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 お振の方(自性院)の霊屋(江戸のヒロインの墓㉘)

 お振の方(自性院)の霊屋(江戸のヒロインの墓㉘)

江戸検が近づいてきました。皆さん、頑張って準備されていることと思います。江戸のヒロインに関する記事の最後として、お振の方(自性院)の霊屋(おたまや)をご案内します。

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お振の方は、3代将軍徳川家光の最初の側室です。

3代将軍家光は、当寺は男色に熱心で女性にはあまり関心を示さなかったと言われています。そこで、春日局が心配してお振の方を大奥に招いたと言われています。

お振の方の出自は諸説あるようですが、江戸検お題テキスト「江戸のヒロインたち」では、石田光成の孫の岡吉右衛門、母は春日局の姪祖心尼の娘となっています。「徳川妻妾記」(高柳金芳著)には、春日局の姪祖心尼の孫で、後に祖心尼の養女となったとされています。

お振の方が大奥に入ったのは、寛永3年(1626)ですが、春日局の期待通り、家光の最初の子供千代姫を産んだのは、寛永14年(1637)でした。

千代姫は、出生の翌年、尾張藩の世子徳川光友と婚約し、3歳で市ヶ谷の尾張藩邸に輿入れしました。

お振の方は寛永17年(1640821日に亡くなり、法名「自証院殿光山暁桂大姉」となづけられ、牛込の法常寺に葬られました。

そして、徳川家光はお振の方を葬るため1万坪余を下賜し、法常寺を市ヶ谷に移し自証院を建立しました。(下写真は、参道から写した現在の自性院です。中央奥に見えるのが本堂です)

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慶安5年(1652)には、千代姫が施主となって生母お振の方の霊屋(たまや)を自証院境内に建立しました。これが江戸東京たてもの園に現存する旧自証院霊屋です。

寛文元年(1661)、千代姫によって本堂が建立されています。

元禄11年(1698)に千代姫はなくなりましたが、尾張家は、千代姫没後も、自証院を庇護していました.しかし、明治になると尾張家の庇護がなくなり、自性院は荒廃してしまいました。

さらに、明治4年、明治政府の社寺上地令により境内地と墓地の一部を残して寺領の大半は国有地として没収されました。

明治末年には、経済的な困難もあって、墓地は現在の中野区上高田に移転、改葬が行われ、広大な寺域も宅地として売却され、さらに昭和3年、境内地の一部が、小学校建設用地として東京都に譲渡されたことにより、境内地は非常に狭くなっています。

旧自証院霊屋は、昭和32年西武鉄道によって買収され、赤坂プリンスホテル内に移築されていましたが、平成7年、江戸東京たてもの園に移され復原されています。(下写真参照)

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そこで、昨日、江戸東京たてもの園を訪ねて旧自証院霊屋を見てきました。

 江戸東京たてもの園は、小金井市の都立小金井公園の中にあります。

 中央線武蔵小金井駅北口から西武バスで5分の小金井公園西口バス亭から公園の中を5分程歩くと江戸東京たてもの園の正面入口になります。

下写真が入り口建物です。

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 西武バスはかなりの本数が出ていますので、交通は便利です。

旧自証院霊屋は、10月28日から11月4日までは東京文化財ウィークの一環として、内部が公開されていましたが、日曜日・祝日には内部が公開されるということを現地で知りました。(下写真は正面から撮った写真です。) 

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旧自証院霊屋の建築に当たった大工は幕府作事方大棟梁甲良宗賀です。

建物の外観は漆と極彩色で飾られていて、創建当初の姿になっていて、須弥壇等内部の移築当時の状態を残して修復されたそうです。

赤印が江戸東京たてもの園です。





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by wheatbaku | 2018-10-31 18:16 | 江戸のヒロイン
お貞の方(真如院)のお墓(江戸のヒロインのお墓㉗)

お貞の方(真如院)のお墓(江戸のヒロインのお墓㉗)

江戸のヒロインのお墓、今日は加賀騒動の当事者の一人お貞の方(真如院)のお墓をご案内します。

 お貞の方(真如院)のお墓は、文京区向丘の長元寺にあります。

 東京メトロ本駒越駅1番出口から徒歩3分の距離にあります。また、東大前駅2番出口からでも徒歩5分の距離にあります。

 長元寺は日蓮宗のお寺です。(下写真は本堂です)

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谷中感応寺を中興した日長上人が開山となり寛永4年(1627)千駄木に創建され、寛文2年(1662)現在地へ移転したといいます。中興開基は、前田吉徳の母預玄院でした。

お貞の方(真如院)のお墓は本堂の北側にあります。

墓表には「眞如院殿照月日清大姉」と刻まれています。

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 お貞の方(真如院)は、加賀騒動の重要な人物ですので、まず加賀騒動についてお話します。

加賀騒動は、江戸時代の中期に加賀藩で起こった御家騒動です。

6代藩主前田吉徳に可愛がられた大槻伝蔵が、前田吉徳の側室お貞の方(真如院)と密通し、お貞の方(真如院)の産んだ利和(としかず)を藩主とするために、前田吉徳および7代藩主前田宗辰(むねとき)を暗殺し、さらに8代藩主前田重煕(しげひろ)を暗殺しようとしましたが、重臣前田土佐守直躬(なおみ)らが中心となって、大槻伝蔵が捕えられ、大槻伝蔵は流刑地五箇山で自害したというのが加賀騒動のストリーです。


 しかし、加賀騒動は、実録ものと言われる小説から広がった物語です。

 実録ものというのは、事実に虚構をまじえて興味本位につくられたもので講釈師の口述を書き留めた講談台本などを書写した読み物です。

 こうしたことから、いわゆる加賀騒動の話には、事実と異なることが多いようです。

 実際は、加賀藩で、財政再建のため前田吉徳が、茶坊主あがりの大槻伝蔵を重用し、経費の節減や上方での金融に独自の腕を振るわせ、それが成功したことから、大槻伝蔵が異例の出世をとげました。これに対して、保守派の重臣たち特に前田直躬が大槻伝蔵を嫌い、延享2年(1745)前田吉徳が亡くなりと、大槻伝蔵は後ろ楯がなくなり失脚し、寛延1年(1748)越中五箇山に流され、同年配所で自殺しました。 

 また、お貞の方(真如院)による前田重煕(しげひろ)を暗殺や大槻伝蔵との密通についても、これという罪状もつかめないところから、前田直躬らが両者の密通・密謀をでっち上げたのではないかという説もあるようです。


お貞の方(真如院)は、芝神明の神職鏑木政幸の娘で、同じく前田吉徳の側室心鏡院(次男・重熙の生母)は、お貞の方(真如院)の妹もしくは姪といわれています。

前田吉徳の側室となり、富山藩主前田利幸に嫁いだ長女総姫はじめに、利和(勢之佐)、楊姫、益姫、八十五郎の23女を産みました。(うち益姫は夭折)

延享2年(1745年)に前田吉徳が没したため、落飾し真如院と称しました。

前田吉徳の跡は、その長男の宗辰(むねとき)が継ぎました。

前田宗辰は、大槻伝蔵に対して厳しくあたり、大槻伝蔵を失脚させています。

しかし、前田宗辰は、延享3年(1746)に死去し、続いて次男の重熙(しげひろ)が藩主となりました。宗辰はわずか1年6ヶ月だけ藩主でした。

寛延元年(1748年)、お貞の方(真如院)の子供八十五郎が加賀藩の重臣・村井長堅の養子と決まったため、真如院は八十五郎とともに江戸を出発し、7月11日に金沢に到着しました。

ところが、お貞の方(真如院)の旅行中の6月26日と7月4日、江戸藩邸で、茶釜に毒をいれ、藩主の前田重熙や浄珠院(6代藩主宗辰生母)を毒殺しようという事件が起こりました。 


調査の結果、お貞の方(真如院)の娘の楊姫付きの中臈浅尾に疑いがかけられ、浅尾はお貞の方(真如院)の命令によって行ったと自白しました。

そのため、お貞の方(真如院)は、金沢の金谷御殿に幽閉されました。

さらにお貞の方(真如院)の居室から、大槻伝蔵の手紙が見付かったとされ、大槻伝蔵と密通していたと疑いを掛けられました。(これは今では前述したようにでっちあげだと考えられています。)


これらによって、お貞の方(真如院)は終身禁固と決められたが、体調を崩していたため、そのまま金谷御殿の縮所で幽閉されました。

お貞の方(真如院)は、寛延2215日、病死しました。享年42歳でした。

そして、金沢の経王寺に葬られました。

江戸の長元寺のお貞の方(真如院)のお墓は、後日、建てられた供養墓のようです。


赤印が長元寺です。





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by wheatbaku | 2018-10-29 21:26 | 江戸のヒロイン
大橋巻子のお墓(2)(江戸のヒロインの墓㉖)

大橋巻子のお墓(2)(江戸のヒロインの墓㉖)

 今日も大橋巻子の続きです。昨日は大橋巻子の夫大橋訥庵について書きましたが、今日は大橋巻子について書きます。

 大橋巻子のお墓は、大橋家の墓所のうちの大橋訥庵の隣に建っています。墓表には大橋氏巻之墓と刻まれています。

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 大橋巻子は、江戸日本橋の豪商大橋淡雅の娘として生まれました。

父親の大橋淡雅は、医師大橋英斎の子どもとして生まれ、15歳の時宇都宮の豪商佐野屋治右衛門(菊地孝古)の養子となりました。

大橋淡雅は菊池孝古の一人娘であった民子を嫁に娶って菊地の養子となりましたが、菊池姓は名のらず大橋姓を名のりました。

また、家督を継ぐ立場でしたが、大橋淡雅が26歳の時、養父菊池孝古は、大橋淡雅に江戸日本橋に出店することを許しました。

大橋淡雅は、商売上手で、一代で木綿を取り扱う豪商へと商売を発展させました。

しかし、大橋淡雅は若い頃から学問をしたいという希望をもっていて、大橋家を継ぐ後継者は学者から迎えたいと考え、娘巻子の婿養子に佐藤一斎の弟子で儒家として有望な清水順蔵(大橋訥庵)を迎え、大橋家の名籍を継がせました。

一方、商売の方は、巻子の実弟菊池教中(きょうちゅう)に継がせました。

下写真が大橋淡雅のお墓です。墓表に淡雅大橋知良之墓と刻まれています。

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大橋巻子は、幼いころから母民子に学び和歌に優れ、国学も修めました。

巻子は、大橋訥庵を婿養子に迎えた後は、大橋訥庵の開いた思誠塾や尊王運動を助けました。

文久2(1862)113日、夫の大橋訥庵が、坂下門外の変の首謀者として逮捕され、さらに実弟菊池教中(きょうちゅう)も坂下門外の変に関与したことから逮捕されました。

大橋訥庵の逮捕後、思想塾の家宅捜索が行われましたが、大橋巻子は事前に証拠となるような文書は破棄しておきました。また、奉行所にも呼ばれ尋問を受けましたが、それにも屈せず、大橋訥庵の留守を守り通しました。

しかし、77日に出獄した大橋訥庵は、大橋巻子の看病の甲斐もなく、文久2712日に亡くなり、実弟教中も88日なくなりました。

この時期に大橋巻子が書いたのが、有名な『夢路日記』です。

『夢路日記』は、夫訥庵と実弟教中が投獄された文久2年正月から約半年間の大橋巻子の心情を40首の歌とともに綴ったものです。

この『夢路日記』は尊攘派の志士の間で評判となりました。

勤皇思想と大橋訥庵や菊池教中への思いを豊かな表現力を駆使して綴られたこの日記は、当時の尊攘志士たちの間で評判となりました。

遠く離れた九州福岡の野村望東尼も『夢路日記』を読んだと言います。

大橋巻子は、大橋訥庵が亡くなった後、思誠塾を継いだ養子陶庵と一緒に暮らし、明治14年12月23日58歳で亡くなりました。

そして谷中天王寺の大橋家の墓所に大橋訥庵と並んで眠っています。
 下写真の右が大橋巻子のお墓、左が大橋訥庵のお墓です。

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by wheatbaku | 2018-10-26 17:27 | 江戸のヒロイン
大橋巻子のお墓(1)(江戸のヒロインの墓㉕)

大橋巻子のお墓(1)(江戸のヒロインの墓㉕)

谷中の天王寺の墓地には、江戸検お題テキスト「江戸のヒロイン」に載っている大橋巻子のお墓があります。

 大橋巻子のお墓は大橋家の墓所の一画にあります。

 下写真が大橋家の墓所の全体写真ですが、天王寺の墓地は、都立谷中霊園と接していますが、谷中霊園のように墓所番号表示がされていないため、大橋家の墓所を探すのは大変です。やはり、天王寺の寺務所で問い合わせてからお参りするのが一番よいと思います。 

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 大橋巻子のお墓は、その夫大橋訥庵と並んで建てられています。(下写真の右が大橋巻子、左が大橋訥庵のお墓です)

大橋巻子について語るには、大橋巻子の夫大橋訥庵について述べた後のほうが良いので、まず今日は大橋訥庵について話をします。

 大橋訥庵は宇都宮藩の儒者で、坂下門外の変での老中安藤信正の襲撃には加わりませんでしたが、その計画を立案した中心人物で実質的な首謀者です。

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大橋訥庵は長沼流兵学者清水赤城の4男として江戸飯田町に生まれました。訥庵は号、名は正順、通称順蔵と言いました。

大橋訥庵は、幼いころから学問を好み、20歳の時、佐藤一斎の愛日楼塾に入門し、同門には佐久間象山、山田方谷などがいます。

天保12年(1841)、26歳の時、佐藤一斎の勧めにより、江戸日本橋の豪商「佐野屋」の大橋淡雅の娘巻子と結婚しました。

結婚を機に大橋訥庵は日本橋に思誠塾を開き弟子を育成しました。また大橋淡雅の援助で宇都宮藩に仕え、江戸藩邸で月1回講義を行い、大橋訥庵の影響が宇都宮藩に浸透するようになりました。

大橋訥庵は、過激な攘夷論を主張し、ペリー来航時には幕府に攘夷の実行を迫る上書を提出しています。また安政の大獄の際には、刑死した頼三樹三郎の遺骸が小塚原に放置されているのを忍び難いと考え密かに埋葬しています。

桜田門外の変後は、和宮降嫁・公武合体に反対し、王政復古策を密奏するとともに日光輪王寺宮擁立運動に首を突っ込んだりしましたが、うまくいきませんでした。

そこで、水戸藩士と宇都宮藩士による老中安藤信正襲撃計画を立案し、その斬奸趣意書を起草したといわれています。この計画が実行され坂下門外の変となります。

一方で一橋慶喜を擁立して攘夷を実行しようとする運動が宇都宮藩内で計画され、大橋訥庵はそれにも協力して一橋慶喜に仕える元弟子の山本繁三郎に、その計画を話し仲立ちを依頼したところ、その内容の重大なことに驚いた山本繁三郎が老中久世大和守に訴え出て幕府の知るところとなり、大橋訥庵は文久2(1862) 112日に、町奉行所に捕らえられました。

老中安藤信正襲撃を計画していた同志は、大橋訥庵逮捕の報を聞くと、一刻の猶予もないとして、大橋訥庵逮捕の3日後の文久3年1月15日坂下門外で老中安藤信正を襲撃しました。これが有名な坂下門外の変です。

逮捕された大橋訥庵は、尋問にも耐えていましたが、非常に不潔な牢環境で体調を崩していました。

ちょうどこの時期、幕政改革のため勅使として下向していた大原重徳に大橋訥庵の赦免嘆願書を提出したり、大橋訥庵と同門の山田方谷を通じて老中板倉勝静へも赦免嘆願を行いました。こうした運動の結果、文久377日、大橋訥庵は出獄が許され宇都宮藩に預けられました。 


しかし、出獄直後の12日に死去しました。表向きは病死とされていますが、出獄の際に毒を盛られたのではないかとの疑いも持たれています。
亡くなった大橋訥庵は天王寺の大橋家の墓所に埋葬されました。
 大橋訥庵のお墓は、「訥菴大橋君之墓」と刻まれています。(下写真)

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by wheatbaku | 2018-10-24 22:04 | 江戸のヒロイン
お美代の方と谷中天王寺(江戸のヒロインゆかりの寺⑧)

お美代の方と谷中天王寺(江戸のヒロインゆかりの寺⑧)

お美代の方ゆかりのお寺をもう一つ紹介しておきます。

 それは、谷中の天王寺です。天王寺はJR日暮里駅南口から徒歩5分の至近距離にあります。

 下写真は天王寺の本堂です。

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谷中天王寺は、谷中七福神の一つの毘沙門天があるお寺として現在でも有名ですが、江戸時代は富くじ興行でも有名なお寺でした。

 谷中の天王寺は、現在は天台宗のお寺ですが、元禄年間までは、日蓮宗のお寺でした。また江戸時代後期までは感応寺といいました。

 お美代の方の実父は、日蓮宗の中山法華経寺の日啓でした。
 そこで、お美代の方は父のために大きな寺院を望み、富くじが盛んな感応寺を元の日蓮宗に改宗させ、日啓を感応寺の住職にしようとしました。

そのため、幕府から天保4年に寛永寺に対して、感応寺を日蓮宗に戻すという命令が伝えられました。

これに対して、寛永寺住職の輪王寺宮は、感応寺が天台宗に変わった次のような経緯を伝え幕府へ抗議しました。

感応寺は、江戸時代前期には、日蓮宗の不受不施派のお寺でした。しかし、幕府は不受不施派を弾圧し、感応寺に改宗を強要しました。しかし、時の住職日遼は改宗に応じず八丈島へ遠島になりました。

そして、日蓮聖人像はじめ日蓮宗関係の品々も、それぞれ近隣の瑞輪寺等の日蓮宗の寺院に移管され、感応寺は廃寺の危機を迎えました。

しかし、寛永寺の住職である輪王寺宮公弁法親王が、由緒ある感応寺が廃寺となるのを惜しみ、天台宗寺院として存続することを幕府にお願いして認められました。

寛永寺は、こうした天台宗となった経緯を幕府に伝え、改宗には簡単に応じませんでした。そのため、感応寺が日蓮宗へ改宗することは取りやめとなりました。

その代わりに、幕府から、感応寺という寺号は日蓮宗に返すようにとの交換条件が出されました。寛永寺としては寺号の変更には大きな異議はなかったため、感応寺から天王寺へと寺号を改称することになりました。

一方で、日蓮宗に返された感応寺という寺号をもったお寺が新たに天保7年(1836)雑司が谷に建立されることになり、雑司が谷にあった平藩安藤対馬守の下屋敷約3万坪の地が上知され、新感応寺の敷地となりました。

そして、天保7年12月には豪勢な伽藍が完成しました。

新感応寺には、大奥を始め御三家のなどの奥女中の参詣で大いに栄えました。

しかし、天保12年に大御所徳川家斉がなくなると、老中水野忠邦の天保の改革が始まり、新感応寺も探索の対象となり、日啓も逮捕され、女犯の罪により遠島となりました。(日啓は、遠島を待つうちに獄死しました)

天保13年正月からは、新感応寺の本堂の取り壊しも始まり、3月には豪奢を誇った新感応寺はまったく姿を消してしまいました。

お美代の方の野望もついえたのです。

赤印が天王寺です。







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by wheatbaku | 2018-10-22 20:09 | 江戸のヒロイン
お美代の方と講安寺(江戸のヒロインゆかりの寺社⑦)

お美代の方と講安寺(江戸のヒロインゆかりの寺社⑦)

今日は、江戸のヒロインゆかりの寺で、11代将軍家斉の側室お美代の方ゆかりの講安寺を紹介します。

 講安寺は、東京メトロ千代田線湯島駅1番出口から徒歩5分の所にあります。

 有名な旧岩崎邸庭園の北側の無縁坂沿いにあります。しかし、旧岩崎邸庭園の入口は、耕安寺より手前にありますので、講安寺を知っている人は少ないと思います。

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 講安寺は、お美代の方が明治になってから暮らした場所で、亡くなったのも講安寺であったといわれています。
 下写真は本堂ですが、防火機能が高い土蔵造りという建築様式で造られていて、文京区の文化財に指定されています。

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 お美代の方は、11代将軍徳川家斉の側室で、多くの側室の中で家斉から最も寵愛を受けたといわれている側室です。

 父親は、中山法華経寺の智泉院の住職の日啓と書かれたものが多いのですが、国史大辞典によれば、「父は内藤造酒允就相、川尻与兵衛、中山法華経寺の日啓などとの諸説があり一定しない」と書いてあります。

 はじめ駿河台の旗本中野清茂(清武ともいう)の屋敷へ奉公に上がりましたが、中野清茂はお美代を自身の養女として大奥に奉公させまました。
 お美代の方は美しかったので、家斉の目にとまり、寵愛を受けるようになり、文化7年(1810)に御中臈となりました。

そして、文化10年(1813)3月26日に溶姫、文化12年(1815)10月17日に仲姫、文化14年(1817)9月18日に末姫を産みました。

仲姫は3歳で亡くなりましたが、溶姫と末姫は成長し、溶姫は加賀藩主前田斉泰(なりやす)、末姫は安芸国広島藩主浅野斉粛(なりたか)へ嫁入りしました。

お美代の方は、天保7年(1836)、家斉に働きかけて鼠山感応寺を建てもらい、実父の日啓が感応寺の住職となりました。

天保12年(1841)に家斉が亡くなると、剃髪し専行院と名のりました。家斉がなくなると、老中首座の水野忠邦は、家斉の側近たちを排除し、天保の改革を開始しました。


水野忠邦は、頽廃した綱紀の粛正と経費削減に乗り出し、寺社奉行阿部正弘により感応寺住職であった日啓は捕縛され、遠島とされました。(実際には島に流される前に牢死しています)

こうしたことから、お美代の方も、かつての栄光はなくなりました。

そして、前田家に輿入れした溶姫の願いにより、加賀藩前田家に引き取られました。しかし、溶姫が加賀藩国許の金沢に行くことになり、浅野家に移りましたが、続いて浅野家に嫁いだ末姫も国許に行くこととなり、そこを出ることとなりました。

そして、明治になってからは、お美代の方は、加賀藩前田家の上屋敷近くにある講安寺で暮らすことになりました。

溶姫は、明治元年5月1日に亡くなっていますので、こうしたことも、加賀屋敷の外で暮らすことになった理由ではないかと私個人は考えています。

そして、お美代の方は、明治5年6月11日に講安寺で亡くなりました。

国史大辞典でも「墓所未詳」と書いてありますので、講安寺を訪ねて、お美代の方のお墓が講安寺にあるかどうか確認させていただきましたが、講安寺にはないとの回答で、お美代の方のお墓はどこにあるのかわかりません。

赤印が講安寺です。





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by wheatbaku | 2018-10-19 18:28 | 江戸のヒロイン
柳沢吉保の側室染子のお墓(江戸のヒロインの墓㉔)

柳沢吉保の側室染子のお墓(江戸のヒロインの墓㉔)

江戸のヒロインのお墓、今日は柳沢吉保の側室染子(以下柳沢染子と言います)のお墓をご紹介します。

 柳沢染子は、柳沢吉保の側室ですが、江戸検のお題テキスト「江戸のヒロイン」には載っていない女性ですので、あまり知られていないかもしれません。

 ただ、柳沢染子のお墓は、笠森お仙のお墓がある正見寺のすぐそばにありますので、ご案内しておきます。

 柳沢染子のお墓は臨済宗妙心寺派のお寺である龍興寺にあります。 

龍興寺は、寛永6年(1629)に牛込津久土明神下に創建され、承応3年(1654)には小石川小日向に移転し、さらに、明治41年中野区上高田へ移転しました。下写真は龍興寺の本堂です。

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柳沢染子のお墓は、本堂の裏手にあります。お墓の表面には「霊樹院殿月光寿心大姉」という柳沢染子の戒名が刻まれています。(下写真)

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 柳沢吉保は、5代将軍綱吉の側用人を勤め、綱吉の寵臣で、佐貫藩で大名となった後川越藩主となり、その後、甲府藩15万石の藩主まで栄進をしました。

 その柳沢吉保は、上野国館林藩士柳沢安忠の長男として江戸市ヶ谷に生まれました。
 吉保の母は柳沢安忠の側室の佐瀬氏(了本院)でした。

 了本院は、柳沢吉保を生むとまもなく、吉保を正室の子として育てるため実家に帰され、吉保は生母を知らずに育ちました。そして父親の正室が亡くなった後、生母の存在を知った吉保は20年ぶりに母子の名乗りをあげました。

 柳沢染子は、吉保の生母了本院に侍女でした。


柳沢染子は、柳沢氏の領地上総国市袋村の郷士飯塚正次の三女として生まれた、了本院に仕えていました。


柳沢吉保の正室は、甲州出身の旗本の曽雌定盛の次女定子でしたが、子供が生まれなかったため、正室定子と相談のうえ、染子が側室に挙げられたようです。
 そして、貞享4年(168793日に、染子は柳沢吉保の嫡男となる吉里を生んでいます。そして、吉里が嫡子となりました。
 そのため、染子は正室定子に準ずる地位を与えられていました。
 そして、宝永2年(1705510日になくなりました。41歳でした。


この柳沢染子は、5代将軍の側室であり、懐妊したまま、柳沢吉保が拝領し、それから生まれたのが柳沢吉里だという話があります。

つまり、柳沢吉里は、5代将軍綱吉の御落胤ということになります。そこで、柳沢吉保は、柳沢吉里を徳川綱吉の養子にして将軍職を継がせようとしたという話にまで発展していているようです。

しかし、これらはあくまでも俗説のようで、柳沢吉保邸へ、徳川綱吉がしばしば訪れているため、それは、徳川綱吉が染子と吉里に会うために御成になったためと考えられたことなどから、そうした俗説が唱えられたようです。

赤印が龍興寺です。青印が正見寺です。






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by wheatbaku | 2018-10-16 19:35 | 江戸のヒロイン
日暮里駅から谷中を散歩してきました!!

日暮里駅から谷中を散歩してきました!!

昨日は、毎日文化センターの「~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩」が開催され、日暮里駅から、谷中霊園や谷中の寺々を散歩してきました。

 昨日は、気温は平年より低く、どんよりとした曇り空でしたが、幸いにも最後まで雨に降られずに散歩できました。

 ご参加いただいた皆さんありがとうございました。

 昨日は、徳川慶喜のお墓、大名時計博物館を中心として次のようなコースを歩いてきました。

日暮里駅 ⇒ 幸田露伴 ⇒ 天王寺墓地(村垣淡路守範正の墓、大橋訥庵・巻子の墓) ⇒ 天王寺 ⇒天王寺五重塔 ⇒ 大原重徳のお墓 ⇒ 徳川慶喜のお墓 ⇒ 瑞輪寺(大久保主水の墓、大岡越前守忠相の墓) ⇒ 延寿寺日荷堂 ⇒ 大名時計博物館 ⇒ 臨江寺(蒲生君平の墓) ⇒ 根津駅

《幸田露伴旧宅》

明治の文豪幸田露伴は、明治24年から2年ほど谷中に住み、毎日天王寺の五重塔を眺めながら名作「五重塔」を執筆しました。現在も旧宅跡には当時からの珊瑚樹(写真の左手の木)が残っています。

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《大橋巻子・大橋巻子の墓》

大橋巻子は、江戸検のお題のテキスト「江戸のヒロイン」に載っている女性で、老中安藤信正を襲撃した事件(いわゆる坂下門外の変)の計画立案者の大橋訥庵の奥さんです。下写真で私が指差しているお墓は大橋訥庵のお墓で、その隣に大橋巻子のお墓があります。

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《天王寺》

天王寺は、現在は天台宗のお寺ですが、複雑な歴史をもったお寺です。

江戸時代初期まで感応寺という日蓮宗のお寺でしたが、幕府の日蓮宗不受不施派の弾圧の影響により天台宗に改宗されました。また、天保4年には、日蓮宗への復帰が企図された影響で、感応寺から天王寺に改称されました。

下写真の奥が天王寺本堂で、左手が釈迦如来像です。

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《大原重徳の墓》

大原重徳は、文久2年に、江戸に勅使として下向し、幕府に幕政改革の実行を要求しました。これにより、一橋慶喜が将軍後見職となりました。大原重徳のお墓には、明治天皇の命により作られた巨大な勅選碑があります。

下写真は、その勅選碑を見上げる参加者の皆さんです。

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《徳川慶喜の墓》

徳川慶喜のお墓は、谷中の名所の一つで、大勢の参拝者が訪れます。徳川慶喜のお墓は神式のお墓です。これは慶喜の意向に従ってものです。徳川慶喜のお墓には、正室徳川美賀子のほか、側室も眠っています。徳川慶喜は十男十一女の子だくさんでしたが、4代目の徳川慶朝さんが昨年亡くなり、徳川慶喜家は断絶してしまったようです。

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《大久保主水の墓》

瑞輪寺は日蓮宗のお寺で、神田上水を引いた大久保主水のお墓があります。す。大久保主水は、もとは通称藤五郎といいましたが、神田上水を引いた功績から主水という名前を拝領し、その呼び名も濁りのない「もんと」にするようにと命じられたという逸話があります。大久保家の墓所には、歴代の大久保主水の墓がありますが、最も左にあるのが初代大久保主水の墓です。

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《大名時計博物館》

大名時計博物館は、江戸時代の大名時計を展示した博物館です。

もともとは上口 が収集した大名時計を、その子の上口等が大名時計博物館を建設し展示したものです。上口館長さんに親切に大名時計の仕組み等について解説していただきましたが、館内撮影禁止ですので、写真は撮影できませんでした。下写真は大名時計博物館に入ろうとしている参加者の皆さんです。

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《蒲生君平の墓》

蒲生君平は、寛政三奇人の一人で、天皇陵の荒廃を嘆いて実際に天皇陵を調査したうえで「山陵史」を書いたことで有名です。「前方後円墳」という名前をつけた人としても知られています。蒲生君平の墓は臨江寺にあり、墓石の四面に藤田幽谷の撰文がぎっしり彫られています。

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by wheatbaku | 2018-10-14 18:23 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
大円寺と笠森お仙の碑(江戸のヒロインゆかりの寺社⑥)

大円寺と笠森お仙の碑(江戸のヒロインゆかりの寺社⑥)


笠森お仙にゆかりの寺社として、「笠森阿仙之碑」がある大円寺をご案内します。この記事も以前掲載したものの再掲です。

 大円寺は、谷中にありますが、東京メトロ千駄木駅からが近いです。

 千駄木駅1番出口から3分程度の至近距離にあります。

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大円寺は、日蓮宗のお寺です。創建年代等ははっきりしませんが、元禄16年(1703)に現在地に移転したとされています。


大円寺の本堂に近くに「笠森阿仙之碑」が建てられています。大正8年に建てられたものです。

「笠森阿仙之碑」は小説家永井荷風が文章を書いています。(下写真)

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「笠森阿仙之碑」の手前に「錦絵開祖鈴木春信」碑があります。

「錦絵開祖鈴木春信」碑は文学博士笹川臨風が撰し、題字は東京美術学校(現、東京芸術大学美術学部)校長正木直彦が書いています。(下写真)

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鈴木春信は、江戸時代中期の浮世絵師ですが、多色摺木版画の錦絵を始めた人物とされています。

その鈴木晴信が、笠森お仙の姿を数多く描いています。

そうしたことから笠森お仙と鈴木春信は大変関係が深い二人です。



大円寺に笠森お仙と鈴木晴信の碑が建てられたのは、大円寺にも笠森稲荷がお祀りされていた縁によるものといわれています。

大円寺の本堂は、お堂が二つ繋がった形をしています。(下写真)

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向かって左側は経王殿の額が掲げられていて、御本尊様(日蓮上人)が追お祀りされています。

向かって右側は薬王殿の額が掲げられています。こちらに笠森稲荷がお祀りされています。

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大円寺の笠森稲荷は、御住職の説明では、元々は瘡守稲荷だったようで、旗本大前氏が河内から勧請したそうです。

薬王殿の前には瘡守薬王菩薩と刻まれた石柱があります。(下写真)

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御住職の話では、こちらの笠森稲荷は、吒枳尼天(だきにてん)だそうです。笠森稲荷と呼ばず瘡守薬王菩薩と呼んでいるのは、神仏分離令と廃仏毀釈の影響だそうです。


このように、大正8年当時には、本来の笠森稲荷があった福泉院は廃寺となっていて、大円寺に笠森稲荷がお祀りされていたので、笠森お仙とそれを描いた鈴木春信の碑が、大円寺に建立されたと考えられています。

 赤印が大円寺です。





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by wheatbaku | 2018-10-11 20:45 | 江戸のヒロイン
功徳林寺と笠森お仙(江戸のヒロインゆかりの寺社⑤)

功徳林寺と笠森お仙(江戸のヒロインゆかりの寺社⑤)

 笠森お仙がいた水茶屋は、笠森稲荷の前にありました。
 その笠森稲荷は、明治になくなってしまい、現在は、功徳林寺になっています。
 そこで、今日は、功徳林寺を紹介します。 
 (なお、この記事は、過去に掲載したものを一部修正して再掲するものです。)

功徳林寺は、日暮里駅北口からは徒歩約6分、南口からは谷中霊園を通りぬけて徒歩約5分の距離にあります。

功徳林寺は浄土宗のお寺です。下写真は初音通りからみた功徳林寺です。

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谷中霊園は、明治7年に開設されましたが、墓地だけで法要をできませんでした。特に、谷中には浄土宗のお寺が全くないため、浄土宗の人たちは大変不便な思いをしていたようです。そこで、浄土宗が一致して新寺の建立を願い、日向国佐土原藩の第11代藩主であった伯爵島津忠寛が発起人となり明治18年に許可を得たのち、明治26年に建物が完成しました。それが功徳林寺です。

現在の本堂は、平成23年に完成したものだそうです。(下写真が本堂です)

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功徳林寺がある場所は、江戸時代は、天王寺の境内で、塔頭の福泉院があり、そこに笠森稲荷がありました。

笠森稲荷前にあった水茶屋の鍵屋(かぎや) に明和初年(176469)頃にお仙という名前の看板娘がいました。

これが、江戸の三美人の一人に数えられた笠森お仙です。

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三美人は、浅草観音裏の楊枝店の柳屋お藤、浅草二十軒茶屋の蔦屋(つたや)お芳、そして笠森お仙をいいます。なかでもお仙は人気が高く、初期錦絵の美人画モデルとして一枚絵の錦絵になったほか、歌舞伎にも取り上げられました。

また、手鞠うたに「向こう横丁のお稲荷さんへ、一銭あげて、ざっと拝んでお仙の茶屋に……」とうたわれるほど人気がありました。

明和7年(1770)に御家人の倉地政之助の妻となり突然消えたことも江戸の話題となり、「とんだ茶釜が薬罐に化けた」と騒がれました。「とんだ茶釜」はとんだ美人という意味でお仙をさし、「薬罐」は年取った薬罐頭の店番を意味しています。

福泉院は、明治になって、廃寺となり、笠森稲荷は寛永寺の養寿院に移っています。廃寺となった福泉院の跡地に創建されたのが功徳林寺です。

そのため、功徳林寺には、笠森稲荷堂があります。(下写真)

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お仙と笠森稲荷に関係する場所が、谷中に3か所あります。功徳林寺、大円寺、そして養寿院です。

それぞれの関係について、『台東区史』が非常にわかりやすく次のように書いています。

いま、谷中にはお仙に関係する場所がこの(功徳林寺)ほか二か所ある。三崎坂の中程に大圓寺がある。ここには「錦絵開祖鈴木春信璋」がある。また、水井荷風の碑文で「笠森阿仙乃碑」が建っている。大圓寺には享和年間に小石川白山から移した瘡守稲荷があり、よく笠森稲荷と混同された。

つぎは上野桜木一丁目の養寿院の笠森稲荷である。この稲荷は明治三年、天王寺中門前町から移したもので、これがお仙の茶屋のあった稲荷である。明治の初めに天王寺は縮小され、子院であり稲荷の別当にあたる福泉院が取り潰しにあったので、笠森稲荷を引き継いだのが養寿院であった。

さきの功徳林寺は明治十六年の創建で、現在の笠森稲荷はその後の勧請であるから、お仙の時代のものとは違う。

功徳林寺には、現在も笠森稲荷堂があり笠森稲荷がお祀りされています。

ここにお祀りされているのは吒枳尼天(だきにてん)です。(下写真参照)
笠森稲荷堂は、平成27年に新しく建てられたそうです。

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赤印が功徳林寺です。



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by wheatbaku | 2018-10-09 19:46 | 江戸のヒロイン
  

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