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大本堂と三重塔(成田山新勝寺⑥)

大本堂と三重塔(成田山新勝寺⑥)

 
 今日の成田山新勝寺の紹介は、大本堂と三重塔です。
 大本堂は、仁王門からは見えませんが、仁王門の先にある急な石段をのぼりきると目の前に見えてきます。 

 大本堂は、昭和43年に建立されたものです。(下写真)

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大本堂には、御本尊不動明王像がお祀りされ、御護摩祈祷が行われる場所で、本堂内には誰でも上がることができます。

 本堂の手前右手に三重塔があります。本堂と三重塔の位置関係は下の写真をご覧ください。

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 この三重塔は、正徳2年(1712)に建立され、国の重要文化財に登録されています。

塔の高さは、相輪(塔の上についている金属製の飾り)を含めて約25mあります。

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 三重塔は、極彩色で彩られています。昭和56年から58年にかけて修復工事を行った際に、享和3年(1803)の古文書に基づいて、復元されたものです。

江戸時代にも、現在の姿と同じように極彩色に彩られていたということになります。

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三重塔の初層の周囲には「十六羅漢」の彫刻がめぐらされています。下写真は、西北の角つまり本堂側にある羅漢像です。

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さらに、初層のの四面の扉の上には、極彩色の人物像が彫刻されています。

西側の彫刻は、囲碁をしている二人の人物とそれを脇からみている人物が彫刻されています。

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北側には、琴を弾いている人物と笛らしきものを奏でる人物が彫られています。

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東側の彫刻は、琴高仙人だと思われます。琴高仙人とは古代中国の仙人で、琴が巧みで仙術を得意とし、河の龍を捕えるために鯉に乗って水中から現れ人々を驚かせたといわれています。鯉に乗っているのがわかります。

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南側の彫刻は下の写真ですが、これはどういうことを表しているのかわかりません。

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by wheatbaku | 2019-03-27 22:20
総門と仁王門(成田山新勝寺⑤)

総門と仁王門(成田山新勝寺⑤)

 成田山新勝寺の入口に建っているのが総門です。

 総門は、開基1070年の記念事業により、平成19年に建立されました。高さ15メートルの総欅造りで、楼上には八体の生まれ歳守り本尊が奉安されています。

蟇股という部分には十二支の木彫刻が施されているといいて、正面中央の蟇股には、午(馬)が彫られています。

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仁王門

 総門をくぐると目の前に仁王門が見えてきます。

天保2年(1831)に再建されたもので、国指定重要文化財です。

仁王門に上がる石段は、17段ありますが、花崗岩の一枚板で造られている大変立派な石段です。

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仁王門という名前は、門の左右に仁王様が安置されているからです。

仁王様は、密迹金剛(みっしゃくこんごう)、那羅延金剛(ならえんこんごう)といいますが、向かって左側が閉じた吽形の密迹金剛で、右側が口を開いた阿形の那羅延金剛です。

下の二つの写真の上が密迹金剛、その下が那羅延金剛です。仁王像は金網で保護されていたため網の間から撮影しました。

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また、仁王様の裏側には、広目天、多聞天の二天像が安置されています。

この二天像は、宝永 3 年(1706 ) 佐倉藩主稲葉正通が寄進したものです。

多聞天は単独では毘沙門天とよばれ、七福神の一つとして祀られています。多聞天は意訳で毘沙門天は音訳です。

仁王門の中央には、「魚がし」の文字が大きく目立つ大提灯があります。この大提灯は、大本堂が建立された昭和43年に築地の魚河岸の旦那衆が奉納したものです。(下写真)

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直径2.4メートル、高さ2.8メートル、重さ800キロもある非常に大きなものですが、砲金(青銅の一種)で出来ているため、折りたたまれることはありません。




by wheatbaku | 2019-03-24 14:20
成田山新勝寺の創建(成田山新勝寺④)

成田山新勝寺の創建(成田山新勝寺④)

今日は、成田山新勝寺が創建された縁起について書いていきます。

 御存知の方が多いと思いますが、成田山新勝寺の縁起は、平将門の乱と大きな関係があります。

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 平将門は、天慶2年(939)、京の朝廷に対して反乱をお越し、自ら新皇と名乗りました。

 これに驚いた朝廷は、征東大将軍を任命し平将門の討伐を命じました。その一方で朱雀天皇は寛朝大僧正(かんちょう、またはかんじょうとも)に、弘法大師空海みずからが彫った不動明王像とともに関東に下り、乱を鎮めるようにと命じます。

勅命を受けた寛朝大僧正は不動明王像を奉持して京都を出発し、大坂から船に乗り、房総半島九十九里浜の一画にある尾垂ヶ浜に上陸します。

 そして公津が原に到着し、そこに不動明王像をお祀りして御護摩を焚いて、平将門の乱が終息し平和が戻るよう祈願しました。

 そして21日間祈祷を続け、結願の日に平将門が倒され、平将門の乱は終息しました。

無事乱が収まったため、寛朝大僧正は都へ帰ろうとしました。ところが、不動明王像は磐石のごとく動きませんでした。そして、不動明王から、この地に留まって、悪しきをこらしめ善きものを助けるというお告げがありました。

そうしたことから、寛朝大僧正のみ京都に戻り、不動明王像は成田の地に留まることになりました。

そして、朱雀天皇より「新たに勝つ」という意味を持つ新勝寺の寺号を賜り勅願所となりました。

こうして成田山新勝寺が開山されたのです。

成田山新勝寺開山の寛朝大僧正は、宇多天皇の孫にあたります。

11歳の時に出家し、仁和寺・東大寺・西寺の別当、東寺の長者を歴任し、寛和2年(986)に大僧正となりました。大僧正は、それまで、行基菩薩・慈恵大師良源だけに賜ったもので、寛朝大僧正は3人目でした。そして、真言宗では初の大僧正でした。


by wheatbaku | 2019-03-21 10:26
菊屋の鰻重(成田山新勝寺③) 

菊屋の鰻重(成田山新勝寺③) 

 成田山新勝寺での御護摩祈祷をしていただいたのは11時でした。御護摩祈祷が終了するとお昼時ですので、表参道の南側にある「菊屋」で鰻を食べました。下写真は菊屋を斜めから撮ったものです。なお、表参道は下り坂になっていて、坂下方向が成田山新勝寺です。

 

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 成田は、鰻が名物で鰻のお店が60以上もあるそうです。また、名店と呼ばれる店も数多くあって、どれを選ぶか迷うほどです。

 そんな中で、江戸時代から続く「菊屋」を選びました。(下写真は菊屋正面からの写真です)

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 「菊屋」は、成田山新勝寺の門前で煮売屋をしていました。天保年間(18301844)に残された文書に、成田山門前の煮売屋「菊屋」として名が記されているそうですので、少なくとも 170年以上前から営業していることになる老舗です。

屋号の「菊屋」は、新勝寺より拝領した菊の御紋に由来しているそうです。

お店でいただいた、明治40年頃の地図には、現在地に「菊屋名物店」とありますので、明治時代後半には、既に現在地で営業していたということになります。

なお、「菊屋」の隣は、店先で鰻をさばいていることで有名な「川豊」ですが、「川豊」は、明治40年頃の地図には載っていませんでした。

また、建物は明治に建てられてものだそうですが、店内はあまり古さを感じることはありませんでした。それだけ手入れが行き届いているということでしょう。(下写真店内)

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「菊屋」では、懐石料理もあるそうですが、鰻重を頼みました。鰻重には3800円の鰻重と4500円の国産鰻重があります。鰻重は台湾産の鰻を使っているので、鰻重のほうが安いとのことでしたが、国産鰻重をお願いしました。

 しばらくすると鰻重が運ばれましたので、早速いただきました。

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 鰻はふっくらとしていて大変やわらかでした。タレは甘めのタレですが程よい甘さで、鰻とベストマッチでした。

 鰻は大好きですので、あちこちの鰻重を食べていますが、「菊屋」の鰻重はトップクラスの味でした。

成田には数多く名店があるので、菊屋を訪ねる前には、次の機会は別のお店の鰻重を食べてみようと思っていました。しかし、実際に食べてみて次回も菊屋にしようと思いました。

 店内には福沢諭吉の自筆の書が架けられていました。

 「独立自尊」と書かれています。(下写真)

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 この書の由来について、店長の中里さんが丁寧に教えてくださいました。

 中里店長さんのお話では、福沢諭吉と成田は、明治に起きた長沼事件という事件を通じて深い関係があるということでした。 長沼事件については後述しましたが、長沼という沼の占有権をめぐっておきた事件に対して福澤諭吉は大変な支援をしました。そこで、長沼事件を支援してくれた福沢諭吉には成田の人々は特別の感慨をもっていて、福澤諭吉と成田の人々の交流が行なわれていたそうです。

そうした中で、福沢諭吉が成田に来て菊屋に寄った際に、当時の御主人が揮毫をお願いして書いてもらったものだそうです。 中里店長さん、丁寧な語説明ありがとうございました。

長沼事件とは次のような事件です。

 現在は成田市となっている千葉県埴生郡長沼村にあった「長沼」は、江戸時代、長沼村が幕府に一定の年貢を納めることで、沼の占有権を得、生活の糧のために沼を利用してきましたが、明治になって、周辺村落15カ村を含んだ入会地に変更されることになり、長沼村は大いに困窮することになってしまいました。長沼の人々は県庁に嘆願しても聞き入れてもらえませんでした。その時、たまたま『学問のすゝめ』を読んだ村代表の小川武平が明治7年、福澤諭吉を訪ね、援助を求めました。話を聞いた福澤諭吉は、当時の柴原和県令宛に直々に手紙を出したり、小川武平を励ますなど支援を行い、ついに明治33年には長沼は長沼村に払い下げられ、所有権は回復しました。

また、事件解決後、福澤諭吉は、教育普及のため、小学校建設のために500円を寄付し、これを元手に長沼小学校が建てられたそうです。

 しかし、福澤諭吉は事件が解決した翌年の明治34年に亡くなってしまいました。そこで、福澤諭吉に対する感謝の念をいただいていた長沼の人々は、事件が解決した3月29日を記念日として村を挙げてお祭りが行われました。この日、各家では福澤諭吉の写真を床の間に飾っていたそうです。

 現在、長沼小学校は廃校となりましたが、学校跡地には長沼保育園が建ち、その一室が「福澤諭吉記念子ども館」として開放されているそうです。

また、長沼事件を支援してくれた福沢諭吉に対する長沼地区の感謝の気持ちは現在まで続いていて、福澤家は福澤諭吉の曾孫の代になっていますが、福澤家に年3回長沼地区の人々がお礼に訪れているそうです。


赤印が菊屋です。緑印が、前回紹介した延命院旧跡です。
青印は成田山新勝寺の総門です。








by wheatbaku | 2019-03-18 20:01
7代目団十郎ゆかりの延命院旧跡(成田山新勝寺②)

7代目団十郎ゆかりの延命院旧跡(成田山新勝寺②)

成田のお不動様にお参りしたのは、成田のお不動様の御利益をいただくこととが一番の目的でしたが、それとともに、市川団十郎のゆかりの地を訪ねることも目的でした。

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 先週316日の文京学院大学で「江戸の刑罰」についてお話しました。その中で江戸時代の追放刑についてもお話しました。

 追放刑というのは、ある地域から追放して、その地域の居住できなくなるようにする刑です。

 追放刑は、門前払いから遠島まで8段階の刑があります。

 その中で、江戸十里四方追放という刑があります。その刑に処せられた有名人が7代目市川団十郎でした。

 そして、江戸十里四方追放の刑を受けた7代目団十郎が身を寄せたのが成田山新勝寺の塔頭延命院でした。

 この延命院は、現在は、成田に残っていませんが、その旧跡は残されているというので、そこを訪ねることも今回の成田山お参りの目的の一つでした。

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7代目団十郎は、10歳で団十郎を襲名し、のちに名人とうたわれました。

今でも演じられる歌舞伎十八番は、7代目団十郎が定めたものです。

この市川団十郎は、老中水野忠邦が始めた天保の改革により、その豪奢ぶりが咎められました。

当時の南町奉行鳥居耀蔵が呼び出された団十郎は、天保13年(1842)、2か月間手鎖の上家主預かりとなり、622日に江戸十里四方追放の刑に処せられました。

江戸十里四方追放と云うのは、日本橋を中心に五里四方の地域から追放する刑で、日本橋から五里圏内には、住むことができませんでした。

そこで、625日、7代目団十郎は 江戸を発ち、成田山新勝寺の塔頭である延命院に身を寄せました。

延命院は、成田駅から成田山新勝寺に向かう表参道の坂を下りきった辺りにありましたが、延命院は、明治年間に横浜に移転して、現在は横浜別院となっています。

そのため、現在、延命院は成田にはなくて、延命院があった場所には 「延命院旧跡」という標柱が建てられています。(最上段写真)

表参道を下っていくと右手に鉄砲漬で有名な「江戸久」があります。その先の「お食事処ひしや」との間に路地があり、そこに「延命院旧跡」の標柱があります。下写真が標柱がある場所の全体像です。写真右手が「江戸久」、左手が「ひしや」です。

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その標柱を右手に入る路地の先に木戸があります。(下写真)

その木戸の先に、延命院があったそうです。

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7代目団十郎は、成田山新勝寺の延命院には、半年ほど住んでいて、その後  駿府に移り、そして大坂に向かいました。

そして、嘉永2年(184912月に恩赦により追放が解除されました。

 赤印が延命院旧跡の標柱です。
 青印が成田山新勝寺の総門です。







by wheatbaku | 2019-03-15 13:51
成田のお不動様お参り(成田山新勝寺①)

成田のお不動様お参り(成田山新勝寺①)

昨日は、成田のお不動様(成田山新勝寺)にお参りに行ってきました。

成田のお不動様は以前から数年おきにお参りしていますが、しばらくお参りに行っていなかったので、久しぶりのお参りということになります。

 護摩修行は、いつもの通り厳粛に行われ、お不動様の御利益を授かってきました。下写真は本堂です。

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 昨日は、天気も良く気温も4月中旬の気温で、絶好のお参り日和となりました。そこで、本堂での護摩修行のあと、これまでお参りしていなかった本堂以外の諸堂もお参りしてきました。そこで、今日は、成田山新勝寺の諸堂について簡単に紹介しておきます。

 

総門

 成田山新勝寺で、最初に参拝者を迎えるのが総門です。

 総門は、平成19年に建てられたもので、髙さが19メートルもある立派なものです。

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仁王門

 総門を入ると正面に見えるのが仁王門です。

 天保元年(1830)に建立されたもので、国の重要文化財となっています。

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本堂

 本堂は仁王門の先の石段を登ると正面に見えてきます。

 本堂は、昭和43年に建立された近代的な建物です。内陣は296畳の広さがある大きな建物です。本堂右は重要文化財の三重塔です。

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釈迦堂

 釈迦堂は、本堂の西側にありますが、現在の本堂ができるまでの本堂でした。

現在は、釈迦如来をお祀りしていますので、釈迦堂と呼ばれています。安政5年(1858)に建立された建物で、国の重要文化財です。

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光明堂

 光明堂は、本堂や釈迦堂より一段と高い場所にあります。

 元禄14年(1701)に建立された建物で、元々本堂でした。国の重要文化財です。

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平和大塔

平和大塔は、新勝寺の境内の一番奥まった所にあります。奥が平和大塔です。手前の建物は医王殿です。

昭和59年に建立されたものです。内部には、成田山の歴史がわかる展示コーナーや写経場があります。

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白木蓮

 平和大塔の手前にある医王殿の裏側に大きな白木蓮があります。小石川植物園と明治神宮外苑とともに白木蓮の三大銘木の一つに数えられている白木蓮です。

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医王殿の裏側ですので、ほとんどの人が気が付かないと思いますが、暖かい陽気に誘われて花が咲き始めていました。まもなく満開になると思います。

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by wheatbaku | 2019-03-13 12:18
「江戸の刑罰」について話してきました!

「江戸の刑罰」についてお話してきました!

昨日は、江戸楽アカデミーで「江戸の刑罰~お白州からお咎めまで~」というタイトルの講座で、江戸時代の刑罰について話をしてきました。

 江戸時代は、磔や獄門などの残虐な刑罰が行なわれていたことはよく知られていますし、刑罰というテーマ自体が堅いものですから、受講していただく人はあまり多くないのでないかと思っていましたが、意外と受講者が多かったので、驚くとともに大変うれしく思いました。

 また、受講者の皆様には、大変熱心に聞いていただきました。

 受講していただいた皆様、ありがとうございました。

 

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江戸での犯罪捜査や犯人逮捕の中心となったのは、三廻りと総称される「定廻り」「臨時廻り」「隠密廻り」ですが、昨日の講義では、まず、この人たちの説明から始めて、逮捕から判決までのプロセスについて話をさせていただきました。
 死刑判決の言い渡しは、町奉行ではなく、小伝馬町牢屋敷で与力が行なっていたことを説明しましたが、そのことに多くの人が驚いていました。 

 江戸時代には死刑は6種類ありました。軽いものから①下手人(げしゅにん)、②死罪(しざい)、③火罪(かざい)、④獄門(ごくもん) 、⑤磔(はりつけ)、⑥鋸挽き(のこぎりびき)の6種類となります。

江戸時代の刑罰は、これら死刑と追放刑を中心とした体系となっていましたが、この部分は、かなりの時間をとって、個別に詳しく説明させていただきましたが、皆さん、非常に熱心に聞いていただきました。

 受講された皆様は、全員、江戸検を受検される人たちでしたので、講義のなかでは、江戸検1級の過去問についても触れさせていただきました。

 江戸の刑罰に関係する1級の過去問の中には、超難問だというものがありますが、この超難問をたやすく解いた人がいて、熱心な勉強ぶりには大変驚きました。

 講義終了後は、懇親会を開催させていただきました。10人以上の参加者の皆さんに自己紹介をお願いしながら懇親を深めましたが、皆さん、江戸検とのかかわりや今年の江戸検への意気込み等が語られ、楽しいひと時となりました。

 懇親会までご参加いただいた皆様ありがとうございました。





by wheatbaku | 2019-03-10 13:00 | 江戸講座
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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