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鷲神社(鶯谷散歩③)

鷲神社(鶯谷散歩③)

 鶯谷散歩ですが、今日は、酉の市で有名な鷲神社をご案内します。

鷲神社と書いて「おおとりじんじゃ」と読みます。

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鷲神社は、江戸時代には「鷲大明神社(わしみょうじんやしろ)」と呼ばれていましたが、明治になって「鷲(おおとり)神社」と改称しました。

鷲神社の御祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)と日本武尊(やまとたけるのみこと)です。

鷲神社は「おとりさま」として一般にも親しまれており、毎年11月の酉の日には「酉の市(とりのいち)」が開催され、大勢の人がお参りするので、広く知られています。(下写真は御社殿です)

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鷲神社の社伝によると、「酉の市」の由来は「天日鷲命は、諸国の土地を開き、開運・殖産・商売繁昌に御神徳の高い神様として古来よりこの地にお祀りされていました。その後、日本武尊が東夷征討の際、社に立ち寄り戦勝を祈願し、志を遂げての帰途、社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、そのお礼参りをさた日が11月の酉の日であったので、この日を鷲神社例祭日と定めたのが「酉の市」です。」とされています。

「酉の市」は、江戸時代には、「酉のまち」と呼ばれ、歌川広重の名所江戸百景でも「浅草田甫酉の町詣」(下写真)として描かれています。「酉のまち」は「酉の祭」から由来しました。

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現在も、酉の市は、境内には熊手をうる屋台が並び、幸せを掻き込む縁起物の熊手を求める人で賑わいます。

また、鷲神社の開運・商売繁昌のお守りである熊手御守は、午前零時を期して打ち鳴らされる一番太鼓と共に授与され、一番先に熊手御守を受けた人には、「一番札」として神社の金小判が授けられるそうです。

拝殿正面には、顔の各場所により違うご利益を授かると伝えられている「なでおかめ」があり、人気があります。

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鷲神社は、下町七福神の札所ではなく、「下町八社福参り」や「浅草名所七福神参り」の札所です。

境内には、正岡子規の「雑閙や 熊手押あふ 酉の市」と榎本其角の「春をまつことのはじめや酉の市」という句碑や樋口一葉文学碑などがあります。

下写真は正岡子規の「雑閙や 熊手押あふ 酉の市」句碑です。「雑閙」の字は何と読むのかというのが話題になりましたが、「ざっとう」と読みます。

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下写真が榎本其角の「はるをまつことのはじめや酉の市」の句碑です。
 句碑の文字は、くずし字で書かれているため、読み取るのが難しいです。

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赤印が鷲神社です






by wheatbaku | 2019-01-31 11:57 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
小野照崎神社(鶯谷散歩②)

小野照崎神社(鶯谷散歩②)

 鶯谷散歩、今日は小野照崎神社をご案内します。

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 小野照崎神社の小野は御祭神の小野篁の「小野」を表し、「照崎」は、神社が創建された「照崎(現在の上野公園付近)」を表します。

小野照崎神社の祭神は、平安初期の漢学者・歌人として有名な小野篁(たかむら)です。小野篁は初の遣隋使小野妹子の子孫で、美人で有名な小野小町のお祖父さんという説もあります。

小野照崎神社の創建の年代は不明ですが、次のような伝承があります。

小野篁は上野国司の任期を終え、帰洛の途についた際、上野照崎(忍岡、現在の上野公園付近)の景色が良いと讃えました。

そこで、仁寿2年(852)小野篁が亡くなったとき、その景色を楽しんだ上野照崎に小野篁の霊をお祀りしました。

その後、江戸時代をむかえ、寛永2年(1625)忍岡に東叡山寛永寺を創建するにあたって、小野照崎神社を移転することとなり、坂本村の長左衛門稲荷社が鎮座していた現在地に遷座したとされています。

一説には、忍岡から孔子聖廟が昌平橋に移った元禄4年(1691)頃に遷座したのではないかとも言われています。

 現在の社殿は慶応2年(1866)に建てられたもので、関東大震災や東京大空襲などを免れたものです。

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《下谷坂本の富士塚》

 小野照崎神社境内には富士塚があり、下谷坂本の富士塚と呼ばれています。

富士塚は模造の富士山で、坂本の富士塚は、文政11年(1828)に地元の富士講である東講により築造されたと考えられています。
 坂本というのは地名で、小野照崎神社がある場所が江戸時代は坂本村と呼ばれたことによるものです。

富士山信仰は室町時代末期頃に起こり、江戸時代中期には非常に盛んになり、江戸をはじめとして富士講があちこちで結成され、富士塚も多数築かれました。その数は、江戸とその近郊で、50余りあったといいます。しかし、現在まで残っている富士塚は多くありません。

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ここの富士塚は高さ約5m、直径約16mです。
 富士塚は富士の溶岩でおおわれ、東北側の一部が欠損していますが、原形がよく保存されていて、国の重要有形民俗文化財に指定されています。

赤印が小野照崎神社です。







by wheatbaku | 2019-01-27 20:52 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
旧陸奥宗光邸(鶯谷散歩①)

旧陸奥宗光邸(鶯谷散歩①)

 今日からは、下谷七福神巡りでご案内した場所を紹介していきます。
 下谷七福神については、過去にアップした記事がありますので、そちらをご覧いただきたいと思います。
 下谷七福神①  (七福神めぐり)
 下谷七福神②  (七福神めぐり)
 下谷七福神③  (七福神めぐり)

 そこで、今日は旧陸奥宗光邸をご案内します。

陸奥宗光は、明治の外務大臣として明治27年に起きた日清戦争の講話条約締結、明治27年のイギリスとの治外法権撤廃などを実現し、日本の外交史上に大きな足跡を残した外交官です。その陸奥宗光の旧邸(下写真)が鶯谷にありますが、このことはあまり知られていないようです。

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陸奥宗光の邸宅として有名なものが、駒込の旧古河庭園です。

旧古河庭園は、元々は、陸奥宗光の別邸でしたが、陸奥宗光の次男潤吉が古河財閥創業者である古河市兵衛の養子となり、2代目当主となり、古河家の所有となりました。そのため、旧古河庭園と呼ばれます。

旧古河庭園の本館建物(下写真)はジョサイア・コンドルが設計し、大正65月に竣工したものです。

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 鶯谷にある旧邸は、旧古河庭園の建物に比べると木造でもあり、少し見劣りする感は否めません。

それもそのはず、鶯谷の旧邸は、陸奥宗光が、外交畑で本格的に活躍する前の明治16年から明治21年まで住んでいた住宅です。

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陸奥宗光は、紀州藩士出身で、坂本龍馬の海援隊に属していたこともあります。明治になって新政府に登用されますが、明治7年に新政府に辞表を提出し和歌山にかえります。そして、西南戦争に加わりませんでしたが、同じ時期に政府転覆活動に関与したため、明治11年に禁固5年の刑を受け山形の監獄に投獄されました。明治16年1月に出獄したあと、明治16年9月にこの邸宅を購入しました。

陸奥宗光は、明治17年4月から明治19年2月まで宗光はロンドンに留学しますが、その留守中、家族がこの家に暮しました。そして陸奥宗光は留学から帰国して明治20年4月に六本木に転居するまでここで過ごしていましたが、明治21年に借金返済と息子のロンドン留学費用の捻出のため、この家を売却しています。

陸奥宗光から購入したのは「ちりめん本」という本を出版していた長谷川武次郎でした。現在も、長谷川武次郎のご子孫が住まわれているということで、敷地内に入ることはできず、敷地外から眺めることができます。

この建物は住宅用建築として建てられた洋館の現存例としては都内で最も古いもののひとつです。

もともとは洋館のほか和風建物が付属した住宅でしたが、現在は、洋館部分だけが残っています。

赤印が旧陸奥宗光邸です。







by wheatbaku | 2019-01-24 18:31 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
下谷七福神巡りに行ってきました

 下谷七福神巡りに行ってきました!

 先週土曜日には、毎日文化センターの「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」で鶯谷駅から下谷七福神巡りをしてきました。

 厳冬の時期にしては暖かい陽気で風もなく快適な七福神めぐりとなりました。

 本来の下谷七福神の御開帳は15日までですが、各寺社のご配慮により、七福神を拝むことができ、色紙へのスタンプもOKでした。

 ご参加いただいた皆様ありがとうございました。

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 下谷七福神巡りがメインですが、七福神の札所のそばの有名な神社や史跡も一緒に廻ってきました。コースは次の通りです。赤字が下谷七福神の札所です。
【ルート】 鶯谷駅 ⇒ 元三島神社(寿老神) ⇒ 旧陸奥宗光邸 ⇒ 眞源寺(入谷鬼子母神、福禄寿)  英信寺(大黒天) ⇒ 法昌寺(毘沙門天) ⇒ 小野照崎神社 ⇒ 朝日山弁天院(弁財天) ⇒ 鷲神社 ⇒ 吉原神社 ⇒ 飛不動尊(恵比寿)⇒ 樋口一葉旧居跡 ⇒ 樋口一葉記念公園 ⇒ 寿永寺(布袋) ⇒ 三ノ輪駅


 主な散歩先を写真とともにご紹介します。

元三島神社(寿老神)
 元三島神社は、瀬戸内海の大三島に古くからある「大山祇(おおやまづみ)神社」から勧請したものです。元三島神社にお祀りしてある七福神は、寿老神さまです。 社殿の中の奥にお祀りしてあります。一般的には、寿老人と書くのですが、ここでは「寿老神」としています。

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眞源寺(入谷鬼子母神)(福禄寿) 

 「恐れ入谷の鬼子母神」で知られている入谷鬼子母神の正式な名前は、「眞源寺」と言い、万治2(1659)日融上人により創建されました。眞源寺で、お祀りしてある七福神は、福禄寿さまです。お堂は山門を入ってすぐ右手にあるお堂にまつってあります。

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英信寺(えいしんじ)(大黒天) 

 英信寺は、4代将軍家綱の小姓だった丹波篠山藩主の三男だった松平英信(ふさのぶ)がなくなり、この寺に葬られた際に、寺号を英信寺と改めました。英信寺にお祀りしてある七福神は大黒天です。英信寺の大黒天は、弘法大師御真作と伝えられる三面大黒天で、本堂左側の大黒堂に安置されています。

 三面大黒天は、向かって右に弁財天、左に毘沙門天の三つの顔を持つ大黒天です。

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法昌寺(毘沙門天) 

 法昌寺は、慶安元年(1648)下谷御切手町付近に創建され、江戸時代中期の元文2年(1737)現在地へ移転したといいます。法昌寺は、法華宗のお寺です。法昌寺にお祀りされている七福神は毘沙門天です。山門を入ると、左手に本堂があり、正面に毘沙門堂があります。

 法昌寺には、コメディアンのたこ八郎にちなむ『たこ地蔵』という地蔵さまがお祀りされています。

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朝日山弁天院(朝日弁財天) 

 朝日弁財天の開基は備中松山藩主の水谷(みずのや)伊勢守勝隆です。

 水谷伊勢守は、不忍池の弁財天を創建すると同時に、下谷にあった下屋敷の池にも弁財天を祀り、これを姉妹弁財天とし、西の不忍を夕日弁財天、東方の水の谷を朝日弁財天と称しました。

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飛不動尊(正宝院)(恵比寿神)

 「正宝院」は、その正式名称より、通称「飛不動」で知られている天台宗のお寺です。現在は、航空安全を守るお不動様として、航空業界の人たちに人気の高いお不動様です。ここで祀られているのは、恵比寿さまです。本堂の前に恵比寿堂がありその中にお祀りされています。飛不動の恵比寿さまは「きく恵比寿」と呼ばれているようです。

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寿永寺(布袋尊) 

 寿永寺は、第2代将軍徳川秀忠の夫人お江に仕えた寿永法尼という尼さんが、秀忠の菩提を葬うため、寛永7年(1630)菩薩を賜わり開山したと言われています。寿永寺に祀られている七福神は、布袋さまで、山門を入ってすぐ本堂の前の右手にお祀りされています。寿永寺の布袋さまは、露天の石造りの大きな像です。

 

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by wheatbaku | 2019-01-21 14:05 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
金王八幡宮④渋谷川支流の面影(渋谷散歩④)

金王八幡宮④渋谷川支流の面影(渋谷散歩④)

 前回紹介した金王八幡宮の宝物館の中に、中世の頃の渋谷城の模型が置いてあります。下写真がその模型です。

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 左側の大きな流れが渋谷川です。渋谷川が渋谷城の西側の重要な防御ラインとなっていました。

 渋谷川があることが渋谷城が金王八幡宮の場所に築かれた大きな要因と考えられます。

 

 さらに、模型をみると渋谷城の防御ラインは渋谷川だけでないことがわかります。それは、渋谷城の手前にある小さいな川です。これも渋谷城を護る防御ラインとなっています。

 しかし、現在は、金王八幡宮の神門の前は、アスファルト舗装されていて、小さな川の面影など、まったくありません。(下写真)

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しかし、昭和30年頃まで、門前には小さな川が流れていました。この小さな流れは、「黒鍬谷」と呼ばれる谷間を流れる渋谷川の支流で金王八幡宮の周りを流れてから渋谷川に合流していました。
渋谷城があった頃は、この流れが、渋谷城の掘割としての機能を持っていました。

そして、その川には、太鼓橋が架けられていました。それを写した古写真も残されています。

小さな川に架かっていた太鼓橋の一部が金王八幡宮境内に残されています。

手水舎の手前にある5つの石材がそれです。写真左が手水舎になります。

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 なお、上流の青山学院大学の西側辺りに、江戸時代に「黒鍬者」の屋敷がありましたが、その屋敷の近くにあった谷であるため『黒鍬谷』と呼ばれています。

「黒鍬者」と呼ばれる人たちは、江戸城内の土木工事や建築工事、荷物の運搬などを担当し、将軍の遠出の際にも雑用のためお供する幕府の下級役人です。








by wheatbaku | 2019-01-17 21:00 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
金王八幡宮③「宝物館」(渋谷散歩③)

金王八幡宮③「宝物館」(渋谷散歩③)

 金王八幡宮の社殿の右手に社務所があり、そこに併設されている宝物館はかなり充実しています。今日は宝物館に展示されているものの中で代表的なものだけを紹介します。

《神輿と鳳輦》

宝物館の中央には、神輿と鳳輦が飾られています。下写真の手前が神輿で奥が鳳輦です。

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金王八幡宮の神輿は、作者は不明なものの鎌倉時代のもので、都内最古の神輿だそうです。この神輿は、江戸時代の初期に、金王八幡宮の氏子であった青山百人組の人たちが鎌倉八幡宮の祭礼に参詣した際、鎌倉から担いできて、金王八幡宮に奉納したものです。この神輿を追ってきた人々は、途中で日が暮れたため神輿を見失ってしまったと言われ、その場所は「暗闇坂」と呼ばれているそうです。

鳳輦は、昭和31年に新調したもので、9月の例大祭には氏子地域を渡御します。

《算額》   

金王八幡宮の宝物殿には三面の算額が展示されています。

算額は数学の問題が書かれた絵馬のことで、江戸時代になってから神社仏閣に奉納されるようになりました。

金王八幡宮の算額は、幕末に奉納されたもので、今でも図形が鮮やかで美しい算額です。金王八幡宮の算額の難易度は高校レベルだそうです。

①嘉永3年(1850)5月に、中渋谷村の海老澤摠右衛門正泰が奉納した数列の問題を出題した算額です。

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②安政6年(1859)4月に、関流の伊予国西條藩の藩士山本庸三郎貴隆が奉納された算額で、問題は3問あります。

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③元治元年(1864)に、関流の野口富太郎貞則が奉納した扇形の算額です。扇形の算額は珍しいものです。

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冲方丁(うぶかたとう)の時代小説「天地明察」に金王八幡宮が登場します。
 「天地明察」は江戸時代の天文学者渋川春海の改暦事業を題材にした小説で、岡田准一主演で映画化もされました。

小説で、渋川春海は金王八幡宮に奉納されている算額を通して、和算家の関孝和を知ることになりますが、金王八幡宮は算額が奉納されることで有名な神社として描かれています。

「天地明察」を機に算額に興味をもった読者が大勢金王八幡宮に参詣するようになったそうですが、渋川春海が金王八幡宮に算額を奉納した記録はないそうです。

《東郷実氏奉納の額》

渋谷氏の子孫は全国各地に広がっていますが、薩摩にも鎌倉時代に渋谷氏が下向し、東郷氏、祁答院氏、鶴田氏、入来院氏、高城氏の一族がいます。有名な東郷平八郎元帥も渋谷氏の子孫の一人です

その東郷平八郎元帥の二男で海軍少将まで昇進した東郷実氏が奉納した額が宝物館に展示されています。

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by wheatbaku | 2019-01-14 18:11 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
金王八幡宮②「金王丸」(渋谷散歩②)

金王八幡宮②「金王丸」(渋谷散歩②)


渋谷散歩の2回目ですが、今日も金王八幡宮について説明します。

金王八幡宮は、古い昔は単に八幡宮又は渋谷八幡宮と言われていましたが、渋谷金王丸の名声が高いことから、金王八幡宮と呼ばれるようになりました。それでは、金王丸とはどういう人物かからお話します。

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《金王丸》

 金王八幡宮という名前は、渋谷金王丸という人物に由来するものです。

 渋谷金王丸についても諸説がありますが、金王八幡宮の由緒によると次のようです。

渋谷金王丸常光(こんのうまるつねみつ)は、渋谷重家の子です。

渋谷重家には子がなく夫婦で金王八幡宮に祈願を続けていると、金剛夜叉明王が妻の胎内に宿る霊夢をみて立派な男子を授かりました。そこで、その子に明王の上下二文字を戴き「金王丸」と名付けました。

金王丸が17歳の時、源義朝に従って保元の乱で手柄を立て、その名を轟かせました。

その後の平治の乱では義朝は敗れ、東国に下る途中立ち寄った尾張国野間であえない最期を遂げました。金王丸は、京に上り常磐御前にこのことを報じたのち渋谷で剃髪し、土佐坊昌俊(しょうしゅん)と称して義朝の御霊を弔いました。

金王丸は、義朝の子である頼朝との交わりも深く、頼朝が挙兵する際は、密かに金王八幡宮に参籠して平家追討の祈願をしました。

 平家滅亡後、源頼朝は源義経に謀反の疑いをかけ、これを討つよう土佐坊昌俊(金王丸)に命じました。土佐坊昌俊は断ることもできず、文治元年(1185)10月、百騎ばかりを率いて京都に上り、同月23日夜義経の館に討ち入りました。しかし、土佐坊昌俊は、はじめから義経を討つ考えはなく、捕らえられて勇将らしい立派な最期を遂げました。

金王丸は、「平治物語」に書かれているだけでなく、土佐坊昌俊として「平家物語」、「源平盛衰記」、「吾妻鏡」などに書かれています。さらに、金王丸のゆかりの地は、全国に広がってありますので、鎌倉時代には、金王丸という人物は、かなり有名人だったと考えられます。

《金王丸御影堂》

金王八幡宮の境内にある金王丸御影堂には、金王丸が17歳で出陣の折、自分の姿を彫刻し母に形見として残した木像が納められています。金王丸の木像は、3月最終土曜日に斎行される金王丸祭で御影堂の開帳があり、特別公開されます。

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《金王桜》  

本殿向かって左手にある金王桜(下写真)は、渋谷区指定天然記念物で、長州緋桜という種類で、雄しべが花弁化したものも交じり、一枝に一重と八重が入り混じって咲く珍しい桜です。

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 金王八幡宮の「社傳記」によれば、文治5年(1189)7月7日 源頼朝が藤原泰衡退治の下向の時、渋谷高重の館に立ち寄り当神社に太刀を奉納しました。その際金王丸御影堂へ参り、父義朝に仕えた渋谷金王丸の忠節を偲び、金王丸の名を後世に残すべしと厳命し、鎌倉亀ヶ谷の館にあった憂忘桜をこの地に移植させ、金王桜と名付けたとされています。

また、江戸時代盛んに作られた地誌にも紹介されており、江戸三名桜の一つに数えられました。金王桜は、現在に至るまで代々実生より育て植え継がれ、守り伝えられています。

なお、傍らには、松尾芭蕉の句碑も建立されています。(下写真)

 しばらくは 花のうえなる 月夜かな

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by wheatbaku | 2019-01-11 19:58 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
金王八幡宮(渋谷散歩①)

金王八幡宮(渋谷散歩①)


代々木駅からの散歩については、前回で一区切りとして、今日からは昨年9月に行った毎日文化センターの渋谷駅からの江戸散歩で訪れた史跡についてご案内します。

 その時のコースは次のようなコースで、渋谷駅から南西方向の文教地区にある史跡を散歩しました。

渋谷駅 ⇒ 金王八幡宮 ⇒  八幡通り(鎌倉街道跡) ⇒ 國学院大学博物館 ⇒ 吸江寺 ⇒ 塙保己一史料館 ⇒ 渋谷区郷土博物館 ⇒ 常盤松碑(薩摩藩下屋敷跡) ⇒ 並木橋(鎌倉街道跡)⇒ 渋谷駅  


 今日は、まず、金王八幡宮についてご案内します。

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 金王八幡宮は、渋谷駅から徒歩約7分の所にあります。しかし、金王八幡宮は江戸城の方向つまり東側を向いているため、渋谷駅から歩いていくと裏側から入ることになります。上写真が渋谷駅側の鳥居です


金王八幡宮は、渋谷・青山の総鎮守で、金王八幡宮の社殿(下写真)は、慶長17年(1612)の建立された大変歴史のあるものです。

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徳川家光は徳川秀忠とお江(崇源院)の間に生まれましたが、両親の愛情は弟の徳川忠長に注がれて、3代将軍は徳川忠長のほうが有力でした。

そのため、家光の乳母春日局、さらい家光の教育役であった青山伯耆守忠俊は大変心配して、青山伯耆守忠俊は熱心に金王八幡宮に祈願し、春日局は祈願料80両を奉納しました。

その後、春日局の徳川家康への直訴もあり、家光が次期将軍と決ったので、祈願成就の礼として社殿と門が造営されました。青山伯耆守は材木を奉納し、春日局は金100両を寄進しています。

拝殿正面左には虎、右側に獏の彫刻が彫られています。

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金王八幡宮の神門の建立年代は、明確ではありませんが、明和6年(1769)建立と書いた資料もあることから明和6年(1769)建立説と享保元年(1801)に丹波篠山藩青山忠裕から金150両の寄進があり建物が修理されていることから享和元年(1801)に造られたとする二説があります。

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金王八幡宮の御由緒は社伝によると次のようです。

金王八幡宮は平安時代中期の寛治6年(1092)鎮座したとされています。

桓武天皇の曽孫である高望王の後裔で秩父別当平武基は源頼信による平忠常の乱平定において功を立て、軍用八旒の旗を賜り、その内の日月二旒を秩父の妙見山に納め八幡宮と崇め奉りました。

武基の子武綱は、嫡子重家と共に後三年の役の源義家の軍に300騎余を従え1番で参向し、仙北金沢の柵を攻略しました。その大功により名を河崎土佐守基家と賜り武蔵谷盛庄を賜りました。義家は、この勝利は基家の信奉する八幡神の加護なりと、基家が拝持する妙見山の月旗を乞い求め、この地に八幡宮を勧請しました。

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重家の代となり禁裏の賊を退治したことにより堀河天皇より渋谷の姓を賜り、金王八幡宮を中心に館を構え居城としました。これが渋谷の発祥ともいわれ、現在も境内に渋谷城砦の石が保存されています。(下写真)

渋谷氏は代々金王八幡宮を氏族の鎮守と崇めました。

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赤印が金王八幡宮です。





by wheatbaku | 2019-01-09 20:11 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
福泉寺と斎藤弥九郎の墓(代々木散歩⑦)

福泉寺と斎藤弥九郎の墓(代々木散歩⑦)


 今日は、福泉寺についてご案内します。

 福泉寺は、江戸時代、代々木八幡宮の別当寺でした。

 そのため、福泉寺は代々木八幡宮の参道の東側に接してあり、代々木八幡宮の参道からお参りできます。戦前に建てた本堂が昭和20年の戦災で全焼しため、昭和34年に現在の本堂(下写真)が再建されました。

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福泉寺の創建は、寺伝によれば、源頼家の旗本近藤三郎是茂の家人、荒井外記(げき)智明という武士が、修禅寺事件(1203)以後代々木の地に隠居し、夢の中で神から宝珠のような鏡を感得したので、名を宗友と改め、鶴岡八幡宮を勧請して庵を創建したといいます。

創建以後久しく荒廃していましたが、江戸時代に至り、正保元年(1644)浄土宗より天台宗に改めました。

寛文4(1664)第3世長秀法印(中興開基)のとき、紀州藩徳川頼宣の側室円住院殿の後援を得て、寛文11(1671)より翌12年にかけて、代々木八幡宮と共に、現在の地に移りました

円住院殿は大和添上郡岩掛城主山田政秀の六女と伝えられ元和8(1622)紀伊藩祖徳川家頼宣の側室となり、当寺三世長秀と同族との関係によって、当寺で法要など営んだということです。

福泉寺の墓域には、円住院殿のお墓があります。(下写真)

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円住院の娘松姫は上野吉井藩の始祖となる松平氏に嫁したところから、福泉寺は吉井松平家の崇敬をも得て次第に寺運は隆盛し、「江戸名所図会」所載の如き堂宇が整いました。円住院及び松平家では、仏像、仏具、田畑など多く当寺に寄進し、その存続発展に資するところが多かったといいます。しかし、現在は吉井松平家ゆかりのものは福泉寺には残されていないと御住職がおっしゃっていました。

《斎藤弥九郎のお墓》

斎藤弥九郎のお墓が福泉寺墓所の松の木の下にあります。(下写真の松の木の下の三角形のお墓が斎藤弥九郎のお墓です)

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斎藤弥九郎は、幕末の剣術家で、彼が始めた練兵館は、千葉周作の玄武館,桃井春蔵の士学館とともに幕末江戸3大道場ひとつに数えられました。斎藤弥九郎の名は善道、晩年篤信斎(とくしんさい)と号しました。墓正面には「贈従四位 篤信斎斎藤先生之墓」と刻まれています。(下写真)

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斎藤弥九郎は、越中国(富山県)氷見郡仏生寺村の農家に生まれました。文化9年(1812)志をたてて江戸に出て、旗本能勢祐之丞(のせすけのじょう)の家僕となり、15年神道無念流岡田十松吉利の撃剣館に入門し、初めて剣術を学びました。撃剣館では、江川太郎左衛門,藤田東湖らと親交を結びました。斎藤弥九郎の修業ぶりは目覚ましく、わずか数年の間に先輩たちを凌駕して、代稽古を勤め、岡田十松の没後は、嗣子利章を補佐して道場の経営にあたりました。この間、剣術だけでなく、儒学、馬術、兵学を学び、のちに砲術も学んでいます。同門の江川太郎左衛門英龍と特に親しく、江川太郎左衛門英龍の援助により、29歳で九段坂下俎橋(まないたばし)畔に道場練兵館をおこし独立しました。その後、天保9年(1638)三番町に移しました。現在の靖国神社の境内です。天保6(1835)江川が伊豆韮山の代官になるとその手代として、西洋銃隊調練や品川台場の築造などに当たりました。また、このころ渡辺崋山とも知り合っています。

練兵館には、全国から入門者が集まりましたが、長男の新太郎(2代弥九郎,182888)が萩で長州藩士の剣術指導をしていたことから,練兵館には長州の志士が多く集まり,門下三千余人ともいわれた。当時盛んになってきた竹刀打ち込みの剣術稽古を採用し,門下から桂小五郎,高杉晋作,品川弥二郎らが出ています。

明治維新後、新政府に出仕し、会計官権判事となり、造幣局権判事を務め大坂に在職しました。

それ以前、安政5(1858)開墾地として福泉寺から3375坪の土地を購入し、三番町の道場から月に数回、門下生を連れて来て、自ら指揮をして開墾を行わせ、砲台築造の練習もしました。その後代々木付近一帯に茶園を開き、代々木茶の名をおこしました。

晩年は、隠居場を「代々木山荘」と名付け代々木に移り住みました。

明治41024日没、享年74歳でした。遺言で代々木山荘に葬られますが、のちに小石川昌林院に改葬し、弥九郎の遺志を生かすため、改めて明治38年福泉寺に改葬しました。墓碑には明治40年に建立されたことが刻まれています。

赤印が福泉寺です。青印が代々木八幡宮です。



by wheatbaku | 2019-01-07 12:18 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
代々木八幡宮(代々木散歩⑥)

代々木八幡宮(代々木散歩⑥)

 今日から仕事始めで、お仕事をされている方が多いと思います。今年も頑張ってください。

 さて、今日は、年末までに書き終わらなかった代々木散歩の続きとして、代々木八幡宮について書きます。

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 代々木八幡宮は、社伝によれば、鎌倉時代の初め建暦2年(1212)に、鎌倉幕府の第2代将軍源頼家の家臣近藤三郎是茂の家来荒井外記智明(ともあきら)によって創建されたとされています。

 荒井外記智明は、源頼家が伊豆の修善寺で暗殺されてから代々木の地に隠棲し、名も宗祐(または宗久)と改めて、日夜亡き主君らの冥福を祈っていましたが、ある夜夢の中で八幡様のお告げを聞き、目がさめると手には宝珠のごとき鏡が残されていました。そこで、代々木の地に小さな祠を建て 鶴岡八幡宮の分霊を勧請したのがはじまりです。

 代々木八幡宮は、小田急線代々木八幡駅北口から3分、東京メトロ千代田線代々木公園駅八幡口からは徒歩4分で、大鳥居に到着します。山手通りからは急な石段を登ることになり、代々木八幡宮が高台にあることが実感されます。

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《稲荷社・天神社・榛名社》

 代々木八幡宮の本殿の東側には、稲荷社、天神社、榛名社があります。

 稲荷社は、紀州家側室の延寿院が守護神としてお祀りしていた稲荷社に明治以降に掘出稲荷を合祀したそうです。

 天神社は、紀州家側室の延寿院が守護神としてお祀りしていたものです。そして、そこに、玉川上水脇にあった銀杏天神社を合祀したものです。

 榛名社は、雨乞いのため、周辺の村などにお祀りされていたものがここ移されたものと考えられています。

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《出世稲荷社》

 三社の隣には、出世稲荷社があります。

 このお稲荷さんは、昭和20年5月25日に代々木周辺が爆撃された際、被害を受けた稲荷社の祠や狐像を集めて、八幡宮の境内に合祀したのが始まりだそうです。

 最近は、出世稲荷と呼ばれ、霊験あらたかなお稲荷さんだとして、地元の人々は篤く信仰していると地元の人が教えてくれました。

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《代々木八幡遺跡》

代々木八幡宮は標高約32メートルの台地上にあり、その境内からは、石器時代の遺物が発見されていました。

 代々木八幡遺跡は、昭和25年の夏國學院大學と地元の上原中学校の生徒によって発掘調査が始まりました。そして、同じ年に渋谷区史編纂委員会が発掘調査を行われました。2回の調査で多くの遺物が出土したうえ、関東ローム層を浅く掘りくぼめた住居と、その中に掘られた柱穴が発見されました。

 ここから加曾利E式土器と呼ばれる土器の種類が多数出土したことから、ここには約4500年まえに人が住んでいたと推定されました。

そして、昭和26年には、國學院大學の樋口清之名誉教授により縄文人の住居が復元され、現在も境内には、竪穴式の古代住居が復元されています。

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《代々木八幡遺跡の出土品陳列館》

 本殿の南西側に、代々木八幡遺跡から出土した品を展示した出土品陳列館があります。(下写真は夕暮れ時の陳列館です)

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出土品陳列館には、代々木八幡遺跡発掘の経過、縄文時代の竪穴住居やそこで暮らす縄文人の男女が復元されています。また、遺跡から出土された土器や石器が展示されています。

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赤印が代々木八幡宮です。






by wheatbaku | 2019-01-04 18:09 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
  

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