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阿茶局のお墓(江戸のヒロインの墓㉑)

阿茶局のお墓(江戸のヒロインの墓㉑)

 阿茶局のお墓については、以前、京都の金戒光明寺にある阿茶局のお墓を紹介しました。

阿茶局のお墓は、東京の深川の雲光院にもあります。

 

 雲光院は、慶長16年(1611)阿茶局により、増上寺の高僧であった潮呑上人を初代住職として創建された浄土宗のお寺です。阿茶局の法名「雲光院」がそのままお寺の名称となっています。(下写真が本堂です。)

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 最初に創建されたのは、現在の中央区馬喰町付近でしたが、明暦の大火で焼失し、神田岩井町に移転した後、天和2年(1682)現在の深川に移転しました。

 雲光院は、東京メトロ清澄白河駅 出口から徒歩8分の場所にあります。

 雲光院に向かう途中に、松平定信のお墓があることで有名な霊厳寺や深川江戸資料館があります。

 阿茶局のお墓は本堂の右側(方位でいうと北側)の墓所のほぼ中央部の最奥部にあります。

 大きな宝篋印塔(ほうきょういんとう)で雲光院殿従一位尼公正誉周栄大姉と刻まれています。(下写真)

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 阿茶局については、以前も書きましたが、今日は少し詳しく書いておきます。

阿茶局は、武田氏の家臣飯田直政の娘として生まれ、今川家臣神尾忠重に嫁ぎ、夫の死後、寡婦となっていましたが、天正7年(1579)、徳川家康に召し出され家康に仕えました。

阿茶局は戦場にも随行し、小牧長久手の戦いの際にも妊娠していた身で戦場にいて、結果的に流産してしまいました。

阿茶局は、才知に優れ、側室よりも側近といったほうがよく、大坂冬の陣では、淀君の妹で京極高次の妻常高院と交渉し、大坂城に入り和睦の使者となって淀君・秀頼母子の誓書をとっています。

元和2年に徳川家康がなくなった際にも、通常であれば側室も落飾するのですが、徳川家康の命令により髪を下ろしませんでした。

徳川家康が亡くなった後も、徳川秀忠の信頼は厚く、秀忠の娘和子の入内の際には、母代わりをつとめました。

その後、皇女(のちの明正天皇)誕生にも立ち会いました。

そうしたことから、元和9年(1623)、朝廷より、従一位をさずけられました。そのため、神尾一位局とよばれました。

 寛永9年、徳川秀忠が亡くなった際に、剃髪し、雲光院と名乗りました。

 家康没後、竹橋門内に屋敷を拝領し、そこに住んでいましたが、寛永14年(1637)正月22日に83歳でなくなりました。

 そして、当時、日本橋馬喰町にあった雲光院に埋葬されました。

 なお、雲光院のホームページには、「(阿茶局は)京都にて逝去されたと伝えられ、晩年の活躍の場であった京都東山金戒光明寺に葬られ(た)」と書いてあります。

多くの本には、深川の雲光院に埋葬されたと書いてありますので、雲光院さんに、事情を伺ったところ、「ホームページの内容は間違っています。京都の金戒光明寺のお墓は供養塔です」という回答でした。 

赤印が雲光院です。
青印が霊厳寺です。
ピンクが深川江戸資料館です。






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by wheatbaku | 2018-09-29 19:41 | 江戸のヒロイン
瑤泉院のお墓(江戸のヒロインの墓⑳) 

瑤泉院のお墓(江戸のヒロインの墓⑳) 

前回ご紹介したお岩さんのお墓のある妙行寺に、瑤泉院のお墓がありますので、ご紹介します。

 

 瑤泉院のお墓は、お岩さんのお墓へ向かう途中にありますので、お岩さんのお墓を目印にするとすぐにわかります。

 瑤泉院のお墓は、浅野家の奥方のお墓がある一画にあります。

 浅野家の墓所の中央には、浅野内匠頭長矩のおじいさん浅野長直の奥方つまり浅野内匠頭長矩のお祖母さんのお墓があります。お墓には高光院殿と刻まれています。(下写真)

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瑤泉院のお墓は、高光院殿の左手にあります。

瑤泉院のお墓は泉岳寺にあります。妙行寺にあるのは供養塔です。

瑤泉院は、松の廊下の刃傷事件により浅野家が断絶となったため、お祖母さんの供養がされなくなると心配したため、永代供養料として30両を妙行寺に納めました。

妙行寺の供養塔はそのことを記念して昭和28年に建立されたものです。

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瑤泉院は、延宝2年(1674)、広島藩浅野家の支藩三次藩浅野家の初代藩主浅野長治の二女として生まれました。

 誕生した翌年の延宝3年、浅野長矩との縁組願いが提出され、延宝5年阿久利4歳で結納が交わされ婚約が成立しました。

長矩の父浅野長直の妹が生んだ娘が阿久利ですので、二人は従兄妹同志ということになります。

翌延宝6年、5歳の阿久利は赤穂藩浅野家の屋敷へ移りました。

二人が正式の結婚したのは天和3年で、浅野長矩17歳、阿久利10歳でした。

浅野内匠頭長矩と阿久利の間には子供は生まれませんでしたが、二人の仲は非常に良かったようです。

元禄14年(1701314日、浅野内匠頭長矩が江戸城松之廊下で吉良上野介義央に斬りつける刃傷事件を起こし即日切腹した際にも、瑤泉院は取り乱す様子はなかったといいます。

 浅野内匠頭長矩の切腹により、赤穂藩浅野家上屋敷から赤坂にある三次藩浅野家の下屋敷に移り、落飾し寿昌院と称しました。

 後に、この法名が5代将軍綱吉の母桂昌院と一字同じとなることから、瑤泉院に変えています。

 それ以降は、浅野内匠頭長矩の菩提を弔いながら余生を過ごしました、

 そうした生活の中で、瑤泉院は、赤穂浪士の遺児たちの赦免に尽力しました。

 赤穂浪士が討ち入りした時点で15歳に達していた赤穂浪士の遺児4人は伊豆大島に流されていました。その遺児たちが宝永3年(1705)にご赦免となりましたが、このご赦免に尽力しました。

 遺児たちが赦免となった9年後の正徳4年(1714)6月3日なくなりました。41歳でした。



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by wheatbaku | 2018-09-27 19:59 | 江戸のヒロイン
お岩さんのお墓(江戸のヒロインの墓⑲)

お岩さんのお墓(江戸のヒロインの墓⑲)

江戸のヒロインの墓ですが、今日は四谷怪談で有名なお岩さんのお墓を案内します。

 お岩さんは「東海道四谷怪談」の主人公として大変有名ですので、お岩さんは芝居上の人物だと思う人が多いと思いますが、そのモデルとなったお岩さんは、実在の人物とされています。

 そのお岩さんのお墓があるのは、西巣鴨の妙行寺です。(下写真は本堂です)

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 都営地下鉄西巣鴨駅A4番出口から徒歩6分の距離にあります。

妙行寺は、法華宗陣門流のお寺です。

妙行寺は、寛永元年に赤坂に創建され、江戸時代には四谷鮫ヶ橋にありました。

明治40年に東京府による市区改正事業のため現在地へ移転しました。

妙行寺の宗派は法華宗(陣門流)のお寺です。日蓮の流れをくむ宗派は日蓮宗だけだと思いましたが、実は多くの宗派があるようです。

日蓮宗は久遠寺(身延町)を中心とする宗派で、日蓮宗のほかに、法華宗があります。さらに、法華宗にも多くの教団があり、法華宗(陣門流)というのは、新潟県三条市にある総本山本成寺を中心とする教団だそうです。

 お岩さんのお墓は本堂西側の墓所の最奥部にありますが、案内がしっかりしているので、探すのは容易です。

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実在のお岩さんは、御家人の田宮又左衛門の娘で、旦那さんは田宮伊右衛門といいました。

妙行寺の説明では、夫の田宮伊右衛門は、隣家の娘とねんごろになりお岩さんを虐待していました。

お岩さんは、寛永13年2月22日になくなり、妙行寺に葬られました。

当時、妙行寺は四谷にありましたので、田宮家とはあまり遠くありませんでした。

最初、お岩さんの法名は「得証妙念」という簡単なものでしたが、田宮家には「災い」がたえなかったため、「得證院妙念日正大姉」と改めました。それからは、田宮家にも災いがなくなったといいます。

お岩さんがなくなったのは寛永年間で、お岩さんが主人公の有名な「東海道四谷怪談」を鶴屋南北が書いたのはお岩さんがなくなって約200年もの後です。

現在も、お岩さんに塔婆を捧げ熱心に祈れば願い事が叶うということから多くの塔婆が捧げられています。

赤印が妙行寺です。






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by wheatbaku | 2018-09-25 19:50 | 江戸のヒロイン
白子屋お熊のお墓(江戸のヒロインの墓⑱) 

白子屋お熊のお墓(江戸のヒロインの墓⑱) 

「浅岡飯炊きの井」のある良源院跡のすぐ近くに常照院があります。常照院も増上寺の子院です。。(下写真は常照院の山門です)

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 この常照院に白子屋お熊のお墓があります。

 山門を入ってすぐ右に白子屋お熊のお墓があります。
 下写真の左側が白子屋お熊のお墓、中央が供養碑、右が案内の標柱です。

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白子屋お熊は、日本橋新材木町の材木商白子屋庄三郎の娘で、お熊は手代の忠七と密通したうえ、養子の又四郎を追い出そうとし、母のお常が、下女菊に又四郎を襲わせた事件を起しました。

この白子屋お熊(おくま)一件は、大岡越前守忠相の活躍ぶりを描いた「大岡政談」の中で、唯一大岡越前守忠相が裁いた事件として有名です。

白子屋は、江戸日本橋の新材木町にある材木問屋でした。

主人白子屋庄三郎の娘お熊は、下女お久の仲立ちにより、店の手代忠八と密通していました。しかし、白子屋は商売がうまくいっていなかったため持参金目当てで婿養子にもらうこととなり、大伝馬町の地主の手代又四郎を婿にもらい結婚をしました。

結婚後も、お熊は忠八との関係は続き、なんとか又四郎を追い出したいと思っていました。それを知った母親のお常もお熊を叱るどころかお熊の企てに加担する始末で、婿養子又四郎をいびりだそうとして、白子屋の下女のお菊に又四郎を襲わせました。下女お菊に襲われた又四郎は怪我をした程度ですみましたが、このことが表沙汰となり、南町奉行大岡越前守忠相の吟味が行なわれ、享保12年(1827)2月25日に判決が下りました。

その判決では大勢の人が処罰されています。中公新書「大岡越前守」(辻達也著)に引用されている「享保通鑑」巻十一享保12年によると次のような処罰となっています。

まずお熊ですが、お熊(21歳)は市中引廻しの上死罪

密通の相手の手代忠八は市中引廻しの上浅草にて獄門、

母親お常は遠島、父親庄三郎江戸払

下女きく死罪、下女久市中引廻しの上死罪

お熊と獄門としている本もありますが、中公新書「大岡越前守」(辻達也著)に書かれている「享保通鑑」によれば、お熊は死罪となっていますので、死罪が正しいと思います。

また、この事件の15年後の寛保2年(1742)に完成に定められた公事方御定書でも、その48条「密通御仕置之事」で、「密通をした妻は死罪で、相手も死罪」と定められていますので、お熊は獄門ではなく死罪だったと思います。
 なお、死罪は、小伝馬町牢屋敷で斬首される刑ですが、獄門と云うのは、小伝馬町牢屋敷で斬首された後、刑場に首をさらす刑で、獄門の方が重い刑罰です。
 一方、お熊の相手の手代忠七は、死罪より重罪の獄門となっていますが、当時は、主従関係が非常に厳しい時代でしたので、主人の妻と密通した男は重罪に処すべきという考えがあり、手代忠八は主人の妻のお熊と密通したため、獄門となりました。

本来は、犯罪者の埋葬や墓の建立は許されないケースが多いのですが、白子屋阿熊の場合には、お墓が建てられています。

「享保通鑑」によれば、「くま死骸は、早速首を継ぎ、施主の願いにより、増上寺内念仏堂常照院に、これを葬る」と書かれていて、特別に許可されたものと思われます。

こうして建てられた白子屋阿熊のお墓ですが、常照院のホームページによれば次のような経緯があります。(下写真は常照院の本堂です)

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阿熊の遺骨は、昭和9年の墓地改葬に伴い、当院墓地の無縁塔に合祀されました。一方、墓石は残りましたが、太平洋戦争の戦災で焼かれ、破砕がひどく、戒名等も一部しか判読できない状態となりました。

そこで、お熊の260回忌に相当した昭和61年に墓石の一部を復元し、供養碑を建立しました。(常照院ホームページより)

 お熊は、斬首される前に市中引廻しとなりました。この時、お熊は、黄八丈を着ていました。そのため、黄八丈は不吉な着物だという評判がたち、黄八丈は一時期大変すたれてしまいました。
 しかし、お熊が処刑されてから48年たった安永4年(1775)に「恋娘昔八丈」が上演されると黄八丈の人気が復活したばかりでなく、お熊の評判も高くなりました。
 そして、明治6年には、河竹黙阿弥が「梅雨小袖昔八丈」を書き、お熊の人気は一層高くなりました。

 赤印が常照院です





 



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by wheatbaku | 2018-09-23 16:34 | 江戸のヒロイン
「浅岡飯炊きの井」―良源院 (江戸のヒロインゆかりの寺社③)

「浅岡飯炊きの井」―良源院 
(江戸のヒロインゆかりの寺社) 

前回、三沢初子(浅岡局)のお墓をご紹介しました。

 その三沢初子(浅岡局)ゆかりのお寺が増上寺にあります。(正確に言うと、ありました)

 現在の港区役所の敷地の南西の角に「浅岡飯炊きの井」があります。

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港区役所の敷地には、江戸時代、増上寺の子院である良源院がありました。

 この良源院は、仙台藩伊達家の藩主が増上寺参詣する際に支度所として使用されていました。

 万治3年(1660)に仙台藩で起きた有名な伊達騒動の際、2歳の亀千代(のちの伊達綱村)を毒殺から守るため、母の三沢初子(側室である浅岡局)が自らこの井戸で水を汲んで調理したと伝えられています。

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 もともとは、旧庁舎の中庭にあったものを、昭和62年の庁舎新築の際に移転したものだと説明板に書かれています。

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良源院は、現在は、なくなっていて存在しません。

いつ廃寺となったのかはっきりしませんが、幕末の江戸切絵図では、良源院は、現在の港区役所のある場所に描かれています。

しかし、明治17年(1884)の参謀本部陸軍部測量局作成の地図には記載されていませんので、少なくとも明治17年までに廃寺となったものと思われます。

伊達騒動は、伊達亀千代(綱村)の後見人になった伊達兵部が、藩政を専権したため、伊達安芸が、幕府に訴えでて、幕府の裁定により、伊達兵部が土佐藩山内家に預けられて結着しました。 

これが、歌舞伎に取り上げられて「伽羅千代萩」では、幼君鶴喜代の乳母政岡が、幼君を敵から守るためわが子千松を犠牲にする場面は大変有名な場面となっています。

しかし、仙台市史を読む限りでは、綱村の毒殺の企みがあったとは書いてありませんので、脚色されたものと思います。

伊達騒動と言えば、山本周五郎の「樅の木は残った」が大変有名です。

これは、従来、伊達兵部の一味として藩政を専権していた家老原田甲斐を悪人としてでなく、大老酒井忠清の伊達家改易の企みを阻止するために、闘った人物として描き、原田甲斐悪人説を覆す小説だと言われています。

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そこで、今回、仙台市史と「樅の木は残った」を読んでみましたが、仙台市史では、原田甲斐は伊達兵部の一味であり、時の大老の酒井忠清の屋敷で、伊達騒動に対する尋問がおこなわれた際に、原田甲斐が突然伊達安芸に斬りかかり、伊達安芸を殺害したと書かれています。

現時点での伊達騒動に対する公式的な見解が仙台市史の立場なのだと思います。

一方、「樅の木は残った」では、最後の場面では、酒井忠清邸で、酒井忠清の家臣が、原田甲斐や伊達安芸らを殺害したものの、原田甲斐がなくなる直前に、「自分の乱心である」として、それが公式なものになり、原田甲斐一族が厳罰に処せられたとなっています。

一般に言われているように、原田甲斐が忠義の人物という風に書かれていて、仙台市史の立場からすれば、確かに違ったものとなっているように思ったと書いておきます。

最後に、「樅の木は残った」のタイトルとなっている樅の木はどこにあったかについて書きます。

「樅の木は残った」を読むまでは、原田甲斐の館であった船岡城(宮城県柴田郡柴田町)付近にあった樅の木を指していたものだと思っていました。

しかし、「樅の木は残った」の樅の木は、今回紹介した良源院にあったようです。

「樅の木は残った」は、「冬の章」が最後の章ですが、この章は良源院の舞台となっています。

その中で、樅の木は次のように描かれています。

雪はしだいに激しくなり、樅の木の枝が白くなった。空に向かって伸びているその枝々は、雪を衣(き)て凛と力づよく、昏れかかる光の中に独り、静かに、しんと立っていた。

まさに、良源院にある「樅の木は残った」のです。



 赤印が「浅岡飯炊きの井」です。







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by wheatbaku | 2018-09-20 18:52 | 江戸のヒロイン
三沢初子のお墓(江戸のヒロインの墓⑰)

三沢初子のお墓(江戸のヒロインのお墓⑰)

 江戸のヒロインのお墓、今日は三沢初子のお墓をご案内します。

 三沢初子という人はあまり有名でないので、ご存知の方は少ないと思いますが、歌舞伎の『伽羅先代萩』の政岡のモデルとなった女性です。

 三沢初子のお墓は、中目黒の正覚寺にあります。

正覚寺は、中目黒駅から徒歩5分の山手通りに沿ってあります。

正覚寺は、実相山正覚寺といい、日蓮宗のお寺です。

元和5年(1619)に日栄上人によって創建されました。最初は日蓮宗の不受不施派のお寺でしたが、幕府によって不受不施が弾圧された際に、受布施派の身延山久遠寺の系統になりました。

 正覚寺は、江戸三大鬼子母神に数えられた伝教大師作と伝えられている鬼子母神像が有名ですが、鬼子母神が祀られている鬼子母神堂は現在修復工事中です。

 下写真は11代将軍徳川家斉が江戸城中で深く帰依していたという日蓮聖人木像が安置されている祖師堂です。

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 三沢初子のお墓は、本堂の東側の墓所内にあります。墓所の中央にありますので、比較的容易に見つけられると思います。

 三沢初子は、寛永16年(1639)、鳥取藩士三沢清長の長女として生まれ、13歳のとき母と死別してしまいました。そこで、初子は、叔母の紀伊局に養育されることになりました。

 紀伊局は、徳川家康の次女の督姫と池田輝政の間に産まれた振姫の侍女でした。

 振姫は、伊達政宗の嫡男忠宗と元和3年に結婚しました。

 紀伊局は振姫とともに伊達家の奥向きに入ることとなり、初子も同じように伊達家で振姫に仕えました。

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 初子は美しいうえに利発であったことから、忠宗の嫡男綱宗の側室に選ばれることになりました。

 初子は、明暦3年(1657)には、正室となり、浅岡局と呼ばれるようになりました。

万治元年(1658)、伊達忠宗が亡くなったため、綱宗は3代仙台藩藩主になりました。

そして、翌年の万治2年(1659)、初子は江戸屋敷にて亀千代(後の伊達綱村)を産みました。

しかし、万治3年(1660年)伊達綱宗は、遊蕩が過ぎ、幕府から隠居を命じられました。そして、次期仙台藩藩主となったのが、まだ2歳の亀千代でした。

2歳では、とても藩政を取り仕切ることはできないため、後見役とされたのが伊達兵部宗勝と田村右京太夫宗良でした。この伊達兵部宗勝が藩政を牛耳ろうとしたため、いわゆる伊達騒動が起こります。

この伊達騒動は、家老の原田甲斐が、伊達安芸に斬りつけ殺害するという結末を迎えます。

これにより、幕府は、伊達兵部を土佐藩山内家にお預けとしますが、伊達綱村に対しての御咎めはありませんでした。

騒動中、伊達綱村は毒殺の怖れがあったため、三沢初子を必死になって、綱村を守りました。
 騒動が解決した後、綱宗と仲睦まじく暮らし、48歳でなくなり、法名は浄眼院殿了岳日巌大姉と号しました。
 この法名は、正覚寺のお墓にも刻まれています。

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伊達騒動は、歌舞伎などに取り上げられ、「伽羅千代萩」や「伊達競阿国戯場」が有名です。

この中の女主人公が「乳母の政岡」です。幼君毒殺をおそれ、自ら飯を炊き、毒入りの菓子を我が子千松に食べさせてまで、綱村を守りぬく忠義の女性と描かれています。

この政岡のモデルとなったのが三沢初子です。

正覚寺の鐘楼脇に、3メートル余りもある三沢初子の銅像が建てられています。

この三沢初子の銅像をよく、見ると嫋やかな女性ではなく、ごつい女性の銅像です。

それもそのはず、この銅像は、6代目尾上梅幸の弟子尾上梅朝が演じた先代萩の政岡を元にデザインされたものです。つまり女形が演じた三沢初子の銅像です。

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赤印が正覚寺です。












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by wheatbaku | 2018-09-18 11:09 | 江戸のヒロイン
毎日文化センター主催の渋谷散歩が開催されました。

毎日文化センター主催の「渋谷散歩」が開催されました。

昨日は、毎日文化センターの「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」で、渋谷駅周辺の史跡散歩をしてきました。

 昨日は、午前中は本降りの雨でしたが、散歩を始めて30分ほどで雨もあがりました。

渋谷というと西口では渋谷スクランブル交差点付近や道玄坂、あるいは東口ではヒカリエや宮益坂周辺を散歩する人が多いのですが、今回は、渋谷駅から南東方向の文教地区を訪ねて散歩しました。

多くの参加者の皆さんもあまり訪ねたことがない場所とのことで散歩に参加された皆さんにも大変喜んでいただきました。

散歩にご参加いただいた皆さんありがとうございました。

昨日の散歩コースは次の通りです。

渋谷駅 ⇒ 稲荷橋(渋谷川) ⇒ 金王八幡宮 ⇒  八幡通り(鎌倉街道跡) ⇒ 國学院大学博物館 ⇒ 吸江寺(安中藩板倉家墓所) ⇒ 塙保己一史料館 ⇒ 渋谷区郷土博物館 ⇒ 常盤松碑(薩摩藩下屋敷跡) ⇒ 並木橋(鎌倉街道跡)⇒ 渋谷駅。

今回は、金王八幡宮、塙保己一史料館、白根記念渋谷博物館・文学館で、それぞれ、ご説明をしていただきました。そこで、それらを中心にご紹介します。

まず最初に向かった金王八幡宮は、社伝によれば、平安時代中期の寛治6年(1092)鎮座したとされている大変古い神社です。

平日は渋谷の繁華街とは思えない静かな空間となっています。しかし、昨日は、金王八幡宮の例大祭で大勢の人出があり境内は大勢の人でにぎわっていました。

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金王八幡宮では、田所権禰宜様に、金王八幡宮の御由緒、金王桜の由来、社殿の建立経緯などをご説明いただきました。

金王八幡宮という名前は、源義朝・頼朝父子に仕えた渋谷金王丸から付ららた名前であり、渋谷氏は、秩父平氏の一族であることなどを丁寧にお話いただきました。

田所権禰宜様、お祭りの最中で大変お忙しいところ懇切なご説明いただきありがとうございました。

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國學院大學博物館では、昨日から、特別展『キリシタン―日本とキリスト教の469年―』が開催されています。

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そこで、30分ほど時間をとって見学しました。

重要文化財の「踏絵」や「マリア像」、シドッチの頭骸骨の復元像など興味深いものが展示されています。下写真は、博物館入口での説明の様子です。

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塙保己一史料館では、塙保己一が編纂した群書類従の版木が保管されています。

その群書類従の板木は、倉庫に整理されて山のように積まれていました。

それを見ながら、温故学会の斎藤理事長様(下写真左下)が詳しく説明してくださいました。

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群書類従の説明の前に、斎藤理事長様が2階講堂で塙保己一について説明してくださいました。

塙保己一は、武蔵国児玉郡保木野村(現在、埼玉県本庄市児玉町)に生まれ)、15歳の時に江戸に出て、雨富須賀一検校の門人となり、学問の道に進み、34歳の時、『群書類従』の編纂をはじめ、72歳の時に完成しましたこと等を丁寧に話してくださいました。

なお、2階講堂は、昭和12年に、奇跡の人ヘレンケラーが訪れて、塙保己一の銅像に手を触れた場所です。

斎藤理事長様、本来は長時間必要な塙保己一について、コンパクトにご説明していただきありがとうございました。

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渋谷郷土博物館・文学館では、企画展「ハチ公と忠犬ハチ公像」が10月8日まで開かれています。

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そこで、学芸員の松井様に、上野教授が亡くなった後もハチ公が渋谷駅に迎えに行った経緯、ハチ公が全国の人から忠犬として讃えられるようになった経緯、そしてハチ公が亡くなった時の様子などハチ公について詳しく解説していただきました。

 松井様、わかりやすいご説明ありがとうございました。

なお、企画展会場は、写真撮影禁止ですので、会場外から望遠で撮影した写真です。

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昨日は、それぞれ、御専門の方からご説明いただき、実多い散歩となりました。田所様、斎藤様、松井様、そしてご参加いただいた皆様ありがとうございました。








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by wheatbaku | 2018-09-16 15:05 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
祖心尼のお墓(江戸のヒロインの墓⑯)

祖心尼のお墓(江戸のヒロインの墓⑯)

江戸のヒロインのお墓ですが、今日から、東京にあるヒロインのお墓をご紹介していきます。

 今日は、祖心尼のお墓をご紹介します。

 祖心尼のお墓は、新宿区早稲田にある済松寺(さいしょうじ)にあります。

 済松寺は、東京メトロ早稲田駅1番出口から7分の距離にあります。

 祖心尼のお墓にお参りするには、事前に予約が必要で、突然お邪魔してもお参りはできませんので、ご注意ください。

 済松寺は、3代将軍家光が祖心尼のために1万5千坪の寺領を寄進し建立された寺院ですので、現在でも広い境内を誇っていて、緑が多い静かなお寺です。下写真は本堂です。

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 祖心尼のお墓は、本堂の手前左手の墓所の中の歴代御住職が眠っている区域にあります。お墓の形式は無縫塔で、墓の手前に「当山開基 祖心尼公」と書かれた表示がされています。

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祖心尼は、伊勢国岩手城主牧村利貞の娘として生まれ、「おのう」(済松寺のホームページでは「おなあ」)といいました。

 おのうの母親は、稲葉重通の娘でした。稲葉重通は春日局の義理の父ですので、おのうは春日局の義理の姪ということになります。

 

 牧村利貞は、豊臣秀吉の命令により朝鮮出兵に出陣し、朝鮮で亡くなりました。父が亡くなった後、おのうは、前田利家に引き取られ養育されます。

牧村利貞は、千利休のもとで茶を習い、前田利家とは、ともに「利休七哲」に数えられるほどの仲でした。こうしたことも影響したのだろうと思言われます。

成長したおのうは前田家の一族である小松城主前田長種に嫁ぎ、2人の男の子を産みますが、前田家から離縁されてしまいます。

 離縁の理由は、姑との仲がよくなかったなどの説がありますが、はっきりはしていないようです。

おのうは、前田家を離縁された後、父親の牧村利貞が建立した京都の妙心寺塔頭「雑華院(ざっけいん)」へ身を寄せます。

そこで、雑華院住職で叔父の一宙禅師から、「禅」について学びます。

 やがて、再婚の話が持ち上がり、21歳で会津藩蒲生家の重臣町野幸和と再婚し、二人の女の子を産みます。このうちの一人の娘が産んだ娘が家光の側室お振りの方となります。

しかし、蒲生家が世嗣がなく改易となったため、おのう一家は江戸に戻りました。 

江戸に帰ったおのうは、叔母である春日局を頼り、大奥に入ります。

夫町野幸和がなくなった後、おのうは剃髪し祖心尼となりますが、春日局の信頼も厚く、春日局の死後は大奥取締を継いでいます。

また、家光からも厚い信頼をえたうえ、祖心尼の孫娘が家光の側室お振の方となり、家光最初の子供(千代姫)を産んでいるため、大奥で絶大な力を振るいました。

家光は祖心尼に1万5千坪の寺領を寄進し、寺院建立を指示します。

建立された寺は臨済宗の「済」と松平家の「松」の字を取り、済松寺と名づけられました。

家光の死後、祖心尼は大奥を去り、済松寺で暮らしました。

延宝3年(1675年)311日に88歳で祖心尼は静かにこの世を去りました。

 赤印が済松寺です。







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by wheatbaku | 2018-09-13 18:17 | 江戸のヒロイン
寺田屋お登勢のお墓(江戸のヒロインの墓⑮)

寺田屋お登勢のお墓(江戸のヒロインのお墓⑮)

この間、京都にある「江戸のヒロインのお墓」を紹介してきましたが、最後に、寺田屋のお登勢のお墓をご紹介します。

 寺田屋お登勢は、伏見にある松林院に眠っています。

 松林院は、伏見区役所の真北近くにあり丹波橋駅から徒歩で10分弱で到着します。

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 門の左手の潜り戸を空けて中に入ります。墓地はあまり広くなく、寺田屋お登勢の墓と書かれて標識もあるので、容易に見つかります。

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お登勢は文政12年、近江国大津で旅館を営む大本重兵衛の次女として生まれました。

18歳で京都伏見の船宿寺田屋6代目伊助に嫁ぎましたが、伊助は怠け者で京都木屋町の妾宅に入り浸って寺田屋へは帰らなかったといいます。

寺田屋は江戸初期から続く伏見の老舗の船宿で船頭も多く抱え、船足が速く評判の船宿でした。寺田屋は、現在もその姿を残しています。(下写真)

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元治元年、夫伊助は放蕩が祟り35歳の若さで没すると、気難しい姑によく仕え、一男二女を育てながら、お登勢は寺田屋を一人で切り盛りをしていました。

お登勢は人の世話が好きで、人から頼まれれば喜んで引き受け、捨て子を5人育て上げました。

寺田屋は早くから薩摩藩の定宿になっていたため、お登勢の性格から多くの尊王攘夷の志士達を支援しました。その一人が後で述べる坂本龍馬です。

寺田屋と言えば、文久3年、島津久光の命によって差し向けられた鎮撫使により有馬新七たち過激尊王攘夷派の9藩士が殺害された寺田屋事件が有名です。

この時、お登勢は子供達をかまどの裏に隠して一人で帳場を守り、騒動後は血で染まった畳やふすまをすべて取り替え天井の血糊をきれいにふき取らせ翌日には商売を始めたといいます。

下写真は、寺田屋事件の現場となった現在の寺田屋の一室です。1階の入口そばにあります。

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また、薩摩藩は騒動で亡くなった有馬新七ら9人を罪人として扱いましたが、お登勢は9人の位牌を作り寺田屋の仏壇で自ら供養しました。

寺田屋事件で亡くなった9人は、伏見の大黒寺に眠っています(下写真)が、その大黒寺は、お登勢のお墓がある松林院の真向かいにあります。

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お登勢といえば、坂本龍馬との関係も有名です。

坂本龍馬は、薩摩藩の定宿であった寺田屋を京都の活動拠点としました。

下写真が、坂本龍馬がいつも使っていた部屋です。

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坂本龍馬が寺田屋を利用するようになったのは、薩摩藩からお登勢に依頼があったからだと言われています。

坂本龍馬は、龍馬もお登勢を「おかあ」と呼んで親しんでいたうえにお登勢を「学問のある大人物也」と高く評価しています。

そして、禁門の変後、京都の半分は焼け出された楢崎龍の面倒を頼み、お登勢はお龍の面倒を見て、お龍を自分の妹のように可愛がりました。

慶応2年、薩長同盟を締結して間もなく、寺田屋で坂本龍馬が幕府の捕方に襲撃された際に、お龍が素裸で二階にいる坂本龍馬に知らせ、坂本龍馬が怪我を負いながらも逃走できたことも有名な話です。

先日の大河ドラマ「西郷どん」でも描かられていました。

現在の寺田屋にも、お龍(楢崎龍)が入っていた風呂が残されています。

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龍馬暗殺後は土佐でしばらく暮らしていたお龍が龍馬の姉乙女との不仲で京都に出てきた時に庇護したとも言われています。

明治10年、お登勢は49歳の若さで亡くなりました。法名は喜道院妙持信女です

赤印が松林院です。青印が大黒寺です




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by wheatbaku | 2018-09-11 14:50 | 江戸のヒロイン
お江(崇源院)・春日局・阿茶局のお墓―金戒光明寺 (江戸のヒロインの墓⑭)
お江(崇源院)・春日局・阿茶局のお墓―金戒光明寺

(江戸のヒロインのお墓⑭)

池玉瀾が眠る金戒光明寺には、お江(崇源院)のお墓、春日局のお墓、阿茶局のお墓など、江戸検お題テキストに取り上げられている女性のお墓があります。そこで、今日は、それらのヒロインのお墓を紹介します。

金戒光明寺の墓地は、境内の東側の山腹に広く広がってあります。

そのため、金戒光明寺でのお墓詣りは石段を上がっていくので結構大変です。前回書いた池玉瀾のお墓も石段を何段も登って先にあります。

 下写真は、西雲院近くにある三重塔の前から山門方向を撮ったものです。金戒光明寺の境内の広大さおよび高低差がおわかりになると思います。

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今日紹介するヒロインのお墓のうち、お江(崇源院)と春日局のお墓は墓地の入口、阿茶局のお墓は御影堂のすぐそばにありますので、石段を登る必要はありません。

 下写真は、金戒光明寺の御影堂です。昭和9年に焼失し昭和19年に再建されたものです。

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お江(崇源院)のお墓は、墓地に入ってすぐの左側の石段を上った正面に建っている大きな宝篋印塔(ほうきょういんとう)です。

このお墓は、寛永5年(1628)に春日局がお江(崇源院)の追善供養のために建てて供養墓で、お江(崇源院)の遺髪が埋葬されているそうです。

お江(崇源院)と春日局は、将軍継嗣問題などで対立することが多かったわけですが、お江(崇源院)の死後の菩提を弔うために建てたものです。

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そのお江(崇源院)の供養墓の右手奥には、徳川忠長の供養墓があります。この徳川忠長のお墓を建てたのも春日局です。

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徳川忠長は、秀忠とお江(崇源院)の間に生まれ、両親の愛情を一身集め、3代将軍の有力候補でした。

しかし、春日局の徳川家康への直訴により、次期将軍は徳川家光ということになりました。

その後、徳川忠長は駿河50万石を領し、駿河大納言と呼ばれましたが、次第に悪くなってきたため、高崎藩に預けられ、寛永10年に高崎の大信寺で自害しました。お墓も大信寺にあります。

春日局は、徳川忠長がこういったことになったことの責任の一端は、春日局にもあると思い、寛永11年に徳川忠長の供養墓を建立しました。

二人の供養墓を建てた春日局自身のお墓が、お江(崇源院)のお墓の左手前にあります。(下写真)

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金戒光明寺には阿茶局のお墓もあります。

御影堂の西側におおきな宝篋印塔(ほうきょういんとう)が四つありますが、その最も北側の宝篋印塔が阿茶局のお墓です。

阿茶局は、武田氏の家臣飯田直政の娘として生まれ、今川家臣神尾忠重に嫁ぎ、夫の死後、徳川家康に仕えました。阿茶局は、才知に優れ、側室よりも側近といったほうがよい活躍をし、大坂冬の陣では徳川方の和議の使者となました。徳川家康没後でも、東福門院和子の入内の際には、母代わりをつとめ,のち従一位をさずけられ神尾一位,一位の尼とよばれました。

阿茶局は、東福門院和子の母親代わりでしたので、東福門院和子の幸せと天皇家と徳川家の繁栄を祈念して、金戒光明寺に雲光院(のちに清心院)を建立しました。

阿茶局は、寛永14年正月22日に83歳でなくなりました。

「幕府祚胤伝(そいんでん)」には、神尾氏が、雲光院に碑を建てたと書いてあるので、阿茶局の一族が、供養墓として建立したのかもしれません。

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by wheatbaku | 2018-09-08 20:43 | 江戸のヒロイン
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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