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金山寺味噌で有名な興国寺(醤油発祥の地①)

金山寺味噌で有名な興国寺(醤油発祥の地①)


 先週、和歌山県の湯浅町・広川(ひろがわ)町に行ってきました。今回のテーマは、「醤油」と「浜口梧陵」です。二つの町はともに「きのくに線」の湯浅駅を最寄り駅とする隣どうしの町です。新大阪駅から湯浅まで特急くろしおを利用して約1時間30分で行くことができました。予想外に近いという印象です。
 
 今日は、まず醤油の話からしていきたいと思います。

 醤油の由来について、ほとんどの本が、紀伊由良の興国寺の開山覚心が宋から径山寺(きんざんじ)味噌の製法を日本に伝え、径山寺味噌の底にたまった汁から醤油が発明されたとしています。

 そこで、醤油発祥に関係した興国寺は、湯浅町の近くにある由良町にあります。その興国寺も訪ねてきましたので、興国寺からご紹介します。

 興国寺は、醤油発祥の地湯浅町の隣にある由良町にある臨済宗のお寺です。(下写真は山門です。)

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 紀伊由良駅から山門(上写真)までは徒歩10分の距離にあります。
 行く前に興国寺に問い合わせた際にはタクシーが便利ということでしたので、紀伊由良駅からタクシーで行きましたが、タクシーの運転手の話では多くの参拝者が歩いていくとのことです。帰りは歩きましたが、山門からは10分で到着しました。ただし、参道が長いため、法堂(はっとう:本堂に当るお堂)からは15分くらいはかかると思います。なお、駅からお寺まではフラットですが、道路わきにある山門をくぐると参道は少し登り道となります。

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 さて、興国寺ですが、そもそも興国寺は、鎌倉幕府三代将軍源実朝の菩提を弔うために、葛山五郎景倫という武士が出家し願性と名乗り、鎌倉時代前期の安貞元年(1227)に建てられたもので、当時は「西方寺」として称していました。

のちに心地覚心(法燈国師)を住職に迎え、宗旨を臨済宗に改め、大いに栄えました。

 心地覚心(法燈国師)は建長元年(1249)中国・宋に渡り、宋で禅を極めた後、建長6年(1254)に帰国し、後に、興国寺(当時は西方寺)の住職に迎えられました。

 心地覚心(法燈国師)は、永仁6年(1298)に亡くなりましたが、その後に国師号を授かり、興国元年(1340)に、南朝の後村上天皇から興国寺の寺号を賜り、それ以降興国寺と呼ばれるようになりました。(下写真は法堂です)

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 元号を寺号としているお寺は、私が知る限りは延暦寺、仁和寺、建長寺、寛永寺の四ヶ寺で、いずれも錚々たる有名寺院ですが、この四ヶ寺に新たに興国寺が加わることになります。

さて、心地覚心(法燈国師)は、入宋した際、径(金)山寺味噌の製造を習得し、その製法を日本に伝えました。

それが、広まり、醤油の発明ということになるわけですが、興国寺は、金山寺味噌発祥の地であることから、興国寺の売店では、金山寺味噌を販売しています。(下写真は売店です。お坊さんが販売してくれます)

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売店では、その歴史にちなみ、金山寺味噌のほか、湯浅の老舗醤油屋角長の醤油や天狗の面なども販売されています。

 興国寺で販売している金山寺味噌は、興国寺で製造しているものではなく、御坊のというメーカーが製造したものですが、興国寺と銘打ってあるものは、興国寺でしか手に入りません。そこで興国寺ブランドの金山寺味噌を買ってきました。包装紙には「紀伊由良 開山興国寺」と書かれています。

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 この金山寺味噌から、醤油が発明されたわけですが、その話は次回にして、興国寺は、金山寺味噌発祥の地であるだけでなく、日本における尺八発祥の地でもあり、天狗でも有名ですので、そちらの話を書いておきます。

心地覚心(法燈国師)は宋での修行中に尺八を学び、帰国の際には名手4人を伴い帰国しました。これが日本における尺八のはじまりです。

時代劇でよく深編み笠の虚無僧が尺八を演奏しながら旅する場面がでてきますが、虚無僧は普化宗に属しています。日本における普化宗は、心地覚心(法燈国師)の孫弟子である金先(こんせん)が広めました。普化宗は、明治になって廃宗となりましたが、興国寺は、いまでも、尺八を演奏する人たちの間で高い地位を保っているそうです。(下写真は、開山堂からみた興国寺法堂方向です。)

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さらに、興国寺は、天狗でも有名です。昔、本堂などが火災に見舞われた後、天狗が現れ一夜にして寺を建て直したという伝説が残されています。

その伝説にちなんで、法堂裏に天狗堂があります。

法堂の裏にまわり、石段を登っていくと、天狗堂が現れ、天狗堂のなかに、長さ2.4m、幅2.7㎡の巨大なお面が祭られています。(下写真)

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興国寺では、毎年1月の成人の日に行われる天狗祭りが行われ、中門下の広場(下写真の右手)で天狗の舞が披露されます。

大天狗を中心にして、中天狗たちは、大きなノコギリやノミ、木槌などの大工道具を手にし、お堂を建設する様子が表現され、小天狗は、棒を持って、お堂の建設に協力する踊りのようです。

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 天狗堂の中の天狗の面の前に、天狗命根石(てんぐめいこんせき)という岩が飾られています。

そばに建てられている説明板によれば、天狗命根石は、地球創世記のころ、地核の噴出による火山岩からできた世界最大の大きさを誇る貴い石で、中には数億年前の水が溜まっているのだそうです。

そして、石をなでながらお願いすると願い事がかなうとも書かれています。

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醤油のもととなった金山寺味噌で有名な興国寺は、金山寺味噌以外にもいろいろな見どころがありました。 境内には人影はありませんでしたが、非常に境内が掃き清められていて、まさに静寂のなかでお参りができ、非常に良い気分になりました。 

 下赤印が興国寺です。





by wheatbaku | 2019-04-28 21:51
塙保己一の生家(塙保己一記念館⑤)

塙保己一の生家(塙保己一記念館⑤)

 塙保己一記念館から車で少し行った場所に塙保己一が生まれた家が残されています。塙保己一旧宅というタイトルもありますが、ここではあえて塙保己一の生家としておきます。

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 塙保己一は、塙姓を名乗っていますが、これは師匠であった雨冨検校の苗字です。本来の姓は荻野姓です。

 塙保己一は、延享三年(1746)、武蔵国児玉郡保木野村(現在の本庄市児玉町保木野)で荻野宇兵衛の子供として生まれました。しかし7歳の時に失明し、15歳のとき江戸へ出て、雨宮検校の弟子になりました。

 その塙保己一が生まれ育って家が、本庄市児玉町保木間に残されています。

 塙保己一記念館から、車で5分ぐらいのところです。記念館からのルートは記念館で確認したほうがよいと思います。

 

 塙保己一は長男として生まれましたが、江戸に出たため生家は弟卯右衛門が継ぎました。現在も残されている家は、その弟卯右衛門のご子孫が住んでいます。生家の西側に牛舎がありましたので、おそらく酪農を営んでいるのではないかと思います。こうした状況のため、生家の敷地内に入ることはできませんが、外から見ることができます。

 外といっても、生家の正面に下のような説明板が設置されていますので、生家の正面から生家の様子が見られます。

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 説明板によれば、母屋は。塙保己一の父荻野卯兵衛の代に建てられたと伝えられていて、保己一が生まれた延享3年(1746)より幾分遡るものだそうです。

生家は、茅葺き二階建ての入母屋造りで、向かって左側に田字形の部屋、右側に土間、馬屋(現在は子供部屋)等があり、後世に若干の増築や補修されていますが、当時の姿をよく残しているそうです。

よく400年近くの建物が残されたものだと驚くとともに、塙保己一の弟のご子孫がよく維持してくれていると感動しました。下写真が正面からみた生家です。

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生家の裏手西側にある塙保己一公園の一画に、塙保己一の墓があります。(下写真)

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塙保己一の墓は、東京の四谷の愛染院にありますが、もとは同じ四谷の安楽寺に埋葬されました。

本庄市の生家近くにあるお墓は、保己一が埋葬された東京四谷の安楽寺の墳墓の土を生家の荻野家が持ち帰って先祖累代の墓地に碑を建てて慰霊したのが始まりで、その後、明治44年に、一度移転した際、塙保己一の法衣の一部が瓶に納められてお墓の底に埋設されました。

保己一のお墓は平成24年に現在地に移転されましたが、その工事の際に、墓碑の下から瓶が出土しました。埋設されていた瓶は割れており、中には土が詰まっていて法衣は確認できませんでした。そこで、関係者が協議した上で、瓶は修復され菩提寺である實相寺に納められ、瓶内の土は三等分して、新墓所、荻野家の墓地、菩提寺實相寺の瓶に納めることになり、新しい墓所へ納める土は白布に包み、石の容器に密閉して墓碑の真下に埋められました。

こうした経緯が墓碑そばの石碑に説明されています。

赤印が塙保己一生家です。 青印が塙保己一記念館です






by wheatbaku | 2019-04-26 15:07
般若心経を毎日100回詠んでいた塙保己一 (塙保己一記念館④)

般若心経を毎日100回詠んでいた塙保己一(塙保己一記念館④)

 

 塙保己一は、毎日般若心経を100回読んでいたということを私は昔から知っていました。そして、般若心経を毎日100回読むということは至難の業ではないと思って、塙保己一はすごいと思っていました。

 塙保己一記念館には、それを証明するものが展示されていて感激しました。

 その品は「般若心経数帳(はんにゃしんぎょうすうちょう)」という小冊子で、般若心経を何回よんだかを記録したものです。(下写真)

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 細かい数字は読めませんが、月日と詠んだ巻数がメモしてあります。その月日は一定の間隔ではないように思いますので、適宜、メモしたものだと思います。

 

 般若心経を毎日100回読むと決意したのは、安永8年(1779)に群書類従の編さんを決意した時だそうです。

 群書類従の完成させることは大変な仕事であるので、それが成功するようにと願って100万回詠むことを決意して始めました。そのためには毎日100回詠む必要がありました。

 「般若心経数帳」には、安永8年(1779)から文政4年(1821)に塙保己一が亡くなる直前までの43年間に198万回余り詠んだことが記録されているそうです。

 これは一日あたりの回数に換算すると100回以上詠んだことになります。

 まさに、群書類従の編さんを決意してから、毎日欠かさず般若心経を100回詠んでいたことになります。

 こうしたことから、本庄市教育委員会発行の「盲目の国学者 塙保己一の生涯」(下写真)では、塙保己一は、非常に意思の強い人物だと評価しています。

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 般若心経を詠むには、私の経験では1回80秒程度かかります。これを100回詠むとすると、毎日2時間程度は、般若心経を詠んでいたことになります。その強い決意と持続力に改めて脱帽する思いです。





by wheatbaku | 2019-04-22 13:37
和学講談所(塙保己一記念館③)

和学講談所(塙保己一記念館③)

 塙保己一の優れた業績で、「群書類従」と並ぶものが和学講談所の開設です。

 塙保己一記念館では、和学講談所についても詳しく説明しています。

 下写真は和学講談所についての説明コーナー全体の写真です。

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 塙保己一は、寛政5年(1793)に和学講談所の設立を幕府に申請しました。するとすぐに許可がでて、麹町六番町に用地が与えられ建設しました。

 寛政7年には、和学講談所は幕府直轄の学校となり、林大学頭の支配下に属しました。

 和学講談所は、松平定信によって「温古堂」となづけられました。和学講談所の玄関には、水戸藩主徳川治保によって書かれ、屋代弘賢によって彫られた額が掲げられていました。下写真がその額です。

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 和学講談所が設置された場所は、裏六番町の小普請組小泉新三郎の上地600坪のうちの300坪でした。

 その後、文化元年(1804)に場所替えを願い出たて、文化2年には、表六番町の土地840坪を拝領し、そこに移転をしました。

 塙保己一記念館には、和学講談所の模型が展示されていました。(下写真)

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 和学講談所には、天満宮も建てられました。記念館には、その天満宮にかかっていた額や天満宮の軒丸瓦も展示されています。

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 和学講談所の機能は次の四つありました。

 1、「古事記」や「六国史」などの日本古来の歴史書を読み教えること

 2、文献資料を調査収集して書写・校訂を行うこと

 3、幕府の要求に応じて、資料の提出、応答、原案の起草などを行うこと

 4、「群書類従」などの編纂や刊行などの出版事業を行うこと

つまり教育事業や出版事業だけでなく、幕府の諮問に対する答申機能もありました。

私が特に注目したのは、和学講談所は、幕府からさまざまな諮問に対して、過去の文書などを調査して回答していたことです。

 その代表的な例が、小笠原諸島の帰属問題です。

 幕末になり、欧米各国が、日本周辺海域に出没するようになると、小笠原諸島がどこに帰属するかが問題となりました。

 その際に、塙忠宝は、幕府の求めに応じて、和学講談所に収蔵された資料の中から「辰巳無人島訴状并口上留書」という文書を発見し、その文書には小笠原諸島は文禄2年、小笠原民部少輔貞頼(小笠原貞頼)が高麗より帰朝の際に発見した島であるということが書いてありました。

 この文書があることを幕府に回答し、これにより、小笠原諸島が明治9年、日本の領土であると国際的に認められました。

 現在、小笠原諸島が日本の領土であるのは、塙保己一と塙保忠宝によるといっても過言ではないと思います。

 こうした功績をある和学講談所は、文政4年(1821)塙保己一が亡くなった後は息子の忠宝(ただとみ)が継ぎ、文久2年(1862)に忠宝がなくなった後はその子忠韻(ただつぐ)が継いでともに講習、編纂事業を継続していきました。

しかし、徳川幕府に終焉を迎えたことにより、明治元年6月に廃止されました。



by wheatbaku | 2019-04-18 19:58
「群書類聚従」(塙保己一記念館②) 

「群書類従」(塙保己一記念館②) 

塙保己一の優れた業績として有名なものが「群書類従」の編纂です。

「群書類従」は、日本の古代から江戸時代初期にいたるまでの古書を集大成した叢書で、正編530665冊、目録1冊を加えて、全体で666冊あり、刊行に40年以上かかったという膨大な叢書です。

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 塙保己一 が「群書類従」の編纂を決意したのは次のような経緯があるそうです。

 安永4年(1775)、塙保己一 は匂当に昇進しましたが、塙保己一 は匂当に昇進できたのは、日頃から天満宮を深く信仰し、昇進祈願をした結果であるが、昇進は自分だけの問題であり、今後は「世のためになることをしたいと考えました。

そこで、「外国には叢書というものがあるが、日本には、そういったものがない。全国各地に散らばっている貴重な書を取り集め、版木をおこして印刷すれば、国学を勉強しようと思っている人の助けになるに違いない」と考え、安永8年(1779)正月、34歳の時、刊行を決意したといいます。

 それから、塙保己一は、幕府の紅葉山文庫をはじめ伊勢神宮や増上寺などの寺社の文庫、さらに公家や大名にもお願いして筆写を続けました。

 しかし、当時は貴重であればあるほど簡単に見せたり筆写させることはありませんでしたので、塙保己一は大変苦労したようです。

 こうした筆写は弟子にやらせるだけでなく、塙保己一自信が、名古屋・京都・伊勢・大阪方面に出かけて調査したこともありました。

また、「群書類従」の出版には、多額のお金が必要となりますが、その資金は、鴻池など各方面から借り入れて準備しました。こうした資金の借用書も、塙保己一記念館に展示されていました。

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こうして筆写した本が版木に起されます。

版木は漢文の場合1行20字×20行=400字となっていました。これが現在の原稿用紙のもとになったといわれています。下写真は「群書類従」の版木です。

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こうしたなみなみならぬ努力の結果「群書類従」は、文政2年(1819)にできあがりました。塙保己一が74歳の時でした。

「群書類聚」は、665冊、目録1冊をあわせ666冊となりました。収録した本は1277種という膨大な数です。

これらは、神祇、帝王、補任、系譜、伝、官職、律令、公事、装束、文筆、消息、和歌、連歌、物語、日記、紀行、管絃、蹴鞠、鷹、遊戯、飲食、合戦、武家、釈家、雑の25部門に分かれています。

塙保己一記念館には、その「群書類従」の一部が展示されています。それが最上段の写真です。

なお、「群書類従」の版木は、現在も渋谷にある塙保己一史料館に残されていて、現在も印刷可能です。下写真は塙保己一史料館に保存されている「群書類従」の版木です。

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「群書類従」の編纂にあたって、「平家物語」や「源氏物語」といった有名は本は当時でもよく残されていたため、散逸しやすい貴重なものを中心に収録するという考えでした。そのため、「群書類従」には多くの貴重な文献が残されているようです。





by wheatbaku | 2019-04-16 18:37
西新宿を散歩してきました!

西新宿を散歩してきました!

 昨日は、毎日文化センターの「~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩」があり、新宿駅から高層ビル群をみながら江戸の面影をさがして西新宿を散歩してきました。

 この間、寒い日が続いていましたが、昨日は、春らしい陽気で久しぶりの行楽日和となり、気分よく散歩できました。

 ご参加いただいた皆さん、ありがとうございました。

 下写真は、新宿駅方向を見ながら、新宿駅の歴史の説明を聞く参加者の皆さんです。

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 昨日、歩いたコースは次のようなコースです。

新宿駅 ⇒ 策(むち)の井跡 ⇒ 淀橋浄水場趾碑 ⇒ 常圓寺 ⇒ 成子天神社 ⇒ 新宿中央公園(休憩) ⇒ 熊野神社 ⇒ 十二社(じゅうにそう)の池跡 ⇒ 水道道路 ⇒ 韋駄天堂 ⇒ 箒銀杏 ⇒ 玉川上水跡(天神橋跡→勿来橋跡→玉川上水モニュメント→新町駅跡→千駄ヶ谷橋跡→葵橋跡)⇒ 新宿駅

 新宿駅西口は、高層ビルが立ち並んでいますので、高層ビル群が生まれた歴史が欠かせませんので、淀橋浄水場が建設された歴史と高層ビル群の歴史を説明しました。下写真は、高層ビル群をながめながら説明を聞く参加者の皆さんです。

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高層ビル群のおかげで、新宿駅西口には江戸の面影はなさそうに思いますが、探せば、あちこちにありました。その一つが「策(むち)の井跡」です。

 新宿駅西口には、美濃高須藩松平家の下屋敷がありました。

 高須藩松平家からは、高須四兄弟といわれる幕末に活躍した4人の人物すなわち徳川慶勝、一橋茂栄、松平容保、松平定敬が生まれた家ですが、四兄弟の父松平義建(よしたつ)は隠居後、下屋敷で悠々自適の生活をしていました。

 そんな高須藩下屋敷の名残りをとどめているのが、「策の井」です。下写真左手の植栽の中にモニュメントと説明板があります。

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 青梅街道に面して日蓮宗の常圓寺(じょうえんじ)があります。
 常圓寺には、11代将軍家斉の顔を写したという「感応胎蔵(かんのうはらごもり)の祖師像」が祖師堂に祀られていますし、名奉行の一人筒井政憲の尾お墓があります。下写真は感応胎蔵(かんのうはらごもり)の祖師像」が祀られている祖師堂の前で説明を聞く参加者の皆さんです。

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 成子天神社は、平安時代、九州の太宰府で菅原道真が亡くなったという報せを東国の地で受けた家臣の佐伯と斎宮は、その死を悲しみ、京から菅原道真の生前に彫られた像を柏木村に持ち帰りお祀りしたという歴史のある古い神社です。

 そんな古い歴史を誇る神社ですが、現在の御社殿は平成26年に造営された大変新しいものです。

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熊野神社は、江戸時代には、熊野十二所権現または十二社(じゅうにそう)といわれました。

熊野神社は、室町時代、中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州の熊野三山より十二社権現を勧請し祠ったものと伝えられます。

現在の拝殿は昭和9年に明治神宮が改築された時に、古材を譲りうけて建築したものです。

熊野神社の境内には、大田南畝の書のある水鉢やこの近辺の風景を讃えた十二社の碑をはじめ数多くの文化財が存在し、ミニ博物館として拝観できるようになっています。

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新宿ワシントンホテルの敷地の一画に韋駄天堂があり、韋駄天がお祀りされています。

 もともとは、この韋駄天堂は、上州館林の城主秋元但馬守礼朝の守護神として当初江戸浅草にお祀りされていた韋駄天に由来するものです。

韋駄天は足腰の護る仏様ですので、いつまでも足腰が健康で散歩できるようにとお願いをさせていただきました。

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散歩の最後は、玉川上水跡を散歩しました。

その途中の新宿文化クイントビルの前には、かつてここに、玉川上水が流れていたことを示す煉瓦造りのアーチのモニュメントがあります。

明治時代に新宿駅構内を通過していた玉川上水をイメージしながらモニュメントを見てもらいました。

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昨日の西新宿散歩も、参加者の皆さんのおかげで、大変楽しい散歩となりました。ご参加いただいた皆さん、ありがとうございました。



by wheatbaku | 2019-04-14 11:55 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
塙保己一記念館(塙保己一記念館①)

塙保己一記念館(塙保己一記念館①)

 先月、埼玉県本庄市にある塙保己一記念館に行ってきました。(下写真は外観全体です)

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 塙保己一記念館は、江戸時代中期の国学者「塙保己一」が生まれた本庄市児玉町にあります。 児玉町は、平成の大合併により、本庄市と合併をしましたが、旧児玉町の町役場があった場所に造られた児玉総合支所「アスピアこだま」に、平成27年に移転しリニューアルオープンしました。3年前にできたばかりですので、まだ新しいきれいな建物でした。(下写真は記念館入口)

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 入館料は無料でしたし、「写真撮影はご自由に」ということでしたので、塙保己一に興味をもっている人にとっては大変うれしい記念館です。

 記念館の中は、それほど広くなく、コンパクトな展示ですが、内容豊富なものです。大変工夫されたものだと感じました。下写真が館内の展示の様子です。

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 また、展示ケースの前には手すりがついています。また、各コーナーには、文書による説明とともに同じ内容の音声によるガイドも設備されていて、弱者に対する配慮が行き届いた施設でした。さすが、盲目の大学者塙保己一の記念館だけのことはあると感じ入りました。

 展示は、「第1章保己一とふるさと」から始まります。(下写真)

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 塙保己一は、延享3年(1746)5月5日、武蔵国児玉郡保木野村(現在、埼玉県本庄市児玉町)に、父荻野宇兵衛、母きよの長男として生まれました。

 生まれつき丈夫な方ではなく、7歳の時、肝の病がもとで失明しました。

 しかし、江戸に出て修行しようと考え、宝暦10年(1760)、保己一15歳の時に江戸に出ました。

 保己一が江戸に出る時、塙保己一の母親は、保己一のため、自分の帯を材料にして巾着を作ってあげたそうで、保己一は、その巾着を一生大事にしていたそうです。その巾着が記念館に展示されていました。(下写真)

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 また、江戸に出て行く際に荷物を入れて背負っていたという素麺箱(そうめんばこ)も展示されていました。この素麺箱は、林大学頭により「お宝箱」となづけられたものです。

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by wheatbaku | 2019-04-09 19:29
薬師堂・医王堂・平和大塔(成田山新勝寺⑨)

薬師堂・医王堂・平和大塔(成田山新勝寺⑨)

今日は、成田山新勝寺の諸堂のご案内として、医王堂と平和大塔、そして少し離れた所にある薬師堂をご案内します。

 光明堂から平和大塔に向かっていくとまもなく医王堂が見えてきます。下写真の通り平和大塔の手前となります。

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医王堂

 医王堂は、平成29年に開基1080年祭記念事業として建立されたもので、最近造られた新しい建物です。

木造総檜造りの一重宝形造のお堂には薬師瑠璃光如来(いわゆるお薬師様)、日光菩薩、月光菩薩や十二神将が安置されています

 薬師瑠璃光如来は、医術の仏様ですので、お堂の名前が医王堂となっているのだろうと思います。

 そうしたこともあって、医王堂は、病気平癒・健康長寿の祈願所となっています。

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平和の大塔

平和の大塔は、昭和59年に建立された総高は58メートルもある立派な塔です。外観は二層ですが、内部は五階となっていて、一階は大塔入口、成田山の歴史展、写経道場各種受付があります。二階の明王殿には、大塔の御本尊不動明王、四大明王などが安置されています。

 しかし、一般の人が自由に入れるのは二階までで、三階以上には一般の人は入ることができません。

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薬師堂

 薬師堂は、大本堂などのある境内から少し離れた場所にあります。

 JR成田駅や京成成田駅から成田山新勝寺に向かうと、なごみ米屋を過ぎたところで三叉路となります。その三叉路の左手に薬師堂があります。

薬師堂は江戸時代初期の明暦元年(1655)に建立された建物で、成田山現存最古のお堂です。(下写真)

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 実は、薬師堂は、もともと本堂でした。

 初代の市川団十郎がお参りしたのも、このお堂です。

 元禄14年(1701)に、新しい本堂(現在の光明堂)が建立された際に、新本堂の後ろに移築され、さらに安政2年(1855)に新本堂(現在の釈迦堂)が建立された際に、薬師堂と名前を替えて、現在地に移築されました。

 つまり、成田山新勝寺には、江戸時代に建立された3代にわたる本堂が全て現存しているということになります。大変すばらしいことだと思います。

 さて、薬師堂の現在の御本尊様は、名前の通り、薬師三尊がお祀りされています。しかしながら、通常は、扉が閉じられているようです。





by wheatbaku | 2019-04-05 19:34
額堂と光明堂(成田山新勝寺⑧)

額堂と光明堂(成田山新勝寺⑧)

大本堂や釈迦堂がある一帯の裏側は一段と高くなっています。そこには、額堂、開山堂、光明堂などの諸堂があります。

 今日は、それらの諸堂のうち、額堂と光明堂について紹介します。下写真の手前左の建物が額堂で、中央奥に見えるのが光明堂です。

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 額堂(下写真)は、信徒から奉納された額や絵馬などをかける建物で、文久元年(1861)に建立された重要文化財で、昭和61年に修復されました。

額堂の建物は桁行正面が3間(約5.5メートル)背面は6間(約11メートル)で、屋根は入母屋桟瓦葺です。現在は四方が開放されていますが当初は背面が板壁でした。額堂には絵馬類がたくさん掲げられていましたが、現在は成田山霊光館に保存されています。

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新勝寺には、七代目市川団十郎が千両かけて寄進した額堂(第一額堂)が三重塔脇にありました。しかし、第一額堂は、昭和40年に焼失してしまいした。

現在の額堂の中央部にある石像はその七代目市川団十郎の像(下写真)です。この石像は、7代目団十郎自身が奉納した第一額堂内にありましたが 額堂が焼失したので、現在の場所に移したものだそうです。

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額堂の後方には、光明堂があります。(下写真)

光明堂は、元禄14年(1701)に建立された建物で国の重要文化財に指定されています。

光明堂は、釈迦堂の前の本堂、つまり前の前の本堂です。

元禄14年(1701)に建立され、寛保2年(1742)と明和5年(1768)の改修を経て、安政年間新本堂(現釈迦堂)の建立にあたり、本堂の後方に移築され昭和39年大本堂建立のとき現在地へ移されました。

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建物は桁行五間(約9メートル)梁間5間で、屋根は入母屋造桟瓦葺です。堂内には中央にご本尊大日如来が安置されていて、その脇に、不動明王と愛染明王が安置されています。堂内には自由に入る事ができます。下写真は、光明堂入口から写した愛染明王です。左手が御本尊の大日如来です。

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by wheatbaku | 2019-04-03 16:47
釈迦堂と出世稲荷(成田山新勝寺⑦)

釈迦堂と出世稲荷(成田山新勝寺⑦)

成田山新勝寺の本堂の西側には釈迦堂があります。

 釈迦堂内には、釈迦如来を中心に、普賢、文殊、弥勒、千手観音の四菩薩が安置されています。下写真は大本堂側から見た釈迦堂の写真です。

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釈迦堂は現在は厄除お祓いの祈祷所となっていますが、この釈迦堂は、昭和43年に現在の本堂ができるまで新勝寺の本堂でした。

 昭和39年に大本堂が建立されるにあたって、現在の場所に移されました。 

 建物は安政5年(1858)に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。

 下写真は、正面からみた釈迦堂です。

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釈迦堂の建物の周囲には、五百羅漢や二十四孝の彫刻がされています。

五百羅漢の彫刻は、狩野一信の下絵を基に、松本良山が10年の歳月を費やして彫刻したとの説明が掲示されています。(下写真)

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五百羅漢の彫刻は8枚ありますが、下写真は、東北隅にある3枚の彫刻です。

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 二十四孝の彫刻は、西側、北側、東側の各4枚、合計12枚の扉にあります。1枚の彫刻に2話づつ、合計24の話が彫刻されています。



 大本堂から釈迦堂に向かう際に、左手に上る階段あります。その階段を上ると出世稲荷があります。

 

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出世稲荷の御本尊は吒枳尼天(だきにてん)で、出世稲荷は、吒枳尼天堂となっています。
 お稲荷様というと神社だと思う方多いと思いますが、お稲荷様には仏教系のお稲荷様があり、豊川稲荷が仏教系のお稲荷様の代表です。豊川稲荷でお祀りされているのが吒枳尼天(だきにてん)ですので、豊川稲荷にお祀りされているものと同じです。

江戸時代に成田山を篤く信仰した佐倉藩主稲葉丹後守が寄進したもので、商売繁昌、開運成就、火伏せのご利益があると伝えられており、古くから出世稲荷と呼ばれて親しまれています。

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 鳥居を上った参道の脇には、7代目市川団十郎と8代目市川団十郎が奉納した石燈籠があります。

 下写真の7代目海老蔵と説明書が貼ってある燈籠が、7代目団十郎が奉納したものです。7代目市川団十郎は、8代目団十郎に、団十郎の名跡を譲ったあと市川海老蔵を名のりました。
 そのため、7代目海老蔵と書いてあるようです。

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 下写真が8代目市川団十郎が奉納した石燈籠です。
 鳥居の左手にあります。

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by wheatbaku | 2019-04-01 13:43
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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