてはいなかったようです。



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by wheatbaku | 2018-08-16 17:35 | 江戸のヒロイン
お奈津の方のお墓(江戸のヒロインの墓⑥) 

 お奈津の方のお墓(江戸のヒロインの墓⑥) 

伝通院には、家康の側室の一人お奈津の方が眠っていますので、今日は、お奈津の方のお墓をご案内します。

 お奈津の方のお墓は本堂の西側の墓域の中の西に向かう大きな通路の脇にあります。この道は清河八郎のお墓に向かう通路ともなっていますので、比較的見つけやすい場所にあります。

観音堂の前に案内板がありますので、それで確認していけば確実です。

 お墓には五輪塔で、表面に清雲院殿心誉光質大禅定尼と刻まれています。

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 お奈津の経歴はあまり詳しく書いたものがありませんが、「幕府祚胤伝(そいんでん)」によれば、次のような経歴です。

お奈津は、伊勢北畠氏の旧臣であった長谷川藤直の娘として、伊勢国飯高郡知数村に生まれました。

なお、お奈津の方の墓所には長谷川家のお墓があり卒塔婆も建てられていましたので、ご子孫がいらっしゃると思われます。

下写真の右側が長谷川家のお墓です。

c0187004_18311165.jpg

慶長年間に奥勤めをし家康より寵愛されるようになりましたが、その経緯は詳しくは書かれていません。

家康が亡くなったあと尼となり、中野において500石を賜りました。

三の丸に屋敷を拝領した後、小石川御門内の屋敷に移り住みました。

万治2年(1859)9月20日、80歳の長命でなくなり、小石川伝通院に埋葬されました。

「幕府祚胤伝(そいんでん)」には、伊勢国山田に清雲院を建立したと書いてあります。

その山田にある清雲院のホームページには、お奈津の方の経歴が詳しく書かれていますので、ご興味がある方は、「東照山 清雲院」で検索してください。

そのなかでは、奉公の経緯として、京都の豪商茶屋四郎次郎の推薦によって奥勤めするようになったとされています。

また、二条城で家康が入浴中刺客が潜入した際に、お奈津の機転と機敏な対応によって刺客を取り押さたというエピソードとこのことにより側室に召しだされたと書かれています。

これらのことは、他の本には書かれていなかったことですので、興味深く見読みました。

 


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by wheatbaku | 2018-08-15 18:25 | 江戸のヒロイン
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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