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江戸検は来年で終了です!

江戸検は来年で終了だそうです!

 

 皆さん、江戸検が来年で終わりになることを御存知ですか?

 江戸文化歴史検定協会のホームページに次のように書かれています。
14回を迎えた江戸文化歴史検定は、2020年の第15回をもって終了することになりました。長年“江戸検”に親しんでくださったことに深く感謝申し上げます。』


 詳しくは、江戸文化歴史検定協会のホームページの 『第13回 江戸文化歴史検定 実施概要【本試験】』 のページの最下段のお知らせを読んでみてください。

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 江戸検1級に11年前に合格して以来、いろいろな形で江戸検に関わっていた私としては、江戸検がなくなることは、大変さびしく感じて、少なからずショックでした。

 私と同じように感じる人も多いと思います。

しかし、最も大きな衝撃を受けるのは、今年、江戸検を受検しようと思っている方々、特に、いずれは1級に合格したいと思っている皆さんなのではないでしょうか?

 いずれは合格できるようにしたいとは思っていたものの、あと1年、最大でも2年で1級に合格できるのかと不安に思う方もいるのではないかと思います。

 でも、大丈夫です。絶対に合格しようと思って頑張れば必ず合格できます。

 しかし、やみくもに準備をしても合格は難しいとは思います。合格するにはそれなりのノウハウがあります。

合格に何が必要で、何をすれば1級に合格できるかについて、既に私なりに『合格虎の巻』にまとめました。
 その『合格虎の巻』について解説するのが先週ご案内した「これを聞けば合格に必ず近づく!『江戸検1級合格虎の巻』講座」 です。

江戸検が終了するまでに、1級に合格したいと思っている方はぜひご受講ください。必ずお役に立つと思います。開講は8月10日午後12時30分~15時30分です。

近日中に、江戸楽アカデミーのホームページに講座の内容がアップされると思います。
 適宜確認して、アップされたら早めにお申し込みください。 

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 江戸楽アカデミーのホームページは下記です。
  江戸楽アカデミー


 頑張れば必ず合格できます(断言できます)ので、頑張ってください。そして、江戸検終了までに、是非とも1級に合格してください。 









by wheatbaku | 2019-05-29 20:54
蘭学・医学への貢献(濱口梧陵⑤)

蘭学・医学への貢献(濱口梧陵⑤)

 濱口梧陵といえば、「稲むらの火」と広村堤防の築堤が大きく取り上げられていますが、濱口梧陵の功績で、見落とすことができないと思っていることがあります。それが、蘭学・医学への貢献です。

 濱口梧陵は、ふとした縁で、蘭方医三宅艮斎と知り合います。

三宅艮斎は、肥前国島原に生まれ、14歳の時に長崎に出て、蘭方医楢林栄建から医学を学び、天保9年(1838)に佐藤泰然を頼り、江戸で開業しました。しかし、その頃、漢方医の圧力により、蘭方医の扱える医療分野が外科と眼科に限定されたことから、天保12年(1841)に銚子に移り開業しました。銚子は、ヤマサ醤油の本拠地であり、これにより、濱口梧陵は三宅艮斎と知り合いました。

その後、三宅艮斎との関係は急速に強まり、師とも友ともいえる強い関係となりました。


安政5年(1858)に、伊東玄朴や大槻俊斎らが呼びかけ、蘭学者たちが一致協力して、神田お玉ヶ池の川路聖謨の屋敷に種痘所を開設しました。これがお玉が池種痘所です。この開設には三宅艮斎も多大な尽力をしていました。 下写真はお玉が池種痘所跡の記念碑です。

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お玉ヶ池種痘所が、開設後半年後に近くで起きた火事に類焼して焼失してしまいました。種痘所の再建は急務でしたが、なかなか資金が集まらず、蘭方医たち苦労していました。そのとき、濱口梧陵は300両の寄付をしました。当然、三宅艮斎との交友があったからだと思われます。
 その他の資金拠出もあり、種痘所は場所を替えて再建されました。さらに、濱口梧陵は、図書や機器類の購入資金として、400両を寄付しています。

また、銚子で開業していた関寛斎をお玉ヶ池種痘所に赴かせ、伊東玄朴、三宅艮斎の下で種痘の方法を学ばせました。関寛斎は銚子に戻り、コレラの予防・拡大防止に大きな業績をあげました。

 関寛斎は現在の千葉県東金市で生まれ、佐倉の佐藤泰然に入門し、さらに林洞海、三宅艮斎に学びました。一旦、故郷に帰り開業した後、安政3(1856)に銚子に移り開業しました。そこで、濱口梧陵は、関寛斎を知り、お玉ヶ池種痘所に派遣したのでした。
 さらに、関寛斎は、万延1(1860)に長崎に留学、蘭医ポンペに就いて西洋医学を学んでいます。この長崎遊学は濱口梧陵の資金援助があり実現したものです。

また、濱口梧陵は佐久間象山の塾にも入門して西洋事情を習得していました。

こうした背景もあると思われますが、勝海舟と知り合い、生涯の友となっています。

広川町教育委員会発行の「濱口梧陵の生涯」によれば、濱口梧陵と勝海舟の出会いは、日本橋の本屋で渋田利右衛門が濱口梧陵に勝海舟を紹介したことに始まりました。当時、渋田利右衛門は、貧しいながらも本屋の店頭で日々懸命に読書をし続けていた若く才能のある勝海舟を見出しており、自ら交際を求めて支援をしていましたが、病でまもなく死ぬ自分に代わって海舟の志を支えてやって欲しいと濱口梧陵に頼んだのでした。

渋田利右衛門にあらかじめ勝海舟の人柄を聞いていた濱口梧陵でしたが、実際に勝海舟に会って話してみると、いかにもざっくばらんで見識のある勝海舟に大きな魅力を感じました。そして、お互いに尊敬しあい、生涯の友となりました。


後に勝海舟が咸臨丸で遣米使節に随行した際には、濱口梧陵は勝海舟から渡米を勧められるほどの仲になっています。

もっとも、濱口梧陵は、この時は、渡米を断っています。

さて、最後に、広村堤防に建設されている「感恩の碑」の紹介がしてありませんでしたので、最後に、その紹介をしておきます。

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「感恩の碑」は、広村堤防中央部の海側の波除石垣の上に建てられています。 

私財を投じて堤防を築いた浜口梧陵の偉業とその徳を称えたもので、昭和812月に建立されました。

 赤印が、「感恩の碑」です。広村堤防のちょうど中間にあります。
 青印が、稲むらの火の館です。





by wheatbaku | 2019-05-26 20:30
濱口梧陵の生涯(濱口梧陵④)

濱口梧陵の生涯(濱口梧陵④)

 今日は、濱口梧陵の生涯について書いてみます。

 濱口梧陵は、文政3年(1820)に、銚子でヤマサ醤油を営む濱口儀兵衛家の分家である濱口七右衛門の長男として生まれました。(下写真は耐久高等学校にある濱口梧陵の銅像です)

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12歳で本家(濱口儀兵衛家)の養子となりました。養父となった6代目濱口儀兵衛は実の叔父でした。その頃まだ存命であった5代目儀兵衛はお祖父さんでした。

本家の養子となると、銚子に向かい、丁稚と同じように家業に励みました。

嘉永5年(1852)、濱口梧陵が33歳の時、親族の濱口吉右衛門らとともに広村に稽古場「耐久舎」を開設して後進の育成を図りました。

耐久舎は、その後の継続し、現在では、和歌山県立耐久高等学校へ発展しています。耐久舍の建物は、広川町立耐久中学校の敷地内に残されています。(下写真)

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また、耐久中学校と耐久高等学校には、濱口梧陵の銅像が建てられていて、現在も子供たちを見守っています。(最上段が、耐久高等学校の銅像、下が耐久中学校の銅像)

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嘉永6年(1853)家督を相続し、七代目濱口儀兵衛を名のり、醤油醸造の本業に力を注ぎました。

そして、濱口梧陵が家督を相続した翌年、安政南海地震によって起きた大津波が広村を襲い、その後、広村堤防を建設に尽力しました。その功績については、既に書いた通りです。

こうして家業であるヤマサ醤油の発展に取り組み、さらに社会奉仕にも尽力する中で、明治になると、和歌山藩の藩政改革に参画しています。

明治元年1月に紀州藩の勘定奉行に抜擢され、さらに和歌山藩権大参事となり、藩政運営の中心として活躍しました。

こうした和歌山での濱口梧陵の活躍は中央政府の知るところとなり、明治4年には、大久保利通の推挙で初代駅逓頭(えきていのかみ)(のちの郵政大臣に相当)に就任しました。

しかし、わずか1週間で辞職しています。これは、後に郵便制度の父と呼ばれる前島密との意見の食い違いによるという説が有力です。

辞職後、和歌山県大参事に任命され、明治13年(1880)には初代和歌山県会議長に、当時の和歌山県知事のたっての願いにより就任しました。明治17年には、すべての公職をしりぞき、念願の海外渡航に出向きました。下写真は、濱口梧陵記念館に展示されていた、ナイアガラの滝を背景に撮られた写真をもとに描かれた「濱口梧陵とナイアガラ瀑布」という絵です。

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しかし、ニューヨークに滞在中、体調を崩し、明治18年4月21日、ニューヨークで帰らぬ人となりました。

遺体は防腐剤で保護され、船で横浜・神戸を経由し広村に帰り、6月14日広村で葬儀が行われました。葬儀には4千人もの人々が会葬したといいます。当時、未曽有の大葬儀でした(いや現在でもそうでしょう)。浜口梧陵の偉大さを表していると思います。

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浜口梧陵のお墓は、広川町の淡濃山(たんのうさん)の東南麓の御坊湯浅線という道路の脇にあり、昭和13年に国の史跡に指定されています。(上写真)

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入口には、「史跡浜口梧陵墓」と刻まれた石柱と説明板が設置されていて、墓所は、三方を塀で仕切られ後方に切り石積みの基壇の手前に濱口梧陵の墓碑が立っています。上写真左奥の扉の中が浜口梧陵の墓所です。

赤印が濱口梧陵の墓です。青印が、耐久中学校です。ピンク印が「稲むらの火の館」です。







by wheatbaku | 2019-05-24 20:18
広村堤防の築堤(濱口梧陵③)

広村堤防の築堤(濱口梧陵③)

 浜口梧陵について書き始めましたが、先週1週間は、別の記事を3回続けて書いたため、少し間が空きました。

 今日から、また、濱口梧陵について書き始めます。

 前回は、嘉永7年(1854115日、安政南海地震によって発生した大津波から浜口梧陵が「稲むらの火」をともして村民を救った話までしました。

 今日は、濱口梧陵が築いて広村堤防について書いていきます。下写真は、広川町立耐久中学校正門近くから撮った広村堤防です。

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 安政南海地震の時に広村の被害の概略は次のようになっていました。

1、流され死んだ人 30人(男12人、女18人)

2、家屋 ①流失家屋125軒、②全壊家屋10軒、③半壊家屋46軒、④浸水・大小破損の家屋 158軒、以上家屋の被害合計339

 広村は、当時300余軒の戸数だったと推測されていますので、村は壊滅状態になってしましました。

 当時の広村では、50年から100年毎に必ず津波があるとの説を信じられていました。

天正13年(1585)宝永4年(1707)の被害年から数えると、嘉永7年(1854 )もこの説にあてはまるので、家財を失い肉親とも離れ、恐怖に襲われた村民の多くは、大津波に襲われたため、他に移住しようと考えたり、復興の意気を失っていました。

こうした村民の様子を見た濱口梧陵は、当面の措置として、まず家屋50軒を新築して、極貧者には無料で居住させ、多少の資力ある人には10年間の年賦で貸与し、農具や漁具も配分し、商人には応分の資本を融通しました。

さらに根本的に津波から広村を守るため、堅固な防波堤の築造を考え、親戚の濱口吉右衛門の賛同を得て、紀州藩に対して工事着工の許可を申請しました。

新しく築く堤防は、これまで古くから存在した約一間(1.8メートル)の石垣の背後に、高さ二間半(4.5メートル)、根幅11間(20メートル)、上幅4間(7.2メートル)、延長五百間(900メートル)の築堤を行おうとしたものです。

しかも、その口上書には、工事のために、濱口梧陵が私財を投じるとの旨も書かれていました。

濱口梧陵が、この計画を立てたのは、防災堤防を建設して村民を津波から守ると同時に当面の村民の生活も支援するために、堤防工事を始めたのでした。

下写真は、濱口梧陵記念館で展示されている工事の様子を描いたジオラマです。

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このようにして、広村永遠の安全を期そうとした堤防工事は、濱口梧陵に作った見積書によれば、人夫合計56,736人、費用合計94貫344匁(1572両)とあったそうでした。

工事は、安政2年(1855)2月に起され、日々これに従事するもの4~500人、老若男女を問わず、特に一日の労働が終わればその都度その日の日当を支払ったので、村民はとても喜んだそうです。

また農繁期となれば一時工事を中止し、冬斯の閑散期を見て再びこれを継続しました。

こうして、着工後約4年たった安政5年(1858)12月に築堤の全部が完成しました。

最初の予定では、広川堤まで900メートル(500間)の計画でしたが、その後、幕末となり、世の中で不穏な動きが強まってきたので、一旦、工事を中止し、完成した長さは670メートルでした。

この広村堤防は、現在も、広川町に残されています。堤防の基底の幅は約20メートル、高さ約5メートルとなっています。堤防の上を通行できるようになっています。(下写真)

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濱口梧陵が、植えた松林は、現在は2代目だそうですが、整然と植えられていて、大変見事な姿を現在も見せています。

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by wheatbaku | 2019-05-21 19:44
上野公園を散歩してきました。(「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」)

上野公園を散歩してきました。(「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」)

昨日は、毎日文化センターの「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」で上野公園を、参加者の皆さんと一緒に散歩してきました。

 少し暑い程度の陽気で、上野公園は、大勢の行楽客や外国からの観光客ぐらいあふれていました。

 寛永寺の開山堂などは以前は拝観客などほとんどいませんでしたが、昨日はかなりの拝観客がいました。そうした中で、楽しく散歩することができました。下写真は、寛永寺開山堂で説明をきく参加者の皆様ですが、ご参加いただいた皆様ありがとうございました。

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昨日は、次のコースで散歩してきました。

国立西洋美術館 ⇒ 両大師・寛永寺旧本坊表門 ⇒ 根本中堂跡 ⇒ 旧因州屋敷表門 ⇒ 東照宮(大石鳥居、水舎門、燈籠、唐門、透塀、社殿) ⇒ 上野大仏 ⇒ 時の鐘 ⇒ 時忘れじの塔 ⇒ 清水観音堂 ⇒ 秋色桜 ⇒ 彰義隊の墓 ⇒ 西郷隆盛銅像 

 主なご案内ポイントをスナップで紹介します。

 最初のご案内場所は、世界遺産に登録されている国立西洋美術館です。設計者はフランス人のル・コレビュジエです。西洋美術館は、松方コレクションを所属するために建てられた美術館です。前庭には、「考える人」をはじめとするロダンの作品が展示されています。これらのロダンの作品は、すべて本物であると説明したところ、皆さんは大変喜んでいました。下写真は「考える人」を見る参加者の皆様です。

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寛永寺の本坊は、御住職が起居する場所でしたが、上野戦争で焼失してしまいました。その中で、唯一焼失を免れたのが表門です。明治になって、帝室博物館(現在の国立博物館)の表門として利用されたあと、博物館の建直しに伴い、開山堂の東側に移築されました。

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上野公園には、寛永寺本坊表門のほか、もう一つ立派な門があります。それが国立博物館の中にある旧因州池田屋敷表門です。池田家の上屋敷は、現在の丸の内にありました。明治になって、高輪にあった東宮御所の正門として使用されたあと、昭和29年に国立博物館に移築されたものです。鳥取藩は32万石でしたが、その格式に則った立派な門です。

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 上野の東照宮は、元々は藤堂高虎が寛永4年(1627)、自分の屋敷に創建したものです。 現在の社殿は、慶安4年(1651)、3代将軍家光が大規模に造り替えたものです。

 東照宮の大石鳥居は、寛永10年(1633)上州厩橋(現在の前橋)藩主で老中を勤めた酒井忠世が奉納したものです。この石鳥居は基礎工事が万全だったため、安政の大地震、関東大震災の折にも少しも傾かなかったことで有名です。

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東照宮の参道から、上野動物園にある五重塔が見えます。

この五重塔は寛永8年(1631)に、江戸幕府の老中で土井大炊頭利勝の寄進により、上野東照宮の塔として建てられました。しかし竣工の8年後の寛永16年(1639)の春に花見客の過失によって焼失してしまい、現在見ることのできる五重塔は、その年のうちに再建されたものです。明治になって、東照宮から寛永寺に移され、さらに寛永寺から東京都に寄付されたものです。

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上野では、慶応4515日、新政府軍と彰義隊の戦いが起きました。敗北した彰義隊の人々の遺骸を焼いた場所に建てられたのが彰義隊の墓です。政府をはばかって「戦死之墓」とだけ刻まれています。字は山岡鉄舟が揮毫したものです。

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最後に案内したのは、西郷隆盛の銅像です。上野のランドマークの西郷隆盛さんの銅像は、高村光雲と後藤貞行の二人のコンビにより製作されました。明治31年の序幕式で、西郷隆盛の糸子夫人が「うちのひとはこんなひとじゃなかった」とつぶやいたといわれていますので、その背景などを説明しました。

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 上野公園内だけの散歩でしたので、歩く距離は、あまり長くありませんでしたが、そのかわり、各所でじっくりと説明しましたので、終了したのは5時直前でした。

ご参加いただいた皆様ありがとうございました。







by wheatbaku | 2019-05-19 14:37 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
「江戸検1級合格虎の巻」講座の開講(予告)

「江戸検1級合格虎の巻」講座の開講(予告)

 

 江戸楽アカデミーで、810日に、『江戸検1級合格虎の巻』講座を開講することになりましたので、早めにご案内させてもらいます。

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 過去6年にわたり、江戸検1級合格のお手伝いをしてきましたが、昨年までで延べ50人の方が1級に合格しました。

 この間の1級合格のお手伝いをする中で学んだ合格するための勉強方法や心構えを、昨年「1級合格虎の巻」という小冊子にまとめました。この小冊子には多くの合格のためのノウハウが詰まっています。

 昨年、その「1級合格虎の巻」を解説する講座を開講したところ、大勢の人に受講いただき、大変好評でした。しかも、受講いただいて人たちの中から9名もの1級合格者がでました。

 昨年の1級合格者は全体で36名でしたので、その四分の一の人が講座受講者ということになり、大変うれしく思いました。

 こうしたことから、江戸検受検者の皆さんから、今年もぜひ「1級合格虎の巻」講座を開講して欲しいという要望がありましたので、次の日程で開講することになりました。

《江戸楽アカデミーの講座概要》

これを聞けば合格に必ず近づく!『江戸検1級合格虎の巻』講座

開催  8月10日(土)12:30~15:30

受講料(税込) 4,860円

会場  小学館集英社プロダクション・SP第3ビル

定員  38名

 昨年と同じように、合格のための勉強方法や心構えを詳しく説明しますが、今年はさらに、多くの人が苦手と考えている記述問題対策を追加します。そして、昨年この講座を受講して見事1級に合格した人の合格体験談も話していただくことにしました。

 ですから、今年の講義は、昨年の2時間から3時間と、講義時間を1時間長くして、虎の巻解説と合格体験談の発表をさせていただきます。

 まだ、虎の巻講座を受講していない方にはもちろんですが、昨年受講し今年も江戸検を受検される方にもお役に立つ講座だと思います。多くの人の受講をお待ちしています。

 なお、江戸楽アカデミー事務局からの正式な告知は、5月下旬になると思われます。(⇒最新情報では6月初旬になるかもしれません)
 江戸楽アカデミーの公式ホームページを適宜チェックしていただき、早めにお申し込みください。






by wheatbaku | 2019-05-16 23:22
神田祭宮入と獏塾友の会江戸散歩
神田祭宮入と獏塾友の会江戸散歩

 昨日は、獏塾友の会の仲間と、御茶ノ水から神田を通って日本橋まで、江戸散歩してきました。
 そして、昨日は、ちょうど神田祭の宮入でした。
 そこで、散歩の集合時間前に、神田明神に行って、宮入を見てきました。9時過ぎにいきましたが、下写真のように鳥居の前には、宮入を待つ神輿の担ぎ手で一杯でした。手前の 揃いの法被は、神田五軒町町会です。

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 神輿の担ぎ手でごったがえす参道をかき分け随神門までいきました。ちょうど同朋町の神輿が随神門を通る時でしたのシャッターを切りました。

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 続いて、随神門をでてくるところもパチ! 後ろには大国様の像も写っていました。

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振り返って社殿方向をみると、社殿前も大勢の人々でごった返していましたが、そこには神田元佐久間町会の神輿がありました。

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 初めて、神田祭の宮入をみましたが、心沸き立つ感じで楽しかったです。やはり、祭りはいいですね。




 さて、江戸散歩のほうですが、御茶ノ水に集合して、ニコライ堂、湯島聖堂、昌平橋、須田町老舗街を通り、中央通りをまっずぐ日本橋までというコースでした。

参加者が大勢でしたので、二班に分かれて散歩しました。

私の班を案内してくれたのは城南の朱鷺さんでしたが、丁寧な説明で楽しい散歩となりました。 城南の朱鷺さんありがとうございました。また、ご一緒した皆さん、ありがとうございました。

 おもな地点でのスポット写真をアップしておきます。

 案内の初めはニコライ堂でした。明治24年竣工した建物で国の重要文化財に指定されています。

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 湯島聖堂では、楷の木も案内してくれました。楷書という言葉の語源となった木ですが、日本には数少ない貴重な木だそうです。

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 昌平橋では、明治41年(1908)からわずか4 年ほど開業していた昌平橋駅を案内してもらいました。写真左手のレンガ造りの高架部分が昌平橋駅のなごりだそうです。

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江戸時代にオランダ商館長が江戸にやってきた時にとまる定宿「長崎屋」がJR新日本橋駅の地上部分にありました。長崎屋の説明板は、新日本橋駅の地下への入口の脇にあり、そこで説明してくれました。


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日本橋には、江戸の豪商越後屋がありました。現在は、三井本館と三越百貨店になっています。三井本館の最上部には三井財閥の栄光を映し出したレリーフがあります。写真はそのレリーフを見上げる参加者の皆さんです。写真中央奥に三越が見えています。

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日本橋は、江戸時代は五街道のスタート地点で、現在は日本国道路原標も埋め込まれています。現在の日本橋の文字は、最後の将軍徳川慶喜が書いたものだと、城南の朱鷺さんが教えてくれました。朱鷺さん、最後までありがとうございました。

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 昨日は、快晴で、気温も暑くなく、絶好の散歩日和でした。仲間との会話もおもしろくて、江戸散歩を楽しむことがました。参加者の皆さん、ありがとうございました。


 





by wheatbaku | 2019-05-13 14:54
「稲むらの火」とは(濱口梧陵②)

「稲むらの火」とは(濱口梧陵②)

 今日は「稲むらの火」とは何かについて書いていきます。

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 今から約160年前の嘉永7年(1854)11月に連続して大地震が起きました。安政東海地震と安政南海地震です。11月4日に駿河湾沖から紀伊半島沖を震源としてマグニチュード8.4の巨大地震が起きました。これが「安政東海地震」です。

 それ安政東海地震の発生から約31時間後の翌11月5日午後4時頃、南海(紀伊半島沖から四国沖)を震源域とする大地震が、西日本を襲いました。これが「安政南海地震」と呼ばれる大地震です。

 「安政南海地震」では、四国・紀伊半島を中心に、東海地方から九州にかけての地域が大きな被害を受けました。

また、この地震では、地震による被害より津波による被害のほうが大きかったといわれています。

紀伊半島の南西岸から四国の太平洋岸を襲った津波は、紀伊国串本で15メートル、土佐国久礼(現高知県高岡郡中土佐町)で16メートルに達しました。

紀伊半島では、熊野から西の海岸沿いで多くの家屋が流失し、大勢の死者もでています。紀州藩領では流失家屋約8500軒、死者約700人と言われています。

この「安政南海地震」が起きたとき、ヤマサ醤油の7代目当主の濱口梧陵は、故郷の広村に里帰りしていました。

津波が押し寄せた時、濱口梧陵は、「稲むら」に火をつけて逃げ惑う村民を高台へと誘導し、津波から救いました。下写真は、広川町役場の玄関前にある「稲むらの火広場」にある濱口梧陵の像です。

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なお、稲むらというのは、刈り取った稲を乾燥させるために積み重ねたものです。下写真は、広川町役場近くの広村堤防に作られて展示されている稲むらです。

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この話を小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が「A Living God(生き神様」」として取り上げられました。

それを基に創作されたのが「稲むらの火」です。「「稲むらの火」は、昭和12年から22年まで国語教材として小学校5年の教科書に掲載され、広く知られるようになりました。

 広川町の耐久中学校の校庭には、この全文が書かれて掲示板が設置されていました。(下写真)

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 また、「稲むらの火の館」では、無料で配布されていました。(最上段写真)

 そこで、長くなりますが、稲むらの火を掲載しておきます。

 お時間がありましたら、下の文章を読んでみてください。

【稲むらの火】

 「これはただ事ではない」とつぶやきながら、五兵衛は家から出てきた。今の地震は、別に烈しいというほどのものではなかった。しかし、長いゆったりとしたゆれ方と、うなるような地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで経験したことのない不気味なものであった。

 五兵衛は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見下ろした。村では豊年を祝う宵祭りの支度に心を取られて、さっきの地震には一向に気が付かないもののようである。

 村から海へ移した五兵衛の目は、たちまちそこに吸いつけられてしまった。風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、みるみる海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れてきた。

「大変だ。津波がやってくるに違いない」と、五兵衛は思った。

このままにしておいたら、四百の命が、村もろとも一のみにやられてしまう。もう一刻も猶予はできない。

「よし」

と叫んで、家に駆け込んだ五兵衛は、大きな松明を持って飛び出してきた。そこには取り入れるばかりになっているたくさんの稲束が積んであった。

「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ」と、五兵衛は、いきなりその稲むらのひとつに火を移した。風にあおられて、火の手がぱっと上がった。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走った。こうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまうと、松明を捨てた。まるで失神したように、彼はそこに突っ立ったまま、沖の方を眺めていた。

日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなってきた。稲むらの火は天をこがした。 山寺では、この火を見て早鐘をつき出した。

「火事だ。庄屋さんの家だ」と、村の若い者は、急いで山手へ駆け出した。続いて、老人も、女も、子供も、若者の後を追うように駆け出した。

高台から見下ろしている五兵衛の目には、それが蟻の歩みのように、もどかしく思われた。やっと二十人程の若者が、かけ上がってきた。彼等は、すぐ火を消しにかかろうとする。五兵衛は大声で言った。

「ほおっておけ。大変だ。村中の人に来てもらうんだ」

村中の人は、おいおい集まってきた。五兵衛は、後から後から上がってくる老幼男女を一人一人数えた。集まってきた人々は、もえている稲むらと五兵衛の顔とを、代わる代わる見比べた。その時、五兵衛は力いっぱいの声で叫んだ。

「見ろ。やってきたぞ」

たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指差す方向を一同は見た。遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。その線は見る見る太くなった。広くなった。非常な速さで押し寄せてきた。

「津波だ」

と、誰かが叫んだ。海水が、絶壁のように目の前に迫ったかと思うと、山がのしかかって来たような重さと、百雷の一時に落ちたようなとどろきとをもって、陸にぶつかった。人々は、我を忘れて後ろへ飛びのいた。雲のように山手へ突進してきた水煙の外は何物も見えなかった。

人々は、自分などの村の上を荒れ狂って通る白い恐ろしい海を見た。二度三度、村の上を海は進み又退いた。

高台では、しばらく何の話し声もなかった。一同は波にえぐりとられてあとかたもなくなった村を、ただあきれて見下ろしていた。

稲むらの火は、風にあおられて又もえ上がり、夕やみに包まれたあたりを明るくした。はじめて我にかえった村人は、この火によって救われたのだと気がつくと、無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまった。

 「稲むらの火」は以上です。最後までお読みいただきありがとうございました。





by wheatbaku | 2019-05-09 18:48
稲むらの火の館(濱口梧陵①)

稲むらの火の館(濱口梧陵①)

「稲むらの火」で知られる濱ロ梧陵は、紀州広村で生まれ、広村に津波を防ぐ堤防を築き、その堤防が残されていることは、以前から知っていました。

 その濱口梧陵ゆかりの地広村(現在の広川町)が、湯浅町の隣町で、しかも、最寄駅が湯浅駅であることを、和歌山に行く事前準備のなかで知り、これ絶対訪ねてこようと思って、和歌山に行きました。

 

 そこで、今日からは、濱口梧陵ゆかりの地について、紹介していきますが、その最初に「稲むらの火の館(やかた)」を紹介します。

 「稲むらの火の館」は湯浅駅から徒歩約15分で行けます。また湯浅駅前でレンタサイクルを借りれば10分あれば楽々到着します。(下写真が記念館の外観全体写真です)

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 「稲むらの火」で知られる濱口梧陵は、文政3年(1820)紀州広村(現在の広川町)で生まれました。そして、安政の大地震津波時、稲むらを燃やして、その火で多くの村人を救いました。

 この話が、「稲むらの火」というタイトルで戦前の国定教科書に取り上げられ、濱口梧陵の功績が広く知られるようになりました。そうしたことから、「稲むらの火」は、濱口梧陵の代名詞ともなっています。

 「稲むらの火の館」は、濱口梧陵ゆかりの広村の邸宅を広川町が入手し、平成194月に建てられたもので、濱ロ梧陵記念館と津波防災教育センターから構成されています。

 濱ロ梧陵記念館のほうは、木造平屋建ての建物で、濱口梧陵の子供の代に建設されたものを改修したものそうです。(下写真は記念館の入り口周辺の写真です)

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 この記念館には、濱口梧陵の生涯が展示されていて、濱口梧陵の偉大な功績や教訓、人柄を感じられるような展示となっています。

下写真は玄関を入るとすぐに展示されている濱口梧陵の銅像で、渡辺長男が製作したものです。あまり注目されていませんでしたが、渡辺長男は朝倉文夫の実兄で、知る人ぞ知る彫刻家ですので、もっと注目されてもよいのではないかと思いました。

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 一方、「津波防災教育センター」は、実践的な地震・津波防災を学ぶための施設です。こちらは鉄筋コンクリート造り3階建ての建物です。

館内には、安政津波が襲った時の濱口梧陵の対応や地震津波の恐ろしさとその威力を体感できる3Dシアターや、長さ16mの津波実験水槽があります。 (下写真は3Dシアター入口の写真です。)

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濱口梧陵の生涯を知るには、濱口梧陵記念館のほうが良くわかります。しかも、記念館だけであれば、無料で入ることができます。

記念館内には、展示室1から4、土間シアターのほか、交流・談話室や茶室もあります。

展示室1から4は、濱口梧陵の生涯が展示品で理解できるようになっています。土間シアターでは、12分間のビデオで浜口梧陵の生涯がわかるようになっています。(下写真は展示室1方向を写した写真です。)

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赤印が「稲むらの火の館」です。





by wheatbaku | 2019-05-06 22:13
角長の「濁り醤(にごりびしお)」(醤油発祥の地③)

角長の「濁り醤(にごりびしお)」(醤油発祥の地③)

 太田久助吟製を訪ねたあと、同じ伝建地区にある角長に向かいました。 

湯浅で醤油屋さんといえば「角長」です。(下写真)

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角長は、天保12年(1841)創業の老舗の醤油メーカーです。 -

湯浅には、最盛期には92軒の醤油屋がありました。醤油が興国寺のある紀伊由良でなく湯浅で発展したのは、湯浅のほうが「水」が良かったからだそうです。つまり、由良の水系は、鉄分が多くて、醤油の醸造にはあまり適していなかったそうです。

しかし、それだけあった醤油屋も、戦後20数軒となり、その後、徐々に減少し、現在は、江戸時代から続く醤油屋は角長だけとなりました。

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角長は、江戸時代から受け継ぐ醸造蔵で、昔からの手法に基づき手づくりを続けています。

 角長でも醤油を買ってきました。

 角長での一番人気は、「濁り醤(にごりびしお)」 です。(下写真)

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 「濁り醤(にごりびしお)」は、多くの醤油は火入れといって加熱する行程が加えられますが、圧搾も加熱もせず、麹が原料を分解してできた汁のみを取り出す、人の手を全く加えていない醤油です。

 角長のお店のそばに「醤油資料館」(下写真)があります。

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 その2階で「濁り醤(にごりびしお)」の製造方法をビデオを見せてもらえます。そのビデオで濁り醤油の作り方がよくわかりました。

醤油資料館の内部は写真撮影できませんので、外観だけ撮影しました。

できあがった醤油は、酵母の影響で通常の醤油に比べ少し濁った色になることから「濁り醤」と名付けられました。

この醤油は、完成させるまでに約10年かかったそうです。

いつも使っているものに比べて大変まろやかなものでした。保存期間が1年あるということなので、少しづつ、味わっていきたいと思います。

 角長の裏側は大仙堀という堀が残されています。昔、この堀を利用して船に積んだ醤油を運びだしたものだそうです。醤油蔵と堀がみごとにマッチして素晴らしい景観を作り出していました。

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 赤印が角長です。青印が太田久助吟製です








by wheatbaku | 2019-05-03 22:04
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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