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縁切榎 (新江戸百景めぐり㉘)
縁切榎 (新江戸百景めぐり㉘)


 今日からは、板橋区内の新江戸百景をご案内します。「新江戸百景めぐり」(小学館刊)では、縁切榎と志村一里塚が紹介されています。

 今日は、縁切榎を案内します。『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では157ページの第92景で紹介されています。

 縁切榎は、江戸時代から板橋宿の名所として名高い榎です。都営地下鉄三田線板橋本町駅A1出口から5分、板橋区役所前駅A1出口からは15分の旧中山道の東脇にあります。(下写真が縁切榎です。)

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縁切榎にある板橋区教育委員会の説明板によれば、江戸時代には、この場所の道をはさんだ向かい側(西側)に旗本近藤登之助の抱屋敷がありました。その垣根の際には榎と槻の古木があり、そのうちの榎がいつの頃からか縁切榎と呼ばれるようになったとされています。

嫁入りの際には、縁が短くなることをおそれ、縁切榎の下を通らなかったといいます。

京都から将軍家に輿入れする姫君が江戸に向かう際にはほとんど中山道を利用しましたが、その姫君も縁切榎は避けたと言われています。

徳川家茂に嫁ぐため江戸に下向した和宮もご他聞にもれず、縁切榎を避けたとされています。

板橋区の説明板には、「板橋宿中宿の名主であった飯田侃家の古文書によると、文久元年(1861)の和宮下向の際には、五十宮などの姫君下向の例にならい、榎をさけるための迂回路がつくられています。そのルートは、中山道が現在の環状七号線と交差する辺りから練馬道(富士見街道)、日曜寺門前、愛染通りを経て、板橋宿上宿へ至る約一キロメートルの道のりでした。」と書かれています。。(下写真は旧中山道の西側から撮った縁切榎です)

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縁切榎は、庶民の間では、悪縁は切ってくれるが良縁は結んでくれるというので信仰の対象となっていきました。そして、男女の悪縁を切りたい時や断酒を願う時には、この榎の樹皮を削ぎとり煎じ、ひそかに飲ませるとその願いが成就するとされています。

根岸鎮衛の「耳袋」巻之五に「板橋辺縁きり榎の事」として、縁を切りたい妻が榎の樹皮を削って飲ませる話が載っています。

この榎が縁切榎と呼ばれるようになった由来については、もともとは、近藤登之助の屋敷には、榎と槻(つき:ケヤキの木)があり、そして「エノキ」と「ツキ」を続けて呼んで「エンツキ」と呼ばれるようになり、それが「縁つき」となり「縁が尽きる」ことから「縁が切きれる」と信じられるようになり「縁切榎」と呼ばれるようになったという説があります。

また、小日向水道端のお寺の住職であった十方庵敬順が書いた江戸市中の紀行文「遊歴雑記」では、縁切榎と呼ばれるようになったのは寛保の頃で、京から下向して将軍家に輿入れした波の宮(比の宮のことと思われるが、それであれば9代将軍家重の正室)と磯の宮(五十宮のことと思われるが、それであれば10代将軍家治の正室)が、それぞれ結婚後まもなく亡くなったため、誰いうとなく縁切榎と呼んだのが、世間に広まったと書いています。

なお、江戸名所図会には、縁切榎は取り上げられていません。

江戸時代の縁切榎は、明治時代の板橋宿大火で焼失し、2代目が植えられました。その2代目も昭和になって、周辺の再開発に伴って伐採され、現在の縁切榎は3代目です。

ただ、2代目の縁切榎の一部はモルタルで固められ、一部を露出させた形で境内に安置されています。(下写真)

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縁切榎から板橋区役所駅寄りの数分のところに石神井川が流れていて、そこに橋が架かっています。この橋が、板橋という地名の由来のもととなった「板橋」です。現在は昭和47年に行われた石神井川の改修工事の際に架けられた鉄筋コンクリート製の橋ですが、江戸時代の板橋は、太鼓状の木製の橋で、長さは9間(16.2メートル)、幅は3間(5.4メートル)あったそうです。かなり立派な橋だったようです。

下写真は、南側から撮った板橋です。右手に板橋についての説明板が設置されています。

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板橋宿は、江戸のほうか、平尾、仲宿、上宿という三つの町からなりたっています。

和宮が下向した際に宿泊したのが、板橋の仲宿の脇本陣であった飯田宇兵衞家でした。

飯田宇兵衞家は、飯田家の総本家であり、宝永元年(1704)に本陣を飯田新左衛門家に譲っていますが、江戸時代を通じて名主・問屋・脇本陣を努めました。 

その屋敷跡が「板橋宿中宿名主飯田家跡」として残されています。下写真は、屋敷跡に建つ板橋区教育委員会の説明板です。

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江戸時代を通じ、名主であった飯田宇兵衛家と本陣家の飯田新左衛門家は、お互いに養子縁組を行うなど、その機能を補完し合いながら、中山道板橋宿の中心である中宿の管理と宿駅機能の維持・運営にあたってきました。



その飯田新左衛門家は本陣を勤めていましたが、その本陣跡が「板橋宿本陣飯田新左衛門家」として残されています。(下写真) 説明板の後ろの建物の1階がスーパーの「ライフ」です。本陣は、このライフがある場所にあったようです。

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【令和元年9月1日追記】
 板橋宿本陣の説明板の向かい側に、高野長英ゆかりの地(旧水村玄洞宅)の説明板があります。下写真の左手にあります。
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 蛮社の獄により、永牢の刑となった蘭学者高野長英は、弘化元年6月晦日の小伝馬町牢屋敷の火災の際に切り放しされましたが、そのまま牢屋敷に戻らず逃亡しました。
 逃亡1ケ月後の7月下旬の或る夜、板橋宿に住む彼の門人である医師水村玄洞 宅を訪れました。 水村玄洞は身の危険を知りながら一両日高野長英を奥座敷にかくまい、7月晦日の深夜に北足立郡尾間木村(現在のさいたま市)に住む実兄の医師高野隆仙に向けて高野長英を逃亡させています。
 上写真は、本陣跡の説明板の位置から撮った写真ですが、本陣の目の前に、御尋ね者となった高野長英が潜んでいたということになります。その大胆さに驚嘆しました。
 このブログを書き始めたころ、高野長英ゆかりの地について書きました。その時に、板橋を訪ねていますが、そのころと高野長英ゆかりの地(旧水村玄洞宅)が変わっているので驚きました。
 以前書いた記事はこちらです。
水村玄洞宅跡 (高野長英の史跡 ③)


赤印が縁切榎です。青印が板橋です。

緑印が「板橋宿中宿名主飯田家跡」の説明板です。

ピンク印が「板橋宿本陣飯田新左衛門家」の説明板です。
 紫印が「高野長英ゆかりの地(旧水村玄洞宅)」の説明板です。










by wheatbaku | 2019-08-31 18:02 | 新江戸百景めぐり
天王寺(新江戸百景めぐり㉗)

天王寺(新江戸百景めぐり㉗)

 今日は、谷中の天王寺をご案内します。「新江戸百景めぐり」(小学館刊)では110ページの第54景で紹介されています。

 天王寺は、JR鶯谷駅南口から徒歩2分の至近距離にあります。下写真は、昭和57年に建立された本堂です。

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谷中の天王寺は、江戸時代初期には日蓮宗のお寺で長耀山感応寺といいました。

鎌倉時代後期に日暮里の土豪関長耀が、当地に立ち寄った日蓮聖人に帰依して草庵を作り、日蓮の弟子日源が日蓮聖人自らが彫った像を祀って長耀山感応寺と称したのが始まりと伝えられています。

関長耀は、現在の道灌山付近に屋敷をもっていて、出家して道閑となのったため、道灌山という地名は関道閑に由来するという説があるということは前回紹介しました。

感応寺は、その後も日蓮宗のお寺として長く栄えましたが、元禄11年(1698)、幕府から改宗を命じられました。

幕府は、法華信者以外からは布施を受けず、また他宗派の僧には布施を施さないという日蓮宗の不受不施派を弾圧しました。感応寺も不受不施派に属していたため幕府より改宗を命ぜられたのでした。これに抵抗した当時の住職日遼は八丈島へ遠島になりました。

そして、日蓮聖人像はじめ日蓮宗関係の品々もそれぞれ近隣の瑞輪寺等の日蓮宗寺院に移管され、感応寺は廃寺の危機を迎えました。

しかし、東叡山寛永寺の住職である公弁法親王が、由緒ある感応寺が廃寺となるのを惜しみ、天台宗寺院として存続することを幕府にお願いして認められました。

こうして感応寺は天台宗となりました。天台宗に改宗してからの初代住職に千駄木大保福寺の慶運大僧正(のちの長野善光寺中興)を迎え、またご本尊も、比叡山円乗院より伝教大師が刻んだといわれる毘沙門天立像を移して新しいご本尊としました。

天王寺のご本尊は明治になってから、阿弥陀如来坐像にかわりましたが、比叡山から移された毘沙門天は、境内の毘沙門堂にお祀りされています。これが現在も谷中七福神の毘沙門天として篤い信仰を集めている毘沙門天です。(下写真は毘沙門堂です。)

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なお、昭和32年に五重塔が焼失した際に、五重塔の初重は完全には焼失せず、昭和36年に五重塔の残った部材でもって、現在の毘沙門堂が建立されたそうです。



感応寺が、現在の名称である護国山天王寺と改称したのは、天保4年(1833)のことです。

これには、感応寺の日蓮宗への帰宗運動が影響しています。

 感応寺の日蓮宗への帰宗を願った池上本門寺住職日萬の願いを容れる形で、11代将軍徳川家斉は、感応寺の日蓮宗への改宗させることにしました。
 しかし、当時の寛永寺の住職輪王寺宮舜仁法親王は、この考えに強く反対しました。その結果感応寺の日蓮宗への改宗は中止となりましたが、長耀山感応寺から護国山天王寺へと寺号を改称することになり、感応寺という寺号だけ日蓮宗に戻されました。

そして、雑司ヶ谷鼠山に新たに寺院を建立し鼠山感応寺と称することになり、この感応寺が日蓮宗となりました。この鼠山感応寺が、のちに有名な感応寺事件を起こすことになりますが、ここでは、感応寺事件については触れないこととします。

天王寺の富くじ興業

天台宗に改宗したため、日蓮信徒が去り、お寺の経営が厳しくなりました。そこで、お寺の領地を増加するようにお願いを出すも、認められませんでした。 

その代わりとして「富くじ興行」の許可を得ることができました。

感応寺の富くじは、湯島天神、目黒不動とともに江戸三大富くじに数えられ、大いに繁盛しました。これにより感応寺の財政は潤い、これによって諸堂の修造・五重塔の再建が行われたとも伝えられているそうです。

天王寺大仏

本堂の西南に大仏様が鎮座しています。(下写真)

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この大仏様は、元禄3年(1690)に鋳造されたものです。天王寺が日蓮宗から天台宗に改宗する前の住職・日遼が鋳造したものです。

この大仏様、「丈六仏」呼ばれています。

「丈六仏」という言葉は仏像用語でよく使われます。

「丈六仏」というのは、1丈6尺(およそ4メートル85センチ)の高さを持つ仏像をいいます。この大仏様は、とても5メートルあるようには見えませんが、「丈六仏」と呼ばれています。

実は、坐像の場合は、同じ身長の立像の二分の一の高さ、8尺(約2.4メートル)の坐像が丈六仏です。

この大仏の大きさは髪際高241センチメートル(像高296センチメートル)あるので丈六仏と呼ばれています。

天王寺五重塔跡

天王寺の山門を出て南に歩いていくと天王寺の五重塔跡があります。これが幸田露伴が書いた小説『五重塔』のモデルにもなった五重塔の跡です。(下写真)

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最初に五重塔が完成したのは、寛永21年(正保元年・1644)です。その塔が明和9年(1771)の目黒の大円寺から出火した大火いわゆる「目黒行人坂の火事」で焼失してしまい、寛政3年(1791)に近江国高島郡の棟梁八田清兵衛ら48人によって再建されました。

再建された五重塔は、総ケヤキ造りで高さ34.2メートル、寛永寺の五重塔より2メートルほど高かったようです。

関東で一番の高さを誇った五重塔で、谷中のランドマークでした。安政2年の安政江戸地震でも倒壊することはありませんでした。

明治の文豪幸田露伴は、五重塔が望める自宅から、朝夕、五重塔を見て、小説「五重塔」を書き上げました。

五重塔は、関東大震災や昭和20年の空襲もくぐり抜けましたが、昭和32年7月6日、洋服職人長部辰五郎・山口和枝(「江戸の再発見」稲垣史生著より)の男女二人が心中するために放火し惜しくも焼失してしまいました。

笠森お仙

天王寺の南に功徳林寺があります。功徳林寺は浄土宗寺のお寺です。明治7年に開設された谷中墓地では法要をできない不便さがあったため、明治18年に許可を得たのち、明治26年に建物が建立されました。

この境内に笠森稲荷が鎮座しています。(下写真)

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功徳林寺がある場所は、江戸時代は、天王寺の境内で、塔頭の福泉院があり、そこに笠森稲荷社がありました。

この笠森稲荷前にあった水茶屋の鍵屋(かぎや) の看板娘で、江戸の三美人の一人が有名な笠森お仙です。

明和三美人は、浅草観音裏の楊枝(ようじ)店の柳屋お藤、浅草二十軒茶屋の蔦屋(つたや)お芳、そして笠森お仙をいいます。なかでもお仙は人気が高く、初期錦絵の美人画モデルとして一枚絵の錦絵になったほか、歌舞伎にも取り上げられました。

明治になって、福泉院は廃寺となり、笠森稲荷は寛永寺の養寿院に移っています。そして明治26年に建物が建立された功徳林寺の笠森稲荷社は明治41.2年の頃建てられたもので、江戸時代の笠森稲荷とは深い因縁はないと「下谷区史」には書かれています。

とはいっても、有名な笠森お仙を思い起こすにはうってつけなお稲荷さんです。

赤印が天王寺です。
青印が天王寺五重塔跡です。
緑印が功徳林寺です。






by wheatbaku | 2019-08-28 19:20 | 新江戸百景めぐり
日暮里(新江戸百景めぐり㉖)

日暮里(新江戸百景めぐり㉖)

 昨日は、獏塾友の会の勉強会があり参加しました。勉強会では、今年のお題「新江戸百景めぐり」について、既に1級に合格した人3人が講師となって解説してくれました。

 講師は、それぞれの担当分野を深く研究した膨大な資料に基づいて丁寧な説明がしてくれましたので、大変勉強になりました。講師の皆さん、そして参加された皆さん、お疲れ様でした。(下写真は講義の様子)

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 勉強会は、午後からでしたので、会場に向かう途中、西日暮里で途中下車して、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)に載っている日暮里周辺を訪ねてきました。

 そこで、今日は、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)54ページの第12景に紹介されている日暮里をご案内します。少し長くなりますがご容赦ください。

道潅山

 西日暮里の駅から徒歩2分の高台に、西日暮里公園があります。そこに道灌山の説明板が設置されています。

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 道灌山は、 西日暮里4丁目付近の台地で、道灌山の名前の由来には二つの説があり、一つは鎌倉時代の土豪関道閑の屋敷があったという説であり、もう一つは、江戸城を築いた太田道灌の出城がこの地にあったところからついたという説です。

 この二つの説については、江戸名所図会にも書いてあります。ただし、関道閑ついては、関道観坊と書いていて、初めは関小次郎長耀と名のっていたが、後に出家して道観坊となのり、谷中感応寺(現在の天王寺)を開いたと書いています。

 道灌山はかなりの高台で、西日暮里の駅前の切通しを見ると、それがよくわかります。

 下写真は西日暮里駅前からみた道灌山です。前の通りを道灌山通りといいます。

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 道灌山は、江戸時代には眺めがよく、筑波や日光の連山などを望むことができました。当時は薬草が豊富で、年中採取者が訪れてきたといいます。また「虫聴き」の名所としても知られ、秋になると文人たちが訪れ、月を見ながら松虫や鈴虫の音に聴き入りました。道灌山の虫聴きについては、浮世絵にも描かられていて、下の絵は歌川広重の「東都名所道潅山虫聞之図」です。

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諏方神社
 西日暮里公園の南側には、諏方神社があります。

諏方神社は、創立は鎌倉時代の初めの元久2年(1205)豊島経康が信濃国の諏訪大社から御神体を勧請したのが始まりであるといわれています。

文安年間(14441499)太田道灌が神領を寄進し、のち江戸時代徳川家光が5石の朱印を与え、寬永12年(1635)社殿を現在の地に遷座しました。

なお「諏訪」とせず、「諏方」と使っているのは古来の表記であり、かつては神社名には、この方が多かったようです。現在は全国の諏訪神社の大部分は「諏訪」と表記し「諏方」と書くのは数社とのことです。

 日暮里の諏方神社は、所有する元禄時代に細井広沢が書いた軸に、「諏方大明神」と記されていることから、「諏方神社」の社名を続けています。

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 諏方神社は、日暮里周辺から谷中周辺にかけての総鎮守として人々の崇敬を受け、現在も地域の人々に広く信仰されています。例年8月の末に行われる例大祭では、境内及び周辺道路に露店が立ち並び、多くの人々で賑わうと言われていますが、昨日(8月25日)は、ちょうど例大祭にあたり、境内は大勢の人がお参りしていましたし、境内から門前まで屋台が連なっていて、大変にぎやかでした。(上写真は社殿にお参りする人たち、下写真は鳥居前の賑わい)

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 諏方神社の周辺は、諏訪の台と呼ばれていました。ここを描いた浮世絵に歌川広重の「名所江戸百景 日暮里諏訪の台」があります。

 諏訪の台は東北方向に視界が開けており、この絵の様に日暮里の家並み、さらに遠景には左に日光連山、右に筑波山を望むことができました。

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日暮里
 日暮里は、江戸時代は、新堀村と表記していました。幕末の切絵図にも「新堀村」という表記があります。江戸名所図会には、後北条氏の「北条分限帳」には「屋中新堀」の地名があり、日暮里と書くようになったのは寛延の頃と言われていると書いてあります。

江戸時代、人々が日の暮れるのも忘れて四季おりおりの景色を楽しんだところから、ひぐらしの里と呼ばれ、「新堀」に「日暮里」の文字をあてたと言われています。

ひぐらしの里では、寺社が競って庭園を造り、さながら台地全体が一大庭園のようで、それは次の十返舎一九の和歌にもしのばれます。

 桃さくら 鯛より酒の さかなには みどころ多き 日くらしの里  

 

 歌川広重も日暮里を描いています。下の絵は名所江戸百景の「日暮里寺院の林泉」です。

 諏訪神社の西側の崖下一帯に青雲寺、修性院、妙隆寺という3つのお寺があって、これらは、花の寺とも呼ばれましたが、「日暮里寺院の林泉」は、修性院の庭を中心に描いた絵だと言われています。

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修性院(花見寺)
 修性院は、現在も残っていて、谷中七福神の布袋様が祀られています。この布袋様は「日ぐらしの布袋」ともよばれていて大変有名だったそうです。

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【8月28日追記】
青雲寺
 

 花見寺と呼ばれた3ヶ寺のうち、修性院のほか青雲寺も日暮里に残っています。

青雲寺には、曲亭馬琴の筆塚の碑や硯塚の碑などがあります。また、谷中七福神の一つである恵比寿神が祀られていることで有名です。

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富士見坂 
 上の絵の中央にある坂が富士見坂であると書いたものもあります。富士見坂は現在もあります。(下写真)。ここからは、数年前まで富士山が見えましたが、最近は、ビルが建ってしまったため、富士山は見えなくなってしまいました。
 下写真の正面に富士山が昔は見えたようです。

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 浄光寺(雪見寺)
 日暮里には、花見寺のほか、雪見寺や月見寺と呼ばれるお寺もあります。

 諏方神社の南にある浄光寺が雪見寺と呼ばれました。

浄光寺は真言宗豊山派の寺院で、江戸時代は、諏方神社の別当寺でした。

 浄光寺は、諏訪台の高台に位置し、東側の展望が開け眺望がすばらしく、特に雪見に適することから、江戸時代は雪見寺とも呼ばれました。

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 本行寺(月見寺)
 日暮里駅近くの本行寺は、月見寺と呼ばれました。

 本行寺は、日蓮宗のお寺で、大永6年(1526)太田道灌の孫の太田資高が、父太田資康の菩提を弔うため平河口に建立したと伝えられています。

その後、神田、谷中と移り、宝永6年(1709)現在地に移転しました。

この地は景勝地で観月の地として有名だったので通称「月見寺」ともよばれていました。(下写真は本堂です)

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本行寺の20世住職の日桓上人(俳号一瓢)は多くの俳人たちと交遊があり、小林一茶もしばしば当寺を訪れたそうです。

本堂手前には一茶の「陽炎や 道灌どのの 物見塚」という句碑があります。

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本行寺には、幕末に徳川慶喜の側近として活躍した永井尚志(ながいなおゆき)の墓もあります。

永井尚志は、三河奥殿藩主松平乗尹(まつだいらのりただ)の子として生まれました。

旗本永井尚徳の養子となり、長崎海軍伝習所総督、初代外国奉行、初代軍艦奉行を歴任しましたが、安政の大獄で免職となりました。のちに復活して京都西町奉行を勤めたあと、大目付、若年寄にまでなりました。箱館戦争に参加して敗北し、謹慎の後、明治新政府に出仕し、開拓使御用掛・元老院権大書記官などを務め、激動の時代に活躍しました。明治247月、76歳で没しました。

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赤印が西日暮里公園です。
青印がが諏方神社です。
緑印が浄光寺です。
ピンク印が富士見坂です。
紫印が修性院です。
オレンジが本行寺です。本行寺は日暮里駅が最寄駅です。






by wheatbaku | 2019-08-26 20:31 | 新江戸百景めぐり
根津神社(新江戸百景めぐり㉕)追記

根津神社(新江戸百景めぐり㉕)追記

 今日は、根津神社の祭礼について追記します。

 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)にも書いてありますが、根津神社の例大祭は9月21日に執り行われます。下写真は根津神社の楼門です。

 

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 その例大祭は、江戸時代は「宝永祭」と呼ばれ、天下祭の一つに数えられたこともありました。天下祭というのは、祭礼行列が江戸城内に入ることができ、将軍の上覧があるお祭りをいいました。

 最初に将軍の上覧があった祭礼は山王権現(現在の日枝神社)の山王祭で、次いで神田明神の神田祭が天下祭となりました。
 そして、正徳4年に行なわれた根津神社の祭礼が一度だけ天下祭とされました。下写真は根津神社の社殿です。

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 宝永祭が1度だけ天下祭とされ、それ以降継続されなかったのは、根津神社を産土神としていた将軍家宣と家継が短期間のうちに死去したからです。

 宝永6年(1709)に徳川家宣が6代将軍に就任しました。しかし、将軍就任して3年後の正徳2年(1712)10月14日に家宣が死去していました。その跡は、家宣の子供の徳川家継が継ぎ、7代将軍となりました。

 翌年正徳3年に町触が出され、「山王権現を巳年、根津権現を午年、神田明神を未年とし、以後3年交代で祭礼を行う」とされました。

その町触によって、午年であった正徳4年の9月22日に、根津神社の祭礼がおこなれました。本来は9月21日ですが、21日に雨が降ったため翌日に延期されました。

この祭礼は盛大に行われ、3基の神輿と江戸各町から合計50台の山車が出たと言われています。この時の神輿は現在も残っていて、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)に記載されている神輿です。

しかし、正徳6年4月30日に、家継が死去してしまいました。そのため、宝永祭も一般の祭りと同格となってしまいます。

 そうして宝永祭は一度だけ天下祭となったのです。

『東都歳事記』には、根津神社の祭礼について次のように書いています。

 「世に宝永祭といふ。宝永の頃まで御庭祭とて行ひしが、同三年丙戌当社御造営あり。明る4年亥9月21日駒込片町より祭りを出し、これより隔年になり、正徳2年に至り官より命ぜられ、山王祭礼の格にならひて、同4年9月江戸町々より始て祭を渡し、出しねり物に美麗を尽くせしが其後行れず。」

 また、『武江年表』には、「21日なりしが、雨天成し故、今日に延たり。今年にはじまり、一年にして止たり。番数50番、町数154丁なり」と書かれていて、ともに1回だけ行われたと書いてあります。 




by wheatbaku | 2019-08-24 15:22 | 新江戸百景めぐり
根津神社(新江戸百景めぐり㉕)

根津神社(新江戸百景めぐり㉕)

新江戸百景めぐり、今日は根津神社をご案内します。

『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では113ページの第58景で紹介されています。 

 根津神社は、東京メトロ根津駅 出口より、歩いて5分のところにあります。

 また、「千駄木」駅1番出口からも5分の距離にあります。

 根津神社は、神社の御由緒では、千九百年余の昔、日本武尊が千駄木の地に創祀したと伝えられていて、文明年間に太田道灌が社殿を奉建したと書かれている歴史の古い神社です。(下写真は大鳥居)

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 江戸時代には、現在根津神社がある場所には、3代将軍家光の三男であった徳川綱重の山手屋敷と呼ばれる屋敷がありました。そして、この屋敷で徳川綱豊(のちの6代将軍家宣)が生まれました。

5代将軍綱吉は、子供にめぐまれませんでした。そのため、宝永元年(1704)12月5日に徳川綱豊が綱吉の養子となり世継ぎとなりました。そして、12月9日にそれまでの綱豊から家宣に改名しました。

根津神社は、家宣の父綱重の屋敷のあった場所に、家宣が世子となった後の宝永3年(1706)に5代将軍綱吉が建立した神社です。

根津神社は、元々現在の場所より北によった「元根津」と呼ばれる場所つまり団子坂の坂途中にある森鷗外記念館の少し北側にありました。

それを綱吉が移転させ、壮大な社殿を建立したのです。(下写真は、正面からみた楼門)

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 斎藤月岑(げっしん)が書いた江戸名所図会には、次のように千駄木の旧社地(元根津)から遷座した神社であると書かれています。

『上野より5町ばかり隔てて乾(北西)の方にあり。当社境内、始めは甲府公(徳川綱重)御館の地なりしが、根津権現は大樹(徳川家宣)御産土神(うぶすな)にて、御宮参りまでありけるゆえ、のちに右の御館の地を賜り、宝永年中新たに当社を御造営ありて結構賜る。随身門に掛くる「根津大権現」の額は、大明院宮公弁法親王の真蹟なり。旧地は千駄木坂の上、元根津といへるところにあり。』

宝永2年(1705)、5代将軍綱吉は兄綱重の子である甲府宰相綱豊(のちの6代将軍家宣)を養嗣子に定めると、氏神根津神社にその屋敷地を献納して、世に天下普請と言われる大造営を始めました。

 この本殿は、宝永3年(1706)完成しましたが、総漆塗りの華麗な権現造建築で江戸の神社建築としては最大の規模を誇る大きな建物です。(下写真は正面から見た社殿)

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根津神社は宝永3年建立以来、幸いな事に火災にあわずに、現在まで、その姿を残しています。

そのため、本殿、幣殿、拝殿、銅燈籠、唐門、西門、透塀、楼門が重要文化財に指定されています。

 境内に入って、まず目に入ってくるのが、楼門です。(下写真は左手前から写したもの)

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楼門は、昭和31年に重要文化財に指定されています。

 楼門は、三間一戸楼門、入母屋造、桟瓦葺です。

正面右側の随身は水戸光圀公がモデルと伝えられています。(下写真)

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唐門は、楼門を少し進んだ先にあり、銅瓦葺で、昭和6年に重要文化財に指定されています。(下写真)

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社殿は、本殿、幣殿、拝殿と続く権現造りで、拝殿は、桁行正面七間、入母屋造、正面に千鳥破風が付いていて、銅瓦葺です。昭和6年に重要文化財に指定されています。(下写真は左手前からみた社殿)

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 西門と透塀は、昭和31年に重要文化財に指定されています。

 西門は社殿の向かって左手(つまり西側)にあるので西門の名前があります。(下写真)

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 透塀は、社殿周囲を囲む塀で総延長200㎡あります。格子部より向こう側が見えるようになっています。(下写真は唐門西側の透塀)

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青銅灯籠 

 社殿前に一対に青銅灯籠が並んでいます。
 宝永7年(1710)に藤堂和泉守高敏が奉納したもので、国指定重要文化財となっています。藤堂和泉守高敏は、伊勢国津藩の第5代藩主です。寄進の由来はよくわかりませんが、一族の伊勢久居藩藩主の藤堂高堅(たかかた)が社殿建築にかかわっていたことと関係があるのかもしれません。(下写真は左手の灯籠)

 

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駒込稲荷神社

駒込稲荷神社は、本殿の西側に鎮座しています。この稲荷神社は、根津神社が遷座する前から、徳川綱重の山手屋敷に鎮座していた邸内社です。

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社殿前の手水舎の屋根に、三葉葵の紋が残っているところが、徳川将軍家に関係する神社であることを物語っていて素晴らしいと思います。(下写真が手水舍)

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胞衣(えな)塚と産湯井戸 

 根津神社の境内地は、元々、6代将軍家宣の父徳川綱重の下屋敷でした。そして6代将軍家宣も、この地でうまれました。

そのため、家宣の胞衣(えな)塚や産湯井戸があります。

胞衣塚は本殿西側の乙女稲荷神社の参道の脇にあり、文京区の区指定文化財の説明板もあります。

産湯井戸は、社殿の東側の社務所の庭にありますが、非公開ですので見られません。

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by wheatbaku | 2019-08-22 19:54 | 新江戸百景めぐり
小伝馬町牢屋敷(新江戸百景めぐり㉔)

小伝馬町牢屋敷(新江戸百景めぐり㉔)

前回と前々回と2回にわたり南北奉行所跡を案内しましたが、町奉行所と関係の深い小伝馬町牢屋敷を本日はご案内します。『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、75ページに第30景として紹介されています。

 小伝馬町牢屋敷は、現在の十思公園と十思スクウエアにありました。十思公園は、東京メトロ小伝馬町駅2番出口もしくは4番出口から徒歩1分の至近距離にあります。

 この公園で遊んだり休憩したりする人が大勢います。この穏やかな公園が、江戸時代には牢屋敷があったと知っている人が何人いるでしょうか?

 下写真は、小伝馬町駅側から撮った十思公園です。ここ全体が小伝馬町牢屋敷でした。

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 十思公園の隣には十思スクェアがあります。十思スクェアは、以前は十思小学校でした。この十思の名前は、明治になってから、この地区が第十四小区であったことから、中国の宋の時代の歴史書「資治通鑑(しじつがん)」の中にある「十思之疏(じっしのそ)」の十思の音が十四に通じるところから名づけられました。十思之疏(じっしのそ)とは、「資治通鑑(しじつがん)」の中に書かれている唐の名臣魏徴が大宗皇帝にさし上げた十ヶ条の天子のわきまえなければならない戒めです。

十思公園は、十思小学校の東隣にあることから、小学校の名をとって「十思公園」と名付けられました。

なお、大区・小区制とは、明治初年の地方行政制度であり、区名には番号を使用したと「角川新版日本史辞典」に説明されています。


小伝馬町牢屋敷

十思公園と十思スクェアがある場所が、江戸時代に小伝馬町牢屋敷があった場所です。

牢屋敷は、約2600坪ありました。十思公園のほか、隣の十思スクェア(旧十思小学校)と道路を挟んだ南側の大安楽寺や身延山東京別院や民家のある場所を含めた範囲でした。

牢屋敷は、十思スクェアと十思公園の北側にあり、牢屋奉行の屋敷などは、南側にありました。

大安楽寺

十思公園から道路を挟んだ南側に大安楽寺があります。大安楽寺は真言宗のお寺です。(下写真が本堂です)

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大安楽寺は、明治の初年、ここを通った高野山の山科俊海というお坊さんが、燐の火が燃えているのを見て、霊を慰めるためにお寺の建立を思い立ち、明治8年に大安楽寺を建立しました。

その頃、一坪100円程度した土地の値段が、ここは牢屋敷の跡だということで、3円50銭だったそうです。

建立に際して、戦前の大倉財閥創始者の大倉喜八郎と安田財閥創始者の安田善次郎が多額の資金を出したことから、二人の名前の一字をそれぞれとって大安楽寺と名づけたと言われています。 
 しかし、本当は「理趣経」に基づく寺号とのことです。

 大安楽寺の本堂の東側に延命菩薩地蔵が鎮座しています。その場所が死罪所といわれています。ここで、「下手人」「死罪」「獄門」の刑を言い渡された罪人が斬首されました。下写真が延命菩薩地蔵です。

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 土壇場という言葉はご存知だと思いますが、「最後の最後」という意味で、「土壇場でキャンセルする」というように使われています。その「土壇場」というのは、首切りの刑を行うために築いた土の壇をいいます。まさに、延命菩薩地蔵が鎮座する場所辺りが、本当の土壇場でした。

延命地蔵菩薩像は、ここでなくなった人たちを供養するために建立され、台座の下の部分に「為囚死群霊離苦得脱」と供養の言葉が書かれていますが、これは、山岡鉄舟の字です。有名な吉田松陰もここで処刑されました。

吉田松陰終焉之地の碑

吉田松陰は、安政6年(1859)10月27日に、小伝馬町牢屋敷で処刑されました。吉田松陰終焉之地の碑は、昭和14年に、萩の有志の人が建てたもので、当初は十思小学校の校庭にありましたが、戦後、GHQの命令で、こちらに移転したと言われています。(下写真)

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碑には、「身はたとひ(え) 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留置(留めおか)まし 大和魂」と書かれています。

 これは、「留魂録」という松陰の遺書といわれている本に書かれている辞世の歌です。

 そして、二十一回猛士と書かれていますが、これは、吉田を崩して再構成すると二十一回となり、杉という字も二十一になるところから、松陰が自ら付けた号で、猛というのは猛々しいことを行うという意味でつけたようです

時の鐘

十思公園には、時の鐘があります。(下写真)

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江戸時代後期に9つあった時の鐘の一つです。

時の鐘は、日本橋石町、浅草、上野、本所横川町、目白不動、市ヶ谷八幡、四谷天竜寺、赤坂成満寺、芝切り通しの9ヶ所にありました。

その中で、石町の時の鐘が最初に設置された時の鐘です。

十思公園にある時の鐘は、宝永8年(1711)鋳造であり、既に300年を過ぎています。

元々、時の鐘は、本石町にありました。

明治4年に時の鐘が廃止され、鐘は近くの屋敷(松沢家:大阪屋孫八 勘定御用達)の庭においてありましたが、昭和2年に十思小学校校庭に移され、昭和5年に十思公園に鐘楼を建てて設置しました。

石町にあった時の鐘は、約9メートルあり、高さ3尺(約1メートル)の石垣のうえに、高さ京間4間(約8メートル)の鐘楼が建っていて、そこに鐘がつるされていたと推定されています。

 

十思スクエア

十思スクェアの建物は昭和3年に建てられた十思小学校の校舎を利用しています。(下写真)

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 十思小学校は平成2年に廃校となり、その後は中央区の日本橋特別出張所仮庁舎として利用され、平成12年に改修工事を行って「十思スクエア」としてオープンしました。
 建物は関東大震災の復興期に建てられた小学校建築の代表的なものとして、東京都の歴史的建造物に選定されています。

 十思スクェアの別館入口に、小伝馬町牢屋敷の模型が展示されています。(下写真)

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小伝馬町牢屋敷の仕組み

 最後に、小伝馬町牢屋敷について少し詳しく説明しておきます。

 ご興味のある方はお読みください。

1、江戸の牢屋敷は、江戸時代初期の慶長年間(15961615)に常盤橋外から小伝馬町に移されたとされています。そして、明治8年に市谷監獄が新設されるまで、江戸時代を通じて小伝馬町に牢屋敷がありました。これが小伝馬町牢屋敷です。

2、牢屋敷というと刑務所と誤解する人が多いのですが、刑務所は懲役刑や禁錮刑の人を収監しておく施設で、江戸時代には、刑罰は死刑と追放刑が中心で、懲役刑はありませんでした。(ただし、永牢という長期間収監する刑が例外的にありました。)。

そのため、牢屋敷は、刑務所ではなくて、刑が決まるまでの一時的な収容所、今で言うと拘置所にあたります。

3、囚人を収容する牢屋は、細かく区分されていましたので、その区分ごとに説明します。下写真が小伝馬町牢屋敷の模型を拡大したものですが、中央が表門で、左手(実際に北側)に牢屋がありました。

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①牢屋は、大きく分けて、東牢、西牢に分かれていて、東牢、西牢にそれぞれ揚屋が二つずつあり、大牢と二間牢が一つづつありました。

②揚屋は、御目見以下の直参、陪臣、僧侶、医師、山伏などを入れた牢です。東西とも入口に近い方を口揚屋、遠い方を奥揚屋と呼びました。

③大牢には 町人を入れました。

④二間牢は町人を入れていれた牢ですが、江戸時代後期には無宿人を入れました。 

⑤女牢(女部屋ともいう)は女性の囚人を収容する牢で西口揚屋を使用しました。

⑥遠島部屋は、遠島の刑を受けた囚人を船出まで収容しておく部屋で東口揚屋を使用しました。

4、これまで説明した牢は、牢屋敷の北側にある牢屋にありますが、これとは別に、独立した建物として揚座敷と百姓牢がありました。        

①揚座敷は見分の高い囚人を収容する牢で、独立した建物でした。ここに収容されるのは、御目見以上、これに準ずる僧正、院家(いんげ、門跡寺の別院にいて門跡を補佐する僧)、紫衣その他の重き僧侶、神主の罪人でした。 

②百姓牢は、百姓だけを入れた牢で、独立した建物でした。大牢や二間牢は牢馴れした者が多く、そこに百姓を入れるといじめられたり、彼らに影響されて悪に走ったりする弊害があったので、両者を別々に収容するために安永4(1775)に新しく百姓牢が作られたものです。

 以上、長々と牢屋敷のしくみを書きました。最後まで読んでいただきありがとうございました。

赤印が十思公園です。
青印が十思スクエアです。この別館に牢屋敷の模型が設置されています。
 




by wheatbaku | 2019-08-20 12:08 | 新江戸百景めぐり
南町奉行所跡(新江戸百景めぐり㉓) 

南町奉行所跡(新江戸百景めぐり㉓) 

今日は、前回の「北町奉行所跡」に続いて「南町奉行所跡」について書いていきます。
 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、74ページの第
29景で紹介されています。

 江戸時代の「南町奉行所」は、JR有楽町駅の周辺にありました。「南町奉行所跡」の史跡説明板は、イトシア前の広場の地下1階に降りる階段・エスカレーターの東側にあります。有楽町駅の中央口からはちょうど正反対側になります。(下写真) 大きな看板のほか、コンクリートの壁に説明板がはめ込まれています。写真左手の石組は下水溝の石組を復元したものです。

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 町奉行は、南町奉行と北町奉行と二人いて、町奉行所は2か所にありました。

 (正確には、短期間ですが、中町奉行がいて、町奉行が三人いる時代もありました。)

 南町、北町奉行と言うと、江戸の町を南北に管轄を分けて取り仕切っているような印象がありますが、江戸を南北に分割して管轄していた訳ではありません。
 それでは、どのように分担していたからと言いますと、一月交代で、仕事を分担していました。これを月番制といいます。南町奉行が月番の場合には、南町奉行所が門を開けていました。

 そして、北町奉行所の方は、門を閉めていて、南町奉行所だけが訴訟や請願・申請そして事件を受け付けました。月番でない奉行所は休んでいたかというとそうではありません。それまでに受け付けていた訴訟や申請や事件の処理を行っていました。このように月番制で江戸の町政を担当していました。

 それでは、南町奉行所、北町奉行所の区別は何によるかということになりますが、これは奉行所の所在地によります。二つある奉行所のうちどちらが南にあって、どちらが北にあるかによります。 有楽町駅周辺にあった南町奉行所は、宝永4年(1707)に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転し、幕末までこの地にありました。

そして、江戸時代を通じて、数寄屋橋門より南に他の奉行所があったことがありませんでした。

 そのため、宝永4年以降江戸時代を通して、数寄屋橋門内にあった奉行所は、南町奉行所と呼ばれ続けました。(下写真は、東側から見た旧跡説明板です。コンクリートの壁に設置されています。)

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 その間、享保2年(1717)から元文元年(1736)にかけては、時代劇でも有名な名奉行大岡越前守忠相が南町奉行としてここで執務していました
 

 数寄屋橋門内の南町奉行所は、広さが約2620坪ありました。

 表門は東側にあり、現在の有楽町イトシア辺りにあり、西側は、有楽町駅脇のガードまで、南はマリオンとの間の道路脇まで、北はほぼ有楽町駅の中央口あたりだったと思われます。

奉行所というのは、役所の部分と町奉行の私邸の部分とからなっていました。現在、首相官邸と首相公邸が同じ敷地内で隣接しているのと同じような状態でした。

 南町奉行所は、表門が東側にありましたので、東半分が役所部分となっていました。そして、町奉行やその家族が私的に出入する裏門は西側にあり、西半分が自宅部分でした。

 表門を入ると正面は奉行所玄関となっていました。その玄関までは、まっすぐに五六尺の幅の青板の敷石、それを残して一面に那智黒の砂利石が敷き詰めてあったようです。

 表門を入った左手つまり南側に時代劇によくでてくる「お白州」がありました。

 

 南町奉行所跡は、都指定旧跡「南町奉行所跡」になっていて、有楽町駅前地区再開発事業が実施されるのに際して、発掘調査が1次平成17年4月25日~6月30日、2次11月17日~12月19日の間実施されました。
 この発掘により、大名屋敷期の遺構は131基、南町奉行所期の遺構は23基検出され、両時期に伴う多くの遺物が出土したそうです。
 遺構としては、奉行所表側地境の石組下水溝、穴蔵、井戸、上水遺構などが発見され、遺物としては、陶磁器のほか、「大岡越前守御屋敷ニ而~ 」と墨書された木札などが出土したそうです。 有楽町イトシアの地下1階広場には、この発掘調査で出土した穴蔵を復元したものが展示されています。(下写真)

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 穴蔵というのは、火災が起きた際に重要品を焼失しないように保護するため地下に設置された木製の蔵です。
 穴蔵のなかに重要品を放り込み蓋をしたうえで、土をかぶせ、そのうえに濡れたふとんや畳をかぶせて焼失するのを防ぎました。
  そのほか、遺蹟からは上水道管も出土しました。その江戸時代の水道管である木樋が穴蔵脇の木製のペンチとなっています。

 さらに、出土した石を利用してベンチが、地下1階に作られています。(下写真)

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 この木製ベンチや石製ベンチで多くの人々が休息しています。しかし、木製ベンチや石製ベンチが南町奉行所跡から出土した品であることを何人の人が知っていることでしょうか。


 赤印が、「南町奉行所跡」の説明板が設置されている場所です。有楽町駅の中央改札を出ると正面に地下への入り口がありますが、その入り口の裏側に設置されています。

 





by wheatbaku | 2019-08-16 19:53 | 新江戸百景めぐり
北町奉行所跡(新江戸百景めぐり㉒)

北町奉行所跡(新江戸百景めぐり㉒)

新江戸百景めぐりですが、今日は北町奉行所跡をご案内します。

 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、74ページの第
28景に紹介されています。
 下写真は、東京都教育委員会設置の「都旧跡 北町奉行所跡」の石碑の全体写真です。

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 江戸の町奉行は、江戸市中の行政・司法・警察など、幅広い分野を担当していて、俗に町奉行は、現在の東京都知事、警視庁の警視総監、東京地裁・交際の所長の仕事と同じ仕事をしていたといわれています。町奉行所は、江戸時代の中期に一時期3か所に設置されていた時期を除き、南北2 か所に設置され、それぞれ何度か移転しています。

 北町奉行所は文化3(1806)から幕末まで、呉服橋御門内にありました。 

現在の呉服橋交差点の南西、東京駅日本橋口周辺に当たります。

 その北町奉行所跡を示す石碑は、現在2ヶ所に設置されています。

 一つは丸の内トラストタワーN館東側、もう一つが東京駅八重洲北口の先にある大丸デパートのハズレにあります。

 丸の内トラストシティは、もとは東京駅の側線や東京鉄道管理局等のあった東京駅八重洲口に隣接したJRの鉄道用地でしたが、その土地を森トラストが購入して建設した高層ビルです。トラストシティには、北側の丸の内トラストタワーN館と南側の丸の内トラストタワー本館の2棟が建っています。

 北町奉行所は本館の部分にあったようですが、「北町奉行所跡」の石碑は、N館の東側にあります。「新江戸百景めぐり」(小学館刊)に記載されている写真は、これを写したものです。(下写真)

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 一方、東京都教育員会が設置した「北町奉行所跡」の石碑は、東京駅八重洲北口改札を出て大丸デパートを過ぎた建物の外にあります。(下写真)

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 この石碑の右半分には、北町奉行所がどこにあったかわかるように絵図が描かれています。(下写真) 

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 北町奉行所というのは、南に対する北ということで、相対的な位置関係で呼ばれました。文化3年(1806)に常盤橋門内から呉服橋門内に移転してきました。そして、それ以降、幕末まで、北町奉行所は呉服橋門内にありました。(なお、「新江戸百景めぐり」(小学館刊)では文化2年に移転したとなっていますが、おそらく間違いではないかと思います。)

 北町奉行所は、現在も天保11年の絵図が残されています。
 それによると、表門は、南町奉行所と同じように東向きにありま、表門を入ると正面に玄関があり、左つまり南側にお白洲がありました。
 「江戸建築叢話」(大熊喜邦著)によれば、奉行所と奉行の役宅部分はほぼ正方形で、間口約48間(約86メートル)、奥行約40間(約72メートル)ありました。さらに、北側には間口21間半(約39メートル)奥行22間半(約41メートル)の長屋の敷地がありましたので、全体としては南北に細長い敷地でした。そして、総面積は、 「江戸建築叢話」によれば、2400余坪だったようです。 

 北町奉行といえば、時代劇で有名な遠山金四郎がまずあげられます。

遠山金四郎つまり遠山左衛門尉景元は、天保11年(1840)から天保14年(1843)まで、3年間、北町奉行を勤めていました。

しかし、水野忠邦が進めていた天保の改革に抵抗したため、天保14年に大目付に異動させられました。

 その後、水野忠邦が失脚した後、弘化2年(1845)に南町奉行に就任しています。そして7年間、南町奉行を勤めました。
 遠山景元まで、南北奉行を経験した人はいませんでしたし、江戸時代を通じても南北奉行を経験した人は稀でした。

 北町奉行所があった場所には、元禄時代には、忠臣蔵で有名な吉良上野介の屋敷がありました。

 赤穂浪士が討ち入りしたのは本所の吉良上野介の屋敷ですが、本所には、松の廊下の刃傷事件が起きた後の元禄14年(1701)に移転したもので、それ以前、吉良上野介の屋敷は、呉服橋門内にあり、文化年間以降に北町奉行所となった場所が吉良上野介のお屋敷でした。

 北町奉行所所の屋敷の東側の道路に玉川上水の石樋もしくは木樋が埋められていました。そして、そこから、北町奉行所には、玉川上水が引きこまれていました。下写真の縦の点線が、玉川上水が埋設されていた跡です。

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 丸の内トラストシティの敷地内には、その跡がわかるように工夫してあります。(下写真) 足元をよくみていないと見落としてしまいそうです。


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 また、北町奉行所の東側は道路をはさんで、外堀に面していました。

 そうした位置関係であったため、丸の内トラストシティの敷地内には、外堀の石垣が復元されています。(下写真)

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 下写真が、復元された石垣の説明版です。
 上の写真は、説明板の石垣の絵とほぼ適合するような位置で撮影したものです。
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赤印が東京都教育委員会設置の北町奉行所の石碑です。

青印が丸の内トラストシティの敷地内の北町奉行所の説明板の設置場所です。







by wheatbaku | 2019-08-14 14:47 | 新江戸百景めぐり
貨幣博物館(新江戸百景めぐり㉑)

貨幣博物館(新江戸百景めぐり㉑)

 今日は、前回ご案内した日本銀行の目の前にある貨幣博物館のご紹介をします。「新江戸百景めぐり」(小学館刊)では、73ページで紹介されています。

 その前に先週土曜日の8月10日午後12時30分から、江戸楽アカデミーで「1級合格虎の巻講座」が開講されましたので、まずそれをレポートしておきます。

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 当日は、35度を超える暑さのなか、大勢の人に受講いただきました。

 江戸検も、来年で終了するため、あと2回しかチャンスがないため、合格のノウハウをしっかり書き込んだ「合格虎の巻」を利用して合格のための心構えや勉強方法を説明しました。

 昨年1級に合格したお二人の合格体験談の発表もあって、3時間の長丁場でしたが、参加者の皆さんは、大変熱心に聞いていただきました。

 その後、希望者による懇親会を開催しましたが、この席では、「これまでまったくわからなかった合格への道がわかった」「目からうろこが落ちた」といった絶賛の声をいただき大変うれしく思いました。また、その席では「今年は絶対合格します」と宣言する人もいて、参加者の熱気があふれる懇親会になりました。

 当日の講義の写真は撮り忘れましたが、懇親会の写真を撮りましたので、そちらをアップしておきます。

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 講座に参加していただいた皆様ありがとうございました。
 そして懇親会までご参加いただいた皆様ありがとうございました。

 さて、貨幣博物館ですが、前回ご案内した日本銀行本店の道路を挟んだ南側にある日本銀行分館の中にあります。下写真が入口の写真です。

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 貨幣博物館は、正式名称「日本銀行金融研究所貨幣博物館」の如く、日本銀行の付属施設です。

ここでは、貨幣および貨幣に関係する資料が展示されています。

 貨幣博物館の所蔵資料の中核となっているのは、古貨幣収集家・研究家であった田中啓文氏が収集していて、昭和19年に日本銀行に寄贈された銭幣館コレクションです。

 貨幣博物館は、日本銀行創立100周年(1982年)を記念して昭和60年(1985)に開館した博物館です。
 貨幣博物館を訪れるのは久しぶりでしたが、今から4年前にリニューアルされていて、以前に比べて大変見やすい展示となっています。下写真が展示室の入口です。

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展示されている貨幣つまり江戸時代の小判や大判はじめ現在通用している1万円札などはすべて本物だそうです。そのため、展示ケースはロックされています。またケースには、警報機も設置されているそうです。

こうしたことから、博物館内は撮影禁止となっています。

そうした中で、下記1億円の重さを実体験できるものは展示室外に展示されていました。1億円の重さは約10キロあるそうです。実際に持ってみましたが、結構重かったです。

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また、日本銀行の本店の外観を見学する見学会が毎週火曜日~金曜日の12:45から(30分程度)開催されています。料金はかかりません。

日本銀行の外観しか見学できませんが、外観をみながら丁寧な案内があり、大変参考になります。下写真は、本店見学の様子です。

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展示されている内容は、大判・小判の推移から藩札、さらに両替商の仕事など、幅広いものとなっています。
 その中には、小判が黄金色に輝く理由なども説明されています。実は、小判は、純金でできているわけだはなく、金と銀の合金でできていました。それにもかかわらず、小判が黄金色に輝いて見えるのは、製造の最後の工程で「色付け」または「色揚げ」という作業が行われていたからです。

これは、数種類の薬品を小判の表面に塗って炭火で焼き、水の入った桶の中で磨く作業です。この作業を行うことによって表面から銀だけが溶けて取り除かれ、金だけが残ります。そのため、黄金色に輝いて見えるそうです。

貨幣博物館の入り口の看板には、「色付け」の工程が描かれていました。(下写真)

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赤印が貨幣博物館です。

青印が日本銀行本店です。






by wheatbaku | 2019-08-12 11:52 | 新江戸百景めぐり
金座(新江戸百景めぐり⑳)

金座(新江戸百景めぐり⑳)


 今日は、金座についてご紹介します。

 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、第27景(73ページ)で紹介されています。

 江戸時代に金座があった場所に、現在は、日本銀行が建っています。下写真は、常盤橋からみた日本銀行の遠景です。

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 現在の日本銀行は、明治29年4月に建設された建物で、東京駅を設計した辰野金吾が設計しました。

日本銀行の建物は、下写真のように外観から見ると石造りのように見えますが、設計した石積みレンガ造りと呼ばれる建て方の建物です。

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当初は総石造りとする予定でしたが、明治24年に濃尾大地震が起きたため、総石造りは耐震上無理があるということで、積み上げたレンガの外側に、外装材として石を積み上げるという方法に変更したため、石積レンガ造りとなりました。

この建物は昭和49年に、国の重要文化財に指定されました。

この地に、江戸時代に金座がありました。金座は、勘定奉行の支配下にあり、御金改役を長官として、幕府から大判を除く金貨製造に関する独占的な特権を与えられていました。

ところで、金座というのは、通称です。正しくは、①御金改役(おきんあらためやく)役所②金局(きんきょく)、③吹所(きんふきしょ)の3つの役所からなりたっていました。

御金改役役所は、金座の長官である後藤庄三郎光次の役宅でした。

御金改役は、後藤庄三郎家の世襲でした。しかし、文化7年(1810)に後藤庄三郎光包が流罪となり、当時銀座年寄役を勤めた後藤三右衛門が新たに御金改役となりました。この後藤三右衛門家も弘化2年(1845)に後藤光亨が死罪となり、別家の後藤吉五郎が御金改役となりました。

金局は、金貨鋳造作業のすべてを所管する金座人の役所でした。

吹所は、小判を鋳造する工場です。

金座は慶応2年(1866)焼失し、明治2年には造幣局の設置に伴って廃止されました。

赤印が日本銀行です。青印が日本橋です。






by wheatbaku | 2019-08-09 20:11 | 新江戸百景めぐり
  

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