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芭蕉記念館(新江戸百景めぐり⑤)

江東区芭蕉記念館(新江戸百景めぐり⑤)

 芭蕉稲荷神社から万年橋の通りを北に真っ直ぐ歩いていくと江東区芭蕉記念館があります。芭蕉記念館自体は、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)記載の新江戸百景の中にカウントされていませんが、『新江戸百景めぐり』のP154に紹介されていますので、今日は、江東区芭蕉記念館をご案内します。
 芭蕉記念館は、深川が芭蕉ゆかりの地であるため、芭蕉関係の資料を展示するために昭和56年に開館しました。
 最寄駅は都営地下鉄新宿線の森下駅でA1
出口から徒歩で約7分です。芭蕉記念館に直接行くときは森下駅からいくのがよいと思います。

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 入口には、芭蕉の名前のもととなっている芭蕉が植えてあります。(下写真)

 

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1階が受付となっていて、2階、3階が展示室となっています。展示スペースは2階展示室のほうが圧倒的に広いので、展示は2階がメインということになると思います。下写真は2階展示室の様子です。

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現在、そこで、「芭蕉の肖像・俳人の肖像」という企画展を行なっています。

展示期間が4月25日から10月27日までの長期の企画展ですので、ご興味のある方は見に行かれるとよいと思います。

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この企画展では、江戸時代の多くの画家が描いた芭蕉の肖像画が展示されていますが、それらの中に英一蝶、小川破笠、与謝野蕪村、渡辺崋山、蠣崎波響(かきざき-はきょう)などの有名な画家が描いた芭蕉の肖像画も展示されています。

芭蕉に興味がある人だけでなく、江戸時代の画家に興味のある人にとっても一見の価値があると私は感じました。そこで前述の有名画家の作品を紹介します。なお、写真撮影は特に制限はありませんでした。

英一蝶(はなぶさいっちょう)

英一蝶は、京都に生まれました。江戸に出て狩野安信に師事しましたが、後狩野派から離れて、一蝶派の祖となります。俳諧を松尾芭蕉に学んで暁雲と号し、宝井其角とも交流がありました。初め多賀朝湖と称しまし「たが、幕府の怒りに触れて伊豆三宅島に流され、赦免後、英一蝶と改名しました。深川が製作活動の拠点であり、晩年も深川で過ごしています。展示されている作品は「芭蕉と柳図」で「奥の細道」での場面を書いているものだそうです。

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小川破笠(おがわはりつ)

小川破笠は、伊勢に生まれ、江戸に出て、俳諧をはじめ福田露言に学んだ後芭蕉に学び、さらに、英一蝶に絵を学びました。小川破笠は、蒔絵・象嵌は優れていて、「破笠細工」とよばれる独特の蒔絵をつくりあげました。小川破笠は芭蕉を深く尊敬していて数多くの芭蕉像を残しているそうです。展示されている作品は「いかめしき句 芭蕉座像図」です。.

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与謝野蕪村

与謝野蕪村の名前はご存知の方が多いと思います。

芭蕉を深く尊敬し、蕉風復興運動を進めました。

展示されている作品は、「芭蕉座像像」で、多くの皆さんが見たことがあると思います。座像の上に書かれている文字は、全て芭蕉の句です。

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渡辺崋山

渡辺崋山も有名です。田原藩の家老の時に、蛮社の獄で投獄され、地元蟄居の沙汰がくだり蟄居していた三河国田原で自刃したことで有名ですが、画家としても大変有名で、崋山が描いた「鷹見泉石像」は国宝となっています。

渡辺崋山は、芭蕉のほか、其角など6人の肖像画を描いているそうですが、展示されていたのは、其角(下写真)、嵐雪、支考、許六で、芭蕉の肖像画はありませんでした。

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蠣崎波響(かきざき-はきょう)

蠣崎波響は、松前藩の家老です。松前藩主松前資広(すけひろ)5男として生まれ、家老の蠣崎家の養子となりました。江戸で宋紫石(そうしせき)などに学んだ後、京に上り円山応挙に師事しました。 

松前藩は、文化4(1807)年、陸奥梁川に転封されましたが、蠣崎波響は家老として藩主の松前復帰につとめ、文政4(1821)年復領にこぎつけました。

波響の代表作として27歳のときアイヌの首長を描いた「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」があります。展示されている作品は、「芭蕉と二哲の図」で、旅姿の芭蕉、それに双璧と称された其角と嵐雪の二哲を描いたものです。

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こうした芭蕉の肖像画のほかに、今年がちょうど「おくのほそ道」に旅立って330年になる節目の年ですので、その記念として、紀行文なども展示されています。

芭蕉記念館の庭園には芭蕉堂と3つの句碑がありますので、それらも紹介しておきます。

芭蕉堂は、芭蕉の250回忌にあたる昭和18年に芭蕉庵跡(芭蕉稲荷神社)に再建されたものです。石造りであるため、昭和20年の東京大空襲ででは焼失を免れました。

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記念館入口近くにある句碑が、奥の細道にある「草の戸も住替る代ぞひなの家」の句碑です。祈念館に入るときにすぐきがつくと思います。

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上で紹介した芭蕉堂の手前にあるのが、「ふる池や 蛙飛びこむ 水の音」の句碑です。

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芭蕉堂の右奥にある、小さな句碑が、先日紹介した小名木川五本松で詠んだ「川上とこの川しもや 月の友」の句碑です。
 

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《2019年6月29日追加》
【芭蕉庵の絵】

江戸名所図会には、芭蕉庵のことが「芭蕉庵の旧址」として書かれていて、下写真の絵が芭蕉庵として描かれています。

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芭蕉庵というと、この構図をよくみると思います。前述の企画展では、この構図で芭蕉庵を描いた最初のものが展示されています。小林風徳が編集した「芭蕉文集」地之部という書物の挿絵として描かれています。まさに江戸名所図会と同じ構図です。

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【芭蕉の生家】

芭蕉は、寛永21年(1644)、現在の伊賀市で生まれました。伊賀市には現在も芭蕉の生家が残されています。昨年暮に伊賀市に旅行した際に訪ねていますので、簡単に紹介します。下写真が生家で伊賀市指定文化財ですが、耐震等工事などのため、令和3331日(予定)まで休館となっています。

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芭蕉は、士分待遇の農家の出身で、両親と6人の兄弟の中で育ちました。大きくなった芭蕉は、藤堂藩伊賀付の侍大将藤堂新七郎家に奉公に出て嫡男の良忠に仕えることとなりました。良忠の縁で、京都の北村季吟に俳諧を学びました。しかし、良忠が亡くなり、致仕した芭蕉は、俳諧師として生きるために江戸へ出ます。父の死後、当主は兄となっていましたが、江戸へ出た後も幾度ともなく帰省しました。自筆の遺言状も実家の兄半左衛門宛に送られているそうです。下写真の奥に写っているのは、生家の裏の道路沿いにある句碑で「ふるさとや 臍の緒に泣 年の暮」の句が刻まれています。

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赤印が、江東区芭蕉記念館です。
青印が、芭蕉稲荷神社です。







by wheatbaku | 2019-06-28 13:08 | 新江戸百景めぐり
深川芭蕉庵(新江戸百景めぐり④)

深川芭蕉庵(新江戸百景めぐり④)

 万年橋の北のたもと近くに芭蕉稲荷神社があります。

 芭蕉稲荷神社が『新江戸百景めぐり』(小学館刊)のP154第89景「深川芭蕉庵」として紹介されています。そこで、今日は深川芭蕉庵=芭蕉稲荷神社を案内します。

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 万年橋を南から渡り、最初の十字路を左折すると芭蕉稲荷神社が見えてきます。芭蕉稲荷神社は、大正6年に地元の人たちの手で祀られたもので、境内に芭蕉庵跡の碑があります。

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芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、芭蕉庵と称して延宝8年から元禄7年に大阪で病没するまでここを本拠としていました。

ところが芭蕉が亡くなった後、この芭蕉庵のあった場所は、武家屋敷となり明治になると芭蕉庵がどこにあったかわからなくなりました。

 そうした中で、たまたま大正6年に津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見されたことから、ここが芭蕉庵の跡だと考えられました。

こうしたことから、芭蕉稲荷神社の隣には「芭蕉庵旧跡」と刻まれた石碑がたっています。

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 松尾芭蕉は、延宝8年(1680)に深川にある門人の杉山杉風が所有する生簀(いけす)の番小屋に移り住みました。草庵は最初「泊船堂」といいましたが、門人が贈ってくれた芭蕉がよく茂ったことから草庵を芭蕉庵とよぶようになり、自らの俳号も「芭蕉」と名乗るようになりました。

 そして、延宝8年(1680)以後、没年の元禄7年(1694)に至る15年間にわたり、旅に出ている時期を除き、深川の芭蕉庵を拠点に活動しました。

 芭蕉庵は、実は3期に分かれて営まれました。

芭蕉が最初に住んだ第一次芭蕉庵は、天和2年(1682)に起きた大火により焼失してしまいました。この大火は、「お七火事」と呼ばれる大火で白山の大円寺が火元でした。白山から出火して、隅田川を越えて深川まで延焼したということになります。江戸の大火の怖さを知らせる例の一つです。この時、芭蕉は、池の中に逃れて助かったといわれています。

 翌年の天和3年(1683)には第二次芭蕉庵が完成し、そこに芭蕉は住みました。その後、元禄2年(1689)に「奥の細道」に出立するため、芭蕉庵を処分しました。

処分した後、一時的に仮寓したのが、杉山杉風の採茶庵(さいとあん)です。

採茶庵(さいとあん)から芭蕉は「奥の細道」の旅に出発しています。芭蕉稲荷神社から少し歩きますが、清澄庭園の南側を流れる仙台堀川の南に「採茶庵(さいとあん)跡」の説明板があります。

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説明板のそばには縁側に腰掛けている芭蕉像が設置されています。
 ところで、余談ですが、芭蕉庵を提供したり、「奥の細道」に出立するまで採茶庵に芭蕉を宿泊させたりして、芭蕉を支援していた杉山杉風のご子孫が女優の山口智子さんです。NHKの朝ドラ「なつぞら」に現在出演していますので、「なつぞら」に山口智子さんがでてくるたびに、杉山杉風そして芭蕉のことが思い浮かびます。

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 「奥の細道」の旅の終了後、伊賀上野に帰郷した後京都などで遊んだ後、江戸に帰り、元禄5年(1692)に第三次芭蕉庵が完成し、そこで活動します。そして、元禄7年(1694)に上方に旅に出て、京・伊賀上野、奈良を経て大坂に入り、10月12日、大坂で芭蕉はなくなりました。

 芭蕉がなくなった後、芭蕉が暮らした芭蕉庵は、武家屋敷となりました。
 江戸名所図会によれば、松平遠州侯の屋敷内にあると書いてありますが、幕末の切絵図を見ると、紀伊殿と書かれている屋敷内に芭蕉の古跡があると記されていますので幕末には紀州藩の下屋敷内に変わったものと思います。下写真は江戸切絵図のうちの「本所深川絵図」の一部です。左中央に「紀伊殿」と書かれた右に「芭蕉庵の古跡、庭中にあり」と付記されています。

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 しかし、それ以降、明治になって、芭蕉庵がどこかわからなくなってしまいました。そして、たまたま大正6年津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造りの蛙が発見されました。そこで、地元の人々により、石造りの蛙が発見された場所に芭蕉稲荷が祀られたことは前述の通りです。

そして、同10年東京府により芭蕉稲荷の地が「芭蕉翁古池の跡」として旧跡に指定されました。

石造りの蛙は芭蕉記念館に展示されています。出土直後は、芭蕉稲荷神社の近くにある正木稲荷に収められたあと、芭蕉稲荷神社に併設されていた芭蕉堂に移され、現在は芭蕉記念館で展示されているという経緯があるようです。

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 芭蕉稲荷神社の前の通りの西側に正木稲荷神社があり、その裏手の高台が、芭蕉庵史跡展望庭園になっています。

 隅田川と小名木川の合流地点の岸辺に平成7年に作られた庭園です。 庭園の中にも芭蕉像があります。

 芭蕉庵史跡展望庭園は4時30分閉園で、訪ねた当日は5時近くになってしまったため、中に入れませんでした。そこで、以前に訪ねた時の写真がありますので、それを載せておきます。

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 この芭蕉像は北方向を向いて設置されていますが、午後5時になると写真の向きから直角に像が回転し、ライトアップされると聞いていました。
 先日、訪ねた時の隅田川テラスから撮った写真が下の写真ですが、上記の写真は北方向を見ていますが、それと異なって先日撮った芭蕉像は西方向の隅田川を向いています。確かに向きが変わるんですね。

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赤印が芭蕉稲荷神社です。
青印が芭蕉庵史跡展望庭園です。
ピンク印が昨日紹介した万年橋です。




緑印が採茶庵跡の説明板設置場所です。









by wheatbaku | 2019-06-25 20:59 | 新江戸百景めぐり
小名木川(新江戸百景めぐり③)

小名木川(新江戸百景めぐり③)

 中川船番所は、前回紹介したように、小名木川と中川(現在は旧中川と呼ばれています)の合流地点にありました。 

 現在の小名木川は、全長約5キロメートル、東端は旧中川、西端は隅田川と合流し両河川を結ぶ人口の河川です。

その小名木川も、新江戸百景巡りの一つに選ばれています。そこで、今日は、小名木川について書いていきます。

『新江戸百景めぐり』ではP55の第13景として取りあげられています。

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小名木川は、天正18年(1590)、徳川家康が江戸に入府した際に、行徳の塩を江戸に運ぶために開削された川でした。徳川家康が入府早々に手掛けた土木工事の一つとされています。

上写真は、小名木川と旧中川の合流地点です。現在は、小名木川と旧中川がTの字型に交わっています。写真左手の岸に、中川船番所がありました。

 しかし、江戸時代には、小名木川の先に、ほぼ直線に川が流れていて、行徳に向かっていました。その様子は、歌川広重の名所江戸百景「中川口」(下写真)を見るとよくわかります。手前が小名木川、横にながれるのが中川、そして画面奥が行徳方向でそちら向けて流れているのが船堀川(現在は新川と呼ばれています)です。右下に柵が描かれていますが、それが中川船番所です。

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小名木川は、開削されたというので、一旦埋め立てた陸地を掘削して河川にしたのかと思っていましたが、中川船番所資料館の説明では、深川地域を埋め立てる際に、浅瀬にある水路を埋めずに水路としたと書いてあり、なるほどと理解しました。

なお、小名木川の名称は開削に携わった「小名木四郎兵衛」に由来しています。

小名木川五本松跡 

 江戸時代、小名木川で有名なものの一つに小名木川五本松がありました。

 小名木川の北岸の九鬼家の屋敷に、枝を張った形の良い老松がありました。

 明治時代に、この松は枯死してしまい、昭和63年に五本の松が植えられています。(下写真)

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 江戸名所図会では、芭蕉がこの場所に船を止め、「川上とこの川しもや 月の友」の句を詠んだ場面が描かれています。(下写真)

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この芭蕉の詠んだ俳句の句碑が、芭蕉記念館の庭園に設置されています。(下写真)小さな句碑ですので、見つけにくいと思いますが、芭蕉記念館に行ったら探してみてください。

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 また、この松は浮世絵にも描かれました。歌川広重が描いた名所江戸百景の「小奈木川五本松」が大変有名です。(下写真)

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広重の絵では、小名木川が曲がっているように描かれていますが、実際の小名木川は直線となっています。下写真が、五本松跡の下流からとった小名木川ですが、直線であることがわかると思います。写真中段の橋(小名木橋です)の右手の緑が五本松です。

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猿江船改番所跡

小名木川が大横川と合流する地点の少し東にある新扇橋の北西たもとに「猿江船改番所跡」と書かれた江東区教育員会が建てた説明板があります。(下写真)

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猿江船改番所は、小名木川と大横川が交差する所の猿江側に、元禄から享保期頃に設置されました。

中川船番所は小名木川を通航する船や人々を取り締まっていましたが、猿江船改番所の役割と中川船番所の役割は異なっていました。

当時、幕府や諸藩の荷物を運搬し、江戸へ出入りする船には幕府の勘定奉行に属する川船改役によって極印が打たれ、年貢・役銀が課せられていました。そのため新たに船を造ったり、売買によって持ち主が替わった場合などは届け出が義務づけられていました。

猿江船改番所の仕事は、こうした年貢・役銀を徴収したり、川船年貢手形や極印の検査を行っていました。

中川番が若年寄に直属しているのに対して、改番所を所管していたのは、勘定奉行に属した川船改役でした。

万年橋

小名木川が隅田川と合流する地点近く架かっている橋が万年橋です。下写真は、隅田川テラス側から撮った万年橋です。

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前回書いたように万年橋の北側には昔、船番所があったので、元番所橋とも呼ばれました。

万年橋が架橋された年代は明らかではありませんが、延宝8年(1689)の江戸図には「元番所のはし」として記されているそうです。江東区内の橋のなかでも古く架けられた橋のひとつです。

小名木川に架けられた橋は、船の通航を妨げないように高く架けられていましたが、江戸時代の万年橋も虹型をした橋でした。

葛飾北斎が描いた「富嶽三十六景・深川万年橋下」には、美しい曲線を描く万年橋が描かれ、橋の下から富士山を望む構図となっています。

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また、安藤広重は「名所江戸百景」のなかで「深川万年橋」としてとりあげています。
 画面上段に大きく描かれた亀は、「鶴は千年、亀は万年」と言われたことから万年橋にかけてシャレて描いているだけでなく、捕らわれた生き物を放すことで功徳を積むという放生会(ほうじょうえ)のための亀と考えられます。深川といえば富岡八幡宮の放生会が大変有名でしたので、この亀は富岡八幡宮の放生会のために売られているものでしょう。そうすると、この絵が描いているのは8月15日ということになります。

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なお、亀が橋の欄干に縛り付けられているようなコメントがあったりしますが、亀が縛り付けられたいるのは黄色の部分です。そお黄色の部分は亀が入れられている桶を描いていると思われます。したがって、亀は橋の欄干に縛られているのでは、桶に縛られていると考えたほうがよいと思います。


赤印が小名木川五本松です。
 青印が「猿江船改番所跡」説明板の設置地点です。 

ともに都営地下鉄新宿線の「住吉駅」が最寄駅です。


 ピンク印が、万年橋です。 最寄駅は「清澄白河」駅です。











by wheatbaku | 2019-06-23 22:19 | 新江戸百景めぐり
中川船番所資料館(新江戸百景巡り②)

中川船番所資料館(新江戸百景巡り②)

 一之江名主屋敷は都営新宿線の瑞江駅が最寄駅ですので、同じ都営新宿線の東大島駅が最寄駅である中川船番所資料館を今日はご案内します。

 中川船番所資料館は「新江戸百景巡り」では、新江戸百景にカウントされていませんが、「江戸が分る博物館・資料館」の一つとして紹介されています。「新江戸百景巡り」のP55を参照してください。

 中川船番所資料館は、都営新宿線東大島駅から徒歩5分の旧中川沿いにあります。東大島駅の南側駅前に大島小松川公園があり、その東側の脇を歩いていくと下写真の景色が見えてきますので、容易に訪ねることができます。写真手前右側が公園です。

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 資料館の名前は「中川船番所」となっていますが、常設展示目録では「中川番所」と書かれていますので、以下、中川番所としておきます。

中川番所は中川関所ともよばれ、河川交通路上における江戸の出入り口にあたる小名木川を通行する物資や人を取り締まるために設けられました。

中川船番所資料館は、その中川番所を中心に、中川や小名木川の水運に関する資料を調査収集保存し、その成果を展示するために、江東区が平成15年に建設したものです。下写真が中川船番所資料館の全体写真です。

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中川番所は小名木川が中川へ流入する中川口の北岸、昔の小名木村に設置されていました。中川船番所資料館からは南に約30メートル行った小名木川沿いに中川番所が設置されていました。番所跡には、江東区が設置した説明板があります。(下写真)

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中川番所の説明板近くから撮った小名木川と旧中川の合流点が下写真です。右手が小名木川で、左手から奥に流れているのが旧中川です。この写真の右手の小名木川沿いに中川番所がありました。
 なお、江戸時代に中川と呼ばれていた川は、昭和6年に中川放水路(現中川)が完成したことにより、旧中川と呼ばれるようになりました。

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中川番所は、中川対岸の船堀川からは江戸川・利根川水系へとつながり、江戸と関東各地さらには信越・東北方面を結ぶ流通網の要として、ここを通過する船の積荷と人を改めました。下写真が中川番所の復元したもので、中川船番所資料館に展示されています。

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 中川番所は、寛文元年(1661)6月、設置されました。それまでは、関所の機能は、小名木川が隅田川と合流する万年橋近くにあった深川番所が担当していました。下写真が、深川番所の跡に建てられた江東区教育委員会の説明板です。説明板には、深川番所跡でなく、川船番所跡と書かれています。

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明暦の大火後、幕府は江戸の市街地の拡張・整備がおこないましたが、その一環として本所深川地域の開発がおこなわれ、本所深川地域は江戸市中に組み込まれたことから、万年橋での深川番所の機能を中川口へ移転することになり、中川番所が設置されました。敷地面積は東西26間余、南北17間余ありました。

中川番所は深川番所の機能を受け継ぐとともに、江戸時代中期以降、江戸へ運ばれる荷物の品目と数量を把握する機能も担うようになり、海上交通路上における浦賀番所とともに重要な機能を果たしました。

中川番所では、船の通行、女性の通行、鉄砲をはじめとした武具の取締り、そして物資の出入りの取締りが行なわれました。

夜間の船の通行は禁止され、驚くことに女性の通行は絶対禁止だったそうです。従って、小林一茶は同行の女性が中川番所を通過できず苦労した記録も残っているそうです。

こうした中川番所の長官は、中川番と呼ばれました。この中川番は、3千石から8千石の高禄の旗本が勤めていました。こんな大身旗本が中川番を勤めていたということは意外でしたが、このような大身旗本が任命されていたということは、中川番所の重要性を表しているのではないかと思います。

中川船番所資料館の東側の中川沿いには、「旧中川・川の駅」が設置されています。観光船や防災船の船着場などとして活用されています。写真中央にあるスロープから、水陸両用バスが、旧中川に出入りするそうです。

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赤印が中川船番所資料館です。









by wheatbaku | 2019-06-20 13:18 | 新江戸百景めぐり
一之江名主屋敷(新江戸百景めぐり①)

一之江名主屋敷(新江戸百景めぐり①)

 江戸検の今年のお題は「新江戸百景巡り」です。そして、既に参考図書「新江戸百景巡り」も発売されています。(下写真)熱心な人は、もう購入されて読み始めていることと思います。

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 「新江戸百景巡り」に取り上げられている場所を私はすでに訪ねていますが、江戸の面影が残っている場所が多く、訪ねてみると江戸の雰囲気が感じられる場所が多いので、読者の皆様も訪ねてみると良いと思います。

 「新江戸百景」を訪ねる人や江戸検を受検される人の参考になるように、「新江戸百景」を順不動になりますが、適宜、ご案内していこうと思います。

 その最初として、今日は一之江名主屋敷をご案内します。「新江戸百景巡り」では第43景(P91)になります。

 一之江名主屋敷を知っている人は、江戸検を受検した人でも少ないと思います。先日、江戸検同期合格者の会「伴四郎会」がありましたが、その席でも、一之江名主屋敷を知っている人は一人もいませんでした。

 一之江名主屋敷は、江戸川区春江町にあります。最寄駅は、都営地下鉄新宿線瑞江駅となります。瑞江駅から徒歩15分かかります。 瑞江駅からの路線バスもありますので、バスを利用する方法もあります。

 

一之江名主屋敷は、江戸時代はじめに、一之江新田を開発し、元禄年間以降一之江新田の名主をつとめてきた田島家の屋敷です。

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平成23年から江戸川区の所有となっています。

 名主屋敷の周辺は、宅地化されていて、一般住宅が建ち並んでいますので、名主屋敷は、約2000坪の広さがあり、長屋門や主屋のほか、周囲には屋敷林や屋敷畑さらに空堀まで残されていて、江戸時代の土豪屋敷にタイムトリップしたように感じます。

 まず、屋敷の敷地に入ると、南東にある立派な長屋門が迎えてくれます。(最上段写真)
 主屋と同じく江戸後期に建てられたものと推定されています。

 長屋門をくぐると正面に主屋があります。この主屋は安永年間(1772-1780)に再建されたものです。

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主屋は、玄関と座敷・土間をそなえた茅葺の曲り家となっています。主屋は、住まい部分と土間の部分に大きく分けられ、住まい部分は。畳の座敷と板の間がありました。上写真が全体写真ですが、順に、玄関、屋敷内、土間の写真をみてください。

玄関。主屋の東南隅にあり、式台がついています。なお、名主屋敷に入館するための受付は玄関ではなく、土間の部分にありますので、訪問する際にはご注意ください。

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土間。土間の先に受付があります。写真の中央にある太い柱が大黒柱ですが、見ごたえがあります。

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土間の天井には、洪水に備えた船が保管されていました。

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板の間。受付から板の間の部分を撮影したものです。

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主屋の南側には庭園があります。名主屋敷の庭園は江戸時代の後期に整備された回遊式庭園と考えられていて、その当時の姿に復元されています。

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主屋の西側から西北にかけては、うっそうとした屋敷林があります。屋敷林は、冬の北風を防ぐとともに燃料や肥料となる木の枝や葉っぱが採取されていました。その屋敷林には屋敷神があり、お稲荷様が祀られています。(下写真)

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屋敷の北側には展示館も整備されています。その展示館には、主屋の模型もありました。下写真の模型は、主屋を南側からみたものです。手前が玄関に通じる表の座敷となります。

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屋敷林を通って、資料館に行くと途中に、細い溝がありました。現在はコンクリートの蓋がされた水路が通っていますが、これが屋敷の周囲に築かれていた堀の跡だそうです。

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 今回の写真をみていただいてお分かりになると思いますが、23区内にあるとは全く感じられません。建物はもちろんのこと屋敷の周辺も含めて江戸時代の名主屋敷の姿がどんな雰囲気であるかがよくわかります。一見の価値があると思います。
 

赤印が一之江名主屋敷です。いなげやの西側が一之江名主屋敷です。








by wheatbaku | 2019-06-18 13:51 | 新江戸百景めぐり
鴻池家ゆかりの地

鴻池家ゆかりの地

 文京学院大学の生涯学習センターの講座「江戸の豪商列伝」では、紀伊国屋文左衛門、三井高利、鴻池善右衛門についてお話します。

 そこで、紀伊国屋文左衛門ゆかりの地のほかに、鴻池家ゆかりの地も訪ねてきました。

鴻池家の始祖は鴻池新六といいます。この鴻池新六は、戦国大名尼子氏の武将であった山中鹿之介幸盛の子供といわれています。

新六は、慶長年間に摂津国鴻池村で酒造業を始めました。

鴻池村は、現在は伊丹市となっていて、伊丹市鴻池6丁目にある児童公園に鴻池稲荷祠碑(こうのいけいなりしひ)が残されています。

鴻池稲荷祠碑は、清酒醸造成功記念に建てた当初の稲荷祠が宝暦13年(1763)に壊れたので、天明4年(1784)に再建されたことなどが刻まれているようです。

下写真の右側にあるのが稲荷祠碑です。

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山中新六は酒造業で成功し、大坂に店を構え、海運業を始めます。酒造業と海運業で財を成した鴻池家は、明暦2 (1656) に両替屋を始め、今橋通に両替店を移しました。そこが本宅となります。

鴻池本宅は、昭和22年(1947)大阪美術倶楽部に売却され、現在は、鴻池本宅の跡には大阪美術倶楽部が建っています。大阪美術倶楽部の入口に「旧鴻池家本宅跡」と刻まれた石碑があり、それだけがわずかにその名残をととどめていました。

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鴻池家の表屋は戦後は大阪美術倶楽部の会館として使用されていましたが、昭和54年に大阪美術倶楽部の改装に際して表屋が撤去される事になり、三宅製餡株式会社がこれを引き取り、奈良市鳥見町の所有地に移築しました。

現在は、「和菓子屋・カフェ」として営業しており、鴻池家の表屋を内部からもみることができます。

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鴻池新田は、鴻池家三代目の善右衛門宗利が広大な新開池の跡地を開発したもので、鴻池新田の会所は、その新田を管理を行う事務所でした。

その会所は、宝永4(1707)に建てられたものですが、現在も東大阪市に残されています。下写真は鴻池新田会所の表長屋門です。

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鴻池家ゆかりの地は、兵庫県伊丹市、大阪市、東大阪市、奈良市と一府二県に散らばっていましたので、一日で回るのは大変でしたが、現地をみることができたのは有意義でした。

今回のこのレポートで詳しく紹介しきれませんが、文京学院大学の講座では、もう少し深くご紹介しようと思っています。

講座の概要は次の通りです。

 一代で巨大な富を築いた男たち

 ―江戸の豪商列伝―

 日程     71327

 曜日・時間  土曜日 13301500

ご興味のある方は、下ホームページからお申込みください。

 文京学院大学生涯学習センター



by wheatbaku | 2019-06-13 12:43
箱根山(戸山公園)に登頂してきました。

箱根山(戸山公園)に登頂してきました。

(「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」

昨日は、毎日文化センターの「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」で新大久保駅をスタートして大久保周辺を散歩して、最後は山手線内で最高峰の箱根山まで登ってきました。 

 NHKの朝の天気予報では、午後は雷雨になるかもしれないという予報でしたので心配しながら出発しましたが、結果的には、雷雨にもあわず、快適な散歩となりました。

 ご参加いただいた皆さん、ありがとうございました。

昨日の散歩ルートは次の通りです。

新大久保駅 ⇒ 皆中稲荷神社 ⇒ 小泉八雲記念公園 ⇒ 小泉八雲終焉の地 ⇒ 稲荷鬼王神社 ⇒ 島崎藤村旧居跡 ⇒ 新宿イーストサイドスクエア(休憩) ⇒ 西向天神社 ⇒ 大聖院 ⇒ 抜弁天 ⇒ 戸山公園(箱根山) ⇒ 東新宿駅

皆中稲荷神社

皆中稲荷神社は、戦国時代の天文2年(1533)に創建された神社で、大久保の鎮守ですが、寛永年間、徳川幕府が鉄砲百人組の組屋敷が現在の新宿区百人町に置かれたことから、鉄砲百人組の人たちに篤く信仰されました。

 ある時、鉄砲組の与力が射撃の上達を祈願したらところ夢の中にお稲荷さんがでてきて、翌日、稲荷神社に参拝してから射撃を試みたところ百発百中、全て的中したそうです。他の隊士たちも、それにならって稲荷神社に祈願して射撃をすると百発百中で的中したため、皆中(みなあたる)ということから皆中稲荷神社とよばれるようになったと言われています。

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小泉八雲記念公園

明治時代の文人小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、明治29年から亡くなる明治37年まで新宿で暮らしていました。小泉八雲が没した旧居跡近くに小泉八雲記念公園が平成5年に造られました。小泉八雲記念公園は、ギリシア風の公園となっていて、ギリシア大使から寄贈された胸像もあります。近くの大久保小学校の校門脇には小泉八雲終焉の地の石碑も設置されています。下写真の中央奥に小泉八雲の胸像があります。

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稲荷鬼王神社

稲荷鬼王神社の創建はご由緒書によれば承応2年(1653)に大久保の氏神として稲荷神社が建てられ、その後、宝暦2年(1752)に当地の百姓・田中清右衛門によって、紀州熊野より勧請された鬼王権現を勧請し、天保2年(1831)に稲荷神社と合祀して「稲荷鬼王神社」となったとされています。

現在では、鬼王権現を祀っている神社は稲荷鬼王神社だけだそうです。

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《紅皿の墓》

西向天神社の北側にある大聖院の駐車場の中に、紅皿の墓があります。

紅皿という名前はあまり聞きなれない名前だと思いますが、紅皿は、太田道灌の山吹の里伝説にでてくる女性です。

 紅皿の墓の脇に設置されている教育委員会の説明板には次のように書かれています。「太田道灌の山吹の里伝説に登場する少女・紅皿の墓と伝承されている。(中略)道灌の死後、紅皿は尼となって大久保に庵を建て、死後その地に葬られたという。」 

その説明板を見ながら説明を聞く参加者の皆さんの様子が下写真です。写真の奥に、紅皿の墓があります。

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抜弁天

抜弁天は、交差点の名前として知られていますが、もともとは厳島神社の別名です。

抜弁天(厳島神社)は、応徳3年(1086)源義家が後三年の役で奥州征伐の途上この地に立ち寄り、遠く富士を望み安芸の厳島神社に勝利を祈願しました。奥州平定して京都に帰る途中、お礼のために厳島神社を創建したと伝えられます。

境内が南北に通り抜けでき、また源義家が多くの苦難を切り抜けたことにちなんで、抜弁天として多くの庶民から信仰されてきました。

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箱根山

散歩の最後は戸山公園にある箱根山です。

箱根山は、標高44.6メートルあり、山手線内で最高峰です。

箱根山がある都立戸山公園の一帯は、江戸時代、尾張藩の下屋敷がありました。当時は「戸山荘」と呼ばれ、約45万平方メートルの広大な敷地には御殿のほか、池や山がありました。尾張藩の戸山荘は、尾張藩2代藩主の徳川光友が築いたもので、池をつくるために掘った土を盛り上げて造った人工の山です。下写真の奥に写っている山が箱根山です。

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 ご参加いただいた皆さんありがとうございました。




by wheatbaku | 2019-06-09 13:31 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
紀伊国屋文左衛門ゆかりの史跡

紀伊国屋文左衛門ゆかりの史跡

 和歌山県の湯浅町を訪ねた目的の一つに、紀伊国屋文左衛門ゆかりの史跡を訪ねるということもありました。

 紀伊国屋文左衛門は、暴風雨の中、紀州から蜜柑を運び大儲けをし、その資金を元手に、材木商を始めて、巨万の富を稼ぎ、吉原で散在し、紀文大尽と呼ばれたということで大変有名です。

その紀伊国屋文左衛門の出生地については諸説がありますが、紀伊国湯浅の別所生まれとする説があります。

 そのため、湯浅には、紀文に関係する石碑等が数多く設置されていました。

 

 湯浅駅から2分程度の駅近くに文平の像があります。

 文平というのは紀伊国屋文左衛門の幼い時の名前だと言われています。

 その文平(紀之国屋文左衛門)がみかん船にのって海の乗り出す雄姿を描いたものです。平成10年に建てられました。(下写真)

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 湯浅駅から5分ほどのところに勝楽寺があります。

勝楽寺は、平安時代に有田地域一帯に勢力を持っていた湯浅氏の菩提寺として創建され、創建当時は七堂伽藍を持つ大きなお寺でした。

そのお寺の本堂裏側に「紀伊国屋文左衛門之碑」があります。

この石碑は紀伊国屋文左衛門を顕彰するため、昭和34年に建てられたものです。
 石碑の前には、「奉納松下幸之助」と刻まれた石灯籠がありました。(下写真奥が石碑で、右手前が石灯篭です)

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勝楽寺の北側(徒歩で1分)を国道42号が通っていますが、国道42号沿いの所に紀文生誕地記念碑と刻まれた石碑があります。

 この石碑がある地区は別所という地区であり、紀伊国屋文左衛門が生まれたのは湯浅の別所という説があるので、それに基づいた石碑だと思われます。

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 湯浅から少し離れた海南市の下津港が見える道路沿いに「紀伊国屋文左衛門船出の地」と刻まれた大きな石碑が建っています。

 JRきのくに線加茂郷駅からはタクシーを利用しましたが、5分程度で到着しました。ちなみに下津駅のほうが近そうですが、下津駅ではタクシーが拾えないということでしたので、加茂郷からタクシーを利用しました。

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 このように紀伊国屋文左衛門は紀州湯浅の出身ということで、湯浅では、紀伊国屋文左衛門は有名人ですが、その実像はあまりはっきしていないともいわれています。 
 7月に、文京学院大学生涯学習センターで、江戸の豪商たちについてお話をさせていただきますので、現地を訪問した情報も含めて紀伊国屋文左衛門についても触れますので、ご興味のあるかたはぜひお申込みください。


講座の概要は次の通りです。

 一代で巨大な富を築いた男たち

 ―江戸の豪商列伝―

 日程     71327

 曜日・時間  土曜日 13301500


 詳細やお申し込みは下記ホームページからお願いします。

 文京学院大学生涯学習センター




by wheatbaku | 2019-06-05 10:27
「江戸検1級合格虎の巻」講座の申込受付を開始!!

「江戸検1級合格虎の巻」講座の申込受付を開始!!

 かねて、予告させていただいていた江戸楽アカデミーでの『江戸検1級合格虎の巻』講座ですが、江戸楽アカデミーのホームページで告知されましたので、お知らせします。

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 講座概要は、次の通りです。

《江戸楽アカデミーの講座概要》

これを聞けば合格に必ず近づく!『江戸検1級合格虎の巻』講座

開催  8月10日(土)12:30~15:30

受講料(税込) 4,860円

会場  小学館集英社プロダクション・SP第3ビル

定員  38名

 この講座では合格のためのエッセンス(心構え、勉強方法、記述問題対策)をお話しします。それに加え昨年合格した人の合格体験談もあります。

 江戸検は来年で終了だそうです。何としても1級に合格したいと思っている方、ぜひご受講ください。
 また、今年初めて1級を受検される方でも、合格できる方法がありますので、初めて受検される方もぜひご受講ください。


 受講ご希望の方、江戸楽アカデミーの公式ホームページから、お申し込みください。 

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 江戸楽アカデミーのホームページは下記です。講座の詳細や申込方法が告知されています。  

江戸楽アカデミー











by wheatbaku | 2019-06-03 15:00
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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