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日本橋通り(新江戸百景めぐり⑱)

日本橋通り(新江戸百景めぐり⑱)

 先週土曜日に、文京学院大学生涯学習センターで「江戸の豪商列伝 一代で巨大な富を築いた男たち」の2回目の講座が行なわれました。

 今回は、三井高利について話をさせていただきました。

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 三井高利は、越後屋の創業者です。延宝元年(1673)52歳で江戸の本町通りに越後屋を開店し、「現金掛け値なし」の革新的な商法で、越後屋を繁栄させましたが、呉服や仲間からの妨害を受けたため、天和3年(1683)駿河町に移転し、その後、両替商も兼営し、呉服と両替を車の両輪として、越後屋を江戸随一の豪商に押し上げました。

受講者の皆さんは、今回も大変熱心に聞いていただきました。私も、受講者の皆さんの熱意に押されて楽しく話をさせていただきました。

 受講いただいた皆様ありがとうございました。

 この講座では、東京の三井本館と三越日本橋本店、京都の三井家の菩提寺真如堂、松阪の三井発祥の地など三井高利ゆかりの地も紹介しました。

『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、越後屋のあった日本橋通りも取り上げられています。そこで今日は、日本橋通りをご案内します。

『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、P116の第60景で紹介されています。

越後屋があった場所は、現在の三越日本橋本店と三井本館がある場所です。下写真の奥が三越日本橋本店、手前のビルが三井本館、手前の道路が中央通りです。

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三井高利は、天和3年(1683)に、それまであった本町から駿河町に店舗を移転しました。その移転場所が、現在の三越日本橋本店のある場所です。

最初の店舗は、間口7間で、東側4間で呉服店、その西側3間が両替店でした。その後、貞享2年(1685)に、両替店を北側(現三井本館のある場所)に移し、南側は呉服店だけとしました。

そして、元禄11年(1698)には、北側は呉服店本店とし絹織物を扱い、南側は綿店として木綿製品等を扱うこととして、駿河町の南北は越後屋が占めることになりました。

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まさに、葛飾北斎の「冨嶽三十六景『江都駿河町三井見世略図』」(すぐ上浮世絵)や歌川広重の「名所江戸百景『する賀てふ』」(下浮世絵)に描かれているような景色となりました。

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現在の三越日本橋本店は、大正3年に建設されました。当時はスエズ運河以東最大の建物と言われました。

建物はネオ・ルネッサンス・スタイルの建築で、5階建一部6階でした。その後、関東大震災で損傷し、昭和2年に修復工事が完了し、昭和10年に増改築され、現在みられるような形となりました。三越日本橋本店は平成28年に国の重要文化財に指定されています。

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三越の正面玄関にあるライオン像は、モデルとなったのは、ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン提督像を囲むライオン像です。大きさはそこの約半分になっているそうです。

これは、当時の三越の支配人の日比翁助(ひびおうすけ)のアイデアです。日比は、ライオンが大好きで自分の息子に「雷音」と名前を付けたほどでした

 

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三越日本橋本店の北側には、江戸時代は、越後屋の本店と両替店がありましたが、現在は、三井本館が建っています。

三井本館は、三井財閥を構成していた三井合名会社、三井銀行(現三井住友銀行)、三井信託銀行(現三井住友信託銀行)、三井鉱山(現日本コークス工業)等の主要各社の本社が入居し、三井財閥の拠点として昭和4年(1929)に建設されました。今年は2019年ですので、ちょうど90周年を迎えることになります。三井本館も平成10年に国の重要文化財の指定を受けました。

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三越日本橋本店の地下は、東京メトロ三越前駅に直結しています。

 その地下コンコース壁面に、約17メートルにわたる「熈代勝覧」の複製絵巻が展示されています。(下写真)

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「熈代勝覧」とは、「熈(かがや)ける御代の勝(すぐ)れたる景観」という意味で、この絵巻は、文化2年(1805)頃の日本橋から今川橋までの大通り(現在の中央通り)を東側から俯瞰したものです。

絵巻には沿道にある88軒の問屋や店のほか、通りを歩く人1671人、犬20匹、馬13頭、牛4頭、猿①匹、鷹2羽が描かれていると言われています。もちろん、越後屋も描かれています。直前の貴重な記録といえます。

この絵巻により、文化時代の日本橋通りの様子がよくわかります。

 三井本館から中央通を北に少し行くと「日本橋室町三井タワー」が見えてきます。この建物は、今年(2019年)3月には竣工した建物です。

下写真は「日本橋室町三井タワー南東の入口の全体写真です。

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その南東の入口に「十軒店跡」の説明板が設置されています。

半透明なので写真に写りにくいのですが、下の写真であればタイトルがいくらかわかると思います。

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十軒店は雛市(ひないち)の立つ場所として江戸で有名でした。

十軒店は、下の切絵図でわかる通り、町の名前です。その名前は、戸時代の初め、桃の節句・端午の節句に人形を売る仮の店が十軒あったことから、この名があるともいわれています。

 江戸時代中期以降は、3月と5月の節句や12月には、お雛様、五月人形、鯉のぼり、破魔矢、羽子板など、季節に応じた人形や玩具を売る店が軒を並べていました。

 「江戸名所図絵」には「十軒店雛市」と題し、店先に小屋掛まで設けて繁昌(はんじょう)している挿絵が描かれています。

「日本橋室町三井タワー」の北東に新日本橋駅があります。その駅の入口に『中崎屋跡』の説明板が設置されています。(下写真)

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 長崎屋は、江戸時代、薬種問屋でしたが、長崎に駐在したオランダ商館長の将軍に拝謁するために江戸に参府した際の定宿になりました。

将軍拝謁は諸外国のうち、鎖国政策のため外国貿易を独占していたオランダが、幕府に謝意を表するために献上品を携えて行った行事でした。江戸出府は江戸初期から毎年一回行われましたが、長崎からの随行の人々は、商館長の他、通訳、学者などが賑やかに行列して江戸に来ました。しかし、経費のことなどで、江戸中期からは数年に1回となっています。

 商館長に随行したオランダ人の中には、ツンベルクやシーボルトなどの一流の医学者がいたので、蘭学に興味を持つ桂川甫周や平賀源内はじめ日本人の医者や蘭学者が訪問し、外国の知識を吸収する貴重な場所でした。

 長崎屋の北には、石町の時の鐘がありました。

 そのため、新日本橋駅の北側の通りに「石町の時の鐘」の説明板があります。(下写真)

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江戸の初期は、江戸城内の土圭の間にある時計で時刻をはかり、城内にある太鼓を打って知らせていました。しかし、城内ではうるさいので、町方に移させるということになりました。その移転先が石町でした。つまり、石町の時の鐘が最初の時の鐘です。

その後、時の鐘は増加して、江戸時代後期には、日本橋の石町、浅草、上野、本所横川町、目白不動、市ヶ谷八幡、四谷天竜寺、赤坂成満寺、芝切り通しの9カ所となりました。

そして、時の鐘は明治4年に廃止されたため、石町の時の鐘は近くの屋敷の庭に放置されていましたが、昭和5年に十思公園内に鐘楼を建てて移設されました。それが現在、十思公園にある時の鐘です。(下写真)なお、鐘楼は、移設時に新たに建設されたものです。 

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赤印が三越日本橋本店、その北側が三井本館です。

青印が日本橋室町三井タワーの十軒店跡の説明板設置場所です。

緑印が長崎屋跡の説明板設置場所です。
ピンク印が石町の時の鐘の説明板設置場所です。









by wheatbaku | 2019-07-31 18:57 | 新江戸百景めぐり
 永代橋(新江戸百景めぐり⑰)

 永代橋(新江戸百景めぐり⑰)


「新江戸百景めぐり」(小学館刊)には、永代橋が紹介されていますので、今日は永代橋をご案内します。

 永代橋は、東京メトロ門前仲町もしくは茅場町から歩いて行けます。門前仲町からですと約9分、茅場町からですと約8分で大差はありません。

 現在の永代橋は、大正15年に竣工したもので平成19年6月、勝鬨橋・清洲橋と共に国の重要文化財(建造物)に指定されました。

現在は橋の改修工事中で、通行は可能ですがきれいな外観をみることはできません。下写真は以前に撮影したものです。

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  永代橋は、元禄11年(1698)8月に、5代将軍徳川綱 吉の50歳を祝って架橋されました。

橋を架ける材木は、同じ年に竣工した寛永寺根本中堂造営であまった材木を利用したといわれています。

 江戸時代の永代橋が架けられていた場所は、現在の橋がある位置よりも100 m程上流でした。架けられた場所は、「深川の大渡し」と呼ばれる渡しがあったところです。

現在日本橋川が隅田川と合流する地点に豊海橋が架けられていますが、その北のたもと付近に架けられていました。下写真の左が豊海橋、中央奥が日本アイビーエムの本社、豊海橋とアイビーエムの本社ビルの間に江戸時代の永代橋が架けられていました。

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永代橋が架けられて場所は、当時は、隅田川の最も河口に近い場所であったため、隅田川を行き交う船が多かったため、船の通行の邪魔にならないように、橋げたが高く作られていました。

 そのため、永代橋からの見晴しは良かったと言われています。

 この難しい工事の指揮をとったのが、関東郡代の伊奈忠順でした。伊那忠順は、新大橋の架橋も指揮しています。

 伊那忠順のお墓は川口の赤山にあったと思われますが、以前、私が訪ねた際には確認できませんでした。その替り、伊那忠順の奥様が開基となったお寺が深川にあります。玄信寺がそれです。(下写真)

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玄信寺は、関東郡代伊奈忠順の妻が開基、還蓮社本誉玄故上人が開山となり、寛永6年(1629)深川下佐賀町に創建、寛永18年当地に移転したといいます。開基の理照院のお墓も残されていますが、お参りにはお寺の許可が必要です。 

 永代橋は、元禄15年(1702)12月15日に、吉良上野介を討ち取った赤穂浪士たちが、討ち入り後に泉岳寺の浅野内匠頭の墓前に上野介の首を供えるために泉岳寺に向かった際に、両国橋でなく永代橋を渡ったことで有名です。 

 その赤穂浪士たちに、甘酒をふるまったのが、永代橋の東のたもとにあった乳熊味噌でした。乳熊味噌の初代竹口作兵衛は赤穂浪士の大高源吾と榎本其角の門下生として親しかったことから、作兵衛は一同を招き入れ甘酒粥を振る舞い、労をねぎらったと言われています。

それを記念した石碑が、永代橋東のたもと近くにあります。(下写真)

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この石碑は、昭和38年、株式会社ちくま味噌によって建立されたものです。

乳熊屋(現在はちくま味噌)は初代竹口作兵衛義通が、伊勢国乳熊郷(三重県松坂市中万町)から慶安年間(1648年~51年)に江戸に進出、日本橋に塗物店を営み、作兵衛勝義(後、通称を喜左衛門と改む)が元禄初年(1688)に深川永代橋際に味噌醸造を始め、乳熊屋作兵衛門商店としたのが、ちくま味噌の始まりだそうです。

ちくま味噌は、現在も存続していますが、現在は永代橋に店舗はなく、ネット販売主力で営業しているようです。

永代橋で有名な事件が、永代橋崩落事件です。

この事件は、文化4年(1807)の富岡八幡宮大祭の時に起こった事件です。文化4年8月の富岡八幡宮の大祭はひさしぶりに開催されたため大変な賑わいとなり、大勢の人々が永代橋を渡った際に、永代橋が崩落し多数の溺死者を出すという江戸はじまって以来の大惨事でした。

文化4年の富岡八幡宮の大祭は、滝沢馬琴編集の「兎園小説余禄」によれば30余年ぶり、太田南畝の「夢の憂橋」によれば34年ぶりと、年数は違っていますが、長いこと開催されていなかった富岡八幡宮の祭礼がしばらくぶりに開催されることとなり、江戸っ子の関心を集めていました。

富岡八幡宮の祭礼は、通常は8月15日に開催されますが、雨のため順延され8月19日開催となりました。8月19日当日は、朝早くから大勢の見物客が深川に向かいました。

その時、将軍関係者が永代橋の下を御座船で通行することから、永代橋は午前10時ごろから一時通行止めとなりました。

 目黒区の海福寺に設置されている東京都教育委員会設置の説明板では、「将軍世子」とされているので11代将軍家斉の子供徳川家慶ということなります。一方、兎園小説では、一橋家と書かれていますので、徳川家斉の実父一橋治斉(はるさだ)ということになると思われます。

こうした違いはありますが、いずれにしても永代橋は通行止めとされていました。その通行止めが解除されるとともに、それまで、通行止めのため、橋のたもとでごったがえしていて大群衆が一気に永代橋を渡り始めました。その結果、大勢の重みに耐えかねて永代橋が崩れ落ちてしまいました。

大群衆の後方の人々は、橋が崩れ落ちたことを知らず、どんどん前に進んでくるため、最前列の人たちは、後ろから押されて、将棋倒しのように次々と隅田川に落ちていくという悲惨な情景が呈され、悲劇が拡大しました。

この時、危機を察した武士が欄干につかまりつつ刀を振り回し、人々が後ずさりしたため落下は止まったと「兎園小説」や「夢の憂橋」に書かれています。

こうした緊急対応がありましたが、「夢の憂橋」と説明板によれば440名の人が亡くなりました。

さらに行方不明者を含めれば被害者は1000人を超えたといわれています。なお、兎園小説では、「水没の老若男女数千人」と書かれていますが、これは被害者が多すぎるように思われます。

 その被害者の供養塔が、深川から遠く離れた目黒の海福寺にあります。下写真が供養塔です。

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海福寺は、明から来朝した隠元禅師が万冶元年(1658)に江戸深川寺町通り(現江東区深川2丁目付近、)に創建した黄檗宗の寺で、日本で最初の黄檗宗のお寺です。有名な宇治の万福寺が創建されたのは、寛文元年(1661)で、海福寺の創建より3年後です。明治43年に現在地へ移転しました。

海福寺があったのは、現在の明治小学校付近だそうで、小学校正門前の公園に下写真の観光高札が建てられています。

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永代橋崩落事故の時、永代橋近くにあった海福寺に無縁仏が埋葬されました。その後、被害者たちの供養塔が海福寺境内に建立されました。

海福寺は、明治43年、目黒に移転しましたが、供養塔もそのとき一緒に移設されました。海福寺の山門左手前にあるのが「文化4年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑」(都指定文化財)です。

赤印が永代橋です。

 青印が「赤穂浪士休息の地の碑」設置場所です。

緑印が豊海橋です。

ピンク印が海福寺の跡地です。









by wheatbaku | 2019-07-29 18:14 | 新江戸百景めぐり
木場公園(新江戸百景めぐり⑯)

木場公園(新江戸百景めぐり⑯)

前回まで、「新江戸百景めぐり」(小学館刊)に載っている深川の紀文にゆかりがあるといわれている場所を案内しました。今日は、紀伊国屋文左衛門も可関係したと思われる木場について案内します。

「新江戸百景めぐり」(小学館刊)ではP72に第26景「木場公園」として紹介されています。

 江戸時代、木場として栄えた場所は、現在は、木場公園となっています。

 東京メトロ東西線木場駅から徒歩5分です。こちらは南側から訪ねるということになります。北側からですと、清澄白河駅から約15分また都営地下鉄新宿線菊川からも約15分歩くことになります。下写真は、木場公園の南側の入口です。

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 木場公園は、江戸から昭和にかけて、江戸・東京へ材木を供給してきた「木場」が、新木場に移転したことにより、その跡地を利用して公園として整備されたものです。

 従って、約24万平方メートルもある非常に広大な広さを持っていて、敷地内にテニスコート、イベント広場、バーベキュー広場、東京都現代美術館などが広がっています。

 現在は、木場公園の中には、残念ながら江戸時代の木場を思わせるものは残されていません。下写真は、木場公園のシンボルとなっている木場公園大橋です。左手遠くに東京スカイツリーが見えています。

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 しかし、毎年10月に開催される江東区区民まつりには、木場公園内のイベント広場近くの池で有名な木場の角乗りなどのイベントが行われます。(下写真)

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 下写真は、深川江戸資料館で放映されていた木場の角乗りの様子です。

 下駄をはいて木に乗るときは、表面が丸いほうが乗りやすくて、四角だと乗りにくいのだそうです。従って、角乗をするには相当の熟練が必要な技だそうです。

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 富岡八幡宮には木場の角乗りの碑(下写真)があり、次のように刻まれています。
 木場の角乗りは300余年の昔徳川幕府から材木渡世の免許を与えられた業者の木材を扱う川並の祖先の余技として進展し若者の技術練磨の目的を以て今日に傳わるものである。
 其の間明治初年(1868)三島警視総監時代水防出初式に始めて浜町河岸で披露又グランド将軍が来朝の際上野不忍の池にて催し後須賀に於て軍艦進水式の折り、明治天皇の天覧の栄を賜る 其の後浜離宮や両国橋開通式の祝事に披露されて来た。
 第二次世界大戦により中断したが戦後有志相倚り東京木場角乗保存会を設立し昭和27年(1952)9月東京営林署貯木場に於て披露し同年11月3日東京都文化保存條令に基き都技芸木場の角乗りとして無形文化財に指定された。

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 また、木場公園近くの木場親水公園には、「筏を操る川並の像」があって、当時の面影が少し感じられます。

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【木場の歴史】
 木場はいうまでもありませんが、木材を貯蔵しておく場所ですが、現在の木場公園に、木場が設置されるまで、江戸の材木貯蔵場所は、いろいろ変遷しました。そこで、木材置き場としての木場の歴史を書いてみたいと思います。
 徳川家康が、天正18年(1590)、江戸に入府すると同時に、江戸城の築城と江戸の都市づくりが始まります。木材は城造り・町造りに欠かせない重要な資材でした。

 徳川家康が最初に手掛けた工事の一つが道三堀の開削でした。この道三堀沿岸に材木町がまず成立し、築城用材木の揚げ場となりました。

その後、外濠工事が行なわれ、道三掘が郭内になったため江戸湊東岸部に移転させられました。これが本材木町に発展しました。これから、茅場町や八丁堀、三十間堀などにも拡大していきます。

しかし、寛永 18年(1641)におきた大火(いわゆる桶町火事)をきっかけに、老中松平伊豆守信綱は府内35ケ町の材木業者に材木高積を禁止し、材木置場として隅田川に面した永代島を指定しました。

この材木置き場は、現在の佐賀町、永代、福住周辺にあり、この頃から木場と呼ばれるようになりました。

元禄 12 年(1699)になると、幕府は佐賀町周辺の材木置き場の地所をとりあげ、永代浦の東側へ木場が移転するよう命じます。

それ以降、佐賀町、永代、福住の木場のあった場所は元木場と呼ばれるようになりました。

この移転は、江戸が拡大してきたため、元木場を町人が住む町にするためでした。

しかし、永代浦東側の埋め立てが思うように進まなかったため、猿江の材木蔵の用地周辺に一旦移転させます。

その後、元禄 14年(1701)になって、木場の造成が完了したことから、猿江から木場に移転しました。

これ以降、江戸時代から昭和まで、材木置き場周辺が木場と呼ばれ、独特の文化をはぐくんできました。

しかし、昭和になると、東京湾の埋め立ても進み、木場が海から遠くなり、また木場周辺の開発も進んだことから、さらに移転が検討され、新木場に移転することになり、昭和40年代から移転作業が行われ、昭和56年に完了しました。

そして、木場の跡地は埋め立てられ、平成4年に都立木場公園として開園しました。

赤印が木場公園です。

青印が木場親水公園です。






by wheatbaku | 2019-07-26 08:52 | 新江戸百景めぐり
富岡八幡宮(新江戸百景めぐり⑮)

富岡八幡宮(新江戸百景めぐり⑮)

深川には、清澄庭園の外にも紀伊国屋文左衛門にゆかりのある場所があります。それが富岡八幡宮です。富岡八幡宮も、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)で第70景としてP130に紹介されています。 そこで、今日は富岡八幡宮についても案内します。

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 富岡八幡宮は、社伝によれば、寛永4年(1627年)、長盛法印というお坊さんが当時永代島と呼ばれていた現在地に創建しました。 

周辺の砂州一帯を埋め立て、合計で60508坪もの土地を境内としました。

御祭神は、八幡宮の名前でわかるように応神天皇です。

「江戸最大の八幡様」で、「深川の八幡様」と親しまれています。

富岡八幡宮の現在の社殿(下写真)は昭和31年に建設されたものですが、江戸時代初期の社殿は、紀伊国屋文左衛門が奉納したと言い伝えがあります。

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神輿

紀伊国屋文左衛門が、富岡八幡宮に八幡造り・神明造り・春日造りの三基の神輿を奉納したといわれてきました。しかし、紀文が奉納したと伝わっていた神輿が関東大震災で焼失してしまいました。

そこで、平成3年、当時佐川急便会長だった佐川清氏が、かつての紀伊国屋文左衛門が奉納した神輿にも劣らぬ巨大な「一の宮神輿」を奉納しました。重さ4.5トンを誇る日本一の神輿です。完成した時には、永代橋から陸あげされ、大鳥居前で行なわれた初担ぎには3000人が参加し、巨大神輿をみごとに担ぎあげました。しかし、あまりに大きくて重すぎたため渡御どころではなくなり、これ以降は境内に展示されるだけになっています。(下写真)

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一の宮神輿があまりにも大きいため、新たに平成9年に、重さ約2トンの二ノ宮が作られ、お祭りにはこの二の宮神輿がかつぎだされます。

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富岡八幡宮の例祭は8月15日を中心に行われます。俗に「深川八幡祭り」とも呼ばれ、赤坂の日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭とともに「江戸三大祭」の一つに数えられています。

富岡八幡宮の祭礼は本祭・御本社祭・陰祭の順番で祭礼が行われることになっています。

3年に1度、八幡宮の御鳳輦が渡御を行う年は本祭りと呼ばれ、子・卯・午・酉の年に行われます。鳳輦とは屋形の上に金銅の鳳凰をつけた輿のことで、富岡八幡宮の御神体を渡御する時に用いられます。

本祭りの翌年(丑・辰・未・戌の年)には八幡様の氏子町会が協力して二の宮神輿を担ぎます。本祭りの前年(寅・巳・申・亥の年)のイベントは陰祭とよばれ、子供神輿の連合渡御が行われます。

紀伊国屋文左衛門が住んだという一の鳥居付近

紀伊国屋文左衛門は、晩年は落ちぶれて、富岡八幡宮の一の鳥居脇に住んでいたと言われています。

 現在の富岡八幡宮には一の鳥居はなく、永代通りに南面して大鳥居があります。(最上段写真)。

 江戸時代の一の鳥居は、大鳥居から西に500メートルほど行った永代通り付近にありました。下写真の幕末の江戸切絵図参照してください。右端が富岡八幡宮です。富岡八幡宮の前の通りを左に行ったところに一ノ鳥居と書かれています。

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 富岡八幡宮は江戸勧進相撲発祥の地として有名です。

江戸時代の相撲興業は トラブルが多くしばしば禁令が出ていました。しかし、幕府は貞享元年(1684)幕府より春と秋の2場所の勧進相撲が許しました。その時、開催場所となったのが富岡八幡宮の境内でした。

その後、蔵前八幡や神田明神も興行場所となりましたが、ここ富岡八幡宮でしばしば行われ、77年で31回開催されています。天保4年以降、本場所は、本所回向院に移っていきますが、勧進相撲の勃興期における富岡八幡宮の地位はかなり高いものでした。そうしたことから横綱力士碑や大関力士碑など相撲関係の石碑が数多くあります。

横網力士碑

横綱力士碑は、明治33年、江戸時代の最後の横綱である第12代横綱陣幕久五郎を発起人に建立されたものです。

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両側には伊藤博文、山県有朋、大隈重信といった賛同者の名が刻まれており、広く各界から協賛を得て建立されたことを物語っています。

ここに横綱力士碑が建てられたのは、①かつての大相撲興行が行われていたこと ②相撲の祖先とされている野見宿弥が祀られていること、③陣幕と同郷の釈迦ヶ嶽雲右衛門を記念する碑が江戸時代に建てられていたことなどによるものだそうです。

 当初は、本殿の裏手に建てられていましたが、関東大震災後、現在地に移されたものです。

その大きさは高さ3.5メートル、幅3メートル、重量は20トンに及び、横綱を顕彰するにふさわしい堂々たる石碑です。

この碑には初代明石志賀之助から72代稀勢の里までの四股名が刻まれています。

 新横綱誕生時には相撲協会立会いのもと刻名式がおこなわれ、新横綱の土俵入りが奉納されます。

大関力士碑

表参道大鳥居をくぐってすぐ右手には、 歴代大関を顕彰するために建立された 「大関力士碑」があります。

この碑は明治の頃に、9代目市川団十郎と5代目尾上菊五郎により寄進されていた2基の仙台石を活用し、初代大関雪見山からの歴代大関の四股名が彫り込まれています。

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伊能忠敬の銅像

大鳥居の脇に伊能忠敬の銅像があります。 平成13年(2001)に建立されたものです。(下写真)

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 伊能忠敬の測量開始は寛政12年西暦でいうとちょうど1800年です。

伊能忠敬像は測量開始200年にあたり広く一般から浄財を公募して建立されました。

伊能忠敬は、この後案内する深川黒江町(現・門前仲町1丁目)に住んでいて、測量に出発する時富岡八幡宮を参拝していたことから、ここに銅像が建てられました。

 除幕式当日には映画「伊能忠敬-子午線の夢」で忠敬翁を演じた加藤剛さん、妻・お栄役の賀来千香子さんらが役柄の扮装のまま駆けつけて除幕を行なったそうです。

 伊能忠敬は、佐原で代々名主を勤め、酒造業や運送業を営む伊能家の当主でしたが、50歳の時に、隠居して深川の黒江町(現在は門前仲町1丁目)に家を構えました。

 住居跡には、江東区教育員会が設置した標柱が建てられています。(下写真)

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江戸に出府した伊能忠敬は、幕府暦局の高橋至時に入門し天文学を学びました。ここで天文学を学ぶうちに地球の大きさを知りたいと思うようになり、そのためには、緯度1分の長さを正確に測りるため、蝦夷地測量の名目で距離を測ることとし、幕府に願いをだし、無事許可されました。そこで、約200年前の寛政12年閏4月19日(陽暦では1800年6月11日)の早朝に富岡八幡宮に参拝して暇夷地測量の旅に出かけました。

伊能忠敬はこのときを含めて全部で10回の測量旅行を企画しましたが、第8回までは、出発の都度の際に必ず、内弟子と従者を率いて富岡八幡宮に参詣して、無事成功を祈念したのち、歩き出しと言います。

富士塚

富岡八幡宮の社殿の西北に鎮座する浅間神社の前に富士塚があります。

非常に小さいものですが、平成14年に再建されたものです。

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江戸時代から続いていた富士塚は、富岡八幡宮の北側にある数矢小学校の西側に、昭和30年ごろまではあったそうです。

ここの北側にあった富岡八幡宮の富士塚は、東都歳事記にも絵が載っています。

富士塚は、享保7年~8年(1722~1723)に造られ、規模は高さ2丈(約6メートル)周囲は50間(約90メートル)あっとと、江東区史に書かれています。

三十三間堂跡

 富岡八幡宮の東側に江戸時代後半から三十三間堂がありました。

深川の三十三間堂の跡には、石碑が建てられています。(下写真)

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 三十三間堂といえば、京都の三十三間堂つまり蓮華王院が大変有名です。

江戸の三十三間堂は、この京都蓮華王院を模して、寛永19年(1642年)に浅草に建立されました。 この浅草の三十三間堂が元禄11年9月6日の火事(いわゆる勅額火事)により焼失してしまいました。そして、元禄14年(1701)に深川に移されました。

深川における三十三間堂は、南北66間(約118.8m)・東西4間(約7.2m)の建物であり、本尊は千手観音であったそうです。

江戸に三十三間堂が作られたのは、京都の三十三間堂での通し矢が盛んに行われた影響だそうです。

 江戸の三十三間堂も、京都と同じように南北に長い建物で、その西側の回廊で、通し矢が行なわれ、京都三十三間堂での記録保持者を「天下一」、江戸の三十三間堂での記録保持者を「江戸一」といいました。

 深川に移転した後に「江戸一」の記録は、文化6年(1809)に渡辺弥三郎という人が樹立した、明け六つから翌日の明け六つまで24時間射続けて、総数13092本、射とうした矢の数は11740本という記録だと江東区史に書かれています。

 深川三十三間堂は、明治5年(1872年)に解体されて、本尊は近くの正覚寺(深川2-22-5)に移されました。

 深川の三十三間堂の跡の石碑にはその様子がレリーフで描かれています。(下写真)

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 このレリーフはブロンズ製で文政4年(1821年)堂守、鹿塩久右衛門の元にあった深川三十三間堂での通し矢の記録を本として出版した「深川江戸三十三間堂矢數帳」の中の絵のページが描かれ、三十三間堂がみごとに描かれています。 

また、コンクリートの台座には陶板による一間(約1.8メートル)の「矢」が描かれています。深川の三十三間堂があった辺りは、昭和6年(1931年)まで深川数矢町といいました。数矢町は明治2年起立の町で、町名は「三十三間堂が射手数矢を演じたる地なる」ことにちなんでいます。現在は、数矢町という町名はなくなりましたが、その名前は、富岡八幡宮の北側にある数矢小学校の名に残っています。



赤印が富岡八幡宮社殿です。

青印が富士塚です。

緑印が三十三間堂跡の石碑です。






by wheatbaku | 2019-07-22 19:36 | 新江戸百景めぐり
深川江戸資料館(新江戸百景めぐり⑭)

深川江戸資料館(新江戸百景めぐり⑭)

 前回紹介した霊厳寺のすぐ東隣に深川江戸資料館があります。

 深川江戸資料館も『新江戸百景めぐり』(小学館刊)P88に紹介されているので、今日は、深川江戸資料館をご紹介します。下写真は入口です。

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 深川江戸資料館は、東京メトロ清澄白河駅A3番出口から徒歩約3分の場所にあります。

深川江戸資料館は昭和61年に開館しました。

受付は1階ですが常設展示室は地下1階となっていて、江戸時代の天保年間の「深川佐賀町」の街並みを再現した展示がされています。下写真は、1階から地下1階への階段から写した写真です。

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深川江戸資料館の展示は、大きく4つのゾーンに分かれています。①大店などがならぶ佐賀町の表通りゾーン、②船宿が並ぶ掘割ゾーン、③火の見櫓などがある火除地ゾーン、④庶民が住んでいる長屋ゾーンです。

 

それでは、ここからは深川江戸資料館の展示をゾーン別に紹介していきます。

1、表通りゾーン

表通りゾーンは、佐賀町通りをイメージして再現しています。この通りには、肥料問屋、八百屋、舂米屋(つきごめや)が店を並べています。

深川には、材木問屋、米問屋、肥料問屋の大店(おおだな)が多くありました。肥料問屋「多田屋」も、その一つで、看板や暖簾も立派な大店です。

 また、肥料問屋「多田屋」の向かいには、舂米屋(つきごめや)「上総屋」があります。舂米屋は米問屋から仕入れた玄米を唐臼で精米して庶民に売りました。舂米屋は江戸市中の各所にありましたが、米問屋は、深川佐賀町に集中していて、米問屋の数は江戸随一でした。

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2、掘割ゾーン

堀割ゾーンは、深川の油堀をイメージして再現されています。堀に面して2軒の船宿が店を並べています。手前の船宿「升田屋」は、堅い商売をしていて2階は組合の人たちの会合・宴席の場として貸し出たりしますが、奥の「相模屋」の方は、男女の密会用に2階を貸し出しているという設定だそうです。

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 堀には、船宿が所有している猪牙船(ちょきぶね)が浮かんでいます。船の形が猪の牙に似ているため「猪牙」の漢字が当てられたという説もあります。この猪牙船にのって吉原へ行ったり、船遊びを楽しんだりしました。

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3、火除地ゾーン

 江戸は火事の多い都市であったため、延焼を防ぐために、火除地という防火帯を作っていました。火除地には、恒久的な建物の建設は許されなかったため、簡易な店造りの床見世や葦簀張りの茶店などが店を並べていました。また、火除地という想定であることから火の見櫓もセットされています。実際に深川佐賀町には火の見櫓があったそうです。

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 火除地ゾーンには、上の写真にもある蕎麦屋や天麩羅屋など屋台のほか、水茶屋もセットされています。(下写真) 

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4、長屋ゾーン

 長屋ゾーンは、庶民の住んでいる長屋の様子を再現しています。

 それぞれの家族構成まで考慮してジオラマが再現されています。

 下写真は木場の木挽職人の長屋を再現してあります。木挽職人というのは大きな鋸で材木を切って板にする職人のことです。長屋の壁には商売道具の鋸が掛けてあります。

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 木挽職人の隣は、裁縫・三味線のお師匠さんの住まいです、手習もお師匠さんでもありました。女性らしく小ざっぱりした住まいが再現されています。(下写真)

 これらのほか、船頭、棒手振などの庶民の住まいが再現されています。

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 長屋の奥には、井戸、ごみ溜め、雪隠(トイレ)、お稲荷様が再現されています。これらは、江戸のどこの長屋にもあるありふれた光景ですが、案内してくれたガイドさんの話によると、ここを案内して最も驚かれることがトイレの扉が半分しかないことだそうです。これは年齢に関係なく、一様に驚くそうです。現代のトイレは密室となっているため、現代人からみると確かに不自然に感じて当然でしょうね。

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5、生活用品
 深川江戸資料館では、江戸時代の生活用品も忠実に再現されています。しかも、それに触れていいというのが素晴らしいと思います。いろいろある中で、ひとつだけ紹介します。下写真の左側にあるのが瓦灯(がとう)という灯りです。触ってみましたが、瓦の漢字が使われているごとく陶器製でした。写真右手はおなじみの煙草盆です。

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深川江戸資料館では、定期的に季節にあわせて年中行事の再現が実施されています。7月7日が七夕でしたのでまで七夕飾りがされていました。(下写真)そのほか、季節ごとに正月飾りや端午の節句などが行なわれていて、秋には、十五夜の飾りつけがされるようです。また、伝統芸能をみせてくれるイベントも開催されているそうです。

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赤印が深川江戸資料館です。

青印が霊厳寺です。







by wheatbaku | 2019-07-20 20:51 | 新江戸百景めぐり
清澄庭園(新江戸百景めぐり⑬)

清澄庭園(新江戸百景めぐり⑬)

先週土曜日、文京学院大学生涯学習センターで、「江戸の豪商列伝 一代で巨大な富を築いた男たち」というタイトルで、江戸の豪商についてお話してきました。2回にわたる講座で、今回は、紀伊国屋文左衛門と鴻池家の創業期4代についてお話しました。今回、大勢の方に受講いただきましたが、皆様、熱心に聞いていただきました。ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。

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 紀伊国屋文左衛門は、①暴風雨をついて紀州みかんを江戸に運んだ。②材木で大儲けをした。③吉原で豪遊をした。④晩年は没落した。といったことで、非常に有名な人物ですが、有名なわりには、紀伊国屋文左衛門の実像はほとんどはっきりしておらず、生没年もわかりません。

 有名なみかん船の話も、前江戸東京博物館館長の竹内誠先生によると、作り話であって、幕末に創作された「黄金水大尽盃(おうごんすいだいじんさかずき)」という小説がもとなっているそうです。

 しかし、各地には、伝承に基づくゆかりの地があり、江戸深川にも、紀文ゆかりの地があります。 

 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)P88の第39景に紹介されている清澄庭園もその一つです。(下写真は公園入口です)

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 清澄庭園は、清澄白河駅A3番出口から5分の至近距離にあります。
 清澄庭園は、紀伊国屋文左衛門の別邸の跡だとされています。しかし、これを実証するものがありませんので、「別邸跡だといわれている」としか言いようがありません。

 幕末の切絵図では、関宿藩久世家の下屋敷となっています。
 久世家が拝領したのは、享保年間とされていますが、その下屋敷内の庭園がどのようなものであったかはハッキリしません。

 

清澄庭園の姿がはっきりするのは明治11年に三菱創業者の岩崎弥太郎が、この屋敷地を買い取って以降のことです。

岩崎彌太郎は、庭園造りが趣味でした。そこで、久世大和守下屋敷を中心とした土地約3万坪(約10万㎡)を買い上げました。

そして、全国から巨石・名石を集め、大規模な造園工事を行い、明治13年に完成しました。その庭園は「深川親睦園」と命名され、三菱社員の慰安や内外賓客を招き接待する場として利用されました。

弥太郎の死後は、弟・弥之助、長男・久弥へと引き継がれ、岩崎家3代によって明治24年に「廻遊式林泉庭園」が完成されました。

庭園中央に隅田川の水を引いた大泉水を造り、周囲には全国から取り寄せた名石が配置されました。配置されている石は伊豆石が多いのですが、中には佐渡赤玉石というような珍しい石もあります。(下写真)

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清澄庭園は、関東大震災で大きな被害を受けましたが、この時、災害時の避難場所としての役割を果たし、多くの人命を救いました。岩崎家では、こうした庭園の持つ防災機能を重視し、大正13年に被害の少なかった東側半分(現在の庭園部分)を公園用地として東京市に寄付し、東京市ではこれを整備して昭和7年7月に公開しました。

 
 それでは、現在の清澄庭園の代表的な景色を紹介していきます。下図が清澄庭園の全体図です。上が南となっていて、下が北です。北西の方角(下図では右下隅)に正門があります。

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大正記念館

元々は、昭和2年に新宿御苑で行われた大正天皇の葬儀に用いられた葬場殿を移築したものですが、最初の建物が戦災で焼失したため、昭和28年に貞明皇后の葬場殿の材料を使って再建、平成元年4月に全面的に改築されました。大正記念館は集会場として利用できます。

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大泉水

庭園中心部には三つの中島を配した広い池があります。昔は隅田川から水を引いていたいわゆる「汐入の池」でした。そのため潮の干満によって池の景観が微妙に変化したといわれます。現在は、「汐入の池」ではなく、雨水でまかなっているそうです。

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涼亭(りょうてい)

涼亭は、明治42年に国賓として来日した 前英国インド軍総司令官キッチナー元帥を接待するために岩崎久弥が造ったものです。関東大震災や東京大空襲による焼失を免れて優雅な姿を今も止めています。平成17年には「東京都選定歴史的建造物」に選定されました。集会場として利用できます。

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富士山

大泉水の奥に小高く見える築山が富士山です。清澄庭園の中で最も高く大きな築山です。この築山には樹木を植えられておらず、サツキ・ツツジの灌木類が数列横に植えられています。これは富士山にたなびく雲を表現したものだと言われています。

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枯滝

富士山の麓に枯滝の石組があります。これは当初から造られていた石組で、コンドルの著書にも紹介されているそうです。滝石組の中央の石組は守護石にも見えます。

下写真は、対岸から写したものです。

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磯渡り

大泉水の端には石を飛び飛びに置いて、そこを歩けるようにした磯渡りが3か所ありますもの。下写真が「磯渡り」で、遠方に見えるのが涼亭です。

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大正記念館の前には、「大磯渡り」があります。こちらの磯渡りは雄大に造られています。

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石仏

ほとんどの人は気が付かないと思いますが、富士山の裏側に4つの石仏があります。

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これらは、阿弥陀供養塔(写真中央) 庚申塔(阿弥陀様の左右) 馬頭観音供養塔(左手前)です。これらの石仏は、明治13年に清澄庭園が造成された際に出土したとも、昭和20年に築山が崩れた際に発見されたとも言われています。

【成等院=紀伊国屋文左衛門の墓】

清澄庭園は江戸時代、紀伊国屋文左衛門の別邸跡だという言い伝えがあると冒頭お話しましたが、その紀伊国屋文左衛門のお墓が、清澄庭園のすぐ近くの成等院にあります。成等院は、江戸時代は、霊厳寺の塔頭でした。

現在、成等院の紀文のお墓は、東日本大震災の被害をうけたため、公開されていませんが、墓域の外側からお参りすることができます。

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上写真中央の大きな石碑は「紀伊国屋文左衛門之碑」と刻まれていて、紀文の顕彰碑です。この石は紀州青石で、文字は、和歌山市出身で海軍大将でも太平洋戦争勃発寺の駐米大使であった野村吉三郎です。

その大きな石碑の隣が、紀文のお墓です。表面は、摩耗していて、まったく文字が読めません。

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【 霊 厳 寺 】

『新江戸百景めぐり』(小学館刊)に霊厳寺について書いてあるので、霊厳寺についても触れておきます。下写真は本堂です。 

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霊厳寺は、寛永元年(1624)に、雄誉霊巌上人が霊巌島(現在の東京都中央区新川)に霊厳寺を創建したのが始まりです。その当時、霊巌島の辺りは湿地帯で、そこを埋め立てて霊巌寺を建てました。霊厳寺は、明暦3年(1657)のいわゆる振袖火事によって焼失し、現在の深川の地に移転しました。元の創建の地は霊巌島という霊厳由来の地名が残されました。霊巌上人は、のち浄土宗総本山の知恩院32世に就任しています。

霊巌寺の本堂の西側に松平定信の墓所があります。墓所は塀に囲まれた区画となっています。下写真は墓所の正面写真です。

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松平定信は、御三卿の田安宗武の7男で8代将軍徳川吉宗の孫にあたります。

白河藩主の松平(久松)定邦の養子となり、天明3年(1783)に白河藩主となります。折からの天明の大飢饉にも、領内から餓死者を出さず、名君と言われました。そして、天明7年(1787)、老中首座に就任し、吉宗の享保の改革を手本とした寛政の改革を行いました。その松平定信のお墓は墓所の奥にあります。(下写真)
 霊厳寺に松平定信のお墓があるのは、霊巌寺が松平(久松)家の菩提寺だからです。そのため、幕末は桑名藩主となった松平(久松)家の歴代藩主の墓も霊厳寺はあるそうですが、公開されていません。

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また、霊厳寺には、六地蔵菩薩像があります。(下写真)

門を入って、参道中程の左手に鎮座していますが、おおきなお地蔵様ですのですぐにわかります。

六地蔵の5番目として、享保2年(1717年)4月に建立されています。

像の高さは、2.73メートルで、台座が低いため、見上げる感じではなく、身近に感じられます。仏身には、金箔がかすかに残っているそうです。

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赤印が清澄庭園入口です。

青印が成等院です。

緑印が霊厳寺です。








by wheatbaku | 2019-07-18 19:23 | 新江戸百景めぐり
北区飛鳥山博物館(新江戸百景めぐり⑫)

北区飛鳥山博物館(新江戸百景めぐり⑫)

 飛鳥山公園には博物館ゾーンがあり、北区飛鳥山博物館、渋沢史料館、紙の博物館の3つの博物館があります。

 これら、俗に飛鳥山の3つの博物館と総称されています。
 本郷通り側の公園入口には「飛鳥山3つの博物館」の看板が立てられています。

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 その中の、北区飛鳥山博物館が、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)のP53に紹介されています。

そこで、今日は、北区飛鳥山博物館を紹介し、さらに渋沢史料館と紙の博物館もあわせて紹介しようと思います。

北区飛鳥山博物館は、北区の歴史・自然・文化などに関する展示や調査研究などが行なわれています。(下写真は博物館の正面入り口です)

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 入口は、建物の2階となっていて、受付も2階にあります。

 常設展示は、1階にありますが、2階からはいるため、地下1階におりる感覚となります。

 古代以前から現代までに関する展示がされていますが、江戸時代の展示で私が注目して展示を中心に紹介します。

 飛鳥山といえば花見ということになります。そこで、名所飛鳥山についてのコーナーがあり、そこには、花見の際のお弁当が、上・虫・下の3種類に分けて再現されています。下写真は上の花見弁当です。

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 王子権現と王子稲荷の別当寺であった金輪寺は、代々の将軍が、日光東照宮へ社参したり王子方面での鷹狩りの際に、休憩所となりました。

 そのため3代将軍家光の時に御座所が造られ吉宗の代に増築されています。その御座所が再現されていますが、残念ながら照明が暗くて、はっきりとは写りませんでした。

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 王子は、日光御成道の街道筋にあたります。そのため、「日光山道中絵図」が展示されていて日光御成道の全容がわかるようになっています。

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 現在の北区滝野川は、江戸市民を対象とした野菜栽培が江戸時代から盛んでした。その代表が、滝野川人参、練馬大根、滝野川牛蒡です。その三種の野菜の見本が展示されています。

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 北区飛鳥山博物館のほかの二つの博物館についても紹介しておきます。

 渋沢史料館は、名前の通り、渋沢栄一の生涯とその事績を紹介するための博物館です。(下写真は正面入り口です)

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常設展示では、渋沢栄一の生い立ちや渡欧の様子、明治になって設立に関わった企業・団体などが展示されています。

1万円札を飾るようになったので、展示内容に変化があるか注目していましたが、1年前に訪ねた時とは変化していないそうです。


渋沢史料館は館内撮影禁止ですので、直接現地を訪ねて確認してください。

ただ、渋沢史料館はリニューアル工事のため、201991()2020327()の期間を休館となります。

行かれる方は早めに行ってください。

 渋沢資料館の東側の公園内に、渋沢栄一ゆかりの
青淵文庫(せいえんぶんこ)と晩香蘆があります。
 両方とも国の重要文化財に指定されています。

青淵文庫(せいえんぶんこ)は、渋沢栄一が傘寿(80歳)となったお祝いと子爵になったお祝いを兼ねて贈呈された文庫です。

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大正14年に竣工しました。2階の書庫に収蔵する予定であった「論語」をはじめ多くの漢籍が関東大震災で焼失したため、震災後は、主に接客の場として使用されました。

青淵文庫という建物の名称は、栄一の雅号青淵(せいえん)から名付けられたものです。


晩香蘆は、渋沢の喜寿を祝して清水組(現清水建設)四代目当主、清水満之助が贈呈した建物です。晩香蘆は大正6年に竣工しました。木造平屋建て、屋根は赤色の桟瓦葺きとなっていて、西欧の山小屋を思わせる建物です。

お晩香蘆の名前の由来は渋沢自作の漢詩「菊花晩節香」にちなんだものとされています。

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 飛鳥山3つの博物館のうち最後に紹介するのは紙の博物館です。紙の博物館は、紙の歴史や文化を紹介しています。

紙には、和紙も洋紙もありますが、紙の博物館では、その両方が展示されています。

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 1階には近代製紙工程の展示がされています。そして、3階は和紙のコーナーとなっていて、和紙に関する情報が提供されています。(下写真)

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3階の和紙コーナーには、金唐革紙(きんからかわし)が展示されていて、その製作過程の展示もあり、非常に興味深いです。

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また、紙で作られた衣装、これを紙衣(かみこ)といいますが、実際に昭和62年の公演で中村扇雀が着用したものが展示されています。

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 こちらの博物館も一見の価値があると思います。

 ただし今年2019年の91日(日)から2020316日(月)まで創立70周年を迎えるにあたり、館内リニューアル工事が行なわれるため休館となります。こちらも早めに行かれるのが良いと思います。

赤印が北区飛鳥山博物館です。

青印が渋沢史料館です。

緑印が紙の博物館です。







by wheatbaku | 2019-07-16 08:30 | 新江戸百景めぐり
飛鳥山公園(新江戸百景めぐり⑪)

飛鳥山公園(新江戸百景めぐり⑪)

 新江戸百景めぐり、今日は、飛鳥山公園をご案内します。

 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)P52第11景に紹介されています。

 飛鳥山公園は、JR王子駅の西側駅前にあります。

 飛鳥山は、山手台地の末端にある丘で、王子駅から見ると、急な崖となっています。そのため、桜の季節に王子駅のホームから飛鳥山を見ると桜の壁があるように見えます。(下写真)

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飛鳥山は、この地の豪族豊島氏が鎌倉時代末期の元亨年間に紀州新宮の飛鳥明神を勧請したことから飛鳥山と呼ばれるようになりました

飛鳥山の名前の由来となった飛鳥明神がどこか調べてみたら、現在の和歌山県新宮市にある阿須賀神社のようです。阿須賀神社の裏山蓬莱山は別名飛鳥山と呼ばれているようですし、阿須賀神社の境内の案内板には『元享2年(1322)阿須賀権現が現在の東京北区飛鳥山に勧請される』と書かれてあるそうです。

この飛鳥明神は、寛永年間に王子権現造営のとき山上から移され合祀されたたと江戸名所図会に書かれています。ですから、現在の飛鳥山公園には飛鳥明神は鎮座していません。

合祀されたという王子神社は、王子という地名の由来となった由緒ある神社です。(下写真)

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もともと、元享2年(1322)にこの地の豪族豊島氏により熊野から若一王子(にゃくいちおうじ:王子権現)を勧請しお祀りしたのが始まりです。それ以来、それまで岸村と呼ばれていた当地が王子と呼ばれるようになりました。

江戸に入った徳川家康は、天正19年(1591)に200石の所領を与えて、江戸時代には、王子権現と呼ばれました。

その王子神社にもお参りして、飛鳥明神の合祀のことを訪ねたところ、神官の答えでは、戦災にあっていることもありはっきりしないけれど、現在の王子神社には合祀されてはいないということでした。

飛鳥山公園には、飛鳥山の由来を書いた「飛鳥山碑」があります。(下写真)

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元文2年(1737年)金輪寺住持が建立し、碑文は儒官成島年筑、篆額は尾張の医官山田宗純の書です。

大きな石碑の石材は、江戸城吹上庭園にあった紀州産の青石だそうです。

この飛鳥山碑は漢文で書いてあり、石の傷等も避けて刻まれていて、非常に難解で多くの人に読めませんでした。
そのため、

飛鳥山何と読んだか拝むなり

飛鳥山どなたの墓とべらぼうめ

この花を折るなだろうと石碑見る

などと川柳に詠まれています。

その難解な飛鳥山碑の全文が、江戸名所図会で読み下されています。

それを読むと、豊島氏が熊野の神様を祀ったことから王子と呼ばれるようになり、山が飛鳥山と呼ばれるようになり、川が音無川と呼ばれるようになったこと、将軍吉宗が、飛鳥山を王子権現に与えたこと。そして桜を植えさせ、大勢の人々に整備させたため、美しい土地となったことなどが書かれています。

この飛鳥山碑は、飛鳥山の名物であったため、いろいろな浮世絵に描かれています。下の浮世絵は歌川広重の「東都三十六景飛鳥山」ですが、飛鳥山碑が左手下段にしっかりと描かれています。

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飛鳥山碑に書かれているように、飛鳥山が桜の名所となったのは、吉宗が桜の木を植えさせて一般に開放したからです。

吉宗は享保5年(1720)に270本、翌享保6年には1000本を植えたとされています。

こうして、桜の名所となった飛鳥山を歌川広重も名所江戸百景のうちの「飛鳥山北の眺望」という絵を描いています。(下写真)

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これには飛鳥山碑は描かれていませんが、飛鳥山から北方面を見た絵で、大きく筑波山が描かれていて、桜の時期に飛鳥山で遊ぶ人々が描かれています。この絵を拡大して見ると飛鳥山の名物であった素焼きの皿を投げる土器(かわらけ)投げをする人も描かれています。



飛鳥山公園には、桜の賦の碑という石碑もあります。(下写真)

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これは、明治14年に、佐久間象山の書いた「桜の賦」を勝海舟が中心となって碑を建立したものです。

勝海舟は、佐久間象山の弟子であり、義理の兄(海舟の妹の順が佐久間象山の正室となっているため)です。

最後に、扇屋の話をしておきます。扇屋は慶安元年(1648)創業ということですので、創業以来350年以上経っています。

以前は料亭として営業をやっていましたが、現在は、料亭はやめて、王子駅前(北口徒歩2分)のお店で玉子焼きを販売しています。

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 下写真は、幕末・明治期の扇屋です。
 (写真は「長崎大学附属図書館所蔵」のものを借用させていただきました。)
 目の前の川が、音無川です。この写真の右側が飛鳥山側だそうで、左側が、王子稲荷側だそうです。昔の「扇屋」は飛鳥山側にありましたが、現在は、反対側に移っています。これは音無川の改修工事によるものだそうです。
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 なお、音無川、和歌山県本宮町を流れ、熊野本宮大社旧社地近くで熊野川に注ぐ熊野川の支流の名前が音無川ですので、それに由来するものと思われます。
 

赤印が飛鳥山碑です。

青印が桜の賦の碑です。

緑印が王子神社です。

ピンク印が扇屋です。








by wheatbaku | 2019-07-14 20:04 | 新江戸百景めぐり
名主の滝公園(新江戸百景めぐり⑩)

名主の滝公園(新江戸百景めぐり⑩)

 王子稲荷神社のすぐ近くに名主の滝公園があります。

 そこで今日は名主の滝公園についてご案内します。

 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では第85景としてP148で紹介されています。下写真は公園入口です。

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 名主の滝は、もとは、江戸時代の安政年間に王子村の名主畑野孫八が自分の屋敷に開いたのが始まりとされています。

名主の屋敷にある滝ということで「名主の滝」という名前がつけられました。

庭園として整備されたのは、明治の中頃で、垣内徳三郎という人の所有になってからだそうです。昭和13年には、株式会社精養軒が買収し、食堂やプールなどが作られ公開され続けてきましたが、昭和20年4月に空襲により焼失してしまいました。

昭和35年に「都立名主の滝公園」として再び公開されるようになりました。

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王子近辺には滝が多く、「王子七滝」と呼ばれる7つの滝がありました。

しかし、そのほとんどが姿を消して、現在は「名主の滝」だけが唯一残されています。

 「名主の滝公園」には、男滝(おだき)、女滝(めだき)・独鈷の滝(どっこのたき)・湧玉の滝(ゆうぎょくのたき)の4つの滝があります。

 この中で、水が落下しているのは、男滝だけです。それも午前10時から午後4時まで間だけ滝の水が流れています。

こうなっているのは、ポンプでくみ上げた水を落下させる仕組みとなっていて、自然の水が流れおちているわけではないからです。とはいいものの、男滝は、落差4メートルもありそうですので、見ごたえがある滝です。(下写真)

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しかも、水が流れ落ちている滝壺近くにいくと水しぶきが飛んで、気温の高い時は、非常に爽快です。

男滝以外の3つの滝は、水が流れていませんので、枯滝の状態となっています。

名主の滝公園には、ケヤキやシイなどの外、ヤマモミジが植えられていて、昼間でもうっそうとした雰囲気がする公園です。また、モミジが黄葉する時期は、大変見事だそうです。

訪ねた時には、男滝から流れ出している小さな流れに鴨のつがいが楽しんでいました。とても23区内とは思えない風情です。(下写真)

 

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王子近辺に、「王子七滝」と呼ばれほど滝が多かったのは、王子が武蔵野台地の突端の崖線にあるためです。

「王子七滝」と呼ばれた滝は、名主の滝、権現滝、不動の滝、弁天の滝、稲荷の滝、大工の滝、見晴らしの滝の7つの滝です。

現在、ほぼ元の姿をとどめているのは「名主の滝」です。

しかし、それ以外の滝も、かすかに、その名残りが残されています。次にそれを順にご紹介します。

権現の滝

権現の滝は、王子神社の東側周辺にあった滝だと思われます。

権現というのは、江戸時代には、王子神社が王子権現と呼ばれていたため、王子権現にある滝という意味だと考えられます。

現在、王子稲荷の東側の石神井川の旧流路に「音無親水公園」が整備されています。

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石神井川は、昭和30年代から始まった改修工事によって、飛鳥山公園の下に2本のトンネルが掘られ、飛鳥山の下を直線的に流れています。この工事により、残された旧流路は、石神井川の水は一切流れなくなりましたが、音無親水公園が整備され、昔の渓流が復活しています。

その音無親水公園の一画に権現の滝を模した滝が整備されています。(下写真)

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訪ねた時には、水が流れていませんでしたので、北区役所に電話したところ、夏場の暑い時期だけ水を流しているということでした。

不動の滝

不動の滝は、正受院本堂裏の石神井川の岸にありました。
 正受院の参道に、次のように書いた北区教育委員会が設置した説明板があります。(下写真)

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 室町時代、大和国に学仙坊という不動尊の祈祷を修行する僧侶がいた。ある時、霊夢を見て東国の滝野川の地を訪れ、庵をむすんで正受院を草創した。この年の秋、石神井川が増水したが、水の引いた川から不動の霊像をすくいあげた。学仙坊は、これを不動尊修法の感得した証と喜び、滝の傍に安置したと伝えられます。不動の滝は、滝の傍に不動尊が祀られていたことから付けられた名称です。

現在も、正受院に不動堂(下写真)がありますが、石神井川が改修され、岸辺がすっかりコンクリートで補強されているため、不動の滝の面影はありません。

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江戸時代の不動の滝をイメージするには、歌川広重の名所江戸百景の「王子不動之滝」が一番だと思います。

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広重が描いた不動の滝はすごい勢いで水が落ちています。

「この滝は不動明王が持っている剣をイメージして描いたのだろう」という説があるそうですが、その説の通りだと思います。

弁天の滝

正受院から石神井川に沿って西に向かうと間もなく、金剛寺が見えてきます。その金剛寺の先が、音無もみじ緑地となっています。もともとこの辺りは、石神井川が蛇行して流れていた場所ですが、石神井川の改修工事の際に緑地公園にしたもののようです。(下写真)

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北区の説明板によると、「現在都営住宅が建っている付近の崖に滝があり、弁天の滝と呼ばれていました。」と書いてあります。

下写真が音無もみじ緑地を上流側から撮った写真ですが、写真の右手都営住宅がありますので、写真の右手の現在はコンクリート壁となっている辺りもしくは音無もみじ緑地の土手付近に、弁天の滝があったものと思います。

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弁天の滝は、歌川広重が描いた名所江戸百景「王子滝の川」にも描かれています。(下写真)

 絵の右手手前の滝が弁天の滝です。赤い鳥居が岩屋弁天(松橋弁天ともいう)です。
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現在、岩屋弁天は、金剛寺の境内の弁天堂に鎮座しています。(下写真が弁天堂) 

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赤印が名主の滝公園です。 
青が音無親水公園です。 
緑印が正受院です。 
ピンクが金剛寺です。 
オレンジが音無もみじ緑地です。





by wheatbaku | 2019-07-11 21:42 | 新江戸百景めぐり
装束稲荷神社(新江戸百景めぐり⑨)

装束稲荷神社(新江戸百景めぐり⑨)

 前回、王子稲荷神社を案内しましたが、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)の王子稲荷神社の説明の中では、装束稲荷神社についてもかなり解説されていますので、今日は、装束稲荷神社のご案内をします。

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 「装束稲荷神社」は、王子稲荷神社とは、京浜東北線を間に挟んだ北側にあります。 

 王子稲荷神社から行くには、「稲荷前ガード」という歩行者と自転車だけが通行できる小さなトンネルが利用できますので、この道を行けば5分ほどで行けます。

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王子駅から直接行く場合は北口からですと徒歩で5分で行けます。

北本通りの一本北側の通りに鎮座していますので見落とさないようにしてください。

 装束稲荷神社は、装束榎の根元に祀られた小さな祠が始まりです。

 装束榎は、大晦日にここで関東一円の狐が衣装と整えたことで江戸時代から有名な榎です。

 「江戸名所図会」には、下図のような挿絵が載っています。

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 そして、見出しには『装束畠 衣裳榎(しょうぞくばたけ いしょうえのき)』とあり、挿絵には次のように書かれています。

 『毎歳十二月晦日の夜、諸方の狐おびただしくここに集まり来たること、恒例にして今に然(しか)り、その灯せる火影によりて土民明年の豊凶を卜(うらなう)とぞ、このこと宵にあり、また暁にありて、時刻定まることなし』。

 そして、この装束榎を有名にしているのが、歌川広重の名所江戸百景の「王子装束ゑの木大晦日の狐火」です。

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 この浮世絵を見た方は多いと思います。

 この装束榎の根元に祀られたのが装束稲荷です。

 装束稲荷神社の説明板には次のように書かれています。下写真中央にあるのが説明板です。

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『今から約千年の昔この附近一帯は野原や田畑ばかりでその中に榎の大木があり、そこに社を建てて王子稲荷神社の摂社として祭られたのがこの装束稲荷であります。

 この社名の興りとして今に伝えられるところによれば毎年十二月の晦日の夜関東八ヶ国の稲荷のお使いがこの村に集まりここで装束を整えて関東総司の王子稲荷神社にお参りするのが例になっていて当時の農民はその行列の時に燃える狐火の多少によって翌年の作物の豊凶を占ったと語り伝えられています。」

 これにちなんで、王子では、毎年大晦日に「王子狐の行列」が行われています。大晦日まで時間はかなりありますが、もうパンフレットが置いてありました。

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「王子 狐の行列」のパンフレットには、次のように書かれています。
 「この浮世絵をもとに、王子の街の人たちが数十年前から「かがり火年越し」や「狐ばやし」で事起こしをし続けています。そして、近年、大晦日から新年を迎える伝承行事として「狐の行列」が誕生しました。

 除夜の鐘とともに、夜空の下、人が狐に化けて紙の裃やきつね面で装束を整えちょうちんの灯をかざし、関東総司の王子稲荷へと行列します。

 新年を迎える人たちにふるさとの心を伝え残す行事となっています」

 江戸時代の装束榎は、現在の装束稲荷神社近くの現在の北本通り沿いにあったそうです。
 その装束榎は、明治中期には枯れて、それを惜しんだ地元の齋藤さんという方が、「装束榎」と刻まれた石碑を、枯れた榎の根元に建てました。

 その後、その石碑は、お稲荷さんの祠とともに一時期別の場所に移転し、その後、現在地に、装束稲荷神社が鎮座され、その境内に移されたそうです。 下写真が2代目(?)の装束榎です。 

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最後に4代目歌川広重こと菊池貴一郎が書いた「絵本江戸風俗往来」に「王子の狐火」について詳しく書かれています。

 菊池貴一郎は、若い頃、王子の狐火を見に行ったことがあり、その実見体験を書いていますので、紹介しておきます。 

 王子稲荷神社の門前なる畑中に、いとも大きな榎あり。これを装束榎と称したり。

 年々12月大晦日の深夜、数千の狐この榎の下に集まりて榎を飛び越すとかや。とぶこと高きに随いて狐の官位の高下のつくとぞ。故にこの榎を装束榎といいける。年々大晦日の夜は必ずこの辺に数点の狐火むらがりて上下せり。

 己れ蘆の葉若年の頃、二とせばかり見に行きしことあり。実に聞く所に違わず数百と思うばかりの狐火見たり。

 (中略)

 かの狐火は見ゆるかとすれば失せ、失せるかとすればまた光り、身の毛もよだつばかりなり。

 勿論空高く東天紅の映ずるに従い、夜明けてはその跡もとどめざるよしなり。


 赤印が装束稲荷神社です。

 青印が稲荷前ガードです。
 緑印が王子稲荷神社です。

 




by wheatbaku | 2019-07-08 13:04 | 新江戸百景めぐり
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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